改革派の村田清風・周布政之助に長州藩政を託し木戸孝允・高杉晋作・久坂玄瑞ら吉田松陰門下生を後援して長州藩を尊攘・討幕運動へ投入、明治維新後は版籍奉還に率先応じた偉大なる「そうせい候」
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照毛利 敬親
1819年 〜 1871年
90点※
毛利敬親の寸評
毛利敬親の史実
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1819年
毛利斉元(のち長州藩12代藩主)の嫡子に毛利敬親が出生
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1824年
10代長州藩主毛利斉熙が隠居、嫡子(庶子で次男)の毛利斉広が幼少のため従弟の毛利斉元が11代藩主を承継
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1825年
異国船打払令
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1836年
毛利斉熙と11代長州藩主毛利斉元が相次いで死去、毛利斉広(斉熙の庶子)が12代藩主を承継
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1837年
12代長州藩主毛利斉広の急死に伴い毛利敬親(11代藩主毛利斉元の嫡子)が13代藩主を承継
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1838年
村田清風が長州藩庁の実権を握り藩政改革を断行
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1840年
10歳の吉田松陰が藩主毛利敬親の御前で『武教全書』を講義し大評判を得る
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1840年
アヘン戦争(~1842)
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1842年
異国船打払令を緩和し薪水給付令施行
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1846年
村田清風を慕う周布政之助が開明派藩士を集め嚶鳴社を結成
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1847年
革新派の村田清風と保守派の坪井九右衛門の連立政権、村田派の周布政之助は蔵元検使暫役・椋梨藤太の添役に任じられる
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1849年
長州藩主毛利敬親が周布政之助を都講に抜擢し藩校明倫館の拡充政策を推進
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1850年
井伊直亮が死去し弟の井伊直弼が15代彦根藩主に就任、藩政改革に着手し譜代筆頭として幕政に乗出す
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1851年
吉田松陰が東北旅行へ出奔、手続き不備のため脱藩の罪を得る
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1852年
江戸桜田藩邸に戻った吉田松陰が萩へ召還され脱藩罪により士籍・家禄剥奪のうえ杉百合之助の「育み」とされる
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1852年
周布政之助が政務役に任じられ藩政に参与
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1853年
長州藩主毛利敬親の温情により吉田松陰が10年間の諸国遊学を許され江戸へ出立
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1852年
彦根藩主井伊直弼が長野主膳を知行150石で藩士に召抱え藩校弘道館の国学教授に任じる
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1853年
[ペリー来航]マシュー・ペリー艦隊が浦賀に来航、フィルモア米大統領の親書交付
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1853年
周布政之助が務役筆頭に昇進、椋梨藤太の罷免に伴い右筆に任じられる
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1853年
吉田松陰が藩主毛利敬親に上書し長州藩の国防論を提言
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1853年
攘夷を決意する吉田松陰が京阪で梁川星厳・梅田雲浜と会談し江戸で長州藩主毛利敬親に『海戦策』を上書
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1854年
ペリー艦隊が再来航し日米和親条約締結(蘭露英仏と続く安政五ヶ国条約)、吉田松陰がアメリカ船での海外密航を企てるが失敗し自主して伊豆下田の牢に投獄される
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1854年
吉田松陰が罪人として萩へ護送され野山獄に投獄される
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1855年
長州藩主毛利敬親の温情により吉田松陰が病気保養の名目で野山獄を出され実家の杉家で閉門蟄居
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1855年
正義派の村田清風が死去、椋梨藤太の俗論党が藩政を握り政務役筆頭の周布政之助は大津代官へ左遷
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1856年
アロー号事件(~1860)~英仏連合軍が仕掛けた第二次アヘン戦争
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1856年
長州藩主毛利敬親の尊攘方針により周布政之助らが要路に就く
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1856年
萩郊外の松本村で蟄居する吉田松陰のもとへ近郷の若者が参集し私塾となる
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1857年
吉田松陰の門人が増えたため杉家邸内に塾舎を設置し(松陰神社内に現存)叔父の玉木文之進から「松下村塾」の塾名を承継
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1858年
木戸孝允が長州藩に出仕し大検使となり江戸番手を命じられる
