没落した和泉上守護家の当主で足利義昭・明智光秀・織田信長・豊臣秀吉・徳川家康と主を乗換え肥後熊本藩54万石の開祖となった政界浮遊の達人にして戦国屈指の文化人大名
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照戦国
細川 藤孝
1534年 〜 1610年
40点※
細川藤孝と関連人物のエピソード
- 足利義昭は、横死した剣豪将軍足利義輝の弟で、「天下布武」を目指す織田信長に担がれるも裏切って自滅した室町幕府最後の将軍、旧臣明智光秀が信長を討ったが天下は豊臣秀吉が奪いその庇護下で天寿を全うした。12代将軍足利義晴の次男で興福寺一乗院門跡となり28歳まで僧侶覚慶であった。1565年兄義輝を弑殺した三好三人衆・松永久秀に捕えられたが三淵藤英・細川藤孝兄弟ら幕臣の助けで奈良を脱出、覚慶は足利将軍家の家督を宣言し還俗して足利義昭を名乗り、南近江守護六角義賢が献上した矢島御所に拠って上杉謙信ら諸侯に上洛を促すが、三好氏に圧迫されて逃亡し若狭武田氏を経て越前朝倉氏に身を寄せた。1568年朝倉義景に失望した足利義昭が新参の明智光秀の手引きで尾張の織田信長へ鞍替えすると、信長は直ちに5万余の上洛軍を挙げ六角・三好を一掃し入洛して義昭を15代室町将軍に擁立した。義昭は帰順した仇敵松永久秀の処刑を望んだが謝辞された。翌年三好勢が本圀寺に仮寓する義昭を襲うが岐阜城から戻った信長が一蹴、信長は豪壮な二条御所を造営し将軍の権威付けに努めるが、「幕府再興」に有頂天の足利義昭は独断で論功行賞を行い「御父」と持上げた信長には副将軍職を献じるが逆に『殿中御掟』を突きつけられ傀儡将軍の増長を掣肘された。1571年石山合戦勃発で信長包囲網が結成されると、将軍足利義昭はあっさり恩人を裏切り「御内書」攻勢による謀略を開始、浅井長政・朝倉義景・本願寺顕如・六角・延暦寺に内通し仇敵の松永・三好へも決起を呼掛け武田信玄・上杉謙信・毛利輝元には上洛を懇請した。翌年戦国最強の武田軍が三方ヶ原合戦で徳川家康を撃破し京都に迫ると、松永久秀の呼応に逸る足利義昭は勇み足で挙兵したが信玄急死で目論みが崩れ宇治槇島城を攻囲され降伏、明智光秀・細川藤孝・荒木村重ら家臣にも見限られ、1573年京都を追放され室町幕府は滅亡した。前将軍足利義昭は、毛利輝元に匿われ備後鞆から打倒信長・幕府再興を訴えたが相手にされず、1588年天下人豊臣秀吉に召出され正式に将軍職辞任を表明、没落大名の文芸サロン御伽衆に加えられ9年後に大坂で病没した。
- 足利義輝は、抗争の末に三好長慶に屈服するも諸侯に通じて三好政権打倒を画策、三好三人衆・松永久秀の謀反に斃れたが塚原卜伝直伝「一つの太刀」で奮闘し最後の意地を示した剣豪将軍、弟の足利義昭が織田信長を裏切り室町幕府は滅亡する。12代室町将軍足利義晴の嫡子で、1546年10歳のとき亡命先の近江坂本で将軍位を譲られたが、敵対する管領細川晴元に追われては近江の六角定頼に匿われる無頼生活が続いた。1549年江口の戦いで主君晴元を破った三好長慶が幕政を握ると、足利義晴・義輝は細川晴元に担がれ長慶に抵抗したが、六角定頼の死で勢力を削がれ近江朽木へ退避、1558年京都奪回を試みるも阿波勢の来援で撃破され降伏して5年ぶりに京都へ戻った(北白川の戦い)。傀儡将軍も確保し幕政を牛耳った三好長慶は摂津・阿波を拠点に畿内・四国10ヵ国を制圧したが、剛毅な将軍足利義輝は抗争仲裁や偏諱・官位授与を通じて六角義賢・朝倉義景・伊達稙宗・最上義光・武田信玄・上杉謙信・織田信長・斉藤義龍・北条氏政・毛利元就・尼子晴久・大友宗麟・島津貴久らと関係を築き三好政権打倒を目論んだ。宿敵三好長慶の運命は弟の十河一存の病死で一気に暗転、1562年河内の畠山高政・安見宗房が近江の六角義賢を誘って蜂起すると、和睦工作で窮地を凌ぐも弟の三好実休が戦死し三好家中では戦功著しい松永久秀が台頭(久米田の戦い)、翌年嫡子三好義興に続き細川晴元・細川氏綱も死んで大義名分の管領を喪い、謀反の嫌疑で弟の安宅冬康を誅殺した直後に長慶自身も病没した。足利義輝には好機が到来したが、三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)に先手を打たれ二条御所を急襲されて討死(永禄の変)、三好氏を倒しても誰かに担がれるほか無かったが見事な死様で武門の棟梁の矜持を示した。足利義輝には嗣子が無く、三弟の周暠は殺されたが次弟の足利義昭は探索を逃れ越前朝倉氏へ亡命、幕臣の細川藤孝・明智光秀の斡旋工作が実り3年後に織田信長に担がれ最後の室町将軍となる。信長の上洛軍に三好三人衆も六角義賢も蹴散らされ、松永久秀は帰順するも後に謀反して滅ぼされた。
