量子力学を化学に応用した独創的な「フロンティア軌道理論」で「有機電子論」の矛盾を克服し日本人初のノーベル化学賞に輝いた「量子化学」の先駆者
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照戦後
福井 謙一
1918年 〜 1998年
70点※
福井謙一と関連人物のエピソード
- 北里柴三郎は「血清療法」を発明した東洋人初の世界的医学者にして北里研究所・慶應義塾大学医学部・日本医師会の創立者である。熊本阿蘇の庄屋に生れた北里柴三郎は、熊本医学校から東大医学部へ進み、内務省衛生局に出仕しドイツ留学を許された(同僚の後藤新平は生涯の親友となった)。独ベルリン大学に入った北里柴三郎は「近代細菌学の開祖」コッホに師事し研究に没頭、「破傷風菌純粋培養法」「破傷風菌抗毒素」を発見し1890年「血清療法」を発表し世界の医学会を驚かせた。ただし、1901年北里柴三郎は第1回ノーベル医学生理学賞の候補となったが人種的偏見から共同研究者ベーリングの単独受賞となり、また1894年には香港で「ペスト菌」を発見したが第一発見者は同時期に香港に居たイェルサンとなった。さて北里柴三郎は、欧米研究機関の招聘を断り国費留学の責務を果すべく帰国したが、緒方正規教授の「脚気病原菌説」を否定したことで東大医学部閥が牛耳る日本医学会から締出された。偉材の窮状を見兼ねた福澤諭吉が森村財閥の援助で1892年「伝染病研究所」を開設し北里柴三郎を所長に迎えたが、骨抜きを図る東大閥は「国立伝染病研究所」へ改組させ東大医学部への吸収を強行、北里所長以下全職員が一斉辞任する「伝研騒動」を引起した。1914年北里柴三郎は私立「北里研究所」を設立、北島多一・志賀潔(赤痢菌発見者)・秦佐八郎(梅毒特効薬発明者)ら研究員も挙って移籍し狂犬病・インフルエンザ・赤痢・発疹チフスなどの血清開発と伝染病研究を継続した。学閥に屈さず実力通り日本医学界の重鎮となった北里柴三郎は、結核療養施設・日本結核予防協会・貧民救済病院などの創設に努め、1916年府県医師会の統合により「大日本医師会」を発足させ初代会長に就任した(1923年法定化され「日本医師会」となる)。また北里柴三郎は、慶應義塾大学医学部の創設に尽力し初代学部長兼付属病院長を引受け、北里研究所から教授陣を派遣するなど無償で福澤諭吉の旧恩に報いている。北里柴三郎は男爵に叙され、慶大医学部長および日本医師会会長を北島多一に引継ぎ、78歳で永眠した。
- 湯川秀樹は敗戦国日本に勇気を与えた初のノーベル賞受賞者、先に受賞したインドのラマンはアーリア人種であり非白人初の受賞といえる(文学賞は除く)。湯川秀樹は父と兄弟4人が京大・東大教授という学術一家の出身、父の蔵書から物理学に嵌り「物質はどこまで小さいか」答えを求め高校生にしてドイツ人著『量子論』などを読み耽った。面倒なことは「言わん」で片付ける無口な湯川秀樹は父に劣等視されたが、京都一中・三高・京大理学部物理学科と順調に進学した。湯川秀樹は玉城嘉十郎教授の研究室へ進んだが欧米との差に焦るばかりで芽が出ず、八木秀次教授に拾われ阪大講師の職を得たが三高・京大の同期で活躍著しい朝永振一郎(1965年ノーベル賞受賞)と比較・叱責された。しかし湯川秀樹の「天才の時間」も一見無聊な不遇期に訪れた。プランクが創始した量子力学は、1920年代ハイゼンベルクやシュレーディンガーの業績で躍進し、アインシュタインの相対性理論と並ぶ現代物理学の基礎理論へ発展しつつあった。湯川秀樹は、原子核内部で電気的に纏まれないはずの陽子と中性子を結ぶ「強い力」の「中間子」の存在を予測し1934年日本数学物理学会で仮説発表、翌年論文『素粒子の相互作用について』で未観測素粒子を理論的に予言した。28歳の湯川秀樹の大胆学説に日本学界の反応は鈍かったが、英訳論文が欧米で脚光を浴び1937年ソルベー会議参加の栄誉に浴しアインシュタインやオッペンハイマーと交流した。世界に認められた湯川秀樹は京大・東大で教授を務め、1947年パウエルらの「π中間子」発見で湯川理論が証明されコロンビア大学教授に栄進、1949年ノーベル物理学賞を受賞した。1953年湯川秀樹は帰国し京大基礎物理学研究所の初代所長に就任、「因果律の破れ」くらいしか業績は無かったが、日本物理学会会長として後進の指導に努め、1970年京大退官後も名誉教授に留まり1981年74歳で永眠した。帰国後の湯川秀樹はアインシュタインの反核運動に傾注し日本学界を指導、原子力委員会の委員に就いたが「俗物」正力松太郎委員長に抗議の辞表を叩き付け学者の矜持を示している。
