東條英機と共に石原莞爾・武藤章から主導権を奪い、無謀な米ソ二正面作戦を唱え亡国の対米開戦を主導した陸軍暴走の牽引役
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田中 新一
1893年 〜 1976年
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田中新一と関連人物のエピソード
- 明治維新後の軍部は、西郷隆盛の薩摩閥と大村益次郎の長州閥が勢力を二分したが、西南戦争で西郷隆盛と共に桐野利秋・村田新八・篠原国幹ら薩摩閥を担うべき人材が戦死、大山巌や西郷従道は残ったものの長州閥が俄然優勢となった。長州藩の木戸孝允・大村益次郎・伊藤博文は文民統治を重視したが、運よく奇兵隊幹部から長州軍人のトップに納まった山縣有朋は木戸の死でタガが外れ、長州閥で陸軍を牛耳り政治に乗出して軍拡を推進、伊藤の没後は直系の桂太郎・寺内正毅・田中義一を首相に据え政府に君臨した。外征志向の山縣有朋は強大な軍隊を志し、プロシア流の皇帝直属軍すなわち「天皇の統帥権を大義名分とする自律的な軍隊」の建設に邁進、軍事予算の獲得と外征に励みつつ軍部大臣現役武官制などで文民統治を排除した。「金があれば早稲田の杜を水底に沈めたい」ほど政党嫌いの山縣有朋は自由民権運動の弾圧に執念を燃やしたが、これも「国民の軍隊」を作らせないための自己防衛であった。大村益次郎の遺志を継いだ山田顕義と三好重臣・鳥尾小弥太・三浦梧楼・谷干城らはフランス流の市民軍を構想し「外征を前提とした軍拡は国家財政の重荷となりむしろ国力を弱める」と正論を説いたが、山縣有朋は官有物払下げ事件に乗じ山田一派を追放、思惑どおり政府や国民の干渉を受けない自律的な軍隊を作り上げた。山縣有朋は死ぬまで極端な長州優遇人事を貫いたが、優秀な野津道貫・児玉源太郎らが死ぬと人材が枯渇、山縣の死の前年に「バーデン・バーデン密約」を交し長州閥打倒で結束した永田鉄山・小畑敏四郎・東條英機・石原莞爾ら中堅幕僚「一夕会」が下克上で陸軍を乗取り満州事変・日中戦争・仏印進駐・対米開戦へと暴走した。一方、当初陸軍の一部だった海軍では、薩摩人の山本権兵衛が西郷従道を擁して大胆な組織・人事改革を行い日清・日露戦争の活躍で陸軍から完全独立、出身地に拘らない人材登用で加藤友三郎(広島)・斎藤実(仙台)・岡田啓介(福井)・米内光政(岩手)・山本五十六(越後長岡)・井上成美(仙台)・鈴木貫太郎(下総関宿)らを輩出したが、後継指名した伏見宮博恭王が艦隊派首領となり対米開戦を主導した。
- 1921年、陸軍士官学校16期のエリート永田鉄山・小畑敏四郎・岡村寧次がドイツ南部の保養地バーデン・バーデンで落合い陸軍長州閥の打倒および「国家総動員体制」の確立へ向け会盟、ここに陸軍の下克上が始まった(バーデン・バーデン密約)。ドイツ駐在の東條英機(17期)も駆付け永田鉄山の腹心となった。盟主の永田鉄山は信州上諏訪出身、陸軍幼年学校から陸軍大学までほぼ主席で通し人心掌握も上手く「陸軍の至宝」と賞された逸材で、第一次大戦視察のためドイツ周辺諸国に6年間滞在し「総力戦時代の到来」に危機感を抱き国家総動員体制を提唱した。対する陸軍長州閥は、創始者の山縣有朋を1922年に喪うも田中義一(長州)・白川義則(愛媛)・宇垣一成(岡山)が系譜を継ぎ勢力を保っていた。大正デモクラシー=軍人蔑視、山梨・宇垣軍縮への不満渦巻く陸軍各所で中堅将校の「勉強会」が萌芽するなか、永田鉄山らは河本大作(15期)・板垣征四郎・土肥原賢二(16期)・山下奉文(18期)ら同志20人と渋谷「二葉亭」で会合を重ね(二葉会)、石原莞爾(21期)・鈴木貞一(22期)ら年少組の「木曜会」と合体し「一夕会」を結成、武藤章・田中新一(25期)・牟田口廉也(29期)らも加わった。僅か40人ほどの一夕会だが、このあと陸軍を動かす面々が悉く名を連ね、第一回会合では陸軍人事の刷新、荒木貞夫・真崎甚三郎・林銑十郎の非長州閥三将官の擁立、満州問題の武力解決、国家総動員体制の確立の大方針を決め、陸軍中央の重要ポスト掌握に向け策動を開始した。河本大作の「張作霖爆殺事件」は不拡大に終わったが、板垣征四郎・石原莞爾の「満州事変」は若槻禮次郞内閣の追認で拡大し満州国建国に結実、一夕会は「ソ連に勝つには今しかない」と説く小畑敏四郎ら皇道派(荒木貞夫の「皇軍」発言に因む)と総動員体制確立・中国問題解決を優先する永田鉄山ら統制派に分裂し、統制派が陸軍中央を制すと「永田鉄山斬殺事件」が起るが、皇道派は二・二六事件で自滅し、不拡大派の石原莞爾を退けた武藤章・田中新一・東條英機ら統制派が対外硬派の近衛文麿内閣を動かし中国侵攻(日中戦争)・国家総動員法を成就させた。
- 戦後教育は昭和史の本質たる軍事史を教えず、「一夕会」「統制派」を率いた永田鉄山さえあまり知られていないが、「陸軍の至宝」「永田の前に永田なく、永田の後に永田なし」と称された逸材で「永田がいれば大東亜戦争は起きなかった」ともいわれる。陸幼・陸士(16期)・陸大を最優等で卒業した永田鉄山は、事務能力も抜群で陸軍の綱紀粛正・教育制度改革(軍隊教育令)を主導し一般学校の軍事教練(陸軍現役将校学校配属令)も創始、病弱で実戦経験は無いが、部隊に出れば謙虚・公正・合理性で「陸軍一の名連隊長」と慕われ、少壮から陸軍を背負うべき人材と輿望を集めた。第一次大戦前後の欧州情勢視察に任じた永田鉄山は、総力戦時代を痛感し「国家総動員」を提唱、同志のエリート将校を一夕会に組織化し、林銑十郎を陸相に担いで陸軍省枢要の軍務局長に就き長州閥から主導権を奪取した。永田鉄山は、国力の乏しい日本は総力戦に備え中国大陸の軍需資源を利用すべしと主張したが、非合法手段や派閥争いは認めず、十月事件では橋本欣五郎(23期)の極刑を主張し、石原莞爾(陸士21期)らの満州事変では暴走抑止に努めた。一夕会系は「陸軍三長官」を独占したが、統制を重んじる永田鉄山(統制派)と実力行使も辞さない「皇統派」の内部対立が発生、真崎甚三郎の教育総監更迭を巡り抗争が激化するなか皇統派の相沢三郎中佐が永田鉄山斬殺事件を起し、勢いづいた皇統派は巻返しを図り青年将校グループが二・二六事件を引起した。皇統派の自滅で陸軍を掌握した統制派の武藤章・田中新一(25期)・東條英機(17期)らは、永田鉄山の遺志を継いで満州から中国へ侵出し国家総動員体制を実現させたが、強引な手段で泥沼の日中戦争を引起し中国不戦を説く石原莞爾を追放、仲間割れの度に過激へ傾き、近衛文麿・松岡洋右ら反欧主義者と組んで日本を亡国の対米開戦へと導いた。永田鉄山個人は日本型官僚組織・部課長制組織史上の傑物で独断専行の抑止役でもあり、存命なら昭和史が変わった蓋然性は高いが、結果が敗戦ゆえに「陸軍暴走」の先駆者となり、故郷の上諏訪でも記憶されず高島公園の胸像に名残を留めるのみである。
- 石原莞爾は、陸士(21期)・陸大で奇才を現し「陸軍随一の天才」と称されたが、平然と教官を侮辱する異端児で哲学・宗教に傾倒し、写生の授業で己の男根を模写し退学になりかけたこともあった。田中智学の「国柱会」(日蓮宗)に帰依する石原莞爾は宗教的カリスマを帯び、服部卓四郎・辻政信・花谷正ら後輩の崇敬対象だった(なお国柱会には近衛文麿の父篤麿や宮沢賢治も加盟)。鈴木貞一(22期)らと「木曜会」を興した石原莞爾は永田鉄山(16期)の「一夕会」に合流し「満蒙領有方針」を牽引、関東軍参謀に就くと永田の制止を振切り板垣征四郎(16期)と共に満州事変を決行した。南二郎のアジア主義に薫陶された石原莞爾は中国独立運動のシンパで、日満蒙の平和的連携による資源と市場の獲得を追求(王道楽土)、「第一次世界大戦後に世界平和は回復されたが、列強はいずれまた世界戦争を始める。いろんな組合せで戦っていくうちに、最後にはアメリカ、ソ連、日本が残る。日本は戦いを避けて国力と戦力を整えつつ待ちの姿勢を貫くことが肝心で、そうすればいずれアメリカがソ連を破り、最終戦争で世界の覇権を賭けてアメリカと対決することとなろう」という「世界最終戦争論」を唱え、日本は「無主の地」満州を領有して国力不足を補い日中鮮満蒙の「五族協和」で総力戦に備えるべしとした。統制派・皇道派に属さず「満州派」を自称する石原莞爾は永田鉄山斬殺事件に伴い陸軍中央の指導的地位に就任、二・二六事件が起ると戒厳司令部参謀に就き皇道派を断罪し壊滅させた。反乱将校を扇動した荒木貞夫(陸士9期)に対し石原莞爾は「バカ!おまえみたいなバカな大将がいるからこんなことになるんだ」と怒鳴りつけ、軍規違反と怒る荒木に「反乱が起っていて、どこに軍規があるんだ?」と言返したという。盧溝橋事件が起ると、日中戦争泥沼化を予期する石原莞爾は停戦講和に奔走したが、武藤章・田中新一(25期)・東條英機(16期)ら統制派の「中国一激論」「華北分離工作」が優勢で近衛文麿内閣の和解拒否により不拡大派は失脚、関東軍参謀副長へ左遷された石原は参謀長の東條英機と衝突し、東條が陸相に就くと完全に政治生命を絶たれた。
- 奇行が多いが成績抜群の石原莞爾は陸士時代から「陸軍随一の天才」と称され、永田鉄山の「一夕会」に加盟し「満蒙領有方針」の急先鋒となった。関東軍参謀に就いた石原莞爾は、永田鉄山ら陸軍中央の慎重論を無視し板垣征四郎と共に柳条湖事件を決行、若槻禮次郞内閣の追認を得て満蒙を武力制圧し、第一次上海事変、満州国建国までを主導した。一夕会が分裂し皇統派が永田鉄山斬殺事件を起すと無党派の石原莞爾が陸軍中央の指導的地位に就き、二・二六事件では戒厳司令部参謀として反乱将校の断罪と皇統派の粛清を主導、参謀本部に作戦部を設置し権限を集中した。日中戦争が勃発すると、中国革命運動のシンパで「五族協和」を志す石原莞爾はアメリカとの最終戦争に備えるべく(世界最終戦争論)日中講和に奔走したが、強硬に中国侵出(華北分離工作)を主張する武藤章・田中新一・東條英機ら統制派と対立、第一次近衛文麿内閣が講和を蹴り日中戦争拡大方針を採ったため失脚した。不拡大派は陸軍中央から一掃され、石原莞爾は関東軍参謀副長へ左遷、犬猿の仲の東條英機が陸相に就くと政治生命を絶たれた。鮮やかな作戦指揮で寡兵をもって満蒙を席巻し、陸軍・政府・マスコミへの根回しで満州事変を成功させた石原莞爾の奇才は疑うべくもないが、結果として日本が戦争に負けため評価は実に複雑である。石原莞爾が独断専行で関東軍を動かしたことは重大な軍法違反であり、上役の荒木貞夫や東條英機をバカ呼ばわりする傲慢さも陸軍の集団暴走に先鞭を付けた。また十月事件を起した橋本欣五郎は石原莞爾の親友で処罰に反対している。が、植民地収奪競争が熾烈な当時の世界情勢において「無主の地」満州は共産ソ連の格好の標的であり、中国が崩壊するなか朝鮮の防衛上譲れない地勢を占めていた。アジア諸国が結束し西洋列強の収奪を防ぐという石原莞爾の戦略も至極妥当なもので、国土と資源の乏しい日本は大陸に出る他なく、満州事変後の軍需バブルで逸早く世界不況を脱した現実もある。石原莞爾の戦略に従い華北を攻めず満州に留まっていれば、日中戦争泥沼化も英米との衝突も無く日本は朝鮮・満蒙を維持しアジアの盟主になった蓋然性が高い。
- 東條英機と石原莞爾の犬猿の仲は有名だ。石原莞爾は、永田鉄山より5期・東條英機より4期下の陸士21期のエリートで少壮の頃から天才と称され、その世代の「木曜会」では鈴木貞一と共に指導的立場にあり、木曜会は永田らの「二葉会」に合流して「一夕会」となった。木曜会に目付役として参加した東條英機は石原莞爾らを指導し、共に「満蒙領有方針」の策定などを手掛けた。石原莞爾は陸軍の花形である作戦畑に進んで満州事変で名を轟かせ、永田鉄山の横死後は作戦部長に就いて陸軍中央を取仕切った。一方の東條英機は、永田鉄山・統制派のために奔命するも作戦畑には進めず、皇道派に恨まれて日陰のポストを転々とさせられた。才気煥発で自負心も強い石原莞爾にすれば東條英機など取るに足らない先輩であり、劣等視された東條は石原を敵視し、石原が日中戦争不拡大を唱えると拡大派の武藤章を支持し石原一派を陸軍中央から追出した。関東軍参謀副長に左遷された石原莞爾は参謀長の東條英機を公然と無能呼ばわりし聞こえよがしに「東條上等兵」「憲兵隊しか使えない女々しいやつ」などと挑発、怒り心頭の東條は石原を閑職の舞鶴要塞司令官に飛ばし、間もなく予備役編入に追込んで報復を果した。軍務を離れた石原莞爾は言論・教育活動などに従事したが、東條英機は得意の憲兵攻撃で執拗に石原を監視した。そして日本の敗戦が決定的となるなか、石原莞爾に師事する柔術家の牛島辰熊と津野田知重少佐による東條英機首相暗殺計画が発覚(なお、空手の大山倍達や極道の町井久之も石原莞爾に師事)、両名の献策書の末尾には「斬るに賛成」との石原の朱筆があった。東京裁判の証人尋問で東條英機との確執を訊かれた石原莞爾は「私には一貫した主義主張があるが、彼にはなかったのではないか。此れでは反目し合う事など有るわけがない。彼は一貫した信念がなく右顧左眄して要らぬ猜疑心を持つから、戦局の対応も適宜でなかっただろう。」と東條の無能を扱下ろしたが、戦勝国が裁く横暴を論難し「略奪的な帝国主義を教えたのはアメリカ等だ、戦争責任なら満州事変を起した自分と鎖国を破ったペリーを裁け」と気炎を上げた。
- 石原莞爾は、関東軍参謀在任期に乗馬中誤まって軍刀で下腹部(睾丸)を傷つけ、それが原因で膀胱を患い生涯悩まされた。満州事変後に内地に呼戻された時には既に相当悪化しており、膀胱内乳頭腫摘出のための手術を受けている。終戦後は入退院を繰返す療養生活を送ったが、東京裁判の証人尋問を東京逓信病院の病床で受け、郷里の山形県に戻ってからはリヤカーで東京裁判酒田出張法廷に出廷した。なお、この時リヤカーを引いたのは後に空手界の重鎮となる曺寧柱と大山倍達だといわれ、両名とも石原莞爾が組織した東亜連盟の会員だった。さて、終戦直後の8月28日付『読売報知新聞』に「満州事変首謀者」石原莞爾のインタビュー記事が掲載された。「戦に敗けた以上はキッパリと潔く軍をして有終の美をなさしめて、軍備を撤廃した上、今度は世界の輿論に、吾こそ平和の先進国である位の誇りを以て対したい。将来、国軍に向けた熱意に劣らぬものを、科学、文化、産業の向上に傾けて、祖国の再建に勇往邁進したならば、必ずや十年を出ずしてこの狭い国土に、この膨大な人口を抱きながら、世界の最優秀国に伍して絶対に劣らぬ文明国になり得ると確信する。世界は、猫額大の島国が剛健優雅な民族精神を以て、世界の平和と進軍に寄与することになったら、どんなにか驚くであろう。こんな美しい偉大な仕事はあるまい」・・・国中焼け野原の惨状にあって敬服すべき前向きさだが、石原莞爾の期待どおり日本人は十余年にして奇跡の戦後復興を成遂げた。
