中曽根康弘に次ぐ「バブル崩壊」の元凶、田中角栄から自民党最大派閥を簒奪し首相となったがアメリカの軍事協力要請を拒否し「リクルート事件」で倒された「気配り・目配り・金配り」の達人
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照戦後
竹下 登
1924年 〜 2000年
40点※
家系・子孫
- 竹下登の生家は、「日本三大山林王」に数えられた「島根の支配者」田部家の配下で掛合地区の庄屋を世襲した家柄で、広大な農地を有し酒造業も営む素封家であった。竹下勇造の長男に生れた竹下登は、戦後故郷に戻りブラブラ(掛合中学校の代用教員)しながら掛合村の農地委員や青年団活動に従事し、27歳のとき主筋の田部長右衛門(第23代)の後援で島根県議会議員となり政界に進出した。竹下登は、早稲田大学商学部入学後すぐに竹内政江を娶ったが、生家に一人置かれた新妻は舅の度重なる夜這いに耐えかね、登に相談するも「お前のほうに問題がある」と叱責され自殺した。その翌年、竹下登は島根の銀行員の娘で遠縁の遠藤直子と再婚し、三女をもうけた。長女の一子は佐藤栄作夫人寛子の勧めで盟友金丸信の長男金丸康信に、次女まる子は毎日新聞政治部記者から竹下登の秘書となった内藤武宣に(のちKBS京都常務となり危険人脈に連なる)、三女の公子は竹中工務店創業者一族の竹中祐二に嫁がせた。内藤武宣・まる子の長男はタレントのDAIGO(内藤大湖)である。娘婿3人は政治家にならず、2000年竹下登の引退に伴い異母弟で秘書の竹下亘が島根2区の地盤を継ぎ衆議院議員となった。
竹下登と同じ時代の人物
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戦後
岸 信介
1896年 〜 1987年
100点※
戦前は満州国の統制経済を牽引し東條英機内閣の商工大臣も務めた「革新官僚」、米国要人に食込みCIAから資金援助を得つつ日米安保条約の不平等是正に挑んだ智謀抜群の「昭和の妖怪」
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戦後
重光 葵
1887年 〜 1957年
100点※
戦前は日中提携・欧州戦争不関与を訴え続け外相として降伏文書に調印、アメリカ=吉田茂政権に反抗しA級戦犯にされたが鳩山一郎内閣で外相に復帰し自主外交路線を敷いた「ラストサムライ」
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戦後
孫 正義
1957年 〜 年
100点※
在日商魂と米国式経営を融合し日本一の大富豪へ上り詰めた「ソフトバンク」創業者、M&Aと再投資を繰返す「時価総額経営」の天才はヤフー・アリババで巨利を博し日本テレコム・ボーダフォン・米国スプリントを次々買収し携帯キャリア世界3位に躍進
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