岸信介の後継者として首相となりカーター米政権の「アジア離れ」を衝いて「全方位外交」を追求、ASEANとの連帯強化と日中平和友好条約締結を果たすも自民党総裁選に弱く僅か2年で退陣
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照戦後
福田 赳夫
1905年 〜 1995年
70点※
福田赳夫と関連人物のエピソード
- 日本国憲法は、GHQ民政局(GS)次長ケーディスのチームが作成した原案を幣原喜重郎・吉田茂内閣が丸呑みして公布した代物であり、内容はともかく「押付け憲法」の評価は全く正しい。敗戦直後より改憲要求が予期されるなか、国務大臣の近衛文麿が自らの生存を賭けて憲法改定案作成に乗出したが、幣原喜重郎内閣は近衛を抑え「松本委員会」の専権事項として憲法起草に取組んだ。しかし、根本的改革を求めるGHQは日本政府案を完全否定し、民政局のケーディスのチームが短期間で作成した憲法草案を突きつけ、もし受入れなければ、天皇が戦犯として処刑されるかもしれず、吉田茂外相以下の現政府メンバーも芦田均厚生相は「これがもとで内閣が総辞職でもすれば、当然GHQ案を喜んでのむ連中が出てくるに違いない。従って内閣はどうしてもここで踏ん張って、きたるべき総選挙に備えなければいけない」と踏ん張ったが、GHQの圧力には抗すべくもなく、2月13日、遂に幣原喜重郎内閣は受諾の決断を下し、「極めて重大の責任」を痛感しつつ退陣した。そして3ヵ月後の5月22日に第一次吉田茂内閣が発足、国会審議を「国体はいささかも変更されない」との詭弁一点張りで押し切り、11月3日の日本国憲法公布、翌1947年4月25日の新憲法下での総選挙、5月3日の憲法施行を見届けた3週間後に吉田茂内閣は退陣した。自作の「日本国憲法」を押し通したいGHQは、戦後初の総選挙で圧勝し次期組閣が確実であった自由党総裁の鳩山一郎を強引な公職追放で追い払い、配下の吉田茂に組閣させて野望を果した。こうした一連の経緯は、占領中の検閲によって日本国内で完全に秘匿されたため、現在でも多くの日本人が知らないが、アメリカの公文書公開によっても明らかな事実である。ライシャワー駐日大使は著書のなかで「マッカーサーは自分で日本国憲法を書いてしまった」とはっきりと批判している。
- 吉田茂は、板垣退助の腹心竹内綱の妾腹の子で、横浜の貿易商吉田健三に入嗣し11歳で膨大な遺産を相続した。学業成績が冴えない吉田茂は学校を転々したが、学習院大学科の閉鎖に伴う無試験編入という裏口を使って東大法学部に潜り込み、28歳で外交官試験に合格した。吉田茂は中国領事など外務省の傍流を歩んだが、牧野伸顕伯爵(大久保利通の次男)の長女雪子と結婚し、岳父の威光でパリ講和会議の随員に加えられ1928年外務次官へ栄進、陸軍も顔負けの対中国強硬論で鳴らし(大陸派)幣原喜重郎・重光葵の「協調外交」と対立した。二・二六事件の直後、吉田茂は同志近衛文麿の命により広田弘毅(外交官同期の主席)の組閣に働き、本命の外相は逃したが同格の駐英大使に任じられた。駐英大使後任の重光葵は国際的に高い評価を得たが、吉田茂は貴族趣味に染まるだけで相手にされず1939年「待命」となり一線を退いた。牧野伸顕の影響もあり強硬外交から親英米派へ転じた吉田茂は、日独伊三国同盟に反対し、対米開戦後は早期講和を訴え東條英機内閣打倒に加担、1945年2月「近衛上奏文事件」に連座し憲兵隊に2ヶ月間拘置された。第二次大戦後、逮捕歴が「反軍部の勲章」となり吉田茂はウィロビー参謀第2部長から「窓口役」を仰せつかり、1954年までGHQ傀儡政権の外相・首相を占め「軍事は解体」「経済も解体」「民主化は促進」の占領政策を実行、日本国民にはGHQとの「対等」を演じ「ワンマン宰相」と畏怖された。重光葵・芦田均ら自主外交派が排除されるなか、吉田茂は日本一国を「俎板の上の鯉」の如く差出し、「押付け憲法」を受入れ、国家予算の2割を超す「戦後処理費」を献上し、講和条約と引換えに不平等な日米安保条約・行政協定を呑まされた。講和独立後も吉田茂は政権にしがみついたが、東西冷戦の本格化で日本の再軍備へ転じたアメリカに見捨てられ、再軍備・自主外交を掲げる鳩山一郎に政権を奪われた。しかし吉田茂の経済優先・外交従米路線は池田勇人・佐藤栄作・宮澤喜一らに引継がれ高度経済成長により「保守本流」に定着、アメリカが日本を「保護国」と呼ぶ状況は今も続く。
- 吉田茂がGHQの代理執行人に過ぎないことは歴史が示すとおりだが、「バカヤロー解散」など日本人に対しては非常に偉そうな態度をとり、アメリカとの「対等」を演じ「ワンマン宰相」と畏怖された。戦前に遡れば、少壮期の吉田茂は外交官傍流の中国領事を長く務めたが、戦後日本人に対したのと同様に中国人を愚民視し「イギリスがエジプトを支配したように満州支配に強圧的手段で臨むべき」と武力行使を主張した「大陸派」、英国紳士気取りで中国料理を毛嫌いし張作霖が自ら取分けた料理一品すら口にしなかった。さて1946年、公職追放された鳩山一郎の代役として組閣を引受けた吉田茂は、自由党幹部に対し「金作りは一切やらない、閣僚の選考に一切の口出しは無用、辞めたくなったらいつでも辞める」との条件を付け、鳩山には「君の追放が解けたらすぐにでも君に返すよ」と大物ぶりを示した。1951年アメリカの方針転換で公職追放が解除され、政界に復帰した鳩山一郎の派閥は吉田茂首相の極端な従米政策に反発し与党自由党を二分する勢力となった。吉田茂はサンフランシスコ講和条約を花道に引退すると思われたが、改めて鳩山一郎への「首相禅譲密約」をしてまで第四次内閣を組閣、密約を破って第五次内閣まで引延ばし講和条約発効後2年間も政権にしがみついた。しかしGHQは廃止され親分のマッカーサーも失脚するなか、吉田茂首相は冷戦激化に伴うアメリカの安全保障戦略の転換に付いて行けず再軍備反対に固執、合理的なアメリカ政府はあっさりと忠臣吉田を見捨てた。長期政権に飽きた世論でも轟々たる非難が巻起るなか、1954年吉田茂は解散総選挙で第六次組閣を図るが側近にも諫言され断念、漸く政権を鳩山一郎に返上した。とはいえ吉田茂は隠然たる勢力を維持しつつ1967年まで89歳の長寿を保ち、戦後唯一の国葬で送られ官庁や学校は半休となった。吉田茂が敷いた経済優先・外交従米路線は、高度経済成長に恵まれた愛弟子の池田勇人政権で磐石となり「保守本流」は「吉田学校」の佐藤栄作・大平正芳・宮澤喜一らへ受継がれ「55年体制」をリードし続けた。
- GHQ=吉田茂政府は、不在地主の土地をタダ同然で取上げ小作農に分与する徹底的な「農地改革」を日本全国で断行した。農地改革の結果、全農地の半分近くを占めた小作地は20%以下に激減し北海道・東北諸県を筆頭に農地「解放率」は劇的に向上したが、農業だけでは自活できない1町歩未満の小規模自作農が大量に発生した。農村を追われた大人口は大都市に流込み安価な工業労働力となって経済成長を牽引、吉田茂政権は幸運にも社会秩序崩壊を免れたが、農村社会の衰退と共に都市部を中心に核家族化が進行し、精神的拠所を求める都市住民を吸収し新興宗教団体が興隆した。
- 敗戦から朝鮮戦争の特需で蘇生するまで日本は上から下まで窮乏に喘ぎ多くの餓死者も出たが、アメリカは日本経済の再起不能化を進めつつ日本政府から膨大な米軍駐留経費を吸上げた。「戦後処理費」の名目で計上された米軍駐留経費は1946年379億円(一般歳出の32%)・1947年641億円(31%)・1948年1,061億円(23%)・1949年997億円(14%)・1950年948億円(16%)・1951年931億円(12%)、日本政府は講和条約成立までの6年間に合計約5千億円・国家予算の2割を超す巨費を無条件で献上し、ゴルフ・特別列車・花や金魚の代金まで押付けるGHQのやりたい放題を許した。第一次内閣で無茶な米軍駐留経費を規定路線化した吉田茂首相は唯々諾々と従うのみで、更なる増額要求に反抗した石橋湛山は蔵相を更迭され公職追放の憂き目をみた。石橋湛山は「あとにつづいて出てくる大蔵大臣が、おれと同じような態度をとることだな。そうするとまた追放になるかも知れないが、まあ、それを二、三年つづければ、GHQ当局もいつかは反省するだろう」と語ったが、1954年に吉田茂内閣が退陣し鳩山一郎内閣で重光葵が外相に復帰するまで抗米意見は封殺された。GHQと吉田茂ラインの宣伝により戦後日本はアメリカの「寛大な占領」で救われたというのが定説となり、その根拠として真先に挙るのが「ガリオア・エロア資金」である。外貨の乏しい日本政府がガリオア・エロア資金を使い生活必要物資をアメリカから緊急輸入した事実はあるが、1946年から1951年までのネットの対日援助額は13億ドルと膨大な「戦後処理費」のごく一部に過ぎない。また、ガリオア・エロア資金の学資援助で米国留学した大勢の学者や公務員が中心となり、従米路線あるいは米国批判タブーの社会風潮を根付かせたことも考えると、アメリカの「寛大な占領」などではなく「戦略的恩恵」であったことは疑いない。戦後70年の今日に至るまで、日本政府は手を変え品を変え不平等な日米安保条約に基づく米軍駐留と経費負担を継続し、アメリカが日本を「保護国」呼ばわりする異常な状態が続いている。
- 日本の急進的民主化を図るマッカーサーはGHQ発足当初の「五大改革指令」に「労働組合の結成奨励」を加え社会主義的なGHQ民政局が積極的に労働運動を助成したが、1946年3月に労働組合法が公布されると空腹を抱えた日本国民が殺到し、1946年末には組合数1万7265・組合員数484万9329人へ膨張した。GHQの民主化政策に戦後の深刻なインフレが拍車を掛け労働運動はエスカレート、日本全国で賃上げ闘争や首切り反対闘争が続発するなか1946年10月に国鉄・全労・新聞放送を含む大規模労働争議「一〇闘争」が発生し、1947年初には全官公庁を中心とする「二・一ゼネスト」が計画された。反共の吉田茂政権を揺さぶる大騒擾に慌てたマッカーサーは「二・一ゼネスト」禁止を発令し労働運動抑制へ転換、戦後瞬く間に拡大した労働組合運動は沈静化へ向かった。
- 1947年、GHQ作「日本国憲法」制定の大任を果した第一次吉田茂内閣が退陣し、総選挙で第一党に躍進した社会党左派の片山哲が組閣した。社会党内閣に対しGHQ内部では、反共主義のウィロビー部長の参謀第2部(G2)は警戒したが、ホイットニー局長・ケーディス次長ら社会主義思想家が多い民政局(GS)は革新政権を歓迎した。米ソ冷戦が未だ緊迫化していない国際情勢も手伝い、マッカーサーはキリスト教徒の片山哲首相を支持し、鳩山一郎の公職追放のようなGHQの横槍は入らなかった。とはいえ、さしものGSも左傾し過ぎた平野力三農林大臣の解任を要求し、これに従った片山哲首相は急進左派の40議席を喪失、片山内閣は総辞職に追込まれ9ヶ月余の短命政権に終わった。重光葵が嘆いたとおり「占領下の日本政府などというものは、あってなきがごときもの」であった。
