三好長慶の下で勢力を伸ばすが長慶没後三好一門衆と対立して孤立、主家簒奪・将軍弑逆・大仏焼討ちの「久秀三悪事」で悪名を高め、織田信長に帰順して大和支配を回復するも信長包囲網に加担、二度目の謀反に敗れて名器「平蜘蛛」諸共自爆死した下剋上の代名詞
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松永 久秀
1510年 〜 1577年
70点※
家系・子孫
- 松永久秀の40歳までの前半生は不詳である。生地は阿波・近江・京都西ノ岡の諸説あり、生家は商人とも斎院の賤隷(下僕)ともいわれる。三好長慶の寵臣となって娘を妻にもらい(異説あり)、松永久通をもうけたが、織田信長への謀反に加わり共に誅殺された。久秀には他に妾腹の二児があり、信長の人質に出されたが、久秀謀反で京都に引き回され六条河原で斬られたという。久秀の弟で丹波侵攻を託された松永長頼は、丹波守護代内藤国貞の娘を娶って内藤宗勝と改名、三好家の丹波侵出を支えたが、長慶没後のお家騒動に乗じた波多野晴通・秀治父子と赤井直正ら国人勢に攻め殺された。家督を継いだ嫡子の内藤如安は、波多野・赤井に領地を侵食され、最後は明智光秀の丹波攻略に敗れ所領を没収された。流浪の身に転落した如安は、備後鞆で零落する足利義昭にも身を寄せたが、小西行長に仕えて重臣に取り立てられ有名なキリシタン武将となった。関ヶ原敗戦で小西家が滅亡した後、キリシタン大名の手蔓を頼って有馬晴信や高山右近に寄寓したが、徳川幕府のキリシタン追放令により右近や妹のジュリアと共に呂宋へ追放、マニラに日本人キリシタン町サンミゲルを建設し同地で死去した。江戸中期になると、幕臣松永一興や俳人松永貞徳など久秀の子孫を名乗る者が現れた。さらに後年、太平洋戦争初期のマレー沖海戦で活躍した航空隊指揮官の松永貞市も久秀後胤を自称し、松永久通の子で博多商人となった松永彦兵衛の子孫が士籍を得て佐賀藩士に列した系統であるというが、いずれも確証はない。
松永久秀と同じ時代の人物
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戦国
織田 信長
1534年 〜 1582年
140点※
中世的慣習を徹底破壊して合理化革命を起し新兵器鉄砲を駆使して並居る強豪を打倒した戦国争覇の主人公ながら、天下統一を目前に明智光秀謀反で落命し家臣の豊臣秀吉・徳川家康に手柄を奪われた悲劇の英雄
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戦国
毛利 元就
1497年 〜 1571年
100点※
安芸の小領主の次男坊から権謀術数で勢力を拡大、息子の吉川元春・小早川隆景を両翼と頼み、厳島の戦いで陶晴賢を討って大内家の身代を奪取、月山富田城の尼子氏も下して安芸・備後・周防・長門・石見・出雲・隠岐・伯耆・因幡・備中を制覇した戦国随一の智将
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戦国
徳川 家康
1542年 〜 1616年
100点※
旧主今川義元を討った織田信長と同盟して覇業の一翼を担い、豊臣秀吉没後秀頼を滅ぼして天下を奪取、信長の実力主義・中央独裁を捨て世襲身分制で群雄割拠を凍結し265年も時間を止めた徳川幕府の創設者
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