永田鉄山・石原莞爾の傀儡として陸相・首相に担がれ、朝鮮軍の越境出動で満州事変を成功に導いた陸軍統制派のロボット
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照林 銑十郎
1876年 〜 1943年
30点※
林銑十郎の年表
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1876年
加賀藩士林孜々郎の嫡子林銑十郎が金沢市にて出生
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1894年
朝鮮で甲午農民戦争、日清両軍が朝鮮へ派兵し一触即発
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1894年
日清戦争勃発
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1894年
林銑十郎が四高(金沢大学)補充科を中退し陸軍士官学校に転入
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1895年
下関条約で日清戦争終結、朝鮮(李朝)が初めて中国から独立しソウルに独立門建立
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1895年
三国干渉~露仏独が日本に遼東半島返還を要求
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1895年
台湾総督府設置
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1896年
林銑十郎が陸軍士官学校(8期)卒業
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1897年
林銑十郎が陸軍歩兵少尉に任官し歩兵第7連隊附へ配属
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1898年
列強による清の植民地争奪競争が激化
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1900年
北清事変
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1901年
北京議定書調印
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1901年
ロシアが日本に韓国中立化構想を提案、日露協商派と対露強硬派が対立
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1902年
第一次日英同盟協約締結
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1903年
林銑十郎が陸軍大学校(17期)卒業
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1903年
ロシアが満州撤兵不履行、日露協商(満韓交換論)交渉決裂
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1904年
仁川沖海戦
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1904年
日露戦争開戦
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1904年
伊藤博文が金子堅太郎を対米工作に派遣
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1904年
第一次日韓協約締結
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1904年
遼陽会戦
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1905年
旅順攻略、林銑十郎は歩兵第6旅団副官として従軍
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1905年
血の日曜日事件~ロシア革命が始まる
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1905年
奉天会戦
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1905年
日本海海戦
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1905年
ポーツマス条約調印
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1905年
日比谷焼打事件
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1906年
林銑十郎が参謀本部勤務を経て朝鮮中箚軍司令部附へ転任
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1906年
第二次日韓協約締結、日本が朝鮮を保護国化し文治派の伊藤博文が初代韓国統監に就任
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1906年
南満州に関東都督府設置
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1906年
南満州鉄道会社(満鉄)設立・後藤新平が初代総裁就任、アメリカの干渉が始まる
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1907年
韓国軍隊解散、ハーグ密使事件、第三次日韓協約締結
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1907年
第一次日露協約締結
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1909年
伊藤博文がハルビン駅頭で朝鮮人に射殺される(享年68)
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1910年
伊藤博文暗殺を機に軍部・対外硬派が韓国併合を断行、韓国統監府を朝鮮総督府に改組し軍政を敷くが民生向上により義兵運動は沈静化
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1912年
二個師団増設問題、陸軍が軍部大臣現役武官制を楯に西園寺公望内閣を倒す
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1913年
林銑十郎がドイツ留学
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1913年
桂太郎が死去(享年65)、加藤高明が同志会総理を継ぐ
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1914年
第一次世界大戦勃発、世界的物資不足のなか日本は特需景気を満喫
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1914年
大隈重信政府が日英同盟を名分にドイツに宣戦布告し南洋諸島・山東省青島を占領
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1915年
大隈重信首相・加藤高明外相が袁世凱の中華民国に「対華21カ条要求」を宣告
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1916年
林銑十郎がイギリス駐在を経て久留米俘虜収容所長就任
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1917年
レーニンらボルシェヴィキがロマノフ朝ロシアを滅ぼし世界初の社会主義政権を樹立(ロシア革命)
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1918年
シベリア出兵
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1918年
林銑十郎が歩兵第57連隊長任官
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1918年
第一次世界大戦終結
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1919年
