改革派の村田清風・周布政之助に長州藩政を託し木戸孝允・高杉晋作・久坂玄瑞ら吉田松陰門下生を後援して長州藩を尊攘・討幕運動へ投入、明治維新後は版籍奉還に率先応じた偉大なる「そうせい候」
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毛利 敬親
1819年 〜 1871年
90点※
毛利敬親と関連人物のエピソード
- 毛利敬親は、改革派の村田清風・周布政之助に長州藩政を託し木戸孝允・高杉晋作・久坂玄瑞ら吉田松陰門下生を後援して長州藩を尊攘・討幕運動へ投入、明治維新後は版籍奉還に率先応じた偉大なる「そうせい候」である。いつも「そうせい」と家臣に丸投げした毛利敬親の政治能力を疑う向きもあるが、激変する対幕関係と藩内闘争のなか持論の尊攘方針を堅持し重要事項は自ら決断、有能な家臣を登用し細事を任せ切った。18歳で長州藩主を継いだ毛利敬親は、「俗論党」に配慮しつつ「正義派」の村田清風を後押しし藩政改革・財政再建に成功し長州藩は「雄藩」となった。21歳の毛利敬親は10歳の吉田松陰の御前講義に感服し弟子の礼をとったといい、脱藩事件で家名断絶に処された松蔭に10年間の諸国遊学を許し、ペリー来航後先鋭化する攘夷論に耳を傾け、密航を企てた松蔭が幕府に捕まり萩の野山獄へ投獄されると病気保養の名目で出獄させ「松下村塾」を黙認、遊学奨励や軍制改革などの諸献策を採用し、門人の木戸孝允・久坂玄瑞・高杉晋作らを取立て中央政界へ送り出した。松下村塾は公認され尊攘派の拠点となったが、安政の大獄に激昂した吉田松陰は急速に過激化し老中間部詮勝の襲撃を公然と画策、毛利敬親は上書を許しガス抜きを図ったが、松蔭が門弟17人と血盟を結び周布政之助ら尊攘派要人に協力を要請するに及び、周布が求める松蔭の再投獄を認めざるを得なかった。毛利敬親は冷却期間のつもりだったと思われるが、別件で幕府に召喚された吉田松陰は間部襲撃計画を自白してしまい斬首に処された。が、井伊直弼が暗殺され尊攘派が盛返すと、毛利敬親は松陰の遺志を継ぐ久坂玄瑞・木戸孝允の「破約攘夷」へ藩論を切替え決然と幕府(薩摩藩の島津久光が主導する公武合体運動)に挑戦、禁門の変・第一次長州征討・四国連合艦隊の来襲(馬関戦争)と凶変が続き滅亡寸前に追詰められた長州藩は幕府への恭順を余儀無くされたが、高杉晋作が武力クーデターを成功させると毛利敬親は政権交代を容認し薩長同盟して討幕へ邁進、明治維新後は木戸の要請に応じ真先に版籍奉還を是認した。「わしはいつ将軍になるのか」と木戸に尋ねたという話は創作だろう。
- 毛利敬親が渾名された「そうせい候」の元祖は、初代大老で「下馬将軍」と称された酒井忠清に対する4代将軍徳川家綱である。
- 18歳で長州藩主を継いだ毛利敬親は、慢性的な財政難を克服するため、優秀で開明的な村田清風に藩政改革を託した。村田清風は、「三七ヵ年賦皆済仕法」で大胆な債務減免策を断行する一方(薩摩藩・調所広郷の250年賦・無利子償還よりましだが事実上の借金踏倒し)、商人への自由貿易承認と運上銀課税、越荷方の設置による貿易運輸・決済業務への参入など藩収入を増やすための経済政策を実施した。村田清風の一連の改革により長州藩は潤沢な準備金を蓄えるまでになり「幕末雄藩」の基盤を構築、政治資金をばら撒いて朝廷を統制下に置き洋式軍備を導入して精強軍を整えた(木戸孝允・久坂玄瑞・高杉晋作ら長州藩士は潤沢な交際費を遣い京都で豪遊した)。村田清風は教育普及にも尽力、後継者の周布政之助を都講に抜擢し藩校明倫館の拡充政策を担当させた。明倫館は、儒学・漢籍教育に留まらず、シーボルト仕込みの蘭学医青木周弼の進言で設立された医学館好生堂、オランダ語や洋式兵学を教える西洋学問所も備える当時最先端の総合学園へ発展、少年期の木戸孝允・高杉晋作・久坂玄瑞も就学した。山鹿流兵学師範の世襲家を継いだ吉田松陰は、8歳にして明倫館に出仕し20歳前に遊学へ出るまで兵学教授を勤め、木戸孝允・益田弾正(禁門の変で引責切腹した長州藩家老)・斎藤弥九郎(神道無念流の大剣客)らを薫陶、明倫館再興に関する意見書も上表した。
- 吉田松陰は、長州藩の山鹿流兵学師範を世襲する吉田家に入嗣し8歳にして藩校明倫館に出勤、10歳のとき藩主毛利敬親の御前で『武教全書』を講義したが、敬親は松蔭に弟子の礼をとり山鹿流兵学を学び始めるほど才能を愛した。明倫館での松陰門人には木戸孝允・益田弾正(禁門の変で引責切腹した長州藩家老)・斎藤弥九郎(神道無念流の大剣客)・斎藤栄蔵(弥九郎の子)などがあり、木戸は松陰に兄事し松下村塾生と行動を共にした。好奇心旺盛なうえ好学な家庭に育った吉田松陰は、幼少から没するまで猛烈な勉強と読書を貫き、和漢・兵学に納まらず地理・日本史・洋式兵学等々あらゆる分野に精通し、実地見聞のため旅行を好み全国各地で志士と交流した。20歳過ぎで江戸遊学へ出た吉田松陰は、昌平坂学問所儒官の安積艮斎(同門に岩崎弥太郎・小栗忠順・清河八郎など)・山鹿流家元の山鹿素水・洋式兵学の佐久間象山らに師事しオランダ語学習も開始、寝食を惜しんで勉学に励む傍ら親友の宮部鼎蔵と共に江戸湾口防備視察の名目で三浦半島から房総半島を旅した。激情家の吉田松陰は、盛岡藩士江幡五郎の仇討ち計画に感激し加勢を約束、10ヶ月の休暇願いを届捨てにして東北へ飛出した。江幡が挙行を引延ばす間に、吉田松陰は水戸で会沢正志斎ら水戸学の権威と交流し白河・会津・新潟・佐渡・津軽・青森を踏破、北海道渡海を図るも便船の都合で断念し盛岡・日光東照宮を回って江戸へ戻ったが、過書手形未交付のため脱藩罪を問われ家名断絶に処された。なお江幡五郎は、逡巡の末に目指す仇が病死し仇討ちを吹聴した志士仲間の評判は地に落ちたが、盛岡藩に帰参して明治維新を迎え、那珂通高へ改名し儒学者として名を成した(東洋史の那珂通世は養子)。
- 脱藩罪を得た吉田松陰は萩に召還されたが、長州藩主毛利敬親の温情により翌年には10年間の諸国遊学を許され、江戸へ戻った矢先にペリー来航に遭遇、藩の兵学師範である松陰は浦賀へ急行し黒船艦隊を視察した。洋式軍備の脅威を目の当たりにし生来の好奇心を逆撫でされた吉田松陰は、すぐに佐久間象山の私塾に入門して洋式兵学・砲術・蘭学を学び、同年中には毛利敬親に開明的な長州藩の国防論を提言しつつロシア船による密航を志し長崎へ出向した。佐久間象山は山深い信州松代藩士ながら生涯に門弟1万5千人と号した洋式兵学の第一人者、「象門の二虎」と称された吉田松蔭(寅次郎)と小林虎三郎につき「吉田の胆略と小林の学識は、皆稀世の材である。天下のことをなすには吉田が適しており、わが子を託するには小林がよい」と評し、後に松蔭門下の高杉晋作や久坂玄瑞を薫陶した。なお小林虎三郎は、河合継之助が敗死し焼土と化した越後長岡藩の執政に就き「米百表」の逸話を残している(このとき小林が設立した国漢学校は山本五十六らを輩出)。さて、佐久間象山に洋式兵学を学び、藩主に兵制の洋式化を提案し、自ら海外密航を企てた吉田松蔭であったが、意外にも終生激烈な攘夷論者であり、日本人を泰平の眠りから醒ますべく「二十一回猛士」と称して過激行動を繰返した。ただし、松蔭の主張は「威迫に屈して開国するのでは国の体面が立たない。一旦退けて、国力を充実したうえで、自主的に開国すべきである」とし、国力・軍備充実のためには西洋文明を積極的に摂取しなければならないとする現実的な「大攘夷」であり宗教罹った「小攘夷」とは一線を画した。島津斉彬・徳川斉昭など開明派知識人は概ね「大攘夷」論者であり、松陰門下生が主導した過激な尊攘思想は維新後に忽ち消え失せ明治政府は文明開化・脱亜入欧に邁進した。
- 西洋文明への憧憬を抑えられない吉田松陰は、ペリー来航直後にロシア船による密航を企て、翌年ペリー再来航を聞きつけると長州藩足軽の金子重之助を伴い直ちに江戸へ向かった。吉田松陰と金子重之助は、伊豆下田郊外でアメリカ人士官を待伏せし漢文の手紙を手渡して密航を申込んだうえ、同夜小船を漕いで旗艦ポーハタン号に乗付けたが、ペリー提督は同情しつつも日本の国法を犯しては両国の和親を破ることになると考え密航を拒絶、壮挙と信じる松陰は自首し伊豆下田の牢に繋がれた(牢跡地の側に下田開国博物館が建つ)。「彼等は教育ある人達で、漢文を見事に書き、態度は礼儀正しく、立派であった」と記したアメリカ士官は吉田松陰に好意を寄せ、直接会わなかったペリーも大いに同情し幕府に寛大な処分を申入れた。国禁違反は死罪相当の重罪だが、長州藩への遠慮からか幕府は江戸伝馬町獄舎で取調べたのち自藩幽閉の軽い処分で済ませた。佐久間象山は、吉田松陰へ贈った壮挙を激励する書簡が見つかり松代藩幽閉を命じられた。この後、松蔭門下の高杉晋作や久坂玄瑞は度々松代の佐久間を訪ねて教えを請い藩校明倫館の教授に招聘するほど感化された。佐久間は8年後に赦され徳川慶喜の招きで上洛し公武合体論と開国論を説いたが、傲岸不遜な性格も災いし京都木屋町で「人斬り」河上彦斎らに暗殺された。さて、吉田松陰と金子重之助は囚人用の唐丸籠で萩へ護送されたが、結核性の痢病と牢屋瘡を患った金子は寒風のなか薄着を強いられ萩到着の3ヶ月半後に獄死、松陰は節約した食費を遺族へ贈って墓碑建立を依頼し佐久間象山・宮部鼎蔵・久坂玄瑞らに弔死詩を頼み追悼歌集を編纂した。生来前向きな吉田松陰はすぐに立直り野山獄で囚人相手に教育の才を発露、孟子・論語・日本外史を平易に講義し(出獄後に『講孟余話』を著作)勉強嫌いには俳諧や書道の稽古を督励、牢役人の福川犀之助まで弟子となり夜間の点灯を許すなど便宜を図ってくれた。富永有隣は親類縁者に持余され野山獄に入れられた拗者だが吉田松陰に敬服して弟子となり、後に吉田は藩庁に運動して富永を出獄させ松下村塾の助教にした。
