大蔵省傍流ゆえに公職追放を免れ吉田茂の「保守本流」を継いで首相に栄達、「寛容と忍耐」で安保問題を封印し従米外交を定着させたが「所得倍増計画」で高度経済成長を彩り貿易立国への道を拓いた「三等重役」の旗手
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照戦後
池田 勇人
1899年 〜 1965年
80点※
家系・子孫
- 池田勇人は広島県豊田郡吉名村(現竹原市)の素封家で酒造業を営む池田吾一郎の二男に生れ、地元の忠海中学校から一高・東大を目指したが学力不足で熊本の五高へ進み京大法学部へ進学した。ニッカウヰスキー創業者で「マッサン」(NHK連続テレビ小説)こと竹鶴政孝は、同じ竹原市の酒造業者(竹鶴酒造)の三男で忠海中学校の1年先輩、広島弁丸出しの交流は池田勇人が没するまで続いた。さて大蔵官僚となった池田勇人は、木戸孝允の腹心で参議も務めた広沢真臣の孫娘直子と結婚したが、間もなく難病に罹り新妻は看病疲れで早世してしまった。5年に及ぶ闘病生活のすえ快復した池田勇人は、直子に代わり看病してくれた遠縁の大貫満枝と再婚し三女をもうけた。先妻を偲び直子と名付けた長女は戦後のサラ金の走りで「金融王」といわれた近藤荒樹の長男近藤荒一郎に、三女の祥子はブリヂストン創業者石橋正二郎の甥石橋慶一に嫁がせた。男児の無い池田勇人は、大蔵省後輩の粟根行彦を二女紀子の婿養子に迎えた。粟根改め池田行彦は、池田勇人の地盤(広島5区)を継いで衆議院議員となり自民党要職・防衛庁長官・外務大臣を歴任した。竹下登が「日本一の殺戮的選挙区」と呼んだ広島5区の地盤は、池田行彦の没後、姪婿の寺田稔が受継いだ。
池田勇人と同じ時代の人物
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戦後
岸 信介
1896年 〜 1987年
100点※
戦前は満州国の統制経済を牽引し東條英機内閣の商工大臣も務めた「革新官僚」、米国要人に食込みCIAから資金援助を得つつ日米安保条約の不平等是正に挑んだ智謀抜群の「昭和の妖怪」
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戦後
重光 葵
1887年 〜 1957年
100点※
戦前は日中提携・欧州戦争不関与を訴え続け外相として降伏文書に調印、アメリカ=吉田茂政権に反抗しA級戦犯にされたが鳩山一郎内閣で外相に復帰し自主外交路線を敷いた「ラストサムライ」
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戦後
孫 正義
1957年 〜 年
100点※
在日商魂と米国式経営を融合し日本一の大富豪へ上り詰めた「ソフトバンク」創業者、M&Aと再投資を繰返す「時価総額経営」の天才はヤフー・アリババで巨利を博し日本テレコム・ボーダフォン・米国スプリントを次々買収し携帯キャリア世界3位に躍進
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