二度の「上田合戦」で徳川家康に苦渋を舐めさせた戦国屈指の戦上手だが大局眼無き領地欲の権化、叛服の果てに小田原征伐を誘発し関ヶ原合戦で勲一等の殊勲を挙げながら西軍敗北で破滅
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真田 昌幸
1547年 〜 1611年
40点※
真田昌幸と関連人物のエピソード
- 信濃は山岳に分断された地勢で長野県人は纏まりを欠くといわれるが、更に交通不便な戦国時代には国衆割拠で統一勢力が育たず近隣大名の格好の標的となった。信濃のうち小県郡は古豪海野氏が関東管領山内上杉氏を後ろ盾に支配していたが、海野棟綱は甲斐守護武田信虎と結んだ村上義清・諏訪頼重に挟撃され、嫡子の海野幸義まで喪い上野へ亡命した(1541年海野平の戦い)。真田幸隆(真田幸綱)は父の海野棟綱(孫とも)に従い上野箕輪城主の長野業正に寄寓したが、諏訪頼重との和睦に失望し武田信虎を追放した武田信玄に帰参、三途の川の船渡賃「六文銭」を旗印に定め佐久・小県郡侵攻の尖兵となった。真田幸隆は武田信玄を北信濃に引込み謀略で戸石城を攻略、葛尾城の村上義清を越後に奔らせ武田信玄は甲斐・信濃の統一を果した。総身に35の戦傷を負いつつ本領回復を果した真田幸隆は1574年戸石城にて62歳で病没、「武田二十四将」屈指の智謀と謳われた。真田幸隆には四男あり、長男の真田信綱は「武田二十四将」に数えられたが次男の真田昌輝と共に長篠の戦いで戦没、三男の真田昌幸が家督を継ぎ四男の真田信尹は謀臣として昌幸を支えた。真田昌幸は、長篠合戦で重臣の大半を喪った武田家で重きを成し信濃国人の領袖に収まったが、間もなく主の武田勝頼が織田信長に滅ぼされ、乗換えた信長も本能寺の変で横死、最前線の信濃は徳川家康・上杉景勝・北条氏政が覇を競う「三国志」状態となった(天正壬午の乱)。目先の領土に執着する真田昌幸は上杉→北条→徳川と乗換えつつ上野沼田を奪回したが、北条への沼田返還を強要する徳川家康を「第一次上田合戦」で撃退、次男の真田信繁(真田幸村)を人質に差出して豊臣秀吉に臣従し領土保全に成功した。が、真田昌幸は大詰めの関ヶ原合戦で大局を見誤り「第二次上田合戦」で西軍一の武功を立てながら破滅、幽閉地の高野山に没し次男の真田信繁(真田幸村)も復活を賭けた大坂陣に散ったが、舅の本多忠勝に従い東軍に属した嫡子の真田信之は信濃最大の松代藩13万石の主となり子孫は幕末まで封土を保った。
- 真田信繁(真田幸村)は謀将真田昌幸の次男、15歳で織田方の沼田城へ人質に出され「第一次上田合戦」で武将デビュー、上杉景勝の人質を脱して豊臣秀吉に近侍し大谷吉継の娘婿となった。真田昌幸に従う真田信繁は小田原征伐を闘い上野沼田領を奪回、1600年「第二次上田合戦」で徳川秀忠の中山道軍を関ヶ原合戦に遅参させたが西軍惨敗で破滅、東軍に付いた長兄真田信之(妻は本多忠勝の娘)の嘆願で辛くも助命され父と共に高野山九度山村へ幽閉された。真田信之は昌幸領を安堵・加増され子孫は幕末まで松代藩13万石を保った。真田昌幸は没したが1614年「大坂冬の陣」が起ると、真田信繁は兄の勧誘を断って高野山を脱出し大阪城に見参(条件は50万石とも)、手勢130人ながら長宗我部盛親・毛利勝永・後藤又兵衛・明石全登と並ぶ浪人軍「五人衆」に迎えられ5千の兵を託された。真田の通字は「幸」、兄の信幸は徳川を憚り「真田信之」へ改めたが、弟の信繁は「真田幸村」を名乗り意気地を示している。