- 足利氏は清和源氏の一流で、八幡太郎義家の四男義国の次男義康を家祖とし本貫の下野足利荘から名字を採った。源頼朝は義家の嫡子悪源太義親、新田氏は義国の長男義重の裔である。頼朝の鎌倉将軍家は3代で滅びたが、足利氏は執権北条氏と密接な血縁を結んで源氏筆頭の家勢を保ち、元寇以来不満を募らせる武士団に押された足利尊氏が建武の新政を成功に導き、武士社会の現実を無視した後醍醐天皇を追放して室町幕府を開いた。尊氏が気前良く大封を配ったため支配基盤は脆弱で、南北朝合一を果し相国寺から天皇位を狙った3代将軍足利義満をピークに将軍権力は弱体化、復権を図った6代足利義教は赤松満祐に弑殺され(嘉吉の乱)、無気力な8代足利義政は悪妻日野富子の尻に敷かれ後継争いから応仁の大乱が勃発、9代足利義尚は古河公方足利成氏や南近江守護六角高頼の反逆を掣肘できず、群雄割拠する戦国時代に突入した。「半将軍」と称された管領細川政元は10代足利義材(義稙)を追放し11代将軍に足利義澄を擁立するが(明応の政変)養子3人の家督争いで暗殺され(永正の錯乱)、周防の大内義興が挙兵上洛し将軍義澄と細川澄元・三好之長の阿波勢を追放して義稙を将軍に復位させた。義興は船岡山合戦に勝利したが領国を尼子経久に侵され帰国、細川高国は六角定頼と同盟して三好之長を討ち寝返った将軍義稙を追放して足利義晴を12代将軍に擁立し(等持院の戦い)播磨の浦上村宗を誘って阿波勢を迎撃するが逆に討取られた(大物崩れ)。細川晴元は反逆した将軍義晴を追放し(嫡子足利義輝が近江で13代将軍を承継)一向一揆を扇動して権臣の三好元長を滅ぼすが、嫡子の三好長慶が報復を果し三好政権を樹立した。隠忍帰順した将軍義輝は諸侯に通じて三好政権打倒を図るが三好三人衆・松永久秀に襲われ斬死(永禄の変)、14代将軍足利義栄は入京叶わず病没し、尾張・美濃を征した織田信長が流浪の足利義昭を15代将軍に奉じ「天下布武」に乗出した。将軍義昭は信長を裏切って包囲網に加担するが武田信玄の急逝で夢破れ室町幕府は235年の幕を閉じた。足利将軍家は断絶したが、鎌倉公方系の足利国朝が下野喜連川藩を立藩し幕末まで存続した。
- 三好長慶は、陪臣ながら室町幕府の実権を掌握し畿内・四国10カ国に君臨した「最初の戦国天下人」、寛大故に生涯反逆に悩まされ没後三好政権は瓦解し織田信長に滅ぼされた。1507年管領細川政元暗殺で養子三人の後継レースが始まると(永正の錯乱)、阿波の三好之長は11代将軍足利義澄を戴いて主君澄元を細川宗家当主に押し上げるが、大内義興軍の京都制圧で足利義尹(義稙)が将軍に復位すると大内についた細川高国に逆転され、決戦を挑むも大敗して阿波へ逃避(船岡山合戦)、嫡子長秀を合戦で喪い、大内軍撤兵に乗じて巻返しを図るも高国擁する六角定頼に敗れ自害した(等持院の戦い)。之長の嫡孫三好元長は、澄元の嫡子細川晴元を担いで京都を奪取(桂川原の戦い)、朝倉宗滴に奪い返されるも高国の増長により越前軍は撤兵し、1531年播磨の浦上村宗を味方につけて反撃に出た高国を討って両細川の乱に終止符を打った(大物崩れ)。が、間もなく晴元と元長の抗争が勃発、元長は劣勢の晴元が扇動した一向一揆の大軍に襲われ憤死した(飯盛城の戦い)。元長の嫡子三好長慶は、晴元に帰参して実力を養い、1546年12代将軍足利義晴・細川氏綱の反乱を鎮圧(舎利寺の戦い。義晴は逃亡先の近江坂本で嫡子足利義輝に将軍位を譲る)、1549年ライバルの木沢長政と三好政長を討倒し晴元・義輝を追放して室町幕府の実権を掌握(江口の戦い)、反抗を続けた晴元・義輝を1558年に屈服させ(北白川の戦い)、摂津・阿波の両拠点を軸に山城・丹波・和泉・播磨・讃岐・淡路・河内・大和まで勢力圏に収めた。が、詰めの甘い三好長慶の運命は晩年に暗転した。十河一存の病死を機に和泉の畠山高政・近江の六角義賢に挟撃され、三好実休が戦死、屋台骨の実弟二人に続いて嫡子三好義興も病死し、細川晴元・氏綱の死で大義名分の管領も失うなか、長慶は飯盛山城に引篭もり、実弟の安宅冬康まで謀反の疑いで誅殺した。長慶没後、養子義継が後を継いだが、三好三人衆と松永久秀の勢力争いで三好政権は瓦解、織田信長の畿内侵攻に蹂躙された。シビアな信長は敵対勢力を抹殺し、傀儡将軍足利義昭を追放して室町幕府を滅ぼし、下克上・天下統一を実現した。
