久留米の小さな仕立屋からゴム底の作業靴「アサヒ地下足袋」と学童靴「アサヒ靴」で躍進、トヨタ・日産に先駆けて自動車タイヤの製造に挑み「世界のブリジストン」を築いた天才企業家
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石橋 正二郎
1889年 〜 1976年
90点※
石橋正二郎と関連人物のエピソード
- 石橋正二郎は、中学校を飛級でパスし久留米商業学校に最年少で合格したほどの秀才で、神戸高商(神戸大学)への進学を目指していた。しかし、心臓病を患う父の石橋徳次郎が引退を決めたため、進学を断念して兄の石橋重太郎(2代目徳次郎)と共に家業の仕立屋「志まや」を継ぎ、間もなく重太郎が陸軍に徴兵されたため、17歳にして一人で家業を切り盛りする身となった。久留米商業学校で親友だった石井光次郎は、神戸高商へ進み後に官僚政治家の重鎮となるが、石橋正二郎は「うらやましく思った」と追想している。なお、石井光次郎の息子石井公一郎と石橋正二郎の四女多摩子が結婚し両家は縁戚関係になった。
- 1906年17歳で久留米市の家業「志まや」を継いだ石橋正二郎は忽ち商才を現し、利の薄い襦袢や着物の仕立屋を廃業し利幅が大きい足袋の専門店へ業態転換、父の石橋徳次郎に叱られつつ、時代遅れの徒弟制度を廃して賃金労働制を導入し労働時間も短縮した。手応えを掴んだ石橋正二郎は、翌年足袋製造工場を開設して大量生産に踏切り、小口販売から特約店向け卸販売へ軸足を移し、足袋の全サイズを均一価格に改め販売合理化を図った。兄の石橋重太郎(2代目徳次郎を襲名)が兵役から戻ると販売や集金を任せ、石橋正二郎は「志まやたび」の字幕と造花で装飾した街宣車に乗りビラを撒きつつ九州全土を行脚、行く先々で黒山の人だかりができ「馬のない馬車がきた」と大評判を博した。さらに石橋正二郎は、国産制作が始まったばかりの映画に目を付けPR映画「足袋のできるまで」を制作、街宣車に携え巡回上映を行った。当時未だ自家用車は希少で東京に300台・大阪に18台しか無く2代目石橋徳次郎は九州の運転免許所持者第一号、価格は大卒初任給の50倍もしたが、石橋正二郎の大胆な広告戦略は当たり足袋の拡販で十二分の費用対効果を得た。全国展開を期す石橋正二郎は古臭い「志まやたび」から好きな言葉「旭日昇天」に因み「アサヒ足袋」へ商標変更、そつなく「アサヒ」と名のつく商標権をあらかた買い集めたうえで、1914年「二〇銭均一アサヒ足袋」を発売した。第一次大戦の特需もあって石橋正二郎の広告・価格戦略は図に当たり、全国から注文が殺到して年産60万足から200万足へ急伸、アサヒ足袋は四大足袋メーカーの一角へ台頭し最大手の福助足袋に迫る旭日の勢いとなった。1918年石橋正二郎は個人商店の「志まや」を株式会社へ改め「日本足袋」を設立(現アサヒコーポレーション)、兄の石橋徳次郎に社長を譲り自らは専務に就任した。
- 格安均一価格と斬新な広告宣伝で急成長を遂げた石橋正二郎の「日本足袋」であったが、第一次大戦後の反動不況で売上は伸悩んだ。有望な新製品を模索する石橋正二郎は、高価な割に耐久性が低くあまり売れていなかったゴム底足袋に着目し、自ら技術改良に取組んで実用性の高い製品の開発に成功、1923年「アサヒ地下足袋」と名付けて売出した。九州の炭鉱夫から火がついて評判は口コミで全国へ広がり、農作業や土木作業に大変便利なゴム底のアサヒ地下足袋は瞬く間に市場を席巻、さらに関東大震災に伴う首都圏の土木建築ラッシュが強力な追風となり、今日へ至る定番品の地位を確立した。石橋正二郎は好機を逃さず、ベルトコンベアシステムを導入した最新設備の大工場を建設しゴム底足袋の量産体制を構築、あわせて日本足袋の製品のみを取扱う専売店網を全国へ広げ強力な販売体制を敷いた。さらに商品多様化を図る石橋正二郎は1928年ゴム靴専門工場を開設し、安くて丈夫なゴム底の「アサヒ靴」を売出すと全国学童の通学・体育用の定番品となり手堅い市場を獲得、勢いのまま長靴・ゴム靴へと手を広げた。日本足袋の専売店は日本全国に6万店を数え中国・満州へも進出、年産6~7千万足を誇る日本有数の消費財メーカーへ発展を遂げた。生活必需の消耗品を扱う石橋正二郎の日本足袋は1927年の金融恐慌でも好調な業績を維持、時の濱口雄幸内閣の井上準之助蔵相は「かかる不況の中にも、なお繁盛しているものがある。東のマツダランプ、西の日本足袋である」と賞賛した。なおマツダランプは東京電気がライセンスを取得し日本で販売したアメリカの電球ブランドで、松田重次郎のマツダ自動車とは無関係である。
- ゴム底の「アサヒ地下足袋」「アサヒ靴」で急成長を遂げた「日本足袋」だが、ゴムの仕入れが生産に追いつかなくなり、石橋正二郎はゴム製造に乗出した。その過程で「将来は国産自動車が沢山作られて、500万台でも1000万台でも走る時代が来る・・・将来のゴム工業として大きく伸びるのは、なんといっても自動車タイヤだから、これを国産化したい」との着想を得た石橋正二郎は、自動車タイヤ事業への進出を決断した。膨大な資金を要する事業に兄の石橋徳次郎ら経営陣は尻込みしたが、石橋正二郎はゴム研究の先駆者で九州帝大教授の君島武男から「研究費に100万や200万円は捨てる考えがあるのなら、私もお手伝いをいたしましょう」と協力を取付け、福岡の先輩で三井財閥総帥の團琢磨からも賛同を得た。この縁で石橋正二郎は長男石橋幹一郎の妻に團琢磨の孫娘朗子を迎えている。1929年石橋正二郎は日本足袋にタイヤ部を設置し高価な米国製タイヤ製造機械を取寄せ試作を開始、翌年には国産自動車用タイヤ第1号の製造に成功し1931年石橋徳次郎との共同出資で「ブリッヂストンタイヤ株式会社」(石橋=ストーン・ブリッジの逆さ読み)を設立し社長に就任した。当初は不良品返品の山を築いたが、翌年には商工省優良国産品に認定されフォード・GMの製品試験合格で世界基準を獲得、輸入品の半額以下のブリッヂストンタイヤは軌道に乗り、石橋正二郎はゴルフボールへも手を広げた。満州事変後の軍用トラックの需要急増を受け、自動車の国産化を期す石原莞爾ら陸軍中枢は1936年自動車製造事業法を制定、助成対象となった日産自動車・豊田自動車工業・いすゞ自動車は急成長を遂げたが、石橋正二郎のブリッヂストンタイヤも軍需を掴んで躍進し事業基盤を構築、地方企業から脱却し海外進出の足場を築くため本社を久留米市から東京麻布へ移転し、1942年日本軍が接収した米国グッドイヤー社インドネシア工場の経営を託され海外生産も開始した。
- 朝鮮戦争の軍用トラック特需でドッジ・ライン恐慌を凌いだ石橋正二郎は、1951年ブリッジストンタイヤからブリヂストンタイヤへ社名を変更し、自動車タイヤ世界最大手の米国グッドイヤー社と生産・技術提携契約を結び最新技術を導入することに成功した。第二次大戦中、ブリッジストンタイヤは日本軍が接収したグッドイヤー社のインドネシア工場の経営を託されたが、社長の石橋正二郎は「この戦争は敵が強大国であるからには最後の勝利は予測しがたい。もし戦争が不首尾に終わって引上げるような場合、軍は勢いに乗じてどんな命令を下すかも知れぬが、工場設備を完全な姿のままにして返すことは日本精神である」と訓令した。果して日本の敗戦でインドネシア工場の返還が現実のものとなったが、石橋正二郎の指示により接収時よりも整備が行き届いた状態で引渡され、感激したグッドイヤー会長の好意によりブリヂストンタイヤへの技術支援が決定されたという。