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1858年
大村益次郎が長州藩江戸藩邸に招かれ兵学書を講義、木戸孝允は大村を長州藩へスカウト
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1858年
吉田松陰が長州藩庁に度々上書し藩政改革を提言、若手藩士の遊学や軍制改革の諸献策が容れられ松下村塾が活気付く(松陰の後押しで多くの塾生が遊学を許される)
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1858年
長州藩庁が吉田松陰に家学教授の許可を与え松下村塾が公認となる
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1858年
老中首座堀田正睦が条約勅許取得に失敗(岩倉具視・大原重徳らの廷臣八十八卿列参事件)
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1858年
井伊直弼が大老に就任、一橋派の粛清が始まる(安政の大獄)
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1858年
周布政之助が政務役に復帰
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1858年
破約攘夷を主張する吉田松陰が長州藩主毛利敬親に度々上書、周布政之助ら藩政府首脳と対立
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1858年
久坂玄瑞が梅田雲浜・梁川星厳らと連携し京都で尊攘運動を開始
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1858年
幕府が日米修好通商条約に無勅許調印、英仏蘭露とも同様(安政五カ国条約)
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1858年
梅田雲浜らの工作により朝廷が条約撤廃・一橋派諸侯の復権を促す「戊午の密勅」を水戸藩・幕府・長州藩へ下す
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1858年
大老井伊直弼の意を受けた老中間部詮勝が入洛し安政の大獄を断行
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1858年
吉田松陰盟友の梅田雲浜が幕府に逮捕され翌年獄死(拷問死とも)
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1858年
吉田松陰が公然と老中間部詮勝要撃計画を策動
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1858年
吉田松陰が野山獄に再投獄され松下村塾は廃止
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1859年
神奈川・長崎・函館開港
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1859年
吉田松陰が獄中で反幕府運動を画策、高杉晋作・久坂玄瑞の諫止に逆ギレ
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1859年
獄中の吉田松陰が長州藩討幕挙兵を画策するが挫折
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1859年
吉田松陰が幕命で江戸に召喚され評定所の尋問を受ける
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1859年
吉田松陰が老中間部詮勝襲撃計画を自白し江戸小塚原刑場にて斬首(享年30)、江戸に居た木戸孝允・伊藤博文らが小塚原に埋葬
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1859年
島津斉興の死により島津久光が藩主島津忠義の国父として薩摩藩の実権を掌握
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1860年
清が英仏露と北京条約締結、半植民地化が決定的に
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1860年
桜田門外の変~徳川斉昭の意を受けた水戸浪士らが江戸城桜田門外で大老井伊直弼を暗殺(享年48)
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1860年
徳川斉昭が蟄居中に急死(享年61)、幕府は融和路線に転じ徳川慶喜・松平春嶽らを赦免
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1860年
ロシア軍艦が対馬に侵攻するがイギリスの圧力で退去
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1860年
宇和島藩士で幕府講武所教授の大村益次郎が木戸孝允の招聘で故郷の長州藩へ転籍、最先端の西洋知識で洋式軍制改革を推進
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1861年
高杉晋作が長州藩世子毛利定広の小姓役に任じられ江戸出府に随う
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1861年
武市半平太が土佐藩郷士を糾合し土佐勤皇党を結成、坂本龍馬・中岡慎太郎・吉村寅太郎・岡田以蔵ら192人が加盟
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1861年
和宮降嫁の勅許、薩長土の尊攘派志士が三藩主上京を約束
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1861年
長井雅楽の航海遠略策が藩論となり長州藩が公武周旋に乗出すが吉田松陰門下の木戸孝允・高杉晋作・久坂玄瑞らは猛反対
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1861年
久坂玄瑞・周布政之助が長州藩主毛利敬親の江戸参勤阻止を企てるが失敗し帰国を命じられる
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1862年
坂下門外の変~水戸浪士が老中安藤信正を襲撃
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1862年
和宮降嫁~孝明天皇妹宮の和宮親子内親王と将軍徳川家茂の婚礼
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1862年
武市半平太の土佐勤皇党が佐幕派の執政吉田東洋を暗殺し藩政を掌握、土佐藩主山内容堂は怒りを堪え黙認