- 三好氏は、鎌倉時代に阿波守護となった阿波小笠原氏(信濃源氏)の末裔で、鎌倉時代初期に阿波三好郡に土着した小笠原長経より三好を名乗り、室町時代に四国探題格で四国全部の守護に就いた細川家に随従し阿波守護代を世襲した。智勇兼備と謳われた三好之長は、管領細川政元暗殺後のお家騒動(変人政元は愛宕の勝軍地蔵を信仰して飛行自在の妖術修行に凝り一切女色を断ったため子が無かった)で主君細川澄元を擁して畿内に進出したが、大内義興・細川高国・六角定頼に敗れ嫡子長秀と共に自害に追込まれた。長秀の嫡子三好元長は、細川高国を討って復讐を果したが、澄元の嫡子細川晴元と対立、晴元が扇動した一向一揆の大軍に襲われ切腹、内臓を天井に投げつける壮絶死を遂げた。之長敗死の翌年に生れた元長の嫡子三好長慶は、仇敵細川晴元に帰参して実力を養い、木沢長政・三好政長を討って晴元と将軍足利義輝を追放し室町幕府の実権を掌握した(三好政権)。三好長慶の覇業を支えたのは、弟の三好実休・安宅冬康・十河一存らの一門衆であったが、一存の病死に続いて実休が戦死し、嫡子三好義興も22歳で早世、冬康は謀反を疑い誅殺してしまった。長慶が男児無く死ぬと、一存の嫡子三好義継が後を継いだが、一門の三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)と松永久秀(長慶の家宰で娘婿)の勢力争いにより三好政権は内部崩壊、織田信長の畿内侵攻で三好三人衆は容易く掃討され、義継と松永久秀は信長に降伏するも後に謀反し滅ぼされた。三好の嫡流は途絶えたが、元長の末弟三好善行の子為三と一門の三好政勝の子孫が徳川幕臣として家名を残した。三好実休の子で十河一存の養子に入った十河存保は、長宗我部元親に敗れるも秀吉に仕え讃岐十河3万石の大名に復活したが、秀吉の九州征伐に従い島津家久に敗れ討死(戸次川の戦い)、遺児十河存英は三好政康ら三好残党と共に大坂夏の陣で戦死した。
- 松永久秀は、三好長慶の下で勢力を伸ばすが長慶没後三好一門衆と対立して孤立、織田信長に帰順して大和支配を回復するも信長包囲網に加担、二度目の謀反に敗れて名器「平蜘蛛」諸共自爆死した下剋上の代名詞である。狡猾な辣腕家、主家簒奪・将軍弑逆・大仏焼討ちの「三悪事」で戦国三大梟雄に挙げられるが、斎藤道三・宇喜多直家のように恩人殺害や追放の証拠は無い。20歳過ぎで仕えた三好長慶は、微賤の出ながら有能な松永久秀を重用し、木沢長政・三好政長を討ち細川晴元・将軍足利義輝を追放して三好政権を樹立すると、40歳で京都所司代に就いた久秀は朝廷・幕府・寺社との折衝で頭角を現し、茶道・連歌に通じて一流の文化人となり、堺代官も兼ねて貿易で巨富を積み三好家中第一の勢力家となった。三好長慶が義輝・晴元を降し四国・畿内10カ国に君臨して全盛期を迎えるなか、大和侵攻を託された久秀は戦国城郭の範となる信貴山城(天守閣)・多聞山城(多聞造り)を築いて国人勢を討平した。が、主君長慶の運命は突如暗転、十河一存・三好実休・安宅冬康と柱石の実弟と嫡子三好義興まで相次いで喪い(久秀の陰謀説あり)、1564年自らも病没した。松永久秀は、近江六角・河内畠山の挟撃を退け、黒幕の将軍足利義輝暗殺により政権を保ったが(永禄の変)、権勢を妬む三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)ら一門衆との内部抗争が勃発、弟松永長頼の敗死で支配地の丹波を失い、三好義継を寝返らせ東大寺夜襲で三人衆を撃退するも挽回ならず(東大寺大仏殿の戦い)、1568年織田信長に帰服し加勢を得て大和を回復した。が、宿敵筒井順慶・興福寺の反撃で十市城を奪われ、信長に背いて近江戦線を離脱し順慶に決戦を挑むも大敗(辰市城の戦い)、孤立した久秀は信長包囲網に活路を託し謀反を起すが武田信玄急死で挫折、多聞山城と夥しい献上物を差し出して赦免され、佐久間信盛旗下で石山合戦に従軍した。そして1577年、信長包囲網再結成に呼応して再び謀反するが、頼みの上杉謙信が急死、大軍に信貴山城を攻囲されるなか信長所望の名物茶器「平蜘蛛」と共に自爆死、嫡子久通と妾腹の二児も処刑され松永氏は滅亡した。