- アメリカの対日政策は蒋介石の親米政権による中国統治を前提としたプランであり、中華民国政府を強大国に育成してアジアにおける西側陣営の柱石とし、日本は非武装の三流国に転落させ、米英仏中・ソの五大国で世界統治を進めるシナリオであった。ところが、1947年7月に始まった共産党軍の大反攻により内部腐敗した蒋介石の国民政府軍の敗色が濃厚となり、さらに李承晩と金日成の対立で米ソ合同委員会による南北朝鮮統一工作が破綻するに及び、アメリカは日本を含むアジア戦略全体の見直しを迫られることとなった。トルーマン政府は迅速に動き、国務省のジョージ・ケナンを訪日させて「改革や追放の停止と戦犯裁判の早期終結。日本国民の不満解消に向け、改革よりも貿易など経済復興を第一義的な目的とすべきこと。日本の講和独立を視野に入れ警察(軍事力)を強化する、また沖縄・横須賀の米軍基地は確保しつつ、GHQの権限をできるだけ日本政府に移譲すること。」を旨とする日本統治戦略の大幅緩和を指示した。「軍事は解体」「経済も解体」「民主化は促進」で日本解体に励んできたマッカーサーが面白いはずはなく、特に再軍備には強硬に反対し憲法9条に基づく非武装国家の永続を強調して激しく楯突いた(講和独立・GHQ廃止後も吉田茂はマッカーサーに殉じて再軍備反対に固執し、米政府に見捨てられる)。トルーマン大統領は、ロイヤル米陸軍長官演説(占領経費削減と「反共の防波堤」構築のため、日本経済の破壊から自給自足促進への戦略転換を提言)や「ジョンストン=ドレイパー報告」を支援材料に足場を固め、1948年10月「国家安全保障会議文書」により破壊から復興への日本統治戦略の180度転換を正式決定した。
- 民政局の翻意で平野力三農省の罷免を強いられ社会党左派内の支持を失った片山哲内閣が退陣し、連立与党の民主党党首である芦田均が後継首相に就任した。反共・軍事優先の参謀第2部(G2)と日本の社会主義的民主化を進める民政局(GS)によるGHQの内部対立は、東西冷戦の緊迫化に伴い日毎に先鋭化しつつあったが、ソ連の「ベルリン封鎖」を機に米国内で反共闘争路線が優勢となり民政局の凋落が明らかになった。G2のウィロビー部長はマッカーサーを抱込んで追討ちを掛け、配下の東京地検特捜部を動員し「昭和電工疑獄」を摘発、民政局員の多くを贈賄容疑にかけ失脚させた。G2の意を受けた読売新聞や朝日新聞は過剰な弾劾報道で昭和電工疑獄を煽り立て、G2が民政局寄りと敵視する芦田均内閣も巻添えを喰い、西尾末広社会党書記長の逮捕で総辞職に追込まれた。外交官出身の芦田均は、外務省同期の重光葵と同様に自主外交を模索し吉田茂の極端な従米路線を否定、外務省の後輩に脱米国依存の研究を示唆し、片山哲内閣の外相として米軍の「有事駐留」を提唱したことでGHQに警戒されていた。後継首相には野党第一党・民主自由党党首の吉田茂が就くのが「憲政の常道」であったが、G2子飼いの吉田を嫌うケーディス民政局次長は最後の抵抗を試み、民主自由党副総裁の山崎猛を擁立し民政局の傀儡政権に仕立てようと企てた(山崎猛首班工作)。が、ウィロビー部長のG2は猛反撃でケーディスの陰謀を葬り第二次吉田茂内閣を樹立、ケーディスはワシントンで占領政策不変更を訴えたが相手にされず、万策尽きて翌1949年5月3日の憲法記念日に民政局次長を辞任した(ケーディスは日本国憲法の作成者)。さて昭和電工疑獄の顛末だが、芦田均元首相のほか大蔵省主計局長の福田赳夫ら多くの官僚と政治家が逮捕され14年半も費やした裁判の末に1962年最高裁判決が下されたが、なんと実刑判決ゼロ・執行猶予付き懲役刑21名・芦田も福田も無罪というお粗末な結果となり、G2=東京地検特捜部の「国策捜査」が明白となった。
- 東西冷戦が緊迫化する世界情勢のなか、トルーマン米政府は「トルーマン・ドクトリン」「マーシャル・プラン」で共産主義勢力への対決姿勢を鮮明にしたが、ロイヤル米陸軍長官の演説を機に政軍有力者の間で日本経済を復興させ「反共の防波堤」にすべしとの機運が高まった。訪日調査したドレーパー米陸軍次官(日独占領政策担当)は、戦前比で鉱工業生産45%・輸入30%・輸出10%にまで落込んだ日本経済を「死体置き場(モルグ)」と表現し過酷な懲罰政策の緩和を米政府に勧告した。ソ連の「ベルリン封鎖」で冷戦が風雲急を告げ、「ソ連への対抗上、日本の経済力・工業力を利用すること」がアメリカの国益に資すると判断したトルーマン政府は、1948年10月「国家安全保障会議」による「アメリカの対日政策に関する勧告」(NSC13/2)を承認し、破壊から復興への日本統治戦略の180度転換を正式決定した。政府の決定を受けたGHQは、破壊から経済復興促進へ政策を転換し、ソ連に対抗するには人材が必要との判断により1951年戦犯釈放・公職追放解除に踏切り「レッド・パージ」へ切替えた。朝鮮戦争勃発で「反共の防波堤」の要請は一層高まり、アメリカは日本の経済力・工業力だけでなく軍事力も利用すべく策動を始めた。こうした米政府の路線転換は「軍事は解体」「経済も解体」「民主化は促進」で進んできたマッカーサーの占領政策を完全否定するものであり、GHQとトルーマン大統領・国防省との確執が深刻化、「日本の軍事力も強化してアメリカの安全保障に貢献させる」という政府方針を巡って対立は沸点に達し、GHQ傀儡の吉田茂政権を操り「奴隷」を相手に「世界史上最高の権力」を自賛したマッカーサーは遂に解任された。トルーマン大統領から日本経済復興を託されたデトロイト銀行頭取のドッジは性急な超緊縮財政を吉田茂首相・池田勇人蔵相に押付け、深刻なデフレ不況を引起し復興途上の日本経済は壊滅の危機に瀕したが(ドッジ・ライン恐慌)、朝鮮戦争の米軍特需で一気に蘇生し奇跡の高度経済成長が始まった。平和憲法を奉じる戦後日本は、皮肉にも米ソ冷戦と朝鮮戦争によりアメリカの破壊政策から救われた。
- トルーマン米政府は1948年10月「ソ連への対抗上、日本の経済力・工業力を利用すること」に決め対日政策を破壊から復興へ180度転換したが、米軍は更に踏込んで「日本の軍事力も強化してアメリカの安全保障に貢献させる」方針を定めた。「軍事は解体」「経済も解体」「民主化は促進」で占領統治を行ってきたマッカーサーのGHQは抵抗したが、1949年ソ連の核実験成功と翌年の朝鮮戦争勃発でトルーマン米政府も日本の再軍備に傾き、朝鮮半島に出動した米軍とほぼ同数の7万5千人からなる「国家警察予備隊」を創設、国務省政策顧問のジョン・フォスター・ダレスを講和特使として日本へ派遣し吉田茂首相に再軍備を促した。再軍備絶対反対の吉田茂は「たとえ非武装でも世界世論の力で日本の安全は保障される」と夢物語を唱え、ダレスをして「不思議の国のアリスに会ったような気がする」と呆れさせたが、親分のマッカーサーに泣きつきこの場は事を収めた。が、トルーマン大統領との対立が決定的となりマッカーサーがGHQを解任されると(ウィロビー参謀第2部長も退官)、吉田茂首相は後ろ盾を失い日本の再軍備を阻む勢力は無くなった。1951年9月8日サンフランシスコ講和条約調印で日本は占領統治からの独立を許されたが、吉田茂首相は講和条約とセットの日米安保条約・行政協定により在日米軍の常時駐留と日本政府による基地費用負担の継続を呑まされた。アメリカ主導で日本の再軍備・増強も着々と進められ、公職追放を解かれた旧軍人が続々と軍務に復帰して幹部に納まり、1954年7月1日をもって国家警察予備隊は常設軍隊の「自衛隊」へ改組された。吉田茂は猶も再軍備に反対し続けたが、アメリカは「軍備をサボタージュする古狐」を切捨て再軍備を掲げる鳩山一郎内閣の発足を容認した。陸海空の自衛隊は権限と装備の両面で「専守防衛」の枠に縛られつつも米ロ中に次ぐ軍事力を誇る「軍隊」へ発展したが、核兵器の無い軍隊は画竜点睛を欠き、2015年現在も日米安保条約は不平等なまま米軍の常時駐留と膨大な費用負担・自衛隊兵器の対米依存から抜出せずアメリカが「保護国」と呼ぶ半独立状態が続いている。
- 1950年6月25日、北朝鮮軍が突如砲撃を開始し38度線を越えて韓国領内に侵入、朝鮮戦争が勃発した。首都ソウルはあっという間に陥落し、準備不足の韓国軍は忽ち追い詰められて半島南端の釜山周辺にまで追込まれた。これに先立つ1949年12月、アメリカ国家安全保障会議は南朝鮮からの撤退を決定し、アチソン国務長官は演説の中で「アメリカの防衛ラインは、アリューシャン列島から日本列島、沖縄をへてフィリピンに至るライン」であり朝鮮半島は防衛ライン外であることを明言していた。ソ連のスターリンは、この情報を掴んでアメリカの参戦はないと判断し北朝鮮軍を進発させた可能性が高い。しかし、アメリカは即座に政策を転換し「国連軍」を急遽編成して戦線に投入、圧倒的火力により10月20日には北朝鮮の首都平壌を占拠し、その5日後には中国国境の鴨緑江付近まで攻め上った。慌てたスターリンは建国宣言間もない中国に参戦を要請、血気の毛沢東は「人民義勇軍」を派遣して人海戦術で連合軍を38度線付近まで押し戻した。その後は戦線が膠着し、1953年7月27日に板門店で休戦協定が調印され、38度線が国境となった。朝鮮戦争の犠牲者は、国連軍側17万2千人・共産軍側142万人とされるが、軍人を遥かに凌ぐ一般市民が犠牲となり、その数は400万人とも500万人といわれ、米・中ソの代理戦争は日韓併合時代と比較にならない惨禍をもたらした。一方、日本にとっては、外貨収入の3割に及ぶ膨大な「朝鮮特需」が産業界を蘇生させたうえ、「反共の防波堤」構築・日本経済の破壊から復興への180度戦略転換というアメリカの対日政策を決定的なものにし、経済大国化へ向けた最大の転換点となった。さらに、アメリカは「日本の軍事力も強化してアメリカの安全保障に貢献させる」方針へ傾斜を強め、国家警察予備隊(自衛隊)創設に続いて再軍備反対に固執するマッカーサーを罷免し、日本の占領終結後も米軍の常時駐留と日本政府による基地費用負担を継続させるため、従米派吉田茂内閣との間で講和条約とセットで日米安保条約交渉を開始、吉田茂後も磐石の従米路線を維持するため策動を強化した。
- 1951年9月8日、日本と交戦国48カ国代表の調印によりサンフランシスコ講和条約が締結され、翌1952年4月28日の条約発効をもってGHQによる軍事占領は終結し日本は主権を回復した。ソ連は出席したが調印を拒み、中国と中華民国(台湾)は招待されず、インドは参加を拒否した。米軍部は日本の占領を続けたかったはずだが、日本政府から膨大な「戦後処理費」を吸上げつつも、占領経費負担は米国財政をも圧迫し世論は占領中止に傾いていた。そこでトルーマン米政府は、ダレス講和特使を日本に派遣して、講和独立を認める代わりに、在日米軍特権の恒久的継続を迫り、これを吉田茂内閣が受入れて日米安全保障条約が結ばれた。講和条約の調印式が華麗なオペラハウスで行われたのに対して、安保条約の方は占領軍基地内の下士官クラブ、しかも署名者は米国側4名に対して日本側は吉田茂首相のみという異様さであった。さらに、国会審議や批准手続きを要する安保「条約」からは当然問題視されるべき米軍駐留のあり方の取り決めが省かれ、政府間合意で足りる行政「協定」を別途締結して、基地の継続使用・米軍関係者の治外法権・有事における統一指揮権(日本軍が米軍の指揮下に入る)といった都合の悪い事項を入れ込んだ。日本全土における米軍基地の自由使用と治外法権まで認めたうえに、日本政府による米軍基地経費負担も継続される一方で、アメリカは日本の防衛義務は負わないとする極めて不平等な内容であり、対等な主権国家同士の条約と呼べる代物ではなかった。そして1960年、岸信介内閣が不平等を是正すべく条約改正に挑んだが、吉田茂の従米路線後継者と「安保闘争」によって妨害され、「集団的自衛権」を建前に双務的体裁を整えた「新安保条約」には漕ぎ着けたものの、本丸の行政協定には踏込めず「地位協定」と改称しただけに終わった。新安保成立後岸信介内閣は退陣したが、新安保の期限を10年とし以降は1年前予告で一方的に破棄できる条項をねじ込み、「真の独立」の課題を次代へ託した。が、その後の内閣において条約破棄権行使も条約改正交渉も行われることなく現在に至っている。
- 吉田茂首相が推し進める日米行政協定の案策作業の過程で、大蔵省幹部の宮澤喜一はアメリカが日本の同意なく自由に米軍基地の立地を選定できる点に異議を唱え「講和が発効して独立する意味がないにひとしい」と当該規定の削除を外務省に申入れた。宮澤喜一の指摘は至極当然であったが、吉田茂の腹心で日米安保・行政協定交渉担当大臣の岡崎勝男は姑息な隠蔽工作でウヤムヤにした。宮沢喜一曰く「この規定は行政協定そのものからは姿を消したが、『岡崎・ラスク交換文書』のなかには、そのままこの規定が確認されていて、しかも私がそれを知ったときは、すでに行政協定は両国のあいだで調印を終わっていた」。この直後、外相を兼任していた吉田茂首相は岡崎勝男に外相を譲り犬馬の労に報いている。