- 東條英機は陸軍中将の父に倣い陸軍幼年学校・陸士(17期)・陸大へ進み純粋培養の陸軍官僚に成長、ドイツ留学中に長州閥打倒・国家総動員を提唱する永田鉄山(陸士16期)に私淑し「バーデン・バーデン密約」に加盟、陸大教官に就くと入試選考工作で長州系人材の排除に努めた。東條英機は永田鉄山の腹心として「二葉会」「木曜会」「一夕会」で重きを為したが、能力凡庸で陸軍の花形部署には就けず、一夕会が永田鉄山(統制派)と小畑敏四郎(皇統派)の対立で分裂すると、永田信者の東條は皇道派の目の敵にされ非主流ポストをたらい回しにされた。林銑十郎を陸相に担いだ永田鉄山が枢要の陸軍省軍務局長に座り統制派が優勢となったが、東條英機の復権は成らず、「もう少し待て、必ず何とかするから」と慰めた永田が皇道派のテロに斃れると、東條は満州の関東憲兵隊司令官に飛ばされ予備役編入を待つ身となった。が、直後に驚天動地の二・二六事件が発生、一夕会系だが無党派の石原莞爾(21期)は寺内寿一(長州閥の寺内正毅の息子)を陸相に担ぎ軍規粛清を掲げ皇統派を断罪、真崎甚三郎・荒木貞夫ら七大将を予備役に追込み将佐官を一掃した。陸軍中央の主導権は石原莞爾が握ったが、皇統派を葬った武藤章・田中新一(25期)ら統制派が圧倒的優勢となり最年長の東條英機も関東軍参謀長に栄転、東條は日産の鮎川義介と満鉄の松岡洋右と結んで陸軍の満州国支配を確立し、ソ満国境の武力衝突事件で暴走、日中戦争が始まると察哈爾方面を率い独断で戦線を拡大し名を上げた。一方、陸軍中央は日中戦争不拡大を説く石原莞爾と「華北分離」を説く武藤章ら統制派の対立で大混乱に陥り、石原が板垣征四郎を陸相に担ぐと統制派は東條英機を陸軍次官に擁立、東條は多田駿参謀次長と衝突し共に更迭されたが、第一次近衛文麿内閣の日中戦争拡大政策で統制派が勝利し石原一派を追放した。東條英機は新設の陸軍航空総監に左遷されたが、停戦講和へ傾いた武藤章を田中新一ら強硬派が圧倒し東條を陸相に擁立、東條陸相は田中の戦略に従い日独伊三国同盟・関特習・南部仏印へと第二次・第三次近衛文麿内閣を牽引し、後継首相として対米開戦を決断した。
- 陰険で執念深い東條英機は、憲兵を駆使して容赦なく反対者を粛清し徹底的な言論統制を敷いた。皇統派に憎まれ関東軍の憲兵隊司令官に左遷された東條英機は自軍の共産分子摘発に精を出し、関東軍参謀長に栄転すると憲兵を私用に使い始め「憲兵のドン」と恐れられた。関東大震災時に大杉栄一家殺害事件を起した憲兵大尉の甘粕正彦は、陸士恩師の東條英機の影響下にあり、出獄後は満州で陸軍の謀略に挺身し「夜の帝王」と恐れられた。さて、陸相・首相に上り詰めた東條英機は、身の回りの些事にも憲兵を使って目を光らせ陰険な報復を繰返した。東條英機は、宿敵の石原莞爾を予備役に追込んだ後も憲兵を貼付けて執拗に動静を探り、統制派の武藤章が対米講和へ傾くと反東條内閣の動きを憲兵情報で捉え前線のスマトラ島へ放逐、対米開戦を主導した田中新一まで反抗を理由にビルマ方面軍へ追放した。東條英機の魔手は陸軍外へも及び、東條の独裁を糾弾し内閣打倒を企てた中野正剛を憲兵隊の監禁で自殺へ追込み、東條批判をした言論人の松前重義や海軍の肩を持った毎日新聞の新名丈夫を徴兵した陰謀も明らかになっている。カタブツの東條英機は部下や身内の醜聞にも目を光らせた。あるとき、東條英機は甥の山田玉哉陸軍少佐を首相官邸に呼びつけ、いきなり「このバカ者!」と怒鳴りポカポカと殴りつけた。意味不明の山田が問い質すと「貴様は女の手を握ったろう!」と言う。東條英機の妹(次枝)宅を訪問したさい酒に酔って若い女中の手を握った一件に思い当たった山田が「アレか」と呟くと、東條は「アレとは何だ!」と激高しまた殴ったという。首相が官邸で陸軍少佐をしばきあげるという前代未聞の珍事であったが、粘着質の東條英機は山田を赦さず最前線のサイパン送りにすべく画策したという。
- 東條英機は非常に几帳面・生真面目な性格で「メモ魔」といわれた。現在の官僚と同様に卒業席次で進路が決まる陸軍にあって、東條英機は陸大入試に一度失敗するなど超エリート組には入れず「師団長になれれば十分」なクラスだったが、勤勉さと抜群の暗記力でセンス不足をカバーし、永田鉄山の腹心として頭角を現した。東條英隆の東大の卒業式で来賓挨拶をした父の東條英機は「人間は学校の席次では決められない。卒業した後の努力が大切である」と激励したところまでは良かったが、「自分がその良い例である。陸軍幼年学校に入ったころは劣等生だったが、努力によって今日の地位を得た」と臆面も無く自画自賛した。対米開戦を決断した東條英機首相は、戦局が悪化しても妥協を拒み徒に被害を拡大させたが、「戦地に散った英霊に申し訳が立たない」とか「現地司令官の面子が立たない」など心情的な理由も大きかったようであり、律儀な性格が裏目に出た結果ともいえるだろう。首相に陸相・参謀総長を兼ね独裁的権力を握った東條英機は反対者を容赦なく弾圧したが、ノモンハン事件の辻政信・インパール作戦の牟田口廉也ら自分を慕う子分は愚か者であっても贔屓の引き倒しで保護し続けた。
- 戦争終結が決定的となると、阿南惟幾(最後の陸相)・杉山元(対米開戦時の参謀総長)・橋田邦彦(東條英機内閣の文相)・大西瀧治郎(山本五十六の腹心で最初の特攻隊の指揮官)など、要人が次々と自殺した。日本に乗込んだマッカーサーのGHQは、A級戦犯指定者を日本政府に通告し次々と逮捕したが、絶対死刑にしたい東條英機には自殺の間を与えず通告無く米軍憲兵を差向けた。逮捕を予期していた東條英機はすぐさま拳銃自殺を図ったが、アメリカ軍に救助され軽傷で済んだ。医師に相談して心臓部分に丸印をつけてもらっていたが、左利きのため急所を外したのだという。自作の『戦陣訓』で「生きて虜囚の辱めを受けず、死して罪禍の汚名を残すことなかれ」と説いた東條英機の自殺失敗と逮捕は、多くの国民を失望させた。なお、東條英機が『戦陣訓』を国民に配布したさい石原莞爾は「バカバカしい。こんなものは読まなくてもいい」と公言、ますます東條に憎まれ陸軍追放の決定打になったという。
- 傲岸不遜を自称する武藤章は、陸士同期(25期)の田中新一と共に永田鉄山(16期)没後の陸軍「統制派」を指揮した。盧溝橋事件が起ると、参謀本部作戦課長の武藤章は「華北分離工作」を起草し強硬に戦線拡大を主張、日中和解に奔走する上司(作戦部長)の石原莞爾(21期)を「石原閣下が満州事変当時にされた行動を見習っている」と愚弄し、統制派最年長の東條英機(17期)を抱込んで石原一派を失脚へ追込み陸軍中央の主導権を奪った。が、一撃を加えれば蒋介石政権は屈服し日中戦争は早期に片付くという武藤章の「中国一激論」は忽ち行詰り石原莞爾の予期どおり日中戦争は泥沼化、武藤は潔く停戦講和へ転じトラウトマン工作などに加担したが第一次近衛文麿内閣の強硬姿勢を覆せず、陸軍では田中新一・東條英機らの強硬論が支配的となった。武藤章は南進政策の容認などで田中新一と妥協しつつ日中講和と対米開戦回避に努めたが形勢逆転はならず、太平洋戦争の戦局が悪化すると軍務局長の要職にあって戦争終結を唱え岡田啓介らの東條英機内閣打倒の策動に加担したが、東條の憲兵に探知され近衛師団長として前線のスマトラ島へ送られ、第14(フィリピン)方面軍司令官の山下奉文の招聘で参謀長に就任し同地で終戦を迎えた。そして東京裁判、極刑はないとみられた武藤章に無念の絞首刑判決が言渡された。判決後、東條英機は武藤章に「巻き添えにしてすまない。君が死刑になるとは思わなかった」と謝ったという。敵軍の矢面に立つ前線指揮官は報復の標的にされやすく、山下奉文は終戦早々にフィリピンで処刑され、板垣征四郎・木村兵太郎・土肥原賢二・松井石根も死刑判決を受けている。また、陸軍人の事跡を虚実取混ぜてGHQに注進した「裏切り者」田中隆吉の証言が武藤章を極刑に追込んだともいわれる。武藤章は笹川良一に「私が万一にも絞首刑になったら、田中の体に取り憑いて狂い死にさせてやる」と語ったが、田中隆吉は晩年「武藤の幽霊が現れる」と精神を病み何度か自殺未遂を起している。
- 関東軍は満州を支配する奉天軍閥の張作霖を傀儡に満州支配の機を窺っていた。張作霖は元来馬賊の一頭目で、日露戦争時にロシアの対日スパイ工作に従事(遼河右岸新民屯営長)、日本軍に逮捕され死刑宣告を受けたが、井戸川辰三軍政署長と田中義一参謀が生かして利用した方が得策と児玉源太郎参謀総長を説得した。日本軍の援助を得た張作霖は一躍満州の支配者となり、大元帥を僭称して華北を襲い安徽派・直隷派の北洋軍閥から北京政府を奪取したが、増長し自立の色を立てたため日本軍に見放され、蒋介石の北伐軍が北京に迫ると忽ち奉天へ逃避した。陸軍中央では再び張作霖を援助し国民政府軍と対決すべしとの意見もあったが、傀儡の張を捨て満州の直接支配を期す方針に決定、我が意を得た関東軍の河本大作高級参謀らは奉天へ向かう列車を爆破し張を殺害した(張作霖爆殺事件)。永田鉄山・石原莞爾ら一夕会系幕僚および一部陸軍首脳の組織的犯行であったと考えられる。関東軍は中国人アヘン中毒者の仕業と偽る隠蔽工作を施したが内地ではすぐに真相発覚、西園寺公望元老も知るところとなり、昭和天皇は事件の究明を強く求めたが、西園寺は陸軍の脅迫で脱落し、張作霖の黒幕にして陸軍長州閥首領の田中義一首相は軍法会議を図るも配下にも裏切られ内閣総辞職でお茶を濁した。昭和天皇に叱責された田中義一は間もなくショック死し(自殺説あり)、政友会は74歳の犬養毅を後継総裁に担出した。以後、昭和天皇は政府への口出しを控え、統帥権の監視を担わされた西園寺公望ら天皇側近は「君側の奸」と敵視されることとなる。陸軍首脳の自制で張作霖爆殺事件は不拡大に終わり一夕会系幕僚の野望は挫折したが、続く濱口雄幸内閣も事件究明を怠り、結果として統帥権違反の重罪を追認したことが満州事変、五・一五事件、二・二六事件、日中戦争拡大へ続く軍部暴走の呼び水となった。なお軍法会議を免れた河本大作は、軍役から外されたものの陸軍の引きで満鉄理事・満州炭鉱理事長に納まっている。
- 張作霖の奉天軍閥を息子の張学良が引継ぎ、拠点の奉天城・北大営に入って新たな満州の支配者となった。父親を日本軍に殺害された張学良は、国民党に合流して日本に対抗する姿勢をとった。張学良軍25万人に対して関東軍は1万人であり、日本の権益と居留民の安全が脅かされる事態となった。一夕会の永田鉄山や石原莞爾らは、関東軍を増強して満州を武力制圧すべしという満蒙領有方針を主張し、陸軍内部で活発に運動した。一方、昭和天皇と西園寺公望らの重臣グループ、幣原喜重郎や濱口雄幸らの民政党は、武力によらずあくまで条約によって日本の権益を守るべしという国際協調路線のスタンスをとった。
- 「張作霖爆殺事件」当時、対中国政策を巡り3つの構想が対立していた。第一は田中義一政友会内閣の「蒋介石の国民政府による中国本土統治を容認するが、中華の枠外にある満蒙については張作霖の奉天軍閥を用いて権益を確保すべし」とする「満蒙特殊地域論」、第二は幣原喜重郎や濱口雄幸ら民政党の「協調外交」路線で「満蒙を含む中国全土の国民政府による統一を容認し、日中友好に基づく経済交流の拡大により利益を得べし」と唱えた。第三は関東軍首脳の「増長した張作霖を排除して満蒙に親日政権を樹立し、国民政府からの分離独立を強行すべし」という強硬路線で、実際に関東軍高級参謀の河本大作らが張作霖爆殺事件を引起したが、昭和天皇と西園寺公望ら重臣が不拡大方針を貫いたため打上花火で終わった。これに対し「木曜会」(永田鉄山らの一夕会に合流)の石原莞爾は「傀儡政権などの過渡的措置は不要で満蒙を領有(直接統治)すべし」と更に強硬な「満蒙領有方針」を主張した。陸軍一夕会幕僚らは張作霖爆殺事件の反省を踏まえ参謀本部など陸軍中央への根回しとマスコミの抱込みを図り、関東軍参謀の石原莞爾・板垣征四郎らが「柳条湖事件」を決行、若槻禮次郞内閣が事後承認したため「満州事変」へ拡大し張学良(張作霖の嫡子)軍を掃討して満州全域を軍事制圧した。「満蒙領有」には至らなかったものの、石原莞爾・板垣征四郎らは若槻禮次郞内閣から「満州独立方針」を引出し傀儡国家「満州国」を樹立した。
- 1929年、「暗黒の木曜日」に始まったニューヨーク株式市場の大暴落が世界恐慌に発展した。不況の波はすぐに日本にも押し寄せ、農産物価格の下落により農村は困窮化、全世界的な繊維不況と欧米列強によるブロック経済化の進展により輸出産業の柱であった生糸・綿糸・綿布産業も壊滅的打撃を蒙った。追込まれた日本は国を挙げて中国大陸に活路を求め、満州事変勃発、日中戦争拡大と続くなかで、高橋是清蔵相が主導した積極財政政策により軍事費が急拡大して第二次大戦終結まで国家予算の70%という異常な水準で高止まりした。一方、旺盛な軍需により重化学工業が勃興、中国市場の獲得で繊維輸出も持ち直し、日本経済は早くも1933年に回復基調に入り翌年には世界恐慌前の水準に回復、他の先進国より5年も早く経済回復を果した。高橋是清は、膨張した財政支出の正常化を図るため軍拡抑制に舵を切ろうとしたが、国家総動員体制の構築を企図する軍部と軍需景気に沸く世論を抑えられず、軍部や右翼に憎まれて「君側の奸」に加えられ、二・二六事件で斬殺されてしまった。以降も軍需主導の経済成長は進み、1940年には、鉱工業指数は世界恐慌前の2倍、国民所得は140億円から320億円と2.3倍に拡大、超高度というべき経済成長を遂げた。しかし、国力を度外視した戦争経済は、過剰な軍国主義的風潮と軍部の強権化、民生の圧迫など多くのひずみを生んだ。また、国策主導による統制経済への傾斜は、大資本による経済寡占化を進展させ、第二次大戦終結時には三井・三菱・住友・安田の四大財閥が全国企業の払込資本の半分を占めるという「開発独裁」状態をもたらした。財閥に富が集中する一方で農村では困窮化が進むという「格差社会」情勢は、社会主義的風潮と軍部主導による「国家改造」への期待を醸成し、安田善次郎暗殺、濱口雄幸首相襲撃、血盟団事件、五・一五事件、二・二六事件と続いたテロの温床となり、ますます軍国主義化を助長して格差はさらに拡大するという皮肉な結果をもたらした。
- 濱口雄幸首相銃撃事件、血盟団事件、五・一五事件、二・二六事件と続いたテロの背景には、軍部における下克上の風潮に加え、世界恐慌後長引く不況と金解禁等政府の失策に対する民衆の憤りがあった。デフレ不況で農村の窮迫が深刻の度合いを深める中、政府は有効な手立てを講じることができず、濱口雄幸内閣に至っては時機を謝った金解禁で不況を悪化させたうえに財閥に巨富をもたらす結果を招いた。何時の時代でも不況の打開策で最も手っ取り早いのは戦争であり、ジャーナリズムの扇動もあって、世論は好戦ムード一色となり軍部への期待が高まった。兵卒の大多数は農村出身者であり、彼らの悩みに直に接する隊付青年将校達は最も敏感に反応し井上日召・北一輝・西田貢ら民間右翼の思想に共鳴、グループを結成して急進的な「国家改造」を企てた。方や陸軍上層部では、下克上で実権を掌握した中堅幕僚グループ・一夕会が、永田鉄山率いる統制派と真崎甚三郎・荒木貞夫・小畑敏四郎らの皇道派に別れて対立を深めていた。隊付青年将校グループは、思想信条が近い皇道派と結びつき、武力クーデターによって「君側の奸」を排除し真崎・荒木を首班とする軍部主導内閣を打ち立てて一気に「国家改造」を果たそうとした。こうした事情のもとに行われた隊付青年将校グループと民間右翼によるテロは、金解禁を実施した濱口雄幸と井上準之助、金解禁で儲けた三井の団琢磨を殺害した後、犬養毅を斃して政党政治を葬り、二・二六事件でピークに達した。二・二六事件は、統制派の林銑十郎陸相・永田鉄山軍務局長により陸軍中枢から追われつつあった皇道派の起死回生の反撃という意味合いもあり、1500人もの反乱軍による一大内乱事件に発展した。結局、二・二六事件は昭和天皇の英断により断固鎮圧され、陸軍中央では皇道派幕僚が完全に閉め出され、一夕会・非皇道派の石原莞爾、続いて武藤章・東條英機ら統制派の天下となった。
