改革派の村田清風・周布政之助に長州藩政を託し木戸孝允・高杉晋作・久坂玄瑞ら吉田松陰門下生を後援して長州藩を尊攘・討幕運動へ投入、明治維新後は版籍奉還に率先応じた偉大なる「そうせい候」
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照維新
毛利 敬親
1819年 〜 1871年
90点※
家系・子孫
- 関ヶ原完敗で茫然自失の毛利輝元は、井伊直政らの口車に乗せられて大阪城を明渡し120万余石から防長36万石へ大減封、西軍総大将ながら不戦のまま敗れたうえ大封を騙し取られるという戦国史最悪の大失態を演じた。以来、長州藩士の徳川家に対する怨念は骨がらみで、毎年の新年拝賀の儀では家老が「今年は倒幕の機はいかに」と伺いを立てると藩主が「時期尚早」と答える習わしがあったとか、長州藩士はみな江戸へ足を向けて寝たという伝説もある。一方、毛利輝元の大失策と統率力不足(小早川隆景と吉川広家の裏切り)で領地を削られ家臣団の大リストラを余儀無くされた毛利氏は藩士への引け目を代々受継いだとも考えられ、幕末に至っても毛利敬親は「そうせい候」にならざるを得ず或いは幕府への復讐心を秘めていたかも知れない。さて幕末の長州藩では、10代藩主毛利斉熙が隠居し従弟の毛利斉元が11代藩主を継いだが早世、毛利斉広(斉熙の庶子)が12代藩主に就くも翌年無嗣没し、斉元嫡子の毛利敬親が斉広娘の都美子に入婿する形で13代藩主を承継した。なお、毛利斉元は、8代藩主毛利重就の六男親著の一子で、毛利一門八家に列した家柄家老の福原氏(毛利元就の生母の実家)に入嗣したが、毛利宗家に呼戻され毛利斉熙の養嗣子となった。なお福原氏は明治維新後に1万石大名並みの男爵に叙されている。さて毛利敬親は、一男三女を生したが全員夭逝、支藩徳山藩主の毛利広鎮の十男定広を世子に据えた。毛利定広(元徳)は、幕末長州藩の旗頭として活躍し敬親の隠居に伴い家督を相続、華族令施行に伴い最高位の公爵に叙され、議定、参与、貴族院勅撰議員を歴任、「華族銀行」と呼ばれた第十五国立銀行の頭取も勤めた。公爵を継いだ嫡子の毛利元昭は、尾張藩主徳川慶勝の八女富姫と離婚した後、三条実美の三女美佐子を娶って二男二女を生し、嫡子の毛利元道は初代の毛利季光から数えて30代目の当主となった(毛利元就は12代目)。毛利定広の八男は西園寺公望の娘を娶り公爵を継いだ西園寺八郎で、長子の西園寺公一はゾルゲ事件に関与し廃嫡された。
- 毛利氏の始祖は政所初代別当として鎌倉幕府の政治体制を築いた大江広元で、相模国愛甲郡毛利庄の所領を譲られた四男季光が毛利姓を名乗り、その孫時親の代に安芸国吉田に土着した。毛利弘元は、吉田郡山城主ながら国人(小領主)の一つに過ぎず、大内氏と尼子氏のいずれかに属さなければ家は存立できない苦境にあった。毛利元就は弘元の次男だが、嫡子興元の遺児幸松丸を後見して家を切り盛りしつつ、幸松丸の外祖父高橋興光を滅ぼして外堀を埋め、幸松丸が急死(謀殺説あり)すると尼子経久の介入を退け弟を殺して毛利家を継いだ。毛利元就は、盟友吉川家から妙玖を妻に迎え、隆元・元春・隆景の三兄弟を産ませた。嫡子毛利隆元は、尼子氏との手切れの際に大内義隆への人質として山口に送られ、男色家義隆の寵愛を得て大内シンパとなり、形式上毛利家当主を譲られたが若死にし、11歳の嫡子毛利輝元が家督を継いだ。月山富田城の戦いで備後竹原を領する小早川正平が戦死すると、毛利元就は援軍に駆け付けて尼子軍を退け、盲目の遺児又鶴丸を廃して三男隆景を養子に据え、元服を待って反対派を粛清し小早川家を乗っ取った。