- GHQのやりたい放題を受入れ続けた吉田茂首相であったが、あまりに急激な米政府の「日本の軍事力も強化してアメリカの安全保障に貢献させる」方針への転換についていけず、親分のマッカーサーが解任された後も米政府からの再軍備要請に難色を示し続けた。一方、日本国内では、講和独立後初の総選挙で鳩山一郎ら公職追放解除者が衆議院議席の42%を占め、鳩山派と吉田派の勢力は逆転していた。鳩山一郎は、自主路線の代表的政治家であり、1946年には組閣を目前にしながらGHQに睨まれて公職追放に遭い首相の座を吉田茂に譲り渡したが、追放解除後に政界復帰し、米軍占領からの真の脱却を図るため重光葵と共に積極的な再軍備を主張していた。重光葵は、鳩山一郎と同じく自主路線故にA級戦犯として有罪判決を受け4年7ヶ月も獄に繋がれたが、戦犯釈放により政界復帰を果した吉田茂の宿敵であった。こうした状況のもと、日本の再軍備を優先するアメリカは長年忠勤に励んだ吉田茂を「軍備をサボタージュする古狐」とあっさり切捨て、鳩山一郎首相・重光葵外相の内閣発足を容認した。憲法改正・再軍備・自主外交(中ソ外交)を掲げて発足した鳩山一郎内閣は、吉田茂内閣が言われるがままに差し出してきた「防衛分担金」の削減交渉を成功させ、ダレス米国務長官に一蹴されはしたが在日米軍撤退・防衛分担金廃止提案を行い、アメリカが日ソ分断のために埋め込んだ北方領土問題を乗越えて悲願の「日ソ国交回復」を達成、これを花道に退陣した。その僅か1ヵ月後、自主外交の旗手としてアメリカに対抗し続けた重光葵は謎の突然死を遂げた。
- 第二次大戦後、政友会の幹部だった鳩山一郎は残党を集めて日本自由党を結成した。1946年新選挙法に基づく初の衆議院総選挙で自由党は最多議席を獲得、鳩山一郎総裁の首相就任は確実であったが、GHQの露骨な横槍で公職追放に遭い吉田茂に首相の座を預けた。1951年アメリカの対日戦略転換で公職追放が解除され、政界に復帰した鳩山一郎の派閥は吉田茂と自由党を二分する勢力となったが、「君の追放が解けたらすぐにでも君に返すよ」と述べた吉田は政権を離さず鳩山に「首相禅譲密約」までして首相に居座った。吉田茂が密約も反故にすると、1954年鳩山一郎は反吉田勢力を結集して日本民主党を結成し(重光葵副総裁・岸信介幹事長)内閣不信任案を提出、再軍備反対に固執しアメリカの信任も失った吉田は轟々たる非難のなか首相続投を断念した。1955年「憲法改正・再軍備・自主外交(中ソ外交)」を掲げ発足した鳩山一郎内閣は、「鳩山ブーム」を背景に総選挙を実施するも絶対多数の獲得には至らず、改憲と再軍備は棚上げして外交に専念する方針を採った。鳩山一郎首相は、民主党と自由党の「保守合同」で政権基盤を固め(55年体制)ソ連フルシチョフ政権との交渉に乗出したが、アメリカが日ソ離間のために仕組んだ「北方領土問題」があるうえ、重光葵外相と外務省は反ソ反共、保守合同で取込んだ外交従米の吉田茂派も対ソ強硬論を主張し与党内の意見調整も難航した。ダレス米国務長官は「日本が千島列島に対するソ連の主権を承認した場合は、アメリカは沖縄に対する完全な主権を行使する」と恫喝したが、1956年鳩山一郎首相は病躯を押してモスクワに乗込み「日ソ共同宣言」を達成(日ソ戦争終結)、帰国の翌日「日ソ国交回復lを花道に勇退を表明した。政治的妥協の結果北方領土問題は先送りされたが、鳩山一郎首相は日本人抑留者(シベリア抑留)の釈放・帰国を引出し、ソ連の拒否権を封じたことで国際連合加盟も果した。鳩山一郎首相・重光葵外相はソ連以外の外交問題にも意欲的に取組み、アジア・アフリカ会議に参加し、中国政府との貿易協定を前進させ、東欧諸国との関係正常化も果している。
- 原子力行政の進展も再軍備を掲げた鳩山一郎政権の見逃せない業績である。日本の原子力行政は1953年「原子力の平和利用」を提唱したアイゼンハワー米大統領演説に端を発し、翌年日本漁船がビキニ環礁でアメリカの水爆実験に遭難する「第五福竜丸事件」が起ると、電源開発が死活問題の日本産業界と日本の反米反核世論を封じたいアメリカ(当初は原発輸出の意図はなかったが)の思惑が一致し露骨な世論操作と行政介入が始まった。第五福竜丸事件の直後、アメリカの意を受けた中曽根康弘らが初の原子力予算案を衆議院に提出し、米CIAに近い正力松太郎の読売新聞は「原子力の平和利用」を喧伝し「原子力平和利用博覧会」に37万人もの来場者を集めた。なお1923年の関東大地震で、朝鮮人が暴動を企てているとか井戸に毒を投げ込んだというデマが飛び交い多くの朝鮮人が殺害されたが、デマ騒ぎの首謀者は警視庁官房主事の正力松太郎であったとされる。直後に摂政宮狙撃事件(虎ノ門事件)が起り警備責任者の正力松太郎は懲戒免官となったが、帝都復興院総裁の後藤新平らの資金援助で読売新聞社を買収し、大政翼賛会総務・貴族院議員を経て第二次大戦後CIAに取込まれ中曽根康弘の盟友となった。さて吉田茂から鳩山一郎へ政権が移った1955年、中曽根康弘の主導で「原子力の平和利用」促進のための「原子力基本法」が成立し「原子力委員会」が発足、産業界の期待を担い正力松太郎が初代委員長に就任した。1956年「日本原子力研究所」(茨城県東海村)が創設され、翌年鳩山一郎内閣は原子力政策を担う「科学技術庁」を設置し正力松太郎を初代長官に任命、電力9社および電源開発の出資で「日本原子力発電株式会社」が発足した。なお、俗物の正力松太郎を嫌うノーベル物理学賞学者の湯川秀樹は原子力委員会委員を辞任している。1963年10月26日(原子力の日)日本原子力研究所が原子力発電に成功し日本各地で原発建設計画が始動、イギリスの対日原発輸出で米政府も容認へ転じGEやWestinghouseが参入(福島第一原発はGE製)、正力松太郎は「原子力の父」の称号を得たが主導権を失い目的の首相就任は果たせなかった。
- 東大法学部から外務省本流へ進んだ重光葵は「過大な人口を抱え成長を続ける日本は中国と提携する他ない」と平和的日中提携を提唱、対英米協調・対中不干渉の幣原喜重郎に属し、傍流の中国勤務を志願して融和政策を推進したが、松岡洋右・白鳥敏夫・大島浩ら強硬派外交官から「軟弱外交」と罵倒され、武力行使容認の広田弘毅・吉田茂ら「大陸派」の支持も得られず、満州事変で「幣原外交」は瓦解した。それでも中国公使の重光葵は上海事変講和に奔走したが、1932年「上海天長節爆弾事件」で右脚切断の重傷を負った。奇跡的に快復した重光葵は翌年外務次官に昇進し駐ソ連大使・駐英大使を歴任、対英米関係の破綻を招く日独同盟に反対し、欧州戦争に関与せず日中戦争解決と関係再構築に専念すべしと繰返し訴えたが、軍部と大衆に迎合する近衛文麿・広田弘毅・松岡洋右らは耳を貸さず日中戦争を泥沼化させ日独伊三国同盟を断行、東條英機内閣が対米開戦へ追込まれた。重光葵は中国(汪兆銘政権)大使を経て1943年外相に就任、「大東亜会議」で日本の正義を訴えたが戦局は悪化の一途を辿り、木戸幸一ら講和派に与し小磯國昭内閣を総辞職に追込んだ。ポツダム宣言受諾の3日後に東久邇宮稔彦王内閣が発足し、外相に復帰した重光葵は天皇と政府を代表して米戦艦ミズーリ艦上の降伏文書調印式に臨んだ。日本国中がGHQへの追従で染まるなか、孤軍奮闘の重光葵は「英語を公用語に」「米軍票を通貨に」という不条理な布告を撤回させたが、GHQの走狗と化した吉田茂への外相交代を強いられ東京裁判で禁固7年の判決を受けた。1951年講和条約の恩赦で釈放された重光葵は衆議院議員となり、1954年反吉田茂連合の民主党に副総裁で加盟し鳩山一郎内閣の外相兼副総理に就任、憲法改正・再軍備・自主外交(中ソ外交)を推進した。重光葵外相は吉田茂内閣で膨張した「防衛分担金」の削減に成功したが、在日米軍撤退・防衛分担金廃止はダレス米国務長官に一蹴され、日ソ国交回復と国際連合加盟を花道に鳩山一郎内閣は退陣した。その1ヵ月後、アメリカの不条理に抗い自主外交を牽引した重光葵は69歳で急逝、謎の突然死であった。
- 申請から5年を経て漸く日本の国際連合加盟を果した重光葵外相は、1956年12月国連総会に出席し見事な演説を行った。重光葵は喜びと感謝を述べたあと、日本国憲法と国連憲章の平和に関する理念は完全に一致しており日本は国連に積極的に貢献することを約束し、右のように演説を締めくくった。「日本は世界の通商貿易に特に深い関心を持つ国でありますが、同時にアジアの一国として固有の歴史と伝統とを持っている国であります。日本が昨年バンドンにおけるアジア・アフリカ会議に参加したゆえんも、ここにあるのであります。同会議において採択せられた平和十原則なるものは、日本の熱心に支持するところのものであって、国際連合憲章の精神に完全に符合するものであります。しかし、平和は分割を許されないのであって、日本は国際連合が、世界における平和政策の中心的推進力をなすべきものであると信ずるのであります。わが国の今日の政治、経済、文化の実質は、過去一世紀にわたる欧米及びアジア両文明の融合の産物であって、日本はある意味において東西のかけ橋となり得るのであります。このような地位にある日本は、その大きな責任を十分自覚しておるのであります。私は本総会において、日本が国際連合の崇高な目的に対し誠実に奉仕する決意を有することを再び表明して、私の演説を終わります」。覇権国家アメリカは「東西のかけ橋」を望まなかったのか、帰国した重光葵には謎の突然死が待構えていた。
- 「自主外交」の旗手にして吉田茂の宿敵・重光葵は、鳩山一郎内閣で10年ぶりに外相に返咲くと再びアメリカの理不尽に立向かった。1955年4月「防衛分担金を178億円(国家予算の約2%)削減し、その分を防衛予算増額に充当する」との日米合意を成功させた重光葵外相は、同年7月アリソン駐日大使に「米国地上軍の6年以内撤退、その後6年以内の米国海空軍撤退、在日米軍支援のための防衛分担金の廃止」を提案、翌月には岸信介民主党幹事長と河野一郎農商を伴って渡米しダレス国務長官との直談判に挑んだ。「対等国」として安保改定を求める重光葵をダレスは一蹴、岸信介の回想によると「ダレスは、重光君、偉そうなことを言うけれど、日本にそんな力があるのかと一言のもとにはねつけたというのが実情」であった。また河野一郎が著書に曰く「ダレスの言った趣旨はこうだ。日本側は安保条約を改定しろというけれど、日本の共同防衛というのは、今の憲法ではできないではないか。日本は海外派兵できないから、共同防衛の責任は日本が負えないではないか。・・・ダレスさんからやっつけられると、重光さんは立上がって、『どこの国の憲法にはじめから侵略的な海外派兵を肯定している憲法がありますか。アメリカの憲法と日本の憲法と比べてみて、この点についてどこがちがうか』(と主張した)。こうした緊張感のなかで重光さんの態度は堂々としている。やはり戦前の外交官は見識をもっている。」・・・結局、重光葵外相の気魄も老練なダレス国務長官には通じなかったが、条件付ながら「現行の安全保障条約をより相互性の強い条約に置きかえる」との日米合意を引出し、後の岸信介内閣による安保改定交渉への足掛りを築くことはできた。翌1956年12月鳩山一郎内閣は「日ソ国交回復」を花道に退陣、国際連合加盟を果し総会演説で有終の美を飾った重光葵は笑顔で「もう思い残すことはない」と語り外相を退いた。その僅か1ヵ月後、69歳にして健康体の重光葵は湯河原の別荘で好物のスキ焼きと餅を食し床に就いたが、間もなく腹痛を訴えて苦しみ始めそのまま息を引取ったという。重光葵の原因不明の突然死により、日本の自主外交は大きく後退した。