- 張作霖爆殺事件後、日本が実効支配する満州では排日・侮日運動が高まり開拓団ら居留民の安全が脅かされる状況が続いていた。満州・華北視察で憂慮を深めた「一夕会」の永田鉄山軍事課長は陸軍中央に「五課長会」を設置し(委員長は参謀本部第二部長の建川美次で永田盟友の岡村寧次も参加、翌年永田側近の東條英機・今村均らが加わり「七課長会議」へ発展)「武力による満州問題解決を辞さないが、1年間は隠忍自重」とする「満蒙問題解決方策の大綱」を定め関係省庁の承認を得て正式に関東軍へ通達した。「無主の地」とはいえいきなり植民地にすると各国の干渉を招くため、先ずは満州皇帝を擁立して親日政権を樹立し独立国の体裁を整えることとされたが、早急な「満蒙領有」を企図する関東軍の石原莞爾作戦参謀・板垣征四郎高級参謀らは傀儡政権樹立には否定的であった。また一夕会も一枚岩ではなく、遵法精神が篤く陸軍の統制を重視する永田鉄山は(後に「統制派」の由来となる)関東軍の独断専行も辞さないとする石原莞爾らの暴走抑止に努めた。そうしたなか中村震太郎大尉殺害事件および万宝山事件が発生、陸軍省・参謀本部・関東軍の主要実務ポストを握る一夕会系幕僚は南次郎陸相・金谷範三参謀総長・武藤信義教育総監以下の陸軍首脳から満州問題武力解決の内諾をとり、焦点の関東軍司令官には剛毅で鳴らす本庄繁大将が任命された。強引にお墨付を得た関東軍の石原莞爾・板垣征四郎らは直ちに武力解決の謀略に着手、陸軍中央が制止に動くと計画前倒しで柳条湖事件を決行し思惑通り満蒙の武力制圧を成功させた(満州事変)。
- 満州問題武力解決を強行する陸軍の謀略を知った昭和天皇と元老西園寺公望は南次郎陸相を呼びつけ停止を厳命、腰砕けとなった南は金谷範三参謀総長に相談のうえ止め役として建川美次作戦部長を満州へ派遣した。これを知った関東軍の石原莞爾作戦参謀・板垣征四郎高級参謀らは決行か中止かで大いに迷ったが、三谷清憲兵分隊長・今田新太郎駐在分隊長ら若手の強硬派に押され遂に実行を決意した。奉天に到着した建川美次を料亭菊文に招いて酒豪の板垣征四郎らが酔潰している間に、今田新太郎ら実行部隊は奉天郊外の柳条湖付近で鉄道を爆破した(柳条湖事件)。満鉄の鉄道爆破は、関東軍条例第三条に基づく合法的軍事出動の理由を得るためであった。菊文を飛出した板垣征四郎は張学良軍の先制攻撃と断じて奉天守備隊長らに奉天城・北大営の攻撃を命令、旅順の関東軍司令部では石原莞爾が本庄繁司令官を説伏せ関東軍を奉天へ進発させた。奉天作戦に続くハルビン侵攻を期す石原莞爾は、張学良軍が奉天周辺だけで2万・満州全土で25万もいるのに対し関東軍は1万余という戦力不足を補うため、朝鮮駐留軍の越境増援を画策し朝鮮軍作戦参謀の神田正種の内諾を得ていた。が、奉天で待っていたのは金谷参謀総長からの不拡大方針決定を伝える電報であり、本庄繁司令官は翻意して即時停戦を命じ「ハルビン侵攻などもってのほか」とした。が、諦めない石原莞爾らは「ハルビンが駄目なら吉林省」と侵攻作戦を書き直し本庄司令官に談判した。「沢庵石」の異名をとる本庄繁は撥ね付けたが板垣征四郎の強談判に屈し、石原莞爾参謀は戦線を満州全域へ拡大、林銑十郎司令官の独断で朝鮮駐留軍も越境来援し日本軍は瞬く間に張学良軍を掃討し満州全域を制圧した(満州事変)。このとき本庄繁が頑として拒否を貫いていれば、張作霖爆殺事件と同様に満州事変は忽ち沈静化し石原莞爾・一夕会の大陸浸出の野望も挫折した可能性が高い。
- 石原莞爾関東軍作戦参謀と示し合わせていた神田正種朝鮮軍作戦参謀は、満州事変が起ると、朝鮮軍を率いて国境線の鴨緑江まで進んで待機した。金谷範三参謀総長は昭和天皇に朝鮮軍の越境出動を奏上したが、頑なに拒絶された。ところが、林銑十郎朝鮮軍司令官は独断で出動命令を下し、1万人以上の兵員を満州に進発させた。大元帥である天皇の命令なくして軍隊を動かすことは大犯罪であり、軍法会議で死刑になる決まりであった。慌てた陸軍首脳はこれを閣議に持ち込み、武力解決反対の若槻禮次郞首相や幣原喜重郎外相らは南次郎陸相を吊るし上げたが、林銑十郎司令官の越境朝鮮軍が既に満州に入ったとの報を聞くと若槻首相は「それならば仕方ないじゃないか」と一転、林司令官の行動の追認を閣議決定したばかりか、軍事費の特別予算拠出を決定、軍事予算急拡大の端緒を開いた。天皇の意思は無視されたわけだが、閣議決定には異を唱えない慣例のため、やむなく天皇も認可した。なお、新聞各紙は、林司令官を「越境将軍」などと持上げて犯罪行為を擁護した。
- 対外硬派の松岡洋右外相(元満鉄副総裁)の演説を契機に「満蒙は日本の生命線である」とする論調が活発化し、マスコミが煽ったため世論は「満蒙生命線論」に染まった。「二十億の国費、十万の同胞の血をあがなってロシアを駆逐した満州は日本の生命線である」という分り易いキャッチは瞬く間に国民を捕え、後に親米派に転じる吉田茂(奉天総領事)なども「満蒙の支配なくして経済的な繁栄も政治的な解決もない」と歓迎する有様だった。当時の弱肉強食の国際情勢からすると、戦線を満州に留める限り、合理的且つ現実的な方向性ではあったが、過剰な世論の後押しは永田鉄山・石原莞爾ら陸軍幕僚に決起を促す重要な支援材料となり、新聞記者は陸軍の接待攻勢に進んで抱込まれた。そして関東軍参謀の石原莞爾・板垣征四郎が柳条湖事件を起し満州事変が勃発すると、当時ダントツの部数を誇った朝日新聞・東京日日新聞(毎日新聞)など新聞各紙は陸軍礼賛一色となり、新聞に煽られた世論は好戦ムードに染まった。新聞各紙は号外連発で民衆を煽り、巨費を投じた戦争報道で大きく部数を伸ばし、味をしめて完全に陸軍の宣伝機関に堕した。また、満州事変への関心の高まりはラジオの普及も促進し、約65万人だった契約者数は半年後に105万人を突破した。この後、勇ましい戦争記事を載せないと他紙に部数を奪われるという自縄自縛に陥った新聞業界は終戦まで軍部礼賛を継続、「社会の木鐸」の使命を放棄したマスコミは日本国民を破滅へ誘う笛吹童子となった。
- 若槻禮次郞内閣の満州事変不拡大方針を不服とする橋本欣五郎(陸士23期)陸軍中佐ら「桜会」が、北一輝・西田悦・大川周明ら民間右翼と結託し東京で武装クーデター未遂事件を起した(十月事件)。桜会は同年3月にも「国家改造」を企てたが、非合法手段を認めない「一夕会」の永田鉄山・岡村寧次(16期)らの反対で首相に担ぐべき宇垣一成陸相に逃げられ失敗していた(三月事件)。捲土重来を期す橋本欣五郎は、親友の石原莞爾(21期)が起した満州事変に呼応し、若槻禮次郞首相・幣原喜重郎外相以下の政府要人を暗殺し荒木貞夫陸軍中将の組閣大命を得て軍事政権を樹立する、という陸軍史上最大級のクーデターを企てた。が、「宴会派」といわれた桜会の計画は永田鉄山が「たとえこころざしは諒とされても、こんな案で大事を決行しようと考えた頭脳の幼稚さは、驚き入る」ほど杜撰なもので、忽ち陸軍中央に発覚し首謀者は憲兵隊に一斉検挙された。永田鉄山は橋本欣五郎の極刑を主張したが、荒木貞夫・石原莞爾らの擁護論が通り内々に重謹慎二十日の軽処分で済まされ、陸軍は又も悪しき前例を積重ねた。処分を免れた大川周明は血盟団事件で團琢磨と井上準之助を暗殺し、北一輝・西田悦は陸軍青年将校を扇動し二・二六事件を引起すことになる。橋本欣五郎は反乱将校を擁護し予備役へ回されたが、日中戦争で軍務に復帰し、近衛文麿首相の新体制運動に加盟し翼賛選挙で衆議院議員となった。
- 第二次若槻禮次郞内閣は8ヶ月の短命に終わったが、在任の1931年は極めて重大な年であり、切所に政権を担った若槻首相は重大な失策を犯した。組閣後すぐに柳条湖事件が起り満州事変へ拡大、若槻禮次郞内閣は「不拡大方針」を決定し南次郎陸相を突上げたが、林銑十郎司令官の朝鮮軍が越境満州に入ったと聞くと「それならば仕方ないじゃないか」とあっさり追従、満州事変と「越境将軍」の追認を閣議決定したばかりか、戦費の特別予算編成を示唆し軍事予算急拡大を規定路線化した。柳条湖事件ではオッカナビックリだった石原莞爾らは勇気百倍し「満蒙問題解決案」を策定、帰国した板垣征四郎が優柔不断な陸軍首脳を説伏せ若槻禮次郞内閣は「満州国建国方針」を承認、軍部暴走を運命付けた決定的瞬間であった。天皇の「統帥権」を侵した石原莞爾・板垣征四郎・林銑十郎らは軍法会議で極刑に相当する重罪犯だったが、若槻禮次郞内閣の事後承諾で逆に評価される立場となり処罰どころか陸軍中枢への道を歩んだ。金解禁が不況に拍車をかけるなか井上準之助蔵相は金輸出再禁止を拒み続け、満州事変処理で機能停止に陥った民政党内閣は閣内不一致となり若槻禮次郞は首相を投出した。加藤高明内閣より憲政会・民政党政権の外相として対英米協調・対中国不干渉を主導してきた幣原喜重郎(加藤と同じく岩崎弥太郎の娘婿)は政界を去り「幣原外交」は終焉、日本外交の主導権は軍部および松岡洋右・大島浩・白鳥敏夫ら強硬派へ移った。政友会が政権を奪回したが、五・一五事件で犬養毅首相が斃され政党内閣は命脈を絶たれた。右翼やマスコミの軍部礼賛が盛上るなか、石原莞爾らは清朝の溥儀を担出し傀儡満州国を建国、松岡洋右全権が国連脱退のパフォーマンスを演じ日本の孤立化が始まった。民政党総裁を町田忠治に譲った若槻禮次郞は重臣会議に列し、米内光政・岡田啓介らの平和穏健路線を支持した。第二次大戦後、東京裁判検事のジョセフ・キーナンは岡田啓介・米内光政・若槻禮次郞・宇垣一成の四人を「戦前日本を代表する平和主義者」と持上げたが、実際の若槻は身を挺して国難にあたったわけでなく東條英機内閣打倒に一票を投じたに過ぎない。
- ワシントン・ロンドンで英米と軍縮条約を締結した海軍主導で軍事費の縮小が進んでいたが、満州事変勃発により一転、若槻禮次郞内閣は陸軍の永田鉄山・石原莞爾らに引きずられ軍事費の急増が始まった。1930年には約5億円とアメリカの3分の1・イギリスの半分ほどだった軍事費は、1931年から急拡大し、日中戦争開戦の1937年には50億円と十倍増してアメリカとイギリスの軍事費を上回るほどに膨張、1940年には遂に100億円を超えた。「財政の第一人者」高橋是清は、世界恐慌脱出のため軍事費を中心とする財政出動に賛成し日本は軍需バブルで他国より早く不況を脱したが、勇気をもって引締めに転じたため「君側の奸」に加えられ二・二六事件で殺害された。国家予算に占める軍事費の割合は、1930年には30%ほどだったのが、1937年以降は70%を超える水準で高止まりすることとなった。日独の軍拡に対抗するため英米も軍事費を増やしたが、それでも軍事予算割合は日本の半分程度に抑えられた。
- 満州事変を成功させた関東軍参謀の石原莞爾・板垣征四郎らは、満州から欧米列強の関心を逸らすべく各国の租界が集中する上海で武力衝突事件を発生させた(第一次上海事変)。上海日本公使館付き陸軍武官の田中隆吉中佐が現地で謀略工作を担当、田中は石原莞爾から約2万円の工作費を受取り、「東洋のマタ・ハリ」といわれた愛人の川島芳子などを使い「反日分子」に偽装させた不逞中国人に上海市街を托鉢中の日本人僧侶一行5人を襲撃させ、うち2人が死亡する事件を引起した。上海駐在の日本軍は満州に続けとばかりに国民政府の十九路軍に迫り、両軍が発砲して大規模武力衝突に発展した。陸軍中央は犬養毅内閣を強迫して白川義則司令官の二個師団・約3万人の日本軍を上海に送込み、瞬く間に十九路軍を撃退した。「華北分離」を期す武藤章・東條英機ら統制派幕僚は蒋介石の拠る南京まで攻込むべしと主張したが、昭和天皇から不拡大の厳命を受けた白川義則司令官は決然と停戦命令を下し上海事変を終息させた。なお曲者の田中隆吉は、終戦後の東京裁判に際し虚実取り混ぜた陸軍の非道をGHQに暴露し「陸軍の裏切り者」と憎まれ、「私が万一にも絞首刑になったら、田中の体に取り憑いて狂い死にさせてやる」と憤激した武藤章は現実に無念の極刑へ追込まれた。さて、米英の干渉で上海事変の停戦講和がまとまり、吉日(昭和天皇誕生日・天長節)を選んで上海北部の公園で調印式が執り行われたが、祝宴の最中、朝鮮人尹奉吉が手榴弾を投込むテロを起し、白川義則司令官ほか1名が死亡、重光葵公使は右脚を失い、野村吉三郎中将(ハル・ノートで有名)・植田謙吉中将・村井倉松総領事らが重傷を負う大惨事となった(上海天長節爆弾事件)。白川義則も重光葵も国際協調派の要人であり、伊藤博文暗殺と同様に反日原理主義者のテロが逆効果を招く皮肉が繰返された。なお韓国併合後、日本による朝鮮国家建設と民生向上に伴い反日運動は終息、金九ら少数の反日原理主義者は上海に逃避するも相変わらず内ゲバに明け暮れ、後に韓国初代大統領となる李承晩は政争に敗れ欧米へ逃避中だった。
- 満州事変当時の中国では、南京に拠る蒋介石の国民政府(国民党)が最有力ではあったが、分派した汪兆銘が広東政府を建てて国民政府に反抗、共産党勢力も勃興しつつあり、内戦乱麻は関東軍の石原莞爾らに付込む隙を与えた。そもそも漢民族にとって万里の長城外の満州は「化外の地」で自国意識は低く、蒋介石は共産党・赤軍征伐を最優先し満州事変を黙殺するスタンスをとっていた。また、欧米列強も満州に重要な権益を持たないため、満州に留まる限り日本との決定的対立は生じない状況であった。さらに事変以前に満州を支配した奉天軍閥の張学良も決戦を回避したため、若槻禮次郞内閣のお墨付を得た日本軍は寡兵をもって快進撃を続け、半年経たないうちに満州全域の制圧に成功した。満州事変首謀者の石原莞爾は「陸軍一の天才」と称されたが、ここまでの情勢推移を読んでいたとしたら凄い。
- 「方針-満蒙を独立国トシ我保護ノ下ニ置キ、在満蒙各民族ノ平等ナル発展ヲ期ス」関東軍参謀の石原莞爾・板垣征四郎は東京に一時帰国し、「一夕会」同志と「満蒙領有の前段階として宣統帝溥儀を擁立して日本の傀儡政府をつくり、南京に拠る蒋介石の国民政府から切離して独立国を樹立する方針」を策定、関東軍に「1年間の隠忍自重」を促した永田鉄山軍事課長も撤収に伴う事態悪化を危惧し「満州以外に絶対に兵力を使わない」条件で「独立政権の設定」を承認、板垣が陸軍首脳と若槻禮次郞内閣を説得し「満州国建国方針」を認めさせた。独断専行で満州事変を引起した板垣征四郎・石原莞爾・林銑十郎・神田正種らは、軍法会議で極刑に相当する重罪犯であったが、この事後承諾で逆に評価される立場となり、処罰どころか陸軍で出世の道を歩んだ。軍部暴走を正当化する致命的失策を犯した若槻禮次郞内閣は思考停止に陥り退陣、民政党政権の対中国不干渉・国際協調(幣原外交)を主導してきた幣原喜重郎外相も政界を退き、軍部・右翼および近衛文麿・松岡洋右・大島浩・白鳥敏夫らの強硬論が日本外交を席巻する時代へ移った。「中国通」の犬養毅内閣も手を付けられないなか、関東軍は満州全域を制圧し新京(長春)に満州国政府を樹立し中華民国(蒋介石の国民政府)からの独立を宣言した。国際批判をかわすため満洲国執政(のち皇帝)に愛新覚羅溥儀(清朝最後の皇帝)を据え中国人国家の体裁を整えたが、実態は純然たる傀儡であり、激怒した蒋介石は大抗議声明を発表、反日世論が沸騰し国共合作復活・統一民族戦線を求める機運が高まった。満州国では石原莞爾の「五族協和」の理想のもと統制経済に基づく壮大な国家建設が試みられ、「産業開発五ヵ年計画」を主導した岸信介ら「革新官僚」が台頭、陸軍の東條英機(関東軍参謀長)主導で星野直樹(国務院総務長官)・鮎川義介(満州重工業開発社長)・岸信介(総務庁次長)・松岡洋右(満鉄総裁)らによる支配体制が確立された(弐キ参スケ)。