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1862年
久坂玄瑞が京都へ戻り朝廷に長井雅楽弾劾の建白書を提出
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1862年
長州藩が長井雅楽の「航海遠略策」を朝廷に建白するが老中安藤信正の失脚により公武周旋を断念、長井は失脚し木戸孝允・久坂玄瑞ら尊攘派が優勢となる
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1862年
島津久光が率兵上洛するが寺田屋騒動で有馬新七ら過激藩士を粛清
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1862年
薩摩藩の島津久光が率兵江戸入りし幕政改革を断行(文久の改革)・謀臣の大久保利通と小松帯刀が暗躍、徳川慶喜を将軍後見職・松平春嶽を政治総裁職にねじ込む
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1862年
長州藩が薩摩藩の公武合体運動に対抗すべく航海遠略策を放棄し破約攘夷へ転換
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1862年
久坂玄瑞・武市半平太らの工作により長州藩世子毛利定広が勅旨を奉じて江戸へ下り幕府に将軍上洛と攘夷決行を督責
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1862年
生麦事件~薩摩藩主島津忠義・久光の行列がイギリス人を殺傷
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1862年
武市半平太の工作により土佐藩主山内豊範が京都へ立寄り国事周旋の勅命を受ける
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1862年
京都で攘夷派志士による天誅事件が頻発
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1862年
武市半平太・久坂玄瑞の工作により朝廷が攘夷督促と親兵提供を命ずる勅使(正使三条実美)を江戸へ派遣、土佐藩主山内豊範が供奉
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1862年
久坂玄瑞が江戸入り、長土連携のため世子毛利定広と山内容堂の酒宴をアレンジ
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1862年
高杉晋作・久坂玄瑞・井上馨・伊藤博文ら長州藩士が神奈川外人襲撃を企てるが土佐藩の横槍で中止
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1862年
高杉晋作・久坂玄瑞・井上馨・伊藤博文ら長州藩士がイギリス公使館焼き討ち
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1862年
会津藩主松平容保が京都守護職として入洛
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1863年
伊藤博文・山尾庸三が江戸で国学者の塙次郎(保己一の子)を暗殺
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1863年
京都守護職松平容保の配下に壬生浪士組(新撰組)結成
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1863年
高杉晋作・伊藤博文らが吉田松陰の遺骸を掘出し世田谷若林に改葬
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1863年
長州藩で久坂玄瑞・木戸孝允・高杉晋作ら尊攘派が実権を掌握し公武合体派の長井雅楽が自害
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1863年
長州藩・土佐藩の圧力により将軍徳川家茂が初の上洛、朝廷に5月10日の攘夷決行を約束
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1863年
松平春嶽が徳川慶喜の専横に怒り政治総裁職を辞任し福井に帰国
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1863年
久坂玄瑞が長州に戻り入江九一・吉田稔麿・山縣有朋ら松下村塾生を糾合し光明寺党を結成
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1863年
長州藩が外国船を砲撃し攘夷決行(下関事件)、首謀者の久坂玄瑞は光明寺党を率い獅子奮迅の活躍
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1863年
高杉晋作が長州藩主毛利敬親に召喚され馬関の防御を一任される
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1863年
青蓮院宮から令旨の一件を聞いた山内容堂が土佐へ戻り吉田東洋暗殺犯の捜索と土佐勤皇党の粛清を開始
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1863年
長州藩の伊藤博文・井上馨・山尾庸三・野村弥吉・遠藤謹助がイギリス留学(長州ファイブ)
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1863年
長州藩の高杉晋作が奇兵隊を創設、一流蘭学者の大村益次郎が長州藩諸隊の洋式軍制改革・軍備増強を推進
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1863年
高杉晋作の奇兵隊が下関の前田砲台を再建し対岸の小倉藩領田の浦を占拠し砲台を建設
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1863年
尊攘派公卿の姉小路公知が暗殺される
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1863年
攘夷親征計画(大和行幸)
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1863年
福井藩の松平春嶽・横井小楠が挙藩上洛計画を企てるが中根雪江ら守旧派の反対で決行直前に中止
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1863年
中山忠光・吉村寅太郎らによる大和天誅組の変
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1863年
薩英戦争~イギリス艦隊による生麦事件の報復
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1863年