- 日ソ国交回復を花道に退陣した鳩山一郎に代わり与党自民党の総裁を引継いだ石橋湛山が組閣した(早稲田大学出身の首相第1号)。自民党総裁選で石橋湛山は次点だったが1位の岸信介が過半数を得られなかったため両者の決選投票が行われ、3位石井光次郎の票を吸収した石橋が逆転勝利を収めた。戦前『東洋経済新報』の記者だった石橋湛山は、紛争の元である海外領土の放棄を主張し(小日本主義)統帥権濫用批判など軍部を相手に堂々と平和主義の論陣を張った硬骨の言論人であった。第二次大戦後、石橋湛山は政界へ転じ第一次吉田茂内閣の蔵相として「傾斜生産方式」導入や復興金融公庫設立などに辣腕を振るったが、アメリカに「戦後処理費」(米軍駐留費負担)の削減を要求し公職追放の憂き目をみた。1951年公職追放解除で政界復帰した石橋湛山は自民党に加盟し、鳩山一郎内閣の通産相として「自主外交」を推進した。戦時中に軍部の弾圧にも屈さなかった石橋湛山は、首相に就任すると「アメリカのいうことをハイハイ聞いていることは、日米両国のためによくない。米国と提携するが向米一辺倒ではない」と述べ自主外交政策を推進、因縁の米軍駐留問題に着手すると同時に「日本が中国について、アメリカの要請に自動的に追従していた時代は終わった」と日中国交回復にも踏込む構えをみせた。党派を超え新時代幕開けへの期待が高まったが、石橋湛山首相は不用意に米軍駐留問題・中国問題というアメリカの「虎の尾」を踏んでしまった。突如肺炎を発症した石橋湛山首相は施政方針演説と質疑応答もできない重体に陥り、僅か2ヶ月で退陣し岸信介に政権を譲った。主治医の診断は「体重の異常な減り方が、肺炎でやせたものとしては理解ができない」「極めて不自然な病気」というもので、間もなく快復した石橋湛山は首相辞任後15年も命を保った。
- ドワイト・D・アイゼンハワーは連合国遠征軍最高司令官を務めた陸軍人で「第二次世界大戦の英雄」として米大統領に就任した人物だが、大統領退任演説において初めて「軍産複合体(MIC)」を世に表しその危険性を警告した・・・「第二次世界大戦まで、合衆国は兵器産業を持っていなかった。アメリカの鋤製造業者は、時間があれば、必要に応じて剣も作ることができた。しかし今や我々は、緊急事態になるたびに即席の国防体制を作り上げるような危険をこれ以上冒すことはできない。我々は巨大な恒常的兵器産業を作り出さざるをえなくなってきている。これに加え、350万人の男女が直接国防機構に携わっている。我々は、毎年すべての合衆国の企業の純利益より多額の資金を安全保障に支出している。・・・「軍産複合体」の経済的、政治的、そして精神的とまでいえる影響力は、全ての市、全ての州政府、全ての連邦政府機関に浸透している。我々は一応、この発展の必要性は認める。しかし、その裏に含まれた深刻な意味合いも理解しなければならない。・・・「軍産複合体」が、不当な影響力を獲得し、それを行使することに対して、政府も議会も特に用心をしなければならぬ。この不当な力が発生する危険性は、現在、存在するし、今後も存在し続けるだろう。この軍産複合体が我々の自由と民主的政治過程を破壊するようなことを許してはならない」。なおアイゼンハワー大統領は、個人的に岸信介首相を支持し日本の自主独立路線に寛容な態度を示したことでも知られる。1960年岸信介内閣との間で日米安保条約を更改したアイゼンハワーは、米大統領として初めて訪日する予定であったが「安保闘争」に阻まれ実現しなかった。ケネディ・ジョンソン・ニクソンを経て1974年田中角栄内閣でフォード米大統領が初来日を果し、以後オバマに至るまで歴代大統領は全て来日している。
- 「謎の発病」で退陣した石橋湛山に代わり自民党総裁を引継いだ岸信介が組閣した。「昭和の妖怪」岸信介は謎が多く真意が見えにくいが、アメリカの一枚上手を行く稀有な政治家であった。戦前の岸信介は統制経済を牽引した「革新官僚」で満州国総務庁次長として「弐キ参スケ」に数えられ、東條英機内閣の商工大臣を務めたことでA級戦犯容疑で投獄された。しかし獄中で岸信介が予見した通り東西冷戦に伴うアメリカの対日政策変更で不起訴のまま釈放され、1951年公職追放解除で政界に復帰した。社会党に拒まれた岸信介は実弟の佐藤栄作を頼り自由党に入るも吉田茂の従米路線に反対し除名処分、反吉田勢力が結党した日本民主党に加わり鳩山一郎総裁・重光葵副総裁に次ぐ幹事長に就任した。一方、岸信介は米国要人にも人脈を広げ国務長官・CIA長官のダレス兄弟と親密になりアイゼンハワー大統領にも食込んだ。1955年「保守合同」に際しダレス国務長官は保守政党への財政支援を示唆しCIAから巨額の資金が供与されたが(200万ドルとも1000万ドルとも)、受取り手の中心は岸信介であった。従米派とみられた岸信介首相はアメリカの期待に応え再軍備を推進したが、「戦前の大日本帝国の栄光を取り戻す」べく日米安保条約の不平等是正に挑みアジア重視の外交政策(外交三原則)に取組んだ。アイゼンハワー大統領は「安保改定」に理解を示したが米軍とCIAは岸信介政権を危険視し、池田勇人・三木武夫ら自民党従米派と「安保闘争」の妨害で本丸の日米行政協定には踏込めずに終わった。「新安保条約」成立直後に岸信介内閣は退陣したが安保闘争も忽ち終息、「学生運動指導者らに確たる目的はなく、従米派の政治家・財界人・新聞各社が岸信介内閣打倒のために仕掛けた扇動工作」との説が説得力を持った。岸信介は新安保の有効期限を10年に区切り以降は1年前予告で破棄できる条項をねじ込み「真の独立」を次代へ託したが、佐藤栄作以後の内閣は不変更新を続ける。2015年安倍晋三内閣は「集団的自衛権」を合法化したが、祖父の岸信介が目指した双務的体裁の実質化・米軍撤退・軍事的独立への再挑戦と信じたい。
- 長州出身の岸信介は吉田松陰と高杉晋作に憧れて勉学に励み、東大法学部に進学すると北一輝や大川周明の社会主義的右翼思想に啓発され、美濃部達吉の「天皇機関説」を糾弾した上杉慎吉東大助教授に師事した。優等生の岸信介は東大残留を勧められたが国事を志して官界へ進み、花形官庁の内務省ではなく農商務省(→商工相)を選択した。なお、松岡洋右(満鉄総裁→外相)と鮎川義介(日産創業者・満州重工業開発社長)は岸信介の親戚で、実弟の佐藤栄作は東大法学部へ進んだが岸信介ほど優秀ではなく鉄道官僚の傍流を歩んだ。さて優秀な岸信介は順調に昇進し、1936年満州国国務院へ転出して産業部次長・総務庁次長を務め、星野直樹国務院総務長官のもと「産業開発五ヵ年計画」を策定し統制経済を主導した。岸信介は若輩ながら星野直樹・松岡洋右・鮎川義介・東條英機(関東軍参謀長)ら大物と並んで満州国の「弐キ参スケ」に数えられ、軍部・官僚・財界に広範な「満州人脈」を築き、瀬島龍三・笹川良一・児玉誉士夫・里見甫ら怪しい人脈とも交流した。1939年「革新官僚」の旗手となった岸信介は凱旋帰国し商工次官に昇進したが、統制経済を嫌う小林一三商工相(阪急東宝グループ創業者)と対立し、軍部と平沼騏一郎が仕掛けた「企画院事件」で小林を辞任に追込むも喧嘩両成敗で商工次官辞任に追込まれた。が、「国家総動員体制」を目指す陸軍統制派と同志関係の岸信介は失脚を免れ、第二次近衛文麿内閣の入閣要請は謝辞したが東條英機内閣で商工相を拝命、「翼賛選挙」で衆議院の議席も得た。しかし1943年、戦局悪化により商工省が軍需省へ改組されると東條英機首相が軍需相を兼任、岸信介は無任所国務大臣に留まるも軍需次官に降格された。太平洋戦争で日本の敗戦が決定的となり、降格人事を恨む岸信介は木戸幸一・岡田啓介・米内光政ら重臣の東條英機内閣打倒工作に加担、閣僚辞任を拒否して内閣改造を阻み総辞職へのトリガー役を果した。
- 岸信介は「昭和の妖怪」の渾名どおり常人には善悪の判別が難しいキャラクターだが、天才的智謀と愛国的信念の持主であったと思われる。戦前の岸信介は「革新官僚」の中心人物として統制経済を提唱し、「国家総動員体制」の陸軍統制派や「大政翼賛会」の近衛文麿首相と同志的関係にあり、東條英機内閣で商工相に補されたが、敗戦が決定的になると閣内不一致で東條内閣を退陣へ追込んだ。岸信介が満州国で行った壮大な実験的経済政策は成功を収め、戦後「傾斜生産方式」に代表される官僚主導の計画経済へ受継がれ日本復興の原動力となった。「開戦内閣」閣僚の岸信介はA級戦犯容疑で巣鴨プリズンに収監されたが、獄中にあってソ連の機関紙『プラウダ』などを入手して情報分析に励み、東西冷戦の激化に伴うアメリカの対日占領政策の変化を正確に予見していた。岸信介は『獄中日記』に「冷戦が起り始めている。このまま米国とソ連の対立が進めば、米国は自分を使いにくるだろう」と書き留め、後年「冷戦の推移は、巣鴨でのわれわれの唯一の頼みだった。これが悪くなってくれば、首を絞められずにすむだろうと思った」と述懐している。公職追放解除で政界復帰を果した岸信介は、米国要人に接近してアイゼンハワー大統領やダレス国務長官に食込み、CIAから巨額の資金援助を引出して「保守合同」を実現したが、首相に就任するとアメリカが嫌がるアジア重視の自主外交(外交三原則)を掲げ不平等安保の改定に挑戦した。猖獗を極めた「安保闘争」は岸信介内閣の総辞職で忽ち終息したが、打倒目標は日米安保条約より理解し難い岸首相個人だったのかも知れない。
- 従米派と見られた岸信介はアメリカの期待を担って組閣したが、首相に就任すると「国際連合中心・自由主義諸国との協調・アジアの一員としての立場の堅持」という「外交三原則」を掲げ自主外交に乗出した。岸信介は首相として初めて東南アジアおよびオセアニアの諸国を歴訪し、アメリカを刺激しかねない「東南アジア開発基金構想」を提唱した。岸信介首相の歴訪で戦争賠償問題は大きく前進しインドネシア・ラオス・カンボジア・南ベトナムと相次いで賠償協定を締結し国交回復を達成、日本政府が賠償額に相当する生産物やサービスを日本企業から調達し相手国に供与する方式を採ったため日本企業の東南アジア「再進出」にも道を拓いた。また岸信介首相は国際連合中心主義を実践し1958年日本は初めて国連安全保障理事会の非常任理事国となっている。岸信介は自民党きっての「親台湾派」「親韓国派」で退陣後も頻繁に両国を訪問、満州国以来旧知の朴正煕韓国大統領と池田勇人首相の間を取持ち日韓国交回復をサポートした。なお、軍事クーデターで発足した朴正煕政権は、国家予算を上回る日本の経済援助(日韓併合で同じ国だったので戦争賠償はありえない)で韓国経済を再建し李承晩が敷いた無闇な反日原理主義を改め本来の敵である反共反北へ舵を切ったが、盧泰愚の失脚で真当な軍事政権は終わり、金泳三以後の親北政権は教育により反日をエスカレートさせ「従軍慰安婦」と「靖国参拝」に特化した朴槿恵(父朴正煕の親日政策を自己批判)の反日専門政権へ至る。