- ロンドン海軍軍縮条約や第一次上海事変の不拡大に不満を抱く三上卓中尉・古賀清志中尉ら海軍青年将校の一団が、天皇をミスリードする「君側の奸を排除する」として武装蜂起し犬養毅首相を殺害した(五・一五事件)。新聞記者あがりの犬養毅は政界に転じても毒舌の皮肉屋で鳴らし、大の負けず嫌いだった。三上卓らが首相官邸に来襲すると犬養毅は「早くお逃げください」と促す村田警備官を制し「きみらは何者だ?」と応酬、落着いた態度で「待て、話せばわかる。撃つのはいつでも撃てる。話をしてからにしろ。靴くらい、ぬいだらどうだ」と諭すも三上は「問答無用!」と叫んで銃弾を浴びせ逃走、犬養はタバコに火をつけ「いまの若いものたちを、もう一度呼んでこい。わしがよく話してやる」と話した。頭部に命中した2発の銃弾は急所を外れていたが、銃傷を軽く看た医師団のミスもあり数時間後に犬養毅は死亡した。軍部が「君側の奸」と憎む西園寺公望元老・牧野伸顕内大臣・鈴木貫太郎侍従長も狙われたが難を逃れた。現役の軍人が首相を殺すという大犯罪であったが、海軍内部では艦隊派(軍拡派)の東郷平八郎元帥・加藤寛治大将を筆頭に同情論が支配的で、国民からも助命嘆願運動が起り、首謀者の三上卓と古賀清志が禁固15年・実行犯2人が無期懲役と禁固13年に処されたものの残りは全部無罪という到底考えられない判決が下され、受刑者も6年後の特赦で放免となった。三上卓は、血盟団事件を起すも特赦放免の井上日召・菱沼五郎・四元義隆ら血盟団残党に合流し「ひもろぎ塾」を結成、右翼シンパの近衛文麿はテロ犯をまとめて内閣顧問に招聘する。五・一五事件後、テロに怯える西園寺公望と牧野伸顕は東京を離れたが、鈴木貫太郎は暴挙を容認した軍部を決然と非難し、高橋是清蔵相も財政の観点から軍事費抑制の主張を曲げなかった。政権争いに終始し機能不全に陥った政党政治は五・一五事件で命脈を絶たれ、続く斎藤実内閣(海軍)から第二次大戦終結まで「挙国一致内閣」が続くこととなった。五・一五事件の容認に味をしめた軍部や右翼は怖いもの知らずとなり、逆に政治家はテロに屈して抵抗を放棄、暴力が支配する恐怖時代への幕開けとなった。
- 海軍青年将校が起した五・一五事件の収拾を図るべくテロに斃れた犬養毅に代わり海軍良識派の斎藤実が74歳にして組閣した。首相候補には平沼騏一郎と山本権兵衛の名も挙がったが、右翼の平沼は昭和天皇の「ファッショに近いものは不可」との意思により外され、山本は80歳の高齢であることと東郷平八郎元帥ら海軍艦隊派の反対により三度目の組閣を阻まれた。高まる軍部の専横を抑えるため、民政党と政友会からも閣僚を迎え入れた「挙国一致内閣」であった。なお斎藤実内閣の発足に伴い、長州閥打倒を掲げる永田鉄山ら「一夕会」が結党以来擁立に動いてきた荒木貞夫が陸相・真崎甚三郎が参謀次長(参謀総長は飾雛の閑院宮載仁親王)・林銑十郎が教育総監に就任し陸軍三長官の揃い踏みとなった。
- 国際連盟が満州情勢調査のために派遣したリットン調査団は、3ヶ月間の調査を経て報告書を提出した。リットン報告書は、満州の特殊事情に配慮した中立的な内容であり、満州国承認を求める日本の主張は否認したものの、蒋介石政府の原状回復要求も現実的でないと退け、通商条約締結による和解を日中両国に勧告する公正なものであった。が、国際連盟事務局は満州国の分離独立を否認し日本軍は従来の満鉄守備区域まで撤退せよという「中日紛争に関する国際連盟特別総会報告書」をジュネーブ特別総会に提出、採択の結果反対は日本のみ、賛成42票の圧倒的多数で日本軍の満州撤退勧告が決議された。リットン報告書から大幅に中国寄りへ傾いた背景には、中国権益保全のため国民政府を援助する英米の策動があったものと考えられる。国際連盟総会に出席した松岡洋右全権(元外交官・満鉄総裁の衆議院議員)は「さよなら」の捨て台詞を残し日本外交は議場を退場し、斎藤実内閣は国際連盟に脱会を通告した。松岡洋右の対外硬パフォーマンスは日本の孤立と不協調を印象付ける暴挙であったが、国際連盟は今日の国際連合以上に無力で発起人のアメリカは議会の否決で参加せず、ソ連も不参加、ブラジルは7年も前に脱退し、ドイツとイタリアも日本に続いた。また直後に日中間で「塘沽停戦協定」が成立しており(日本側代表は永田鉄山の盟友で関東軍参謀副長の岡村寧次)、満州事変・国際連盟脱退から一直線に日中戦争へ突き進んだわけではない(「十五年戦争」は正確ではない)。とはいえ、さすがの松岡洋右もスタンドプレーの失敗を認めアメリカに身をかわし帰国を逡巡していたが、ジャーナリズムも世論も歓迎一色と知り勇躍凱旋、「栄光ある孤立」「ジュネーブの英雄」と持て囃され一層ファシスト化した。
- 松岡洋右は米国オレゴン大学を出て外交官の傍流を歩んだが、山口出身ゆえに長州閥・後藤新平の引きで満鉄副総裁に就任、張作霖爆殺事件後の好戦ムードに乗じて「満蒙生命線論」を煽り、大衆人気を背景に衆議院議員へ転じた。「大東亜共栄圏」を唱える松岡洋右は、外務省主流の幣原喜重郎を弾劾し対英米協調・対中不干渉の「幣原外交」を打倒、1933年「満州国」が欧米の批判を浴びるなか首席全権として国際連盟総会に乗込み独断で派手な脱退劇を演じた。軍部と大衆の人気を得た松岡洋右は代議士を辞めて全国遊説し「政党解消運動」で首相を狙うも挫折、古巣の満鉄で総裁に就くと関東軍参謀長の東條英機を支持し親戚の岸信介・鮎川義介と共に陸軍主導の満州支配を実現させ「弐キ参スケ」に数えられた。1940年反欧米(現状打破)の近衛文麿が第二次内閣を組閣すると同志の松岡洋右は外相に就任、主要外交官40数名の一斉更迭など大粛清を強行し白鳥敏夫・大島浩・吉田茂ら積極外交派で外務省中枢を固め、田中新一・石川信吾ら陸海軍の強硬派と共に日独伊三国同盟および南進政策(北部仏印進駐)を主導した。が、徒に「漁夫の利」を狙う松岡洋右の場当り外交は激変する国際情勢で右往左往し脆くも破綻した。欧州を席巻するナチス・ドイツ軍の強勢をみた松岡洋右は「1940年秋頃」の大英帝国崩壊を予想し、第一次大戦における日英同盟と同様に日独同盟で参戦の口実を整え、米ソと不戦体制を維持しつつ手薄なアジアを攻め英仏蘭の植民地奪取を企図した(南進政策)。松岡洋右はスターリンと日ソ中立条約を締結し有頂天となったが独ソ戦勃発で計算が狂い、アメリカは意に反して大規模な英中援助に乗出し対日経済封鎖を強行、軍需物資の大半を対米輸出に頼る日本は窮地に陥った。慌てた松岡洋右外相は南進政策停止と対米妥協へ転じたが、野村吉三郎駐米大使の日米和解交渉を妨害し、蘭印との経済交渉も打切らせ、対ソ開戦(関東軍特種演習)を主張するに至り迷走は極みに達した。近衛文麿首相は内閣改造で松岡洋右を放逐したが既に退路は無く、日本は資源を求めて南部仏印進駐を強行し対米開戦へ引込まれた。
- 松岡洋右は米国留学時代からコカインを常用し中毒化していたとする説もあり、そのためか極めて浮き沈みの激しい性格で、国際連盟脱退や日独伊三国同盟・日ソ中立条約を締結して悦に入るかと思えば「こんなことになってしまって、三国同盟は僕一生の不覚であった」「死んでも死にきれない。陛下に対し奉り、大和民族八千万同胞に対し、何ともお詫びの仕様がない」などと号泣、そうかと思えば自己弁護に躍起になった。躁鬱でお調子者の松岡洋右は、訪米時には「キリストの十字架と復活を信じている」と公言して憚らず、ソ連のスターリン会談ではウォッカに泥酔し「私は共産主義者だ」と語ったかと思えば天皇を宸襟を慮って涙を流し、公式外交の場では「八紘一宇」だの「大東亜共栄圏」だのを大真面目に力説した。松岡洋右は一貫してコテコテの天皇崇拝者だったが、昭和天皇は軽佻浮薄で真実味のない松岡が大嫌いで『昭和天皇独白録』には「松岡は帰国してからは別人の様に非常なドイツびいきになった。恐らくはヒットラーに買収でもされたのではないかと思われる」「一体松岡のやる事は不可解の事が多いが彼の性格を呑み込めば了解がつく。彼は他人の立てた計畫には常に反対する、また条約などは破棄しても別段苦にしない、特別な性格を持っている」「松岡はソ連との中立条約を破ること(イルクーツクまで兵を進めよ)を私の処にいってきた。こんな大臣は困るから私は近衛に松岡を罷めさせるようにいった」などと珍しく痛烈な批判を書き連ねている。第二次大戦後、東京裁判でA級戦犯指定を受けた松岡洋右は「俺もいよいよ男になった」と勇んで出廷し自慢の英語で無罪を主張、死刑が確実視されるなか持病の肺結核が悪化し公判中に病死した。
- 林銑十郎は、永田鉄山・石原莞爾ら一夕会系陸軍幕僚に担がれ陸相・首相に上り詰めた。加賀藩出身の林銑十郎は陸士・陸大と進むも長州閥が牛耳る陸軍で傍流を歩んだ。が、長州閥打倒で結束した「一夕会」の少壮幕僚は担ぐべき上官を求め、上原勇作の佐賀閥に連なる真崎甚三郎・荒木貞夫・林銑十郎の三将官に白羽の矢を立てた。ここから林銑十郎の出世が始まり真崎甚三郎の推薦で陸軍大学校長に栄進、近衛師団長を経て朝鮮軍司令官となった。関東軍の石原莞爾らが柳条湖事件を起すと、朝鮮軍司令官の林銑十郎は神田正種参謀の進言に従い軍令を無視して派兵を断行、若槻禮次郞内閣の事後承諾を得て満州事変成功の立役者となった。「越境将軍」林銑十郎は「陸軍三長官」の教育総監へ栄転し、病気降板の荒木貞夫に代わり陸相に就任した。中国先攻を説く永田鉄山(統制派)と対ソ開戦を譲らない小畑敏四郎(皇道派)が対立し一夕会が分裂を起すと、陸相の林銑十郎は皇統派の真崎甚三郎と袂を別ち地方に飛ばされていた永田を陸軍省枢要の軍務局長に登用した。なお、「皇道派」は荒木貞夫・真崎甚三郎の両大将を担ぎ国家改造を期す急進改革派で、北一輝ら右翼の影響を受け武装クーデターも辞さない青年将校グループも巻込んだ。皇統派に対し下級将校の跳梁を認めない永田鉄山と腹心の東條英機・武藤章・田中新一らは「統制派」と称され、エリート幕僚が陸軍中央を掌握し全陸軍の威力をもって軍事政権樹立を図ろうとした。林銑十郎陸相を担ぎ人事権を握った永田鉄山は小畑敏四郎はじめ皇道派・対ソ開戦派を一掃し統制派が陸軍省・参謀本部・教育総監府を掌握、陸軍中央は永田の「中国一撃論」「国家総動員」で一枚岩となった。巻返しを図る皇統派は永田鉄山を斬殺し(相沢事件)二・二六事件に関与したが昭和天皇の逆鱗に触れ自滅、両派に属さず二・二六事件を断固処断した石原莞爾が陸軍の主導権を握り「猫にも虎にもなる(自由に操れる)」林銑十郎を首相に擁立した。カイゼル髭を靡かせ「祭政一致」を掲げた林銑十郎首相だが、「食い逃げ解散」失敗で陸軍にも見放され「何もせんじゅうろう内閣」は僅か4ヶ月で退陣した。
- 林銑十郎陸相・永田鉄山軍務局長の統制派コンビによって陸軍中央から締出された皇道派は不満を募らせて次第に過激化し、北一輝・西田税に感化された相沢三郎中佐ら強硬派は統制派に迅速果敢な「国家改造」を迫った。永田鉄山は皇道派の不満をかわすべく「たたかひは創造の父、文化の母である」で始まり総動員体制の軍事国家建設を勇ましく謳いあげる『陸軍パンフレット』を刊行した。この『陸パン』で皇道派は一旦溜飲を下げたが、政財界から猛反発を受けた林銑十郎陸相らが日和見の姿勢をみせたため、皇道派の不満は再燃した。
- 軍部の暴走抑止に努める西園寺公望・牧野伸顕・鈴木貫太郎・斎藤実・高橋是清・木戸幸一・一木喜徳郎ら天皇側近の重臣グループは「君側の奸」と敵視された。陸軍統制派と平沼騏一郎ら右翼は一木喜徳郎・美濃部達吉の「天皇機関説」を槍玉にあげ重臣の排撃を図り、真崎甚三郎・荒木貞夫ら陸軍皇道派は「国体明徴運動」を推進し「日本は万世一系の天皇が統治し給う神国である」という国家観を喧伝、マスコミも便乗したため全体主義・軍国主義が支配的となり言論封殺やテロを容認する空気が醸成された。国体問題が政局化するに至り統制派首領の永田鉄山などは慎重論へ転じたが、岡田啓介内閣の「国体明徴声明」で決着がついた。五・一五事件に怯えた西園寺公望・牧野伸顕は既に別荘に引籠り、一木喜徳郎は右翼の襲撃を受け隠退、過激派の敵意は猶も軍部に抵抗を続ける鈴木貫太郎や高橋是清へ向けられた。なお陸軍では、統制派に締出された皇統派の永田鉄山攻撃が加熱し相沢三郎中佐が永田斬殺事件を起した。皇統派は勢いを増し隊附青年将校グループによる二・二六事件が勃発、斎藤実内大臣・高橋是清蔵相・渡辺錠太郎陸軍教育総監が殺害され、テロを恐れる重臣は完全に腰砕けとなり抑え役を放棄した。リーダーの西園寺公望は首相指名権を重臣会議に譲り隠退、後継者と頼む近衛文麿の内閣が日独伊三国同盟を締結した直後に「これで日本は滅びるだろう。これでお前たちは畳の上では死ねないことになったよ。その覚悟を今からしておけよ」と側近に語り死去した。東京裁判で終身禁固に処された右翼の平沼騏一郎は巣鴨拘置所で重光葵に「日本が今日の様になったのは、大半西園寺公の責任である。老公の怠け心が、遂に少数の財閥の跋扈を来し、政党の暴走を生んだ。これを矯正せんとした勢力は、皆退けられた」と語ったという。終戦まで内大臣に留まった木戸幸一(木戸孝允の継孫)は主戦派の東條英機を首相指名する愚を犯したが、二・二六事件で一命を取り留めた海軍人の岡田啓介・鈴木貫太郎は重臣会議に加わった米内光政と共に東條英機内閣を倒し、鈴木内閣で昭和天皇の「聖断」を引出し第二次大戦の幕引き役を果した。
- 満州事変首謀者の石原莞爾が内地へ召還された後も関東軍の独断専行は収まらず、「他国の領土を占拠して満州国を建設することは、民族意識の上からみて穏当ではない。それは四億の中国人を敵に廻し日支親善に超え難い溝を造るものだ。決して日本の得策とならない。だから満州は成るべく早く中国人の手に渡すべきだ」と考える陸軍省の永田鉄山軍務局長は林銑十郎陸相を伴い満州へ渡った。「満州国軍の育成」に奔走する佐々木到一などは酒席で永田鉄山の弱腰を詰り、陸相の渡満中にも関わらず関東軍は中央の命令を無視し進軍を続けたが、永田は支那駐屯軍司令官の梅津美治郎に交渉を促し国民革命軍から「河北省内の中国軍の撤退、排日活動の禁止」などの合意を引出し(梅津・何応欽協定)一応の成果をみて東京へ帰還した。
- 北一輝・西田税の「国家改造論」を信奉する皇道派の相沢三郎中佐(陸士22期の剣豪)が、任地の広島県福山から鉄路上京して陸軍省軍務局長室に乗込み統制派首領の永田鉄山少将を斬殺した(没後中将へ特進)。永田鉄山は軍務局長の要職にあって陸軍中央から統制を乱す皇道派を締出す動きを主導しており、皇道派重鎮の真崎甚三郎大将の教育総監更迭問題を巡り両派の対立は沸点に達していた。教育総監更迭は林銑十郎陸相の肝煎りで永田鉄山は抑え役だったのだが、真崎甚三郎は永田を「恩知らず」と恨み陸軍人事を専断する「統帥権干犯」と糾弾し「三月事件」「陸軍士官学校事件」関与の濡れ衣を着せ攻撃、永田を犯罪者と信じ込んだ相沢三郎が暴挙に及んだ。罪の意識が無い相沢三郎は転任地の台湾へ向かおうとしたが逮捕されて軍法会議で死刑判決を受け、執行が迫ると暴れて手が付けられなくなり「真崎にそそのかされた」と恨み節を残したが、最期は従容と銃殺刑に服したという。永田鉄山斬殺事件後、真崎甚三郎・荒木貞夫を旗頭とする皇道派は「相沢に続け」とばかりに二・二六事件への策動を始めた。一方、永田鉄山を喪った統制派は求心力を失い、武藤章・田中新一・東條英機ら単純な強硬派が手柄を競うように暴走、統制派と距離を置く石原莞爾の不拡大路線を排して日中戦争を泥沼化させ、無謀な対米開戦へと突き進んだ。永田鉄山は一夕会に同志を結集して長州閥から陸軍の主導権を奪い「国家総動員体制」=軍事国家へのレールを敷いた戦前史最大のキーパーソンだが、遵法と陸軍の統制を重視し(統制派の由来)十月事件を起した橋本欣五郎の極刑を主張し、石原莞爾らの満州事変では暴走抑止に努めた。また、国家総動員は総力戦時代に伴う世界的潮流であり、第一次大戦を研究した永田鉄山はスイス流の武装中立国家を目指したともいわれる。一夕会・統制派の幹部で企画院総裁を務めた鈴木貞一は第二次大戦後「もし永田鉄山ありせば太平洋戦争は起きなかった」「永田が生きていれば東條が出てくることもなかっただろう」と無念がったというが、「陸軍の至宝」永田鉄山の早すぎる死は正に国家的損失であった。