- 松下村塾は、吉田松陰の叔父玉木文之進が1842年に長州萩城下外れの松本村に設立した私塾で、密航事件の罪で地元に蟄居した松蔭が1857年に引継いだ。吉田松陰が罪人となっても長州藩主毛利敬親の敬愛は変わらず、また松陰に好意的な周布政之助や益田弾正など正義派人士が藩庁の要路にあって、藩政改革に係る松陰の上書がよく採用され、その効果もあり松下村塾の入門者は増え尊攘派の拠点として一大勢力を形勢した。松下村塾は、学校というよりはサークルのような雰囲気で、特段の規則はなく、授業料の類もとらなかった。皆で米搗きや農作業をしながら勉強することも日常で、ときに登山・撃剣・水泳の実習も行い、塾舎の増築工事は塾生の手で行った。藩校明倫館で行われた藩士子弟の漢籍素読の試験では、松下村塾から応試した15人全員が優等の成績を採り基礎教育にも強いことを証明した。松下村塾は、士分だけが入学できた藩校明倫館とは異なり、入門者の身分を問わなかった。中級藩士(大組士200石扶持)の高杉晋作が群を抜いて地位が高く、ほとんどの門人が下級藩士か庶民の出自であり、1858年に吉田松蔭が野山獄に再入獄となるまで僅か1年余の就学だったが、幕末長州藩をリードする多くの尊攘派志士を輩出した。入門者は50名ほど、高杉晋作と久坂玄瑞(松陰の妹文の夫)が最優秀で「松下村塾の双璧」、これに吉田稔麿と入江九一を加えた4人が「松下村塾の四天王」といわれた。松下村塾の生残り渡辺某は後年「高杉は恐ろしかった。栄太郎(吉田稔麿)はかしこかった。久坂はついていきたいようであった」と述懐している。他の門人に、寺島忠三郎・伊藤博文・山縣有朋・前原一誠・品川弥二郎・山田顕義・赤根武人などがいる。なお、木戸孝允は、吉田松蔭が藩校明倫館で兵学を教えていたときの弟子で生涯松陰に師事したが松下村塾生ではない。亡き松蔭を慕う乃木希典は玉木文之進の家に寄寓した。松下村塾の遺構は現在も保存され側には松陰神社が建つ。
- 吉田松陰は公武合体論者であったが、大老井伊直弼の暴政のなか次第に幕府不要論へ傾き、井伊を支える老中間部詮勝及び水野忠央の襲撃を画策、再び野山獄へ投獄されたが獄中で先鋭化し討幕挙兵を公言するに至った。吉田松蔭は、俗論党が根強い長州藩の因循に失望し、諸国有志が脱藩上洛し天皇を担いで天下を動かすべしとする「草莽崛起論」を唱え、動きの遅い周布正之助や長井雅楽など正義派の同志まで弾劾した。過激化する吉田松陰を松下村塾生も持余し半ば狂人視するようになり、江戸に居た高杉晋作・久坂玄瑞は血判状を送って師を諌めたが松陰は逆ギレ、安政の大獄で逮捕された梅田雲浜の脱獄救出を赤根武人に命じ、参勤交代で江戸へ向かう長州藩主毛利敬親を京都で強引に担出し討幕の兵を起すべく画策した。吉田松陰は先発上京する連絡員を募ったが応じる者は無く、無理やり承諾させた入江九一・野村和作兄弟はノイローゼとなったが前原一誠らが苦肉の策で藩庁へ通報し出発直前に逮捕され事無きを得た。そうしたなか吉田松陰は江戸へ召喚され評定所の尋問を受けた。安政の大獄の核心は一橋派による戊午の密勅事件と条約勅許妨害であり、吉田松陰は不関与で嫌疑の梅田雲浜との通謀も無実であったが、国士を自認する松陰はペリー来航以来の幕府政治を滔々と論難し勢い余って間部要撃計画まで自白、驚いた幕府は松陰を伝馬獄へ移し小塚原刑場で斬首に処した。処刑前は眼光炯々幽鬼の相貌であったが、江戸送りの段階では「死生一如」の境地に達し見送りに来た門弟達を優しく迎えて遺志を託し、司獄の福川犀之助の計いで帰宅を許され家族と今生の別れをした。伝馬獄の吉田松陰は、高杉晋作へ「死んで不朽の名を残す見込みがあるなら、いつ死んでも構わない。生きて大業をなす見込みがあるならば、あくまで生きるべきである。」と言葉を贈り、『留魂録』を著述して「身はたとい武蔵の野辺に朽ちぬともとどめおかまし大和魂」の辞世を遺した。処刑の二日後、江戸に居た木戸孝允・伊藤博文らが遺骸をもらい受けて小塚原に仮葬し目印に巨石を設置、その4年後に高杉晋作らが世田谷区若林に会葬し松蔭神社を建てた。
- 久坂玄機は緒方洪庵の適塾の塾頭を務め長州藩の医学所好生堂の都講に迎えられた秀才であったが、20年年下の弟久坂玄瑞は吉松淳蔵の家塾(高杉晋作も机を並べた寺子屋)を振出しに藩校明倫館・医学所好生堂へ進み玄機に劣らない英才と評判が高く、16歳の頃には一端の志士となり九州の志士を歴訪した。熊本で宮部鼎蔵に会い吉田松陰を激賞された久坂玄瑞は、生意気にも先ず書簡を交わして松蔭の見識を量ろうとし「元寇の北条時宗に倣い外国使節を斬るべし」という過激な攘夷論を披瀝、松蔭は内心では久坂の非凡を認めつつも「上っ調子で思慮浅く、実践を考えない空理空論」と突返した。久坂は食下がり書状の応酬が数回あったが「それなら攘夷をやってみろ、出来ないなら大言壮語に過ぎないではないか」と論破され、襟を直して松下村塾の門人となった。吉田松陰は末妹の文を娶わせるほどに久坂玄瑞を評価し、多才と行動力を認めたが「志壮気鋭、これをめぐらすに才をもってす」と評し才に頼りすぎる性質や多才故に多岐に流れることを懸念した。一方、吉田松蔭は高杉晋作の頑質を長所ととらえ、門人中第一の秀才であった久坂玄瑞を大いに持上げることで高杉の負けじ魂を刺激し学問に熱中させ、高杉は生来の独創性に学問知識を加えて久坂と共に「松下村塾の双璧」と称されるまでに成長した。木戸孝允は高杉晋作が強情で独善的な人間になる恐れがあると危惧し矯正を勧めたが、吉田松蔭は「角を矯めて牛を殺す結果になることを恐れる。十年放っておけば必ず成長するので大丈夫」と放任教育を続けた。晩年の吉田松陰は師弟の関係を超え同志として高杉晋作を頼りにし、松下村塾生は過激で唯我独尊な高杉を離れ牛(繋がれていない牛)と評し畏怖した。
- 高杉晋作は、吉田松陰の枠を超えた「防長割拠論」を実践し庶民軍の奇兵隊を創設して洋式軍備を拡充、功山寺挙兵で佐幕政権を覆し薩長同盟で背後を固め第二次長州征討の勝利で幕威を失墜させた長州維新の英雄である。維新直前に早世し他藩や朝廷との交流に批判的だったことから知名度は「維新の三傑」に及ばないが、高杉晋作なくして長州藩の復活は無く、薩長同盟の形で討幕が実現することも無かった。高杉晋作は、松下村塾の師匠である吉田松蔭や尊攘派同志の枠から離れて独創的な「防長割拠論」を唱え、討幕戦に備えて洋式軍備の導入に取組み、日本初の近代的民兵組織である奇兵隊などの諸隊を創設した。同志が公武周旋や過激な攘夷論に浮かれるなか、一人冷静に現実を見据えていた。「松下村塾の双璧」と並び称された久坂玄瑞は、吉田松陰から受継いだ「草莽崛起論」に則り諸国の志士と提携して京都政局で破約攘夷運動を主導、孤立した高杉晋作は自暴自棄となったが、禁門の変で久坂は戦死し長州藩は朝敵となった。続く四国連合艦隊の襲来で窮地に陥った長州藩は高杉晋作を呼戻し、高杉は有利な条件で講和交渉を纏め、兵員不足を補うため庶民から徴兵して奇兵隊を創設、第一次長州征討が起ると伊藤博文・井上馨と共に徹底抗戦を叫んだが長州藩は幕府に恭順した。絶望した周布政之助は自決し俗論党(佐幕派)政権は正義派を弾圧し井上馨は瀕死の重傷、高杉晋作は筑前へ逃れたが、すぐに長府へ舞戻り奇兵隊などの諸隊に決起を呼掛け、応じたのは伊藤博文・前原一誠の手勢と中岡慎太郎ら遊撃隊(浪士隊)の90名のみだったが功山寺挙兵を断行した。三田尻で藩の軍艦3隻を奪い東山寺に転陣して馬関割拠の体制を固めると、解散を迫られた山縣有朋の奇兵隊など諸隊が呼応し大田・絵堂の戦いで長州藩正規軍を撃破した。高杉晋作は、奪回した政権を木戸孝允に譲渡し、逡巡する木戸の背中を押して薩長同盟を締結、第二次長州征討が起ると自ら最前線に乗込み大島口奇襲で緒戦を制し老中小笠原長行が守る小倉城を攻落して勝利を決定付けた。が、肺結核で動けなくなり「おもしろき ことをなき世を おもしろく」の辞世を遺し27歳で死去した。
- 久坂玄瑞は、吉田松蔭の妹文を娶った松下村塾の筆頭門人で「草莽崛起」を受継ぎ「破約攘夷」で中央政局をリードしたが八月十八日政変で突如瓦解し禁門で戦死、長州藩は朝敵にされ窮地に陥った。久坂玄瑞は、長州藩医の三男坊で幼少から英才を謳われ、熊本の宮部鼎蔵の勧めで吉田松陰に会い過激な攘夷論を披瀝したが空理空論と論破され学門に降り、1つ年長の高杉晋作と共に「松下村塾の双璧」と称された。吉田松陰の名代として江戸・京都へ出た久坂玄瑞は、梅田雲浜・梁川星厳の導きで中央政界へ乗出し、安政の大獄が起り吉田松陰は江戸で刑死したが、大老井伊直弼が斃れると先輩の木戸孝允・土佐藩の武市半平太と共に活発な尊攘運動を展開、和宮降嫁を幕府の謀略と糾弾して岩倉具視を退隠させ、長井雅楽の「航海遠略策」を幕主朝従と排撃し薩摩藩の島津久光に対抗して長州藩論を「破約攘夷」へ転換、長州藩世子毛利定広と勅旨を奉じて幕府に攘夷を迫り、圧力に屈した徳川家茂は将軍として230年ぶりに上洛し朝廷に5月10日の攘夷決行を約束した。草莽崛起(全国志士の決起)を目指す久坂玄瑞は、長州藩の外国船砲撃で天下に攘夷決行の実を示し(下関事件)「光明寺党」を率いて奮戦するも米仏軍艦に惨敗、京都へ戻り討幕含みの攘夷親征計画(大和行幸)を策動するが八月十八日政変で一夜にして瓦解した。朝敵とされた長州藩では藩主の上洛釈明・出兵論が沸き起り、木戸孝允・高杉晋作・周布政之助は自重論を唱えたが、久坂玄瑞は来島又兵衛・真木和泉らと強硬論を唱え参預会議瓦解を機に即時出兵を断行、池田屋事件で激発した長州藩は京都御所を攻めたが西郷隆盛率いる薩摩軍の参戦で大敗し首謀者の久坂玄瑞・入江九一・来島又兵衛・真木和泉は戦死した。続く第一次長州征討・四国連合艦隊との馬関戦争で長州藩は存亡の危機に陥り久坂玄瑞の野望は費えたが、久坂の「草莽崛起」を批判し続けた高杉晋作が奇兵隊・諸隊を率いて政権を奪回し薩長同盟して討幕を実現した。明治維新後、西郷隆盛は木戸孝允に「お国の久坂先生が今も生きておられたら、お互いに参議だなどといって威張ってはおられませんな」と語ったという。