- 利根川進は、免疫学100年の謎「抗体の多様性」を解明し日本人初のノーベル生理学・医学賞を受賞した分子生物学者である。祖父も父も帝大卒の機械工学者という秀才一家に育った利根川進は、日比谷高校から一浪で京大理学部へ進み、ジャコブとモノーの遺伝子発現の制御メカニズム「オペロン説」に衝撃を受け「生命を分子の言葉で語る」分子生物学を志した。1963年利根川進は京大大学院へ進んだが、渡邊格教授の推薦でUCSD留学の機会に恵まれ僅か2ヶ月で渡米、博士号を得て1969年ソーク研究所へ移りレナート・ダルベッコのもと遺伝子調節プロセスの研究を開始した。ダルベッコは1975年にノーベル賞を獲得しソーク研究所は5人の受賞者を輩出、利根川進の在籍期間は2年に満たなかったが切磋琢磨で才能を開花させ強力なダルベッコ人脈に連なった。1971年利根川進は留学ビザの期限切れで一時帰国も考えたが、ダルベッコの勧めでスイスのバーゼル免疫学研究所へ移籍、「一時避難のつもり」が飛躍の契機となった。10万個も無い遺伝子から100億種類以上の抗体ができるのは何故か…「抗体の多様性」の問題は「神のミステリー」といわれ、抗体の遺伝子情報も親から受継ぐとする「生殖細胞系列説」と体細胞の分化過程で遺伝情報に変化が起るとする「体細胞系列説」が免疫学界を二分し100年も論争が続いていた。大御所の加担で前説が優勢だったが、利根川進は無成果失職に脅えつつ粘り強く塩基配列と「ドライヤー・ベネット仮説」を検証し後説の証明に成功した。遺伝子不変の常識が抗体には該当しないことを実証した利根川進は1976年の論文で一躍スター研究者となり、1981年MIT教授に招かれ、1987年ノーベル生理学・医学賞に輝いた。ハワード・ヒューズ医学研究所招聘の栄誉にも浴したが、自身の大御所化を嫌う利根川進は次なる未解明分野を求め米国が国策に掲げる脳科学へ転身、「MIT学習・記憶研究センター長」に就任し脳研究への遺伝子組換えマウス活用に先鞭を付けた。2015年末現在、利根川進はMIT教授に「理研脳科学総合研究センター長」を兼ね日米で「記憶を分子の言葉で語る」挑戦を続けている。
- 山中伸弥は、究極のクローン技術「iPS細胞」を樹立したノーベル賞受賞者、男前のスポーツマンで弁舌も爽やかな完全無欠の天才である。山中伸弥が発明したiPS細胞は、非常に単純な方法で、しかも倫理問題を伴う受精卵を使わず体細胞を「ES細胞」と同等まで「初期化」する革新的技術であり、再生医療や創薬への絶大な効果が期待される。世界中で応用研究が進むなか、安倍晋三内閣はiPS細胞研究を国策に据え巨額の予算投下を表明した。東大阪市の町工場に生れた山中伸弥は、名門の大阪教育大附属天王寺中学・高校に学び、父の指導と徳田虎雄の著書で医師を志し神戸大学医学部へ進んだ。山中伸弥は中高は柔道・大学3年からラグビーに打込み、50歳を過ぎてもマラソン完走の体力を誇る。山中伸弥は整形外科の臨床研修医となったが不器用で2年で退職、基礎研究へ転じて大阪市立大学大学院で博士号を取得し、1993年公募採用で米国UCSFグラッドストーン研究所へ留学しノックアウトマウスを得てES細胞研究を開始した。1996年山中伸弥は大阪市立大学に戻ったが理解されず、クローン羊「ドリー」や「ヒトES細胞」樹立に沸く米学界との落差に心を病み臨床医復帰も考えたが、1999年奈良先端科学技術大学院大学の遺伝子教育研究センターに公募採用される幸運に恵まれた。山中伸弥のテーマはES細胞の弱点克服、数万個の候補遺伝子から初期化因子を探す難題であったが、理研・林崎良英の遺伝子DB公開のお陰で絞込みが進み、科学技術振興機構の助成で研究継続、2004年4個の因子遺伝子を突止め「iPS細胞」と命名した。幹細胞学のホープへ躍り出た山中伸弥は京都大学再生医科学研究所およびグラッドストーン研究所の教授に招かれ、肝臓細胞由来のiPS細胞でクローンマウス作製に成功、翌2007年「ヒトiPS細胞」の樹立を発表した。遅ればせながら日本政府も研究支援に乗出し、2012年山中伸弥はノーベル生理学・医学賞を受賞(初期化研究の先駆者ジョン・ガードンと共同受賞)、再生医療への臨床応用や創薬に有用な病態モデル研究(副作用実証等)を見据えiPS細胞製作の最適化と標準化に取組んでいる。