さて、大野治長(淀殿の乳母の子)らに兄への通謀を疑われた真田信繁は、大阪城の弱点である南方に孤立無援の「真田丸」を築いて信義を立て、真田昌幸の遺策を披露し「先制攻撃で京都を押さえ近江瀬田で関東勢を防ぎ、豊臣秀頼自ら出陣して恩顧大名の離反を誘うべし」と説いたが、「貫禄不足の信繁が説いても誰も従うまい」との父の予言通りとなった。真田信繁は無念を抑えて真田丸に籠り20万の徳川軍を奇計で翻弄、信濃一国の恩賞で投降を勧められたが謝絶し大坂城を護り切った。が、愚将大野治長の差配で豊臣方は勝機を逃し大砲に怯えた淀殿が不利な講和を強行、真田丸は破壊され大阪城は内堀まで埋められた。翌1615年、徳川家康は15万余の大軍で「大坂夏の陣」を起し裸城を再攻撃、真田信繁は伊達政宗自慢の騎馬鉄砲隊を撃退し、茶臼山に布陣し起死回生の陽動作戦を献じたが肝心の豊臣秀頼が出馬せず挫折、「十文字槍」を振い家康本陣に斬込んだが包囲殲滅された。真田信繁の猛撃に徳川家康は二度も自害を覚悟したという。豊臣家は滅亡し戦国時代は徳川の一人勝ちで終結したが、真田信繁は己の死花で掉尾を飾った。
- 戦国末期に勇将は少ないが、1567年生れの真田信繁(真田幸村)と立花宗茂が掉尾の双璧、加藤清正・福島正則・井伊直政・伊達政宗・黒田長政らも実戦指揮では両人に及ばない。真田昌幸は領土に執着する余り次々主を替えた変節漢だが、二度の「上田合戦」で最も徳川家康を苦しめた山岳籠城戦の達人であり、共に闘った次男の真田信繁は寡兵で大軍を封じる極意を受継いだ。真田昌幸の死後、47歳の真田信繁は奇略で高野山九度山を脱出し「大坂冬の陣」に見参(条件は50万石とも)、松倉重政(大和五条代官)・浅野長晟(和歌山藩主)を介し徳川家康からも招聘されたが「父の遺言」と丁重に断った。厚遇された真田信繁は兵5千と百騎を預けられ浪人軍の最高幹部「五人衆」に担がれたが(他に長宗我部盛親・毛利勝永・後藤又兵衛・明石全登)、兄の真田信之が徳川方のため大野治長らに通謀を疑われ難渋、「先制攻撃で京都を押さえ近江瀬田で関東勢を防ぎ、豊臣秀頼自ら出陣して恩顧大名の離反を誘うべし」という真田昌幸の遺策を退けられた。が、真田信繁は信義を示すため孤立無援の出城「真田丸」を築き大阪城の弱点南方を防御、前田利常・松平忠直・井伊直孝ら3万の大軍を引受けた。真田信繁は、真田丸で捕えた南条元忠(伊達政宗の間諜)を逆利用し、前方の篠山から前田勢を狙撃し挑発、南条の内応を信じる敵勢が真田丸に殺到すると弓鉄砲の猛射を浴びせ散々に打破った。攻めあぐねた徳川家康は叔父の真田信尹を派して投降を勧め恩賞を十万石から信濃一国へ吊上げたが、真田信繁は礼儀正しく謝絶した。和議を違えて大阪城を内堀まで埋め真田丸も破却した徳川家康は翌年「大坂夏の陣」を再開、裸城の大坂勢は已む無く野戦に玉砕し豊臣家は滅亡した。真田信繁は、大阪街道を来る伊達政宗の騎馬鉄砲を我慢戦法で撃破し茶臼山に布陣、豊臣秀頼を餌に徳川本隊を引付け迂回部隊で敵の背後を衝く起死回生策を立てたが、肝心の秀頼が来ず万策尽きた。真田信繁は「十文字槍」を振って前田勢を切崩し後方に陣する徳川家康の旗本へ突進、家康を300mも追い自害も覚悟させたが、終に力尽きた。なお『真田十勇士』は立川文庫の創作である。