- 1929年、「暗黒の木曜日」に始まったニューヨーク株式市場の大暴落が世界恐慌に発展した。不況の波はすぐに日本にも押し寄せ、農産物価格の下落により農村は困窮化、全世界的な繊維不況と欧米列強によるブロック経済化の進展により輸出産業の柱であった生糸・綿糸・綿布産業も壊滅的打撃を蒙った。追込まれた日本は国を挙げて中国大陸に活路を求め、満州事変勃発、日中戦争拡大と続くなかで、高橋是清蔵相が主導した積極財政政策により軍事費が急拡大して第二次大戦終結まで国家予算の70%という異常な水準で高止まりした。一方、旺盛な軍需により重化学工業が勃興、中国市場の獲得で繊維輸出も持ち直し、日本経済は早くも1933年に回復基調に入り翌年には世界恐慌前の水準に回復、他の先進国より5年も早く経済回復を果した。高橋是清は、膨張した財政支出の正常化を図るため軍拡抑制に舵を切ろうとしたが、国家総動員体制の構築を企図する軍部と軍需景気に沸く世論を抑えられず、軍部や右翼に憎まれて「君側の奸」に加えられ、二・二六事件で斬殺されてしまった。以降も軍需主導の経済成長は進み、1940年には、鉱工業指数は世界恐慌前の2倍、国民所得は140億円から320億円と2.3倍に拡大、超高度というべき経済成長を遂げた。しかし、国力を度外視した戦争経済は、過剰な軍国主義的風潮と軍部の強権化、民生の圧迫など多くのひずみを生んだ。また、国策主導による統制経済への傾斜は、大資本による経済寡占化を進展させ、第二次大戦終結時には三井・三菱・住友・安田の四大財閥が全国企業の払込資本の半分を占めるという「開発独裁」状態をもたらした。財閥に富が集中する一方で農村では困窮化が進むという「格差社会」情勢は、社会主義的風潮と軍部主導による「国家改造」への期待を醸成し、安田善次郎暗殺、濱口雄幸首相襲撃、血盟団事件、五・一五事件、二・二六事件と続いたテロの温床となり、ますます軍国主義化を助長して格差はさらに拡大するという皮肉な結果をもたらした。
- ワシントン・ロンドンで英米と軍縮条約を締結した海軍主導で軍事費の縮小が進んでいたが、満州事変勃発により一転、若槻禮次郞内閣は陸軍の永田鉄山・石原莞爾らに引きずられ軍事費の急増が始まった。1930年には約5億円とアメリカの3分の1・イギリスの半分ほどだった軍事費は、1931年から急拡大し、日中戦争開戦の1937年には50億円と十倍増してアメリカとイギリスの軍事費を上回るほどに膨張、1940年には遂に100億円を超えた。「財政の第一人者」高橋是清は、世界恐慌脱出のため軍事費を中心とする財政出動に賛成し日本は軍需バブルで他国より早く不況を脱したが、勇気をもって引締めに転じたため「君側の奸」に加えられ二・二六事件で殺害された。国家予算に占める軍事費の割合は、1930年には30%ほどだったのが、1937年以降は70%を超える水準で高止まりすることとなった。日独の軍拡に対抗するため英米も軍事費を増やしたが、それでも軍事予算割合は日本の半分程度に抑えられた。
- 満州事変勃発後に戦地で目覚しい活躍を示したトラックの増産を図るため、岡田啓介内閣は石原莞爾ら陸軍の要請に応え1936年国内自動車産業の育成を目的に指定事業者を助成する「自動車製造事業法」を閣議決定した。一連の統制経済立法の一つで、軍用として重要な自動車の国産化推進のため、外国資本を排除することが主たる狙いだった。豊田喜一郎の豊田自動織機自動車部(トヨタ自動車工業)は、「A1型乗用車」と「G1型トラック」の初号機完成を何とか間に合わせて実績をアピールし、先行する鮎川義介の日産自動車と共に許可会社の指定を受けることに成功した。後に東京自動車工業(いすゞ自動車)が加えられ許可会社は3社となった。自動車製造事業法施行後、日中戦争勃発による円為替相場下落もあって、1939年にフォード・GM・クライスラーの3社は日本から撤退することになったが、国産車の信頼性向上や大量生産化は容易には達成されず、ヘンリー・フォードは「自動車産業の育成は甘いものではなく、フォード工場を受入れた方が多数の熟練工が得られて戦時の日本にもプラスになるはずだった」との書簡を残している。国産技術が未熟な当時においては国内でも評判の悪い法律であったが、今振り返れば、我が国自動車産業の萌芽期を支えた有意義な国内産業保護政策であったといえよう。
- 1937年の機械系輸出品目で自転車が初めて首位に立ち、次いで船舶・鉄道車両・自動車・自動車部品の順となり、玩具や製鉄も輸出産業へ台頭した。なお1937年は日中戦争開戦の年であり、豊田喜一郎が軍用トラック製造のためトヨタ自動車工業を設立し、日産自動車の鮎川義介は満州重工業開発を設立し日産コンツェルンの満州移転を開始している。自転車の輸出先は中国32%を筆頭にインドネシア・インド・満州など。江戸時代初頭より各藩にはお抱えの鉄砲鍛冶が存在したが、幕末に洋式銃砲に切替わったことで多くが職を失った。失業した鉄砲鍛冶たちは文明開化で普及が始まった自転車に着目し、修理業から始め自転車製造の担い手へ成長した。宮田自転車を創業しトップメーカーに育てた宮田栄助も、常陸笠間藩のお抱え鉄砲鍛冶の出身である。優秀で低コストな職人の活躍で、日本の自転車生産台数は1923年の7万台から1928年12万台・1933年66万台と急増し1936年には100万台を突破した。世界の自転車市場はイギリスの牙城であったが、イギリス製品の半額ほどで品質も劣らない日本製品は瞬く間にシェアを獲得し、大英帝国は中国・インドなどの支配地で日本製自転車に高関税をかけるなどして対抗したが圧倒的な低価格攻勢に押切られた。繊維製品に続き自転車でも輸出競争に敗れたイギリスの反日感情は一層悪化した。
- 1945年9月2日、東京湾に浮かぶ米戦艦「ミズーリ」艦上で重光葵外相と梅津美治郎参謀総長が天皇および東久邇宮稔彦王内閣を代表して降伏文書に署名した。重光葵らは「日本の首都から見えるところで、日本人に敗北の印象を印象づけるために、米艦隊のなかで最も強力な軍艦の上」に呼びつけられ「連合軍最高司令官に要求されたすべての命令を出し、行動をとることを約束」、ここにアメリカによるアメリカのための占領統治が始まり1951年のサンフランシスコ講和条約まで「日本政府はあって無きが如き」状態が続くこととなった。早速当日、マッカーサーは「日本を米軍の軍事管理下におき、公用語を英語とする」「米軍に対する違反は軍事裁判で処分する」「通貨を米軍票とする」という無茶苦茶な布告案が突きつけている(重光葵外相の奮闘で後日撤回)。最後まで粘った日本の降伏により米英ソ(連合国)の圧勝で第二次世界大戦は終結、犠牲者数には諸説あるがソ連1750万人・ドイツ420万人・日本310万人(うち民間人87万人)・フランス60万人・イタリア40万人・イギリス38万人・アメリカ30万人など合計4500万人もの死者を出したといわれ、空襲と市街戦・ユダヤ人虐殺などにより軍人を大幅に上回る民間人が犠牲となった。なお、満州には関東軍78万人がほぼ無傷で駐留していたが、陸軍首脳は8月14日のポツダム宣言受諾を受け早々17日に武装解除を命令、高級軍人から我先に日本本土へ逃げ帰った。が、ソ連のスターリンは8月14日の終戦通告は一般的な「ステートメント」に過ぎず降伏文書調印(9月2日)まで攻撃を継続すると宣言、無抵抗の満州を蹂躙し尽し北朝鮮まで制圧した。関東軍も約8万人の戦死者を出したが、満蒙の奥地に置去りにされた居留民は更に悲惨で18万人もの民間人が暴虐なソ連兵に虐殺された。さらに軍民あわせて57万人以上が「シベリア抑留」に遭難し、法的根拠が無いまま何年も過酷な強制労働を強いられ、最終的に10万人以上が極寒の地で没する悲劇を生んだ。かくして満州事変に始まった中国侵出は、最強国アメリカとの開戦で行詰り、兵士だけで40万人以上の犠牲者を出し最悪の結果で終結した。
