高等小学校卒ながら政策通の「コンピュータ付きブルドーザー」、「日本列島改造論」はオイルショックで頓挫したが日中国交回復と資源外交で従米脱却を追求、金脈問題とロッキード事件で潰された土建行政と金権政治の元祖
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照戦後
田中 角栄
1918年 〜 1993年
60点※
家系・子孫
- 田中角栄は新潟県刈羽郡二田村(現柏崎市)の貧農の生れで、父の田中角次は当り外れの大きい牛馬商(馬喰)に手を染めて失敗し一男六女を抱え困窮生活を余儀なくされた。唯一の男児である田中角栄は(長男は夭逝)旧制中学校への進学を諦め土方勤めに出たが、15歳で単身上京し住込みで働きながら中央工学校土木科(夜間部)を卒業、18歳で共栄建築事務所を開業した。代議士となった田中角栄は1953年から1973年まで中央工学校の校長を務めている。1939年一兵卒で徴兵された田中角栄は満州へ送られたが肺炎を患い2年で除隊(仮病説あり)、東京飯田橋で田中建築事務所を開業し(田中土建工業へ改組)家主の娘はなと結婚し一男一女をもうけた。田中角栄は大河内正敏との邂逅で運を掴み理研コンツェルンからの受注で業績伸張、理研の工事に従事していた朝鮮大田で終戦を迎えた。新潟へ戻った田中角栄は戦後初の衆議院総選挙に挑戦、旦那衆の牙城を崩せず落選したが翌年の選挙で初当選し1990年まで議席を保った。さて田中角栄の家庭は、長男の田中正法は夭折したが、長女の田中眞紀子は男勝りに成長し磐石の旧新潟3区を継いで自民党系衆議院議員となり、「変人」と呼ぶ小泉純一郎内閣の外相に就き高支持率に一役買ったが、外務官僚との対立で切捨てられ民主党へ転じた。婿養子の田中直紀も実父の地盤(旧福島3区)を継ぎ自民党系衆議院議員となったが、影が薄いまま「田中眞紀子のオトーチャン」で終わった。艶福家の田中角栄は、神楽坂芸者辻和子との間に一男一女、「越山会の女王」と称された内妻の佐藤昭子との間に一女をもうけたとされる。男児が無く婿養子にも恵まれなかった田中角栄は小沢一郎を息子のように可愛がったが、小沢は金丸信に従い田中派を離脱、「一郎まで連れて行きやがって」と落胆した田中角栄は俄かに酒量を増し脳梗塞に倒れた。
田中角栄と同じ時代の人物
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戦後
岸 信介
1896年 〜 1987年
100点※
戦前は満州国の統制経済を牽引し東條英機内閣の商工大臣も務めた「革新官僚」、米国要人に食込みCIAから資金援助を得つつ日米安保条約の不平等是正に挑んだ智謀抜群の「昭和の妖怪」
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戦後
重光 葵
1887年 〜 1957年
100点※
戦前は日中提携・欧州戦争不関与を訴え続け外相として降伏文書に調印、アメリカ=吉田茂政権に反抗しA級戦犯にされたが鳩山一郎内閣で外相に復帰し自主外交路線を敷いた「ラストサムライ」
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戦後
孫 正義
1957年 〜 年
100点※
在日商魂と米国式経営を融合し日本一の大富豪へ上り詰めた「ソフトバンク」創業者、M&Aと再投資を繰返す「時価総額経営」の天才はヤフー・アリババで巨利を博し日本テレコム・ボーダフォン・米国スプリントを次々買収し携帯キャリア世界3位に躍進
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