八月十八日の政変~薩摩藩・会津藩が長州藩を追放し久坂玄瑞・木戸孝允・武市半平太らの破約攘夷運動が瓦解
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1863年
島津久光の建議により参預会議発足~公武合体論の実現
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1863年
山内容堂が武市半平太ら土佐勤皇党幹部を投獄
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1863年
中岡慎太郎が七卿落ちの情勢を探るため周防三田尻へ出向
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1863年
三条実美ら七卿が在所する周防三田尻の招賢閣に尊攘派浪士が参集、真木和泉・宮部鼎蔵・中岡慎太郎の指揮で活発に尊攘運動を展開
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1863年
長州藩で俗論党が盛返すが高杉晋作が奇兵隊を小郡へ転陣し山口政庁を威嚇、高杉と久坂玄瑞が政務座役に就く(高杉は奇兵隊総管を退き河上弥市・滝弥太郎に託す)
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1863年
河上弥市・平野国臣らによる生野の変
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1863年
長州藩で世子毛利定広の上洛決定、真木和泉の扇動により出兵論が過熱
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1863年
土佐浪士の中岡慎太郎が上京し長州藩復権運動
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1863年
長州藩尊攘派が俗論党の坪井九右衛門を逮捕し野山獄で処刑
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1864年
高杉晋作が暴発寸前の遊撃軍の制止に赴くが来島又兵衛に妨害され二度目の脱藩事件を起し上方へ出奔
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1864年
高杉晋作が来島又兵衛・久坂玄瑞らの激発を抑えるべく京都で長州藩復権運動、島津久光要撃を企てる
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1864年
長州藩が高杉晋作を召還し脱藩罪により野山獄へ投獄
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1864年
参預会議が瓦解し公武合体運動が挫折
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1864年
参預会議瓦解を受けて久坂玄瑞が長州藩庁に即時出兵を進言
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1864年
徳川慶喜が将軍後見職を辞して江戸幕府を離れ禁裏御守衛総督となり京都政局を牛耳る
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1864年
天狗党の乱~武田耕雲斎ら水戸尊攘派の暴発と瓦解
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1864年
伊藤博文・井上馨がイギリス留学から急遽帰国、横浜でオールコック英公使より藩主宛親書を授かり長州藩で不戦工作
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1864年
池田屋事件
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1864年
長州藩世子毛利定広の上洛・出兵に最後まで反対した周布政之助が逼塞に処される
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1864年
来島又兵衛の遊撃軍300人が上方へ発進し久坂玄瑞・真木和泉が率いる諸隊が続く
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1864年
禁門の変、久坂玄瑞が京都鷹司邸にて自刃(享年25)
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1864年
徳川慶喜が長州追討の勅命を得て第一次長州征討を決行
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1864年
馬関戦争~英仏蘭米の四国連合艦隊が下関を攻撃し長州藩を降伏させる
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1864年
長州藩主毛利敬親から全権委任された高杉晋作が有利な条件で馬関戦争の講和を実現、高杉は政務座役に復帰するがすぐに辞任
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1864年
西郷隆盛が勝海舟に会い長州藩への融和路線に転換
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1864年
長州藩で俗論党(佐幕恭順派)が主導権を握り正義派(尊攘派)を粛清、絶望した周布政之助が山口にて自殺(享年42)
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1864年
長州藩恭順により第一次長州征討が停戦・征長軍全権に任じられた西郷隆盛が宥和路線を主導
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1864年
中岡慎太郎が五卿遷座の周旋工作、西郷隆盛ら薩摩藩士と連携
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1864年
高杉晋作が前原一誠・中岡慎太郎の遊撃隊60人・伊藤博文の力士隊30人のみで功山寺挙兵を決行(奇兵隊の山縣有朋らは日和見)
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1865年
高杉晋作率いる諸隊が大田・絵堂の戦いに勝利し正義派が長州藩の政権を奪回
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1865年
禁門の変で失踪した木戸孝允が長州藩に戻り藩政を掌握
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1865年
徳川慶喜の策動により将軍徳川家茂が上洛し第二次長州征討を号令
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1865年