パリ講和会議・ベルサイユ条約で第一次世界大戦の講和成立(日本全権は西園寺公望・牧野伸顕)
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1919年
寺内正毅死去
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1920年
国際連盟が発足し日本は英仏伊と共に常任理事国に列す
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1921年
宮中某重大事件、山縣有朋の権威失墜
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1921年
バーデン・バーデン密約~永田鉄山ら陸軍中堅幕僚の策動が始まる
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1921年
林銑十郎が陸軍士官学校予科長就任
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1921年
アメリカの工作により日英同盟が廃棄となる
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1921年
加藤友三郎海相・幣原喜重郎駐米大使がワシントン海軍軍縮条約調印を断行
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1922年
陸軍長州閥を築いた山縣有朋が政敵の伊藤博文・大隈重信・板垣退助や子飼の桂太郎・寺内正毅の誰よりも長寿を保ち84歳で死去
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1922年
加藤友三郎首相が日本軍のシベリア撤兵を断行
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1923年
関東大震災
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1923年
林銑十郎が国連陸軍代表を務める
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1924年
林銑十郎が歩兵第2旅団長就任
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1925年
日ソ基本条約調印、国交樹立
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1925年
陸軍の永田鉄山の主導により軍事教練が始まる
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1925年
林銑十郎が東京湾要塞司令官就任
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1926年
第一次若槻禮次郞内閣(憲政会)発足、宇垣一成が陸軍大臣就任
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1926年
孫文の死に伴い蒋介石が広東の国民政府を掌握し北伐開始
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1926年
大正天皇が崩御し昭和天皇が即位
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1927年
林銑十郎が皇統派の真崎甚三郎の推薦で陸軍大学校長就任
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1927年
田中義一内閣(長州・陸軍・政友会)発足、白川義則が陸軍大臣就任
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1927年
永田鉄山らが陸軍内に「二葉会」を結成
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1927年
鈴木貞一・石原莞爾らが陸軍内に「木曜会」を結成
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1928年
陸軍中央で「満蒙領有」方針が現れる
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1928年
蒋介石の国民革命軍が張作霖(日本の傀儡)の北京政府を打倒し北伐完了
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1928年
張作霖爆殺事件(満州某重大事件)、陸軍中堅幕僚の暴走が始まる
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1928年
張学良が奉天軍閥を承継、関東軍と対立し「満州問題」が深刻化
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1928年
石原莞爾が関東軍作戦参謀に就任
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1929年
永田鉄山の二葉会に木曜会が合流し「一夕会」が発足
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1929年
濱口雄幸内閣(民政党)発足、宇垣一成が陸軍大臣就任(阿部信行が一時臨時代理)
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1929年
軍部や松岡洋右満鉄副総裁の扇動で「満蒙生命線論」が興隆
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1929年
世界恐慌始まる、軍需主導で日本経済は1934年に回復
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1929年
農産物価格が暴落し農家が大打撃を受ける
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1929年
林銑十郎が近衛師団長就任
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1930年
幣原喜重郎外相と海軍条約派がロンドン海軍軍縮条約調印を断行
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1930年
鳩山一郎・犬養毅ら政友会が統帥権干犯問題を引起し東郷平八郎・伏見宮博恭王を担ぐ艦隊派(軍拡反米英派)が海軍主流となる
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1930年
濱口雄幸首相銃撃事件
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1930年
林銑十郎が朝鮮軍司令官就任
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1931年
第二次若槻禮次郞内閣(民政党)発足、南次郎:が陸軍大臣就任
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1931年
永田鉄山軍事課長ら「五課長会」が「満蒙問題解決方策の大綱」を決定し関東軍へ「1年間の隠忍自重方針」を通達
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1931年
中村震太郎大尉殺害事件、万宝山事件、陸軍首脳が武力解決を決意
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1931年
関東軍参謀の石原莞爾・板垣征四郎らが柳条湖事件を起し満州事変勃発
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1931年
朝鮮駐留軍の林銑十郎司令官が独断で越境増援、若槻禮次郞内閣が追認
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1931年
軍事費の急増が始まる
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1931年
新聞各紙の満州事変礼賛報道で好戦ムードが蔓延
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1931年
石原莞爾ら満州事変首謀者が「満蒙問題解決案」を策定
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1931年
