僅かな手勢で美濃稲葉山城を強奪して主君斎藤龍興からの侮辱を雪ぎ、織田信長に転じて豊臣秀吉の与力となり浅井・朝倉攻めや毛利攻めに活躍、婦人の如き相貌に静かな勇気を秘めた天才軍師
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照戦国
竹中 半兵衛
1544年 〜 1579年
60点※
家系・子孫
- 竹中氏は、美濃平野北端の池田郡大御堂を代々所領した土豪で、美濃守護土岐氏と同じ清和源氏を自称したが、半兵衛の祖父重氏以前の系譜は定かでない。重氏の後嗣竹中重元は、不破郡の豪族岩手弾正から所領と岩手城(菩提山城)を奪い、斎藤氏の被官となった。間もなく家督を継いだ嫡子の竹中半兵衛重治は、美濃三人衆の一人安藤守就の娘(得月院)を妻に迎え、一子重門をもうけた。弟の竹中重矩は、姉川合戦で浅井家の豪傑遠藤直経を討取った武勇の士であったが、本能寺事変後に起った土豪一揆で戦死した。竹中重利の後見で成人した竹中重門は、井伊直政に誼を通じて関ヶ原合戦で東軍に鞍替えし、菩提山城を提供して黒田長政旗下で奮戦し小西行長を捕獲する功を挙げたが、美濃岩手山他6千石を安堵されたのみで大名にはなれず、子孫は大身の幕府旗本として存続した。重門の末裔竹中重固は、幕末に陸軍奉行を勤め、榎本武揚のもとで函館戦争を戦った。半兵衛の従弟で妹婿の竹中重利は、豊臣から徳川に転じて生き残り豊後府内藩2万石の大名に出世し、城下町大分の整備に努めた。二代目の竹中重義は、土井利勝に取入って実入りの良い長崎奉行に抜擢され、キリシタン弾圧にも励んだが、水野守信との政争に敗れ長崎代官末次平蔵の告発で密貿易の罪が発覚、嫡子源三郎と共に切腹に処せられ府内藩竹中氏は改易・廃絶、一族は隠岐へ流罪となった。なお、半兵衛の岳父で織田家重臣の安藤守就は、半兵衛の死の翌年信長の勘気を蒙り佐久間信盛・林秀貞と共に追放され、本能寺事変に乗じて北方城を奪い再起を試みるも旧知の稲葉一鉄に敗れて一族揃って自害、美濃安藤氏は滅亡した。
竹中半兵衛と同じ時代の人物
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戦国
織田 信長
1534年 〜 1582年
140点※
中世的慣習を徹底破壊して合理化革命を起し新兵器鉄砲を駆使して並居る強豪を打倒した戦国争覇の主人公ながら、天下統一を目前に明智光秀謀反で落命し家臣の豊臣秀吉・徳川家康に手柄を奪われた悲劇の英雄
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戦国
毛利 元就
1497年 〜 1571年
100点※
安芸の小領主の次男坊から権謀術数で勢力を拡大、息子の吉川元春・小早川隆景を両翼と頼み、厳島の戦いで陶晴賢を討って大内家の身代を奪取、月山富田城の尼子氏も下して安芸・備後・周防・長門・石見・出雲・隠岐・伯耆・因幡・備中を制覇した戦国随一の智将
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戦国
徳川 家康
1542年 〜 1616年
100点※
旧主今川義元を討った織田信長と同盟して覇業の一翼を担い、豊臣秀吉没後秀頼を滅ぼして天下を奪取、信長の実力主義・中央独裁を捨て世襲身分制で群雄割拠を凍結し265年も時間を止めた徳川幕府の創設者
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