久留米の小さな仕立屋からゴム底の作業靴「アサヒ地下足袋」と学童靴「アサヒ靴」で躍進、トヨタ・日産に先駆けて自動車タイヤの製造に挑み「世界のブリジストン」を築いた天才企業家
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照戦前
石橋 正二郎
1889年 〜 1976年
90点※
家系・子孫
- 石橋徳次郎は、久留米藩の下級藩士龍頭民治の次男に生れたが秩禄処分で家産が傾き、叔父の緒方安平が営む「嶋屋」の奉公人となった。久留米藩御用の嶋屋は、小間物・仕立物の販売から醤油醸造・水産業・質屋・印刷業・中国貿易まで手を広げた豪商で明治維新後も羽振りが良かった。緒方安平の長女マツの婿となった石橋徳次郎は義母方の石橋家を継ぎ、暖簾分けで仕立物屋「志まや」を開業、重太郎・正二郎・新一の三児に恵まれた。次男の石橋正二郎は「祖父は町人だったが、養子の父は士族出。士族の町人というか、堅い一方で、いっこうにパッとせず、着物や襦袢を縫うちっぽけな仕立屋だった。父の仕立物屋は堅い一点ばりで、あまり繁昌せず、わたしが卒業するころ引退を決意してしまったのだ」と述懐している。さて石橋正二郎は、中学校を飛級で進み久留米商業学校を最年少で卒業、神戸高商(神戸大学)を目指したが父の引退で「志まや」を継ぎ、家督の石橋重太郎(2代目徳次郎)が陸軍に徴兵されたため17歳で家業を切盛りする身となった。久留米商業から神戸高商へ進んだ石井光次郎を石橋正二郎は「うらやましく思った」が親友関係は続き、四女の多摩子を石井の長男公一郎(母は久原房之助の長女)に嫁がせ、石井公一郎は岳父に拾われブリヂストンサイクルの社長となった。石橋正二郎には一男四女があり、長男の石橋幹一郎は東大法学部から海軍経理学校へ進み終戦後ブリジストンタイヤに入社(妻の朗子は團琢磨の孫娘)、43歳で社長を継ぎ米国ファイアストン買収などで世界的企業へ躍進させたが「資本と経営の分離」で同族経営を放棄し、引退後は長男の石橋寛が監査役に名を留めるのみとなった。石橋家は鳩山家の金主として有名である。政友会幹部の鳩山一郎は(戦後首相)長男鳩山威一郎の妻に石橋正二郎の長女安子を迎え、由紀夫・邦夫が誕生した。「ゴッドマザー」鳩山安子はポケットマネーで二人の選挙資金の面倒をみたといわれ、2008年リーマンショックに際し法相の鳩山邦夫は「ブリジストン株の値下りで鳩山由紀夫(翌年首相)と合わせ80億円も失った」と明かし、弟の失言癖に兄は「またか」と顔をしかめた。
- ブリジストンの石橋正二郎と政治家の鳩山一郎の家系図は、子だけでなく孫の代でも繋がっている。石橋正二郎の嫡孫(石橋幹一郎の長男)である石橋寛はハーフ・タレントの高見理沙と結婚したが、結婚式に出席した従兄弟の鳩山邦夫は妹の高見エミリー(17歳!)に一目惚れし猛アタックをかけて妻に迎えた。高見理沙(石橋理沙)と高見エミリー(鳩山エミリー)の姉妹は、イギリス系オーストラリア人の父親と日本人の母親の間に生まれたハーフ美人で「外タレ」のハシリだった。高見エミリーは、漫画雑誌「少女フレンド」(講談社)の表紙モデルで人気を博し「リカちゃん人形」のモデルにもなったが、鳩山邦夫に嫁ぐとあっさり芸能界を引退した。石橋寛・理沙の夫妻は子に恵まれなかったが、鳩山邦夫・エミリーの方は二男一女を授かった。長男の鳩山太郎は早稲田大学政治経済学部を出て政治家を志したが、東京都議会議員を一期務めただけで落選し、おバカキャラをいじられるテレビタレントに堕落した。鳩山太郎のキャラクターは父親譲りだが、鳩山邦夫は東大法学部で舛添要一と主席を争った超学校秀才ではあったのだ。次男の鳩山二郎は杏林大学卒、鳩山邦夫の秘書となり福岡県知事選への出馬を目指したが挫折し、福岡県大川市の市長に落ち着いた。大川市はブリジストン創業の地である久留米市の隣町であり、東京を追われた鳩山邦夫がこの福岡6区へ選挙区を移した経緯がある。いわば鳩山父子は石橋正二郎のお膝元で政治一家の命脈を繋いだわけだが、義弟である鳩山邦夫の没後、現当主の石橋寛が膨大な遺産と選挙の地盤を誰に継がせるか注目が集まる。
- 2代目石橋徳次郎を襲名した長兄の石橋重太郎は、「志まや」「日本足袋」の創業期から弟の石橋正二郎を支えたが、タイヤ事業参入には資金負担が重いと反対した。第二次大戦後の財閥解体を免れるため、石橋正二郎は兄弟間の株式交換により「ブリジストンタイヤ」の資本を握り、日本足袋改め「日本ゴム」の資本と経営権を石橋重太郎に譲った。石橋正二郎は長男の石橋幹一郎ら優秀な後継者に恵まれブリジストンは世界的企業へ躍進したが、日本ゴムでは石橋重太郎の長男(3代目石橋徳次郎)と重太郎末弟の石橋新一とが社長交代を繰返すスッタモンダが続き、1988年「アサヒ足袋」の商標に因み「アサヒコーポレーション」へ改称、3代目徳次郎が藍綬褒章を受賞した4年後の1998年多額の負債を抱え倒産し連鎖倒産は全国52社に及んだ。2015年現在、業績好調なブリジストンは株式時価総額4兆円を窺う勢いだが、アサヒコーポレーションは会社更生法に基づく再建途上である。