- 池田勇人は戦後公職追放で浮上した「三等重役」の出世頭、外務省傍流からGHQ傀儡政権に君臨した親分の吉田茂と似た経歴である。池田勇人は京大法学部から大蔵省へ進み税務畑を歩んだが、4年目に難病に罹り2年の休職期間を経て退官、5年間も死線を彷徨い看病疲れの新妻を亡くした(のち再婚)。奇跡的に快復した池田勇人は大蔵省に復職したが新採扱いで出世レースに乗遅れ、後年「総理大臣になったときよりも、国税課長になったときの方がうれしかった」と追想している。とはいえ大蔵省枢要の主税局長で終戦を迎えた池田勇人は、公職追放の嵐のなか消去法的に地位を高め石橋湛山蔵相に気に入られ大蔵次官に栄達、吉田茂の愛弟子となり1949年の総選挙で衆議院議員に転身した。1年生議員ながら第三次吉田茂内閣の蔵相に大抜擢された池田勇人は、超緊縮財政「ドッジ・ライン」の指揮を執り、吉田首相の密命で渡米し「単独講和」を申入れるなど外交にも活躍した。通産相に転じた池田勇人は、自ら招いたドッジ・ライン恐慌のなか「貧乏人は麦を食え」「中小企業の倒産・自殺やむなし」の失言で辞任に追込まれたが、自由党要職に留まり吉田茂の「保守本流」を引継いで「宏池会」を結成、石橋湛山内閣で蔵相に復帰し、「安保闘争」に乗じて岸信介内閣を倒し1960年後継首相に就任した。吉田茂の「経済優先・外交従米」を踏襲した池田勇人首相は「寛容と忍耐」で安保問題を棚上げし「所得倍増計画」に邁進、1954年に始まった「高度経済成長」に乗り日本はアメリカに次ぐ経済大国へ躍進した。下村治経済顧問ら腹心の産業政策は効果を現し、池田勇人首相はド・ゴール仏大統領から「トランジスタラジオのセールスマン」と揶揄されつつ「冷戦の論理」でGATT11条国・IMF8条国への移行を押通し、1964年OECD加盟で日本経済の国際社会復帰を達成した。「経済自主」を掲げる池田勇人首相は、アジア経済統合を構想し日本の存在感向上に努め、アメリカの反対を抑えて日中貿易(LT貿易)の枠組みを構築した。喉頭ガンの池田勇人は宏池会を腹心の大平正芳・宮澤喜一に託し1964年東京オリンピックを花道に引退、翌年65歳で永眠した。
- 1960年「経済優先・外交従米」の池田勇人内閣は「所得倍増計画」を発表、「10年間で国民所得倍増」を掲げ完全雇用の達成・社会資本の充実・国際経済協力の推進・人的能力の向上・科学技術の振興・二重構造の解消など、経済繁栄に邁進する方策を分り易い形で国民に提示した。第二次大戦後の極端な物資不足とGHQの日本経済破壊方針に「ドッジ・ライン恐慌」が追討ちを掛け日本の産業界は壊滅の危機に瀕したが、1950年に始まった朝鮮戦争の特需で蘇生し1954年「高度経済成長」に突入、1956年鳩山一郎内閣は経済白書に「もはや戦後ではない」と記し戦後復興の完了を宣言した。自動車・家電など重化学工業の飛躍的発展が産業界を牽引し、石炭から高効率の石油へエネルギー転換が進んだことも成長に拍車を掛けた。下村治ら官僚主導による「所得倍増計画」の効果はともかく、池田勇人内閣が発足した1960年から5年間の実質経済成長率は年率9.7%となり1968年には前倒しでGNP倍増を達成、日本は英独仏を抜いて米国に次ぐ経済大国となり戦前と同じ地位を回復した。「世界の奇跡」と賞賛された日本の高度経済成長は1973年のオイルショックまで続き、家庭にはテレビ・冷蔵庫・洗濯機の「三種の神器」が普及し国民生活は格段に向上した。しかしその反面で公害問題と地域間格差が深刻化し、1972年「日本列島改造」を掲げる田中角栄内閣の登場で利権と表裏の地方農漁村への利益誘導が国策となり、地方自治体では革新首長ブームが起り「バラマキ」と「土建行政」の時代が始まった。
- 1961年から1966年まで駐日アメリカ大使を務めたエドウィン・O・ライシャワーは、日本人を妻(松方正義の孫ハル)とした親日家で、日米蜜月時代をもたらし沖縄返還にも奔走した。「安保闘争」の余韻のなか就任したライシャワーは、日本の左傾化を食止めるべく「日米イコール・パートナーシップ」の演出により占領国・被占領国という従来イメージの一新を図り、賛同したケネディ米大統領は池田勇人首相を厚遇しヨット会談への招待(マクラミン英首相に次ぐ二人目)や合同委員会設置(カナダに次ぐ二国目)で協力した。しかし「反共の防波堤」として日本を援護したアメリカと異なり、西欧諸国は日本の輸出競争力を警戒し国際社会復帰を妨害、日本製品が安いのは長時間・低賃金による「ソーシャル・ダンピング」だと難癖をつけ、日本のGATT加盟後も35条援用により対日貿易に差別的対応をとりOECD加盟も阻んでいた。戦前の中国大陸に代わる主要輸出先として欧米市場に食込みたい池田勇人首相は、反共「冷戦の論理」から「日米欧は自由主義陣営の三本柱」とPRし1962年欧州7ヶ国を歴訪した。フランスのシャルル・ド・ゴール大統領が最後まで反対したが、池田勇人首相は「トランジスタラジオのセールスマン」と揶揄されつつGATT35条撤回の承諾を勝取り、同1963年日本はGATT11条国およびIMF8条国への移行を果し翌年念願のOECD加盟を認められた。池田勇人首相は「日本に軍事力があったらなあ、俺の発言はおそらく今日のそれに10倍しただろう」と側近に漏らしたという。また、吉田茂の後継者ながら「経済自主」を掲げる池田勇人首相は、1961年岸信介の仲介で朴正煕韓国大統領を日本に招待し、1962年戦後初めて対中貿易の枠組みを構築している。合意文書に署名した廖承志と高崎達之助の頭文字をとって「LT貿易」と称された半官半民の貿易形態で、1972年田中角栄内閣による日中国交回復まで日中貿易の柱となった。日中国交は米軍基地駐留に次ぐアメリカの「虎の尾」で、ケネディ大統領も不快感を表明し牽制したが、池田勇人首相は屈することなく日中関係を前進させた。
- 佐藤栄作は、吉田茂の後継者ながら実兄岸信介の自主外交を踏襲、高度経済成長の円熟期に歴代2位の長期政権と自民党黄金時代を現出させ、沖縄返還を達成しノーベル平和賞を受賞した。山口県から上京し東大法学部を卒業した佐藤栄作は松岡洋右(妻の伯父)の推薦で鉄道省に出仕、次官コースから外れ大阪鉄道局長で終戦を迎えたが、左遷が幸いして公職追放を免れ運輸次官に浮上した。1948年吉田茂の引きで政界へ転じた佐藤栄作はいきなり内閣官房長官に抜擢され、翌年の総選挙で衆議院議員初当選ながら自由党幹事長に就任、1951年第三次吉田茂内閣で初入閣を果した。佐藤栄作は「造船疑獄」で糾弾され(国連加盟の恩赦で免訴)1955年の「保守合同」では吉田茂に殉じ与党自民党を離れたが、鳩山一郎の政界引退で自民党加入を許され第二次岸信介内閣で蔵相に就任、「安保闘争」に乗じ倒閣に動いた池田勇人と袂を別ち首相官邸で兄を支えた。続く池田勇人内閣では、佐藤栄作は閣内にあって池田首相の経済至上主義を批判し三選を阻止すべく自民党総裁選に出馬、池田が勝利するも間もなく病気で退陣し1964年佐藤栄作内閣が発足した(池田裁定)。佐藤栄作首相は岸信介の自主外交を復活させ「沖縄返還」に挑戦、ジョンソン米大統領との会談では、ベトナム戦争への軍事協力を拒否しつつ1970年に控える安保条約更新を切札に「数年以内の沖縄返還」合意を引出した。反核世論に腐心した佐藤栄作首相は「非核三原則」「核抜き・本土並み」を建前としつつ、非常時の核兵器持込みと日本の繊維輸出自主規制を認めた「密約」でニクソン米大統領の妥協を引出し1972年沖縄返還を達成した。しかし「糸で縄を買った」批判のなか佐藤栄作首相は「繊維密約」に白を切り、激怒したニクソン・キッシンジャー政権は直ちに報復に乗出し1971年同盟国日本に無断で電撃的に「ニクソン訪中」を宣言しドル兌換停止(ドル切下げ)も断行(ニクソン・ショック)、さらに米国務省は「尖閣問題」の日本支持を修正し態度を曖昧化させた。アメリカに敵視された佐藤栄作首相は沖縄返還を花道に退陣を余儀なくされ、3年後に74歳で永眠した。
- 佐藤栄作首相は組閣翌年の1965年「沖縄の祖国復帰が実現しないかぎり、わが国にとっての戦後が終わっていない」と声明し「沖縄返還」を内閣の使命に掲げ対米交渉に乗出した。岸信介首相(佐藤栄作の実兄)は1960年に成立させた「新安保条約」に10年の期限と以降は当事国一方の申出により破棄できる条項を盛込んでおり、アメリカは最初の更新期限である1970年を前に「日本の要求を拒めば、琉球列島と日本本土の双方で基地をまったく失ってしまうことになるかもしれない」と危惧していた。かくして1967年ジョンソン米政権の妥協により「数年以内の沖縄返還」合意が成立、佐藤栄作首相は「非核三原則」を表明し1969年代わったニクソン大統領に「1972年中の沖縄返還、核抜き・本土並み」の日本側方針を通知した。ベトナム戦争が終息に向かい沖縄基地の戦略的重要性が低下したこともあり、ニクソン米政権は大筋で要望を受入れ1972年5月15日に沖縄返還が達成されたが、非常時の核兵器持込みと日本の繊維輸出自主規制を認めた佐藤栄作首相の「密約」が日米両政府の決定的対立を招くこととなった。幸い「非常時」は起らず核兵器持込みの件は表面化しなかったが、繊維輸出自主規制の方は日本国内に漏れ「縄(沖縄)と糸(繊維)を交換した」との批判に晒された佐藤栄作首相が「密約はなかった」と履行を逃れたため大問題に発展した。ニクソン大統領は、外国製繊維の輸入規制を公約に南部諸州の票を獲得し共和党候補者レースに勝利した経緯があり、「繊維密約」は重要な政治課題であった。佐藤栄作首相の違約に激怒したニクソン大統領とキッシンジャー補佐官は直ちに報復に乗出し、1971年同盟国日本を蚊帳の外に置いて電撃的に「ニクソン訪中」およびドル兌換停止(ドル切下げ)を宣言(ニクソン・ショック)、米国務省は「尖閣問題」の日本支持を修正し曖昧な態度をとるようになった。米政権に敵視された佐藤栄作内閣は存続を赦されず沖縄返還を花道に退陣、田中角栄内閣が発足したが「日中国交正常化」で前政権以上に激しくニクソン・キッシンジャー政権と衝突する。
- 1968年核兵器保有国にして国連常任理事国の米ソ英仏中は、新たな核保有国の出現を阻止すべく国連62か国を巻込み「核拡散防止条約」を成立させた。が、日本の佐藤栄作首相は「核保有国は非保有国に対して核兵器を使ってはならない」という非保有国側が当然主張すべき前提条件を要求し保有国の自分勝手を質した。「核を所有する国が自分のところは減らそうとせず、非核保有国に核をもたせまいとするのはダメで、このような大国本位の条約に賛成することはできるはずがない。『他国の核の傘に入りたい』などといったり、大国にあわれみをこうて、安全保障をはかることは考えるべきでない・・・現在の日本は米国と安全保障条約を結んでいるが、日本はまだ米国の傘のなかには入っていない」という主権国家としての堂々たる態度で、佐藤栄作首相の主張は国連の理解を得て「非核保有国の安全保障に関する安保理決議」に結実したが、「大国本位」はビクともしなかった。この後の1972年「沖縄返還」を達成した佐藤栄作首相は「非核三原則」などによりノーベル平和賞を受賞している。ただしノーベル賞といっても、成果が明らかな物理学賞・化学賞・医学生理学賞と異なり、平和賞は政治臭が強く大きな意味は無い(文学賞・経済学賞も)。
- 佐藤栄作内閣は「黒い霧事件」など数々の政治不祥事に見舞われ「待ちの政治」に内閣支持率は盛上がらなかったが、高度経済成長の円熟期「昭和元禄」(命名は福田赳夫)に依拠した与党自民党は選挙戦を無難に乗切り、「密約問題」でニクソン米政権と衝突するまで本格的な危機も無く佐藤首相は2798日の連続政権記録を樹立した(通算1位は桂太郎の2886日)。重光葵・鳩山一郎・池田勇人・吉田茂ら戦後第一世代が没し、大野伴睦・河野一郎ら政権を争うライバルの死が相次いだことも佐藤栄作の長期政権に幸いした。吉田茂・池田勇人政権が敷いた「経済優先・外交従米」が定着し本格的な路線対立が終息した自民党で、「人事の佐藤栄作」は田中角栄・福田赳夫・三木武夫・大平正芳・中曽根康弘・鈴木善幸・宮澤喜一・竹下登・安倍晋太郎ら総理総裁候補者を要職に就けて切磋琢磨させ、派閥横断的な師弟関係に基づき求心力を維持した。好調な経済に恵まれ安定多数を堅持した佐藤栄作政権と与党自民党は長い黄金期を満喫したが、当選回数による年功序列・政治家の世襲・金権政治・野党と安易な妥協を繰返す議会運営といった悪しき自民党システムが定着したのもこの時期であった。また、自民党の産業優先政策と一極集中政治は深刻な公害問題や地域格差を生み、外交面では在日米軍基地問題に加え「ニクソン・ショック」以降の日米関係はギクシャクしたまま、岸信介譲りの反中共・親台湾派である佐藤栄作首相は中国問題に切込めず、いずれも次代へ先送りされた。また、佐藤栄作首相はベトナム戦争への軍事協力はしっかり拒否したものの沖縄返還交渉を促すため北爆を支持する声明を出したため、左翼勢力が勢いを盛返し首相官邸前で抗議の焼身自殺事件も引起している。1972年沖縄返還を花道に佐藤栄作内閣が退陣し翌年、第一次オイルショックを区切りに1964年から続いた高度経済成長が終焉、「古き良き戦後」の申し子というべき佐藤栄作は1975年に没し大隈重信以来の「国民葬」で送られた。
