量子力学を化学に応用した独創的な「フロンティア軌道理論」で「有機電子論」の矛盾を克服し日本人初のノーベル化学賞に輝いた「量子化学」の先駆者
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照戦後
福井 謙一
1918年 〜 1998年
70点※
家系・子孫
- 福井謙一は、町工場と貿易業を営む福井亮吉の嫡子で大阪西成区岸里に育ち、府立今宮中学校を1年飛級で卒業し旧制大阪高等学校理科乙類へ進学、数学好きだったが父の叔父で京大教授の喜多源逸から「数学が好きなら化学をやれ」と勧められ京都帝国大学工学部工業化学科へ進んだ。喜多源逸は東大卒の化学界の泰斗で、京大へ転じ工学部工業化学科の育ての親と称された。頭脳明晰な福井謙一はエリート街道を驀進、京大大学院在学中に陸軍短期現役将校(大尉)として陸軍燃料廠で炭化水素・航空燃料の改良を成功へ導き、弱冠24歳で喜多源逸が創設した京大工学部燃料化学科の講師に就任、終戦を経て1951年32歳で教授となり、独創的な「フロンティア軌道理論」で「量子化学」に先鞭を付け1981年日本人初のノーベル化学賞に輝いた。福井謙一は友栄夫人との間に一男一女を生し、長男の福井哲也は星薬科大学教授、長女の美也子は梅原賢一郎(京大系哲学者の重鎮梅原猛の長男)の妻となった。
福井謙一と同じ時代の人物
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戦後
孫 正義
1957年 〜 年
100点※
在日商魂と米国式経営を融合し日本一の大富豪へ上り詰めた「ソフトバンク」創業者、M&Aと再投資を繰返す「時価総額経営」の天才はヤフー・アリババで巨利を博し日本テレコム・ボーダフォン・米国スプリントを次々買収し携帯キャリア世界3位に躍進
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戦後
重光 葵
1887年 〜 1957年
100点※
戦前は日中提携・欧州戦争不関与を訴え続け外相として降伏文書に調印、アメリカ=吉田茂政権に反抗しA級戦犯にされたが鳩山一郎内閣で外相に復帰し自主外交路線を敷いた「ラストサムライ」
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戦後
岸 信介
1896年 〜 1987年
100点※
戦前は満州国の統制経済を牽引し東條英機内閣の商工大臣も務めた「革新官僚」、米国要人に食込みCIAから資金援助を得つつ日米安保条約の不平等是正に挑んだ智謀抜群の「昭和の妖怪」
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