- 米国務省は「降伏後における米国の初期対日方針」を決定した。「日本は米国に従属する」との基本方針のもと、政治における非軍事化・戦争犯罪人の処分・民主化にくわえて、「日本の軍事力を支えた経済的基盤(工業施設など)は破壊され、再建は許されない・・・日本の生産施設は、用途転換するか、他国へ移転するか、またはクズ鉄にする」という工業分野の徹底的な破壊が決められた。さらに、日本が負うべき戦時賠償調査のため訪日したE・W・ポーレーは、「日本人の生活水準は、自分たちが侵略した朝鮮人やインドネシア人、ベトナム人より上であっていい理由はなにもない」との極論を述べ、実際に日本の苛性ソーダや製鉄産業の設備をフィリピンなどに移設することを真剣に検討した。対する日本側では英語を解する外交官出身者が主導権を握ったが、アメリカの不条理に反発する重光葵・芦田均らは退けられ、代りに吉田茂ら「協力的人物」が引上げられた。
- 1929年に起った世界恐慌からの脱却を図るため、日本政府は軍事費関連を中心に超積極的な財政出動策を採り、満州事変勃発以降の軍事費急増が拍車を掛け、日本経済は1934年には世界恐慌前の水準に回復した。続く日中戦争、第二次世界大戦においても日本の鉱工業生産は軍需主導で拡大し続けたが、国策主導による統制経済への傾斜は大資本による経済寡占化を促し第二次大戦終結時には三井・三菱・住友・安田の四大財閥が全国企業の払込資本の半分を占める「開発独裁」状態となっていた。「軍事は解体」「経済も解体」「民主化は促進」を掲げるマッカーサーのGHQは、軍国主義根絶のためにも財閥解体が最重要と判断し、早くも1945年11月に勅令第657号を公布し幣原喜重郎内閣に財閥解体を命じた。1946年4月には実務を担う持株会社整理委員会を発足させ、同年9月以降次々と十五大財閥(三菱・三井・住友・安田・中島・鮎川・浅野・古河・大倉・野村・渋沢・神戸川崎・理研・日窒・日曹)を指定、1947年12月には財閥解体の根拠法となる過度経済力集中排除法を定め、重箱の隅をつつくような徹底的な産業構造破壊を断行、主要親会社67社と子会社・孫会社3658社が整理され、さらに財閥を主要株主とする395社も整理された。しかし、マッカーサーの思惑を乗越えて多くの財閥系企業は協力関係を維持しつつ生残り、冷戦の緊迫化と朝鮮戦争勃発を受けてアメリカ政府が日本の経済力・工業力を利用する方針に180度転換したのを機に風当たりは弱まって、三菱・三井・住友・安田(扶桑)・三和・第一勧銀の6大銀行グループによる再編が進み、旧財閥を冠した社名も許されるようになっていった。
- GHQの指令により、まず軍国主義に関与した人物として1946年1月に約6千人が公職から追放され、次いで1947年1月から1948年8月までの間に約21万人(うち軍人16万7千人)が公職追放指定された。幣原喜重郎内閣の外相でGHQ代理人の吉田茂は、日独伊三国同盟を推進した「外務省革新派」(リーダーの白鳥敏夫は東京裁判で終身禁固刑判決)など意に添わない人物を徹底的に公職追放へ追込み、吉田のイニシャルをとって「Y項パージ」と恐れられた。戦犯狩りに続く公職追放の大嵐に政官財は戦々恐々、虎の威を借る吉田茂の権力は増大し、内務官僚で公職追放令の策定作業にあたった後藤田正晴は「みんな自分だけは解除してくれと頼みにくる。いかにも戦争に協力しとらんようにいってくる。なんと情けない野郎だなと」追想している。しかし米ソ冷戦の顕在化に伴いアメリカの対日政策は「戦前体制を破壊し尽くし軍国主義復活を阻止する」方針から「経済復興を促し反共の防波堤として利用する」方向へ180度転換、その手始めに公職解放指定は全部解除され共産主義者狩りの「レッド・パージ」へ「逆コース」を辿った。1952年の衆議院総選挙は鳩山一郎・重光葵ら戦前派の復活選挙となり公職追放解除者が議席の42%を獲得、極端な従米路線を否定する鳩山・重光ら自主路線派は「ワンマン宰相」吉田茂を脅かす勢力となり両派の対立は次第に深まった。
- 敗戦から朝鮮戦争の特需で蘇生するまで日本は上から下まで窮乏に喘ぎ多くの餓死者も出たが、アメリカは日本経済の再起不能化を進めつつ日本政府から膨大な米軍駐留経費を吸上げた。「戦後処理費」の名目で計上された米軍駐留経費は1946年379億円(一般歳出の32%)・1947年641億円(31%)・1948年1,061億円(23%)・1949年997億円(14%)・1950年948億円(16%)・1951年931億円(12%)、日本政府は講和条約成立までの6年間に合計約5千億円・国家予算の2割を超す巨費を無条件で献上し、ゴルフ・特別列車・花や金魚の代金まで押付けるGHQのやりたい放題を許した。第一次内閣で無茶な米軍駐留経費を規定路線化した吉田茂首相は唯々諾々と従うのみで、更なる増額要求に反抗した石橋湛山は蔵相を更迭され公職追放の憂き目をみた。石橋湛山は「あとにつづいて出てくる大蔵大臣が、おれと同じような態度をとることだな。そうするとまた追放になるかも知れないが、まあ、それを二、三年つづければ、GHQ当局もいつかは反省するだろう」と語ったが、1954年に吉田茂内閣が退陣し鳩山一郎内閣で重光葵が外相に復帰するまで抗米意見は封殺された。GHQと吉田茂ラインの宣伝により戦後日本はアメリカの「寛大な占領」で救われたというのが定説となり、その根拠として真先に挙るのが「ガリオア・エロア資金」である。外貨の乏しい日本政府がガリオア・エロア資金を使い生活必要物資をアメリカから緊急輸入した事実はあるが、1946年から1951年までのネットの対日援助額は13億ドルと膨大な「戦後処理費」のごく一部に過ぎない。また、ガリオア・エロア資金の学資援助で米国留学した大勢の学者や公務員が中心となり、従米路線あるいは米国批判タブーの社会風潮を根付かせたことも考えると、アメリカの「寛大な占領」などではなく「戦略的恩恵」であったことは疑いない。戦後70年の今日に至るまで、日本政府は手を変え品を変え不平等な日米安保条約に基づく米軍駐留と経費負担を継続し、アメリカが日本を「保護国」呼ばわりする異常な状態が続いている。
- 日本の急進的民主化を図るマッカーサーはGHQ発足当初の「五大改革指令」に「労働組合の結成奨励」を加え社会主義的なGHQ民政局が積極的に労働運動を助成したが、1946年3月に労働組合法が公布されると空腹を抱えた日本国民が殺到し、1946年末には組合数1万7265・組合員数484万9329人へ膨張した。GHQの民主化政策に戦後の深刻なインフレが拍車を掛け労働運動はエスカレート、日本全国で賃上げ闘争や首切り反対闘争が続発するなか1946年10月に国鉄・全労・新聞放送を含む大規模労働争議「一〇闘争」が発生し、1947年初には全官公庁を中心とする「二・一ゼネスト」が計画された。反共の吉田茂政権を揺さぶる大騒擾に慌てたマッカーサーは「二・一ゼネスト」禁止を発令し労働運動抑制へ転換、戦後瞬く間に拡大した労働組合運動は沈静化へ向かった。