- 大黒柱の永田鉄山が皇道派将校に殺害された後、陸軍の主導権は一夕会系の石原莞爾、武藤章、田中新一、東條英機へと変遷した。永田鉄山斬殺事件と二・二六事件への関与で真崎甚三郎・荒木貞夫・小畑敏四郎ら皇道派が自滅した後、二・二六事件を断固鎮圧した石原莞爾が陸軍中央で主導的立場となり、参謀本部に作戦部を創設して権限を集中し自ら作戦部長に就任した。石原莞爾は、自陣の林銑十郎・板垣征四郎を首相・陸相に担ぎ、持論の「世界最終戦争論」に沿った対中融和・日満蒙連携による国力・軍事力涵養政策を推進した。が、盧溝橋事件が勃発すると、日中戦争の泥沼化を予期し不拡大を唱える石原莞爾・河辺虎四郎・多田駿らは少数派となり、強硬な「華北分離工作」を主張する武藤章・田中新一・東條英機ら統制派と鋭く対立、近衛文麿首相・広田弘毅外相が日中戦争拡大に奔ったことで統制派が主導権を確立し陸軍中央から石原ら不拡大派を一掃した。この間の陸軍中央における政治空白は、東條英機・板垣征四郎ら出先指揮官の独断専行を招き関東軍が自律的に戦線を拡大させる事態をもたらした。武藤章らは永田鉄山以来の「中国一激論」に固執し「強力な一撃を加えれば国民政府は早々に日本に屈服する」との甘い期待のもと大量兵力を投入し中国全土に戦線を拡大したが、上海・南京が落ちても蒋介石は屈服せず日本軍は「点と線の支配」に終始、石原莞爾の危惧通り日中戦争は泥沼化した。武藤章は日中講和へ転じるも近衛文麿首相は「トラウトマン工作」を一蹴、「国民政府を対手とせず」と声明し蒋介石を後援する米英を「東亜新秩序声明」で挑発した挙句に日独伊三国同盟で敵対姿勢を鮮明にした。武藤章軍務局長は対米妥協に努めたが果たせず、主導権を奪った最強硬派の田中新一が東條英機内閣で対米開戦を断行、東條首相は憲兵隊を使って反抗勢力を締上げ宿敵の石原莞爾を軍隊から追放し倒閣工作に加担した武藤を前線のスマトラへ放逐した。「負けを認めない」田中進一は、ガダルカナル島撤退に反発して佐藤賢了軍務局長と乱闘事件を起し東條首相を面罵してビルマ方面軍へ左遷されたが、牟田口廉也司令官のインパール作戦の大暴挙に関与した。
- 「昭和維新」「尊皇討奸」を掲げる陸軍の隊付青年将校グループが独断専行で帝都駐在部隊1483人を動かし未曾有の武装蜂起事件を起した(二・二六事件)。反乱将校らは皇道派の真崎甚三郎大将を首班とする軍事政権樹立を目指し、帝都要衝の総理大臣官邸・警視庁・陸軍省・参謀本部・東京朝日新聞を武装占拠し「国家改造」を要求、最終目標の皇居占拠・天皇確保は近衛師団に阻まれ断念したが、岡田啓介首相・高橋是清蔵相・斎藤実内大臣・鈴木貫太郎侍従長・渡辺錠太郎陸軍教育総監・牧野伸顕前内大臣を次々と襲撃し高橋・斎藤・渡辺を殺害、岡田首相は側近の身代わりで虎口を逃れ、鈴木は重傷を負うも一命を取留めた。岡田・斎藤・鈴木は海軍条約派・高橋は財政家として軍拡要求に反対し「君側の奸」と憎まれていた。陸軍は大混乱に陥り反乱部隊と気脈を通じる真崎甚三郎・荒木貞夫・本庄繁ら皇道派重鎮と、荒木を「バカ大将」と面罵し断固鎮圧を主張する石原莞爾らの対立があったが、信頼する重臣を殺害された昭和天皇は「反乱」鎮圧を厳命した。3日後の2月29日、敬慕する昭和天皇に朝敵の烙印を押された反乱将校は部隊を解散して兵卒を原隊に復帰させ2人が拳銃自殺し他は全員投降、最終的に反乱将校16人および黒幕とされた民間右翼の北一輝と西田税が死刑に処され、数十人に禁固刑判決が下された。二・二六事件後、茫然自失の岡田啓介首相が退陣し広田弘毅内閣が発足、中立派の寺内寿一を陸相に担いだ石原莞爾が陸軍の綱紀粛正を断行し、皇統派は処罰を免れるも真崎甚三郎・荒木貞夫ら7大将と小畑敏四郎・山下奉文を含む将佐官の悉くが陸軍中央から追放された。日中戦争が始まると武藤章・田中新一ら統制派が不拡大を説く石原莞爾から陸軍の主導権を奪い強硬外交と軍国主義化を牽引、皇統派に憎まれ予備役間近といわれた東條英機も一躍陸軍中枢へ台頭し、テロの脅威が蔓延するなか軍部は再発をちらつかせて強迫姿勢を強め、結果的に二・二六事件は反乱将校が目指した軍事国家樹立への重大な伏線となった。
- 二・二六事件で退陣した岡田啓介に代わり外相の広田弘毅が組閣した。元老の西園寺公望は近衛文麿を推薦したが、陸軍皇道派・青年将校に同情的な近衛に断られ、独占してきた首相指名権を重臣会議に譲り一線を退いた。最難局の後継選びは難航したが、重臣の一木喜徳郎が広田弘毅を推し、賛同した近衛文麿が懇意の吉田茂(広田と同期の外務官僚)を送り承諾させた。右翼結社「玄洋社」に属し出自も悪い広田弘毅の組閣に昭和天皇は難色を示し「名門を崩すことのないように」と異例の訓示を与え、広田は「自分は50年早く生れ過ぎたような気がする」と漏らしたという。外務省傍流ながら野心家の吉田茂は外相を狙ったが、軍部の反対で挫折し駐英大使に回されている。前年に統制派首領の永田鉄山が斬殺され(相沢事件)二・二六事件を起した陸軍は激しく動揺したが、一夕会員ながら両派に属さない石原莞爾が主導権を握り中立派の寺内寿一(長州閥の寺内正毅の嫡子)を広田弘毅内閣の陸相に擁立、軍規粛清を掲げ二・二六事件に関与した真崎甚三郎・荒木貞夫ら七大将を予備役に追込み皇道派の将佐官を陸軍中央から一掃した。その結果、武藤章・田中新一ら「中国一撃論」の統制派が圧倒的優勢となり、予備役編入を噂された東條英機も復活し関東軍参謀長に就任した。さて、昭和天皇と重臣会議に軍部抑制を期待された広田弘毅首相だが、玄洋社右翼の本性を現し軍部の強硬外交を助長、軍部大臣現役武官制の復活・「満州開拓移民推進計画」決定と開拓移民団の派遣・日独防共協定調印・「北守南進政策」の決定・海軍軍縮条約廃棄と、1年に満たない広田弘毅内閣のもと軍国主義化と反米英路線が一気に加速した。第一次近衛文麿で外相に復帰した広田弘毅は再び強硬外交を展開、盧溝橋事件が起ると直ちに増派を決定して日中戦争へ拡大させ、トラウトマンの和解工作を蹴り「蒋介石の国民政府を対手とせず」との第一次近衛声明で日中戦争を泥沼化へ追込み、無謀な「東亜新秩序声明」で英米を敵に回す愚を犯した。
- 寺内寿一陸相と政党の対立激化で「腹切り問答」が起り広田弘毅内閣が総辞職、代わって陸軍の林銑十郎が組閣した。重臣会議は陸軍長州閥の系譜を継ぐ穏健派の宇垣一成を首相指名したが、石原莞爾ら一夕会系幕僚は宇垣内閣を「流産」させ林銑十郎を擁立した。林銑十郎は、満州事変で参謀の石原莞爾・神田正種に担がれ朝鮮軍の越境出動を断行し、皇道派の真崎甚三郎に属したが永田鉄山へ鞍替えし統制派優先人事を後援した人物で、石原にとっては「猫にも虎にもなる」便利な傀儡であった。時代錯誤で意味不明な「祭政一致」を掲げ発足した林銑十郎内閣は、政党勢力に打撃を与えるべく抜打ち解散(食い逃げ解散)を強行したが続く総選挙で惨敗、陸軍にも見放されて僅か4ヶ月で退陣し「何もせんじゅうろう内閣」と揶揄された。
- 4ヶ月で自滅した林銑十郎内閣の退陣を受け第一次近衛文麿内閣が発足、広田弘毅が外相に復帰した。五摂家筆頭でスマートな近衛文麿は昭和天皇・西園寺公望らに軍部抑制の切り札と期待され、反米英・現状打破の論客で陸軍と大衆にも受けが良く、早くから首相候補に擬せられていた。組閣後間もなく盧溝橋事件が発生、陸軍統制派の「中国一激論」に感化され中国の抵抗力を侮る近衛文麿首相・広田弘毅外相・米内光政海相は直ちに強硬姿勢を鮮明にし、武藤章・田中新一ら陸軍の「華北分離工作」に応じて朝鮮および満州から二個師団・日本から三個師団を華北戦線へ投入、日中戦争が始まった。日本軍は北京・天津・上海を攻略し(第二次上海事変)国民政府の首都南京を落とし武漢三鎮まで占領したが、補給線は限界に達し中国軍の逃避戦術で決定的勝利を収められず戦線は膠着した。国民に厭戦ムードが広がると近衛文麿内閣は「八紘一宇」「王道楽土」などと戦意高揚に腐心し、陸軍すら停戦へ傾くなかトラウトマンの和解工作を蹴り「蒋介石の国民政府を対手とせず」という第一次近衛声明で自ら講和の道を塞ぎ日中戦争を泥沼へ引きずりこんだ。さらに、陸軍統制派念願の国家総動員法で軍国主義化を決定付け、無謀な「東亜新秩序声明」で欧米を激しく挑発し日米通商航海条約破棄および蒋介石支援強化(援蒋ルート)を招来した。
- 北清事変後に日本人居留民保護のために天津に駐留した日本軍は、増派により一旅団(約7千人)の規模となっていた。この天津駐留軍のうちの一大隊が、盧溝橋付近で軍事演習中に偶発的に中国軍と衝突、緊張が高まった。第一報を受けた牟田口廉也連隊長は無断で抗戦命令を出したが、特務機関が間に入って一旦は停戦協定が成立した。ところが、牟田口廉也は協定を無視して軍を進め、中国軍から銃撃を受けると又も無断で攻撃命令を下し宛平県城を攻落し天津付近の中国軍を掃討、戦闘はすぐに上海へ飛び火し「日中戦争」が始まった。現地指揮官の河辺正三旅団長は牟田口廉也の暴走を黙認した。なお、皇道派に属した牟田口廉也は二・二六事件で陸軍中央を追われ天津に左遷されたが、盧溝橋事件を統制派に評価され「東條英機の子分」となった。8年に及ぶ日中戦争のトリガーを引いた牟田口廉也・河辺正三コンビは、お咎めなしどころか東條英機に引立てられ、ビルマ方面軍指揮官として「インパール作戦」で再び大暴走、イギリス軍に無意味なインド侵攻作戦を仕掛け6万4千人(拉孟騰越戦の2万9千人を含む)もの戦死者と4万2千人の戦傷病者を出す戦史上最悪の大失策を犯した。
- 二・二六事件後、陸軍中央では反乱将校および皇統派の断罪を主導した石原莞爾作戦部長が指導的地位に就き、日中戦争泥沼化を予期し停戦工作に奔走したが、石原に従う河辺虎四郎・多田駿らは少数派であり、蒋介石政府を侮り戦線拡大(華北分離工作)を主張する武藤章・田中新一・東條英機ら統制派と鋭く対立、武藤などは作戦部の部下ながら「石原閣下が満州事変当時にされた行動を見習っている」などと愚弄する始末であった。石原莞爾は政府にも直接不拡大を説いたが、統制派以上に強硬な近衛文麿首相・広田弘毅外相に拒絶され米内光政海相も断固膺懲を主張したため進退窮まり、石原は関東軍参謀副長に左遷され(関東軍参謀長の東條英機と衝突し予備役編入)河辺虎四郎・多田駿ら不拡大派も一掃された。この間の陸軍中央における政治空白は東條英機ら出先指揮官の独断専行を許し関東軍が自律的に戦線を拡大させる無秩序状態をもたらした。陸軍の指揮権を奪った武藤章ら統制派は、永田鉄山以来の「中国一激論」に固執し、強力な一撃を加えれば国民政府は早々に日本に屈服するとの予測のもと大量兵力を投入し戦線を拡大させたが、上海・南京を落としても蒋介石は屈服せず日本軍は「点と線の支配」に終始、石原莞爾の読み通り日中戦争は泥沼化し日本軍は不毛な消耗戦を強いられ、英米の中国権益を侵し蒋介石支援に奔らせる結果を招いた。
- 泥沼化の様相を深める日中戦争に対し、世論には厭戦ムードが広がり、張本人である陸軍の武藤章さえも停戦論に傾いた。そこで、オスカー・トラウトマン駐中国ドイツ大使を介して日中和解工作が進められ、停戦への期待が高まった。ところが、近衛文麿首相・広田弘毅外相は賠償金要求など非現実的な強硬論を主張し「軍部がかくの如く拙策をとって講和を急ぐ真意は理解できない」として折角の和解案を蹴ってしまった。国際良識派とされ後に日独同盟・対米開戦に反対する米内光政海相は、このとき断固膺懲を唱え、陸軍参謀本部の停戦要求に反対した。トラウトマン工作を一蹴した翌日、悪乗りした近衛文麿首相・広田弘毅外相は「蒋介石の国民政府を対手とせず、汪兆銘政府(日本の傀儡)を樹立してそちらと交渉する」との「第一次近衛声明」を発表した。蒋介石政府との和解への道を自ら塞ぐ軽挙妄動で日本は泥沼の日中戦争から抜けようにも抜けられない状態に陥り、蒋介石を援助する英米との妥協も著しく困難となった。対外硬パフォーマンスで国民大衆のウケをとった近衛文麿・広田弘毅は、更に「日本・満州・中国(汪兆銘政権)が提携して東亜新秩序を樹立する」というスローガンを帝国議会で開陳し「第二次近衛声明」として国内外に公表した。例に拠って近衛文麿に深い考えは無く、当時ナチス・ドイツが唱えていた「ヨーロッパ新秩序」に倣い日中戦争を正当化する目的で発したものとみられる。が、欧米列強にすれば現行の国際秩序に対する露骨な挑発行為であり、愚かな近衛声明により態度を硬化させたアメリカは天津事件を機に日米通商航海条約を破棄し日独伊三国同盟への敵対姿勢を鮮明にした。
- 一撃を加えれば蒋介石政権は屈服し日中戦争は早期に片付くという武藤章の「中国一激論」は挫折し日中戦争は泥沼化、武藤は自ら起草した「華北分離工作」を捨てて日中講和へ転じトラウトマン工作などに加担したが、陸軍以上に強硬な近衛文麿首相・広田弘毅外相は和解案を一蹴し悪乗りの「近衛声明」で自ら日中講和への方途を塞ぎ、陸軍では田中新一・東條英機らの強硬論が優勢となった。田中新一は自他共に認める永田鉄山の後継者で、軍需資源を求めて日中戦争拡大を図ると同時に、対ソ連開戦を目論み事実上の開戦準備(関東軍特種演習)を断行した最強硬派であった。日中戦争で中国権益を侵された英米は蒋介石支援を強化(援蒋ルート)、反米英の田中新一は資源調達の代替手段を準備すべく東南アジア進出を強行し(南進政策)、武藤章は中ソ二正面作戦を回避すべく南進には同意したが国力が懸絶するアメリカとの戦争には反対で妥協は可能との考えであった。対する田中新一は、南進政策を採る以上イギリス権益との衝突は自明で大英帝国の国力低下は対ドイツ戦に不利に働く、となればイギリスを欧州安全保障の要に置くアメリカの軍事介入は避けられないと考え、援蒋ルートの遮断と対米開戦準備、さらに欧州でソ連・イギリスと対峙するナチス・ドイツとの同盟を強硬に主張した。結局、第二次近衛文麿内閣は田中新一・松岡洋右らの強硬策を採用し日独伊三国同盟・南部仏印進駐を断行するがアメリカの石油輸出全面禁止を招き、進退窮まった近衛が政権を投出すと統制派最年長の東條英機が首相に就き石油禁輸が致命的な海軍の同意を得て対米開戦を決定した。
- 近衛文麿内閣は、永田鉄山以来の陸軍統制派の悲願である国家総動員法を成立させた。徴用、賃金、物資の生産・消費など、国民が有するあらゆる権利を国防の名のもとに政府が統制できるという無茶苦茶な法律であり、軍部が総力戦を遂行するためには是非とも必要なものであった。国家総動員法案には、さすがに政友会や民政党も猛反対したが、なんと左翼の社会大衆党が党利党略から賛成にまわり、西尾末広代議士などは議会で勇ましい応援演説を打ち、政友会の重鎮尾崎行雄まで西尾を支持する有様であった。堕落した政党勢力に押し留める力はなく、近衛首相と軍部に押し切られる形で国家総動員法案が成立してしまった。