- 木戸孝允(桂小五郎)は、吉田松陰・久坂玄瑞・高杉晋作の遺志を継ぎ薩長同盟して討幕を仕上げた長州藩首領にして「維新の三傑」、明治維新後3年で最難関の廃藩置県を成遂げ憲法制定を志したが大久保利通と対立し西南戦争の渦中に病没した。先を見通す識見に優れ、久坂玄瑞と「破約攘夷」運動を主導したが池田屋事件・禁門の変を間一髪で生延び、明治政府ではリベラルな政策を牽引した。木戸孝允は、長州藩医の和田家に生れ中級藩士桂家に入嗣、藩校明倫館で俊秀を謳われ兵学教授の吉田松陰に兄事した。幼少から剣術に打込み、19歳で江戸四大道場の練兵館に入門すると翌年には免許皆伝、塾頭・師範代を任され剣名を馳せたが、ペリー来航で国事に目覚め江川坦庵や中島三郎助から海外知識を習得した。長州藩に出仕した木戸孝允は、大村益次郎を招聘して洋式軍制改革を推進し、久坂玄瑞と共に「航海遠略策」の長井雅楽を斃して藩論を「破約攘夷」へ転換し外国船砲撃(下関事件)や攘夷親征計画(大和行幸)を主導したが八月十八日政変で一夜にして瓦解、周布政之助・高杉晋作と共に出兵論を抑えたが池田屋事件で決壊し禁門の変が勃発、久坂は戦死し長州藩は朝敵となった。開戦直前に失踪した木戸孝允は、変装して京都を脱出し但馬出石に潜伏、第一次長州征討・馬関戦争で長州藩が窮地に陥っても動かず、高杉晋作が藩政を奪回すると指導者に迎えられ、薩長同盟を結び討幕へ突進んだ。明治政府の首班に就いた木戸孝允は、「五箇条の御誓文」で民主主義を宣言し、版籍奉還・廃藩置県を断行、四民平等・学制制定で国民皆学の平等社会を実現し、奇兵隊など長州諸隊の反乱を断固鎮圧した。岩倉使節団から戻った木戸孝允は、教育・政体優先の立場から征韓論に反対し憲法制定へ動いたが、大久保利通と対立し台湾出兵に抗い下野、立憲を条件に参与に復帰すると立憲政体の詔書を発布し地方官会議を開いたが大久保の内務省に無効化され、病状が悪化した木戸は秩禄処分を機に大久保政府を去った。木戸孝允の予見通り特権を奪われた不平士族の反乱が続発し、西南戦争が起ると自ら鎮撫使を希望したが「西郷、もういい加減にせんか」の言葉を残し病没した。
- 大村益次郎(村田蔵六)は、木戸孝允の招聘で長州藩に出仕し適塾仕込みの洋式兵学と武器輸入で近代的軍隊を創建、浜田城制圧や上野彰義隊との戦争を指揮し維新後は徴兵制・近代的国軍建設を進めたが暴漢に襲われ横死した「日本陸軍の創始者」である。周防の村医の嫡子に生れた大村益次郎は、防府の梅田幽斎(シーボルトの弟子)に師事し豊後日田の咸宜園にも遊学、22歳で大坂の適塾に入門し長崎遊学を経て塾頭に就いたが、父の懇請で帰郷し村医を開業した。が、2年後のペリー来航で蘭学者の需要が急増し、無愛想の治療下手で評判の悪い大村益次郎は早々に医業を畳み宇和島藩に仕官、砲台建設や洋式軍艦製造を差配し、藩主伊達宗城に従い江戸へ出ると麹町に蘭学塾「鳩居堂」を開講、幕府に招聘され蕃書調所を経て最高学府の講武所教授に栄達した。一流洋式兵学者の名声を博した大村益次郎は、長州藩に軍制改革を託され藩政に参画(政務座役)、藩校明倫館や私塾「普門塾」で兵卒を熱血指導し「火吹き達磨」と渾名された。尊攘運動に関与せず俗論党からも重宝された大村益次郎は、禁門の変後も重職に留まり、高杉晋作が藩政を奪回すると但馬出石から木戸孝允を呼戻して指導者に迎え、正規軍と奇兵隊など諸隊を統合再編して軍事教練を施しミニエー銃・ゲベール銃を大量購入して長州藩軍を洋式軍隊へ変貌させた。第二次長州征討では山陰方面軍を指揮、新式兵器と巧みな用兵で浜田城を攻落し「その才知、鬼の如し」と評された。薩摩藩嫌いの大村益次郎は戊辰戦争出兵に反対し左遷されたが、すぐに上京を命じられ諸藩献上の御親兵を訓練し伏見に兵学寮を開設、江戸の治安回復を託されると兵員不足を危惧する薩摩藩士を一喝し西郷隆盛を説伏せて武力討伐を断行し上野彰義隊を殲滅した。大村益次郎は、明確なプランのもと近代的国軍建設に邁進、持論の徴兵制は兵制論争で退けられたが、軍政のトップ(兵部大輔)に就いて京都河東操練所・兵学寮の開設や軍事工場建設を進めたが兇漢に襲われ横死、「西国(薩摩)から敵が来るから四斤砲をたくさんこしらえろ」との遺言は8年後の西南戦争で的中した。靖国神社境内には今も大村益次郎の銅像が聳える。
- 周布政之助は、村田清風から受継いだ正義派の首領として俗論党や長井雅楽と戦い木戸孝允・高杉晋作・久坂玄瑞ら吉田松蔭門下生を支援した長州藩執政、禁門の変の暴発を抑えられず絶望し自殺した。周布氏は毛利家譜代の名門益田氏の庶流で、禁門の変で引責切腹した家老の益田弾正は本家筋である。中級藩士の家督を継いだ周布政之助は、藩政改革を成功させた村田清風を尊敬し政治少年を集めて「嚶鳴社」を結党、14歳で出仕すると村田の腹心となり藩校明倫館の拡充などで長州藩主毛利敬親の信任を得て19歳にして政務役に大抜擢されたが、村田の死を機に椋梨藤太ら俗論党との政争が激化した。尊皇攘夷論者の周布政之助は、ペリー来航に際して武備主戦論を建言して採用され、蟄居中の吉田松陰を庇護し門人に便宜を図った。安政の大獄で暫し逼塞したが、大老井伊直弼の暗殺で尊攘派が台頭、長州藩は長井雅楽の「航海遠略策」で公武合体運動に乗出したが、主導権奪回を図る周布政之助は木戸孝允・高杉晋作・久坂玄瑞と連携して藩論を「破約攘夷」へ転換し長井を切腹に追込んだ。門閥重臣ながら過激行動を辞さない周布政之助は久坂らにとって得難い後ろ盾であった。久坂玄瑞に引きずられた周布政之助は、外国船砲撃による攘夷決行(下関事件)、高杉晋作による奇兵隊創設と大村益次郎の洋式兵制改革、攘夷親征計画(大和行幸)へと長州藩を導いたが八月十八日政変が起り一夜にして瓦解した。「無実」を晴らすべく長州藩では世子毛利定広の上洛を決定し出兵論が沸騰、周布政之助は、藩首脳で唯一人反対を貫き木戸孝允・高杉晋作と共に鎮撫に奔走したが池田屋事件で決壊、周布が逼塞に処された翌日来島又兵衛率いる遊撃軍が周防三田尻から先発した。禁門の変に敗れた長州藩は朝敵とされ徳川慶喜が第一次長州征討を発動、便乗した四国連合艦隊が馬関海峡に来襲し(馬関戦争)風前の灯となった長州藩は三家老・四参謀の死刑と五卿の追放を呑んで降伏恭順、出兵に反対した周布政之助は無罪ながら心折れて自決した。が、間もなく高杉晋作が功山寺で挙兵し奇兵隊など諸隊を率いて正規軍を撃破し椋梨藤太ら俗論党を一掃して藩政を奪回した。
- 周布政之助は、村田清風から正義派を受継いだ尊攘思想家で、家柄家老ではないが長州藩主毛利敬親の信任を得て「破約攘夷」運動を主導、木戸孝允・高杉晋作・久坂玄瑞ら吉田松蔭門下生を藩政に登用し活躍を支えた功績は大きい。久坂・木戸の後見人として自ら前面に出て志士活動に奔走、長州藩の重臣である周布政之助の参加は他藩の志士に安心感を与え他藩主や重臣に「下級藩士や浪士が騒ぎたてているだけではない」と説得するうえで重要な役割を果した。ただし、周布政之助の主眼は尊攘運動というよりは椋梨藤太ら俗論党との藩内政争にあったと考えられ、過激な尊攘運動には一貫して反対の立場をとり抑止に努めた。老中間部詮勝要撃を企てた吉田松蔭を野山獄へ再投獄し、長井雅楽襲撃を主張する高杉晋作や久坂玄瑞を制止し、禁門事変後の世子毛利定広の上洛・出兵には木戸孝允・高杉晋作と共に断固として反対したが、自ら点けた火を消すことはできなかった。周布政之助は、酒乱癖があり度々舌禍事件を起したが、心が弱かったようである。禁門の変で長州藩が朝敵となり幕府が長州征討を発動すると心折れて自決、出兵に猛反対した周布は無罪で実際に幕府からの追及もなかったので動機は判然としない。功山寺決起で挽回を図った高杉晋作や、禁門事変の直前に行方を晦ました木戸孝允のような図太さが欲しかった。
- 農民出身の伊藤博文は、16歳のとき作事吟味役の来原良蔵が相模警備に赴く際に下働きとして召抱えられ、長崎出張にも随行した。来原良蔵は後に禁門の変で暴発する来島又兵衛の盟友で尊攘派同志の吉田松陰を伊藤に紹介、翌年伊藤は松下村塾に入門し立身出世の手掛りを掴んだ。少年期にまともな教育を受けていない伊藤博文は松下村塾の劣等生で、吉田松陰から「才劣り、学幼し」と酷評されたが、図太さと交際術で「利助(伊藤)もまた進む。なかなか周旋家となりそうなり」と評価を上げた。来原良蔵は伊藤博文を世に出すため義兄の木戸孝允を紹介、木戸は松蔭門下の伊藤を雇人とし藩の文武修行道場「有備館」に就学させ他藩同志との連絡係に使った。木戸孝允の江戸出向に随い志士グループの末席に連なった伊藤博文は、長州藩の外交官で運動資金が潤沢な木戸のオコボレに預り、不自由無い小遣いを与えられ品川遊廓で遊びも覚えた。手柄に飢えた伊藤博文は、長井雅楽暗殺の企てに名乗りを上げて久坂玄瑞・高杉晋作に認められ、神奈川外人襲撃計画およびイギリス公使館焼き討ちに加わり、和宮降嫁で尊攘派に睨まれた塙次郎を親友の山尾庸三と共に暗殺した。尊攘派の「正義党」が公武合体派の長井雅楽を自害させ長州藩の実権を握ると、一端の志士と認められた伊藤博文は「主人」木戸孝允の計いで一代限りながら士分に採り立てられ念願の武士身分を手に入れた。吉田松陰の処刑時に運良く江戸に居た伊藤博文は木戸孝允に従い小塚原刑場に赴いて遺骸を仮埋葬し、5年後の高杉晋作による世田谷若林への改葬にも参加(松蔭神社)、偉大な師匠を葬ったことで一層箔が付いた。
- 戊辰戦争を後方任務で終えた伊藤博文は、木戸孝允の推挙で明治政府に出仕し、英語力を買われて外国事務掛・外国事務局判事・兵庫県知事を歴任したが、賞典禄を与えず「いつまでも家人扱いする」木戸から離反、岩倉使節団で外遊中に大久保利通の腹心となり、帰国すると西郷隆盛ら征韓派の追放に奔走し明治六年政変で参議に採用された。なお山縣有朋は、山城屋事件の大恩人西郷隆盛と長州閥首領の木戸孝允の板挟みとなり鎮台巡視の名目で東京から脱出、保身は果したものの参議就任を見送られた。独裁政権で富国強兵・殖産興業を推進した大久保利通が暗殺されると、後継者の伊藤博文と大隈重信が政権を担ったが、開拓使官有物払下げ事件を機に薩摩閥と結んで大隈一派を追放し(明治十四年政変)伊藤が薩長藩閥政府の首班となった。薩長の「超然主義」の限界を悟った伊藤博文は、国会開設の詔で民権派との協調を図り、立憲制視察のため自ら渡欧、華族令で貴族院の土台を整え、1885年太政官制を廃して内閣を創設し初代総理大臣に就任、3年で薩摩閥の黒田清隆に首相を譲り憲法起草に専念し1889年大日本帝国憲法を制定、翌年公約どおり帝国議会開催に漕ぎ着けた。憲法で伊藤博文は三権分立を確保したものの、山縣有朋ら軍閥と妥協するため軍事権(統帥権)を天皇独裁としたため文民統治の機能が欠落、山縣と陸軍長州閥は軍部大臣現役武官制で倒閣力まで手に入れ軍国主義化に邁進した。二度目の組閣で伊藤博文は、アウトローの陸奥宗光を外相に抜擢し不平等条約改正に成功、国土防衛線の朝鮮を守るため日清戦争を敢行し勝利して下関条約を締結した。伊藤博文は第四次内閣を終えると政友会の西園寺公望に政権を託したが、朝鮮・満州への南下政策を露にするロシアに対し井上馨と共に融和策(日露協商・満韓交換)を提唱、山縣有朋直系の桂太郎首相が日露戦争に踏切ったが、金子堅太郎を通じてアメリカを講和斡旋に引張り出し国難を救った。朝鮮を保護国化すると伊藤博文は自ら初代韓国統監に就き穏健な民政を図るも抗日運動で挫折、伊藤はハルビン駅頭で朝鮮人に射殺され翌年陸軍長州閥は韓国併合を断行した。