- 東西冷戦が緊迫化する世界情勢のなか、トルーマン米政府は「トルーマン・ドクトリン」「マーシャル・プラン」で共産主義勢力への対決姿勢を鮮明にしたが、ロイヤル米陸軍長官の演説を機に政軍有力者の間で日本経済を復興させ「反共の防波堤」にすべしとの機運が高まった。訪日調査したドレーパー米陸軍次官(日独占領政策担当)は、戦前比で鉱工業生産45%・輸入30%・輸出10%にまで落込んだ日本経済を「死体置き場(モルグ)」と表現し過酷な懲罰政策の緩和を米政府に勧告した。ソ連の「ベルリン封鎖」で冷戦が風雲急を告げ、「ソ連への対抗上、日本の経済力・工業力を利用すること」がアメリカの国益に資すると判断したトルーマン政府は、1948年10月「国家安全保障会議」による「アメリカの対日政策に関する勧告」(NSC13/2)を承認し、破壊から復興への日本統治戦略の180度転換を正式決定した。政府の決定を受けたGHQは、破壊から経済復興促進へ政策を転換し、ソ連に対抗するには人材が必要との判断により1951年戦犯釈放・公職追放解除に踏切り「レッド・パージ」へ切替えた。朝鮮戦争勃発で「反共の防波堤」の要請は一層高まり、アメリカは日本の経済力・工業力だけでなく軍事力も利用すべく策動を始めた。こうした米政府の路線転換は「軍事は解体」「経済も解体」「民主化は促進」で進んできたマッカーサーの占領政策を完全否定するものであり、GHQとトルーマン大統領・国防省との確執が深刻化、「日本の軍事力も強化してアメリカの安全保障に貢献させる」という政府方針を巡って対立は沸点に達し、GHQ傀儡の吉田茂政権を操り「奴隷」を相手に「世界史上最高の権力」を自賛したマッカーサーは遂に解任された。トルーマン大統領から日本経済復興を託されたデトロイト銀行頭取のドッジは性急な超緊縮財政を吉田茂首相・池田勇人蔵相に押付け、深刻なデフレ不況を引起し復興途上の日本経済は壊滅の危機に瀕したが(ドッジ・ライン恐慌)、朝鮮戦争の米軍特需で一気に蘇生し奇跡の高度経済成長が始まった。平和憲法を奉じる戦後日本は、皮肉にも米ソ冷戦と朝鮮戦争によりアメリカの破壊政策から救われた。
- トルーマン米政府は1948年10月「ソ連への対抗上、日本の経済力・工業力を利用すること」に決め対日政策を破壊から復興へ180度転換したが、米軍は更に踏込んで「日本の軍事力も強化してアメリカの安全保障に貢献させる」方針を定めた。「軍事は解体」「経済も解体」「民主化は促進」で占領統治を行ってきたマッカーサーのGHQは抵抗したが、1949年ソ連の核実験成功と翌年の朝鮮戦争勃発でトルーマン米政府も日本の再軍備に傾き、朝鮮半島に出動した米軍とほぼ同数の7万5千人からなる「国家警察予備隊」を創設、国務省政策顧問のジョン・フォスター・ダレスを講和特使として日本へ派遣し吉田茂首相に再軍備を促した。再軍備絶対反対の吉田茂は「たとえ非武装でも世界世論の力で日本の安全は保障される」と夢物語を唱え、ダレスをして「不思議の国のアリスに会ったような気がする」と呆れさせたが、親分のマッカーサーに泣きつきこの場は事を収めた。が、トルーマン大統領との対立が決定的となりマッカーサーがGHQを解任されると(ウィロビー参謀第2部長も退官)、吉田茂首相は後ろ盾を失い日本の再軍備を阻む勢力は無くなった。1951年9月8日サンフランシスコ講和条約調印で日本は占領統治からの独立を許されたが、吉田茂首相は講和条約とセットの日米安保条約・行政協定により在日米軍の常時駐留と日本政府による基地費用負担の継続を呑まされた。アメリカ主導で日本の再軍備・増強も着々と進められ、公職追放を解かれた旧軍人が続々と軍務に復帰して幹部に納まり、1954年7月1日をもって国家警察予備隊は常設軍隊の「自衛隊」へ改組された。吉田茂は猶も再軍備に反対し続けたが、アメリカは「軍備をサボタージュする古狐」を切捨て再軍備を掲げる鳩山一郎内閣の発足を容認した。陸海空の自衛隊は権限と装備の両面で「専守防衛」の枠に縛られつつも米ロ中に次ぐ軍事力を誇る「軍隊」へ発展したが、核兵器の無い軍隊は画竜点睛を欠き、2015年現在も日米安保条約は不平等なまま米軍の常時駐留と膨大な費用負担・自衛隊兵器の対米依存から抜出せずアメリカが「保護国」と呼ぶ半独立状態が続いている。
- 1950年6月25日、北朝鮮軍が突如砲撃を開始し38度線を越えて韓国領内に侵入、朝鮮戦争が勃発した。首都ソウルはあっという間に陥落し、準備不足の韓国軍は忽ち追い詰められて半島南端の釜山周辺にまで追込まれた。これに先立つ1949年12月、アメリカ国家安全保障会議は南朝鮮からの撤退を決定し、アチソン国務長官は演説の中で「アメリカの防衛ラインは、アリューシャン列島から日本列島、沖縄をへてフィリピンに至るライン」であり朝鮮半島は防衛ライン外であることを明言していた。ソ連のスターリンは、この情報を掴んでアメリカの参戦はないと判断し北朝鮮軍を進発させた可能性が高い。しかし、アメリカは即座に政策を転換し「国連軍」を急遽編成して戦線に投入、圧倒的火力により10月20日には北朝鮮の首都平壌を占拠し、その5日後には中国国境の鴨緑江付近まで攻め上った。慌てたスターリンは建国宣言間もない中国に参戦を要請、血気の毛沢東は「人民義勇軍」を派遣して人海戦術で連合軍を38度線付近まで押し戻した。その後は戦線が膠着し、1953年7月27日に板門店で休戦協定が調印され、38度線が国境となった。朝鮮戦争の犠牲者は、国連軍側17万2千人・共産軍側142万人とされるが、軍人を遥かに凌ぐ一般市民が犠牲となり、その数は400万人とも500万人といわれ、米・中ソの代理戦争は日韓併合時代と比較にならない惨禍をもたらした。一方、日本にとっては、外貨収入の3割に及ぶ膨大な「朝鮮特需」が産業界を蘇生させたうえ、「反共の防波堤」構築・日本経済の破壊から復興への180度戦略転換というアメリカの対日政策を決定的なものにし、経済大国化へ向けた最大の転換点となった。さらに、アメリカは「日本の軍事力も強化してアメリカの安全保障に貢献させる」方針へ傾斜を強め、国家警察予備隊(自衛隊)創設に続いて再軍備反対に固執するマッカーサーを罷免し、日本の占領終結後も米軍の常時駐留と日本政府による基地費用負担を継続させるため、従米派吉田茂内閣との間で講和条約とセットで日米安保条約交渉を開始、吉田茂後も磐石の従米路線を維持するため策動を強化した。
- 1956年版経済白書抜粋(首相鳩山一郎・通産相石橋湛山):「戦後日本経済の回復の速さには誠に万人の意表外にでるものがあった。それは日本国民の勤勉な努力によって培われ、世界情勢の好都合な発展によって育まれた。・・・貧乏な日本のこと故、世界の他の国々にくらべれば、消費や投資の潜在需要はまだ高いかもしれないが、戦後の一時期にくらべればその欲望の熾烈さは明かに減少した。もはや戦後ではない。」
- 従米派と見られた岸信介はアメリカの期待を担って組閣したが、首相に就任すると「国際連合中心・自由主義諸国との協調・アジアの一員としての立場の堅持」という「外交三原則」を掲げ自主外交に乗出した。岸信介は首相として初めて東南アジアおよびオセアニアの諸国を歴訪し、アメリカを刺激しかねない「東南アジア開発基金構想」を提唱した。岸信介首相の歴訪で戦争賠償問題は大きく前進しインドネシア・ラオス・カンボジア・南ベトナムと相次いで賠償協定を締結し国交回復を達成、日本政府が賠償額に相当する生産物やサービスを日本企業から調達し相手国に供与する方式を採ったため日本企業の東南アジア「再進出」にも道を拓いた。また岸信介首相は国際連合中心主義を実践し1958年日本は初めて国連安全保障理事会の非常任理事国となっている。岸信介は自民党きっての「親台湾派」「親韓国派」で退陣後も頻繁に両国を訪問、満州国以来旧知の朴正煕韓国大統領と池田勇人首相の間を取持ち日韓国交回復をサポートした。なお、軍事クーデターで発足した朴正煕政権は、国家予算を上回る日本の経済援助(日韓併合で同じ国だったので戦争賠償はありえない)で韓国経済を再建し李承晩が敷いた無闇な反日原理主義を改め本来の敵である反共反北へ舵を切ったが、盧泰愚の失脚で真当な軍事政権は終わり、金泳三以後の親北政権は教育により反日をエスカレートさせ「従軍慰安婦」と「靖国参拝」に特化した朴槿恵(父朴正煕の親日政策を自己批判)の反日専門政権へ至る。