- 1972年、戦後最長2798日の長期政権を閉じた佐藤栄作は自民党総裁の後任に実兄岸信介直系の福田赳夫を推したが、佐藤派を割って出た田中角栄が大平正芳(宏池会)・三木武夫・中曽根康弘らと「福田包囲網」を結成し「角福戦争」に勝利、高等小学校卒の野人宰相は「今太閤」と持て囃された。新潟の寒村出身の田中角栄は「裏日本」への利益誘導と格差是正を使命に掲げ「日本列島を高速交通網(高速道路、新幹線)で結び、地方の工業化を促進し、過疎と過密や、公害の問題を同時に解決する」と宣言し(日本列島改造論)、公共工事ラッシュを巻起こしたが、間もなくオイルショックが起り列島改造は挫折した。今に続く「バラマキ」・土建行政・財政赤字・金権政治の元凶というべき田中角栄政権だが、外交面では自主路線を追求し後世に範を示す偉業を為した。通産相として国内繊維業者への巨額損失補填を断行し佐藤栄作内閣の「繊維密約」問題を片付けた田中角栄は、翌年首相に就くと3ヶ月も経たないうちに巨額の財政援助と引換えに「日中国交正常化」を達成した。佐藤栄作内閣の繊維密約違反に激怒したアメリカは電撃的なニクソン訪中・ドル兌換停止宣言(ニクソン・ショック)で報復したが、頭越しの日中国交正常化で田中角栄に果実をさらわれ、キッシンジャー国務長官は「汚い裏切り者どものなかで、よりによってジャップがケーキを横取りした」と憎悪を燃やした。さらに田中角栄首相は、日本の宿命的課題である独自資源の確保に乗出しソ連を含む世界各国を歴訪、産油国等を相手に派手な「資源外交」を展開し米政府と石油メジャーの神経を逆撫でした。こうしたなか立花隆が「田中角栄研究 その人脈と金脈」を著すと米国メディアから追及の火の手が上り、朝日新聞・読売新聞が煽り立て政治問題に発展、1974年田中内閣は総辞職に追込まれ資源外交も成果の無いまま頓挫した。とはいえ田中派は自民党最大勢力を保持し田中角栄は2年後を目処に首相に復帰する考えでいたが、キッシンジャー米国務長官と三木武夫首相の共同謀議「ロッキード事件」で刑事訴追され、10余年もキングメーカーに君臨しながら政権復帰は叶わなかった。
- 田中角栄は、毀誉褒貶はあるが今なお根強い人気と知名度を誇る野人政治家である。田中角栄は新潟の寒村から15歳で単身上京し建築技師となり「田中土建工業」を開業、肺炎で兵役を免れ理研の大河内正敏の庇護下で身代を築いた。戦後政界へ転じた田中角栄は吉田茂・佐藤栄作に属し1957年郵政相で初入閣、佐藤の政敵である池田勇人内閣でも盟友大平正芳の支えで要職に留まった。田中角栄は無学ながら100本を超す議員立法を行った政策通で、建築士法や道路法など土木関連法を案出し自ら推し進める様は「コンピュータ付きブルドーザー」と評された。剛腕の田中角栄は自民党幹事長として佐藤栄作内閣を支え、通産相を託されると国内繊維業界に2300億円の損失補填を断行し3年も膠着した対米繊維交渉を決着させた。が、佐藤栄作は後継総裁に岸信介直系の福田赳夫を指名、田中角栄は「田中派」で佐藤派を割り大平正芳・三木武夫・中曽根康弘らと結んで「角福戦争」を制し1972年念願の首相に就任した。経済成長に取残された「裏日本」の振興と格差是正を宿志とする田中角栄首相は、「日本列島を高速交通網(高速道路、新幹線)で結び、地方の工業化を促進し、過疎と過密や、公害の問題を同時に解決する」という「日本列島改造論」を標榜し建設ラッシュを巻起こしたが、オイルショックで挫折し福田赳夫の「総需要抑制政策」へ転換した。一方で田中角栄首相は自主外交に注力、巨額の財政援助を餌に「日中国交正常化」を引出すと、欧州・ソ連・中東など世界各国を歴訪し日本独自の資源確保に奔走(資源外交)、オイルショックでは産油国に理解を示し日本産業界の窮地を救ったが、頭越しの独走を米政府と石油メジャーは許さなかった。1974年「金脈問題」で田中角栄内閣は倒され、キッシンジャー米国務長官らの謀略「ロッキード事件」で復活を阻まれたが、金権選挙に強い田中派は最大勢力を保持し首相指名権を握る田中角栄は「目白の闇将軍」に君臨した。が、首相を出せない田中派では不満が募り、1987年竹下登・金丸信・小沢一郎らが造反し「経世会」を結成、脳梗塞に倒れた田中角栄は影響力を失い1993年刑事被告人のまま病没した。
- 田中角栄の政権復帰を阻止したいアメリカが「ロッキード事件」を仕組んだとする謀略説には説得力があり、首謀者の可能性が高いキッシンジャーは後年中曽根康弘に「ロッキード事件は間違いだった」とこぼしている。1972年に発足した田中角栄内閣は「日中国交正常化」でアメリカの「虎の尾」を踏んだともいわれるが、キッシンジャーはニクソン大統領の特使として軽井沢の別荘に田中首相を訪ね訪中延期を頼むも一蹴され、「汚い裏切り者どものなかで、よりによってジャップがケーキを横取りした」と憎悪を燃やしていた。1974年「金脈問題」で田中角栄内閣が退陣し、イメージ刷新を図る与党自民党は本命の福田赳夫・大平正芳へ繋ぐ暫定首相に「クリーン三木」を擁立した。三木武夫は、戦前は南カリフォルニア大学に留学し「日米同志会」で対米戦争反対の論陣を張り、戦後はマッカーサーから芦田均内閣の後継首相を打診された筋金入りの親米派であった。1976年「米SECからフィンドレー会計事務所に送るべき資料がチャーチ委員会に誤送される」という不審極まる経緯で「ロッキード事件」が発覚、関係者に事情聴取したチャーチ委員会は「ロッキード社が、日本、イタリア、トルコ、フランスなど世界各国の航空会社に自社の飛行機を売り込むため、各国政府関係者に巨額の賄賂をばらまいていた」と表明した。日本では「当初から」田中角栄前首相の関与が囁かれたが、米政府は「収賄者を発表すると複数の友好国で要人が失脚する」ため公表しない立場を明確にした。ところが三木武夫首相は、フォード大統領に直訴して関係資料を日本の検察に開示させ、アメリカでの嘱託尋問という超法規的措置を強行して無理やり証拠をかき集め、事件発覚から半年足らずで田中角栄と資金源の小佐野賢治を逮捕した。その直後、福田赳夫が「2年後の首相禅譲密約(大福密約)」で大平正芳と手を組んで「三木おろし」を成就させ首相に就任している。田中角栄は政権復帰を企図したが東京地検特捜部に受託収賄と外為法違反容疑で起訴され断念、1983年懲役4年・追徴金5億円の有罪判決を受け、1993年田中の死により控訴審が上告棄却しロッキード事件は終わった。
- 「ロッキード事件」の謀略劇で田中角栄前首相は刑事被告人となり政権復帰を阻まれたが、金権選挙に強い田中派(木曜クラブ)は最大勢力を保持し「目白の闇将軍」は10余年も自民党政権に院政を敷いた。1976年ライバルの福田赳夫が三木武夫を引きずり下ろし政権に就いたが、1978年「2年後の首相禅譲密約(大福密約)」を破った福田首相に大平正芳(宏池会)が挑戦、田中角栄は盟友の大平を支持し番狂わせの大平内閣を成立させ「角影内閣」と称された。1980年総選挙の最中に大平正芳首相が心不全で急死すると田中角栄は大平派幹部の鈴木善幸への政権移譲に協力、1982年「日米同盟に軍事的意味はない」発言で鈴木内閣が倒れると弱小派閥の中曽根康弘を首相に擁立した。が、翌年の総選挙で与党自民党が大敗し中曽根康弘首相は「田中角栄氏の政治的影響を一切排除する」と声明、ロッキード事件の影響で最大派閥ながら首相を出せない田中派でも不満が高まった。1895年竹下登・金丸信らが造反し派閥内派閥「創政会」を結成、直後に脳梗塞で倒れた田中角栄は影響力を失い、1987年創政会改め「経世会」は正式に田中派から分離独立し政権を狙った。息子のように可愛がった小沢一郎まで金丸信に従い、大きなショックを受けた田中角栄は俄かに酒量を増し脳梗塞の病状を悪化させた。「日本一金儲けのうまい竹下さんを総理にしましょう」という右翼街宣車の「ほめ殺し」で追詰められた竹下登は極道に仲裁を頼み田中角栄に謝罪(皇民党事件)、田中は目白邸に訪れた竹下を門前払いし憂さを晴らしたが、大勢を覆す余力は無く竹下内閣の発足を許した。1993年小沢一郎の策動で細川護熙内閣が成立し自民党支配の「55年体制」が終焉、直後に田中角栄は刑事被告人のまま75歳で病没したが、死の直前に訪中し「日中友好の井戸を掘った友人」と鄧小平らに歓待されたことと、長女の田中眞紀子が新潟3区の地盤を継ぎ衆議院議員に初当選したことがささやかな花道となった。
- 大平正芳は「保守本流」池田勇人の後継者で、盟友田中角栄の支持で首相となったが在任2年目に絶命した。「アーウー宰相」「讃岐の鈍牛」と揶揄されたが、政界有数の読書家で教養人だったという。香川の農家に生れた大平正芳は、苦学して東京商科大学(一橋大学)へ進み同郷の津島壽一大蔵次官の推薦で大蔵省出仕、税務畑を歩み傍流の先輩池田勇人に属した。池田勇人蔵相の秘書官を3年務めた大平正芳は1952年衆議院議員へ転身し、1960年池田内閣で官房長官に就くと「低姿勢」のスポークスマンぶりを評価され外相に栄転、利子平衡税や原潜寄港問題を捌いて良好な日米関係に寄与し、朴正煕政権との日韓交渉に働いた。大平正芳は池田勇人を喪い後継の佐藤栄作首相に敬遠されたが、田中角栄の尽力で政調会長・通産相にありつき、1971年「大平クーデター」で前尾繁三郎を追放し「宏池会」会長に納まった。佐藤栄作退陣に伴う自民党総裁選で、大平正芳は存在感を示すべく出馬したが、実際は田中角栄を支持し共に福田赳夫を破った。田中角栄内閣で外相・蔵相に補された大平正芳は、航空協定交渉を妥結へ導き日中国交正常化に貢献、田中首相の「資源外交」を支え、金大中事件・オイルショック・ニクソンショックと噴出する難題の対処に追われた。続く三木武夫内閣で大平正芳は蔵相に留まり「日本列島改造論」とオイルショックによる経済混乱の沈静化に努め、福田赳夫の赤字国債復活には異を唱えたが不況打開のため容認を決断した。1976年「2年後の政権禅譲の密約(大福密約)」で福田赳夫と大平正芳の提携が成り「三木おろし」で福田内閣が成立、大平は幹事長に就任したが、福田が密約を反故にしたため自民党総裁選に挑み田中角栄を後ろ盾に番狂わせを演じた。1978年「角影内閣」こと大平正芳内閣が発足、大平首相は福田赳夫政権の「全方位外交」を引込め「日米同盟」強化で従米路線へ戻し対中「贖罪外交」で「自虐史観」を強めたが、自民党を二分する福田との「怨念の対決」に忙殺され、総選挙の最中に心不全で急逝した。黒幕の田中角栄は大平派の鈴木善幸を後継総裁に担ぎ、福田赳夫の政権復帰は阻まれた。