- 松永久秀は、寝返りが茶飯事で謀略渦巻く畿内政局をリードして三好政権を支え、主君長慶没後は三好一門衆の総スカンを食って孤立しつつも逸早く織田信長に帰服して勢力を保ち、猜疑心の強い信長から使い捨てにされる未来を予見して謀反の先鋒役を果した智謀の士である。「寝返り癖」は細川政元暗殺後の乱脈極まる畿内政局にあっては別段目立つことではなく、恩人の長慶には終生忠節を貫き、信長への最初の謀反は大和救援を拒まれたため止むを得ない面があり、実際に信長も赦免している。猜疑心強烈で裏切りを許さない信長の性格を知れば、上杉謙信と石山本願寺の強勢をみて捨て身の勝負に出たのも頷ける。戦国大名としては、畿内勢共通の弱兵故に戦闘には強くなかったが、京都・堺・奈良をおさえて抜群の経済力を備え、防衛強固な信貴山城・多聞山城で戦国城郭建築の先駆者となり、茶道や連歌に通じて朝廷・幕府の権威を巧みに利用、いずれも信長が踏襲したことを考えると天下獲りの先導役だったともいえよう。ただ、三好三人衆ら同僚の悉くに憎悪され三好政権衰亡の元凶となったのは不徳の致す所で、苛酷な施政に苦しめられた領民は久秀が滅ぶと農具を売って酒に換え大いに祝ったという。三好家簒奪・将軍足利義輝暗殺・東大寺大仏殿焼討ちは久秀の「三悪事」とされるが、義輝弑逆の主犯は三好義継と三人衆で久秀は不関与あるいは消極的だったとする説もあり、大仏焼討ちの非は東大寺に陣取った三人衆側にあるだろう。久秀自害の日が奇しくも大仏焼討ちから10年後の同日10月10日であったことは事実のようだが、後世の軍記物は久秀を異常な好色漢に仕立て、いつも美女数人を引き連れて行軍し興じると紙帳を張って用を足した云々と伝えるが、信憑性は乏しい。また、年貢滞納の百姓に蓑を着せて火を放ちもがき死ぬ様を「蓑虫おどり」と称して楽しんだとか(斎藤道三にも類話あり)、大ケチながら貯めこんだ名物珍品を気前良く信長に献上して命を繋いだ云々の悪評も、伝説の域を出ない。恩人を次々に葬り去って成り上がった斎藤道三・宇喜多直家と並べて戦国三大梟雄と呼ぶのは久秀には酷であろう。
- 六角氏は、宇多源氏佐々木氏の嫡流の名門である(八幡太郎義家から源頼朝・足利尊氏と続く棟梁家は清和源氏で別系統)。頼朝挙兵時に貧乏ながら旅人を殺して馬を奪い伊豆に馳せ参じた佐々木四郎高綱を祖とし(梶原景季との宇治川先陣争いで有名)、高綱と兄三人の活躍で佐々木氏は近江をはじめ17カ国の守護職を占めるほどに栄えたが、執権北条氏に圧迫されたうえ、家督争いで4家(六角・京極・大原・高島)に分裂し勢力が衰えた。六角の名字は京都の屋敷が六角堂近くにあったことに由来する。鎌倉幕府末期、分家の京極家からバサラ大名佐々木道誉が登場、足利尊氏の室町幕府樹立を支えて幕府要職と6ヶ国守護を兼ね、近江では京極氏と六角氏の覇権争いが続いた。応仁乱の最中に京極家で後継争いが勃発(京極騒乱)、争闘30年の末に六角高頼の加勢を得た京極高清が勝利し、近江は六角氏と京極氏が南北分割統治することとなった。六角高頼は、公家・寺社と争いつつ権益を奪って勢力を拡大、9代将軍足利義尚の親征を退け(近江で陣没)、10代将軍足利義材の反攻上洛を撃退した。後継の次男六角定頼は、観音寺城に拠って戦国大名化し、細川高国を担いで細川澄元・三好之長を討破り京都を制圧して足利義晴を12代将軍に擁立、京極家で台頭した浅井亮政と和睦、飯盛城合戦後に暴徒化した一向一揆を掃討し(山科本願寺焼討ち)、高国を討った細川晴元と結んで足利義輝を13代将軍に擁立した。定頼の嫡子六角義賢は、三好長慶に追放された義輝・晴元を近江に保護して抗戦、京都に攻込むも撃退され、浅井長政に大敗して近江支配まで侵されるなか、河内の畠山高政と通謀挙兵するも何故か途中退場、嫡子六角義治の後藤賢豊暗殺(観音寺騒動)で家臣が離反するなか、三好三人衆に与して織田信長の従軍要請を拒否し、大軍に攻められて観音寺城から逃亡し守護大名六角氏は滅亡、甲賀を拠点にゲリラ戦を続けるが、信長包囲網瓦解と共に家名再興の夢破れた。が、義賢は豊臣秀吉の庇護下で78歳まで生永らえ、嫡子義治は加賀藩士・次男義定は徳川旗本として命脈を保った。
