陸軍長州閥の領袖ながら政友会総裁に納まって首相に上り詰めたが、張作霖爆殺事件で昭和天皇と陸軍中堅幕僚の板挟みとなった「おらが首相」
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照田中 義一
1864年 〜 1929年
30点※
田中義一の寸評
田中義一の史実
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1864年
長州藩の下級藩士田中七五郎信祐の三男田中義一が萩城下にて出生
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1876年
萩の乱、12歳の田中義一は前原一誠の反乱軍に従軍
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1877年
西南戦争、西郷隆盛が鹿児島城山にて自害(享年51)
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1883年
田中義一が陸軍教導団から陸軍士官学校に入学(8期)
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1886年
田中義一が陸軍士官学校を卒業し第一師団第一連隊に配属
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1877年
木戸孝允が京都にて死去(享年45)、京都霊山護国神社に葬られる
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1888年
鎮台制を師団制に改編
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1889年
大日本帝国憲法発布
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1889年
川上操六がドイツから帰国し参謀本部次長に復職、独軍参謀総長モルトケ直伝のドイツ式軍制改革や参謀本部強化を推進
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1891年
帝政ロシアがシベリア鉄道起工
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1893年
田中義一が大築尚志少将の六女ステ子と結婚
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1893年
田中義一が第一師団副官任官(師団長は旧土佐藩士の山地元治)
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1894年
朝鮮で甲午農民戦争、日清両軍が朝鮮へ派兵し一触即発
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1894年
日清戦争勃発、田中義一は陸軍第2軍に従軍し第一師団参謀に任じられる
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1895年
下関条約で日清戦争終結、朝鮮(李朝)が初めて中国から独立しソウルに独立門建立
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1895年
三国干渉~露仏独が日本に遼東半島返還を要求
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1895年
台湾総督府設置
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1895年
田中義一が陸軍参謀本部に異動
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1895年
朝鮮で親ロシア政権誕生、閔妃殺害事件
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1896年
露清密約、ロシアが清から東清鉄道敷設権を獲得
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1898年
田中義一がロシア留学に出され情報収集任務を遂行
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1898年
列強による清の植民地争奪競争が激化
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1899年
地租増徴
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1900年
軍部大臣現役武官制制定
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1900年
北清事変
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1900年
立憲政友会結成
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1901年
北京議定書調印
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1901年
ロシアが日本に韓国中立化構想を提案、日露協商派と対露強硬派が対立
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1902年
第一次日英同盟協約締結
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1903年
ロシアが満州撤兵不履行、日露協商(満韓交換論)交渉決裂
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1904年
仁川沖海戦
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1904年
日露戦争開戦、ロシア通の田中義一が満州軍参謀に抜擢され総参謀長児玉源太郎に仕える
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1904年
伊藤博文が金子堅太郎を対米工作に派遣
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1904年
第一次日韓協約締結
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1904年
遼陽会戦
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1905年
旅順攻略
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1905年
血の日曜日事件~ロシア革命が始まる
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1905年
奉天会戦
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1905年
日本海海戦
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1905年
ポーツマス条約調印
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1905年
日比谷焼打事件
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1905年
久原房之助が井上馨の援助で赤沢銅山(茨城県)を買収、日立鉱山へ改称し久原鉱業所開業
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1906年
田中義一中佐が陸軍参謀本部に復職、山縣有朋に認められ「帝国国防方針」を起草
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1906年
第一次西園寺公望内閣(政友会)発足、寺内正毅が陸軍大臣就任
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1906年
第二次日韓協約締結、日本が朝鮮を保護国化し文治派の伊藤博文が初代韓国統監に就任
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1906年
南満州に関東都督府設置
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1906年
南満州鉄道会社(満鉄)設立・後藤新平が初代総裁就任、アメリカの干渉が始まる
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1907年
田中義一が現場勤務を依願し歩兵第三連隊長に転出
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1907年
韓国軍隊解散、ハーグ密使事件、第三次日韓協約締結
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1907年
第一次日露協約締結
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1908年
第二次桂太郎内閣(長州・陸軍)発足、寺内正毅が陸軍大臣就任
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1909年
伊藤博文がハルビン駅頭で朝鮮人に射殺される(享年68)
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1909年
田中義一が陸軍省軍務課長に補され軍務局長に昇進
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1910年
伊藤博文暗殺を機に軍部・対外硬派が韓国併合を断行、韓国統監府を朝鮮総督府に改組し軍政を敷くが民生向上により義兵運動は沈静化
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1910年