- 井上馨は、幕末の志士時代から伊藤博文の大親友で、共に高杉晋作のクーデター「長州維新」を支え、伊藤と二人三脚で明治政界をリードした。名門出身の井上馨は長州藩庁に危険視された吉田松陰の松下村塾には加わらなかったが、木戸孝允・久坂玄瑞・高杉晋作ら尊攘派志士グループの一員となり、イギリス公使館焼き討ちにも加わった。井上馨と伊藤博文はイギリス留学へ派遣されたが、長州藩と西洋列強の関係悪化を知り急遽帰国、不戦工作に奔走するも馬関戦争を止められなかった。禁門の変後の第一次長州征討に際し井上馨は高杉晋作と共に徹底抗戦を唱え、佐幕恭順派の闇討ちに遭い全身を切り刻まれ瀕死の重傷を負ったが、奇跡的に蘇生すると功山寺で決起した高杉晋作・伊藤博文に合流し尊攘派の政権奪回に貢献した。維新後の井上馨は、九州鎮撫総督参謀・長崎製鉄所御用掛を経て、志士時代に金策が得意だった流れで参議兼大蔵大輔となり新政府の財政政策を主導したが、尾去沢銅山汚職事件で辞職に追込まれた。実業界へ転じた井上馨は、長州閥を背景に黎明期の財界で辣腕を振るい、三野村利左衛門・中上川彦次郎・益田孝ら三井財閥と癒着して西郷隆盛から「三井の番頭」と揶揄され、腹心の渋沢栄一、長州政商の久原房之助・鮎川義介・藤田伝三郎・大倉喜八郎、石坂泰三ら多くの財界人を支援し、貪官汚吏と批判されつつも死ぬまで財界に君臨した。口うるさい「維新の三傑」が相次いで没すると井上馨は伊藤博文の要請で政界に復帰し外務卿・外相として「鹿鳴館外交」を展開するも条約改正失敗で失脚、第三次伊藤内閣の蔵相を最後に政府から退いたが、長州閥元老として影響力を保持し伊藤の裏方として政治活動を支え続けた。日露開戦が迫ると、井上馨は伊藤博文と共に「満韓交換論」「日露協商」を推進し、戦時財政の総監督役として日銀副総裁の高橋是清を特使に抜擢し膨大な戦費調達を成功させた。伊藤博文暗殺後の井上馨は長州閥長老として政界調整に奔走、伊藤の後継者である西園寺公望・原敬らを盛立てつつ山縣有朋直系の桂太郎と縁戚を結び、第一次山本権兵衛内閣や第二次大隈重信内閣の成立を主導した。
- 伊藤博文と井上馨は長州藩の志士時代から行動を共にし親友関係は終生続いた。井上馨は220石取りの歴とした上士身分で「雷公」と渾名された癇癪持ちだが、気さくな人柄で農民出身の伊藤博文にも対等に接し「聞多(井上)」「利輔(伊藤)」と呼び合う間柄であった。井上馨の裏工作で伊藤博文もイギリス留学を許されたが、往きの船中で伊藤は下痢に悩まされ、井上は荒れる甲板から用を足す伊藤の体をロープで支え必死に励ました。西洋文明に圧倒された伊藤博文と井上馨は忽ち尊攘派から開国派へ転じ、高杉晋作の藩政奪回「長州維新」を支えた。長州藩主の毛利敬親は何故か癇癪持ちの井上馨を可愛がり意見をよく聴いたといい、馬関戦争の不戦講和・第一次長州征討の武備恭順(いずれも反対派に潰された)・薩長同盟など、敬親への献策役はいつも井上に託された。明治維新後の井上馨は、鹿鳴館外交をぶち上げるも不平等条約改正に失敗、財界へ転じると貪官汚吏の筆頭格となり西郷隆盛から「三井の番頭」と面罵されたが、伊藤博文は身を挺して井上を庇い続け、伊藤のお陰で政治的致命傷を免れた井上は元老のまま長州志士中最長寿を全うした。
- 山縣有朋は、伊藤博文と同じく長州藩での立身は望むべくもない農民同然の出自で、青年時代までは槍術師範が精一杯の夢だったが、吉田松陰の松下村塾に入門し木戸孝允・高杉晋作・久坂玄瑞ら正義党の末端に加わったことで大きく運が開けた。吉田松陰から「小助(山縣)の気・・・才というべし」「しかれども大識見、大才気のごとき、おそらくはまたここに在らず」と評された山縣有朋は武人を志し、久坂玄瑞の光明寺党に加わって馬関戦争で奮闘し、高杉晋作が創設した奇兵隊の幹部(軍監)となった。高杉晋作から奇兵隊総督(トップ)を譲られた河上弥市は生野の変で戦死し、後任の赤根武人は俗論党政府に懐柔され失脚(最期は刑死)、軍監の山縣有朋が幸運にも奇兵隊の実質上のトップに納まった。長州藩政よりも奇兵隊と保身が大事な山縣有朋は、高杉晋作の功山寺決起で日和見を決め込んだが、高杉が敗れれば奇兵隊ら諸隊の解散が確実な情勢となり長州藩正規軍の不意を衝いて参戦、大田・絵堂の戦いを勝利に導き藩政奪回の功労者となった。が、力士隊30人を率い功山寺決起から参戦した伊藤博文に対する負目は伊藤が没するまで拭えなかった。長州藩の軍権を担った大村益次郎は軍制改革と洋式軍備導入で近代的軍隊に改造し、奇兵隊など諸隊を組込んだ長州軍は第二次長州征討で幕府軍を撃退し戊辰戦争の主力として活躍、指揮官の山田顕義・前原一誠・山縣有朋は揃って賞典禄600石を賜った(大村は1500石)。が、維新の翌年に大村益次郎が暗殺され、次席の前原一誠兵部大輔は黒田清隆と衝突して下野し萩の乱で敗死、大村の愛弟子でフランス流市民軍を構想した山田顕義は一派と共に自滅し、長州軍人首領の座は山縣に転がり込んだ。さらに幸運は続き陸軍大将の西郷隆盛が明治六年政変で下野すると次席の山縣有朋中将が全陸軍のトップに浮上、篠原国幹・村田新八・桐野利秋らライバルの薩摩軍人は西南戦争で揃って戦死した。山縣有朋は桂太郎・児玉源太郎・寺内正毅・田中義一ら自派幕僚で陸軍中央を固め陸軍長州閥に君臨、文治派の伊藤博文と張り合いながら軍国主義政策と民権派弾圧を推進した。
- 長州藩では村田清風の藩政改革以来、保革対立が絶えなかった。「正義派」と称した革新系は、尊皇攘夷から後に討幕派へ発展した流れで、村田清風・周布政之助・木戸孝允が直系であり、藩主の毛利敬親と家老の浦靱負・益田弾正らが支持した。吉田松陰・松下村塾生と長井雅楽は共に正義派に属したが、幕府不要論者で草莽崛起を説く松陰は中央政局で公武合体を進める長井に猛反発しだ。正義派が「俗論党」と憎悪した保守系は、村田清風と政権を争った坪井九右衛門から椋梨藤太へ受継がれた派閥で、大組士など門閥世襲士族の大多数を支持基盤とし、徹底的なお家大事・幕藩体制擁護論を固持した。藩主毛利敬親の尊攘方針のもと最初は正義派が優勢、安政の大獄で俗論党が盛返すが桜田門外事変で正義派が復活し、「航海遠略策」と共に長井雅楽を葬った周布政之助・木戸孝允・久坂玄瑞が藩論を「破約尊攘」へ転換させたが八月十八日政変が起り一夜にして瓦解、池田屋事件で新撰組に吉田稔麿らを殺され激昂した過激尊攘派は坪井九右衛門を血祭りに挙げ京都へ攻込んだが禁門の変で大敗し長州藩は朝敵となった。久坂玄瑞・入江九一は戦死し木戸孝允は行方不明、絶望した周布政之助まで自殺するなか第一次長州征討と下関戦争が同時に勃発、高杉晋作は井上馨・伊藤博文を従え徹底抗戦を叫んだが長州藩は恭順の道を選び俗論党の天下となった。が、僅か90人を率い功山寺で挙兵した高杉晋作は奇兵隊など諸隊を引込んで長州藩正規軍を打倒(山縣有朋ら奇兵隊幹部は当初日和見)、椋梨藤太を殺して俗論党を殲滅し逃避行から戻った木戸孝允が執政に就任、薩長同盟を締結し、大村益次郎の洋式兵制改革で増強した長州藩軍は第二次長州征討で幕府軍を返討ちにした。死力を尽くして戦った高杉晋作は間もなく病没したが、岩倉具視と提携し朝廷を掌握した薩摩藩の西郷隆盛・大久保利通が戊辰戦争の火蓋を切り長州藩も出兵して討幕を成遂げた。正義派の吉田松陰と松下村塾四天王(高杉晋作・久坂玄瑞・吉田稔麿・入江九一)に長井雅楽・周布政之助、俗論党の坪井九右衛門・椋梨藤太まで悉く非業の死を遂げた壮絶な長州維新であった。
- 長州藩の長井雅楽は「航海遠略策」を著し、孝明天皇・朝廷を最上位に置きつつ実質的には幕府の開国政策を認め、朝幕双方の面子を保ち和解に持込もうという穏当な公武周旋案を唱えた。「現実の問題として、日本は武力的に条約破棄や鎖国は出来ない。開国に徹底することによって国富を増し、武力を強くし、世界に雄飛することを考えるべきである。されば、朝廷は幕府の開国条約を勅許さるべきであり、幕府はまた朝廷にたいして尊崇の実を示すべきである。かくて、公武合体の国論の統一が出来る」・・・長井の雄弁もあって公家、幕閣共に人気を得て長州公武合体派が一時政局をリードすることとなった。後の明治政府は長井案通りに動くのだが、当時の木戸孝允・高杉晋作・久坂玄瑞ら尊攘派長州藩士は幕府に主導権を留める行方に猛反対であった。長井雅楽暗殺の企ても起り、木戸孝允は強硬派の高杉晋作に外遊を勧め追払ったといわれる。長井雅楽の方は、天皇の御製も下賜され、江戸に下り老中安藤信正から公武周旋を依頼され、藩主毛利敬親の江戸参勤に際して幕府に公武周旋の建白書を提出した。ところが、坂下門外の変で公武合体を推進していた安藤が失脚すると藩内で尊攘派が優勢となり、航海遠略策は宙に浮いた。1863年、長井は尊攘派に責められ、責任をとって自害した。
- 薩摩藩の島津久光が勅使大原重徳を奉じて江戸へ入った直後、対抗心を燃やす長州藩は中津川で重臣会議を開き周布政之助・木戸孝允(謀主は久坂玄瑞)のリードで長井雅楽の航海遠略策を放棄し破約攘夷(幕府非難)の線で公武周旋する方針を決定した。幕府主導の公武合体運動から明確な朝主幕従へ、「開国して攘夷」から「攘夷して開国」への大転換であった。久坂玄瑞らは、朝廷に工作して将軍上洛と攘夷決行を迫る勅旨を獲得し、世子毛利定広を奉じて江戸へ下り幕府を督責した。久坂玄瑞の盟友である武市半平太も土佐藩兵を率いて随行した。長井は帰国を命じられた。周布政之助・木戸孝允・久坂玄瑞らは、直ちに朝廷に工作して将軍上洛と攘夷決行を迫る勅旨を獲得し、世子毛利定広を奉じて江戸へ下り幕府を督責した。久坂の盟友である武市半平太も土佐藩兵を率いて随行した。
