種痘を広めた蘭方医にして「適塾」から大村益次郎・福澤諭吉・橋本左内・大鳥圭介らを輩出した大教育者
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照維新
緒方 洪庵
1810年 〜 1863年
80点※
緒方洪庵と関連人物のエピソード
- 緒方洪庵は、種痘を広めた蘭方医にして「適塾」から大村益次郎・福澤諭吉・橋本左内・大鳥圭介らを輩出した大教育者である。政治への影響では討幕の原動力となった吉田松陰の「松下村塾」に及ばないが、純粋な学問的成果において緒方洪庵の適塾は際立っており、日本庶民に学問による立身出世の夢を与えた。備中足守藩の下級藩士の三男に生れた緒方洪庵は、虚弱体質のため武士を諦め16歳で大坂の中天游に入門、江戸で坪井信道や宇田川玄真(玄随の養子)に学び長崎でオランダ人医師ニーマンに師事して西洋医学を修めた後、大阪で町医者を開業し蘭学塾「適々斎塾(適塾)」で後進の指導にあたった。緒方洪庵のオランダ語の読解・翻訳力は抜群で、多数の秀才が適塾に入門したが誰も敵わなかったといわれる。が、思考が柔軟で偏見に捕われない緒方洪庵は、門人の箕作秋坪から高価な英蘭辞書を購入して英語学習に取組み、本業では漢方医学も積極的に取入れた。適塾はスパルタ教育で知られ、門人は寝食を惜しみ「血尿が出るほど」猛勉強に励んだが、緒方洪庵はしばしば花見や舟遊びに連れ出し、歌会を開いて得意の和歌を披露、学習態度には厳格でしばしば叱責したが笑顔で諭すのが常で決して声を荒げたことは無かったという。緒方洪庵は医師としても活躍した。幼少期に天然痘に罹患した緒方洪庵は、「人痘法」で患者を死なせたことを悔やみ、佐賀藩を通じてイギリスのジェンナーが発明した「牛痘接種法」を導入、「牛痘を打つと牛になる」といった無知と戦いながら大阪と備中足守に「除痘館」を設置し幕府の理解を促しつつ普及に努めた。コレラが流行すると治療の手引書『虎狼痢治準』を出版し医師に配布している。江戸幕府は「名医」緒方洪庵を招聘、健康不安を抱える緒方は逡巡するも断り切れず奥医師兼西洋医学所頭取を引受け将軍徳川家茂の侍医として法眼の地位を与えられた。医師の極冠に栄達した緒方洪庵だったが、堅苦しい宮仕えに馴染めず、攘夷派志士の襲撃を心配する不安な日々を送り、僅か1年後に54歳で病没した。
- 適塾は、蘭学者・医者として高名な緒方洪庵が大坂に開いた私塾で、1838年から1868年までの間に600人以上が学んだ。「血尿が出るほど」の猛勉強で知られ、大村益次郎・橋本左内・福澤諭吉・大鳥圭介・箕作秋坪(三叉学舎創立者)・佐野常民(日本赤十字社初代総裁)・本野盛亨(読売新聞社創業者)・手塚良仙(手塚治虫の曽祖父)・久坂玄機(玄瑞の兄)など、幕末維新期をリードする偉材を多く輩出した。大阪大学医学部の前身とされる。大村益次郎と福澤諭吉は共に適塾で塾頭を務めた大秀才だが就学時から反りが合わず、過激な攘夷屋を嫌悪し逸早く英語教育に目を着け文明開化のカリスマとなった福澤諭吉と、長州藩・明治政府で軍政の指導者となった大村益次郎(尊攘運動には距離を置いた)、二人は出発点を同じくしながら対照的な出世コースを辿った。大鳥圭介は、適塾を出てジョン万次郎に英語を学び尼崎藩・徳島藩に出仕、幕府の蕃書調所に招聘され日本初の合金製活版を作った(大鳥活字)。ここまでの経歴は同じ村医(庶民)の出自で宇和島藩を経て蕃書調所・講武所教授へ進んだ大村益次郎と同様だが、幕府に留まった大鳥は陸軍幹部となり、江戸開城の日に伝習隊を率いて江戸を脱走、新撰組の土方歳三らと共に北関東から会津へ転戦し仙台で幕府軍艦を率いる榎本武揚に合流して五稜郭へ入り陸軍奉行として函館戦争を戦った。大鳥圭介の人格と才能を惜しむ大村益次郎と福澤諭吉は赦免工作に努め、特赦で出獄した大鳥は明治政府に出仕、軍務には就けなかったが開拓使・工部省の技術官僚を経て日清戦争直前に駐清国特命全権公使・朝鮮公使を努め枢密顧問官・男爵に叙された。津山藩出身の箕作秋坪は、緒方洪庵の適塾に学んで洋学の権威となり、明治維新後に東京で三叉学舎を開いた。三叉学舎は福澤諭吉の慶應義塾と並び称された洋学塾で、東郷平八郎・原敬・平沼騏一郎(津山藩出身)らを輩出した。