- 武田信玄(晴信)は、一代で甲斐を平定した父武田信虎を追放して家督を継ぎ信濃・駿河を征服、川中島の戦いで上杉謙信と戦国最強を競い、天下を望んで上洛軍を挙げ三方ヶ原の戦いで徳川家康を一蹴するが織田信長との決戦目前に陣没した残念な英雄である。武田信虎の嫡子に生れ、16歳の初陣で信虎を退けた強豪平賀入道源心を奇襲で討取るも、次男信繁を偏愛する信虎に嫌われ廃嫡を怯える日々を送った。1541年重臣及び姉婿今川義元と共謀して信虎を駿河に追放し家督を承継すると、翌年信虎の懐柔路線を棄てて諏訪攻めを開始、妹婿の諏訪頼重、高遠頼継を攻め滅ぼした。土豪が割拠し統一勢力の無い信濃を狙うも、村上義清は強敵で、上田原の戦いで宿老板垣信方まで討取られる大敗を喫したが、塩尻峠の戦いで小笠原長時を破り、1551年戸石城・葛尾城を攻略し信濃一国を平定した。武田信玄は越後に野心はなかったが、村上義清に泣き付かれた上杉謙信が秩序回復の義軍を挙げ北信濃に侵入、1553年から11年に渡る川中島の戦いが勃発し痛恨の足止めを喰った。特に第4回戦は啄木鳥戦法を見破った謙信が本陣に斬り込み信玄に一太刀浴びせ弟武田信繁や軍師山本勘助も戦死という大激戦となったが、結局謙信は兵を引き不毛な争いは和睦へ向かった。上杉謙信の猛攻を凌いだ武田信玄はようやく関東に侵出、箕輪城攻略で上野国西部を領有し、今川義元亡き駿河へ侵攻を開始した。徳川家康と今川領の東西分割を約し、義元の娘を妻とする武田義信を廃嫡して自害させ、駿府城を落として今川氏真を追放、妨害に出た北条軍を三増峠の戦いで撃破して1569年駿河一国を征服した。上杉・北条と和睦して背後を固め、将軍足利義昭・浅井長政・朝倉義景・本願寺顕如・松永久秀らと提携したうえで、1572年織田信長討伐を掲げて京都へ進発、徳川家康を一蹴して三河野田城まで攻め込んだが、突如発病し陣没した。1575年後継の武田勝頼は織田・徳川に再挑戦したが馬防柵と鉄砲の三段撃ちの前にまさかの大敗(長篠の戦い)、1582年甲州征伐・天目山の戦いで甲斐武田氏は滅亡した。
- 「武田二十四将」は今なお有名だ。山本勘助は、諸国巡礼の末に52歳で武田信玄に仕官し足軽大将に抜擢された。容貌醜悪で片足が不自由だが、諸国情勢や兵法・築城術に通じ、信玄に恨みを含む諏訪御料人の側室採用、北信濃攻略などに大功があったが、第4次川中島の戦いで上杉謙信に啄木鳥戦法を見破られ戦死した。江戸時代に甲州流軍学を広めた小幡勘兵衛の『甲陽軍鑑』で一躍有名軍師となったが、その雛形は勘助の子が作ったもので、実際は軽格と見る向きが強い。ただ、二十四将中で門外漢は山本勘助のみであり、浪々の身から破格の昇進を遂げた事実は動かない。同じ謀略系では真田幸隆がいる。信玄に属して合戦で奪われた所領を回復、戸石城攻略で大功を挙げ、巧みなゲリラ戦術は子の真田昌幸・孫の真田信繁(真田幸村)へ受継がれた。猛者揃いの武田軍でも「武田四天王」馬場信春・内藤昌豊・高坂昌信・山県昌景は別格だが、最強は山県昌景だろう。140センチ足らずの小兵で口蓋裂の醜貌ながら、常に先陣を疾駆し「赤備え」と恐れられた。「赤備え」の元祖は昌景の兄飯富虎昌、信虎追放劇に加担した宿老だが、武田義信の傅役故に謀反疑惑に連座し処刑された。長篠の戦いで山県昌景が戦死した後、「赤備え」は井伊直政と真田幸村が踏襲した。高坂昌信も強いが、少年期は信玄の寵童であったという。板垣信方は、信虎追放以来の腹心で、享楽に耽る武田信玄を諌め、北信濃方面軍司令官の大役を担ったが、上田原の戦いで緒戦の勝利に油断し前線で首実験中に村上義清に襲撃され落命した。長篠の戦い後、武田勝頼の求心力は衰え、最期は譜代重臣にも見捨てられた。小山田信茂は、信玄の従弟で家中屈指の大族だったが、織田信長の甲州征伐で逃亡する武田勝頼の保護を拒み滅亡に追いやった。戦後信長に降伏するが、余りの不忠を咎められ処刑。穴山信君は、武田一族の名門だが、従兄弟の勝頼と対立し長篠の戦いで戦線離脱、甲州征伐では織田方に内通し本領安堵のうえ武田宗家を継承した。が、徳川家康と堺見物中に本能寺の変が勃発、木津川河畔で土民の落ち武者狩りに遭い落命した。