- 将軍徳川家茂の上洛に際し、尊攘派浪士の清河八郎(出羽庄内藩領清川村の豪農出身)は幕府を唆し「浪士組」を創らせた。恩赦を餌に前科者まで掻き集めたため実態は愚連隊であり、江戸小石川伝通院を出発した234人は大半が浮浪者然で蓑ゴザの乞食姿もあり、紋付羽織姿は芹沢鴨一党のみで、講武所仕官に挫折した近藤勇は破れかぶれで「試衛館」の門人を率い加盟したのだという。清河八郎は浪士組を「勤皇兵」として朝廷に献じたのち江戸の尊攘運動に投入する腹だったが、佐幕家の芹沢鴨ら水戸派と近藤勇・土方歳三ら試衛館派は猛反対、京都に留まって「壬生浪士組」を称し豪商から強奪した金で自活生活に入った。一方、清河八郎の先導で江戸へ戻った浪士組は、幕府直轄の「新徴組」に改組され江戸市中取締の庄内藩へ預けられた。長州藩の奇兵隊と同じく庶民徴募の義勇兵は画期的であったが、清河八郎の策謀は完全に裏目に出て京都と江戸に強力な佐幕派浪士集団が発足、尊攘派にも見放された清河は麻布一ノ橋で幕府刺客の佐々木只三郎らに斬殺された。八月十八日の政変が起ると、京都守護職松平容保の会津藩に雇われた壬生浪士組は仙洞御所前・御所南門の警備で武威を示し、「新撰組」の隊名を授かり会津藩から報奨金と月俸制を獲得、芹沢鴨と近藤勇の両局長は大御番頭取の格式で月俸50両・副長の土方歳三は40両・沖田総司ら副長助勤が30両・平隊士が10両であった。当時、会津藩は京都守護職の重負担に喘ぎ国元では反対派の勢いが強く、高録なうえ死傷時保障も要する正規藩士の動員は避けたい状況にあって、戦意旺盛で使捨て可能・違法捜査も厭わない武装傭兵集団の存在は渡りに船であった。だが、幕臣部隊の「見廻組」と違い元来愚連隊で独立志向の強い新撰組は統制に馴染まず、手柄を求めて過激化し池田屋事件などで尊攘派志士と京都市民に恨まれ、長州藩から目の敵にされた松平容保は恭順も赦されず会津藩は武力討伐の対象とされた。
- 幕府が朝廷に攘夷決行を約束した1863年5月10日に久坂玄瑞の策動により長州藩は攘夷決行を断行、馬関海峡を封鎖し米仏蘭商船に無警告で砲撃を加えたが、米仏軍艦の艦砲射撃により猛烈な報復を受け長州藩の海軍と砲台は壊滅的打撃を蒙った。が、外国船退去後も長州藩は抵抗を続け、有利な条件で講和交渉を纏めた高杉晋作が兵員不足を補うため庶民から徴兵して奇兵隊など諸隊を創設し、下関の砲台を修復し対岸小倉藩領の一部を占拠して新たな砲台を築き馬関海峡封鎖を続行、翌年第一次長州征討に乗じた四国連合艦隊が来襲し馬関戦争が起った。一連の下関事件では、久坂玄瑞が大和行幸に参加すべく赤根武人・滝弥太郎・山縣有朋・河上弥市・入江九一・吉田稔麿ら松下村塾系志士を糾合し結成した光明寺党が獅子奮迅の活躍をみせた。
- 長州藩が下関戦争で西洋列強に惨敗した後、藩主毛利敬親より馬関の防御を一任された高杉晋作は窮余の策として庶民から兵員を募って奇兵隊を創設、洋式軍備で武装させた。下関事件で孤軍奮闘した久坂玄瑞率いる光明寺党から赤根武人・滝弥太郎・山縣有朋・河上弥市・入江九一・吉田稔麿ら多数の幹部が加わった。奇兵隊の創設後、農民・町人・漁師・猟師・神官・力士・僧侶など武士以外の様々な身分からなる義勇兵部隊が数多く結成され同年末には早くも総員750人を突破、奇兵隊を含め諸隊または遊撃隊と総称した。高杉晋作は奇兵隊を大組士(正規藩兵)の下に置くつもりであったが、諸隊は戦意旺盛なうえに大村益次郎の洋式軍備導入で強化され実戦で正規藩兵を圧倒、次第に独立の勢いを示し高杉のクーデターを援けることとなる。高杉晋作は奇兵隊創設者であることを生涯の誇りとし、自分の墓碑銘を「奇兵隊開闢総督」とするよう依頼した。
- 木戸孝允・久坂玄瑞・真木和泉・平野国臣・吉村寅太郎ら長州藩系尊攘派志士が三条実美ら公卿を動かし攘夷親征計画(大和行幸)を画策した。孝明天皇を大和へ移し諸藩に綸旨を下して勤皇の義軍を召集する企てで、東征して幕府を討つ密謀も含んでいた。先発隊として吉村寅太郎らが挙兵するが殲滅され(大和天誅組の変)、過激な攘夷運動を嫌う孝明天皇の決断による八月十八日の政変で大和行幸計画は頓挫、巻返しを図る平野国臣らの挙兵も失敗した(生野の変)。
- 徳川慶喜・会津藩主松平容保に薩摩藩が加担し、孝明天皇の支持を得て、得意の絶頂で大和行幸を画策した長州藩と尊攘派公家を武力クーデターにより京都から追放した(八月十八日の政変)。薩摩・会津藩兵が御所を囲むかなかで朝議が行われ、大和行幸の中止、長州藩主毛利敬親・定広父子と尊攘派公家の処罰等を決議した。堺町御門警備の任を解かれた長州藩士千余人は京都から追出され失脚した三条実美・三条西季知・四条隆謌・東久世通禧・壬生基修・錦小路頼徳・澤宣嘉の公卿7人を伴い長州へ下った(七卿落ち)。長州藩の久坂玄瑞・木戸孝允と土佐藩の武市半平太が主導した「破約攘夷」「草莽崛起」運動は、病的な外国人嫌いながら過激な攘夷運動を嫌う孝明天皇の叡慮と徳川慶喜・松平容保と薩摩藩の共同謀議により一夜にして瓦解し、勤皇藩を自認し朝廷の権威回復を志した長州藩は皮肉にも天皇に掣肘された。
- 徳川慶喜は、大老井伊直弼に14代将軍就任を阻まれたが島津久光の文久の改革で幕政を掌握、長州征討を強行するもまさかの完敗で薩摩藩は薩長同盟へ鞍替え、大政奉還で体制温存を図り辞官納地を拒否しながら土壇場で恭順へ転じた最後の将軍である。股肱の臣である松平容保・定敬兄弟と新撰組、小栗忠順ら抗戦派幕臣をあっさり見捨て、宗家・慶喜家・水戸家の徳川3家が最高位の公爵に叙され慶喜は徳川将軍中最高齢の77歳まで生延びた。水戸藩主徳川斉昭の七男で御三卿一橋家に入嗣した徳川慶喜は、一橋派の将軍候補に担がれたが安政の大獄で挫折した。が、薩摩藩の島津久光は、率兵江戸へ乗込み徳川慶喜を将軍後見職・松平春嶽を政治総裁職にねじ込み、八月十八日政変で「破約攘夷」の長州藩を締出し「参預会議」で公武合体を実現した。が、禁門の変で自信を深めた徳川慶喜が専横を強め参預会議は挫折、禁裏御守衛総督に就いて半独立の気勢を示し、松平容保・定敬を京都守護職・所司代に任じて京都を制圧(一会桑政権)、武力補強のため水戸天狗党を呼び寄せたが幕府が強硬策に出ると自ら追討軍に加わり捨て殺しにした。幕威発揚を期す徳川慶喜は長州征討を断行、長州藩は恭順し征長軍全権の西郷隆盛は宥和的措置で矛を収めたが、高杉晋作が長州藩政を奪回し再び幕府に挑戦した。徳川慶喜は直ちに長州再征を号令したが、薩摩藩の妨害で足止めされ薩長同盟が成立、6万の大軍ながら軍備に劣る幕府軍は高杉晋作・大村益次郎の洋式軍隊に完敗し大阪城の将軍徳川家茂も急死、小倉城陥落で慶喜は「長州大討入り」を撤回した。小栗忠順の日仏同盟構想(売国的条件による借款と軍事支援)に力を得た将軍徳川慶喜は、参預会議で長州藩赦免を拒否し薩摩藩は討幕を決意、「徳川家を盟主とする大名共和制」を期待し大政奉還するも辞官納地を強要された。大阪城の徳川慶喜は無視し諸外国に徳川政権継続を宣言したが、鳥羽伏見の敗報に接すると軍艦で江戸へ逃げ戻り上野寛永寺に謹慎、主戦派を追放し恭順派の勝海舟に全権を委ねた。徳川宗家を継いだ徳川家達は駿府70万石から公爵に叙され、徳川慶喜も公爵・貴族院議員に栄達した。
- 久坂玄瑞・木戸孝允と提携し長州藩の「破約攘夷」運動を朝廷で支えた三条実美・三条西季知・四条隆謌・東久世通禧・壬生基修・錦小路頼徳・澤宣嘉の公卿7人は、八月十八日政変で長州藩へ亡命し周防三田尻に留め置かれた(七卿落ち)。錦小路頼徳は翌年病没し、澤宣嘉は生野の変を起すも軍資金を盗んで敵前逃亡した。七卿のもとへは京都を追われた尊攘派浪士が参集、長州藩から宿舎「招賢閣」を提供された浪士群は、六時起床で皇居を礼拝し夕食まで文武講習という規則正しい生活を送りつつ活発に同志を招致し志士活動を展開、招賢閣は全国尊攘派の参謀本部の様相を呈した。招賢閣では真木和泉・宮部鼎蔵・中岡慎太郎・土方久元らが「会議員」を構成して指揮を執り、長州藩士の前原一誠と佐々木男也が世話掛を務めた。長州藩は招賢閣浪士を中核に脱藩浪士の混成部隊「忠勇隊」を創設し諸隊に組込んだ。忠勇隊は、禁門の変を扇動した首領の真木和泉が戦死し、後継の長谷川鉄之助(越後浪士)が脱退したため真木外記(和泉の弟)と中岡慎太郎が総督となったが、第一次長州征討の渦中に分解した。さて八月十八日政変が起ると、中岡慎太郎は、強硬に出兵上洛を主張し忠勇隊の有志を率いて来島又兵衛の「遊撃隊」に合流、禁門の変で戦闘に加わるも危うく難を逃れ、長州藩が幕府に恭順すると諸隊と共に五卿が移された下関長府の功山寺に参集、中岡率いる遊撃隊(浪士隊)60人は高杉晋作の功山寺挙兵の中核部隊となり(他に従ったのは伊藤博文の力士隊30人のみ)長州維新の立役者となった。中岡慎太郎は、薩摩系土佐浪士の坂本龍馬と連携して薩長同盟に奔走し、遅れて中央政局に乗出した土佐藩に招聘され板垣退助と西郷隆盛の「薩土密約」を斡旋、京都白川の土佐藩邸に浪士75人を集め陸援隊を結成し討幕戦に備えた。長州系の中岡慎太郎は土佐藩の後藤象二郎・坂本龍馬が主導した大政奉還に反対し討幕の刃を砥いだが、京都近江屋で見廻組に襲われ坂本と共に非業の死を遂げた。その後、山内容堂と後藤象二郎は幕府擁護に固執したが、中岡慎太郎を慕う板垣退助が独断で戊辰戦争に参戦、薩土密約を果した土佐藩は「薩長土肥」に滑り込んだ。
- 三条実美は、久坂玄瑞・武市半平太らに担がれ朝廷の「破約攘夷」を牽引した過激公卿、八月十八日政変で「七卿落ち」するが尊攘派志士の大義名分として長州藩の討幕運動を支え明治政府の最高位に栄達した。三条実美は、「五摂家」に次ぐ名門「清華家」の当主ながら過激で鳴らし尊攘派志士と結託、幕府のために和宮降嫁を強行した岩倉具視ら「四奸二嬪」を追放し、姉小路公知と共に京都朝廷を長州藩の破約攘夷一色に染めた。攘夷督促と親兵提供を命ずる勅使となり山内容堂と土佐藩兵を従え江戸幕府に乗込んだ三条実美は、一世一代の晴れ舞台に高揚し、勅使を将軍より上位に置くよう勅使待遇の儀礼改善を幕府に強制した。盟友の姉小路公知は暗殺されたが逆に尊攘派は勢いを増し、長州藩の攘夷決行(下関事件)、攘夷親征計画(大和行幸)と続いたが、徳川慶喜と薩摩藩が過激な攘夷行動を嫌う孝明天皇を抱込み八月十八日政変が勃発、三条実美ら七卿は長州へ亡命し在所の周防三田尻「招賢閣」には真木和泉・宮部鼎蔵・中岡慎太郎らが参集し全国尊攘派の参謀本部の様相を呈した。招賢閣浪士の扇動に乗った来島又兵衛らが池田屋事件に激発し率兵上洛を強行、禁門の変に敗れた長州藩は朝敵となり久坂玄瑞・真木和泉は戦死し木戸孝允は行方不明、徳川慶喜が第一次長州征討を起すと長州藩主毛利敬親は恭順を選んだ。火種である三条実美ら「五卿」は大宰府へ移されたが、高杉晋作・中岡慎太郎が功山寺で挙兵し奇兵隊ら諸隊を引込んで長州藩政を奪回、帰還した木戸孝允が指導者に座り、長州藩は第二次長州征討に大勝利を収め、薩長同盟は王政復古・戊辰戦争へと突進んだ。孝明天皇崩御に伴う大赦で赦免された三条実美は長州藩兵を従え京都に凱旋、「五卿応接掛」中岡慎太郎の仲介で薩摩系の岩倉具視と和解し、長州藩の旗印として岩倉と共に明治政府の最高位に就いた。三条実美は、岩倉使節団派遣に伴い「留守政府」で太政官最高位の太政大臣に就任、大久保利通政府でも地位を維持し薩長の利害調整に努めたが、第一次伊藤博文内閣の発足(太政官制の廃止と内閣制度の開始)で名誉職の内大臣に退き55歳で病没した。