- 大村益次郎(村田蔵六)は、木戸孝允の招聘で長州藩に出仕し適塾仕込みの洋式兵学と武器輸入で近代的軍隊を創建、浜田城制圧や上野彰義隊との戦争を指揮し維新後は徴兵制・近代的国軍建設を進めたが暴漢に襲われ横死した「日本陸軍の創始者」である。周防の村医の嫡子に生れた大村益次郎は、防府の梅田幽斎(シーボルトの弟子)に師事し豊後日田の咸宜園にも遊学、22歳で大坂の適塾に入門し長崎遊学を経て塾頭に就いたが、父の懇請で帰郷し村医を開業した。が、2年後のペリー来航で蘭学者の需要が急増し、無愛想の治療下手で評判の悪い大村益次郎は早々に医業を畳み宇和島藩に仕官、砲台建設や洋式軍艦製造を差配し、藩主伊達宗城に従い江戸へ出ると麹町に蘭学塾「鳩居堂」を開講、幕府に招聘され蕃書調所を経て最高学府の講武所教授に栄達した。一流洋式兵学者の名声を博した大村益次郎は、長州藩に軍制改革を託され藩政に参画(政務座役)、藩校明倫館や私塾「普門塾」で兵卒を熱血指導し「火吹き達磨」と渾名された。尊攘運動に関与せず俗論党からも重宝された大村益次郎は、禁門の変後も重職に留まり、高杉晋作が藩政を奪回すると但馬出石から木戸孝允を呼戻して指導者に迎え、正規軍と奇兵隊など諸隊を統合再編して軍事教練を施しミニエー銃・ゲベール銃を大量購入して長州藩軍を洋式軍隊へ変貌させた。第二次長州征討では山陰方面軍を指揮、新式兵器と巧みな用兵で浜田城を攻落し「その才知、鬼の如し」と評された。薩摩藩嫌いの大村益次郎は戊辰戦争出兵に反対し左遷されたが、すぐに上京を命じられ諸藩献上の御親兵を訓練し伏見に兵学寮を開設、江戸の治安回復を託されると兵員不足を危惧する薩摩藩士を一喝し西郷隆盛を説伏せて武力討伐を断行し上野彰義隊を殲滅した。大村益次郎は、明確なプランのもと近代的国軍建設に邁進、持論の徴兵制は兵制論争で退けられたが、軍政のトップ(兵部大輔)に就いて京都河東操練所・兵学寮の開設や軍事工場建設を進めたが兇漢に襲われ横死、「西国(薩摩)から敵が来るから四斤砲をたくさんこしらえろ」との遺言は8年後の西南戦争で的中した。靖国神社境内には今も大村益次郎の銅像が聳える。
- 福澤諭吉は豊前中津藩の下級武士ながら欧米遊学経験と英語力を武器に立身出世を果した。幕末明治期の世界情勢は世界に冠たる大英帝国と新興大国アメリカを中心とする新秩序の確立期にあったが、幕府の鎖国政策で蘭書以外へのアクセスを阻止された日本では英語習得と英米新秩序への対応が遅れていた。緒方洪庵の「適塾」で蘭学を猛勉強し塾頭も務めた福澤諭吉は、中津藩の要請で築地鉄砲洲の藩屋敷に蘭学塾を開講、幕閣の目に留り通商条約批准の遣米使節で軍艦奉行木村摂津守の随員に選ばれ勝海舟艦長の「咸臨丸」で渡米した。英米新秩序を知った福澤諭吉は帰国後すぐに蘭学塾を英学塾へ改め、英語に飢えた学生の受け皿となり「慶應義塾」へ繋がる大発展、木村摂津守の引きで幕府外国方に就任し文久遣欧使節の随員に選ばれ直参旗本に出世した。明治維新後、福澤諭吉は新政府の招聘を断り慶應義塾で教育活動に専念、かたわら森有礼の「明六社」に参加し、『西洋事情』『西洋旅案内』『学問のすゝめ』『文明論之概略』などを刊行して大衆の洋化啓蒙活動を牽引し、慶應義塾と共に福澤派の牙城となる『時事新報』を創刊した。