超無口な上杉景勝を補佐し御館の乱・新発田重家の乱を収拾、豊臣秀吉に取入って景勝を会津120万石へ押上げ陪臣ながら30万石の大名に出世したが、時勢を見誤って石田三成に肩入れし会津征伐を誘発して出羽米沢藩30万石へ転落した「愛」冑の田舎軍師
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照戦国
直江 兼続
1560年 〜 1619年
20点※
家系・子孫
- 直江氏は、越後頸城郡直江庄を所領した土豪で越後与板城主飯沼氏の被官であったが、直江親綱は飯沼頼清を滅ぼした長尾為景に臣従して与板城主となり、嫡子の直江景綱は為景没後の晴景・景虎(上杉謙信)の家督争いで景虎について重臣となり「謙信七手組」に数えられた。景綱娘の船に入嗣した直江信綱(実家は総社長尾家)は、御館の乱で上杉景勝を支持し重用されたが、河田長親の相続争いに巻込まれ春日山城内で毛利秀広に襲われ落命、景勝は遺児(清融)を出家させたうえ腹心の樋口兼続を船に娶わせ直江家を継がせた。樋口氏(中原姓)は為景の三条長尾家と競った上田長尾家の家臣で木曽義仲四天王の一人樋口兼光の子孫を称し、長尾政景が暗殺された後、樋口兼豊は上田衆の一員として後嗣の景勝に随い御館の乱に貢献、直江親綱の娘を娶って三男三女をもうけた。長男の樋口改め直江兼続は、超無口な景勝に代わって上杉家を宰領し、天神山城主小国重頼の内紛に乗じて次弟の実頼を小国家の家督に据え(大国へ改姓)、実家の樋口家は三弟の秀兼に継がせ、妹を上杉重臣の須田満胤・色部光長・篠井泰信に嫁がせた。兼続は34歳まで男児に恵まれず本庄繁長の三男長房を養子に迎えたが翌年船が景明を出産、長房を離縁し本庄家へ戻した。直江兼続は、石田三成・豊臣秀吉に接近し陪臣ながら出羽米沢30万石の大名へ出世したが、三成に加担して関ヶ原の戦端を開き上杉家は会津120万石から米沢藩30万石に押込められた。辛くも改易を免れたものの戦々恐々の兼続は徳川幕府への接近を図り、徳川家康の腹心本多正信の次男政重を娘於松の婿養子に迎え景明を廃して嗣子とし、於松が病没すると弟大国実頼の娘阿虎を養女にして政重の継室に据えるが(猛反対の実頼は兼続の使臣を斬殺し高野山へ遁走)政重は金満の加賀前田家に3万石で引抜かれ、嫡子に戻した直江景明は膳所藩主戸田氏鉄の娘を妻に迎えるも嗣子無く早世、兼続の死をもって直江宗家は断絶した。秀兼が継いだ樋口家と、実頼の死後一時断絶した大国家も秀兼の子光頼が再興を許され、米沢藩士として幕末まで存続した。
直江兼続と同じ時代の人物
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戦国
織田 信長
1534年 〜 1582年
140点※
中世的慣習を徹底破壊して合理化革命を起し新兵器鉄砲を駆使して並居る強豪を打倒した戦国争覇の主人公ながら、天下統一を目前に明智光秀謀反で落命し家臣の豊臣秀吉・徳川家康に手柄を奪われた悲劇の英雄
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戦国
毛利 元就
1497年 〜 1571年
100点※
安芸の小領主の次男坊から権謀術数で勢力を拡大、息子の吉川元春・小早川隆景を両翼と頼み、厳島の戦いで陶晴賢を討って大内家の身代を奪取、月山富田城の尼子氏も下して安芸・備後・周防・長門・石見・出雲・隠岐・伯耆・因幡・備中を制覇した戦国随一の智将
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戦国
徳川 家康
1542年 〜 1616年
100点※
旧主今川義元を討った織田信長と同盟して覇業の一翼を担い、豊臣秀吉没後秀頼を滅ぼして天下を奪取、信長の実力主義・中央独裁を捨て世襲身分制で群雄割拠を凍結し265年も時間を止めた徳川幕府の創設者
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