- 久留米水天宮の神職から京都へ出た真木和泉は、尊攘派浪士の首魁にして幕末一のトラブルメーカーであった。有馬新七ら薩摩藩過激派と提携した真木和泉は寺田屋騒動に遭遇し一党28人と共に薩摩藩士に逮捕され、久留米藩へ引渡された。久留米藩では真木らの処遇を巡って対立が起り、佐幕派が優勢となって全員の死罪が決定されたが、同志の久坂玄瑞は学習院御用掛の立場を活かし朝廷から助命を促す勅諚を得て久留米藩主有馬頼成に働きかけ、無罪放免を勝取った。真木和泉らは、堂々と久留米藩を立去って京都へ戻り長州藩に属して大和行幸を共謀、八月十八日政変が起り七卿に随従して長州へ逃れると最も過激な出兵論者となり『出師三策』を諸卿に献策し尊攘派長州藩士を扇動した。真木和泉の京都制圧計画は希望的観測に基づく無謀な作戦であったが、来島又兵衛らが感化され、池田屋事件が起ると遂に長州藩は激発した。木戸孝允と周布政之助は出兵論だけでなく世子上洛にも猛反対し、高杉晋作は世子が上洛して大義名分を明らかにすることは士気の高揚に繋がると考え最初は賛成したが、無謀な出兵論が過熱するに従い世子上洛も否定へ転じた。一方、吉田松陰譲りの「草莽崛起論」を唱えて真木和泉ら他国志士を巻込み八月十八日政変まで京都政局をリードした久坂玄瑞は、率兵上洛して君側の奸を追払えば朝議を回復できるものと信じ終始賛成の立場を貫いた。
- 中岡慎太郎は、武市半平太の「土佐勤皇党」から長州藩尊攘派に合流し浪士群を率いて高杉晋作の功山寺挙兵や薩長同盟に大活躍、薩土密約と陸援隊で武力討幕に備えたが戊辰戦争直前に暗殺された幕末浪士随一の殊勲者である。遺志を継いだ板垣退助が独断参戦して薩土密約を果し土佐藩は「薩長土肥」に滑り込んだ。中岡慎太郎は、北川郷の大庄屋の嫡子ながら17歳で武市半平太の尊攘運動に身を投じ、長州藩の久坂玄瑞と共に「破約攘夷」を牽引する武市が山内容堂・豊範の江戸下向を実現させると、発奮した中岡は「五十人組」を率いて江戸へ突出、長州藩士との出会いを果し帰路は久坂に随行したが、間もなく八月十八日政変が起り破約攘夷運動は瓦解した。土佐へ戻った中岡慎太郎は「酔えば勤皇・覚めれば佐幕」の山内容堂を見限り脱藩、三条実美ら七卿の在す周防三田尻へ参じて真木和泉の「招賢閣」浪士に身を投じ、上洛出兵を扇動し来島又兵衛の遊撃隊に従い奮闘したが長州藩は大敗し真木・久坂らが戦死した(禁門の変)。中岡慎太郎は、京都に潜伏し高杉晋作から受継いだ島津久光襲撃の機を窺うも果たせず三田尻へ帰還、征長軍全権の西郷隆盛と協力し大宰府への「五卿遷座」を遂行した。そして高杉晋作の功山寺決起、応じたのは中岡慎太郎の遊撃隊60人と伊藤博文の力士隊30人のみであったが、解散を迫られた山縣有朋の奇兵隊など諸隊が参戦し長州藩軍を撃破、高杉は政権奪回を果し木戸孝允が執政に座った。徳川慶喜が第二次長州征討を号令すると長州藩では薩長和解が生存課題となり、中岡慎太郎は京都・鹿児島を奔走し西郷隆盛に木戸孝允との下関会談を了承させるも急遽取止め、中岡は坂本龍馬と共に憤慨する長州藩士を宥め再び上京して西郷を口説き、高杉晋作・井上馨が渋る木戸を上京させ薩長同盟が実現した。長州藩が四境戦争に勝利すると、慌てた土佐藩は中岡慎太郎と坂本龍馬を懐柔、後藤象二郎は坂本が勧めた大政奉還建白で面目を施した。武力討幕を志す中岡慎太郎は、西郷隆盛と板垣退助の薩土密約を斡旋し京都土佐藩邸に浪士を集め陸援隊を発足させたが、京都近江屋で見廻組に襲われ坂本と共に斬殺された。
- 近藤勇・土方歳三の新撰組が京都池田屋に参集する尊攘派志士を襲撃した(池田屋事件)。死亡7人(吉田稔麿・北添佶摩・宮部鼎蔵・大高又次郎・石川潤次郎・杉山松助・松田重助)・負傷4人(望月亀弥太は当日自決)・召捕り23人の受難者を出した尊攘派は壊滅的打撃を蒙り、憤激した長州過激派が暴発し禁門の変を起した。木戸孝允は池田屋へ出向いたが事件発生時にたまたま中座しており間一髪で難を逃れた。捕縛者は京都六角獄舎に繋がれたが、禁門の変の渦中に大半が幕吏に殺害された(生野の変で投獄された平野国臣も巻添えとなる)。続く禁門の変でも武威を示した新撰組は、朝廷・幕府・会津藩から感状を賜り合計で200両余りの賞金を与えられた。近藤勇・土方歳三は賞金を元手に隊士募集を行い組織を拡大、伊東甲子太郎一派も合流し新撰組は200人を超す大所帯となった。
- 八月十八日政変の巻返しを期す長州藩が池田屋事件を受け激発、藩主毛利敬親の冤罪雪辱と京都守護職松平容保らの排除を名目に京都へ攻込み、徳川慶喜(禁裏御守衛総督)の指揮のもと京都御所を守る会津・桑名藩兵と市街戦に及んだ(禁門の変または蛤御門の変)。西郷隆盛率いる薩摩藩兵が慶喜方で参戦し敗北した長州藩は久坂玄瑞・入江九一・来島又兵衛・真木和泉・平野国臣ら尊攘派中核メンバーを喪い(木戸孝允は逃亡失踪)朝敵に堕した長州系人士は京都から一掃され中央政局は徳川慶喜・会津藩・桑名藩の天下となった(一会桑政権)。この挙兵に際し木戸孝允・高杉晋作・周布政之助らは慎重論をとなえたが、真木和泉ら過激派浪士の扇動に乗った来島又兵衛・久坂玄瑞らの主戦論を抑えられなかった。戦闘は一日で終了したが、京都市外は「どんどん焼け」と呼ばれる大火に見舞われ3万戸の家屋や社寺が消亡した。この事件による長州人の薩摩・会津に対する怨念は深く(薩奸会賊)維新後も尾を引いた。
- イギリス留学の僅か半年後、『ロンドン・タイムズ』で四国連合艦隊の長州攻撃計画を知った井上馨と伊藤博文は、圧倒的な洋式軍備と戦う不利を悟り、長州藩に頑迷な攘夷論を捨てさせ開戦を阻止すべく大急ぎで帰国の途についた。山尾庸三・野村弥吉・遠藤謹助も帰国を望んだが「5人とも死んだのでは意味がない。居残って初志を貫徹してくれ」との言葉に従った。横浜に着いた井上馨と伊藤博文は直ちに英公使館に乗込み「長州藩主を説得して平和的解決を図るから実力行使をしばらく待ってもらいたい」と申入れ、熱意に打たれたオールコック公使は藩主説得のための親書を与え英軍艦を派して二人を豊後姫島まで送り届けた。過激な攘夷論が沸騰する長州藩で不戦を説くのは極めて危険であり、通訳のアーネスト・サトウは「十のうち六、七は殺される状況だった」と回想している。長州に戻った井上馨と伊藤博文は決死の覚悟で不戦を説き、藩主毛利敬親から慰労金を賜るも藩論を覆せず、かつての同志から命を狙われた。家老の清水清太郎から「木戸孝允を口説け」と言われた伊藤博文は京都へ発つが、禁門の変が起り木戸は行方不明、万策尽きて長州に引き返した。長州藩は海上封鎖を解かず四国連合艦隊の砲撃で惨敗したが(馬関戦争)、伊藤博文にとっては講和交渉で高杉晋作の通訳を務めたことで新たな道が開けた。開明的で現実的な高杉晋作に共鳴した伊藤博文は従者のように付随い、功山寺決起では力士隊30人を率い真先に参戦を表明、「長州維新の功労者」という華々しい志士歴は「維新の三傑」亡き後の明治政府では傑出しており政治力の重要な裏付となった。一方、運よく陸軍長州閥の首領に納まった山縣有朋は、自由民権運動や軍事国家建設の処方を巡りしばしば伊藤博文と争ったが、功山寺決起で日和見した汚点は拭い難く伊藤が没するまで大きな顔はできなかった。
- 馬関海峡の封鎖を実力で排除し攘夷に固執する長州を目覚めさせるべく、英仏蘭米四カ国の軍艦17隻が下関を攻撃、猛烈な艦砲射撃と陸兵2千人を投入して下関と彦島の砲台を破壊し占拠した。伊藤博文と井上馨は留学中のイギリスで四国連合艦隊による下関攻撃が近いことを知り開戦を止めるべく急ぎ帰国したが頑迷な過激攘夷派に阻まれた。かくして長州藩は馬関戦争に完敗し、亡命事件を起して謹慎中だった高杉晋作を急遽召還して講和交渉の全権に任じた(蘭学者の大村益次郎とイギリス帰りの伊藤博文が高杉を補佐)。連合国代表のキューバ提督は、下関海峡の自由通航と日用品購入を認めること、今後一切砲台を築かないこと、および賠償金300万ドルを要求した。交渉の争点は長州藩年収の十数倍にもなる賠償金の支払いであったが、高杉晋作は強硬な姿勢で臨み、外国船打払いは幕府の命令で行ったものであるとして戦争の責任を幕府に押付け、認めさせた。通訳として交渉に参加した伊藤博文は、この他に彦島の割譲を求められたが、高杉晋作が頑としてはねつけ、危うく難を免れたと述懐している。この後、幕府は、長州藩が勝手に諸外国に下関開港を認めることを恐れ、賠償金の支払いに応じた。
- 幕府軍艦奉行の勝海舟から「日本人同士の争いは西欧列強を利するのみ」と長州宥和を促された薩摩藩(征長軍大参謀)の西郷隆盛は、征長総督徳川慶勝に武力衝突を回避する穏当策を提言、慶勝は西郷を征長軍全権に任じ長州藩との折衝を委ねた。西郷隆盛は、岩国藩主吉川監物を通じて禁門の変で上京した国司信濃・益田弾正・福原越後の三家老切腹、四参謀斬首、三条実美ら五卿の追放を降伏条件として提示、長州藩主父子が謝罪文書を提出し恭順したため開戦は回避された(第一次長州征討)。これに対し、奇兵隊などの諸隊には不満を抱く者が多く、高杉晋作は即時挙兵を主張したが、俗論党に懐柔された奇兵隊総督赤根武人をはじめ諸隊の長官は応じなかった。徳川慶喜政権の後ろ盾であった薩摩藩は長州征討を機に幕府批判へ転じ薩長同盟・討幕へ突進んだが、西郷隆盛を長州宥和へ転換させた勝海舟の役割は非常に大きかった。西郷隆盛は大久保利通への書簡で「勝氏へ初めて面会し候ところ実に驚き入り候人物にて、どれだけ知略これあるやら知れぬ塩梅に見受け申し候」「英雄肌で、佐久間象山よりもより一層、有能であり、ひどく惚れ申し候」と評している。勝海舟は幕臣でありながら雄藩諸侯や尊攘派志士と広く交流、西郷隆盛が神と仰いだ島津斉彬とも懇意であり、開国の利と幕藩体制変革の必要性を説いて反幕府陣営に大きな影響を与えた。幕府首脳で軍艦奉行も務めた勝海舟の言葉は非常に重く、討幕を奨励するような言説は志士たちを大いに勇気づけたに違いない。この3年後に薩摩藩が戊辰戦争を引起すと、勝海舟は徳川慶喜を説いて絶対恭順を決意させ、幕府代表として西郷隆盛に会い江戸城無血開城を成遂げた。