- 1979年「東京サミット」を前にアメリカに呼ばれた大平正芳首相は、カーター大統領との会談で「日米同盟」の文句を始めて公式の場で使い「日本は良しにつけ悪しきにつけ、どこまでもアメリカを支持し、良きパートナーとしての役割を果します。なんでもご遠慮なくご相談ください」と営業マンのような追従を奉った。吉田茂・池田勇人の直系「保守本流」を自認する大平正芳首相は「福田首相のかかげた『全方位外交』の旗をおろし、『対米協調路線の前進』という立場を鮮明に打ち出し、日本外交の新しい選択を示した」というが、前の佐藤栄作・田中角栄・福田赳夫内閣が推し進めた自主外交を従米路線へ押戻す重要な役割を演じた。また大平正芳は田中角栄内閣の蔵相として日中国交正常化にあたったが、「戦争で中国にはひどい目にあわせたんだから、ここはやっぱり日本がいろんなことで我慢をして、正常な関係をつくって行かなければならないという、非常に強い信念」に基づき悪しき「贖罪外交」の端緒を開いた。「反日」「抗日」を建国の正統性に置く中国・韓国の現政権にとって贖罪外交は格好の支援材料となり、日本が詫びれば詫びるほど「歴史認識問題」はエスカレート、大平正芳を師と仰ぐ加藤紘一や「江乃傭兵」(江沢民の傭兵)こと河野洋平ら中朝ロビーが傷口を拡げた。贖罪外交の象徴が「従軍慰安婦問題」で、1992年宮澤喜一内閣の加藤紘一官房長官は朝日新聞記者の作り話に基づき碌な調査もせずに日本政府の関与を認め公式に謝罪(加藤談話)、翌年官房長官を継いだ河野洋平は贖罪意識から事実無根の「強制連行」を認めた(河野談話)。従軍慰安婦問題は「靖国参拝」と共に韓国の二大「政策」となり朴槿惠の反日専門政権を支えている。1995年社会党政権の村山富市首相は独断で「植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました」と述べ日本政府として公式に謝罪を表明、不用意な「村山談話」で日本は自ら日本叩きを正当化する羽目に陥り、日韓併合で同じ国だった韓国まで謝罪の対象となった。
- 心不全により急死した大平正芳首相の後を受けて、大平派幹部だった鈴木善幸が首相に就いた。大学を出ずに岩手県漁協職員・社会主義運動から政界に入ったためそもそも政官界での受けが悪く、日米関係悪化を招いたとしてマスコミから「暗愚の宰相」と批判されたが、平和主義・アジア重視を貫いた自主路線の政治家であった。「日米同盟」に基づくアメリカからの防衛費増額要請を決然と断り、「第一に、わが国の努力は、平和的手段のものにかぎられるということです。わが国として各国に対する軍事的な協力は行いません。この方針はアジア諸国も理解しています。第二に、わが国のなしうる最大の貢献は、経済社会開発と民生安定に通ずる各国の国づくりに対する協力です。第三に、国づくりとともに、この地域の平和と安定のための政治的役割をはたしていくことが求められていると思います」「アメリカとの関係を悪化させることはできない。しかし日本はなんといってもアジアの国で、アジアの国々と共に進んでいかなければならない。これからアメリカ、あるいはヨーロッパ、あるいはソ連圏、中国圏というように、三極、四極に分かれた国際時代に入ると思うのです。その場合、日本はアジアにしっかりと根をおろし、アジアの尊敬と支援と理解、協力を得た上に立つ日本という形で、国際社会のなかで日本の主張、立場というものを明らかにしていかばければ駄目だ」と語りその実現を目指した。しかし、米大統領が「人権外交」と軍縮を推進したカーターからタカ派のレーガンに交代するなか、日米共同声明で発した「日米同盟」という言葉が問題となり、言葉尻をとらえた新聞が「鈴木首相は『日米同盟に軍事的意味はない』といった」と煽り立てたことで「外交音痴」のイメージが作られ、伊東正義外相の辞任騒動を発端に事態収束のため首相を辞任するに至った。
- 日本の自動車生産が米国を抜いて世界一となった1890年の翌年、元役者のロナルド・レーガンが共和党から米大統領に就任した。軍産複合体が担ぐレーガン政権は「戦略防衛構想」(SDI)で「悪の帝国」と呼ぶソ連に過剰な軍拡戦争を仕掛け、同時に富裕層減税も行ったため瞬く間に財政赤字と累積債務が激増、さらに米国製造業の国際競争力低下と日本製品の躍進で巨額の貿易赤字も抱えアメリカは「双子の赤字」に陥った。日米貿易摩擦は以前にも度々起り、それでもアメリカは自由貿易の原則を堅持していたのだが、レーガン政権は「米国産業が輸入品に負けるのは、米国が悪いのではなく、相手国が悪いからだ・・・負けるとすれば相手国が市場閉鎖など不公正なことを行っているからにちがいない。相手国の不公正な制度は米国政府自身が特別チームでも作って大いに叩いたらよい」との傲慢なドグマに捕われ、貿易赤字の元凶とみた日本経済を敵視し破壊する暴挙に乗出した。1981年「自主規制」の押付けで象徴的な乗用車輸出を崩し、中曽根康弘首相を手懐けたレーガン政権は、1985年GATTを無視して通商法301条を適用し日本製パソコンやテレビの関税を100%に引上げ「プラザ合意」で急激な円高を強要、日米半導体協定で米国製半導体の輸入を強要し、スーパー301条で対日制裁を強化した。アジア製品の減価で日本の輸出産業は「円高不況」に陥ったが米国製品の輸出も伸悩み、逆に日本では積極的金融・財政政策で内需が喚起され「バブル景気」が発生、1989年にはアメリカの象徴ロックフェラーセンターやコロンビア映画を日本企業が買収する事態となった。業を煮やしたアメリカは保護貿易の枠さえ踏越え金融・不動産・流通などGHQ以来の「日本経済の再解体」を決意、FRBのBIS規制と日米構造協議が決定打となって1991年初にバブルは崩壊し日本経済は「失われた10年」に叩き込まれた。「防衛協力」で散々貢いだ挙句に経済破壊の内政干渉を黙って受入れた中曽根康弘首相は、レーガン大統領との「ロン・ヤス」関係と1806日の長期政権を築いたが、その代償は余りに大きく日本は「2度目の亡国」へ引込まれた。
- 中曽根康弘は、小派閥の領袖ながら1806日の長期政権を築いた「政界の風見鶏」、レーガン米大統領に追従し「ロン・ヤス」関係を築いたが、対日経済制裁と「プラザ合意」を受入れ「バブル経済」「失われた10年」の元凶となった。中曽根康弘は東大法学部から内務省へ進み海軍へ志願転出、1947年民主党から衆議院議員に初当選し、日の丸を立てた白塗りの自転車で徘徊し「青年将校」と称された。河野一郎に属した中曽根康弘は「国権回復論」を唱え吉田茂の従米政権を批判したが、欧米遊学でキッシンジャーや正力松太郎と通じ米国の「原子力平和利用」に便乗、1955年原子力基本法を成立させ、1959年科学技術庁長官で初入閣し原子力委員会委員長を兼ねた。中曽根康弘は、吉田茂直系の池田勇人政権で不遇を託ち、河野一郎の死に伴い1966年中曽根派を結成し佐藤栄作政権を批判したが運輸相ポストに釣られ転向、改憲・自主防衛論を封印し要職を歴任した。1972年「角福戦争」で田中角栄を勝たせた中曽根康弘は存在感を高め通産相に就任、続く三木武夫内閣では幹事長のくせに「三木おろし」に加担し、「四十日抗争」では福田赳夫に付いたが土壇場で大平正芳首相へ寝返って田中派に恩を売り、1982年「田中曽根康弘内閣」「角影内閣」を組閣した。極端な従米路線を採る中曽根康弘首相は、対韓経済援助40億ドルの肩代りを買って出、NTT・JT・JRの三公社民営化で「新自由主義」に迎合、日本を米国の「不沈空母」と発言した。が、忠勤も虚しくレーガン米政権は日本経済を敵視し「再破壊」を発動、無抵抗の中曽根康弘政権は制裁関税・自主規制・輸入強制に続き1985年プラザ合意で破壊的な円高を容認し、対抗的な金融・財政政策の拡大で「バブル経済」を招来した。1987年政権を竹下登に譲った後も中曽根康弘は自派閥に院政を敷いたが、後継者の渡辺美智雄は2度の自民党総裁選に敗れ、求心力低下で造反議員が続出し「中曽根さん、あんたはもう高崎へ帰りなさいよ」と罵倒された。ロッキード事件・リクルート事件をすり抜けた中曽根康弘は「御意見番」の地位を保ったが、2003年小泉純一郎首相に引導を渡され漸く引退した。
- 少壮期に「国権回復論」を唱え吉田茂の従米政権を批判した中曽根康弘は、改憲・再軍備派に期待されたが、政権に就くと極端な従米路線を採りGHQ以来の「日本経済再解体」に全面協力した。中曽根康弘個人はロナルド・レーガン大統領(共和党)と「ロン・ヤス」と気安く呼合い各国首脳の「招待外交」で存分にアピール出来たが、日本は経済面で高すぎる代償を払わされた。若き中曽根康弘は改憲・タカ派で鳴らし「吉田ドクトリン」批判で保守本流に対抗したが、かたやキッシンジャーら米国要人と誼を通じ正力松太郎と共に原子力行政を牽引した。1982年首相となった中曽根康弘は、翌年アメリカの対韓経済援助40億ドルを肩代わりし、日本の防衛に無関係なP3C等軍備の代替購入と対米武器技術供与を決定、「不沈空母」発言が批判を浴びたが釈明すらしなかった。米国の要求は「防衛協力」に留まらず、中曽根康弘政権(蔵相竹下登・宮沢喜一、外相安倍晋太郎・倉成正)は「経済音痴」では済まされない大失策を犯した。1981年発足のレーガン政権は、ソ連に対する軍事的優位を確立すべく「戦略防衛構想」(SDI)で軍拡を推進しつつ、同盟国の日本も敵視し経済破壊へ方針転換、直ちに乗用車輸出の「自主規制」を押付けた。中曽根康弘の従米政権発足で攻勢を強めたレーガン米政権は、1985年GATTを無視して通商法301条を適用し日本製パソコンやテレビの関税を100%に引上げ、輸出競争力を奪うべく「プラザ合意」で急激な円高を押付け、日米半導体協定で米国製半導体の輸入を強制、スーパー301条で対日制裁を強化した。それでも貿易赤字が減らず日本のバブル景気に業を煮やしたレーガン政権は、貿易赤字削減を逸脱して金融・不動産・流通など日本の経済システムの解体に踏込み、中曽根康弘政権はNTT・JT・JRの三公社民営化などで迎合、「BIS規制」と「日米構造協議」が決定打となり1991年初にバブルは崩壊し日本経済は「失われた10年」に叩き込まれた。露骨な内政干渉を唯々諾々と受入れた中曽根康弘首相と竹下登・安倍晋太郎・宮澤喜一ら主要閣僚は「二度目の亡国」を招いたと非難されても仕方ないだろう。
- 竹下登は「言語明瞭・意味不明瞭」ながら「気配り・目配り・金配りで総理になった」調整型政治の達人で、年次の丸暗記から始めて官僚操縦術を習得し、政治家には人事ポストの「損失補填」で派閥横断人脈を形成、「選挙の神様」と称されコロンビア大学から「選挙学」で名誉博士号を得ている。早稲田大学商学部を卒業した竹下登は、地元の島根県議を経て1951年衆議院議員初当選、佐藤栄作・橋本登美三郎に属し1971年官房長官で初入閣したが、田中角栄の田中派結成と政権獲得に主導的役割を演じ退陣後も要職に留まった。蔵相・幹事長として中曽根康弘政権を支えた竹下登は、「プラザ合意」などレーガン米政権の内政干渉に従い「バブル経済」の端緒を開く大失策を犯している。さて田中派は「ロッキード事件」批判に晒されつつ与党自民党で最大勢力を保ったが、政権を取れない苦境に不満が募り、1985年竹下登と盟友の金丸信は「創政会」で反旗を掲げ激怒した田中角栄は脳梗塞でダウン、田中派を乗取る形で「経世会」が発足した。「ほめ殺し」の「皇民党事件」で反撃に遭うも、竹下登は「裏技」で凌ぎ中曽根康弘の後継指名を得て1987年首相に就任、最大派閥領袖のうえ総裁選を争った安倍晋太郎を幹事長・宮澤喜一を副総理に起用する派閥横断人事で長期政権に臨んだ。が、竹下登首相は早々に皇民党事件で躓き、懸案の消費税初導入は果したものの、中曽根康弘政権が助長したアメリカの日本経済破壊に為す術無く「スーパー301条」「BIS規制」「日米構造協議」に遭遇、軍事協力要請を拒否した2週間後に「リクルート事件」が起り2年足らずで総辞職に追込まれた。退陣後も検察の執拗な追及は続き竹下登は訴追を免れるも金庫番の青木伊平が自殺、1991年遂にバブルが崩壊し、翌年「東京佐川急便事件」で金丸信が議員辞職に追込まれ反発した小沢一郎・羽田孜が経世会を割り新生党を結成した。小沢一郎・細川護熙の「新党ブーム」で自民党は政権を失い「55年体制」は終焉したが、自社さ連立の村山富市内閣で復活し橋本龍太郎・小渕恵三の経世会内閣が成立、晩年恵まれた竹下登は2000年異母弟の竹下亘に地盤を譲り76歳で永眠した。