- 1960年「経済優先・外交従米」の池田勇人内閣は「所得倍増計画」を発表、「10年間で国民所得倍増」を掲げ完全雇用の達成・社会資本の充実・国際経済協力の推進・人的能力の向上・科学技術の振興・二重構造の解消など、経済繁栄に邁進する方策を分り易い形で国民に提示した。第二次大戦後の極端な物資不足とGHQの日本経済破壊方針に「ドッジ・ライン恐慌」が追討ちを掛け日本の産業界は壊滅の危機に瀕したが、1950年に始まった朝鮮戦争の特需で蘇生し1954年「高度経済成長」に突入、1956年鳩山一郎内閣は経済白書に「もはや戦後ではない」と記し戦後復興の完了を宣言した。自動車・家電など重化学工業の飛躍的発展が産業界を牽引し、石炭から高効率の石油へエネルギー転換が進んだことも成長に拍車を掛けた。下村治ら官僚主導による「所得倍増計画」の効果はともかく、池田勇人内閣が発足した1960年から5年間の実質経済成長率は年率9.7%となり1968年には前倒しでGNP倍増を達成、日本は英独仏を抜いて米国に次ぐ経済大国となり戦前と同じ地位を回復した。「世界の奇跡」と賞賛された日本の高度経済成長は1973年のオイルショックまで続き、家庭にはテレビ・冷蔵庫・洗濯機の「三種の神器」が普及し国民生活は格段に向上した。しかしその反面で公害問題と地域間格差が深刻化し、1972年「日本列島改造」を掲げる田中角栄内閣の登場で利権と表裏の地方農漁村への利益誘導が国策となり、地方自治体では革新首長ブームが起り「バラマキ」と「土建行政」の時代が始まった。
- 1961年から1966年まで駐日アメリカ大使を務めたエドウィン・O・ライシャワーは、日本人を妻(松方正義の孫ハル)とした親日家で、日米蜜月時代をもたらし沖縄返還にも奔走した。「安保闘争」の余韻のなか就任したライシャワーは、日本の左傾化を食止めるべく「日米イコール・パートナーシップ」の演出により占領国・被占領国という従来イメージの一新を図り、賛同したケネディ米大統領は池田勇人首相を厚遇しヨット会談への招待(マクラミン英首相に次ぐ二人目)や合同委員会設置(カナダに次ぐ二国目)で協力した。しかし「反共の防波堤」として日本を援護したアメリカと異なり、西欧諸国は日本の輸出競争力を警戒し国際社会復帰を妨害、日本製品が安いのは長時間・低賃金による「ソーシャル・ダンピング」だと難癖をつけ、日本のGATT加盟後も35条援用により対日貿易に差別的対応をとりOECD加盟も阻んでいた。戦前の中国大陸に代わる主要輸出先として欧米市場に食込みたい池田勇人首相は、反共「冷戦の論理」から「日米欧は自由主義陣営の三本柱」とPRし1962年欧州7ヶ国を歴訪した。フランスのシャルル・ド・ゴール大統領が最後まで反対したが、池田勇人首相は「トランジスタラジオのセールスマン」と揶揄されつつGATT35条撤回の承諾を勝取り、同1963年日本はGATT11条国およびIMF8条国への移行を果し翌年念願のOECD加盟を認められた。池田勇人首相は「日本に軍事力があったらなあ、俺の発言はおそらく今日のそれに10倍しただろう」と側近に漏らしたという。また、吉田茂の後継者ながら「経済自主」を掲げる池田勇人首相は、1961年岸信介の仲介で朴正煕韓国大統領を日本に招待し、1962年戦後初めて対中貿易の枠組みを構築している。合意文書に署名した廖承志と高崎達之助の頭文字をとって「LT貿易」と称された半官半民の貿易形態で、1972年田中角栄内閣による日中国交回復まで日中貿易の柱となった。日中国交は米軍基地駐留に次ぐアメリカの「虎の尾」で、ケネディ大統領も不快感を表明し牽制したが、池田勇人首相は屈することなく日中関係を前進させた。
- 第二次大戦後、政友会の幹部だった鳩山一郎は残党を集めて日本自由党を結成した。1946年新選挙法に基づく初の衆議院総選挙で自由党は最多議席を獲得、鳩山一郎総裁の首相就任は確実であったが、GHQの露骨な横槍で公職追放に遭い吉田茂に首相の座を預けた。1951年アメリカの対日戦略転換で公職追放が解除され、政界に復帰した鳩山一郎の派閥は吉田茂と自由党を二分する勢力となったが、「君の追放が解けたらすぐにでも君に返すよ」と述べた吉田は政権を離さず鳩山に「首相禅譲密約」までして首相に居座った。吉田茂が密約も反故にすると、1954年鳩山一郎は反吉田勢力を結集して日本民主党を結成し(重光葵副総裁・岸信介幹事長)内閣不信任案を提出、再軍備反対に固執しアメリカの信任も失った吉田は轟々たる非難のなか首相続投を断念した。1955年「憲法改正・再軍備・自主外交(中ソ外交)」を掲げ発足した鳩山一郎内閣は、「鳩山ブーム」を背景に総選挙を実施するも絶対多数の獲得には至らず、改憲と再軍備は棚上げして外交に専念する方針を採った。鳩山一郎首相は、民主党と自由党の「保守合同」で政権基盤を固め(55年体制)ソ連フルシチョフ政権との交渉に乗出したが、アメリカが日ソ離間のために仕組んだ「北方領土問題」があるうえ、重光葵外相と外務省は反ソ反共、保守合同で取込んだ外交従米の吉田茂派も対ソ強硬論を主張し与党内の意見調整も難航した。ダレス米国務長官は「日本が千島列島に対するソ連の主権を承認した場合は、アメリカは沖縄に対する完全な主権を行使する」と恫喝したが、1956年鳩山一郎首相は病躯を押してモスクワに乗込み「日ソ共同宣言」を達成(日ソ戦争終結)、帰国の翌日「日ソ国交回復lを花道に勇退を表明した。政治的妥協の結果北方領土問題は先送りされたが、鳩山一郎首相は日本人抑留者(シベリア抑留)の釈放・帰国を引出し、ソ連の拒否権を封じたことで国際連合加盟も果した。鳩山一郎首相・重光葵外相はソ連以外の外交問題にも意欲的に取組み、アジア・アフリカ会議に参加し、中国政府との貿易協定を前進させ、東欧諸国との関係正常化も果している。
- 原子力行政の進展も再軍備を掲げた鳩山一郎政権の見逃せない業績である。日本の原子力行政は1953年「原子力の平和利用」を提唱したアイゼンハワー米大統領演説に端を発し、翌年日本漁船がビキニ環礁でアメリカの水爆実験に遭難する「第五福竜丸事件」が起ると、電源開発が死活問題の日本産業界と日本の反米反核世論を封じたいアメリカ(当初は原発輸出の意図はなかったが)の思惑が一致し露骨な世論操作と行政介入が始まった。第五福竜丸事件の直後、アメリカの意を受けた中曽根康弘らが初の原子力予算案を衆議院に提出し、米CIAに近い正力松太郎の読売新聞は「原子力の平和利用」を喧伝し「原子力平和利用博覧会」に37万人もの来場者を集めた。なお1923年の関東大地震で、朝鮮人が暴動を企てているとか井戸に毒を投げ込んだというデマが飛び交い多くの朝鮮人が殺害されたが、デマ騒ぎの首謀者は警視庁官房主事の正力松太郎であったとされる。直後に摂政宮狙撃事件(虎ノ門事件)が起り警備責任者の正力松太郎は懲戒免官となったが、帝都復興院総裁の後藤新平らの資金援助で読売新聞社を買収し、大政翼賛会総務・貴族院議員を経て第二次大戦後CIAに取込まれ中曽根康弘の盟友となった。さて吉田茂から鳩山一郎へ政権が移った1955年、中曽根康弘の主導で「原子力の平和利用」促進のための「原子力基本法」が成立し「原子力委員会」が発足、産業界の期待を担い正力松太郎が初代委員長に就任した。1956年「日本原子力研究所」(茨城県東海村)が創設され、翌年鳩山一郎内閣は原子力政策を担う「科学技術庁」を設置し正力松太郎を初代長官に任命、電力9社および電源開発の出資で「日本原子力発電株式会社」が発足した。なお、俗物の正力松太郎を嫌うノーベル物理学賞学者の湯川秀樹は原子力委員会委員を辞任している。1963年10月26日(原子力の日)日本原子力研究所が原子力発電に成功し日本各地で原発建設計画が始動、イギリスの対日原発輸出で米政府も容認へ転じGEやWestinghouseが参入(福島第一原発はGE製)、正力松太郎は「原子力の父」の称号を得たが主導権を失い目的の首相就任は果たせなかった。