- 満州西北部のノモンハンを中心とするホロンバイル草原で、関東軍・満州国軍と、極東ソ連軍・モンゴル軍とが激突した。満州国を認めないソ連軍とモンゴル遊牧民には国境意識が希薄であり、偶発的な小競り合いが頻発するなか些細な「国境紛争」で片付くはずだった。「北守南進論」を採る陸軍中央はソ連との衝突を回避する方針で植田謙吉関東軍司令官に不戦を厳命したが、戦争がなく無聊をかこつ関東軍作戦参謀の服部卓四郎と辻政信は命令を無視して第23師団以下に戦闘命令を下し無用の大戦闘を引起した。ソ連のスターリンは、ドイツがポーランドに侵攻する前に日本軍を叩き潰して東方の安全を確保すべく徹底抗戦を決意、名将ジェーコフを総指揮官に最新鋭の機械化戦車部隊・重砲部隊・航空機部隊を投入した。著しく軍備が劣る日本軍は大苦戦、前線で戦った連隊長のほとんどが戦死または自決し大損害を出して撤退した。ソ蒙軍の損害も大きく日本軍の7720人を上回る戦死者を出したが、実態は日本軍の完敗であった。植田謙吉司令官をはじめ関東軍幹部は責任を問われ退役したが、首謀者の服部卓四郎と辻政信は免責どころか東條英機・田中新一の庇護で陸軍中枢の参謀本部作戦課に呼戻され、ノモンハン事件の反省無きまま南進政策に精を出した。作戦参謀としてシンガポールに赴任した辻政信は「華僑虐殺事件」を引起し、終戦直前のビルマ戦線で敵兵の人肉食を強要、敗戦が決すると僧侶に化けて戦犯追及を逃れ、ほとぼりが冷めると日本に舞戻り逃避行記『潜行三千里』がベストセラー、ワシントン講和後に衆議院議員4期と参議院議員1期を勤め岸信介首相を「東條英機内閣の閣僚だった」と糾弾したが、ラオス視察中に行方不明となり死亡が宣告された。東京裁判での起訴を免れた服部卓四郎はGHQに取込まれ、ウィロビー(G2)肝煎りの「服部機関」で米国の意向に添った太平洋戦史の編纂にあたり、自ら出鱈目な『大東亜戦争全史』を出版した。日本の再軍備に際してウィロビーはマッカーサーに服部卓四郎を参謀総長に推薦したが、吉田茂の猛反対で事無きを得た。
- 天津のイギリス租界内で、日本人に便宜を図った関税委員が反日中国人に殺害される事件が起った(天津事件)。日本は犯人の引渡しを求めたが、イギリス領事館が拒否したため、北支那方面軍の山下奉文参謀長と武藤章参謀副長らの強硬派が乗出し、国際紛争に発展した。日本国内では反英的な論調が盛んとなり、東京朝日新聞、東京日日新聞(毎日新聞)をはじめとする大新聞各社がイギリスに対して強硬な共同声明を出すに至った。イギリスは日本との決定的対立を避けるために抵抗を止め、クレーギー駐日英大使が東京で有田八郎外相と会談、日本の要求を全面的に受入れて和解協定を結んだ。これで一件落着と思われた矢先に、突如としてアメリカが日米通商航海条約の破棄を通告してきた。ルーズベルト政権のハル国務長官は、近衛文麿首相の「東亜新秩序声明」や「イギリスは日本に降参した」とか「徹底的外交の勝利」といった日本の論調に露骨な不快感を示し、中国、イギリスその他を支援して日独伊に敵対行動をとることを表明した。日本は主要な軍需物資である鉄・石油・機械類を輸入に依存しており、特にアメリカからの輸入が各品目とも輸入額の約4分の3を占めていた。第一次近衛文麿内閣の悪乗りが招いた対米関係の悪化は日本にとって致命傷であり、万難を排してでも妥協点を探るべきであったが、逆に陸海軍は資源の代替供給源を求め南進政策を推進し第三次近衛内閣のもと南部仏印進駐を断行する。
- 阿部信行は、金沢から上京して陸士・陸大へ進み、長州閥「宇垣一成の寵児」として軍務局長・陸軍次官・陸相(宇垣陸相の臨時代理)と累進したが、実戦経験も金鵄勲章も無い唯一の大将は「戦わぬ将軍」「処世の将軍」と揶揄された。長州閥打倒で結束した永田鉄山ら一夕会・統制派が実権を掌握すると、阿部信行は「上りポスト」の軍事参議官に回され、二・二六事件に伴い予備役編入、頼みの宇垣一成内閣も石原莞爾らの妨害で流産した。が、平沼騏一郎内閣が独ソ不可侵条約で倒れると、統制派にも皇道派にも属さない阿部信行に組閣の大命が降った。阿部信行は、陸軍穏健派の宇垣一成の後継者であると同時に、西園寺公望に代わり天皇側近の中心になりつつあった木戸幸一の縁戚で、海軍良識派の井上成美の義兄でもあった。阿部信行内閣の組閣に際し、強硬派の板垣征四郎が陸相を降ろされ昭和天皇の意を受けた穏健派の畑俊六が就任、三国同盟反対を譲らない米内光政海相も降板した。後任海相は同じ良識派の山本五十六が有力だったが、テロに遭う恐れがあるので海に出そうということで連合艦隊司令長官に転出、良識派に連なる吉田善吾が海相に就いた。さて、発足直後に第二次世界大戦の勃発に遭遇した阿部信行内閣は、複雑怪奇な日独伊三国同盟を棚上げし日中戦争処理に全力を挙げるも和平工作に失敗、流通促進のための米価引上げが物価高騰を招き、あまりの不人気に陸軍も倒閣に動き僅か4ヶ月余で総辞職に追込まれた。阿部信行は終戦直後、原田熊雄に「今日のように、まるで二つの国、陸軍という国とそれ以外の国とがあるようなことでは、到底政治がうまくいくわけはない。自分も陸軍出身で前々から気になってはいたがこれほど深刻とは思っていなかった。認識不足を恥じざるをえない」と弁明している。退陣後の阿部信行は、宇垣一成から東條英機に乗換え組閣を支援、翼賛政治会会長や貴族院議員の名誉職を与えられ、米内光政・宇垣らの東條内閣打倒の動きには加担しなかった。最後の朝鮮総督として終戦を迎えた阿部信行は、早々に米軍の護送で内地に戻り、A級戦犯容疑で逮捕されたが開廷直前に釈放された。経緯は今も謎である。
- 強固な対米英協調主義者で三国同盟反対の姿勢を崩さない米内光政首相は、畑俊六陸相が辞任し陸軍が後任陸相選出を拒否したため軍部大臣現役武官制により倒閣に追込まれ、陸軍に受けの良い「亡国の貴公子」近衛文麿が第二次内閣を組閣した。近衛文麿自身は中国蔑視・反英米主義者ではあるものの確たる政治信念はなかったが、大島浩(後の駐独大使)・白鳥敏夫(後の駐伊大使)・徳富蘇峰・中野正剛・末次信正(海軍艦隊派)・久原房之助(後の大政翼賛会総務)ら親独・反英米の大物連を取巻きとしたため近衛内閣の使命は自ずから三国軍事同盟と国家総動員の新体制運動(大政翼賛会に結実)となった。近衛文麿首相は、外相に反英米派急先鋒の松岡洋右を復活させ、陸相には統制派最年長の東條英機を採用した。海相には対英米協調派の吉田善吾が留任したが、松岡洋右外相・陸軍のみならず海軍の艦隊派からも突上げられノイローゼとなって辞任、後任海相には及川古志郎が就任した。なお、財界から阪急・東宝グループを築いた小林一三が商工相で入閣したが、統制経済を牽引する商工次官の岸信介と衝突、企画院事件で共倒れとなった。小林一三は政治から手を引いたが、「革新官僚」岸信介は続く東條英機内閣で商工相に昇進した。
- 第二次内閣を組閣した近衛文麿は、反米英の松岡洋右を外相・東條英機を陸相に据え、使命に掲げるナチス・ドイツとの同盟を強力に推し進めた。米内光政・山本五十六・井上成美ら海軍良識派に近い吉田善吾海相は反対したが海軍内でも岡敬純・石川信吾に突上げられノイローゼとなり辞任、後任海相の及川古志郎には陸軍が米内光政内閣を倒したように海相拒否で対抗する手もあったが、石川信吾・豊田貞次郎らの強迫でナアナアとなり、陸軍が出した海軍予算確保の餌に釣られた。直後の海軍首脳会議で連合艦隊司令長官の山本五十六は最後の抵抗を試みたが伏見宮博恭王元帥の「ここまできたら仕方がないね」の一声で勝負あり、皮肉にもバトル・オブ・ブリテンでドイツ軍が敗れた当日それを知らない日本海軍は同盟承認を最終決定した。かくして、陸軍は明治以来の仮想敵国ソ連の牽制、海軍は米英との建艦競争予算の確保、松岡洋右外相は首相就任に向けた大衆・軍部へのアピールと、三者三様の思惑を近衛文麿首相がまとめあげ日独伊三国同盟が成立したが、最強国アメリカを正面敵に回す痛恨事であった。最後の元老で近衛文麿を後継者にした西園寺公望は「これで日本は滅びるだろう。これでお前たちは畳の上では死ねないことになったよ。その覚悟を今からしておけよ」と側近に語り2ヵ月後に世を去った。アメリカは即座に報復し軍事物資などの経済封鎖を強化(ABCD包囲網)、石油が無ければ一日も軍艦を動かせない海軍は強硬派の岡敬純・石川信吾および海軍国防政策委員会の独壇場となり、田中新一ら陸軍反米派と提携し産油地獲得と援蒋ルート遮断を目的に南部仏印進駐を強行した。陸海軍も近衛文麿内閣もアメリカは強攻策に出ないと信じたが甘い期待は裏切られ、対日開戦を決意したアメリカは石油輸出全面禁止を敢行、自分の首を絞めた日本は勝ち目の無い対米開戦へ追込まれた。万策尽きた近衛文麿が政権を投出すと、木戸幸一内大臣は東條英機を後継首相に推挙し重臣会議(若槻禮次郞・岡田啓介・広田弘毅・林銑十郎・阿部信行・米内光政・原嘉道)は「天皇に忠実」という理由で最悪の人選を受入れた。
- 三国同盟成立により英米が日本の正面敵国となったのを受け、また英米から蒋介石軍への軍需物資輸送路(援蒋ルート)を遮断するため、陸軍と近衛文麿政府は北部仏領インドシナ(仏印)進駐を断行、親独のヴィシー仏政権はインドシナにおけるフランスの主権を認めることを条件に日本軍の平和進駐を承認した。が、血気に逸る日本軍の暴走で仏印軍と交戦、近衛文麿政府が世界の非難を浴びるなか責任者とされた富永恭次参謀本部第1部長が更迭され後任に最強硬派の田中新一が座った。とはいえ、ドイツの傀儡というべきインドシナ植民地政府は日本への協力体制をとりアンチモン・タングステン・米などの供給源となった。
- 皇族軍人の伏見宮博恭王は、1932年の満州事変直後から1941年の対米開戦に至る最重要期に10年も軍令部総長の座を占めた海軍暴走のキーパーソンである。伏見宮愛親王の庶子ながら華頂宮を相続した伏見宮博恭王は、皇族男子の慣例に従い軍部へ進み、ドイツ海軍大学校留学を経て海軍将校となった。宮様として名誉職を歴任した伏見宮博恭王は飾雛で終わるべきだったが、ロンドン海軍軍縮条約を巡り統帥権干犯問題が起ると軍拡反米英の「艦隊派」に加担、「海軍の父」山本権兵衛の「失礼のないように」との申送りで一躍実力を伴う軍令部総長に擁され、東郷平八郎の死に伴い唯一の海軍元帥となった。統帥権干犯問題は喧嘩両成敗で決着し艦隊派首領の加藤寛治・末次信正が失脚したが、加藤から軍令部総長を継いだ伏見宮博恭王は天皇の名代として軍令部の権限強化を図り海軍人事を掌握、米英との軍事衝突回避を最優先する「条約派」を一掃し海軍のバランス機能を破壊した。伏見宮博恭王元帥のもと海軍主流となった岡敬純・石川信吾・大角岑生・南雲忠一ら艦隊派は、広田弘毅内閣で海軍軍縮条約廃棄を果し「大和」「武蔵」の巨大戦艦建造に邁進(大鑑巨砲主義)、米英に対抗すべく陸軍・松岡洋右が進めるナチス・ドイツとの同盟を支持した。アメリカを正面敵に回す愚を知る米内光政・山本五十六・井上成美の「良識派」トリオは劣勢ながら抵抗を続け、連合艦隊司令長官の山本は海軍首脳会議で最後の抵抗を試みたが、伏見宮博恭王元帥の「ここまできたら仕方がないね」の一声で勝負あり海軍は日独伊三国同盟承認に決した。伏見宮博恭王は昭和天皇から海軍出師準備令を引出し、海軍中央は石川信吾ら「海軍国防政策委員会」の独壇場となり近衛文麿内閣に南部仏印進駐を迫り対米開戦へ導いた。開戦責任回避のため伏見宮博恭王は軍令部総長を退いたが最後まで影響力を保持し、終戦翌年に薨去した。サイパン陥落後の元帥会議で伏見宮博恭王は「何か特殊兵器(特攻の意)を使え」と指示、禁断の特攻作戦が現実プランに浮上し海軍軍令部はレイテ沖海戦に「神風特別攻撃隊」を投入、万余の若者が狂気の特攻隊に駆出されることとなった。
- 岡敬純軍務局長・石川信吾第二課長が及川古志郎海相の承認を得て、軍政(予算獲りと政権コントロール)に長けた陸軍に対抗すべく「海軍国防政策委員会」を設置、4委員を高田利種・石川信吾・富岡定俊・大野竹二の対米強硬派の大佐が占め次席の幹事役にも対米強硬派の三中佐が就任した。「不規弾」(暴走男)といわれた石川信吾の重用には反発が多く、山本五十六は南部仏印進駐を図る石川を「早く首にしろ」と迫るも及川古志郎海相に黙殺され乾坤一擲の真珠湾攻撃の構想に着手したとされる。海軍の国防政策や戦争指導は海軍国防政策委員会の独壇場となり、伏見宮博恭王元帥を後ろ盾に岡敬純・石川信吾が中心となって南部仏印進駐を強行、予期せぬ対日石油禁輸制裁に岡は弱気に傾いたが石川は動揺を隠すように先鋭化し対米開戦へ邁進した。帝国海軍痛恨の「大鑑巨砲主義」の主導者もまた石川信吾で、山本五十六らの航空兵力優先論を退け海軍の全精力を戦艦「大和」「武蔵」の建造に集中、膨大な燃料を食うだけの「大和ホテル」は役立たずのまま「特攻作戦」に投入され沖縄に辿り着くこともできず撃沈された。海軍の元凶というべき岡敬純と石川信吾は共に山口県出身で中学も同じ(東京目黒の攻玉社)、同郷の松岡洋右や末次信正(海軍艦隊派の首領)とは昵懇の間柄で、吉田善吾海相を突上げ三国同盟締結に貢献した。対米開戦後は東條英機ら陸軍が完全に主導権を握り、「東條の男めかけ」といわれた嶋田繁太郎海相や永野修身軍令部総長は引きずられるだけ、海軍国防政策委員会の陰も薄くなった。終戦後、開戦時の軍務局長岡敬純は東京裁判で終身禁固刑に処されたが、「この戦争は俺が始めたんだ」と自慢した石川信吾は戦犯指定を免れた。
- 1941年、日独伊三国同盟にソ連を加え米英に対抗しようと夢想する松岡洋右外相は、ベルリンからの帰路モスクワへ立寄りソ連のスターリンを訪問した。独ソ関係が不穏で会談拒否も考えられたが、スターリンは快く松岡洋右を引見し席上電撃的に日ソ中立条約を受諾、当日中に調印まで済ませしてしまった。スターリンは諜報によりナチス・ドイツのソ連侵攻を掴んでいたとみられ、日独との両面戦争を何としても回避したい状況で松岡洋右の提案は渡りに船だった。モスクワ滞在中の松岡洋右に対しチャーチル英首相は英米の生産力の強大さを示しドイツのソ連侵攻を警告したうえで「イギリスの敗北が決していないのにドイツと組むのは時期尚早ではないか」と諭す書簡を送ったが、なんと松岡は「八紘一宇の大目的実現のためにやっているのだから構うな」と近代国家の外相とは思えない暴論で反駁した。「大手柄」を挙げた松岡洋右は万歳三唱をもって日本国民に迎えられ、マスコミが「北の脅威が薄れた。さあ南進だ!」と煽立てたため日本は南進論一色に染まった。が、チャーチルの警告どおり時を置かず独ソ戦が勃発、1945年日本の敗戦が決定的になるとソ連は有効期間5年の日ソ中立条約を一方的に破棄し関東軍が去った満州を蹂躙、松岡洋右はスターリンやヒトラーに愚弄されただけとなり「トリックスター」の面目躍如たる顛末を迎えた。
- 1940年11月末頃来日した二人のアメリカ人神父が近衛文麿首相と会談し、近衛首相・ルーズベルト米大統領会談を実現させ日米和解の一挙解決を図るという「日中国交打開策」を提案、対米開戦だけは避けたい政府も陸海軍も揃って賛同し当時欠員だった駐米大使に野村吉三郎(元海軍大将)を復職させ日米交渉を再開した。が、当時の外務省では近衛文麿内閣の強硬路線を受け松岡洋右外相(松岡の洋行中は近衛首相が外相兼任)を筆頭に大島浩・白鳥敏夫ら対米英強硬派が優勢で「バスに乗遅れるな」とばかりに「積極外交」を競演中、さらに不幸なことに野村吉三郎は門外漢のうえ阿部信行内閣で外相の任にあったとき大島・白鳥らを追払おうとしたため外務省エリートから総スカンを喰っていた。野村吉三郎大使は外務官僚のサポタージュに苦しめられつつも米国赴任2週間ほどでハル米国務長官との間で「日米諒解案」の最終案を作成、近衛文麿内閣は歓喜し陸海軍も賛成したが、日ソ中立条約の「大手柄」を携えモスクワから帰国した松岡洋右外相が猛反対し、近衛内閣が決定を渋る間に独ソ戦勃発で世界情勢は一変し雲散霧消となった。ただし「日米諒解案」なるものは野村吉三郎大使の一人よがりでハル国務長官の同意に基づくものではなく、松岡洋右ら「外交のプロ」が相手にすべきものではなかった、或いはアメリカは既に対日開戦を決意しており和解交渉は戦争準備のための時間稼ぎに過ぎなかったといった説もあり確かに肯ける状況ではあったが、とはいえアメリカにだけは勝ち目が無い日本としては交渉継続の努力をすべきであり自ら放棄する理由は全く無かった。