- 明智光秀は、足利義昭の将軍擁立や対朝廷工作、丹波攻略に働いて織田家軍団長に出世したが、本能寺の変で織田信長を弑逆、山崎の戦いで豊臣秀吉に敗れて「三日天下」を失った謀反人の代名詞である。美濃守護土岐氏の庶流で東美濃の大豪族明智氏の嫡子に生れたが、斎藤道三の外戚明智氏は斎藤義龍謀反で共に滅亡(長良川の戦い)、28歳の光秀は逃亡し、諸国流浪の末に越前朝倉義景に仕官、足利義昭に勧めて織田信長との間を取り持ち、義昭と信長に両属の形で活躍を始めた。信長の正室帰蝶は光秀の従妹であり、織田家接近の有力な手蔓になったと考えられる。一流の文化人細川藤孝を従えて儀礼や文芸に精通する明智光秀は、京都政界の外交折衝で頭角を現し、1570年朝廷を動かして信長包囲網(第一次)を和睦に導いた功で近江坂本10万石を与えられ44歳で一城の主となった。恩人信長の追落しに励む義昭を見限って織田家専属となり、1573年室町幕府滅亡、軍団を託されて丹波攻略を開始すると、石山合戦や松永久秀・荒木村重の謀反討伐に駆出されつつも、丹波亀山城を攻略して前線拠点を確保し、1579年波多野秀治・赤井直正を討破って丹波を平定(人質に差し出した叔母を光秀が捨殺しにしたという説があるが信憑性は低い)、近江坂本に加えて丹波を賜り(合計25万石または60万石)、織田家5軍団長の一人となった。そして1582年、「ときは今あめが下しる五月かな」と詠んだ光秀は、秀吉の出馬要請に応じて寡勢で京都に入った信長を急襲し殺害(本能寺の変)、畿内を軍政下に置いたが、縁戚の細川藤孝・忠興をはじめ筒井順慶(洞ヶ峠)・中川清秀・高山右近ら与力衆に悉く見放され、神速の中国大返しで駆けつけた豊臣秀吉に洛外天王山で決戦を挑むも惨敗(山崎の戦い)、逃亡した光秀は伏見小栗栖で土民の落ち武者狩りに討たれ、本拠地の近江坂本城も落ちて明智氏は滅亡した。光秀謀反の原因には、怨恨説・野望説・恐怖心説・発作説から、黒幕説には朝廷・長曽我部元親・イエズス会・徳川家康や秀吉まで様々あるが、歴史上の効果は天下統一目前の信長を討って秀吉・家康に道を開いた一点に尽きる。
- 塚原卜伝は、秘剣「一つの太刀」を編み出した東国七流・神道流の大成者で室町将軍足利義澄・義晴・義輝に仕え合戦37・真剣勝負19で212人を斃した生涯無敗の剣豪、上泉信綱・北畠具教・細川藤孝にも妙技を伝え創始した鹿島新当流は師岡一羽(一羽流)・根岸兎角之助(微塵流)・斎藤伝鬼坊(天道流)に受継がれた。父の卜部常賢は常陸鹿島城3万石の大掾景幹の家老で剣術道場主、次男の卜伝は塚原城主(3~4千石)塚原安幹に入嗣したが養父も飯篠長威斎直伝の神道流剣士という剣術一家に育った。1505年16歳の塚原卜伝は武者修行のため上洛し落合虎左衛門ら京八流の兵法者との立合いで名を挙げ将軍足利義澄に出仕したが、永正の錯乱に乗じた大内義興・細川高国が京都を制圧し足利義稙を将軍に擁立、追われた義澄は近江で病死し後ろ盾の細川澄元・三好之長は船岡山合戦に敗れ阿波へ撤退した。塚原卜伝は義澄の遺児義晴を守って奮闘を続けたが1519年義興の山口帰国を機に常陸へ戻り、鹿島神宮に千日参籠して秘剣「一つの太刀」を会得し旧姓に因んで「卜伝」を名乗った(元は高幹)。1523年再び廻国修行へ出た塚原卜伝は、武蔵川越城下で小薙刀の梶原長門を一瞬の差で斃して妙技を試し、細川高国に擁立され将軍となった足利義晴に帰参したが細川晴元・三好元長の京都侵攻で再び近江へ逃亡、1531年大物崩れで高国が滅ぼされた2年後に卜伝は鹿島へ帰った。義晴は近江坂本で嫡子義輝に将軍位を譲り三好長慶に反攻を企てるが1550年病没、1556年67歳の塚原卜伝は三たび上洛し加勢するが北白川の戦いに敗れた将軍義輝・細川晴元は京都へ帰還し三好政権の傀儡となった。塚原卜伝は義輝に「一つの太刀」を授けて京都を去り諸国を巡歴、伊勢国司北畠具教に「一つの太刀」を授け甲斐の山本勘助や近江の蒲生定秀を訪ねた後、1565年将軍義輝が三好三人衆に弑殺された永禄の変の翌年京都相国寺の牌所を詣でて鹿島へ帰り82歳まで長寿を保った。主家の大掾氏は上杉謙信・佐竹義昭に滅ぼされたが塚原・卜部氏は所領を保ち、塚原卜伝は道場指南のかたわら歌を詠む悠々自適の余生を送った(和歌集『卜伝百首』が現存)。
