山縣有朋の子分となり内務官僚・司法大臣として忠勤に励んだ後、楔として貴族院に送込まれ親山縣・反政党の牙城を築いた出世人
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照戦前
清浦 奎吾
1850年 〜 1942年
30点※
清浦奎吾と関連人物のエピソード
- 広瀬淡窓が天領の豊後日田に開いた咸宜園は、身分性別を問わず入門を認め1805年から1887年の閉鎖までに4800人が学んだ日本最大級の私塾で、門下から高野長英・大村益次郎・清浦奎吾などを輩出した。広瀬自身は儒学者・漢詩人であったが、数学・天文学・医学などの講義も行った。藩校は諸藩にあったが庶民の教育機関は村の寺子屋しかなく高等教育機関は画期的であった。
- 陸軍長州閥を築いた山縣有朋は政治に乗出し、松下村塾同窓で国際協調と自由民権運動との融和を図る伊藤博文と妥協しつつも、一貫して軍国主義化・文民統治排除と政党弾圧を推し進め、特に自身の内閣では教育勅語・地租増徴・文官任用令改定・治安警察法・軍部大臣現役武官制・北清事変介入等の重要政策を次々に断行、伊藤の暗殺死に伴い遂に最高実力者に上り詰めた。山縣有朋と陸軍長州閥の法整備を担った清浦奎吾は司法官僚から司法相に栄進し、貴族院に送込まれて親藩閥勢力を扶植し念願の首相職を与えられた。1912年、陸軍が軍部大臣現役武官制を楯に第二次西園寺公望内閣を倒すと余りの難局に後継首相の引受け手が無かったが、伊藤の死で傀儡不要となった山縣有朋は首相復帰への意欲を示し、桂太郎を上りポストの内大臣に押込んだうえで「自分か桂かどちらか決めてもらいたい」と元老会議に迫った。が、賢明な元老会議は慣例を破って桂太郎に第三次内閣の大命を下し、桂からは「これからは、あれこれご指示をくださらなくても結構です。大命を奉じたからには、自分一個の責任でやりますから、閣下はどうかご静養なさいますように」と冷や水を浴びせられる始末だった。山縣有朋は元老筆頭として影響力を保持し、死の前年の宮中某重大事件で権威が低下したものの、栄耀栄華に包まれたまま84歳で大往生、伊藤博文・山田顕義・板垣退助・大隈重信ら政敵の誰よりも長生きした。山縣有朋は伊藤博文と同じく国葬で送られたが、大隈重信の「国民葬」が空前の参列者で賑わったのと対照的に人出の少ない寂しい葬儀であった。明治維新後1年で暗殺死した大村益次郎は「日本陸軍の創始者」と崇敬され今も靖国神社の一等地に銅像がそびえ立ち、国会議事堂では伊藤博文・板垣退助・大隈重信の銅像が憲政の発展を見守るが、1922年まで生きて幾多の軍事政策を行い位人臣を極めた山縣有朋に対する後世の評価は非常に低い。
- シーメンス事件で護憲運動が再燃し第一次山本権兵衛内閣が退陣に追込まれると、好んで火中の栗を拾う者は無く後継首相選びは難航した。薩長藩閥外からの人選を迫られた元老会議は、徳川家達(公爵徳川宗家当主)を推挙するが断られ、山縣有朋の子分ながら陸軍長州閥に属さない清浦奎吾に組閣の大命を下した。が、加藤友三郎・斎藤実らの「八八艦隊」建造予算復活要求を拒否された海軍が海相推薦を拒んだため、清浦奎吾の悲願達成は不発に終わり、鰻の香りだけ嗅がされお預けを喰らった「鰻香内閣」と揶揄された。窮した井上馨は隠退した大隈重信を担出し反対する山縣有朋・松方正義を「反政府と護憲の大火事を消すには、早稲田のポンプを使うしかない」と説得、未練満々の大隈は誘いに飛付き第二次大隈内閣が成立した。薩長藩閥の傀儡に堕した大隈重信首相は、衆議院解散により政友会議員を半減させて井上馨の期待に応え、二個師団増設を断行して山縣を満足させ、第一次世界大戦が起ると勇躍参戦し加藤高明外相と共に「対華21カ条要求」を仕出かした。