田中義一の主導で在郷軍人会が発足
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1910年
鮎川義介が大叔父井上馨の援助により戸畑鋳物株式会社(日立金属の前身)設立
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1910年
小平浪平が久原房之助の出資を得て日立鉱山傘下に日立製作所創業
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1911年
第二次西園寺公望内閣(政友会)発足、石本新六が陸軍大臣就任(上原勇作に途中交代)
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1912年
二個師団増設問題、陸軍が軍部大臣現役武官制を楯に西園寺公望内閣を倒す
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1912年
第三次桂太郎内閣(長州・陸軍)発足、木越安綱が陸軍大臣就任
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1913年
桂太郎の立憲同志会発足、西園寺公望から寝返った加藤高明が加盟し外相就任
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1913年
第一次山本権兵衛内閣(薩摩・海軍)発足、木越安綱が陸軍大臣就任(楠瀬幸彦に途中交代)
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1913年
桂太郎が死去(享年65)、加藤高明が同志会総理を継ぐ
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1914年
第二次大隈重信内閣(同志会)発足、岡市之助が陸軍大臣就任(大島健一に途中交代)
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1914年
第一次世界大戦勃発、世界的物資不足のなか日本は特需景気を満喫
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1914年
大隈重信政府が日英同盟を名分にドイツに宣戦布告し南洋諸島・山東省青島を占領
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1915年
大隈重信首相・加藤高明外相が袁世凱の中華民国に「対華21カ条要求」を宣告
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1915年
井上馨死去
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1916年
寺内正毅内閣(長州・陸軍)発足、大島健一が陸軍大臣就任
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1917年
レーニンらボルシェヴィキがロマノフ朝ロシアを滅ぼし世界初の社会主義政権を樹立(ロシア革命)
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1918年
シベリア出兵
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1918年
原敬内閣(政友会)発足、田中義一が陸軍大臣就任(山梨半造と途中交代)
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1918年
第一次世界大戦終結
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1919年
パリ講和会議・ベルサイユ条約で第一次世界大戦の講和成立(日本全権は西園寺公望・牧野伸顕)
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1919年
寺内正毅死去
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1920年
国際連盟が発足し日本は英仏伊と共に常任理事国に列す
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1920年
鮎川義介が久原財閥を承継し日産コンツェルンを形成
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1920年
小平浪平の日立製作所が鮎川義介の日産傘下で再編され株式会社へ改組
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1920年
田中義一が男爵を受爵
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1921年
宮中某重大事件、山縣有朋の権威失墜
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1921年
田中義一が狭心症のため陸相を山梨半造に譲り軍事参事官となる
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1921年
バーデン・バーデン密約~永田鉄山ら陸軍中堅幕僚の策動が始まる
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1921年
原敬首相が東京駅で暴漢に刺殺される(享年65)、高橋是清が政友会総裁を継ぐ
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1921年
高橋是清内閣(政友会)発足、山梨半造が陸軍大臣就任
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1921年
アメリカの工作により日英同盟が廃棄となる
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1921年
加藤友三郎海相・幣原喜重郎駐米大使がワシントン海軍軍縮条約調印を断行
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1922年
陸軍長州閥を築いた山縣有朋が政敵の伊藤博文・大隈重信・板垣退助や子飼の桂太郎・寺内正毅の誰よりも長寿を保ち84歳で死去
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1922年
田中義一がフィリピン外遊帰路の上海で朝鮮人暴徒の襲撃に遭う
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1922年
加藤友三郎内閣(海軍)発足、山梨半造が陸軍大臣就任
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1922年
加藤友三郎首相が日本軍のシベリア撤兵を断行
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1922年
ソビエト社会主義共和国連邦樹立、スターリンが最高指導者となる
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1923年
関東大震災
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1923年
第二次山本権兵衛内閣(海軍)発足、田中義一が陸軍大臣就任
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1924年
清浦奎吾内閣(貴族院)発足、宇垣一成が陸軍大臣就任
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1924年
護憲三派による第二次護憲運動
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1924年
加藤高明内閣(憲政会)発足、宇垣一成が陸軍大臣就任
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1925年
日ソ基本条約調印、国交樹立
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1925年
陸軍の永田鉄山の主導により軍事教練が始まる
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1925年
高橋是清に代わって田中義一が政友会総裁就任
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1925年
普通選挙法制定
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1926年
田中義一が貴族院議員となる
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1926年
第一次若槻禮次郞内閣(憲政会)発足、宇垣一成が陸軍大臣就任
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1926年
孫文の死に伴い蒋介石が広東の国民政府を掌握し北伐開始
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1926年
大正天皇が崩御し昭和天皇が即位
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1927年
片岡直温蔵相の失言により金融恐慌が発生
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1927年
蒋介石が南京国民政府を樹立、第一次国共合作崩壊
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1927年
田中義一内閣(長州・陸軍・政友会)発足、白川義則が陸軍大臣就任
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1927年
永田鉄山らが陸軍内に「二葉会」を結成