- 千利休(千宗易)は、堺の豪商出身の侘茶の完成者で見方によっては大山師、茶頭として織田信長に出仕し本能寺事変後は豊臣秀吉に仕え「利休道具」の錬金術と「一期一会」の接待術で大名統治に貢献するが突如逆鱗に触れて死罪、子孫の「三千家」は上流社会に憧れる庶民を惹きつけ全国に鼠講を張巡らせて本願寺と並ぶ巨大教団に発展し今日まで繁栄を続ける。魚問屋に倉庫業を兼ね一代で財を成した田中与兵衛(千氏へ改姓)の嫡子で、北向道陳・武野紹鴎に師事して茶の湯を研鑽し、堺南宗寺(大徳寺の末寺)に入門して臨済禅の修行を積んだ。共に茶の湯の「天下三宗匠」と称された今井宗久・津田宗及は紹鴎門下の相弟子である。三好長慶の妹とされる宝心妙樹を妻に迎えたのは自治都市堺を守るための政略であったと考えられるが、1569年織田信長が堺から自治権を取上げると茶頭として出仕し、1582年信長の横死に伴い豊臣秀吉の茶頭に転身、二束三文の粗末な茶器を名器に仕立てる錬金術と侘茶接待で頭角を現し、秀吉は利休を持て囃し「利休道具」に更に箔を付けて諸大名に与える好循環を演出、天下人の寵を得た千利休は「利休七哲」(蒲生氏郷・細川忠興・芝山宗綱・古田織部・高山右近・瀬田正忠・牧村利貞)を筆頭に諸大名から崇敬を集め豊臣政権の内政にも深く関わった。「黄金の茶室」や聚楽第など成金趣味に奔る秀吉に美意識上の葛藤を抱きつつも、妙喜庵待庵に代表される草庵風茶室(下地窓・連子窓や躙口をあけた二畳の茶室)を完成させ楽茶碗や竹の花入・茶柄杓・茶杓などの道具、作庭にも工夫を凝らして侘茶の境地を開いた。が、1591年突如秀吉から堺に蟄居を命じられ、弟子の大名連や前田利家の助命嘆願も虚しく上杉景勝の兵に京都聚楽屋敷を囲まれるなか従容と切腹に応じ、首は一条戻橋に晒された。「大徳寺三門の利休像」など動機には諸説あるが、側近を牛耳りたい石田三成が耄碌した秀吉を煽り事を運んだ可能性が高い。数年後に秀吉は利休の遺族を赦免、嫡子の千道安は細川忠興に仕えたが後嗣無く病没し、利休婿養子の千少庵が家督を継いで京都に住し嫡子千宗旦の三児が武者小路千家・表千家・裏千家の祖となった。
- 雪舟は、中国作品の模写を脱して日本風水墨画を確立し『四季山水図』『秋冬山水図』『破墨山水図』『慧可断臂図』『天橋立図』など国宝6点と数多の重文作品を遺した日本画壇の巨星、江戸時代に狩野派に崇敬され芸術神となった。作品の多くは山水画だが肖像画や花鳥画も描き、雪舟が造園を手掛けたという「雪舟庭」も山口・島根・福岡などに現存する。備中赤浜の武家小田氏に生れ幼少期に総社井尻野の臨済宗寺院宝福寺に入門、絵に熱中する余り禅修行に身が入らない雪舟(拙宗等揚)は柱に縛られるが足先を使い零した涙で実物と見紛う鼠を描き禅師を感嘆させたと伝わる。なお「達磨絵」や「頂相(師の肖像画)」に象徴されるように水墨画は禅宗のなかで発展した宗教芸術であり、屋敷を飾るための彩色画や工芸品の職人芸とは一線を画すものであった。さて雪舟は、10歳のころ京都相国寺に移り春林周藤から禅を学びつつ画僧として著名な天章周文・如拙から水墨画を学び『山水図』の制作を開始、24歳で卒業すると大内教弘の招きで周防山口に移住し「雲谷庵」で創作に専心する生活に入った。応仁の乱勃発の翌年、48歳の雪舟は本場中国で水墨画を学ぶため勘合貿易船に乗込み明へ渡海、夏珪・李唐など宋・元代の水墨画に感化されて模写に励み揚子江流域など中国各地を写生旅行し「風景こそ最大の師」という孤高の境地に到達、天童山景徳禅寺で「四明天童山第一座」の尊称を贈られ首都北京でも画名を博した。2年弱の滞在を終え帰国した雪舟は、周防山口を拠点に豊後や石見へも足を伸ばし美濃や天橋立への創作旅行も敢行、86歳まで長寿を保ち石見益田で病没した(雪舟が庇護者の益田兼堯を描いた『兼堯像』が現存)。雪舟様式の特徴は安定感のある構図や力強い筆致に顕著で、大胆で構築的な空間構成,強調された輪郭線と細い線による簡略化された皴法,墨の濃淡を操る妙技は今も国際的に高い評価を得る。安土桃山時代になると武士の派手好みに応じて邦画の主流は岩絵具を用いる彩色画(いわゆる日本画)へ移ったが、江戸時代に画壇を支配した狩野派が雪舟を師と仰ぎ諸大名も追従、「雪舟作」を騙る作品が多く出回ることとなった。