俗論党首領の椋梨藤太が野山獄で斬首される
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1865年
西郷隆盛が鹿児島へ戻り藩主父子に情勢を報告、同伴した坂本龍馬に薩長同盟の密計を託し小松帯刀主導で亀山社中を設立
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1865年
長州系土佐浪士の中岡慎太郎・土方久元が上京して薩摩屋敷に滞在し薩長和解工作
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1865年
薩摩系土佐浪士の坂本龍馬が長州藩で薩長和解工作
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1865年
山内容堂が不敬罪で武市半平太を切腹させ(享年37)土佐勤皇党が壊滅
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1865年
長州藩が亀山社中を介して大量の洋式兵器とユニオン号を購入
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1865年
西郷隆盛が下関での木戸孝允との会談をドタキャン、薩長和解工作のため黒田清隆を長州へ派遣
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1865年
中岡慎太郎が京都で西郷隆盛に薩長和解工作、田中顕助・那須盛馬・大橋慎三(元長州藩忠勇隊士)らと会盟
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1865年
高杉晋作・井上馨が長州の藩論を薩長和解に纏め木戸孝允を京都へ送出す
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1866年
薩長同盟
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1866年
坂本龍馬が伏見寺田屋で幕吏に襲われ負傷、鹿児島へ逃れる
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1866年
徳川慶喜の策動により将軍徳川家茂が上洛し兵6万を率いて第二次長州征討開始(四境戦争)、薩摩藩は公式に出兵を拒絶
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1866年
薩摩藩が幕府からの再三の出兵要請を拒否し朝廷に長州再征反対を建白
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1866年
坂本龍馬がユニオン号に乗り長州藩の小倉渡海作戦に参加
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1866年
高杉晋作が大島口奇襲で勝利
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1866年
大村益次郎が浜田城制圧
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1866年
高杉晋作の活躍で老中小笠原長行が守る小倉城が陥落し長州藩の勝利が決定的となる(高杉は肺結核が悪化し翌年病没)
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1866年
将軍徳川家茂が大阪城で急死し徳川慶喜が徳川宗家の家督を相続、自身の長州大討入りを宣言するが小倉城陥落を知り断念
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1866年
徳川慶喜が朝廷から征長停止の勅令を獲得し幕府敗北・長州藩勝利で四境戦争終結、勝海舟が安芸厳島に乗込み停戦交渉
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1866年
徳川慶喜が15代将軍就任
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1866年
孝明天皇崩御
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1867年
孝明天皇崩御に伴う大赦で長州系の三条実美ら五卿のほか九条尚忠・岩倉具視ら公卿が赦免される
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1867年
徳川慶喜が各国公使に兵庫開港を宣言、幕府は勢いを盛返すが警戒を強める薩長首脳は討幕へ傾く
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1867年
中岡慎太郎が幕府の動向視察のため上京、土佐藩に藩政改革案を示し薩摩藩の西郷隆盛を紹介
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1867年
高杉晋作が下関にて死去(享年27)、下関郊外吉田の清水山に埋葬される
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1867年
坂本龍馬の亀山社中が薩摩藩から土佐藩へ転籍し土佐海援隊に改編
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1867年
島津久光が薩摩藩兵700を率いて上洛、西郷隆盛が先発し四候会議のお膳立て
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1867年
京都で島津久光・松平春嶽・山内容堂・伊達宗城の四候会議開催
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1867年
将軍徳川慶喜と四候の二条城会談が決裂、薩摩藩が武力討幕の方針を固める
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1867年
薩土密約
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1867年
薩土同盟
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1867年
中岡慎太郎が京都の土佐藩邸に浪士を集め陸援隊を結成
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1867年
西郷隆盛・小松帯刀・大久保利通の薩摩首脳が長州藩に立寄り山縣有朋・品川弥二郎らに薩長同盟を確認
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1867年
土佐藩の後藤象二郎と福岡孝悌が老中板倉勝静に大政奉還の建白書を提出
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1867年
西郷隆盛が不逞浪士を江戸へ遣わし幕府を挑発、謀略に掛った江戸市中取締の庄内藩は江戸薩摩藩邸を焼打ち