- 第一回御前会議で「対英米戦を辞せず」と決定したのを受けて、近衛文麿首相は、強硬派で日本の外交を掻き乱してきた松岡洋右外相を外すため内閣を総辞職、すぐに松岡抜きの第三次近衛内閣を組閣した。「大東亜共栄圏」を掲げて対中強硬路線と南進政策を主張する松岡洋右は、第二次近衛内閣の外相に抜擢され、近衛首相と軍部の期待に応えて日独伊三国同盟締結と北部仏印進駐を主導した。しかし、松岡の外交思想は単に「漁夫の利」を求める場当たり的な機会主義的強権政治であり、国際政治情勢の変化によって右往左往し、政局を引っ掻き回した挙句に外相の地位を追われることとなった。ドイツ軍が欧州を席巻するなか、松岡外相の当初のシナリオは、「1940年秋頃」の大英帝国崩壊を睨み、ドイツと同盟を結んで欧州戦争参戦の口実を整え、「南進政策」を推し進めてアジアの英仏蘭植民地を奪取する、ただし米ソとは不戦体制を構築するというものであった。しかし、ソ連とは日ソ中立条約を締結したものの、安全保障戦略上イギリスを失えないと判断したアメリカは大掛かりな経済・軍事支援に乗出し、大英帝国崩壊の可能性は消滅した。これで日独伊三国同盟は完全に裏目に出て、軍需物資の大半をアメリカからの輸入に頼る日本は窮地に陥り、南進政策は可能性の問題ではなく死活問題へと転化した。慌てた松岡外相は、南進政策反対と対米妥協に転じ、軍部が仕掛けたタイ仏印国境紛争の沈静化に動いたが、野村吉三郎駐米大使の日米和解交渉を妨害し、蘭印との経済交渉も打ち切らせた。アジアに対する強攻策も穏健策も否定する一方で、対米妥協をも否定するという意味不明の迷走を続けるなか、独ソ戦が勃発すると、今度はなんと対ソ開戦を主張した。「漁夫の利」を求める松岡には合理的であっても、対米妥協を図る近衛首相、南進政策に集中したい軍部から完全に見放され、閣外へ放逐されることとなった。松岡外相の「積極外交」は幕を閉じたが、その爪痕は甚大な禍根となり、関東軍特種演習(対ソ開戦に備えた関東軍増強)、南部仏印進駐、対米開戦へと続く亡国路線を決定付ける役割を果した。
- 独ソ戦緒戦でドイツ軍が優位に立つと、統制派の田中新一参謀本部第1部長が主導する陸軍中央と松岡洋右外相らのソ連挟撃論が台頭、これに引きずられた近衛文麿首相は、朝鮮や台湾に駐留する軍隊に動員令を発し、対ソ開戦に備えた関東軍の軍備増強を断行した(関東軍特種演習)。国際社会からの批判をかわすため「演習」と称したが、事実上の開戦準備であった。この結果、関東軍は74万人を超える大兵力となったが、北進政策(ソ連)から南進政策(仏領インドシナ)への転換により兵力は南方へと向けられることとなった。陸軍中枢では、南北(ソ連と英米)両面戦争を推進する田中新一ら強硬派と、戦争不拡大を図る武藤章の凌ぎ合いがあったが、武藤章は無謀な対ソ連開戦を阻止するため南進政策に同意したとされる。
- 日米の資源格差は著しく、そのまま国力の違いとなって戦争の勝敗を決定付けた。1944年における主要な軍需物資の産出量を比較すると、アメリカは、石油956倍、鉄鉱石26倍、石炭13倍、銅11倍、亜鉛9倍、アルミニウム6倍と、圧倒的に日本を凌駕していた。鉄鉱石は満州や朝鮮で産出したが、日本の領土と衛星国に産油地は無く、石油輸入の76%以上を依存する米国による禁輸措置は致命的であった。日本全体の石油消費量の3分の2を占める海軍にとっては特に深刻で、乏しい石油備蓄を考慮すると一日も座視できない状況に追込まれた。そこで、日本は、早々に対米協調路線を放棄し、蘭領東インド(インドネシア)など産油地の領有を求めて南進政策を採るが、これにより日米関係は破局を迎え対米開戦へと追込まれる。戦局の拡大につれて資源格差は一層深刻化し、日本敗戦の決定的要因となった。
- 日本軍の南部仏印進駐を受け、アメリカは近衛文麿政府と陸海軍の甘い期待に反し対日石油輸出全面禁止を断行、石油禁輸は軍関係だけでなく日本全体の死活問題であった。対日開戦を決意したアメリカは仏印撤退では矛を収めず満州事変以前への原状回復(満州・中国からの全面撤退)を要求、日本が呑めるはずもなく近衛文麿政府は9月6日の第二回御前会議において「10月上旬頃までに日米交渉が妥結できなければ対米開戦に踏切る」と決定した。御前会議開催にあたり、昭和天皇は統帥部トップの杉山元陸軍参謀総長と永野修身海軍軍令部総長を宮中に呼び日米戦争の帰趨について諮問した。陸軍の杉山元は「南方方面作戦を3ヶ月で片付ける」と豪語したが昭和天皇は「杉山は満州事変勃発当時の陸相で、その時は1ヶ月くらいで片付くと言ったが、事変は4年後の今になっても未だ片付いていないではないか」と痛烈に不信感を表明した。杉山元は沈黙したが、海軍の永野修身が「日米関係は手術するしかない瀬戸際にあり、手術には非常な危険があるが、助かる望みがないでもない」と何とも無責任な助け舟を出し場を収めてしまった。東條英機に敗れ陸軍を追われた石原莞爾は「油が欲しいからとて戦争を始める奴があるか」と猛反対し、海軍でも山本五十六が最後まで反対したが、強硬派が中枢を占める陸海軍は振上げた拳を下ろせず、自ら最悪の事態を招いた近衛文麿首相に今さら押戻す力は無かった。
- 第二回御前会議の結果を受けて、近衛文麿首相は野村吉三郎(海軍出身)駐米大使を通じて日米交渉を再開しようとしたが、時既に遅く、アメリカから相手にされなかった。近衛首相は閣議で対米妥協策を諮ったが、東條英機陸相から中国からの陸軍撤兵は「心臓停止」に等しく絶対に承認できない「人間、清水の舞台から飛び降りる覚悟が必要だ」と突上げられ、「東條の男めかけ」といわれた嶋田繁太郎海相は東條陸相に与し永野修身軍令部総長は「よくわからないので首相に一任」と責任を回避する情けない有様で、近衛首相は陸海軍の不一致を理由に土壇場で政権を放り出してしまった。後任首相は昭和天皇と木戸幸一内大臣の協議により決められたが、対米協調派の皇族軍人で軍部にも抑えが効く東久邇宮稔彦王が有力視されるなか、よりによって最大の主戦論者である東條英機を選んでしまった。愚かな決断をした木戸幸一の真意は不明だが、強硬派ながら天皇への忠節が厚い東條に任せれば天皇の意を汲んで開戦回避に尽力するだろうとの思惑があったとみられ、天皇は木戸の奏上に「虎穴にいらずんば虎児を得ず、だね」と答えたという。首相となった東條英機は、陸相と参謀総長を兼務し、対米開戦を諌めた網本浅吉陸軍少将を追放するなどして反対勢力を一掃した。組閣直後は天皇の意に適うべく対米開戦回避に努めたが、戦争の決意を固めたアメリカを相手に中国・仏印からの完全撤退の他に打開策は無く、強硬な陸軍統制派を基盤とする東條首相には開戦以外の選択肢は残されていなかった。
- 「日米諒解案」が挫折した後も野村吉三郎駐米大使はワシントンに留まりハル米国務長官と妥協点を探る交渉を続けたが時既に遅し、開戦準備を終えたアメリカは突如交渉を打切り「日本軍が仏印と中国から撤退しない限り経済封鎖を解除しない」とする最後通牒(ハル・ノート)を東條英機政府に突きつけた。要するに満州事変以前への原状回復を迫る、当時の外交常識に反する超強硬姿勢であり、アメリカも日本が呑むとは考えておらず日本を挑発して開戦に踏切らせようとの意図があった。完全に手詰まりとなった東條英機内閣は、若槻禮次郞や米内光政ら良識派重臣の最後の諫止を黙殺し、第四回御前会議において対米開戦を決定した。なお、当時アメリカは日本の外交暗号「パープル」の解読に成功しており、日本サイドの情報は筒抜けであった。近衛文麿・東條英機内閣が対米開戦に踏切った背景にはナチス・ドイツ軍への過剰な期待があったが、確かにソ連の敗北は必至と思える戦況があった。東部戦線を片付けたドイツは西部戦線に兵力を集中しイギリスを撃破するはずであり、欧州に足場を失えばアメリカも戦意喪失し早期講和に応じるだろう・・・こうした希望的観測を陸海軍を含む日本全体が共有していた。が、東條英機内閣が第四回御前会議で対米開戦を決定した数日後、ドイツ軍はスターリンが陣取るモスクワまで30kmに迫りながら悪天候とソ連軍の猛反撃により後退を開始、ドイツ優位で進んできた独ソ戦の趨勢は一変し、甘い他力本願戦略には対米開戦を前に狂いが生じた。
- 日本軍がマレー侵攻と真珠湾攻撃を敢行、英米蘭中が日本に宣戦布告、これを受けて独伊が米に宣戦布告し、太平洋戦争が始まった。1941年において、アメリカのGNPと鉄鋼生産量はいずれも日本の12倍、持久戦・総力戦になれば全く勝つ見込みのない戦争であった。山本五十六連合艦隊司令長官が自ら立案した日本海軍による真珠湾攻撃は、結果的には鮮やかな戦果を挙げたが、非常にリスクの高い冒険的作戦であった。持久戦では勝ち目がないと確信する山本五十六は、日本近海で敵艦隊を待ち伏せし大鑑巨砲で決戦に挑むという軍令部の作戦の非を悟り、「桶狭間とひよどり越と川中島とをあわせ行うの已むを得ざる羽目に、追込まれる次第に御座候」と覚悟を定め乾坤一擲の大博打に挑んだのである。真珠湾攻撃が成功すれば早期講和に持ち込み、もし惨敗しても戦争は続行不能、いずれにせよ戦争を早期に終わらせるための攻撃作戦であった。山本五十六の悲壮な決意を知らない海軍中枢の幕僚らは、自分らの作戦に固執して真珠湾攻撃の阻止を図ったが、山本らが良い加減な永野修身海相を押し切って実現させた。なお、宣戦布告文書の手交が真珠湾攻撃開始に1時間遅れたため、「リメンバー・パールハーバー」のスローガンで現在に至るまでアメリカの反日政策に利用されることとなったが、これは日本大使館員の怠慢が原因であり、日頃の野村吉三郎大使への反抗的態度が思いもよらぬ大問題に発展したというお粗末極まりない話であった。
- 対米開戦に反対した陸軍省軍務局長の武藤章は、太平洋戦争の帰趨が決すると早期講和を主張し、岡田啓介らの東條英機内閣打倒の策動に加わった。配下の憲兵の注進で武藤章の離反を知った東條英機は激怒し、陸相の強権発動で軍務局長を解任し近衛師団長に転出させフィリピン・スマトラ島の前線に放逐した。東條英機の徹底抗戦論を支持する鈴木貞一・星野直樹らも武藤章の追放劇に加担、後任の軍務局長には東條配下の佐藤賢了課長が昇格した。
- 山本五十六の連合艦隊司令部が推進するミッドウェー海戦計画を、陸軍が支援し、海軍軍令部が承認して実行に移された。ハワイ占領に向かう前哨戦として、真珠湾攻撃後残り少ないアメリカ軍の空母を叩いておこうという作戦であったが、戦勝に浮かれた山本五十六の連合艦隊司令部は、痛打を与えた後に早期講和に持ち込むという初志を忘れ、杜撰な計画のもとに作戦を強行した。アメリカの空母3隻に対して日本は4隻と優位な戦いであったが、南雲忠一機動部隊指揮官の大失策などにより、日本の4隻が全滅、敵の撃沈は1隻のみという想像もしない大敗を喫してしまった。連合艦隊は主力空母4隻を失ったことで真珠湾攻撃の戦果が帳消しとなり、一戦で攻守の立場が逆転してしまった。ミッドウェー海戦の敗報は秘匿され国民も陸軍も知らなかったが、日本軍の快進撃はこの敗戦で早くも終焉し、以後はアメリカ軍の圧倒的な物量作戦の前にジリ貧となる。
- ガダルカナル島奪回作戦が大失敗に終わると、陸軍中央は決定的敗北を回避すべく撤退へ傾いたが、参謀本部第1部長(作戦部長)の田中新一は更なる大兵力を投入し決戦を挑むべしと猛反発し、宥める佐藤賢了軍務局長と乱闘事件を起し東條英機首相(兼陸相)まで面罵、陸軍中央を追われ前線のビルマ方面軍(第15軍)へ飛ばされた。ガダルカナル島を失えば退勢挽回は不可能になると考えた田中新一は「当たって砕けろ」的発想で徹底抗戦を叫び、一大決戦に敗れたら講和の道を探ればよいとも考えていた。後任の作戦部長には東條英機配下の綾部橘樹が就き、ガダルカナル島撤退を遂行した。石原莞爾・武藤章に続き対米開戦の謀主である田中新一まで追放してしまった東條英機と陸軍中央は戦略を失い、戦局が日々悪化するなか逆に戦争継続への妄執を深め徒に被害を拡大させるという最悪の悪循環に陥った。
- 山本五十六の真珠湾攻撃勝利で有頂天となった日本海軍は、ラバウル島のさらに先、オーストラリアの手前ガダルカナル島まで野放図に戦線を拡大していた。アメリカ軍にとってダルカナル島は反抗の拠点オーストラリアと米本国を扼する重要地点であり、即座に奪回を決意した。アメリカ軍は、日本軍の工兵部隊が飛行場建設工事を行っていたガダルカナル島を襲撃して陸戦部隊を上陸させ、飛行場を完成させて一大基地としてしまった。日本軍はガダルカナル島奪回を期して猛攻を仕掛け、大激戦となったが完敗、5ヵ月後に撤退を決定した。日本軍のダメージは甚大で、陸軍が投入した兵力33,600人のうち、57%にあたる19,200人が戦死、その半数以上が病死や餓死という悲惨な戦いだった。戦略的には航空兵力の損失が重大で、約900機の飛行機が撃墜され、搭乗員2,362人が死亡、特に日本軍が育成してきたベテランパイロットの大半を失ったことが大きかった。ガダルカナル島陥落後、マッカーサーを指揮官とするアメリカ軍の怒涛の北上進撃が始まる。なお、ガダルカナル島を撤退した兵力はニューギニアに向けられ、1945年の終戦まで無益な戦闘を続けて15万人以上の死者を出すこととなる。
- ナチス・ドイツから中東を奪還したルーズベルト米大統領・チャーチル英首相がカイロで会談(蒋介石中華民国主席も出席)、日本を無条件降伏に追込むまで共同で戦うこと・日本打倒後の支配地の剥奪などで合意し「カイロ宣言」を公表した。停戦条件を無条件降伏に限定された東條英機政府は一切の妥協手段を絶たれ、かといって軍部が受入れるはずなく、国土が壊滅するまで戦うほか選択肢が無くなった。が、間もなく米軍機動部隊のトラック島空襲で海軍拠点が壊滅、首相に陸相を兼ねる東條英機は杉山元から参謀総長職を奪って陸軍を完全掌握し、「大本営発表」で戦局悪化を偽りつつ本土決戦へ向け戦意発揚に努めた。海軍でも「東條の男めかけ」といわれた嶋田繁太郎海相が永野修身を更迭し軍令部総長を兼務、東條内閣への協力体制をとった。
- ビルマ方面軍第15軍司令官の牟田口廉也が、戦局悪化で守備に専念すべき情勢を無視して、全く必要のないインド侵攻作戦を企て現地幕僚全員の反対を押切り強行、イギリス軍の逆襲に逢い無益な戦いで6万4千人もの戦死者(拉孟騰越戦の2万9千人を含む)と4万2千人の戦傷病者を出した(インパール作戦)。上官のビルマ方面軍司令官は河辺正三であり、盧溝橋事件を起した牟田口・河辺コンビが再びやらかした日本戦史上最悪の暴挙であったが、インド独立運動家で「大東亜会議」の盟友チャンドラ・ボース(中村屋カレーの発案者とも)に泣き付かれた東條英機首相が「子分」の牟田口廉也に無謀な突撃を命じたのが真相とされる。自己顕示欲の塊で好きなものは「一に勲章、二に現地女、三に新聞記者」といわれた牟田口廉也は、反対する第15軍の参謀長と三師団長を更迭してインパール作戦を発動、自分は「ビルマの軽井沢」で優雅な生活を送りつつ前線に無理を強要し撤退も許さなかった。間もなく東條英機は内閣を倒され予備役編入、牟田口廉也も解任され予備役編入となったが、東京裁判での起訴を免れ、インパール作戦の戦略的妥当性を認めた英字紙の切抜きを振りかざしつつ1966年まで78歳の長寿を保った。後任の第15軍司令官に就いた木村兵太郎は、東京裁判で絞首刑に処されている。なお当時のビルマ方面軍には、対米開戦の首謀者ながら強硬過ぎて東條英機首相と対立し陸軍中央を追出された田中新一が第18師団長の任にあったが、さすがに牟田口廉也の無謀な作戦には反対したとされる。