そして妙玖が亡くなると、里の吉川家の内紛に乗じて当主興経を強制隠居させ(後に殺害)次男元春を吉川家当主に据えた。この養子戦略で毛利氏は勢力を拡げたが、「毛利の両川」と讃えられた猛将吉川元春・智将小早川隆景に活躍の道を開いたことこそ重要であった。元就死後も勢力を保った「毛利の両川」が亡くなると、「戦国一の暗君」の呼び声も高い毛利輝元の独壇場となった。徳川家康に次ぐ領地を誇る毛利輝元は、石田光成に甘言で釣られて西軍総大将に担がれるも、関ヶ原合戦で毛利勢は支離滅裂、徳川方に通じた吉川広家に制されて毛利秀元(輝元養子)の大軍は戦闘に加わらず、小早川秀秋(豊臣秀吉養子→隆景養嗣子)の寝返りで東軍に勝利を献上した。合戦後、豊臣秀頼を擁して鉄壁の大阪城に籠る総大将の毛利輝元は、戦わずして城を明け渡した挙句、本領安堵の約束を反故にされ改易は免れたものの120万余石から防長36万石に大減封された。
- 西園寺家も生家の徳大寺家も左大臣まで出せる清華家(他に久我・三条など7家)で、摂関を出せる五摂家(近衛・九条・二条・一条・鷹司)に次ぐ上流公家の家柄であった。西園寺師季に男児が無かったため、徳大寺家次男の公望が入嗣した。西園寺公望の実兄で生家を継いだ徳大寺実則は、謹厳実直な性格で、生涯のほとんどを明治天皇の侍従長として過ごした。実弟には学校法人立命館理事の末弘威麿、住友財閥を継いだ住友友純(隆麿)がいる。西園寺公望は花柳界で大いに蕩尽したが、終生妻帯しなかった。パリ講和会議で首席全権を務めた西園寺公望は内妻の奥村花子を帯同し話題となった。他にも何人かの芸者あがりを内妻とし数人の庶子をもうけている。西園寺公望に嗣子は無く、公爵毛利元徳(最後の長州藩主)の八男八郎を庶娘の新の婿養子に迎え公爵を継がせた。西園寺八郎の長男西園寺公一は「ゾルゲ事件」に連座し国家機密漏洩罪で懲役1年6ヶ月(執行猶予2年)の判決を受けたため廃嫡され、第二次大戦後に八郎が没すると三男の西園寺不二男が家督を継いだ(公爵の襲爵手続きはせず)。西園寺不二男は、日産コンツェルン創業者の鮎川義介の娘春子を妻に迎え、日産興業社長などの名誉職を与えられた。
毛利敬親と同じ時代の人物
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維新
大久保 利通
1830年 〜 1878年
130点※
島津久光を篭絡して薩摩藩を動かし岩倉具視と結んで明治維新を達成、盟友の西郷隆盛も切捨てる非情さで内治優先・殖産興業・富国強兵の路線を敷き近代国家の礎を築いた日本史上最高の政治家
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維新
高杉 晋作
1839年 〜 1867年
110点※
吉田松陰の枠を超えた「防長割拠論」を実践し庶民軍の奇兵隊を創設して洋式軍備を拡充、功山寺挙兵で佐幕政権を覆し薩長同盟で背後を固め第二次長州征討の勝利で幕威を失墜させた長州維新の英雄
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維新
西郷 隆盛
1828年 〜 1877年
100点※
島津斉彬の懐刀として政治力・人脈を培い大人格者の威望をもって討幕を成遂げた薩摩藩の首魁、没落する薩摩士族に肩入れし盟友の大久保利通に西南戦争で討たれたが「大西郷」人気は今も健在
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