福澤諭吉は政治活動に一定の距離を置いたが、「脱亜論」に基づくイギリス流立憲主義を提唱し、三菱の岩崎弥太郎と共に後藤象二郎や大隈重信を支援した。明治十四年政変で大隈重信が失脚すると、福澤諭吉は専横を強める伊藤博文・井上馨ら薩長藩閥と絶交し、福澤派・慶應義塾グループを母体に立憲改進党を発足させ大隈を党首に担いだ。大隈重信・犬養毅・矢野文雄・尾崎行雄ら福澤諭吉の門人は政界に隠然たる勢力を形成し、三菱はじめ財界へも荘田平五郎・豊川良平ら多くの門下生を提供した。固い結束を誇り今日も政財界の一角を占める慶應義塾「三田会」の親玉という点において、福澤諭吉が日本国に及ぼした影響は計り知れないものがある。また福澤諭吉は東大閥から締出された北里柴三郎を救い国立伝染病研究所および北里研究所の開設を主導、北里は慶應義塾大学医学科(医学部)の創設に尽くし無給で初代学部長兼付属病院長を務め福澤の恩義に報いている。
- 橋本左内(1834-1859)は、緒方洪庵の適塾で蘭学を修め松平春嶽の側近に抜擢され中央政局で活躍した福井藩改革派のホープである。白面の美男子で弁舌も爽やかな橋本左内は、藤田東湖(水戸藩徳川斉昭の謀臣)・西郷隆盛(薩摩藩主島津斉彬の謀臣)・梅田雲浜らと提携し長野主膳(大老井伊直弼の謀臣)への対抗馬として一橋派の将軍継嗣運動をリードしたが、安政の大獄で捕えられ頼三樹三郎と共に江戸伝馬町牢屋敷で斬首に処された。中根雪江は高齢・横井小楠は学者・由利公正は経済官僚で、志士活動において橋本左内に代わり得る人材は出ず福井藩と松平春嶽の政治活動は後退を余儀無くされた。なお、水戸藩は、安政の大地震で藤田東湖が圧死し水戸斉昭は迷走の末に病没、水戸浪士が桜田門外・坂下門外の変を起したが佐幕派が藩政を握り尊攘派(天狗党)を大粛清した。薩摩藩は、島津斉彬は非命に斃れたが西郷隆盛・大久保利通が生残り討幕の原動力となった。
- 松下村塾は、吉田松陰の叔父玉木文之進が1842年に長州萩城下外れの松本村に設立した私塾で、密航事件の罪で地元に蟄居した松蔭が1857年に引継いだ。吉田松陰が罪人となっても長州藩主毛利敬親の敬愛は変わらず、また松陰に好意的な周布政之助や益田弾正など正義派人士が藩庁の要路にあって、藩政改革に係る松陰の上書がよく採用され、その効果もあり松下村塾の入門者は増え尊攘派の拠点として一大勢力を形勢した。松下村塾は、学校というよりはサークルのような雰囲気で、特段の規則はなく、授業料の類もとらなかった。皆で米搗きや農作業をしながら勉強することも日常で、ときに登山・撃剣・水泳の実習も行い、塾舎の増築工事は塾生の手で行った。藩校明倫館で行われた藩士子弟の漢籍素読の試験では、松下村塾から応試した15人全員が優等の成績を採り基礎教育にも強いことを証明した。松下村塾は、士分だけが入学できた藩校明倫館とは異なり、入門者の身分を問わなかった。中級藩士(大組士200石扶持)の高杉晋作が群を抜いて地位が高く、ほとんどの門人が下級藩士か庶民の出自であり、1858年に吉田松蔭が野山獄に再入獄となるまで僅か1年余の就学だったが、幕末長州藩をリードする多くの尊攘派志士を輩出した。入門者は50名ほど、高杉晋作と久坂玄瑞(松陰の妹文の夫)が最優秀で「松下村塾の双璧」、これに吉田稔麿と入江九一を加えた4人が「松下村塾の四天王」といわれた。松下村塾の生残り渡辺某は後年「高杉は恐ろしかった。栄太郎(吉田稔麿)はかしこかった。久坂はついていきたいようであった」と述懐している。他の門人に、寺島忠三郎・伊藤博文・山縣有朋・前原一誠・品川弥二郎・山田顕義・赤根武人などがいる。なお、木戸孝允は、吉田松蔭が藩校明倫館で兵学を教えていたときの弟子で生涯松陰に師事したが松下村塾生ではない。亡き松蔭を慕う乃木希典は玉木文之進の家に寄寓した。松下村塾の遺構は現在も保存され側には松陰神社が建つ。