- マッカーサー率いる米陸軍とニミッツ提督の米海軍は、ガダルカナル制圧後怒涛の北上進撃を開始し、マリアナ諸島・フィリピンに迫った。サイパン島陥落は日本本土がB29爆撃機の射程圏内に晒されることを意味し、絶対にここを落とせない日本軍はサイパン・テニアン・グアムに大規模陸軍部隊を投入し最大限の防御体制を構築、東條英機首相(兼陸相)は「サイパンの防衛は安泰、水際で敵を完璧に追い落とす」と豪語していた。が、アメリカ軍の圧倒的な物量作戦によりサイパンの防衛線はあっけなく壊滅、連合艦隊が総力を挙げて決戦を挑むが空母3隻が撃沈・航空機400機がほぼ全滅という完敗を喫し、補給路を絶たれ孤立したサイパン守備隊は玉砕し殲滅された。サイパンを制圧したアメリカ軍はテニアン・グアムを落としてマリアナ諸島全域を掌握、航空基地を建設し日本本土爆撃の準備を進めた。なお、一連の激戦により日本軍はサイパンで約3万人(民間人1万人)・グアムで約1万8千人もの戦死者を出した。この期に及んでもなお東條英機首相は勇ましい強硬論を振りかざしたが、岡田啓介・米内光政・若槻禮次郞・宇垣一成ら重臣が結束し東條内閣を退陣に追込んだ。
- 戦局が悪化しても強硬論を曲げない東條英機首相(陸相と参謀総長を兼務)に対し、岡田啓介・米内光政・若槻禮次郞・宇垣一成ら重臣は結束して倒閣工作に動いた。東條独裁下の陸軍は頑強に抵抗したが、東條英機首相が自ら「防衛は安泰」と豪語したサイパン島が呆気なく陥落し敗戦が決定的になると、重臣会議は意を決して粘る東條を引きずり降ろした。「戦争遂行内閣」の後継首相は陸軍から出すこととなったが「陸軍大将を任官年次の古い順に見ていって適当な人物を捜す」という投遣りな選考の結果、宇垣一成の穏健派に連なる小磯國昭に組閣の大命が降された。陸相には強硬派の杉山元が就任したが、小磯國昭の能力不足を補うため元首相で海軍良識派の米内光政が海相に復帰し「小磯・米内連立内閣」といわれた。小磯國昭は、陸士(12期)を出て日露戦争に従軍、陸大の席次は55人中33番と凡庸だったが、長州閥の系譜を引く宇垣一成に属し派閥争いが盛んな陸軍にあって人柄と人付合いの良さで台頭、要職の軍務局長・陸軍次官・関東軍参謀長・朝鮮軍司令官を歴任した。小磯國昭大将は予備役に退いたが、調整能力を買われて平沼騏一郎・米内光政内閣に拓務相で入閣し、朝鮮総督を経て首相へ上り詰めた。小磯國昭に特筆すべき業績は無いが、朝鮮総督として同化政策(皇民化政策)を推進したことや、陸軍航空本部員として欧州視察を経験し空軍力の充実を持論としたことなどが知られている。さて、実は戦争終結を期待された小磯國昭内閣は、徹底抗戦を叫ぶ陸軍を懐柔すべく「一撃を加えた上で有利に対米講和を進める」建前を示し徴兵年齢拡大(根こそぎ動員)を断行したが相手にされず、本土爆撃が本格化するなか愚にも付かない「本土決戦完遂基本要綱」を容認した。米内光政海相・重光葵外相や近衛文麿・木戸幸一ら重臣にも見放された小磯國昭首相が何も出来ないまま、レイテ沖海戦で海軍が壊滅し東京大空襲・硫黄島陥落・沖縄侵攻・日ソ中立条約廃棄通告と戦局は見る間に悪化し、戦艦大和撃沈の日に小磯内閣は退陣した。終戦後、小磯國昭は東京裁判で終身刑判決を受け1950年に巣鴨プリズンで獄死した。
- 小磯國昭内閣は、開戦時には20-40歳だった徴兵年齢を17-45歳に拡大、既に限界に達していた総動員体制を格段に強化し「根こそぎ動員」を断行した。小磯國昭内閣の暴挙により、1940年に172万人(陸軍150万人、海軍22万人)だった現役軍人数は、1945年8月には719万人(陸軍550万人、海軍169万人)と男性人口の20%にまで膨れ上がった。働き手をとられた農村の欠乏は深刻化し、農業生産も打撃を受けて食糧難に拍車をかけた。また、徴兵による労働力不足を補うため、学徒動員と称して中等学校以上の男女生徒全員に軍需工場などでの就労が義務付けられ、戦争末期には国民学校初等科以外の授業は1年間停止される事態となった。
- ベルリン郊外ポツダムにおいて、トルーマン米大統領(ルーズベルト死去により後継)、チャーチル英首相、スターリン・ソ連共産党書記長が会談し、日本への無条件降伏勧告と植民地・占領地の剥奪、戦争犯罪人の処罰、民主主義体制の確立など太平洋戦争終結の条件を決定し、「ポツダム宣言」が発表された。鈴木貫太郎政府が回答を逡巡しているうちに、毎日新聞や読売報知が「笑止!」と煽り世論も傾いたため、「本土決戦」に固執する軍部は「完全無視」の声明を出すよう政府を突上げた。このため鈴木貫太郎首相は、米内光政海相の助言を受けて、「ポツダム宣言はカイロ会談の焼き直しであって、政府としてはなんら重要な価値があるとは考えない。ただ黙殺するだけである。われわれは戦争完遂に邁進するのみである。」と発表、外国の新聞は「黙殺」を「拒絶」と報じ、米ソに日本攻撃の口実を与えてしまった。
- 敗戦必至の戦局が徒に長引くなか、岡田啓介・米内光政・若槻禮次郞・宇垣一成ら重臣が東條英機内閣を打倒し、無能な小磯國昭内閣に代わり昭和天皇の信任篤い鈴木貫太郎の「終戦内閣」が成立、ナチス・ドイツの降伏、ソ連の日ソ中立条約廃棄、沖縄戦敗北、空襲で国中が焼け野原と化すに及び漸く陸軍は「本土決戦」を断念した。鈴木貫太郎内閣と陸軍は中立条約締結国のソ連を仲介とする日米和平交渉に最後の望みを繋いだが、ヤルタ会談で米英に8月9日の対日参戦を約束済みのスターリンが仲介などするはずはなかった。かくして鈴木貫太郎内閣はポツダム宣言受諾を決めたが降伏条件で紛糾、「天皇制護持」のみで妥結を図る東郷茂徳外相らに対し、阿南惟幾陸相・梅津美治郎参謀総長・豊田副武軍令部総長は「占領は小兵力且つ短期間」「武装解除および戦犯の処置は日本人の手で行う」との条件追加を声高に主張した。議事が膠着するなか、鈴木貫太郎首相は強引に御前会議を開いて昭和天皇の「聖断」を仰ぎ、天皇は慣例を破って自らの意見を述べ天皇制護持だけを条件とする東郷外相案に賛意を示した。その8月10日のうちに外務省は中立国を介し天皇制護持のみを条件にポツダム宣言を受諾する旨を通知、連合国から承認の回答を得た。陸軍幕僚らは連合国の回答をあげつらって悪あがきしクーデターを企てたが(宮城事件)、辛くもテロを逃れた鈴木首相は全閣僚・重臣を召集、席上昭和天皇が連合国回答に基づく降伏を明言し、正式の手続きを踏んで8月14日に日本の敗戦が決定した。いわゆる「無条件降伏」ではなかったが、日本が固執した天皇制護持さえアメリカ(GHQ)の恣意へ委ねられ、あれだけ血気盛んだった軍人らも忽ち意気阻喪した。最悪なのは「無敵関東軍」で、日本人居留民の安全を確保する前に早々に武装解除に応じ我先に内地へ帰還、「降伏文書調印(9月2日)までは交戦状態」というスターリンの屁理屈でソ連軍が満州に殺到し無防備の日本人に襲い掛かった。暴虐なソ連軍は日本の民間人18万人を虐殺し、国際法を無視して57万人以上の「戦争捕虜」を強制労働で酷使し10万人以上を死なせた(シベリア抑留)。
- [戦前史の概観]西南戦争で西郷隆盛が戦死し渦中に木戸孝允が病死、富国強兵・殖産興業を推進した大久保利通の暗殺で「維新の三傑」が全滅すると、明治十四年政変で大隈重信一派が追放され薩長藩閥政府が出現した。首班の伊藤博文は板垣退助ら非薩長・民権派との融和を図り内閣制度・大日本帝国憲法・帝国議会を創設、外交では日清戦争に勝利しつつ国際協調を貫いたが、国防上不可避の日清・日露戦争を通じて軍部が強勢となり山縣有朋の陸軍長州閥が台頭、桂太郎・寺内正毅・田中義一政権は軍拡を推進し台湾・朝鮮に軍政を敷いた。とはいえ、伊藤博文・山縣有朋・井上馨・桂太郎(長州閥)・西郷従道・大山巌・黒田清隆・松方正義(薩摩閥)・西園寺公望(公家)の元老会議が調整機能を果し、伊藤の政友会や大隈重信系政党も有力だった。が、山縣有朋の死を境に陸軍中堅幕僚が蠢動、長州閥打倒で結束した永田鉄山・小畑敏四郎・東條英機ら「一夕会」が田中義一・宇垣一成から陸軍を乗取り「中国一激論」と「国家総動員体制」を推進、石原莞爾の満州事変で傀儡国家を樹立し、石原の不拡大論を退けた武藤章が日中戦争を主導、最後は対米強硬の田中新一が米中二正面作戦の愚を犯した。一方の海軍は、海軍創始者の山本権兵衛がシーメンス事件で退いた後、「統帥権干犯」を機に東郷平八郎元帥・伏見宮博恭王の二大長老を担いだ加藤寛治・末次信正ら反米軍拡派(艦隊派)が主流となり、国際協調を説く知米派の加藤友三郎・米内光政・山本五十六・井上成美らを退けた。「最後の元老」西園寺公望ら天皇側近は右傾化の抑止に努めたが、五・一五事件、二・二六事件と続く軍部のテロで(鈴木貫太郎を除き)腰砕けとなり、木戸孝一に至っては主戦派の東條英機を首相に指名した。党派対立に明け暮れ軍部とも結託した政党政治は、原敬暗殺、濱口雄幸襲撃を経て五・一五事件で命脈を絶たれ、大政翼賛会に吸収された。そして「亡国の宰相」近衛文麿が登場、軍部さえ逡巡するなかマスコミと世論に迎合して日中戦争を引起し、泥沼に嵌って国家総動員法・大政翼賛会で軍国主義化を完成、日独伊三国同盟・南部仏印進駐を断行し亡国の対米開戦へ引きずり込まれた。
- 1945年9月2日、東京湾に浮かぶ米戦艦「ミズーリ」艦上で重光葵外相と梅津美治郎参謀総長が天皇および東久邇宮稔彦王内閣を代表して降伏文書に署名した。重光葵らは「日本の首都から見えるところで、日本人に敗北の印象を印象づけるために、米艦隊のなかで最も強力な軍艦の上」に呼びつけられ「連合軍最高司令官に要求されたすべての命令を出し、行動をとることを約束」、ここにアメリカによるアメリカのための占領統治が始まり1951年のサンフランシスコ講和条約まで「日本政府はあって無きが如き」状態が続くこととなった。早速当日、マッカーサーは「日本を米軍の軍事管理下におき、公用語を英語とする」「米軍に対する違反は軍事裁判で処分する」「通貨を米軍票とする」という無茶苦茶な布告案が突きつけている(重光葵外相の奮闘で後日撤回)。最後まで粘った日本の降伏により米英ソ(連合国)の圧勝で第二次世界大戦は終結、犠牲者数には諸説あるがソ連1750万人・ドイツ420万人・日本310万人(うち民間人87万人)・フランス60万人・イタリア40万人・イギリス38万人・アメリカ30万人など合計4500万人もの死者を出したといわれ、空襲と市街戦・ユダヤ人虐殺などにより軍人を大幅に上回る民間人が犠牲となった。なお、満州には関東軍78万人がほぼ無傷で駐留していたが、陸軍首脳は8月14日のポツダム宣言受諾を受け早々17日に武装解除を命令、高級軍人から我先に日本本土へ逃げ帰った。が、ソ連のスターリンは8月14日の終戦通告は一般的な「ステートメント」に過ぎず降伏文書調印(9月2日)まで攻撃を継続すると宣言、無抵抗の満州を蹂躙し尽し北朝鮮まで制圧した。関東軍も約8万人の戦死者を出したが、満蒙の奥地に置去りにされた居留民は更に悲惨で18万人もの民間人が暴虐なソ連兵に虐殺された。さらに軍民あわせて57万人以上が「シベリア抑留」に遭難し、法的根拠が無いまま何年も過酷な強制労働を強いられ、最終的に10万人以上が極寒の地で没する悲劇を生んだ。かくして満州事変に始まった中国侵出は、最強国アメリカとの開戦で行詰り、兵士だけで40万人以上の犠牲者を出し最悪の結果で終結した。
- 東京裁判では、裁判中に病死した永野修身・松岡洋右と精神疾患で免訴された大川周明を除く25名が有罪判決を受け、うち東條英機・板垣征四郎・木村兵太郎・土肥原賢二・武藤章・松井石根・広田弘毅の7名が死刑となった。近衛文麿は召還命令を受けると抗議の服毒自殺を遂げた。東條英機は自作の『戦陣訓』に書いた「生きて虜囚の辱めを受けず」の信条を実践すべく拳銃自殺を図ったが、失敗して繋がれた。木戸幸一は、天皇と自身を守るため、GHQに『木戸日記』を提出して弁明に努めたが、保身のために同胞を売った行為として今なお悪評が高い。さらに、上海事変などの謀略工作に従事した陸軍人田中隆吉は、訴追を免れるため虚実取り混ぜた陸軍の行為をGHQに暴露した。大川周明は、裁判中に東條英機の頭をポカリとやって精神疾患と判断され免訴されたが、獄中でイスラム語のコーランを翻訳するなど、偽装の可能性が高い。なお、有罪判決を受けた戦犯は、広田弘毅・平沼騏一郎・東條英機・小磯國昭(以上総理大臣)・板垣征四郎・南次郎・梅津美治郎・土肥原賢二・荒木貞夫・松井石根・畑俊六・木村兵太郎・武藤章・佐藤賢了・橋本欣五郎(以上陸軍)・永野修身・嶋田繁太郎・岡敬純(以上海軍)・賀屋興宣・木戸幸一・松岡洋右・重光葵・東郷茂徳・大島浩・白鳥敏夫・鈴木貞一・星野直樹(以上文官)・大川周明(民間人)であった。東京裁判自体は「勝てば官軍」の暴挙だが、有罪者の顔ぶれは総じて妥当といえよう。対米開戦の張本人である陸軍の田中新一と海軍の伏見宮博恭王・末次信正をはじめ、無謀な計画で大勢を死なせた牟田口廉也・服部卓四郎・辻政信ら陸軍参謀および対米開戦を主導した海軍の高田利種・石川信吾・富岡定俊・大野竹二ら海軍国防政策委員会が対象外なのは解せないが、広田弘毅・松岡洋右・大島浩・白鳥敏夫など文官のガンもしっかり入っている。訴因が軍政に偏り統帥部が意図的に外されているが、天皇の訴追を避けたいアメリカの思惑が透けて見える。また、陸軍に比して海軍に甘いのが大きな違和感で、「陸軍=戦争=悪」という日本人の戦後史観に大きな影響を及ぼしたであろう。
田中新一と同じ時代の人物
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戦前
伊藤 博文
1841年 〜 1909年
100点※
高杉晋作の功山寺挙兵を支えた長州維新の功労者、大久保利通没後の明治政界を主導し内閣制度発足・大日本帝国憲法制定・帝国議会開設・不平等条約改正・日清戦争勝利を成遂げ国際協調と民権運動との融和を進めた大政治家
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照 -
戦前
渋沢 栄一
1840年 〜 1931年
100点※
徳川慶喜の家臣から欧州遊学を経て大蔵省で井上馨の腹心となり、第一国立銀行を拠点に500以上の会社設立に関わり「日本資本主義の父」と称された官僚出身財界人の最高峰
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照 -
戦前
豊田 喜一郎
1894年 〜 1952年
100点※
豊田佐吉の長男で共に画期的な動力織機を発明するが、繊維産業の凋落を見越し紡績から自動車への事業転換を敢行したトヨタグループ創業者
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照