- レーガン米政権は、軍拡・富裕層減税・米国製造業の地盤沈下で「双子の赤字」を膨張させた責任を日本経済へ転嫁し懲罰政策に狂奔した。対する中曽根康弘政権は、輸出自主規制・制裁関税・輸入強制に加え「プラザ合意」で急激な円高まで唯々諾々と受入れ、「円高不況」打開のため安易な低金利政策と財政出動で「バブル経済」を引起したが、残念なことに蔵相は「経済音痴」の竹下登であった。それでも貿易赤字は減らず怒り心頭に達したアメリカは「原因は日本の国体にあり」と金融・不動産・流通など経済システムの破壊に踏込み、続く竹下登政権は「BIS規制」「スーパー301条」に続き露骨な内政干渉「日米構造協議」まで呑まされ、日銀のソフトランディング失敗でバブルは崩壊し日本は「失われた10年」に沈んだ。経済政策で「2度目の亡国」を招いた竹下登だが、1988年の国連軍縮会議で「日本が二度と軍事大国にならないこと」「非核三原則を国是として堅持すること」を宣言し、レーガン米政権の「防衛責任の増強」(防衛協力)要求を「軍事的な分野に人を出す考えはまったくない。PKOについても事前の調査に十分な注意をしたい」と拒否している。その僅か2週間後に朝日新聞が「リクルートの川崎市への誘致時の助役が関連株を取得、株式公開で利益1億円」と報じ「リクルート事件」が発生、政財界を揺るがす大疑獄事件に発展し、関与を疑われた竹下登首相の「金庫番」青木伊平が自殺し翌年内閣総辞職に追込まれた。竹下登内閣は自主外交に殉じた観もあるが、日本を「(米ソという)ビルの谷間のラーメン屋みたいなもの」と言って憚らない竹下登に師匠の佐藤栄作や田中角栄のように日米安保や「55年体制」の枠組みにまで踏込む意志は無く、アメリカが仕掛けた「日米経済戦争」に対抗する力量も気概も無かった。
- 小沢一郎は、三木武吉に仕え戦後大臣を歴任した小沢佐重喜の長男で、父の急死で地盤を継ぎ1969年27歳で衆議院議員初当選、「田中角栄の秘蔵子」といわれたが「経世会」の造反劇では師匠の金丸信に従った。小沢一郎は若輩ながら「金竹小」体制で「経世会支配」を牽引し1989年47歳で自民党幹事長に就任、総裁選出馬は見送ったが候補者の「小沢詣で」で豪腕を見付け1991年宮澤喜一内閣を成立させた。海部俊樹・宮澤喜一内閣で、小沢一郎は首相の頭越しに「ミスター外圧」アマコスト駐日大使と提携し、湾岸戦争が起ると「出し渋ったら日米関係は大変なことになる。いくらでも引受けてこい。責任は私が持つ」と橋本龍太郎蔵相を促しアメリカの要求どおり130億ドルもの協力金を献上、自衛隊派遣の名分を得るため「国連平和協力法案」を提出した。さらに小沢一郎は「日米構造協議」で公共投資10年間430兆円を容認し、ベストセラーとなった自著「日本改造計画」で旗振り役を演じた。アメリカは剛腕の従米派に期待を寄せたが、経世会では金丸信を後ろ盾に後継会長を狙う小沢一郎と竹下登・小渕恵三・橋本龍太郎ら主流派の内紛が発生、「東京佐川急便事件」で金丸が失脚すると小渕が経世会会長に就任した。翌1993年、小沢一郎は自民党を割り「新党ブーム」を追風に「新生党」を結成(党首は羽田孜)、内閣不信任決議で宮澤喜一内閣を倒し、自民党との連立へ傾く日本新党の細川護煕を首相に担ぎ非自民連立政権を成立させた。が、お定りの主導権争いで寄集めは崩れ、細川護煕は政権を投出し代わった羽田孜内閣は僅か64日で瓦解、「55年体制」の「中断」は1年も続かず「自社さ連立」の村山富市内閣が発足した。野党に転落した新生党・日本新党は「新進党」に合同し政権奪還を目指したが、党首小沢一郎の独断専行に離反者が相次ぎ羽田孜や細川護煕も離反、1997年新進党は雲散霧消し小沢の「自由党」など6党に分裂した。政権復帰を目指す小沢一郎は1999年自民党と復縁し小渕恵三内閣で「自自公連立」を組むが、根強い「小沢アレルギー」に阻まれ連立解消、2003年鳩山由紀夫・菅直人らの民主党に合流した。
- 2003年選挙に滅法強い小沢一郎を得た民主党は同年の「マニフェスト選挙」で躍進、2005年の「郵政選挙」では「小泉旋風」に屈したが、2007年参院選で過半数議席を獲得し「衆参ねじれ国会」が現出、2009年の総選挙で憲政史上最高の議席占有率64.2%を獲得し政権交代を達成した。数だけの政権交代に懲りた小沢一郎は自民党との政策対比戦略を採用、小泉純一郎政権の地方切捨てに地方経済重視で対抗し、従米外交を捨て「国連中心主義」「東アジア共同体構想」を提唱、2009年「米国もこの時代に前線に部隊を置いておく意味はあまりない。軍事戦略的に米国の極東におけるプレゼンスは第七艦隊で十分だ。あとは日本が自らの安全保障と極東での役割をしっかり担っていくことで話がつくと思う。米国に唯々諾々と従うのではなく、私たちもきちんとした世界戦略を持ち、少なくとも日本に関係する事項についてはもっと役割を分担すべきだ。そうすれば米国の役割は減る」と発言した(第七艦隊発言)。が、その10日後に「西松建設献金問題」が発生、公設秘書逮捕で小沢一郎は民主党代表を引責辞任し直後に鳩山由紀夫内閣が発足した。祖父鳩山一郎の遺志を継ぐ鳩山由紀夫首相は小沢一郎幹事長と共に従米脱却に邁進、内政干渉ツール「年次改革要望書」を廃止して在日米軍基地削減と「有事駐留」転換を図り、自主憲法制定を唱え中国に急接近したが、「普天間基地移設問題」で袋叩きに遭い鳩山首相は「最低でも県外」発言の撤回と共に辞任に追込まれた。組閣早々「尖閣問題」に躓いた菅直人内閣は従米回帰へ傾き東日本大震災・福島原発事故で政権担当能力の無さを露呈、小沢一郎は民主党代表選で対抗したが突然の「陸山会事件」で党員資格を剥奪された。「菅おろし」は成功したが、野田芳彦・前原誠司ら松下政経塾・従米派の天下となり野田政権へ移行、2012年小沢一郎グループ50人は民主党を脱党した。直後の総選挙で民主党は大敗し政権ごっこは終焉、小沢一郎は無罪が確定し「国策捜査」が明白となったが衰退著しく2013年の総選挙で「生活の党」は小沢以外全員落選の惨敗を喫し政党要件さえ失って脱原発の山本太郎一派と合流した。
- 1991年ソ連が軍拡競争で自滅し冷戦が完結、軍拡の名分を失ったアメリカでは軍事費縮小と経済再建予算増額を求める至極妥当な世論が高まり、ゴルバチョフが示唆したように「新しい敵を探さなければならない」事態に直面した。石油富豪で「軍産複合体」の一員である父ブッシュの共和党政権は、イラク・イラン・アフガニスタン・リビア・北朝鮮ら「ならず者国家」を新たな脅威に仕立て、「湾岸戦争」で乾坤一擲の巻返しに出た。イラクのサダム・フセイン政権は、もともとアメリカが仇敵イランへの対抗馬として軍事大国に育てた経緯があり、増長したフセインは米軍の介入は無いと信じ「クウェート侵攻」を強行したが、新たな敵を求めるブッシュ政権の好餌となった。日本の経済力を「米国の死活的脅威」の筆頭に掲げるアメリカは、湾岸戦争を口実に海部俊樹・宮澤喜一内閣から膨大な上納金を巻上げたうえ、「国際社会は日本の財政的貢献を評価しなかった」というアマコスト駐日大使らの偏重情報で宮澤内閣を揺さぶり「PKO協力法」で自衛隊のカンボジア派遣を引出した。小沢一郎幹事長・橋本龍太郎蔵相は「積算根拠もないままに」ブレディ米財務長官の要求額を支払い続け湾岸戦争協力金は130億ドルに膨らんだが、それでもアメリカは「遅すぎる、少なすぎる」と批判し更なる人的貢献を求めた。父ブッシュ政権は、軍縮世論を封じるため過剰に「ならず者国家」の脅威を煽り、「国防費の維持は不可欠→軍事費負担をアメリカに押付け経済競争に勝った日本はケシカラン→日本への防衛協力要求と経済破壊政策は正当」との強引なロジックで世論の矛先を日本へ向け超軍事大国の維持に成功した。1993年父ブッシュ政権は1期で倒れたが、続くビル・クリントンの民主党政権は対日懲罰を強め、2001年発足の子ブッシュ政権は「9.11」の口実を得て「予防戦争」「テロとの戦い」を開始しアフガニスタン戦争・イラク戦争の暴挙を犯した。日本ではブッシュの「ポチ」小泉純一郎が政権に就き、対テロ戦争に迎合し2003年イラク戦争に自衛隊を派遣、急激なアメリカ化と市場開放(小泉構造改革)は日本経済を破壊し「格差社会」の弊害も呼込んだ。
- 1991年ソ連崩壊で冷戦が完結し、新たな敵を求める米軍と親ブッシュ政権は「ならず者国家」を設え「湾岸戦争」を強行したが、CIAは米国覇権主義「グローバリズム」「新自由主義」に乗り「経済安全保障」分野へ軸足を移すことで組織維持に成功した。1992年末の『経済スパイとしてのCIA』には「新たな要請の約40%が経済問題である」「1990年代においては経済がインテリジェンスの主要分野になるだろう。われわれが軍事安全保障のためにスパイするなら、どうして経済安全保障のためにスパイできないのだ」といったCIA要人の談話が掲載されている。1991年の米国世論調査で「米国の死活的脅威」の断トツ1位となった「日本の経済力」がCIAの新標的であることは疑い無く、1993年発足のクリントン政権は同盟国日本から中国へ重点を移し露骨な円高誘導と「年次要望改革書」で内政干渉を強め、CIAも駆使して日本経済を「失われた10年」へ引込んだ。1995年10月15日の『ニューヨーク・タイムズ』:「昨年春の自動車問題を巡って行われたクリントン政権と日本の激しい交渉のなかで、情報機関のチームが米国交渉団に随行した。毎朝、情報機関のチームはミッキー・カンター通商代表に、東京のCIAと国家安全保障局が盗聴して集めた情報を提示した。経済的な優位を得るために同盟国をスパイすることがCIAの新しい任務である。クリントン大統領は経済分野での諜報活動に高い優先順位を与えた。財務省および商務省はCIAから大量の重要情報を入手した」・・・対日経済諜報は公然の事実であった。対する日本では宮澤喜一首相は吉田茂直系の従米派で政権を握る小沢一郎もブッシュ政権の言いなり、湾岸戦争への130億ドル献金とPKO協力法・自衛隊派遣を強行し「日米構造協議」で公共投資増額を受容した。日本経済は最早敵では無く、子ブッシュ米政権とCIAは2001年「9.11」を好餌に「テロとの戦い」へ移行、情報通信技術の発達が「同盟国に対する諜報活動」の暴走を招き通信傍受システム「エシュロン」が登場、2014年スノーデン元CIA職員の告発で全人類規模の通信傍受活動が露見した。
福田赳夫と同じ時代の人物
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戦後
岸 信介
1896年 〜 1987年
100点※
戦前は満州国の統制経済を牽引し東條英機内閣の商工大臣も務めた「革新官僚」、米国要人に食込みCIAから資金援助を得つつ日米安保条約の不平等是正に挑んだ智謀抜群の「昭和の妖怪」
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照 -
戦後
重光 葵
1887年 〜 1957年
100点※
戦前は日中提携・欧州戦争不関与を訴え続け外相として降伏文書に調印、アメリカ=吉田茂政権に反抗しA級戦犯にされたが鳩山一郎内閣で外相に復帰し自主外交路線を敷いた「ラストサムライ」
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照 -
戦後
孫 正義
1957年 〜 年
100点※
在日商魂と米国式経営を融合し日本一の大富豪へ上り詰めた「ソフトバンク」創業者、M&Aと再投資を繰返す「時価総額経営」の天才はヤフー・アリババで巨利を博し日本テレコム・ボーダフォン・米国スプリントを次々買収し携帯キャリア世界3位に躍進
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照