- 武田信玄と上杉謙信は川中島の戦いで覇を競った最強の戦国大名である。両軍の精強は元来甲斐・越後の兵が「上方兵の10人分」(因みに東海道最強といわれた三河武士は3人分)といわれたほど強かったことが要因だろうが、野武士軍団をまとめ力を発揮させた力量は凄い。ライバルの二人は性格も用兵術も全く異なったようである。武田信玄は、軍事だけでなく智謀・政治にも優れた緻密且つ用意周到な万能タイプで、「武田二十四将」に気を配りつつ軍団編成や戦術を自ら細かく指揮し、謀略・外交も駆使して旺盛な領土欲を満たしていった。「信玄堤」に代表される治水事業は最も有名だが、金山開発などの産業奨励にも注力し、占領地は暴政を敷く危険性のある家臣には与えず直轄領として民政に老練な代官を送り善政をさせて大いに民心を得たという。惜しむらくは行動の遅さだろう。上洛目前の急死は悲運であったが、織田信長さえ全力を尽くして信玄の機嫌を取り結び死後は発狂したように躁状態に入ったというから、もう少し早く動いていたらと思わざるを得ない。諏訪氏討伐後、奥の院に引篭もって昼夜の別なく酒色と作詩に耽溺し、板垣信方に諫止されたというから自堕落で享楽に耽り易い性質であったとも考えられる。誰もが無敵と仰ぐ武田信玄を川中島に釘付けにし野望を阻んだのが9つ年下の上杉謙信であった。こちらは毘沙門天を尊崇する大の戦争好きで、後継問題で揺れる上杉家中を天才的軍才で掌握し、領土的野心が無いのに頼られるごとに関東へ信濃へと義軍を出した。兵法者の信仰篤い飯縄権現に帰依し妻帯禁制の戒を守って生涯童貞で通したといわれ(なお愛宕勝軍地蔵を信仰して飛行自在の妖術修行に励んだ管領細川政元も女色を禁断した)、謙信女性説の根拠となっている。戦略や用兵は全て直感で行い、事前の下知や相談はせず、出陣に際して並んだ将兵を乗馬のまま区切るという適当さながら、軍略は鬼神の冴えを現し戦えば勝ったので家臣さえ「軍神」と仰いだという。武田信玄の上洛に際し両雄は和睦するが、信玄は亡くなる前に「謙信と和親して頼れ、あれは頼みになる男じゃ」と遺言したという。「敵に塩を送る」美談も有名である。
- 長尾為景は、越後守護上杉房能・関東管領上杉顕定(房能の兄)の二君を討ち百戦連勝で越後を掌握した北国下克上の筆頭格にして上杉謙信の父である。1504年山内上杉顕定が扇谷上杉朝良・今川氏親・北条早雲の連合軍に敗れ北武蔵の鉢形城に追詰めらると(立河原の戦い)、越後守護代の長尾為景は武蔵に遠征して主家の顕定を救い逆に朝良を降伏させて18年に及んだ長享の乱を終息させた。1506年室町幕府管領細川政元の要請を受けた本願寺実如(蓮如の後嗣)が加賀・越中一向一揆を圧迫する越前朝倉氏と越中・能登畠山氏の討伐を号令、朝倉宗滴が九頭竜川合戦に圧勝し越前防衛を果すと一揆勢は内紛に揺れる越中に殺到、越中守護畠山尚順の要請に応じた長尾能景は親不知・子不知の難所を越えて出陣するが神保慶宗の裏切と主君上杉房能の傍観により討死した(般若野の戦い)。後を継いだ長尾為景は、自身の誅殺を企てた上杉房能を急襲して自害させ、1510年越後に来襲した関東諸豪の大軍を返討ちに破って上杉顕定を討取り(長森原の戦い)、上杉定実を傀儡守護に擁立し妹を娶わせた。