- 高杉晋作・伊藤博文・井上馨ら正義派諸士は、誠意恭順を尽くして交渉にあたりつつも幕府征長軍が防長に攻込んできた場合は断固迎撃すべしとする武備恭順を主張したが、無条件降伏・武装解除も辞さないとする俗論党が優勢となり藩政から正義派を締出した。周布政之助は自決、高杉晋作は捕縛を間一髪で免れて脱走し筑前へ亡命、井上馨は俗論党士に闇討ちされて瀕死の重症を負うが九死に一生を得て蘇生した。伊藤博文は、不敵にも力士隊を山口から下関に連れ帰りたいと藩庁に願い出て許され、奇兵隊などの諸隊と共に長府の功山寺に入った。尊攘運動と距離を置いた大村益次郎は藩庁の重職に留まった。
- 奇兵隊などの諸隊は、長州藩庁による解散を免れるため、三条実美ら五卿を擁して長府に転陣し藩庁と交渉を続けた。奇兵隊総管赤根武人は俗論党に懐柔されて藩庁の政務座役に兼任され、山縣有朋や福田侠平らの幹部連中も赤根に引きずられて「正俗調和」の慎重論へ傾いた。高杉晋作は必死の説得を試みたが諸隊長の反応は鈍く、決起に応じたのは河瀬真孝・中岡慎太郎ら遊撃隊士(浪士軍)と伊藤博文・前原一誠らごく少数で、諸隊750人のうち従う兵力は遊撃隊60人と力士隊30人ばかりであった。しかし高杉晋作は、長府功山寺に在する五卿に「これより長州男児の肝っ玉をお目にかけます」と宣言し颯爽と兵を挙げ、三田尻で藩の軍艦3隻を奪い、東山寺に転陣して馬関割拠の体制を固め、遂に長州藩正規軍を破り長州回天を成功させた。伊藤博文は後に高杉晋作の墓所がある下関郊外清水山の「東行碑文」に「動けば雷電のごとく、発すれば風雨のごとし。衆目駭然としてあえて正視するものなし。これわが東行高杉君にあらずや。」と揮毫したが、功山寺の情景を眼前に現す名文である。功山寺には、三条実美ら七卿の御在所が現在も保存されており、境内には馬上挙兵に乗出す高杉晋作を映した見事な一鞭回天像があるが、傍らに「一将功成って万骨枯る」の碑が立つ。力士隊を率い決死の行軍に参じた伊藤博文は大功労者だが、肝心要の功山寺挙兵で日和見しながら位人臣を極め椿山荘やら無鄰菴やらを築いた山縣有朋への面当てのようでもある。実際、山縣の汚点となったに違いなく、伊藤の生存中はこれを憚り軍事に徹して政治に距離を置いたとされる。なお赤根武人は、高杉の反乱軍が優勢になると上方へ逃亡、幕府に捕縛されて走狗となり、第二次長州征討で大目付永井尚志の随員として長州入りし不戦を説いたが全く相手にされず、逆に捕らえられ1866年に山口で処刑された。
- 長州藩庁は反乱軍鎮圧のため正規藩兵の選鋒隊を差し向けた。高杉晋作の反乱が鎮圧されれば諸隊の解散も確実な情勢となり、奇兵隊の山縣有朋ら諸隊長はようやく重い腰を上げ高杉の檄文に応えた。諸隊は恭順を偽って絵堂の政府軍を不意撃ちで破り、慎重過ぎる山縣有朋の指揮で戦線は膠着したが、高杉晋作率いる遊撃隊が下関から合流し根拠地の赤村を急襲すると政府軍は総崩れとなった。高杉晋作は萩まで攻込む腹であったが、またも山縣有朋が慎重論を唱え已む無く休戦協定を結んだ。高杉晋作は藩庁から椋梨藤太ら俗論党幹部を一掃し正義派が政権を奪回した。長州維新の大立者である高杉晋作は、「艱難は共にできるが富貴は共にできない」と言って藩政に参加せず、禁門の変後に失踪中の木戸孝允を呼戻し指導者に据えた。高杉晋作は、念願の西欧視察を実行に移すべく藩庁の許可を得て1千両をもらい伊藤博文を伴い長崎へ赴いたが、グラバーから第二次長州征討が近いと聞き急ぎ長州へ戻った。なお、高杉晋作が藩庁から分捕った1千両は行方知れずとなり、高杉らが丸山遊廓で蕩尽したとも、別の藩費留学生の渡航費用に充てたともいわれる。
- 第二次長州征討を前に長州藩が生残る道は薩長同盟しかなかったが、政府首脳の木戸孝允は禁門の変の恨み「薩賊会奸」に感情を捕われ西郷隆盛が下関会談を反故にし面子を潰された一件を言い募り上洛を逡巡した。現実的な高杉晋作は「薩摩の芋が何を」と言いつつも藩論を薩長和解に纏め、長州藩主毛利敬親に受けの良い井上馨の奔走で藩命を取付け、高杉を代役に立てようとする木戸に対し「木戸さん1人が殺されても長州藩は問題ない」と突撥ね背中を押した。会津藩兵・新撰組が厳重に警護する京都に潜入した木戸孝允は、京都の小松帯刀邸で西郷隆盛・小松帯刀と会談し軍事同盟たる薩長同盟を締結した(攻守同盟だが第二次長州征討について薩摩藩は表面上中立を保ち後方支援に留める)。土佐浪士の坂本龍馬は薩摩方・中岡慎太郎は長州方として両藩の斡旋に奔走、薩長同盟の場に同席した坂本は木戸の要請で約定書に裏書した。浪人で薩摩方の坂本に担保力は無く、非命に散った武市半平太や吉村寅太郎に報いるためか、土佐藩の参加を含んだものと考えられる。実際この直後に土佐藩は、中岡慎太郎の斡旋で板垣退助・谷干城が薩土密約を、坂本龍馬の仲介で後藤象二郎が薩土同盟を結んでいる。薩土同盟は大政奉還と共に無視されたが、板垣退助は独断で戊辰戦争に賛成し薩土密約を果した土佐藩は「薩長土肥」の末座に滑り込んだ。中岡慎太郎は三条実美ら五卿の世話を焼くため大宰府に行っており会盟の場面に立会えなかったが、同志の福岡藩士早川勇曰く・・・「薩長和解は、坂本龍馬が仕遂げたというても過言でないが、私は内実の功労は中岡慎太郎が多いと思う。中岡は、高杉がまだ長州藩の内訌を回復せぬ前、四境には兵がかこんでおり、ことに遊撃隊に身をおいてその苦心は一方ならぬものがあった。坂本は私どもが五卿を迎えて国にかえった後に長州に来た人であるから、どれだけの功労があったか知らぬが、私は中岡の功労はよく知っている」。
- 徳川慶喜の策動により第二次長州征討が勃発し幕府軍は芸州口・石州口・大島口・小倉口から山口へ進軍したが(四境戦争)、山陽道を守る高杉晋作の軍艦奇襲により大島口から撃退され、山陰道では大村益次郎が浜田城を攻落し石州口を封鎖した。小倉口が決戦場となったが、作戦上の意見対立から熊本藩兵が戦線離脱し、大阪城に陣取る将軍徳川家茂の急死を知った小倉藩主・老中の小笠原長行は本営を抜け出し長崎へ逃走、孤立した小倉藩兵は自ら城に火を放ち小倉城は落城、長州藩の勝利が決定的となった。家茂から徳川家の家督を継いだ徳川慶喜は、自身の長州大討入りを宣言したが小倉城陥落を知り断念した。徳川慶喜から講和交渉を一任された勝海舟は、安芸厳島へ赴き長州藩代表の井上馨・広沢真臣と会談し止戦協定を結んだが、徳川慶喜は二面外交の策を弄し朝廷に工作して征長停止の停戦の勅命を得たうえ小栗忠順が推進するフランスとの同盟(売国的条件による借款と軍事支援)に飛付いた。決死の覚悟で敵地に乗込んだ勝海舟は激怒し辞職願いを叩き付けて江戸へ帰った。翌年長州藩は小倉藩とも講和し完勝で四境戦争を終結、武力政権たる徳川幕府の権威は地に落ちたが、面従腹背の徳川慶喜はフランスを頼りに巻返しを図った。戦勝の立役者である高杉晋作は、病身に鞭打ち最前線で戦闘指揮にあたったが肺結核の病状が悪化、小倉城陥落を見届けると遂に動けなくなり、井上馨や伊藤博文に「ここまでやったのだからこれからが大事じゃ、しっかりやってくれろ、しっかりやってくれろ」の言葉を遺し27歳の若さで病没した。山縣有朋は結核の感染を恐れ見舞いを避けたという。
- 朝廷は京都に近い兵庫の開港を拒絶し続けたが、徳川慶喜は異人嫌いの孝明天皇の死に乗じ公卿を説得して勅許を獲得、安政五カ国条約の障害を片付けた幕府は諸外国に面目を施し参預会議は将軍慶喜の独壇場となった。が、皮肉にも幕権回復を警戒する薩長首脳に討幕を決意させる結果を招いた。長州藩の木戸孝允は「家康の再来を見るがごとし。軍制も改革され幕府は衰運再び勃興する勢いにある」と慨嘆し、薩摩藩の島津久光は公武合体を完全に放棄し西郷隆盛・大久保利通の討幕方針を承認した。
- 松平春嶽・島津久光・山内容堂・伊達宗城(四候)と将軍徳川慶喜が二条城で参会したが、長州赦免先決を主張する四候と兵庫開港先決を主張する慶喜が対立し、結局慶喜が押切る形で長州赦免問題が曖昧なまま会議は終結した。山内容堂は真先に見切りをつけて早々に帰国の途につき、島津久光は大久保利通・西郷隆盛・小松帯刀に討幕方針への転換を了承し鹿児島へ退去、西郷らは岩倉具視を抱込んで朝廷を掌握し武力討幕へ邁進した。中岡慎太郎の盟友である小笠原唯八は山内容堂に随い土佐へ戻ったが、江戸で形勢を観望していた板垣退助が入れ替わるように上京し同志に加わった。
- 大酒呑みの山内容堂は「鯨海酔候」と自称し豪傑を気取ったが、アルコール中毒症が疑われ重度の歯槽膿漏も患っていた。そのためか、根気と集中力を欠き、体調不良を理由に重要な会議にも欠席しがちで、気に入らないと物事を投出す場面が多々あった。四候会議の根回しで高知を訪れた西郷隆盛は、山内容堂から上洛の承諾を得るも「酔えば勤皇・覚めれば佐幕」を懸念し、シラフの容堂が「此度は東山の土となるつもりぞ」と決意表明したことを福岡孝悌から聞いてから高知を去り伊達宗城を説くため宇和島へ向かった。大恩ある徳川家の運命を決した小御所会議(最初の三職会議)は山内容堂の一世一代の見せ場であったが、「鯨海酔候」はこの日も泥酔状態で遅参したうえ大声で喚き散らす醜態を演じ「2、3の公卿が幼沖の天子を擁し権威を恣にしようとしている」との失言(事実だが)を岩倉具視に叱責され沈黙、松平春嶽も徳川慶喜の出席要請を断念した。山内容堂は徳川慶喜が目論む「徳川宗家を中心とする列候会議」(徳川家を盟主とする大名共和制)を代弁したが無視され、西郷隆盛の「ただ、ひと匕首あるのみ」(慶喜1人を殺せば片付く簡単なことだ)という気迫が議場を制し、後藤象二郎は大久保利通に丸め込まれ、薩摩藩の思惑通り徳川慶喜の辞官納地が決議された。最初の難関を突破した西郷隆盛と大久保利通は武力討幕へ邁進、幕府を挑発して鳥羽伏見の戦いを引起し「朝敵」徳川慶喜を討つ大義名分を獲得した。