- 中村修二は、青色LED・青色半導体レーザーの工業製品化でノーベル物理学賞を獲得した叩上げ研究者の星である。青色LEDの発明は共同受賞者の赤崎勇・天野浩(名古屋大学の師弟)の手柄だが、中村修二は製品化に必要な高品質の窒素ガリウム結晶を作る「ツーフロー法」と制御条件を物にして逸早く量産技術を確立、手柄を競った赤崎とは犬猿の仲となった。中村修二は、愛媛県大洲市から徳島大学へ進み修士課程を修了して1979年徳島県阿南市の「日亜化学工業」に入社、1987年創業社長の小川信雄を説伏せ青色LEDの研究を開始した。1年間のフロリダ大学留学から戻った中村修二は博士号未取得で「あほ扱い」された屈辱から「研究の鬼」と化し、青色LED用MOCVD装置開発と英語論文作成に邁進し『怒りのブレイクスルー』(自著名)を炸裂させた。中村修二は1991年「ツーフローMOCVD装置」・1993年「窒化ガリウム製膜法」の発明により世界で初めて青色LED量産技術を樹立、徳島大学で念願の博士号を取得し「エジソンの電球に匹敵する発明」で世界の脚光を浴びた。しかし日亜化学工業は2万円の報奨金しか出さず特許権を独占、「スレイブ・ナカムラ」の嘲笑に燃えた中村修二は辞表を叩き付け1999年カリフォルニア大学サンタバーバラ校 (UCSB) 教授へ転身(のち米国に帰化)、非常勤研究員に就いたクリー・ライティング社と共に日亜化学工業に「青色LED訴訟」を仕掛け、「404特許」の帰属確認および譲渡対価約200億円を求め東京地裁に提訴した。中村修二は一審に勝訴したが日本工業界の虎の尾を踏み、2005年「日本の司法は腐っている」と罵りつつ東京高裁の和解勧告に涙を呑んだ(対価は8億4千万円へ激減)。しかし中村修二の研究意欲と権威は衰えず、UCSB教授に励む傍ら信州・愛媛・東京農工大学の客員教授を務め、世界初の「無極性青紫半導体レーザー」や「緑色半導体レーザー」でディスプレイ工業界を牽引、2014年ノーベル物理学賞に輝いた。なお青色LEDでは、2004年東北大学の川崎雅司チームが酸化亜鉛法に成功しており、高価な窒化ガリウムは駆逐される可能性がある。
福井謙一と同じ時代の人物
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戦後
孫 正義
1957年 〜 年
100点※
在日商魂と米国式経営を融合し日本一の大富豪へ上り詰めた「ソフトバンク」創業者、M&Aと再投資を繰返す「時価総額経営」の天才はヤフー・アリババで巨利を博し日本テレコム・ボーダフォン・米国スプリントを次々買収し携帯キャリア世界3位に躍進
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戦後
重光 葵
1887年 〜 1957年
100点※
戦前は日中提携・欧州戦争不関与を訴え続け外相として降伏文書に調印、アメリカ=吉田茂政権に反抗しA級戦犯にされたが鳩山一郎内閣で外相に復帰し自主外交路線を敷いた「ラストサムライ」
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戦後
岸 信介
1896年 〜 1987年
100点※
戦前は満州国の統制経済を牽引し東條英機内閣の商工大臣も務めた「革新官僚」、米国要人に食込みCIAから資金援助を得つつ日米安保条約の不平等是正に挑んだ智謀抜群の「昭和の妖怪」
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