- 狩野永徳は、祖父の狩野元信が興した職業画家集団「狩野派」を引継ぎ織田信長・豊臣秀吉に寵遇され安土城・大坂城・聚楽第の障壁画や『聚光院障壁画(国宝)』『唐獅子図屏風(国宝)』『洛中洛外図屏風(国宝)』『檜図屏風』を制作した安土桃山文化の旗手、孫の狩野探幽が徳川幕府の御用絵師となり子孫は幕末まで日本画壇に君臨した。初代の狩野正信は、漢画(水墨画)の妙技を将軍足利義政に見出され宗湛(雪舟も師事した天章周文の後継者)の死に伴い室町幕府御用絵師となり慈照寺銀閣の障壁画を制作した。子の狩野元信は、中国伝来の水墨画に日本古来の大和絵の画法を取入れて書院造に合う障壁画の和漢融合様式を確立し、書体に倣い真・行・草の3画体を定め分業による大量均質制作体制を構築、多くの画工を擁して「狩野派」を興し旺盛な戦国城郭の建築需要に乗って宮廷絵所預の大和絵土佐派(創始者の土佐光信は元信の舅とも)と画壇を二分する勢力へ躍進した。23歳の若さで『聚光院障壁画』を描いた狩野永徳は、武家好みの豪快な画風を織田信長に愛され安土城天守閣の障壁画を描く栄誉に浴し『洛中洛外図屏風』は上杉謙信に贈られ両家の和親に貢献(米沢市上杉博物館に現存)、豊後の大友宗麟に招かれ臼杵丹生島城の障壁画も制作した。『唐獅子図屏風』は豊臣秀吉の「中国大返し」の際に講和の証として毛利輝元に贈られ、明治期に毛利元徳が皇室に献上したといわれる。狩野永徳は、織田家の天下を奪った豊臣秀吉にも重用され息つく間もなく大坂城・聚楽第・内裏・八条宮家の障壁画を描いたが奔命に疲れ東福寺法堂の天井画を制作中に47歳で過労死、永徳を代表すべき超大作の安土城・大坂城・聚楽第の障壁画は惜しくも建物と共に失われた。孫の狩野探幽は徳川幕府の御用絵師に採用され江戸城・大坂城・名古屋城・二条城の障壁画を手掛け子孫は「奥絵師」4家を筆頭に幕末まで日本画壇を支配し尾形光琳・円山応挙も初期には狩野派に学んだが、大量均質生産のため次第に芸術的創造性を失い狩野派から再び異能の画才が現れることはなかった。
- 佐々木小次郎は、中条流の富田勢源の練習台から長大剣を極めた奇形剣士、師の富田景政に勝って越前一条谷を出奔し「物干し竿」と秘剣「燕返し」で西国一円に名を馳せ豊前小倉藩の剣術師範となるが「巖流島の決闘」で宮本武蔵に撲殺され「巖流」は消滅した。佐々木小次郎の名は忘れ去られ細川家(肥後熊本藩へ移封)の後釜には武蔵が座ったが、没後150年を経て武蔵の伝記物語『二天記』が現れ好敵手役で復活した。富田家(越前朝倉氏の家臣)が住した越前宇坂庄浄教寺村に生れ富田勢源に入門、「無刀」を追求する勢源は小太刀の精妙を得べく佐々木小次郎に長大剣を持たせ練習台にしたが、小次郎は勢源が打ち込めないほどに上達し柳の枝が飛燕に触れる様に着想を得て切先を反転切上げる秘剣「燕返し」(虎切りとも)を会得、18歳のとき新春恒例の大稽古で富田景政(勢源の弟で中条流相伝者)と立合うとまさかの勝利を収め、門弟達の恨みを恐れ直ちに越前一条谷を去り廻国修行の旅へ出た。そのご朝倉義景が織田信長に滅ぼされ富田景政は4千石で前田利家に出仕、婿養子の富田重政は(景政の一子景勝は賤ヶ岳合戦で戦死)佐々成政を撃退した「末森城の後巻」で一番槍の武功を挙げ大名並みの1万3千石の知行を得たが、後嗣富田重康の没後富田家と中条流(富田流)は衰退した。さて「物干し竿」と称された1m近い愛刀備前長光を背に西国一円を渡歩いた佐々木小次郎は、「燕返し」で次々と兵法者を倒して伝説的剣豪となり、豊前小倉藩39万9千石の細川忠興の招きで城下に巌流兵法道場を開き30余年の放浪生活を終えたが、老いて名高い小次郎は野心に燃える宮本武蔵の的にされた(この前に毛利家に仕えたともいわれ、吉川藩の周防岩国城下・錦帯橋そばの吉香公園には佐々木小次郎像がある)。宮本武蔵は手段を選ばず「窮鼠猫を噛む」流儀で兵法者60余を倒した我流剣士で脂の乗った29歳、小倉藩家老の長岡佐渡(武蔵の父または主君とされる新免無二の門人とも)を動かして佐々木小次郎を「巖流島の決闘」に引張り出し、二時間遅れて到着すると出会い頭の一撃で小次郎を撲殺、約を違え帯同した弟子と共に打殺したともいわれる。
