陸軍エリート幕僚を組織化した下克上の盟主で石原莞爾・武藤章・田中新一・東條英機らのリーダー、「国家総動員」へのレールを敷くが内輪揉めで斬殺された昭和史のキーマン
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照戦前
永田 鉄山
1884年 〜 1935年
80点※
家系・子孫
- 永田家は医者の家系で江戸にあったが、信濃諏訪藩4代藩主の諏訪忠虎の招聘で藩医となり知行2百石・十人扶持の中級藩士となった。幕末の永田志解理は養子で、実家の守矢家は諏訪上社の神官の末裔で医者を多く輩出したという。廃藩置県後、最先端の西洋医学を修めた永田志解理は郡立高島病院(諏訪赤十字病院の前身)の院長となり、前妻との間に三男一女・後妻との間に五子を生した。永田鉄山は後妻順子の第一子で誕生時に志解理は50歳、11歳のとき父が病没し遺産は長兄が蕩尽した。窮迫した一家は次兄の永田十寸穂(陸軍中尉、中佐で病没)を頼って上京し、永田鉄山は亡父の遺命に従って陸軍人を志し東京陸軍幼年学校(2番で卒業)・陸軍士官学校(主席卒業)へ進んだ。永田鉄山は、前妻文子(母方の従妹)・後妻重子(宮内官僚有川作次郎の娘)との間に各々一男一女(鉄城・松子・征外雄・昌子)を生し子煩悩で知られた。永田鉄山斬殺事件の3年後、上諏訪の高島公園内内に建つ諏訪招魂社(護国神社)に永田の胸像が建てられた。銅製の「永田鉄山中将像」は第二次大戦下の金属類回収令で供出され代わりにコンクリート像が置かれたが、戦後招魂社の土蔵から梱包状態で発見され元の位置へ復元された。嫡子の永田鉄城は足に大病を患い、軍人を諦め郵便局員となった。後妻の永田重子は遺産相続を遠慮し恩給停止で困窮、企業の熱海保養所の寮母をして糊口を凌ぐ不遇な余生を送ったが、息子の永田征外雄に一度だけ「お父さんが生きていれば、東條さんは押えられた」とこぼしたという。
永田鉄山と同じ時代の人物
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戦前
伊藤 博文
1841年 〜 1909年
100点※
高杉晋作の功山寺挙兵を支えた長州維新の功労者、大久保利通没後の明治政界を主導し内閣制度発足・大日本帝国憲法制定・帝国議会開設・不平等条約改正・日清戦争勝利を成遂げ国際協調と民権運動との融和を進めた大政治家
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戦前
渋沢 栄一
1840年 〜 1931年
100点※
徳川慶喜の家臣から欧州遊学を経て大蔵省で井上馨の腹心となり、第一国立銀行を拠点に500以上の会社設立に関わり「日本資本主義の父」と称された官僚出身財界人の最高峰
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戦前
豊田 喜一郎
1894年 〜 1952年
100点※
豊田佐吉の長男で共に画期的な動力織機を発明するが、繊維産業の凋落を見越し紡績から自動車への事業転換を敢行したトヨタグループ創業者
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