- 美作勝山藩士の四男で東京育ちの鳩山和夫は、開成学校を卒業し明治政府の第1回留学生に選ばれ米国イェール大学で法学博士号を取得、外務省出仕を振出に東京帝国大学教授・東京専門学校(早稲田大学)校長・外務次官・東京弁護士会会長などを歴任し、政友会所属の衆議院議員となり衆議院議長まで務めた。鳩山和夫は教育活動にも尽くしたが、妻の春子も東京女子師範学校の英語教師で共立女子職業学校(共立女子大学)の創立者に名を連ねた教育者であった。鳩山春子は「教育ママ」「モンスターペアレント」のハシリで、第一高等学校に進学した長男の鳩山一郎を不衛生で蛮カラな寮に入れることを拒み、校長を相手に「鳩山家には鳩山家の家庭教育が御座いますから」と啖呵を切ったという。長女のカヅは、弟の鳩山一郎の盟友で政友会最後の総裁となった鈴木喜三郎の妻である。鳩山一郎は、右翼結社「玄洋社」の幹部で後に貴族院議員となる寺田栄の長女薫を妻に迎え、一男五女をもうけた。鳩山薫も共立女子大学学長のツワモノで、教育者一家に育った長男の鳩山威一郎は東大法学部を主席で卒業し大蔵省入省、ブリジストン創業者で鳩山一郎のパトロンである石橋正二郎の長女安子を妻に迎え、第二次戦後は参議院議員となり福田赳夫内閣に外相で入閣した。鳩山威一郎・安子夫妻の二児もやはり東大へ進み、ブリジストンの資金力を後ろ盾に衆議院議員に進出、鳩山一郎から東京の地盤を継いだ次男の鳩山邦夫は自民党政権で文相・労働省・法相・総務相を歴任し、弟に遅れ北海道から当選した鳩山由紀夫は民主党党首となり2009年の政権交代で首相に上り詰めた。
- 池田勇人は広島県豊田郡吉名村(現竹原市)の素封家で酒造業を営む池田吾一郎の二男に生れ、地元の忠海中学校から一高・東大を目指したが学力不足で熊本の五高へ進み京大法学部へ進学した。ニッカウヰスキー創業者で「マッサン」(NHK連続テレビ小説)こと竹鶴政孝は、同じ竹原市の酒造業者(竹鶴酒造)の三男で忠海中学校の1年先輩、広島弁丸出しの交流は池田勇人が没するまで続いた。さて大蔵官僚となった池田勇人は、木戸孝允の腹心で参議も務めた広沢真臣の孫娘直子と結婚したが、間もなく難病に罹り新妻は看病疲れで早世してしまった。5年に及ぶ闘病生活のすえ快復した池田勇人は、直子に代わり看病してくれた遠縁の大貫満枝と再婚し三女をもうけた。先妻を偲び直子と名付けた長女は戦後のサラ金の走りで「金融王」といわれた近藤荒樹の長男近藤荒一郎に、三女の祥子はブリヂストン創業者石橋正二郎の甥石橋慶一に嫁がせた。男児の無い池田勇人は、大蔵省後輩の粟根行彦を二女紀子の婿養子に迎えた。粟根改め池田行彦は、池田勇人の地盤(広島5区)を継いで衆議院議員となり自民党要職・防衛庁長官・外務大臣を歴任した。竹下登が「日本一の殺戮的選挙区」と呼んだ広島5区の地盤は、池田行彦の没後、姪婿の寺田稔が受継いだ。
石橋正二郎と同じ時代の人物
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戦前
伊藤 博文
1841年 〜 1909年
100点※
高杉晋作の功山寺挙兵を支えた長州維新の功労者、大久保利通没後の明治政界を主導し内閣制度発足・大日本帝国憲法制定・帝国議会開設・不平等条約改正・日清戦争勝利を成遂げ国際協調と民権運動との融和を進めた大政治家
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戦前
渋沢 栄一
1840年 〜 1931年
100点※
徳川慶喜の家臣から欧州遊学を経て大蔵省で井上馨の腹心となり、第一国立銀行を拠点に500以上の会社設立に関わり「日本資本主義の父」と称された官僚出身財界人の最高峰
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戦前
豊田 喜一郎
1894年 〜 1952年
100点※
豊田佐吉の長男で共に画期的な動力織機を発明するが、繊維産業の凋落を見越し紡績から自動車への事業転換を敢行したトヨタグループ創業者
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