- 池田勇人は戦後公職追放で浮上した「三等重役」の出世頭、外務省傍流からGHQ傀儡政権に君臨した親分の吉田茂と似た経歴である。池田勇人は京大法学部から大蔵省へ進み税務畑を歩んだが、4年目に難病に罹り2年の休職期間を経て退官、5年間も死線を彷徨い看病疲れの新妻を亡くした(のち再婚)。奇跡的に快復した池田勇人は大蔵省に復職したが新採扱いで出世レースに乗遅れ、後年「総理大臣になったときよりも、国税課長になったときの方がうれしかった」と追想している。とはいえ大蔵省枢要の主税局長で終戦を迎えた池田勇人は、公職追放の嵐のなか消去法的に地位を高め石橋湛山蔵相に気に入られ大蔵次官に栄達、吉田茂の愛弟子となり1949年の総選挙で衆議院議員に転身した。1年生議員ながら第三次吉田茂内閣の蔵相に大抜擢された池田勇人は、超緊縮財政「ドッジ・ライン」の指揮を執り、吉田首相の密命で渡米し「単独講和」を申入れるなど外交にも活躍した。通産相に転じた池田勇人は、自ら招いたドッジ・ライン恐慌のなか「貧乏人は麦を食え」「中小企業の倒産・自殺やむなし」の失言で辞任に追込まれたが、自由党要職に留まり吉田茂の「保守本流」を引継いで「宏池会」を結成、石橋湛山内閣で蔵相に復帰し、「安保闘争」に乗じて岸信介内閣を倒し1960年後継首相に就任した。吉田茂の「経済優先・外交従米」を踏襲した池田勇人首相は「寛容と忍耐」で安保問題を棚上げし「所得倍増計画」に邁進、1954年に始まった「高度経済成長」に乗り日本はアメリカに次ぐ経済大国へ躍進した。下村治経済顧問ら腹心の産業政策は効果を現し、池田勇人首相はド・ゴール仏大統領から「トランジスタラジオのセールスマン」と揶揄されつつ「冷戦の論理」でGATT11条国・IMF8条国への移行を押通し、1964年OECD加盟で日本経済の国際社会復帰を達成した。「経済自主」を掲げる池田勇人首相は、アジア経済統合を構想し日本の存在感向上に努め、アメリカの反対を抑えて日中貿易(LT貿易)の枠組みを構築した。喉頭ガンの池田勇人は宏池会を腹心の大平正芳・宮澤喜一に託し1964年東京オリンピックを花道に引退、翌年65歳で永眠した。
- 豊田佐吉は、国産初の動力織機など特許84件・実用新案35件を誇る「発明王」、繊維産業の衰退で「紡績財閥」は壊滅したが長男豊田喜一郎のトヨタ自動車の礎となった。愛知県湖西市で家業の大工を手伝ううち発明家を志した豊田佐吉は、出奔して東京の工場を徘徊し臥雲辰致の「ガラ紡」に感銘、変人扱いされながら納屋で研究に没頭し国産初の動力織機「豊田式木鉄混製力織機」を完成、人力織機の10~20倍の生産性と品質均一化を実現した。豊田佐吉は綿布製造に乗出したが販社の三井物産は織機に注目、格安な豊田式木鉄混製力織機は忽ち輸入織機に取って代り、家内制手工業の綿織物業が大規模工場・大量生産へシフトする起爆剤となった。1906年三井物産の出資で「豊田式織機株式会社」が発足し(現豊和工業)、常務取締役兼技師長の豊田佐吉は製品改良に励んだが、日露戦争後の反動不況で業績が急落し責任を押付けられ追放された。新天地を求める豊田佐吉は右腕の西川秋次を伴い欧米を巡察したが自分の技術が最高と確信し帰国、1912年名古屋市で「豊田自働織布工場」を開業すると、第一次大戦に伴う物資不足で綿布注文が殺到し急成長を遂げ「豊田紡織株式会社」(現トヨタ紡織)へ改組した。海外進出を念願する豊田佐吉は、最大輸出先の中国の関税引上げ(大英帝国の特恵関税・保護貿易化)に対処すべく三井物産の支援を得て上海に輸出代替工場を開設(豊田紡織廠)、西川秋次を送込み「在華紡」の一角へ成長させた。十余年で「豊田財閥」を築いた豊田佐吉は、本丸の紡績事業を婿養子の豊田利三郎に任せ、東大工学部を出た豊田喜一郎と共に「豊田自動織機試験工場」で再び織機開発に没入、1925年動力織機の完全版「無停止杼換式自動織機(G型自動織機)」を完成させ翌年「株式会社豊田自動織機製作所」を設立した。1929年世界恐慌で繊維不況が始まり、豊田佐吉は翌年63歳で病没したが、豊田喜一郎はトヨタ自動車創業へ動き始めた。その後、第二次大戦による輸出断絶で豊田佐吉が築いた紡績事業は壊滅したが、トヨタ紡織・豊田自動織機は自動車事業の一翼を担い今も創業者の名を伝えている。
- 豊田喜一郎は日本最強トヨタグループの創業者である。国産初の動力織機を発明し一代で「紡績財閥」を築いた豊田佐吉の長男であり、自らも織機開発の第一人者であったが、繊維産業の衰退を予見し自動車事業への大転換を図った先見の明が光る。東大工学部機械工学科を卒業し「豊田紡織」に入った豊田喜一郎は、経営者より技術者を志向し「無停止杼換式自動織機(G型自動織機)」の開発を陣頭指揮、「豊田自動織機製作所」で織機事業に参入し本場イギリスへも進出した。が、世界恐慌が繊維産業を直撃すると、豊田喜一郎は愛知県で勃興する自動車産業への参入を決意、妹婿で家長の豊田利三郎の猛反対を抑え1933年豊田自動織機製作所内に自動車部を創業した。豊田喜一郎は、大番頭の西川秋次や従弟の豊田英二の支援で膨大な開発資金を捻出し、「A1型乗用車」「G1型トラック」の試作成功で日産自動車と共に自動車製造事業法の助成認可を獲得、1937年「トヨタ自動車工業」を設立し量産を開始した。日中戦争の激化でトヨタ自動車工業には軍用トラックの注文が舞込み、国策に乗った豊田喜一郎は挙母(→豊田市)に巨大工場を立上げ部品製造子会社の継足しで急速に業容を拡大(愛知製鋼・アイシン精機・トヨタ車体・デンソー・豊田通商などへ発展)、業績不振の豊田紡織を吸収し第二次大戦の輸出封鎖で壊滅した紡績関連事業を自動車事業に取込んだ。第二次大戦後、トヨタ自動車工業は財閥解体の対象とされるも分社化戦略が幸いし実害を免れたが、1950年ドッジ・ライン恐慌で経営危機に陥り大規模労働争議も発生、東海銀行・三井銀行などの協調融資で倒産は免れたが、「工販分離」を強制され豊田喜一郎社長ら首脳陣は引責辞任へ追込まれた。が、皮肉にも直後に朝鮮戦争が始まり軍用トラックの特需で業績はV字回復、権威回復した豊田喜一郎は石田退三ら後継体制から社長復帰を要請されたが1952年57歳で急逝した。1955年クラウン発売で自家用車へ転換したトヨタは高度経済成長に乗り「工販合併」も果し世界一へ躍進、社長は豊田喜一郎直系の豊田英二・豊田章一郎・豊田章男へ受継がれ同族支配が続いている。
