浅井長政・市(織田信長の妹)の長女で母と義父柴田勝家を滅ぼした豊臣秀吉の側室となり嫡子秀頼を出産、太閤の遺命を振りかざして徳川家康に楯突き豊臣家を破滅へ導いた戦国時代の幕引き役
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照戦国
浅井(淀殿) 茶々
1569年 〜 1615年
-20点※
家系・子孫
- 浅井氏は、藤原北家閑院流を称する近江の土豪(小谷城主)で北近江守護京極氏に仕えたが、京極騒乱で台頭した浅井亮政が浅見氏らを切従え京極高延を傀儡化して北近江を掌握、南近江守護の六角定頼に圧迫されたが越前の朝倉宗滴に助けられ領国支配を固めた。嫡子の浅井久政は軟弱で、家督相続に逆らう田屋明政(亮政の婿養子)が京極高延を担ぎ反乱、久政は六角義賢(定頼の嫡子)に臣従し越前朝倉氏に助勢を乞うて保身を図った。父の弱腰を見兼ねた嫡子の浅井長政と家臣団はクーデターで家督を奪い六角氏に手切れを通告、攻め寄せた六角軍を撃退し(野良田の戦い)、畿内へ浸出した織田信長と同盟を結び「近国無双の美人」と賞された市を娶って茶々・初・江の三姉妹を生し(信長は少年期に同母妹の市を犯したため「たわけ」と呼ばれたとも)、三好三人衆に通じて敵対する六角義賢を信長と共に滅ぼした。信長が朝倉義景を攻めると浅井長政・久政は反旗を翻したが、金ヶ崎の退き口で挟撃の好機を逃し姉川の戦いで大敗、信長包囲網を結成し抵抗するも近江領を守る豊臣秀吉・竹中半兵衛を攻め破れず、頼みの武田信玄が急死すると直ちに小谷城を攻められ越前一乗谷城の朝倉氏諸共に滅ぼされた。浅井の男系は絶たれ市は再嫁した柴田勝家に殉じたが、女児は数奇な運命を辿った。茶々(淀殿)は、柴田勝家・市を滅ぼし伯父織田信長の天下を奪った豊臣秀吉の側室となり嫡子豊臣秀頼を産んで事実上の当主となったが、無謀にも徳川家康に挑戦し秀頼と豊臣家を破滅へ導いた。初は信長・秀吉に拾われた京極高次に嫁ぎ、江は徳川秀忠(家康の後嗣)に入輿して3代将軍家光を産み、庶女のくすは松の丸殿の侍女・刑部卿局は千姫の乳母で淀殿の側近となった。なお京極高次は、高延の弟高吉の子で人質として信長に仕え、秀吉側室の松の丸殿(妹)・淀殿(従妹)の七光りで出世した「蛍大名」の分際で関ヶ原で東軍に属し若狭小浜藩9万2千石に大出世、嫡子京極忠高は初姫(秀忠の四女)を娶り松江藩26万4千石へ躍進したが無嗣没により讃岐丸亀藩6万石へ減転封となった。淀殿は生家浅井氏の旧主である京極氏出身の松の丸殿を敵視し側室筆頭を争った。
- 織田信長に仕える前の豊臣秀吉の事跡は不明だが、本人も語れないほど悲惨な少年期であったと考えられ、少なくとも百姓の子に日吉丸の名はありえない。尾張国中村の出自で、当時賤視された焙烙売り一家の出とも、織田家の足軽から帰農した木下弥右衛門の子ともいうが、木下は妻ねねの実家の姓であり、秀吉は入婿して木下藤吉郎を名乗ったとする方が信憑性が高い。口減らしのために家を出て放浪生活を送り、行商や盗賊働きもしたであろうが、今川家臣の松下之綱に最初の武家奉公をした話は後に家臣に迎え大名にしたことから事実と考えられる。秀吉の弟豊臣秀長は良き副将だっがた惜しくも早世、徳川家康懐柔のため生母なか(大政所)は人質に送り、中年の妹あさひ(朝日姫)は前夫と引離して入輿させた。「糟糠の妻」の代名詞ねね(北政所)は、加藤清正・福島正則・黒田長政らに敬慕されて反淀殿・石田三成陣営の精神的支柱となり、秀吉没後は徳川家康に誼を通じて実兄の木下家定(足守藩及び日出藩)と養家の浅野長政(広島藩)の三大名家を残した。木下家定の五男小早川秀秋は、秀吉の養子から小早川隆景の養嗣子となり、関ヶ原合戦の寝返りで徳川を勝利に導いて宇喜多秀家旧領の備前岡山55万石に加転封されたが、僅か2年後に狂死し無嗣断絶で改易された。女好きの豊臣秀吉は手当たり次第に励むも体質のせいか後嗣に恵まれず、やっと出来た男児2人は夭逝した。が、浅井長政・市(信長の妹)の長女茶々(淀殿)が鶴松を産み、これも夭逝したが続けて秀頼を出産、57歳にして待望の跡取りを授かった(父親は別人の疑いが濃厚、厳重警護下の不倫は困難であり秀吉が仕組んだ可能性が高い)。耄碌した秀吉は、文禄の役で養子の秀勝(徳川秀忠の正室江の前夫)を戦死させ、家督と関白を譲った秀次を眷属諸共無残に殺害(ともに姉日秀の子)、愛児秀頼の後見を家臣団に哀願して世を去った。豊臣秀頼は、徳川家康の娘千姫を妻に迎え立派に成人したが、大坂夏の陣で嫡子国松と共に滅ぼされた。助命された娘は縁切り寺で有名な天秀尼となり、ほかに求厭上人が秀頼遺児を自称したが、いずれも仏門で秀吉の血脈は途絶えた。