- 前田慶次郎利益は、前田慶次郎利益は、前田利家の義甥で武勇絶倫の教養人ながら高禄を捨てて出奔し京都で一流文化人と交流、前田家が徳川家康に屈服するなか上杉景勝に従軍し意気地を示した「天下一の傾奇者」である。前田家に留まった一子正虎は嗣子無く没し子孫は断絶した。実は前田慶次郎の武勇伝は乏しく奇行談の多くも伝説だが、新井白石は『藩翰譜』で「世にかくれなき勇士」と評し今日も小説や漫画で大人気である。『戦国風流武士』や『花の慶次』では壮年の快男児だが、実際の前田慶次郎は前田利家より5歳ほど年長で前田家出奔は57歳頃とされる。織田家の被官で尾張荒子城主の前田利久(利家の兄)には男児が無く後妻が産んだ前田慶次郎を後嗣としたが、実父は別人で滝川一益の一族(儀太夫か)とされる。13歳で織田信長に出仕した前田利家は、拾阿弥斬殺事件で3年干されるも桶狭間・森部合戦の武功で帰参を赦され、慶次郎が36歳のとき信長は病弱(武者道御無沙汰)を理由に利久を強制的に隠居させ寵愛する利家に前田家と所領4千石を継がせた。前田慶次郎は養父の利久と共に荒子城を退去し10余年の浪人生活を送ったが、1581年柴田勝家の旗下で能登23万石の大名に出世した前田利家に5千石で召出され(利久には2千石)富山の役(末森城の後巻)や小田原征伐に従軍、利久の死に伴い嫡子の正虎が2千石を相続した。が、奇行を繰返す前田慶次郎は遂に利家と衝突し出奔(改心を装って利家を茶の湯に招き水風呂に叩き込んで逃走したとも)、「穀蔵院飄戸斎(ひょっとさい)」なるふざけた名乗りで里村紹巴・九条稙通・古田織部・細川藤孝らと交流し、諸大名饗応の座で「猿真似の猿舞」を演じ豊臣秀吉をおちょくったという伝説を残した。秀吉・利家が相次いで病死し徳川家康が天下獲りに乗り出すと、前田利長(利家の後嗣)は加賀征伐の脅迫に屈服したが、前田慶次郎は石田三成陣営で家康打倒を図る上杉景勝・直江兼続に1千石で出仕し会津征伐軍が退いた後の最上義光攻め(慶長出羽合戦・長谷堂城の戦い)で「だいぶへんもの(大武辺者)」の旗指物を翻し奮闘、敗戦後は米沢藩に留まり古典研究や和歌・連歌に遊ぶ隠棲生活を過ごした。
細川藤孝と同じ時代の人物
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戦国
織田 信長
1534年 〜 1582年
140点※
中世的慣習を徹底破壊して合理化革命を起し新兵器鉄砲を駆使して並居る強豪を打倒した戦国争覇の主人公ながら、天下統一を目前に明智光秀謀反で落命し家臣の豊臣秀吉・徳川家康に手柄を奪われた悲劇の英雄
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照 -
戦国
毛利 元就
1497年 〜 1571年
100点※
安芸の小領主の次男坊から権謀術数で勢力を拡大、息子の吉川元春・小早川隆景を両翼と頼み、厳島の戦いで陶晴賢を討って大内家の身代を奪取、月山富田城の尼子氏も下して安芸・備後・周防・長門・石見・出雲・隠岐・伯耆・因幡・備中を制覇した戦国随一の智将
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照 -
戦国
徳川 家康
1542年 〜 1616年
100点※
旧主今川義元を討った織田信長と同盟して覇業の一翼を担い、豊臣秀吉没後秀頼を滅ぼして天下を奪取、信長の実力主義・中央独裁を捨て世襲身分制で群雄割拠を凍結し265年も時間を止めた徳川幕府の創設者
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照