1520年越後の国政を握った長尾為景は越中へ攻入って仇敵神保慶宗を討ち、一向衆禁止令を布告して越中征服に乗出したが一向一揆の蜂起に遭って断念(2年後に管領細川高国の調停により和睦成立)、以後は朝廷や室町幕府の権威を利用しつつ越後の反抗勢力討伐に専念した。1536年越後で上条定憲(定実の近親)と同族の上田長尾房長(政景の父)率いる揚北衆が反乱挙兵、劣勢の長尾為景は柿崎景家の寝返りを誘って撃退するも決定的勝利を得られず、国人衆の反抗に手を焼きながら54歳で死去した。後を継いだ嫡子の長尾晴景は宥和策を侮られ反抗を煽る結果を招き、次男景房・三男景康は抗争の渦中に落命した。四男の上杉謙信は父為景を凌駕する軍才に恵まれ13歳の初陣から連戦連勝で反乱軍を撃破、家臣・国人衆に推されて晴景から家督を奪い、長尾政景(房長の嫡子)と揚北衆を滅ぼして越後を平定し戦国大名への脱皮を果した。謙信の後を継いだ養子の上杉景勝は、謙信が謀殺した長尾政景と仙桃院(謙信の姉)の子である。
- 上杉謙信は、実兄を廃して越後の領袖となるも生涯反乱に忙殺され、武田信玄・北条氏康の守りを崩せず関東侵出に挫折、越中・能登を征し織田信長との決戦を前に急死した戦国最強の天才武将である。生涯を義戦に捧げ軍神と畏怖されたが、領地拡張の果実は乏しく家臣団は疲弊した。金山開発、青苧栽培、日本海貿易などの産業奨励により膨大な戦費を確保した経済手腕も卓抜であった。越後守護上杉房能と関東管領上杉顕定を殺し傀儡守護に上杉定実を立てて実権を握った長尾為景が病没すると、弱腰な嫡子晴景を侮り内乱が激化、13歳の初陣以来連戦連勝で反乱軍を撃破した末弟の景虎(上杉謙信)が家臣・国人衆に推され兄晴景を廃して春日山城の主となり、1551年同族の長尾政景を降して(後に謀殺)22歳で越後統一を果した。が、神懸り的武略で従わせたものの国人割拠の情勢は変わらず、生涯反乱に悩まされた。1552年北条氏康に追われた関東管領上杉憲政を保護し上野平井城を奪還、翌年には信濃を追われた村上義清らに泣き付かれ宿敵武田信玄と11年に及ぶ川中島合戦の戦端を開いた。信玄の猛調略と甲相駿三国同盟に晒され、北条高広の謀反に失望した上杉謙信は出家騒動を起すが、大熊朝秀の謀反が起って現場に戻された。1561年今川義元討死を機に北条氏康討伐を号令、関東の諸城を攻め潰し10万の大軍で小田原城を攻囲するが固い籠城と信玄の後方撹乱により撤退(小田原城の戦い)、上杉憲政から関東管領上杉家の名跡を継ぎ以後17回も関東に遠征したが、北条・武田を敵手に諸豪の向背定まらず結局関東制覇の夢は破れ、家臣の叛心に油を注いだ。川中島合戦でも、啄木鳥戦法を見破り信玄を追い詰めたが、信濃奪還の本意は叶わなかった。1571年上杉謙信は越中に主戦場を移動、信玄急死で後ろ楯を失った一向一揆を破り、1577年逆臣椎名康胤を討って越中大乱を平定、北進して織田方に奪われた七尾城を奪還し、越後・越中・能登の三国を征した。本願寺顕如・毛利輝元らと織田信長包囲網を形成し、手取川合戦で柴田勝家軍団を粉砕、信長討伐の大動員令を発したが直後に急死した。
