島津久光の文久の改革で幕政を握るも徳川慶喜の暴走を許し公武合体に挫折、徳川家擁護で「薩長土肥」入りを逃したが横井小楠を招き福井藩で民主主義を育んだ「四賢候」
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照維新
松平 春嶽
1828年 〜 1890年
50点※
家系・子孫
- 結城秀康は、徳川家康が正室築山殿の奥女中に産ませた庶子で、築山殿謀反事件で嫡子の松平信康が切腹に処された後も世子にはなれず、小牧・長久手の戦いの講和で豊臣秀吉の養子に出され、淀殿が鶴松を産むと豊臣家を追われ、小田原征伐後に下総の結城晴朝の婿養子に入り家督を継いだ。関ヶ原合戦後、結城秀康は越前北庄67万石を与えられ福井藩を立藩し松平への復姓を許された。本多正信・正純父子は徳川家康の跡目に年長子の松平秀康を推したが、家康は三男の徳川秀忠を将軍世子に指名し、九男義直・十男頼宣・十一男頼房を徳川御三家に据えても秀康には徳川姓を許さなかった。生母の於万が浮気性のため家康は出生を疑っていたともいわれる。2代福井藩主を継いだ嫡子の松平忠直は、将軍徳川秀忠の風下に立つのが不満で幕府に反抗、大坂陣の論功行賞に憤慨し酒色に溺れて狂人となり慰みに家臣や婦女子を大量虐殺した。幕府もさすがに看過できず、松平忠直は竹中重義の豊後府内藩へ預けられ生涯幽閉、所領分割により32万石に減封された福井藩は忠直弟の松平忠昌が継いだ。狂気を引いたか、忠昌嫡子の松平光通は大名の身で自殺している。さて時代は下り、14代藩主松平斉承で血統が途絶え松平斉善(11代将軍徳川家斉の二十二男)が15代藩主を承継、これも無嗣没し松平春嶽が末期養子に入り16代藩主となった。徳川斉匡は一橋家当主徳川治済の五男(11代将軍家斉の異母弟)で田安家に入嗣、八男の松平春嶽は従兄の12代将軍徳川家慶の計いで福井藩主に抜擢された。松平春嶽は、熊本藩主細川斉護の娘勇姫を正室とし慶民・義親が成人したが、安政の大獄で藩主職を剥奪され松平茂昭(支藩の糸魚川藩主松平直春の四男)への禅譲を強いられた。が、福井藩政は維新まで松平春嶽と改革派が掌握した。松平茂昭には第一次長州征討の副総督くらいしか業績は無いが、福井藩主として侯爵に叙された。松平春嶽の実子である松平慶民は、子爵・宮廷政治家となり、第二次大戦後は英語力を活かしてGHQとの折衝にあたり「昭和天皇独白録」の作成に携わった。徳川義親は、尾張徳川家の徳川義禮に入嗣し侯爵を襲爵した。
- 松平氏の祖親氏は、もと徳阿弥と名乗る時宗の遊行僧(賤民とも)で、西三河に漂着し松平郷の庄屋家に入婿し、兵力を蓄えて近隣を侵略し相当な土豪となった。この前に徳阿弥が坂井郷の庄屋の娘に産ませた子が酒井氏の祖という。5代目の松平長親は、三河に侵攻した今川氏親軍を撃退し総大将の北条早雲に黒星をつけた傑物で、安祥城に拠って頭角を現した。孫の松平清康も優秀で数年で西三河の大部分を切り従え尾張へ侵出したが、突如家臣に暗殺された。10歳の嫡子広忠は、織田信秀に圧迫され伊勢へ逃亡したが、今川義元に臣従し領地を回復して岡崎城に入った。広忠は三河苅屋城主水野忠政の娘お大を娶り、嫡子竹千代(徳川家康)をもうけたが、水野氏が織田方に属したためお大は離縁され、後に尾張知多郡阿古屋の久松定俊に再嫁した(伊予松山藩祖)。徳川家康は、今川一族の関口親永の娘(10歳上・築山殿)を妻に迎えたが、放置が祟って武田氏に内通し謀反、織田信長の命で嫡子信康と共に殺害した。松平氏は賀茂明神の氏子で賀茂姓を称したが、徳阿弥の出生地が上野国新田郡世良田村徳川で新田源氏の末裔を僭称したことに因み、三河平定を機に徳川(源姓)に改めようだ。この後は朝日姫(豊臣秀吉の妹)以外に正室を置かなかったが、秀吉と違って多くの子宝に恵まれ、優秀な男児は無いものの、婚姻政策は天下獲りの武器となった。実娘を池田輝政(岡山藩・鳥取藩)・浅野長晟(広島藩)、養女を黒田長政(福岡藩)・蜂須賀至鎮(徳島藩)・井伊直政(彦根藩)・鍋島勝茂(佐賀藩)・加藤清正・福島正則らに入輿させ皆大封を与えている。次男松平秀康は、秀吉・結城晴朝の養子を経て越前藩をもらったが、浮気性だった生母のせいか家康に嫌われ、後嗣忠直は逆恨みで狂人となり慰みに家中の男女を虐殺した。2代将軍となった三男徳川秀忠は、関ヶ原合戦で本隊を率いながら真田昌幸の挑発に乗って足止めを食う大失態を犯し、嫉妬深い妻江(信長の姪で淀殿の妹)を恐れ生涯妻妾を置けなかった。家康の男児は皆大藩の主に据えられたが、最年少の義直・頼宣・頼房が尾張・紀州・水戸の徳川御三家の祖となった。
松平春嶽と同じ時代の人物
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維新
大久保 利通
1830年 〜 1878年
130点※
島津久光を篭絡して薩摩藩を動かし岩倉具視と結んで明治維新を達成、盟友の西郷隆盛も切捨てる非情さで内治優先・殖産興業・富国強兵の路線を敷き近代国家の礎を築いた日本史上最高の政治家
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維新
高杉 晋作
1839年 〜 1867年
110点※
吉田松陰の枠を超えた「防長割拠論」を実践し庶民軍の奇兵隊を創設して洋式軍備を拡充、功山寺挙兵で佐幕政権を覆し薩長同盟で背後を固め第二次長州征討の勝利で幕威を失墜させた長州維新の英雄
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維新
西郷 隆盛
1828年 〜 1877年
100点※
島津斉彬の懐刀として政治力・人脈を培い大人格者の威望をもって討幕を成遂げた薩摩藩の首魁、没落する薩摩士族に肩入れし盟友の大久保利通に西南戦争で討たれたが「大西郷」人気は今も健在
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