- 1950年、ドッジ・ライン恐慌で経営危機に陥ったトヨタ自動車工業に対し、アメリカの顔色を窺うばかりの吉田茂政権と金融界は冷淡で、日銀総裁の一万田尚登(一万田法王)に至っては「日本に自動車産業はいらない」などと売国的追従を露にした。しかし日銀名古屋支店長の高梨壮夫は本店にトヨタ救済を訴え、東海銀行・三井銀行(帝国銀行)ら24行の協調融資を斡旋し倒産の危機を救った。後年、高梨壮夫は東京トヨペット会長に迎えられたが、トヨタは非協力的だった住友銀行を敬遠し川崎製鉄(JFEスチール)との取引も妨害している。さて協調融資と引換えに抜本的な経営再建を呑んだ豊田喜一郎社長は、約束に従いトヨタ自動車販売を分社化し(工販分離)生産調整を行ったが、大規模労働争議の発生で人員整理は難航、大騒動の末に豊田喜一郎ら主要役員が引責辞任に追込まれ、溜飲を下げた労組は人員整理を受入れストを解除、反喜一郎の豊田利三郎に連なる石田退三が3代目社長に就任した(豊田自動織機製作所社長を兼任)。が、皮肉にも1ヶ月も経たないうちに朝鮮戦争が勃発し、軍用トラックの注文殺到で業績はV字回復を遂げ膨大な在庫と累積損失も一気に解消した。豊田喜一郎の偉業は見直され石田退三ら経営陣は社長復帰を要請、喜一郎は快諾したが直後に食事に立寄った先で昏倒し帰らぬ人となった。その3年後に「クラウン」で大衆向け自家用車に参入したトヨタは日本一の巨大企業へ躍進したが、徳川家康の「三河武士団」に擬せられるトヨタ幹部の忠誠心は衰えず豊田喜一郎の直系子孫を盛立て続けた。「トヨタ中興の祖」石田退三は、喜一郎長男の豊田章一郎を取締役に迎え、逆に豊田利三郎家を本流から排除、中川不器男の次の5代目社長に創業期から従兄の喜一郎を支えた豊田英二を迎えた。1982年「工販合併」で発足したトヨタ自動車の初代社長(6代目)に豊田章一郎が座り「大政奉還」が実現、一族外の奥田碩・張富士夫・渡辺捷昭がバブル崩壊後の難局を乗切り、2009年章一郎長男の豊田章男を11代目社長に擁立した。他にも豊田佐吉の子孫の男子は悉くトヨタグループの要職に就いている。
- 日本最強のトヨタグループは、動力織機を発明し「紡績財閥」を築いた豊田佐吉と先見の明で自動車事業への転換を断行した豊田喜一郎の父子を祖と仰ぎ今日も同族経営が続くが、創業者の遺志を継ぎ大躍進へ導いたのは優秀な幹部たちであった。初代大番頭の西川秋次は創業時から豊田佐吉を支え、上海の豊田紡織廠の経営を差配し、豊田喜一郎の自動車事業を支援した。石田退三は、豊田利三郎の実家児玉家の親戚で、豊田紡織取締役・豊田自動織機社長を経て、豊田喜一郎の辞任に伴いトヨタ自動車工業3代目社長に就任、愚直にモノ創りに徹し財界活動を嫌ったため「トヨタ・モンロー主義」と揶揄されたが、自家用車路線の大成功で「トヨタ中興の祖」と称された。石田退三は元三井銀行神戸支店長の中川不器男に社長を譲ったが、中川が急死すると豊田喜一郎腹心の豊田英二を社長に迎えた。三井物産出身の神谷正太郎は、自動車部の創業期から豊田喜一郎に仕え販売部門を担当、第二次大戦後「工販分離」で発足したトヨタ自動車販売の社長に就任した。神谷正太郎は「地元の資本とヒトで車を売る」べく全国各地の有力者を口説いて販売店網を構築、また「一升マスには一升しか入らない」と一車種一販売店構想を掲げトヨペット・カローラなどの複数販売チャネルを敷いた。一橋大学から新卒でトヨタ自動車販売に入社した奥田碩は、経理部員時代に上司と衝突しマニラへ左遷されたが、同地に住んでいた豊田章一郎(豊田喜一郎の長男)の娘夫婦と懇意となり運を掴んだ。豊田章一郎がトヨタ自動車社長(6代目)となり、腹心の奥田碩は出世街道を驀進、高血圧症で退任した章一郎弟の豊田達郎に代わり8代目社長に上り詰めた。バブル崩壊後の難局を託された奥田碩は、「国内シェア40%奪回」の公約を達成し「トヨタ一人勝ち」を現出、日野自動車工業・ダイハツ工業の子会社化などグループの再編強化も推進し、名経営者と称され日経連会長も務めた。奥田碩が社長を託した張富士夫・渡辺捷昭は販売台数世界一を達成したが、2009年の世界同時不況で拡大戦略が裏目に出て71年ぶりの営業赤字に転落、人心統一を図るべく章一郎長男の豊田章夫が社長に担がれた。
- 鮎川義介は大叔父の井上馨と陸軍長州閥の支援のもと日産・日立グループを創始した「企業再生ファンド」の先駆者である。鮎川義介は山口で井上馨に扶育され東大工学部へ進んだが、三井財閥への勧誘を断り、出自と学歴を隠して芝浦製作所(東芝)の一職工となった。が、「日本で成功している企業はすべて西洋の模倣である。ならば日本で学んでいても仕方がない」と悟った鮎川義介は単身渡米し見習工として鋳物技術を学び、帰国すると井上馨の援助で北九州市に戸畑鋳物を設立し可鍛鋳鉄工場を開業、当初は資金繰りにも苦労したが、第一次大戦や関東大震災の特需で軌道に乗り技術分野拡大と工場買収で業容を拡大させた。戸畑鋳物で経営手腕を現した鮎川義介は、田中義一ら陸軍長州閥に懇請され破綻に瀕した妹婿久原房之助の事業(久原財閥)を引受けると忽ち経営再建に成功、持株会社の日本産業(日産)に日産自動車・日立製作所・日本鉱業・日産化学・日本油脂・日本冷蔵・日本炭鉱・日産火災・日産生命などを連ね「日産コンツェルン」を形成した。銀行融資がままならないなか鮎川義介は日産の株式上場で一般大衆から資金を集め(公衆持株)、積極投資が事業拡大・株価上昇と更なる資金を呼込む好循環を確立、日産は経営不振企業の買収と再建を繰返し軍需・重化学工業主導で雪ダルマ式に膨張した。日中戦争が始まると、鮎川義介は石原莞爾ら陸軍首脳の要請に応じ日産の重工業部門を満州へ全面移転、受皿の満州重工業開発(満業)の総裁に就任し「弐キ参スケ」に数えられたが、石原失脚で日中戦争は泥沼へ嵌り日本は無謀な対米戦争へ突入、ドイツの敗北を予見した鮎川義介は1942年間一髪のタイミングで満州撤退を断行した。東條英機内閣の顧問も務めた鮎川義介はA級戦犯容疑で投獄され経営復帰は叶わなかったが、資本と経営基盤を国内に温存した日産は第二次大戦後も生残り、日産自動車・日立製作所・日本鉱業(JXホールディングス)の各企業グループは高度経済成長で躍進し、日本水産・ニチレイ・損害保険ジャパン・日本興亜損害保険・日油などを連ね日産・日立グループを形成した。
- 小平浪平は、欧米技術の模倣を嫌悪し「国産技術立国」の理想を追求し続けた日立製作所創業者である。東大工学部を卒業し発電設備技術者となった小平浪平は、秋田県の藤田組小坂鉱山・広島水力電気を経て「電気工学を学んだ者の羨望の的」東京電燈(現東京電力)送電課長に栄進したが、どの職場でも外国製機械と外国人技師への依存に反発し、「痩せても枯れても自力で機械を作る」ため1906年元上司の久原房之助が開業した久原鉱業所日立鉱山に入社した。鉱山経営に不可欠な電源開発を託された小平浪平は発電所建設を陣頭指揮したが、排水ポンプ用の電動機(モーター)に故障が多く難渋、大半がGEやWestinghouseなど外国製だったことに反骨心を刺激され「故障しないモータが日本人の手で作れるはずだ、作れないのは、作ろうとしないからだ」と修理改良に乗出した。故障を克服し自信を得た小平浪平はモーターの国産化を決意し、1910年久原房之助を口説いて出資金を引出し現日立市に「日立製作所」創業(企業名より地名が先)、交通不便な僻地で工場も掘立小屋同然だったが、帝大教授陣を抱込んで倉田主税(2代目社長)・駒井健一郎(3代目社長)ら優秀な技術者を獲得し、見習工養成所(現日立工業専修学校)も開設した。設備も経験も不足するなか国産初の大型電動機製造に成功した日立製作所は、創意工夫で技術力を高めつつ発電設備・電動機市場に割安な国産製品を浸透、大物工場の全焼で小平浪平は経営危機に直面したが、翌1920年久原房之助義兄の鮎川義介が経営難の久原財閥を承継し窮地を脱した。「日産コンツェルン」に再編された日立製作所は成長を加速、電気機関車製造に進出し、小平浪平が「日立精神を守る」と製造拠点を留めたことで関東大震災を免れ東芝などが壊滅的被害を蒙るなか復興需要で急伸、日中戦争に伴う軍需景気と日産の満州重工業開発に乗り一流重機メーカーへ発展を遂げた。第二次大戦後、小平浪平は公職追放に遭い、1951年相談役で復帰したが世襲経営を否定し「日立製作所がおれの論文であり、記念だよ。ほかに何もいらぬ」と言残し同年77歳で世を去った。