- 北条氏康は、北条早雲・氏綱の遺志を継いで関東管領上杉氏を滅ぼし、関東制覇は上杉謙信と武田信玄に阻まれたが伊豆・相模から関東全域に勢力を伸ばし善政を敷いた文武両道の智将である。減税・中間搾取排除に窮民対策の徳政令も施して民心を掴み、都市開発と文芸振興で小田原を東日本一の繁華街にし、「総構え」で要塞化した小田原城で上杉・武田の猛攻を凌ぎ切ったが、堅城を過信し降伏を逡巡した後嗣氏政・氏直が豊臣秀吉に滅ぼされ、そのまま遺領を継いだ徳川家康が江戸幕府を開いた。浪人から伊豆・相模国主に成り上がった早雲の嫡子北条氏綱は、扇谷上杉氏から江戸城を攻め取り、小弓公方足利義明を返り討ちにして武蔵国を掌握した。1541年氏綱を継いだ嫡子北条氏康は、上杉氏と今川義元の挟撃に遭うも今川と和睦して危機を脱し、1546年武蔵に転じると北条綱成の奇襲で圧倒的優勢の上杉軍を撃滅(河越夜戦)、扇谷上杉朝定を討ち滅ぼし、山内上杉憲政を敗走させ、足利晴氏を幽閉して次男義氏(氏康の娘婿)を古河公方に擁立した。関東諸豪を切崩し、武田・今川と甲相駿三国同盟を結んで関東統一に夢を馳せたが、生涯の宿敵に行手を阻まれた。上杉憲政を保護し名跡を継いだ上杉謙信が上野に侵攻、1561年今川義元討死の虚を突いて北条氏康討伐を号令すると、圧倒的武力で瞬く間に関東を席巻し小田原城に迫った。北条氏康は、謙信出陣中は籠城で凌ぎ、信玄の後方撹乱で謙信が越後に戻ると盛り返す戦術を展開、房総半島を征した上杉方の里見義堯を破って安房に追い詰め(国府台合戦)、1566年上野箕輪城を落として謙信を追い払った。邪魔者を退けた北条氏康であったが、里見討伐に送った子の氏政・氏照がまさかの大敗、信玄が今川領駿河に侵攻すると色気を出して参戦したが、逆に小田原城まで攻め込まれ敗退(三増峠の戦い)、謙信と同盟したことが関東諸豪の動揺を招き、常陸の同盟軍が佐竹義重に大敗して北進も阻まれ、挽回成らぬまま死去した。氏康の遺言に従い北条氏政は上杉との同盟を解消して再び武田と同盟、武田勝頼滅亡後遺領に色気を出したが今度は徳川家康に跳ね返され、豊臣秀吉の小田原征伐で滅亡した。
- 北条氏康の政治力は祖父早雲譲りで戦国時代随一といわれる。領国拡大よりも統治に重きを置き、無理な外征を控えて戦費を抑え他国より低い税負担を実現した。北条領を引き継いだ徳川家康は税率引上げに苦労し、忍者の風魔小太郎(江戸幕府創設直後に処刑)や鳶沢甚内(幕府に帰順し目明し兼古着商支配役を世襲)など北条家遺臣が成した盗賊団の跳梁にも手を焼いた。義戦の名の下に実益乏しい外征に明け暮れ重い戦費負担を強いた上杉謙信とは好対照で、局地戦では敵わなかったものの、家臣と領民の支持が長期持久戦を可能にし広い領土を保つことができた。豊臣政権の太閤検地に先駆けで領内の検地を徹底し度量衡も統一、検地即ち隠田摘発は農民の反発を買うものだが、徴税体制強化の代わりに減税の恩恵を施した。中間搾取排除で領民の負担を減らしつつ一極支配体制を固め、目安箱を設置し、凶作や飢饉の際には柔軟に税の減免を施して酷いときには徳政令を施行、それでも領主層=家臣団や豪商を手懐け得たのは政治力の成せる業であった。北条氏康は、城下町小田原の都市開発にも鮮やかな手腕を見せた。街区や上水道(小田原早川上水)を整備し、全国から商人・職人を呼び寄せて商工業を振興、文化人・芸人を招聘して活気も演出し、清掃にも気を配り、西の山口と並び称される東国最大の都市を築き上げた。戦国期の城郭は、松永久秀の信貴山城や斎藤道三の稲葉山城に代表される山城から経済活動に有利な平城へ移り、末期には堀と防塁で城下を囲い込む巨大要塞(総構え)へ発展したが、小田原城はその画期を為す傑作であり、攻低守高の時代にあって難攻不落を誇った。海外貿易と重商主義を成功させ兵農分離まで到達した織田信長ほど派手ではないが、北条氏康の政治手腕は封建領主としては抜群で領民にとっては最も有難い名君であった。