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1867年
薩摩藩・西郷隆盛が土佐藩・後藤象二郎からの出兵延期要請を拒否
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1867年
徳川慶喜が二条城で大政奉還を発表
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1867年
大久保利通・西郷隆盛・岩倉具視の謀略により朝廷が薩長などに討幕の密勅を下す
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1867年
朝廷が幕府の大政奉還を勅許
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1867年
西郷隆盛と木戸孝允が山口で討幕挙兵を確認、西郷は薩摩へ
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1867年
薩摩藩主島津忠義が周防国三田尻で長州藩世子毛利広封と会見し討幕出兵を協約
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1867年
薩摩藩主島津忠義が藩兵3千を率いて上洛(軍司令官は西郷隆盛)
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1867年
長州藩世子毛利定広が藩兵1千余を率いて上洛(薩摩藩を警戒し出兵に反対した大村益次郎は掛助役に左遷)
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1867年
坂本龍馬(33)と中岡慎太郎(30)が京都近江屋で見廻組に襲われ死去
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1867年
王政復古の大号令
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1867年
三職の設置
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1867年
長州藩が朝廷により公式に赦免され藩主毛利敬親は従四位・参議に復帰
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1867年
小御所会議(最初の三職会議)で薩摩藩の大久保利通・西郷隆盛と朝臣の岩倉具視が徳川慶喜の辞官納地を強行採決
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1867年
大阪城に退去した徳川慶喜が辞官納地を拒否、諸外国に徳川政権による外交継続を宣言
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1868年
鳥羽伏見の戦いに官軍が圧勝~戊辰戦争始まる
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1868年
徳川慶喜が松平容保・松平定敬を伴って大阪城を脱出し軍艦で江戸へ逃げ帰る
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1868年
土佐藩の板垣退助が迅衝隊を率い独断で戊辰戦争に参戦、東山道先鋒総督府参謀として官軍を指揮
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1868年
陸奥宗光の献策により維新政府が外交団と協議、各国は局外中立を表明
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1868年
明治天皇が徳川慶喜追討の親征を宣言、薩摩(西郷隆盛)・長州・佐土原・大村の東海道軍と薩長・土佐(板垣退助)など諸藩混成の東山道軍が江戸へ進発、徳川慶喜は小栗忠順ら主戦派を退け恭順派の勝海舟に全権を託す
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1868年
西郷隆盛が東征大総督府下参謀(実質的司令官)に任命される
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1868年
徳川慶喜が上野寛永寺に謹慎し主戦派の松平容保・松平定敬・小栗忠順らを江戸から追放し恭順派の勝海舟に全権委任、徳川家達に徳川宗家の家督を譲る
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1868年
西郷隆盛が独断で先鋒軍を率いて先発し箱根を占拠
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1868年
東海道軍筆頭参謀の西郷隆盛が勝海舟との会談で総攻撃を中止し江戸城無血開城、長州藩の大村益次郎や佐賀藩の江藤新平は薩摩藩の専断に反発
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1868年
奥羽越列藩同盟が成立
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1868年
西郷隆盛・大村益次郎の官軍が上野彰義隊を殲滅
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1868年
木戸孝允の版籍奉還の献策を長州藩主毛利敬親が承諾
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1868年
明治天皇が江戸城に入城~実質的な東京遷都
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1868年
太政官設置、長州藩主毛利敬親は議定に任じられる
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1868年
明治政府が徳川宗家16代当主の徳川家達に駿府70万石を与える・徳川慶喜も駿府へ移され駿河宝台院で謹慎
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1868年
旧幕府海軍の榎本武揚らが軍艦8隻を奪い江戸を脱出、仙台で旧幕府軍を吸収し箱館五稜郭で蝦夷共和国樹立を宣言するが旗艦の開陽丸が座礁沈没
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1868年
明治天皇即位礼、明治に改元
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1868年
板垣退助の官軍に会津若松城を攻囲され会津藩が降伏、松平容保は江戸へ移され蟄居
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1868年
盛岡藩に続き庄内藩が降伏、東北戦争終結
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1869年