十月事件
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1931年
若槻禮次郞内閣が満州国建国方針を決定
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1931年
犬養毅内閣(政友会)発足、一夕会系の荒木貞夫が陸相就任
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1932年
関東軍が満州全域を制圧
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1932年
第一次上海事変
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1932年
血盟団事件
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1932年
満州国建国
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1932年
国際連盟が満州国にリットン調査団を派遣
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1932年
上海天長節爆弾事件
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1932年
五・一五事件~海軍将校が武装蜂起し犬養毅首相を殺害(享年77)政党内閣が終焉
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1932年
斎藤実内閣(海軍)発足、荒木貞夫が陸相・林銑十郎が教育総監・真崎甚三郎が参謀次長に就任し陸軍三長官を一夕会系が独占
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1932年
林銑十郎が教育総監兼軍事参議官就任
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1932年
斎藤実内閣が満州国を承認
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1932年
第一次武装移民団が満州入植し満蒙開拓移民が始まる
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1932年
満州事変後の軍拡で重工業生産が急拡大し景気がV字回復
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1933年
松岡洋右首席全権が国際連盟総会で脱退劇を演じ斎藤実政府は満州撤退勧告を拒否
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1933年
永田鉄山・統制派と小畑敏四郎・皇道派の対立が始まる
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1933年
塘沽停戦協定締結
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1934年
林銑十郎が陸相に就任し永田鉄山ら統制派が陸軍中央を掌握
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1934年
岡田啓介内閣(海軍)発足、林銑十郎が陸軍大臣就任(川島義之に途中交代)
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1934年
統制派が『陸軍パンフレット』刊行
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1934年
日本経済が世界恐慌前の水準に回復、軍需主導で更なる高度成長が続く
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1935年
天皇機関説問題、国体明徴運動
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1935年
林銑十郎陸相・永田鉄山軍務局長が満州出張し関東軍を抑制、「梅津・何応欽協定」成立
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1935年
陸軍統制派の首領永田鉄山が殺害される(相沢事件)
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1936年
二・二六事件、参謀本部作戦課長の石原莞爾が戒厳司令部参謀を兼務し反乱将校の断罪と皇統派の粛清を主導
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1936年
広田弘毅内閣(外務官僚)発足~軍国主義化が一気に加速、寺内寿一が陸軍大臣就任
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1936年
軍部大臣現役武官制が復活
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1936年
日独防共協定調印
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1936年
広田弘毅内閣が「北守南進政策」を決定
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1936年
ワシントン・ロンドン海軍軍縮条約廃棄
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1937年
林銑十郎内閣(陸軍)発足
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1937年
第一次近衛文麿内閣(公家・外相広田弘毅)発足~亡国の貴公子登場、杉山元が陸相就任(板垣征四郎に途中交代)
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1937年
盧溝橋事件で日中戦争が始まる
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1937年
日中戦争不拡大を説く石原莞爾が失脚し華北分離を主張する武藤章・田中新一ら統制派が陸軍中央を掌握
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1937年
近衛文麿内閣の増派決定で日中戦争拡大
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1937年
日本軍が北京・天津・上海を攻略(第二次上海事変)
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1937年
石原莞爾の停戦案を近衛文麿首相と陸軍統制派が拒否
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1937年
第二次国共合作成立
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1937年
大本営設置
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1937年
日本軍が国民政府の首都南京を占領
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1938年
日本軍が武漢三鎮を占領するが蒋介石の国民政府は重慶へ退避
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1938年
近衛文麿首相がトラウトマンの日中戦争和解案を拒絶
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1938年
近衛文麿首相が「国民政府を対手とせず」と発表(第一次近衛声明)
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1938年
国家総動員法公布~軍国主義化の決定打
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1938年
近衛文麿首相が「東亜新秩序声明」~欧米を激しく挑発
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1939年
平沼騏一郎内閣(右翼・司法官僚)発足、板垣征四郎が陸軍大臣就任
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1939年