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1927年
憲政会と政友本党が合同して立憲民政党が発足
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1927年
高橋是清蔵相が金融恐慌を沈静化、高橋は蔵相を依願退職
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1927年
第一次山東出兵開始~蒋介石の北伐再開
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1927年
鈴木貞一・石原莞爾らが陸軍内に「木曜会」を結成
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1928年
陸軍中央で「満蒙領有」方針が現れる
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1928年
蒋介石の国民革命軍が張作霖(日本の傀儡)の北京政府を打倒し北伐完了
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1928年
張作霖爆殺事件(満州某重大事件)、陸軍中堅幕僚の暴走が始まる
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1928年
張学良が奉天軍閥を承継、関東軍と対立し「満州問題」が深刻化
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1928年
吉田茂が岳父の牧野伸顕のツテで田中義一首相に対中強硬論(大陸派)を直訴し外務次官就任
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1928年
石原莞爾が関東軍作戦参謀に就任
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1929年
永田鉄山の二葉会に木曜会が合流し「一夕会」が発足
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1929年
濱口雄幸内閣(民政党)発足、宇垣一成が陸軍大臣就任(阿部信行が一時臨時代理)
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1929年
田中義一が死去(享年65)、隠居の犬養毅(74歳)が政友会総裁に担出される
田中義一の交遊録
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前原一誠
苦い過去
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三浦梧楼
因縁の校長先生
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山梨半造
同期の秀才
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河井操
同期の秀才
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大庭二郎
同期の秀才
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大築尚志
義父
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山地元治
最初のボス
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児玉源太郎
偉大なボス
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大山巌
大御所
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山縣有朋
老害のボス
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井上馨
長州閥の重鎮
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鮎川義介
井上親族の政商
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桂太郎
先輩
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寺内正毅
先輩
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松岡洋右
同志
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宇垣一成
陸軍長州閥の後継
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上原勇作
憎き長老
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白川義則
裏切り者
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阿部信行
裏切り者
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杉山元
裏切り者
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永田鉄山
参りました
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河本大作
疫病神
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伊藤博文
叱られた重鎮
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西園寺公望
伊藤の後継者
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原敬
盟友
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高橋是清
政党仲間
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犬養毅
政党仲間
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広瀬武夫
留学仲間
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山本権兵衛
陸相時の首相
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久原房之助
長州政商
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鮎川義介
久原の義兄・満州仲間
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小平浪平
日立創業者
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加藤高明
政敵
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若槻禮次郞
政敵
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濱口雄幸
政敵
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幣原喜重郎
政敵
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重光葵
政敵
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張作霖
大失敗
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スナイダー夫人
身代わり
田中義一と同じ時代の人物
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戦前
伊藤 博文
1841年 〜 1909年
100点※
高杉晋作の功山寺挙兵を支えた長州維新の功労者、大久保利通没後の明治政界を主導し内閣制度発足・大日本帝国憲法制定・帝国議会開設・不平等条約改正・日清戦争勝利を成遂げ国際協調と民権運動との融和を進めた大政治家
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照 -
戦前
板垣 退助
1837年 〜 1919年
100点※
中岡慎太郎の遺志「薩土密約」を受継ぎ戊辰戦争への独断参戦で土佐藩を「薩長土肥」へ食込ませ、自由党を創始して薩長藩閥に対抗し自由民権運動のカリスマとなった清貧の国士
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照 -
戦前
豊田 喜一郎
1894年 〜 1952年
100点※
豊田佐吉の長男で共に画期的な動力織機を発明するが、繊維産業の凋落を見越し紡績から自動車への事業転換を敢行したトヨタグループ創業者
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照
年
基礎点 50点
田中義一は陸軍長州閥のホープとして陸相に累進、陸軍機密費を持参金に政友会総裁に納まって首相に上り詰めた。憲政会・民政党内閣の幣原喜重郎外相が推進する対英米協調・対中不干渉の「幣原外交」を軟弱外交と激しく批判し、松岡洋右らと共に強硬な「田中外交」を展開し軍国主義化と外征に拍車を掛けた。
減点 -20点
田中義一は山縣有朋から陸軍長州閥を受継いだが、首相在任中に張作霖爆殺事件が起り、究明を求める昭和天皇の意を受け河本大作らの軍法会議に向け動いたが、永田鉄山・石原莞爾ら一夕会系幕僚の策動で陸軍首脳にも背かれ首相辞任でお茶を濁す道を選択、天皇の叱責に悲嘆した田中は間もなく死去した(自殺説あり)。張作霖爆殺事件は陸軍首脳の自重で拡大せず、永田鉄山・石原莞爾らの野望は一旦費えたが、陸軍トップでもある田中義一首相が事件の究明と首謀者の処罰をうやむやにしたことは、満州事変に始まる軍部暴走を誘発する重大な伏線となった。