慶應義塾の創始者にして「西洋事情」の紹介者、「脱亜論」が後世に禍根を残したが、大隈重信の黒幕として自由民権運動をリードした文明開化のカリスマ
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照戦前
福澤 諭吉
1835年 〜 1901年
70点※
家系・子孫
- 福澤百助は豊前中津藩の下級藩士で、長年に渡り大阪蔵屋敷で勘定方下級役人を務め、在任中に次男の福澤諭吉をもうけた。福澤百助は儒学にも通じた能吏であったが、世襲身分制が厳しい徳川譜代の奥平家で出世の機会に恵まれぬまま諭吉誕生の翌年病没した。福澤諭吉は自叙伝『福翁自伝』に「門閥制度は親の敵で御座る」と認めている。福澤諭吉は土岐太郎八(旧中津藩士)の次女錦を娶り四男五女を生した。少年期から学問三昧で結婚後は愛妻家となった福澤諭吉は、生涯妻以外の女性と関係しなかったという説もある。嫡子の福澤一太郎が慶應義塾塾長、次男の福澤捨次郎が時事新報社長を継いでいる。福澤諭吉が次女房の婿養子に迎えた福澤桃介は、相場師から実業家へ転じ大成した変り種である。福澤桃介は貧乏家庭に生れたが知人の援助で慶應義塾に入学、運動会のとき桃介の際立った美貌が福澤諭吉夫妻の目に留り、房との結婚を条件に養子に迎えられアメリカ留学へ出された。帰国後、福澤桃介は房に婿入りしたが定職に就かず、日露戦争後の好景気のなか株式投資に打込み大儲けした。間もなく株価は暴落へ転じ多くの成金が没落したが、福澤桃介は手際よく相場を手仕舞い、掴んだ金で実業界へ転身し中部日本の水力発電事業などに関与、名古屋電燈(東邦電力の前身)買収や大同電力(中部電力の前身)創業で「電気王」と称され関西財界の重鎮となった。「三井中興の祖」中上川彦次郎は福澤諭吉の姉婉と中上川才蔵の嫡子、福澤家は三菱の岩崎家とも閨閥で結ばれている。
福澤諭吉と同じ時代の人物
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戦前
伊藤 博文
1841年 〜 1909年
100点※
高杉晋作の功山寺挙兵を支えた長州維新の功労者、大久保利通没後の明治政界を主導し内閣制度発足・大日本帝国憲法制定・帝国議会開設・不平等条約改正・日清戦争勝利を成遂げ国際協調と民権運動との融和を進めた大政治家
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戦前
渋沢 栄一
1840年 〜 1931年
100点※
徳川慶喜の家臣から欧州遊学を経て大蔵省で井上馨の腹心となり、第一国立銀行を拠点に500以上の会社設立に関わり「日本資本主義の父」と称された官僚出身財界人の最高峰
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戦前
豊田 喜一郎
1894年 〜 1952年
100点※
豊田佐吉の長男で共に画期的な動力織機を発明するが、繊維産業の凋落を見越し紡績から自動車への事業転換を敢行したトヨタグループ創業者
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