- 織田氏は室町幕府三管領の斯波家(他は細川・畠山)の尾張守護代を世襲した名家だが、信長の家はその末流に過ぎない。尾張守護代の織田家には二流あって、一家は尾張の上四郡を治めて岩倉城に居城し、一家は下四郡を治め斯波氏の当主を守護して清洲に居城した。下織田家(織田大和守家)に織田姓を名乗る3奉行があり、信長の家はその一家に過ぎなかったが、武勇に優れた織田信秀が台頭し尾張の旗頭的地位に成り上がった。信秀は盛んに美濃を攻めたが、斎藤道三に撃退され和睦して娘の帰蝶を信長の妻に迎えた。信秀の死後嫡子織田信長が家督を継いだが、うつけと呼ばれた不良児で家臣は承服せず、守護代織田家も反逆して尾張は内戦状態となった。傅役平手政秀の諌死を乗越え、織田信長は剛腕と粘りを発揮し、主筋の下織田家信友を滅ぼし、再三謀反した弟の織田信行を殺し、上織田家信賢と守護斯波義銀を破って尾張国を平定、続く天下統一戦では兄弟の信広・信興・秀成を含む多くの織田一族を喪った。そして本能寺の変、嫡子信忠が共に討たれ、凡庸な次男信雄と三男信孝に豊臣秀吉の織田家簒奪を防ぐ力はなく、信孝は柴田勝家について滅ぼされ、清洲会議で秀吉に担がれ織田家を継いだ信忠の嫡子秀信(三法師)は関ヶ原合戦で西軍に属し改易された。織田信雄は、徳川家康と組んで秀吉に逆らうも早々に軍門に下り(小牧・長久手の戦い)尾張国を保ったが、小田原征伐後家康旧領への転封命令を愚かにも拒絶し改易された。剃髪入道したが家康の斡旋で赦免され、秀吉の御伽衆に加えられ、豊臣氏滅亡後徳川家への忠節が認められ大和・上野に5万石を与えられた。信雄の裔は出羽天童藩と丹波柏原藩の小大名二家として残った。他の信長の子では、七男信高と九男信貞が高家旗本に列している。信長の弟では、織田信包が秀吉の御伽衆を経て初代柏原藩主となるが、孫の代に後嗣が絶え信雄流に承継された。茶人で名高い織田長益(有楽斎)は、徳川幕府から大和・摂津に3万石を与えられ、裔は芝村藩と柳本藩の小大名二家となり幕末まで存続した。
- 柴田家は、尾張守護斯波氏の庶流で尾張愛知郡上社を所領した土豪である。織田信秀に出仕した柴田勝家は信長の家督相続時に既に重鎮であったから相当の名家のはずだが、何故か父親は不詳で勝家自身の妻子の存否も定かでない。養子に柴田勝豊(姉の子)・勝敏(妹の子)・勝政(佐久間盛次三男)をもらっているから、成人した男児は無かったかも知れない。柴田勝豊は、清洲会議で勝家の所領となった近江長浜城の守将を任されたが、豊臣秀吉の調略を受けて長浜城ごと寝返り、賤ヶ岳合戦の直前に京都東福寺で病死(?)した。寝返りの原因は勝家に寵遇された勝政への嫉妬というから愚か、その勝政と勝敏も賤ヶ岳合戦後に滅ぼされた。柴田勝家よりも、清洲会議後に後妻にもらった信長の妹お市が有名だろうか。輿入れ翌年に起った賤ヶ岳合戦で市は勝家に殉じたが、浅井長政胤の連れ子三姉妹は秀吉に降って助命され歴史に名を刻んだ。秀吉に身を献じて後嗣秀頼を産んだ茶々は、淀城をもらって女大名「淀殿」となり、秀吉没後の大阪城に君臨したが、徳川家康の世となっても亡き太閤の威光にすがりつき豊臣家を破滅に追い遣った。初は京極高次正室、江は徳川秀忠正室となり三代将軍家光を産んだ。柴田勝家は、織田家譜代仲間の佐久間信盛・盛次兄弟と深い縁を結び、特に盛次嫡子で鬼玄蕃と称された猛将佐久間盛政を重用して前田利家と並ぶ両翼と頼んだが、賤ヶ岳合戦では盛政が命令に背いて敵を深追いし敗死したことが勝家滅亡の導火線となった。なお、盛次次男の佐久間安政は信濃飯山藩主(3万石)、四男の佐久間勝之は佐々成政の婿養子から復姓して信濃長沼藩主(1万8千石)に出世した。
浅井(淀殿)茶々と同じ時代の人物
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戦国
織田 信長
1534年 〜 1582年
140点※
中世的慣習を徹底破壊して合理化革命を起し新兵器鉄砲を駆使して並居る強豪を打倒した戦国争覇の主人公ながら、天下統一を目前に明智光秀謀反で落命し家臣の豊臣秀吉・徳川家康に手柄を奪われた悲劇の英雄
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戦国
毛利 元就
1497年 〜 1571年
100点※
安芸の小領主の次男坊から権謀術数で勢力を拡大、息子の吉川元春・小早川隆景を両翼と頼み、厳島の戦いで陶晴賢を討って大内家の身代を奪取、月山富田城の尼子氏も下して安芸・備後・周防・長門・石見・出雲・隠岐・伯耆・因幡・備中を制覇した戦国随一の智将
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戦国
徳川 家康
1542年 〜 1616年
100点※
旧主今川義元を討った織田信長と同盟して覇業の一翼を担い、豊臣秀吉没後秀頼を滅ぼして天下を奪取、信長の実力主義・中央独裁を捨て世襲身分制で群雄割拠を凍結し265年も時間を止めた徳川幕府の創設者
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