土方歳三が弁天台場の戦いで戦死(享年35)、榎本武揚の五稜郭が降伏し函館戦争・戊辰戦争終結
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1869年
王政復古の賞典禄下賜、毛利敬親は権大納言に昇進し世子毛利定広と共に10万石を賜わる
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1869年
版籍奉還
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1869年
兵制論争、大久保利通・薩摩士族が大村益次郎の政府直轄軍構想を廃し薩長土供出の御親兵に決定、大村益次郎は木戸孝允に慰留され兵部大輔に就任(大村は弟子の山田顕義を兵部大丞に就ける)
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1869年
大村益次郎が京都三条木屋町の旅館で会食中に急進的な兵制改革に反発する元長州藩士8人に襲われ大阪にて死去(享年46)、郷里の山口市鋳銭司に葬られる
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1869年
奇兵隊などの長州藩諸隊の廃止に伴い脱退騒動が起るが木戸孝允は武力鎮圧を断行し130余人を処刑
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1869年
毛利敬親が家督を毛利定広に譲り隠居
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1871年
西郷隆盛が明治政府に出仕し木戸孝允と共に参議(最高実力者)となる
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1871年
毛利敬親が山口にて死去(享年53)
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1873年
毛利敬親が山口市の忠正神社(現・野田神社)に祀られる
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1884年
華族令公布、毛利定広(元徳)が最高位の公爵を受爵
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1901年
毛利敬親に追贈正一位(最高位)
毛利敬親の交遊録
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毛利斉熙
10代長州藩主
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毛利斉元
父・11代長州藩主
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毛利斉広
12代長州藩主
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毛利定広(元徳)
嫡子
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毛利元昭
定広嫡子
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西園寺八郎
定広八男
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西園寺公望
八郎舅
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村田清風
超優秀な側近
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周布政之助
村田後継者の正義派首領
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浦靱負
正義派家老
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益田弾正
正義派家老
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坪井九右衛門
村田の宿敵
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椋梨藤太
坪井後継者の俗論党首領
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青木周弼
有能な西洋医学者
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長井雅楽
正義派だが松蔭の政敵
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吉田松陰
敬愛した兵学者
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木戸孝允
松蔭門弟
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久坂玄瑞
松下村塾の双璧
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高杉晋作
松下村塾の双璧
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吉田稔麿
松下村塾の四天王
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入江九一
松下村塾の四天王
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伊藤博文
松下村塾生・高杉舎弟
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山縣有朋
松下村塾生
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前原一誠
松下村塾生
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品川弥二郎
松下村塾生
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山田顕義
松下村塾生
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赤根武人
松下村塾生
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寺島忠三郎
松下村塾生
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大村益次郎
木戸舎弟
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井上馨
寵臣・高杉舎弟
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滝弥太郎
