姉の吉本せいから「吉本興業」を受継ぎテレビ時代に乗りプロレス・漫才ブームを演出、悪弊を留めつつ「お笑い王国」を築いた芸能界の覇者
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照戦後
林 正之助
1899年 〜 1991年
60点※
家系・子孫
- 兵庫県明石市で米穀商を営む林豊次郎は12人の子沢山で、三女の吉本せい・長男の林正之助・四男の林弘高が「吉本興業」を創建した。吉本せいは大坂上町の荒物問屋「箸吉」に嫁いだが、亭主吉本吉兵衛の道楽のせいで結婚翌年に倒産した。気丈な吉本せいは「好きな寄席なら」と亭主に「第二文芸館」の買収を促し1913年「吉本興行部」設立(吉本興業創業)、1924年吉兵衛の死に伴い女主人となり「女太閤」と称された。ただ、吉本家が門付乞食集団「物吉」の元締め「吉ヶ本」の系譜であるなら、芸能界進出は奇策ではない。さて、弟の林正之助は神戸の布地店へ奉公に出たが1917年18歳で吉本興業へ転じ「総監督」として創業期から実務を担った。林弘高は中央大学法学部卒のインテリで、1928年21歳で吉本興業に入り「東京吉本」を興した。戦後、映画製作・力道山プロレス・江利チエミで業績を伸ばす林弘高は、映画館・キャバレー経営に専念する林正之助の「大坂吉本」と対立し「吉本株式会社」で独立したが、数年で破綻し吉本興業に復帰した。吉本吉兵衛・せい夫妻は二男六女に恵まれたが5人が夭逝、吉本せいは唯一残った男児の吉本穎右を溺愛し後継者にと願ったが、穎右は肺結核のため24歳で早世し、落胆したせいは林正之助に社長を譲り3年後に逝去した。吉本穎右は「ブギの女王」笠置シヅ子(本名亀井静子)との結婚を望んだが、吉本せいは許さず穎右没後にシヅ子が産んだエイ子も吉本家に入れなかった。さて、一時社長を譲った林弘高も1971年に没し(のち長男の林英之が専務就任)、お笑いブームで吉本興業が大発展を遂げるなか林正之助は独裁権を確立、橋本鐵彦・八田竹男を社長に据えたがお家騒動で社長に復帰し社長のまま92歳で大往生を遂げた。林正之助は男児に恵まれず、スポーツマンの社員(元芦屋市長猿丸吉左衛門の四男)猿丸裕章を一人娘マサの婿養子に迎えた。林裕章は1999年から2005年の死まで吉本興業に君臨したが、女遊びが盛んで晩年マサに虐待された。林マサは溺愛する一子林正樹の取締役擁立を図り大暴走、闇勢力を使って経営陣を脅迫し一大スキャンダルを引起した。
林正之助と同じ時代の人物
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戦後
孫 正義
1957年 〜 年
100点※
在日商魂と米国式経営を融合し日本一の大富豪へ上り詰めた「ソフトバンク」創業者、M&Aと再投資を繰返す「時価総額経営」の天才はヤフー・アリババで巨利を博し日本テレコム・ボーダフォン・米国スプリントを次々買収し携帯キャリア世界3位に躍進
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戦後
重光 葵
1887年 〜 1957年
100点※
戦前は日中提携・欧州戦争不関与を訴え続け外相として降伏文書に調印、アメリカ=吉田茂政権に反抗しA級戦犯にされたが鳩山一郎内閣で外相に復帰し自主外交路線を敷いた「ラストサムライ」
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戦後
岸 信介
1896年 〜 1987年
100点※
戦前は満州国の統制経済を牽引し東條英機内閣の商工大臣も務めた「革新官僚」、米国要人に食込みCIAから資金援助を得つつ日米安保条約の不平等是正に挑んだ智謀抜群の「昭和の妖怪」
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