- 本多平八郎忠勝は、武田信玄・豊臣秀吉も羨んだ「徳川四天王」最強武将、伊勢桑名藩10万石と上総大多喜藩5万石を獲得したが幕府創設で役割を終え本多正信・正純に主導権を奪われた。徳川(松平)最古参「安祥七譜代」に列する本多家の当主で、生後間もなく父忠高が織田信秀との合戦で戦死、補佐役の叔父忠真も三方ヶ原合戦で討死した筋金入りの三河武士である。1559年徳川家康が永い人質生活を終え岡崎城に帰還、翌年「大高城の兵糧入れ」で12歳の本多忠勝は初陣を飾り、桶狭間合戦で今川義元が討たれ三河衆は悲願の独立を達成、家康は凡愚な今川氏真と手を切り織田信長(信秀の嫡子)との同盟を選択した。武功を重ねる本多忠勝は19歳で家康子飼いの旗本先手役・将校に列し、姉川合戦では単騎駆けで朝倉陣を切裂き豪傑真柄直隆を一騎打ちで討取る活躍、1572年武田信玄に遠江二俣城を奪われた家康が出陣するが衆寡敵せず三河浜松城へ撤退、殿軍の本多忠勝は見事な武者ぶりで馬場信春・小杉左近の追撃を抑え武田軍から「家康に過ぎたるものが二つあり、唐の頭に本多平八」と賞賛された(一言坂の戦い)。翌年三方ヶ原の戦いで徳川軍は信玄に一蹴されたが、左翼を担う本多忠勝は「赤備え」の精鋭山県昌景隊を食止め殿軍の大役を果して家康を浜松城へ逃した。1582年堺見物中の家康を本能寺の変が襲うと随行の本多忠勝は殉死を制止して岡崎城へ生還させ、1584年小牧・長久手の戦いでは奇襲軍を破られ反撃に出た豊臣秀吉の大軍を僅かな手勢で食止め、第一次上田合戦では真田昌幸に敗れた徳川勢の撤退を指揮し娘を真田信之に縁付けて講和を纏めた。1590年小田原征伐に向け京都に参集した諸大名の前で秀吉から「東の本多忠勝、西の立花宗茂、東西無双」と激賞され、家康の関東移封に伴い上総大多喜城10万石に入封、1600年関ヶ原合戦では井伊直政と共に実戦を指揮し要衝の伊勢桑名10万石(次男の本多忠朝が大多喜5万石を承継)へ配された。徳川幕府発足後は武功派の本多忠勝に用は無く家康は吏僚派を重用、本多正信を「腰抜け」と罵りつつも危険な政争に巻込まれることなく63歳の生涯を閉じた。
真田昌幸と同じ時代の人物
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戦国
織田 信長
1534年 〜 1582年
140点※
中世的慣習を徹底破壊して合理化革命を起し新兵器鉄砲を駆使して並居る強豪を打倒した戦国争覇の主人公ながら、天下統一を目前に明智光秀謀反で落命し家臣の豊臣秀吉・徳川家康に手柄を奪われた悲劇の英雄
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照 -
戦国
毛利 元就
1497年 〜 1571年
100点※
安芸の小領主の次男坊から権謀術数で勢力を拡大、息子の吉川元春・小早川隆景を両翼と頼み、厳島の戦いで陶晴賢を討って大内家の身代を奪取、月山富田城の尼子氏も下して安芸・備後・周防・長門・石見・出雲・隠岐・伯耆・因幡・備中を制覇した戦国随一の智将
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戦国
徳川 家康
1542年 〜 1616年
100点※
旧主今川義元を討った織田信長と同盟して覇業の一翼を担い、豊臣秀吉没後秀頼を滅ぼして天下を奪取、信長の実力主義・中央独裁を捨て世襲身分制で群雄割拠を凍結し265年も時間を止めた徳川幕府の創設者
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