ナチス・ドイツから日独伊三国同盟の提案を受ける
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1939年
国民精神総動員委員会が発足
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1939年
米穀配給統制法公布、生活物資の配給制が始まる
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1939年
ノモンハン事件勃発
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1939年
天津事件、アメリカが日米通商航海条約破棄を通告
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1939年
独ソ不可侵条約調印
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1939年
阿部信行内閣(陸軍)発足、畑俊六が陸軍大臣就任
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1939年
ドイツ軍がポーランド侵攻、英仏が独に宣戦布告し第二次世界大戦勃発
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1940年
米内光政内閣(海軍)発足、畑俊六が陸軍大臣就任
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1940年
日本が汪兆銘を擁立して南京に中華民国政府を樹立
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1940年
日本軍による重慶爆撃
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1940年
第二次近衛文麿内閣(公家)発足(松岡洋右外相・東條英機陸相)
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1940年
アメリカが対日屑鉄輸出を全面禁止、ABCD包囲網による経済封鎖が本格化
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1940年
「バトル・オブ・ブリテン」でイギリスがナチス・ドイツの本土上陸作戦を阻止
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1940年
近衛文麿内閣が日独伊三国同盟を決定し英米が正面敵となる
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1940年
林銑十郎が内閣参議・重臣会議に列す
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1940年
日本軍が北部仏領インドシナへ進駐し南進政策始動
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1940年
近衛文麿首相が大政翼賛会を結成し総裁就任
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1940年
海軍の出師準備発令
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1940年
最後の元老西園寺公望死去
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1940年
岡敬純・石川信吾ら対米強硬派が海軍を完全掌握し海軍国防政策委員会を設置
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1941年
松岡洋右外相がスターリンを訪問し電撃的に日ソ中立条約調印
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1941年
野村吉三郎駐米大使の日米和解交渉が松岡洋右外相の妨害により停止
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1941年
独ソ戦開戦
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1941年
第三次近衛文麿内閣(公家)発足、松岡洋右外相を放逐
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1941年
関東軍特種演習~対ソ連開戦に備えた関東軍増強
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1941年
南部仏領インドシナ進駐開始
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1941年
アメリカが対日石油輸出全面禁止
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1941年
御前会議で「帝国国策遂行要領」を定め対米開戦決意
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1941年
東條英機内閣(陸軍)発足、東條首相が陸相兼務
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1941年
アメリカの最後通牒(ハル・ノート)で日米交渉が決裂し御前会議で対米開戦決定
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1941年
ナチス・ドイツ軍がモスクワ攻略に失敗し後退が始まる
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1941年
日本海軍の真珠湾攻撃・陸軍のマレー侵攻で太平洋戦争勃発
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1942年
林銑十郎が大日本興亜同盟総裁就任
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1942年
日本軍が香港・マニラ・シンガポールを攻略
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1942年
日本軍がインドネシア全域を占領し石油供給源を獲得(シーレーン断絶で宝の持ち腐れとなる)
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1942年
米軍が日本本土爆撃を試行
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1942年
ミッドウェー海戦で日本海軍大敗
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1943年
スターリングラード攻防戦でソ連軍がドイツ軍を撃退
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1943年
日本軍がソロモン沖海戦で敗北しガダルカナル島撤退
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1943年
林銑十郎が死去(享年66)
年
林銑十郎と同じ時代の人物
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戦前
伊藤 博文
1841年 〜 1909年
100点※
高杉晋作の功山寺挙兵を支えた長州維新の功労者、大久保利通没後の明治政界を主導し内閣制度発足・大日本帝国憲法制定・帝国議会開設・不平等条約改正・日清戦争勝利を成遂げ国際協調と民権運動との融和を進めた大政治家
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戦前
板垣 退助
1837年 〜 1919年
100点※
中岡慎太郎の遺志「薩土密約」を受継ぎ戊辰戦争への独断参戦で土佐藩を「薩長土肥」へ食込ませ、自由党を創始して薩長藩閥に対抗し自由民権運動のカリスマとなった清貧の国士
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戦前
豊田 喜一郎
1894年 〜 1952年
100点※
豊田佐吉の長男で共に画期的な動力織機を発明するが、繊維産業の凋落を見越し紡績から自動車への事業転換を敢行したトヨタグループ創業者
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