光明寺党
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河上弥市
光明寺党・生野の変で戦死
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来島又兵衛
困った過激派
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三条実美
長州系公卿
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姉小路公知
長州系公卿
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岩倉具視
「四奸二嬪」の政敵
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真木和泉
困った扇動家
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平野国臣
困った扇動家
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山内容堂
武市を殺した土佐国主・犬猿の仲
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武市半平太
土佐勤皇党首領・尊攘運動のパートナー
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吉村寅太郎
土佐の同志
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坂本龍馬
薩摩系土佐浪士
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中岡慎太郎
長州系土佐浪士
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島津久光
薩長同盟のパートナー
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西郷隆盛
薩長同盟のパートナー
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大久保利通
薩長同盟のパートナー
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小松帯刀
薩長同盟のパートナー
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有馬新七
薩摩の過激派
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徳川家茂
上洛させた将軍
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徳川慶喜
禁門の変の戦争相手
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松平容保
禁門の変の戦争相手
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松平定敬
容保実弟の京都所司代
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近藤勇
新撰組局長
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土方歳三
新撰組鬼の副長
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松平春嶽
慶喜の傅役
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安藤信正
長井の盟友
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井伊直弼
松蔭の仇
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間部詮勝
井伊の走狗
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徳川慶勝
征長総督
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松平茂昭
征長副総督
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小笠原長行
撃破した老中小倉藩主
毛利敬親と同じ時代の人物
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維新
大久保 利通
1830年 〜 1878年
130点※
島津久光を篭絡して薩摩藩を動かし岩倉具視と結んで明治維新を達成、盟友の西郷隆盛も切捨てる非情さで内治優先・殖産興業・富国強兵の路線を敷き近代国家の礎を築いた日本史上最高の政治家
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照 -
維新
高杉 晋作
1839年 〜 1867年
110点※
吉田松陰の枠を超えた「防長割拠論」を実践し庶民軍の奇兵隊を創設して洋式軍備を拡充、功山寺挙兵で佐幕政権を覆し薩長同盟で背後を固め第二次長州征討の勝利で幕威を失墜させた長州維新の英雄
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照 -
維新
西郷 隆盛
1828年 〜 1877年
100点※
島津斉彬の懐刀として政治力・人脈を培い大人格者の威望をもって討幕を成遂げた薩摩藩の首魁、没落する薩摩士族に肩入れし盟友の大久保利通に西南戦争で討たれたが「大西郷」人気は今も健在
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照
年
基礎点 100点
毛利敬親は、改革派の村田清風・周布政之助に長州藩政を託し木戸孝允・高杉晋作・久坂玄瑞ら吉田松陰門下生を後援して長州藩を尊攘・討幕運動へ投入、明治維新後は版籍奉還に率先応じた偉大なる「そうせい候」である。大きな危険をおかして長州一藩を尊攘運動に投込み、徳川慶喜の長州征討を返討ちに撃退して幕府の権威を失墜させ、薩摩藩を引込んで遂に討幕を成遂げた。いつも「そうせい」と家臣に丸投げした毛利敬親の政治能力を疑う向きもあるが、激変する対幕関係と藩内闘争のなか持論の尊攘方針を堅持し重要事項は自ら決断、有能な家臣を登用し細事を任せ切った日本人が理想とするリーダーの一典型である。個人的能力では同世代の「四賢候」(島津斉彬・松平春嶽・伊達宗城・山内容堂)に及ぶまいが、長州藩の暴発無くして明治維新は無く長州藩主というだけで毛利敬親の功績は絶大であり、明治政府の最初にして最大の難関であった版籍奉還を率先垂範した先見の明も光る(薩摩藩の島津久光は反抗し続けた)。
減点 -10点
島津久光が決断と統率の姿勢を顕示し薩摩藩が挙藩体制を貫いたのに対し、毛利敬親は我意を通さず優勢な派閥を支持したため長州藩の保革対立は殺し合いへ発展し少なからぬ悲劇を招いた。