- 浜松の鍛冶屋に生れた本田宗一郎は(マツダ創業者の松田重次郎も鍛冶屋の出)、高等小学校卒で東京の自動車修理工場へ丁稚奉公に入り22歳で暖簾分けを許され「アート商会浜松支店」を開設、これを従業員に譲り「東海精機重工業」を設立したが上手く行かず1945年三河地震による工場倒壊を機に豊田自動織機に会社を売却した。翌1946年、浜松で浪人していた本田宗一郎は妻の自転車に「エンジンをつけたら買い出しが楽になる」と着想し原動機付自転車「バタバタ」を開発し大ヒット、1948年「本田技研工業株式会社」を設立し経営担当に藤沢武夫を迎えた。1952年発売の小型バイク「カブ」で本田技研工業は躍進、東京への本社移転と株式公開を果し、1955年二輪車生産台数日本一を達成、1958年発売の「スーパーカブC100」で世界の小型バイク市場を席巻した。「町工場のおやじ」のままの本田宗一郎は過少資本の欠陥を抱えたまま「本田技術研究所」で技術開発に邁進、二輪車世界一の座を掴むと1963年軽トラックで四輪車生産を開始し、1972年「シビック」で自家用車に参入し低公害エンジン「CVCC」を搭載、F1レースで「技術のホンダ」を世界に示した。本田宗一郎は海外展開にも積極的で、業界に先駆けて欧米に販社を網羅しベルギーの二輪車工場・米国オハイオ州の四輪車工場など海外生産も推進した。しかし1973年のオイルショックで本田技研工業の自転車操業は行詰り、本田宗一郎は銀行に全持株を差出す覚悟で支援を引出し経営破綻を免れたが、「空冷」への固執など技術的信任の低下もあって辞任に追込まれた。道連れで副社長を退いた藤沢武夫は「名参謀」の呼声が高いが、実際はブローカー上りの野心家に過ぎず銀行の信用は低かったともいわれ、本田宗一郎は一番弟子の河島喜好を後継社長に選んだ。1983年本田宗一郎は取締役も退き1991年84歳で永眠したが(終身最高顧問)、創業者の遺命どおり本田技研工業の社長はエンジニアの久米是志・川本信彦・吉野浩行・福井威夫・伊東孝紳・八郷隆弘へと受継がれ、外資の買収攻勢を退けたホンダはトヨタと共に「ものづくり日本」の象徴であり続けている。
- 『海賊とよばれた男』出光佐三は、石油メジャー・業界規制の妨害に負けず民族資本「出光興産」を築いた異端児である。福岡県宗像の藍玉問屋に生れた出光佐三は、不眠症や神経衰弱に悩みつつ神戸大学へ進んだが、エリートの道を捨て1911年北九州門司に「出光商会」を設立、日本石油の特約店となり発動機付き漁船の燃料油販売で礎を築いた。1914年出光商会は車軸油取引で満鉄に食込み凍結耐性に優れた製品開発で鉄道事故減少に貢献、満鉄・軍需を足掛りに満州から中国全域・朝鮮・台湾へ販路を拡げ、出光佐三は高額納税で貴族院議員に叙された。石油国策に乗った「出光興産」は多くの従業員を喪いながら外地主導で業容を拡大したが、敗戦に伴う在外資産接収で全てを失った。出光佐三は無職の従業員1千人を抱えたが解雇ゼロを宣言、社員総出で食扶持を探し旧海軍のタンク底の残滓油清掃からラジオ修理や漁業までやって糊口を凌ぎ、1947年石油配給公団発足に伴う販売店指定で本業復帰し1949年元売業者へ昇格した。ヒトしか無かった出光佐三は「大家族主義」を掲げ、感謝した従業員は薄給で猛烈に働いたが、高度経済成長で出光興産が躍進するに従い人件費抑制と同族経営の方便と化した。さて、戦後日本では元売各社も監督官庁も石油メジャー支配に組込まれたが、出光佐三だけは外資を拒否し「消費者本位」を唱え「石油業法」規制に反抗、絶えず妨害工作に苦しめられたが猛烈営業で乗越えた。1951年イランが石油国有化を宣言し欧米は対決姿勢をとったが、反骨の出光佐三は「日章丸二世」をイランへ送り英国海軍の海上封鎖を突破して原油を持帰りBPの横槍も排除した(日章丸事件)。出光興産は快進撃を続け1957年の徳山を皮切りに全国に自社製油所を展開、「出光タンカー」「出光石油化学」を分離増強し、中ソ原油輸入や中東事務所開設でも先鞭を付けた。出光佐三は生産調整に反発し石油連盟を脱退したが、1966年世界最大「出光丸」の就航を花道に社長を末弟の出光計助に譲り石油連盟復帰、1981年95歳で大往生した。出光佐三が固執した同族経営は2002年で終わり2006年上場会社となった。
- 1909年ホンダと同じ浜松の地にトヨタと同じ動力織機で創業した「スズキ」は、戦後株式上場を経て小型バイクで自動車製造へ転換、1962年発売の「スズキ・フロンテ」で躍進し1973年から2006年まで軽自動車販売日本一の座を占めた。鈴木修は、中央大学法学部から地銀へ進み1958年鈴木俊三社長の長女(創業者の孫娘)の婿養子となり「鈴木自動車工業」入社、1978年経営難のなか4代目社長に就任すると、自動車排ガス規制に伴うリストラと軽自動車への集中戦略を断行、翌年発売の「スズキアルト」で成長軌道を回復した。鈴木修はGMとの資本提携に踏切り「いい師匠」を得て技術力不足を挽回、主戦場の欧米を避けて大手不在の後進国へ乗出し1983年インド政府と合弁で「マルチ・ウドヨグ社」を設立した。現場主義者の鈴木修は「浜松の中小企業のおやじ」を貫きつつプラザ合意後の円高を受け海外展開を加速、社名をスズキに改め、パキスタン・ハンガリー・エジプト・スペイン・中国・ベトナムへ生産拠点を拡大した。インド市場の過半を制したスズキは世界で賞賛されたが、「強かな」インド政府は干渉を強め2002年鈴木修は苦渋の決断で合弁会社株式を買取り、「マルチ・スズキ・インディア」は堅調で2015年も連結経常利益の4割を占めるが予断を許さない状況が続く。一方、GMとは良好な関係が続きスズキの受入れ出資比率は20%まで上昇したが、2006年GMの経営危機で鈴木修は自社株式の買取りを余儀無くされ、同じGM傘下のスバル・いすゞ自動車はトヨタ系列に再編された。同年スズキは軽自動車日本一の座をダイハツ工業に奪われ、さらにリーマン・ショックで業績急落、2008年会長の鈴木修は8年ぶりに社長に復帰した。スズキはインド以外の新興国市場で失敗を続け現地法人の破産で米国市場撤退、GMに代るべきVWとの包括提携は解消・紛争沙汰となり、日本国内でも軽自動車増税など苦境が続くが、鈴木修は小型車のOEM供給に活路を見出し日産自動車や三菱自動車工業との取引を拡大した。業績回復を果した鈴木修は2015年長男の鈴木俊宏に社長を譲ったが、会長兼CEOに君臨しワンマン経営を続けている。
石橋正二郎と同じ時代の人物
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戦前
伊藤 博文
1841年 〜 1909年
100点※
高杉晋作の功山寺挙兵を支えた長州維新の功労者、大久保利通没後の明治政界を主導し内閣制度発足・大日本帝国憲法制定・帝国議会開設・不平等条約改正・日清戦争勝利を成遂げ国際協調と民権運動との融和を進めた大政治家
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照 -
戦前
渋沢 栄一
1840年 〜 1931年
100点※
徳川慶喜の家臣から欧州遊学を経て大蔵省で井上馨の腹心となり、第一国立銀行を拠点に500以上の会社設立に関わり「日本資本主義の父」と称された官僚出身財界人の最高峰
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照 -
戦前
豊田 喜一郎
1894年 〜 1952年
100点※
豊田佐吉の長男で共に画期的な動力織機を発明するが、繊維産業の凋落を見越し紡績から自動車への事業転換を敢行したトヨタグループ創業者
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照