- 岩倉具視は、大久保利通の盟友として薩摩藩の朝廷工作を担い討幕の密勅・辞官納地を成功させた豪腕公卿、王政復古の大号令で朝廷から世襲制を排除し自ら太政官の最高位に就いたが公家優遇に固執し立憲制・自由民権運動に反対した。1851年から1994年まで流通した五百円札の肖像画にみるように岩倉具視は公家らしからぬイカツイ容貌で、幼少期は「岩吉」長じて「山賊の親分」などと形容されたが、見た目どおり豪傑肌で胆力があり、洛北岩倉村での蟄居時代には糊口を凌ぐため自宅を賭場として博徒に貸与したといわれる。和宮降嫁の首謀者として久坂玄瑞・武市半平太に打倒され5年間も隠遁したが、希少な硬骨公家を大久保利通は見逃さず、孝明天皇没後に薩摩藩の名代として朝廷に乗込んだ岩倉具視は偽勅批判を恐れず討幕の密勅を強行し、小御所会議で徳川慶喜の辞官納地を強行採決した。が、他に見るべき業績は無く、岩倉具視は政治理念よりも朝廷の発揚と自身の出世のために動いたようにみえる。少壮期より世襲公卿に反発した岩倉具視は、関白九条尚忠が推す条約勅許に異を唱え同類の軽輩公家を扇動して「八十八卿列参事件」を起したが、安政の大獄で佐幕へ転じ、井伊直弼暗殺に伴い公武合体派が盛返すと意を受けて和宮降嫁を推進したが、尊攘派の猛攻で失脚した。蟄居中に大久保利通と邂逅した岩倉具視は忽ち武力討幕論に迎合し、大政奉還が成ると王政復古の大号令に摂関と朝臣の世襲制排除を盛込み、三条実美と共に太政官の最上位に就き宿願を果した。なお、本心佐幕派の孝明天皇の崩御は討幕への一大転機で毒殺が噂されたが、真先に疑われたのは岩倉具視だった。新政府の重鎮となってからも岩倉具視は大久保利通を支える役割を果し、「岩倉使節団」から戻り明治六年政変が起ると西郷隆盛ら征韓派の追放に加担したが、秩禄処分で士族特権を奪いながら旧公家のみを優遇する政策が士族反乱に油を注ぎ、自由民権運動には決して妥協しなかった。反動勢力の首魁と化した岩倉具視が没すると、伊藤博文は華族令で旧武士層に幅広く爵位を振舞い、太政官制を廃止して内閣制度を発足させた。
- 徳川慶喜は、大政奉還で討幕の対象たる幕府を消滅させ、徳川氏は最大版図を領する大名共和制の盟主として実権を保持する目論みであった(或いは、江戸幕閣の無能を嫌い京都に留まり続けた徳川慶喜は、世襲制と幕藩体制の限界を悟り一代の大統領的地位を望んだのかも知れない)。が、徳川氏打倒による武力革命を決意する薩摩藩の大久保利通・西郷隆盛は、朝廷が幕府の大政奉還を勅許する直前に討幕の密勅を強行、宮廷工作は岩倉具視が担当したが正式の手続きを経ない偽勅であったとされる。これにより大政奉還は有名無実化、大久保利通・西郷隆盛は幕府を挑発して鳥羽伏見の戦いを引起し、晴れて「朝敵」慶喜追討の勅を得て戊辰戦争に引きずり込んだ。大政奉還を無視され辞官納地を迫られた徳川慶喜は、一度はこれを拒否し抵抗の姿勢を示したが、鳥羽伏見の敗報を聞くと松平容保・松平定敬を伴って密かに大阪城を脱出し江戸へ逃げ帰った。幕臣は恭順派と抗戦派の真二つに割れたが、徳川慶喜は絶対恭順に決し上野寛永寺に謹慎、薩長が目の敵にする松平容保・松平定敬や小栗忠順ら抗戦派の幕閣を江戸から追払い恭順派の勝海舟に全権を委ねた。近藤勇・土方歳三ら新撰組の残党も江戸へ来たが、勝海舟は勝ったら大名にしてやるなどと甘言を弄して甲州戦線へ追遣り、「甲陽鎮撫隊」は甲州勝沼の戦いで板垣退助の東山道軍に完敗、投降した近藤勇は斬首され、土方歳三は大鳥圭介の幕府陸軍に合流し会津へ向かった。松平容保は会津若松城に戻って官軍を迎え撃ち、松平定敬は越後柏崎を経て会津戦争・函館戦争と転戦した。西郷隆盛との会談で江戸城無血開城を果した勝海舟は、明治政府で旧幕臣としては異例の出世を遂げ外務大臣・海軍大臣相当職や参議・元老院議官・枢密顧問官を歴任し伯爵にも叙されたが、積極的な政治参加を控えたらしく具体的な業績はほとんど無い。一方、勝海舟は旧幕臣の保護活動には地位をフル活用して熱心に取組み余生を捧げた感がある。徳川宗家と徳川慶喜家への公爵授爵は勝海舟の尽力の賜物であり、旧幕臣には就職斡旋や資金援助に奔走し牧之原台地に茶畑を拓いて入植を推進した。
- 官軍が江戸へ迫ると、彰義隊と称する旧幕臣が輪王寺の宮を担いで上野寛永寺(徳川将軍家の霊所)に立篭もり一戦を辞さない構えをとった。が、徳川慶喜の恭順で大義名分を失うと主戦派の天野八郎(上野国の名主出身)らが撤兵を説く頭取の渋沢成一郎(一橋家家臣で渋沢栄一の従兄、こののち榎本武揚に従い箱館戦争に従軍)らを追出し大義無き賊軍と化した。坊主ながら首謀者の覚王院義観は諫止する勝海舟・山岡鉄舟を逆に挑発し江戸市中だけでなく諸藩に檄文を送って反官軍熱を煽り立て、彰義隊は博徒や無頼漢が大勢を占める暴徒集団と化し江戸中心部を無法地帯に陥れた。江戸城無血開城を果し徳川家への微温策を図る西郷隆盛(東海道軍筆頭参謀)は攻撃回避に努めたが、江戸府判事として京都から乗込んだ大村益次郎は黙々と兵器や軍用金を調達し戦争準備を終えると軍議で必勝策を開陳、兵員不足を理由に慎重論を説く有村俊斎(西郷の子分で横柄な態度が他藩人から憎まれた)を「君は戦を知らぬ」と侮辱し、西郷を説伏せ武力討伐に決した。かくして上野戦争が始まり、西郷隆盛率いる薩摩勢は主戦場の黒門口を攻撃、搦手口から後背を衝いた長州勢はぐずついたが江藤新平率いる佐賀藩のアームストロング砲が威力を発揮し諸藩の砲撃に晒された彰義隊は潰走し捕えられた天野八郎らは処刑、作戦用兵を一人で取仕切った大村益次郎の武名は天下に轟いた。なお、大村益次郎は翌年京都で兇漢に襲われ死亡したが、大村を憎悪する有村俊斎が扇動したという噂が立った。徳川家の守衛たらんと発足した彰義隊だが、官軍に大戦果を与えただけに終わり、西郷隆盛の奔走で100万石以上もらえるはずだった徳川家達(徳川慶喜の後継者)は封地を駿府70万石に減らされた。
- 長州藩の木戸孝允は、戊辰戦争の最中に早くも郡県制による中央集権制化を構想し三条実美・岩倉具視に版籍奉還の建白書を提出、このときは時期尚早として見送られたが、戊辰戦争の帰趨が定まり世が落着くと長州藩主毛利敬親に率先して版籍奉還するよう建言し承諾を得た。1869年、木戸孝允は薩摩藩の大久保利通・土佐藩の後藤象二郎と連携し薩長土肥の4藩主連署で朝廷に上表を提出させ、全藩主が追随して領地(版図)と領民(戸籍)を天皇へ返還した(版籍奉還)。この時点では旧藩主がそのまま知藩事に任じられ実質的変動はなかったが、1871年木戸孝允・大久保利通・西郷隆盛は薩長土三藩の兵を徴し御親兵を創設、幕府を倒した朝廷の権威と直轄軍の武力を背景に、藩を廃止して中央集権化し地方統治を中央管下の府県に一元化する廃藩置県を断行した。版籍奉還で知藩事へ横滑りした旧藩主は領国支配権を召上げられ原則東京在住を義務付けられたが、十分な身分と収入を補償され、表立った反対運動は起らなかった(薩摩藩の島津久光のみは鹿児島に引篭り生涯反抗姿勢を続けた)。「維新の三傑」の連携プレイで最初にして最大の難関をクリアした明治政府は、殖産興業と徴兵制導入で富国強兵に邁進、財政を圧迫する士族特権を秩禄処分で剥奪し、1877年西南戦争で西郷隆盛を斃し不平士族反乱を根絶、維新から僅か10年で近代的中央主権国家の礎を築いた。
- 廃藩置県の断行を目論む明治政府は独自の武力を必要としたが、国民皆兵・徴兵制の早期実施を目指し藩兵に依拠しない政府直属軍の創設を主張する大村益次郎・木戸孝允と、武士身分に固執する薩摩士族が鋭く対立(兵制論争)、大久保利通が士族擁護に傾き1871年薩長土3藩供出の士族兵による御親兵が創設された。西洋兵学の大家である大村益次郎は、諸藩兵の廃止と鎮台兵の設置、徴兵制の導入、兵学校による職業軍人の育成、兵器工場の建設といった近代的軍事国家へのプランを明確に描いていた。兵制論争に敗れた大村益次郎は、辞表を出したが木戸孝允に慰留され軍政のトップ(兵部大輔)に就き、愛弟子の山田顕義(兵部大丞)と共に京都河東操練所(士官訓練施設)など軍事施設の設置、兵学寮の開設とフランス人教官の招聘、火薬工場や造兵廠の建設などを着々と進めたが、急激な兵制改革に反発する長州士族に襲われ横死した。なお京都河東操練所には、後に陸軍長州閥を仕切る児玉源太郎や寺内正毅らが学んだ。さて、大村益次郎没後の1873年、山縣有朋が薩摩の西郷従道を引込み西郷隆盛を動かして徴兵制を実現した。維新の原動力であるうえ士族の数が断トツで多い薩摩が頑強に抵抗したが、徴兵令を支持する西郷隆盛が島津久光・桐野利秋・前原一誠ら反対派を抑えた。が、士族の特権剥奪は不平士族反乱の原因となり、西郷隆盛も西南戦争を起すはめになった。この後、兵部大輔の前原一誠は黒田清隆と衝突して辞め萩の乱を起し戦死、大村益次郎の遺志を継いだ山田顕義は軍を追われ政治家に転進、唯一の陸軍大将である西郷隆盛は西南戦争で落命し、運よく軍のトップに立った山縣有朋は大日本帝国憲法に統帥権を挿入して政府の干渉を受けない「天皇の軍隊」を構築、配下で陸軍を牛耳り陸軍長州閥は児玉源太郎・桂太郎・寺内正毅・田中義一へ受継がれた。山田顕義と与党の鳥尾小弥太・谷干城・三浦梧楼らは、フランスの国民軍に近いものを構想し、山縣流の外征を前提とした軍備拡張は国家財政の重荷となり国力を弱めると主張したが容れられなかった。
毛利敬親と同じ時代の人物
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維新
大久保 利通
1830年 〜 1878年
130点※
島津久光を篭絡して薩摩藩を動かし岩倉具視と結んで明治維新を達成、盟友の西郷隆盛も切捨てる非情さで内治優先・殖産興業・富国強兵の路線を敷き近代国家の礎を築いた日本史上最高の政治家
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維新
高杉 晋作
1839年 〜 1867年
110点※
吉田松陰の枠を超えた「防長割拠論」を実践し庶民軍の奇兵隊を創設して洋式軍備を拡充、功山寺挙兵で佐幕政権を覆し薩長同盟で背後を固め第二次長州征討の勝利で幕威を失墜させた長州維新の英雄
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維新
西郷 隆盛
1828年 〜 1877年
100点※
島津斉彬の懐刀として政治力・人脈を培い大人格者の威望をもって討幕を成遂げた薩摩藩の首魁、没落する薩摩士族に肩入れし盟友の大久保利通に西南戦争で討たれたが「大西郷」人気は今も健在
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