- 三浦梧楼の斡旋で加藤高明(憲政会)・高橋是清(政友会)・犬養毅(革新倶楽部)が三浦邸に会し「護憲三派」が大同団結して清浦奎吾の「超然主義内閣」を打倒し政党内閣復活を期すことを盟約、第15回衆議院総選挙の護憲三派圧勝で清浦内閣は総辞職に追込まれ、第一党憲政会の加藤高明に組閣の大命が下された。政友会と並ぶ二大政党に発展した憲政会の加藤高明は桂太郎から同志会を継いで以来首相指名を待ち侘びたが、キングメーカーの西園寺公望に敬遠され、漸く巡って来た高橋是清内閣退陣後のチャンスも政友会に潰されており(加藤友三郎内閣が発足)、「苦節十年」宿敵政友会と結んでまでの悲願達成であった。が、政権目当ての寄集めに過ぎない護憲三派体制は間もなく内部崩壊し憲政会の単独内閣となって不安定化した。組閣2年後、加藤高明首相は帝国議会の壇上で答弁中に倒れ、外相の幣原喜重郎(岩崎弥太郎の相婿)に抱えられ議場から退出、僅か一週間後に病没した。「憲政の常道」に従い与党憲政会を継いだ若槻禮次郞が組閣、以後も政友会との泥仕合は続き田中義一・濱口雄幸・第二次若槻・犬養毅と政権交代を繰返したが五・一五事件で政党内閣は終焉を迎えた。
- [戦前史の概観]西南戦争で西郷隆盛が戦死し渦中に木戸孝允が病死、富国強兵・殖産興業を推進した大久保利通の暗殺で「維新の三傑」が全滅すると、明治十四年政変で大隈重信一派が追放され薩長藩閥政府が出現した。首班の伊藤博文は板垣退助ら非薩長・民権派との融和を図り内閣制度・大日本帝国憲法・帝国議会を創設、外交では日清戦争に勝利しつつ国際協調を貫いたが、国防上不可避の日清・日露戦争を通じて軍部が強勢となり山縣有朋の陸軍長州閥が台頭、桂太郎・寺内正毅・田中義一政権は軍拡を推進し台湾・朝鮮に軍政を敷いた。とはいえ、伊藤博文・山縣有朋・井上馨・桂太郎(長州閥)・西郷従道・大山巌・黒田清隆・松方正義(薩摩閥)・西園寺公望(公家)の元老会議が調整機能を果し、伊藤の政友会や大隈重信系政党も有力だった。が、山縣有朋の死を境に陸軍中堅幕僚が蠢動、長州閥打倒で結束した永田鉄山・小畑敏四郎・東條英機ら「一夕会」が田中義一・宇垣一成から陸軍を乗取り「中国一激論」と「国家総動員体制」を推進、石原莞爾の満州事変で傀儡国家を樹立し、石原の不拡大論を退けた武藤章が日中戦争を主導、最後は対米強硬の田中新一が米中二正面作戦の愚を犯した。一方の海軍は、海軍創始者の山本権兵衛がシーメンス事件で退いた後、「統帥権干犯」を機に東郷平八郎元帥・伏見宮博恭王の二大長老を担いだ加藤寛治・末次信正ら反米軍拡派(艦隊派)が主流となり、国際協調を説く知米派の加藤友三郎・米内光政・山本五十六・井上成美らを退けた。「最後の元老」西園寺公望ら天皇側近は右傾化の抑止に努めたが、五・一五事件、二・二六事件と続く軍部のテロで(鈴木貫太郎を除き)腰砕けとなり、木戸孝一に至っては主戦派の東條英機を首相に指名した。党派対立に明け暮れ軍部とも結託した政党政治は、原敬暗殺、濱口雄幸襲撃を経て五・一五事件で命脈を絶たれ、大政翼賛会に吸収された。そして「亡国の宰相」近衛文麿が登場、軍部さえ逡巡するなかマスコミと世論に迎合して日中戦争を引起し、泥沼に嵌って国家総動員法・大政翼賛会で軍国主義化を完成、日独伊三国同盟・南部仏印進駐を断行し亡国の対米開戦へ引きずり込まれた。
清浦奎吾と同じ時代の人物
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戦前
伊藤 博文
1841年 〜 1909年
100点※
高杉晋作の功山寺挙兵を支えた長州維新の功労者、大久保利通没後の明治政界を主導し内閣制度発足・大日本帝国憲法制定・帝国議会開設・不平等条約改正・日清戦争勝利を成遂げ国際協調と民権運動との融和を進めた大政治家
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戦前
板垣 退助
1837年 〜 1919年
100点※
中岡慎太郎の遺志「薩土密約」を受継ぎ戊辰戦争への独断参戦で土佐藩を「薩長土肥」へ食込ませ、自由党を創始して薩長藩閥に対抗し自由民権運動のカリスマとなった清貧の国士
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戦前
豊田 喜一郎
1894年 〜 1952年
100点※
豊田佐吉の長男で共に画期的な動力織機を発明するが、繊維産業の凋落を見越し紡績から自動車への事業転換を敢行したトヨタグループ創業者
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