- 久坂玄機は緒方洪庵の適塾の塾頭を務め長州藩の医学所好生堂の都講に迎えられた秀才であったが、20年年下の弟久坂玄瑞は吉松淳蔵の家塾(高杉晋作も机を並べた寺子屋)を振出しに藩校明倫館・医学所好生堂へ進み玄機に劣らない英才と評判が高く、16歳の頃には一端の志士となり九州の志士を歴訪した。熊本で宮部鼎蔵に会い吉田松陰を激賞された久坂玄瑞は、生意気にも先ず書簡を交わして松蔭の見識を量ろうとし「元寇の北条時宗に倣い外国使節を斬るべし」という過激な攘夷論を披瀝、松蔭は内心では久坂の非凡を認めつつも「上っ調子で思慮浅く、実践を考えない空理空論」と突返した。久坂は食下がり書状の応酬が数回あったが「それなら攘夷をやってみろ、出来ないなら大言壮語に過ぎないではないか」と論破され、襟を直して松下村塾の門人となった。吉田松陰は末妹の文を娶わせるほどに久坂玄瑞を評価し、多才と行動力を認めたが「志壮気鋭、これをめぐらすに才をもってす」と評し才に頼りすぎる性質や多才故に多岐に流れることを懸念した。一方、吉田松蔭は高杉晋作の頑質を長所ととらえ、門人中第一の秀才であった久坂玄瑞を大いに持上げることで高杉の負けじ魂を刺激し学問に熱中させ、高杉は生来の独創性に学問知識を加えて久坂と共に「松下村塾の双璧」と称されるまでに成長した。木戸孝允は高杉晋作が強情で独善的な人間になる恐れがあると危惧し矯正を勧めたが、吉田松蔭は「角を矯めて牛を殺す結果になることを恐れる。十年放っておけば必ず成長するので大丈夫」と放任教育を続けた。晩年の吉田松陰は師弟の関係を超え同志として高杉晋作を頼りにし、松下村塾生は過激で唯我独尊な高杉を離れ牛(繋がれていない牛)と評し畏怖した。
- 広瀬淡窓が天領の豊後日田に開いた咸宜園は、身分性別を問わず入門を認め1805年から1887年の閉鎖までに4800人が学んだ日本最大級の私塾で、門下から高野長英・大村益次郎・清浦奎吾などを輩出した。広瀬自身は儒学者・漢詩人であったが、数学・天文学・医学などの講義も行った。藩校は諸藩にあったが庶民の教育機関は村の寺子屋しかなく高等教育機関は画期的であった。
- 北里柴三郎は、破傷風の血清療法発明によって日本人初の世界的医学者となり、東大医学部閥の妨害に屈することなく、伝染病研究所・北里研究所を設立し、慶應医学部初代学部長、日本医師会初代会長を歴任した日本医学会の巨星である。熊本阿蘇の庄屋の家に生れ、熊本医学校を経て東京大学医学部を卒業、内務省衛生局に入るとドイツ留学を許された。内務省衛生局の同僚であった後藤新平とは生涯の親友となった。ベルリン大学に入ると細菌学の権威コッホに師事し、1889年に世界初となる破傷風菌純粋培養法を成功させ、翌1890年には破傷風菌抗毒素を発見し画期的な血清療法を発明した。その10年後、第1回ノーベル医学生理学賞の候補となったが、人種的偏見からか、共同研究者ベーリングの単独受賞となった。さらに、1894年には、調査派遣に赴いた香港でペスト菌を発見したが、ここでも第一発見者の栄誉は同時期に香港にいたイェルサンにさらわれた。さて、欧米研究機関からのオファーを固辞して凱旋帰国した北里柴三郎であったが、留学中に緒方正規の脚気病原菌説を否定したことから「恩知らず」として東大医学部系学閥から総スカンを食い、日本国内での活動範囲は著しく制限されていた。苦境を知った福澤諭吉は救いの手を差し伸べ、森村市左衛門らのスポンサーを集め、1892年に伝染病研究所を設立し、所長に北里柴三郎を迎えた。その後、内務省管轄に入って国立伝染病研究所となり、さらに文部省移管・東大医学部への吸収が無断で決められたことから、北里所長以下志賀潔ら職員全員が一斉辞任する騒ぎとなった。1914年、伝染病研究所を退くと、私費を投じて北里研究所を設立、北島多一・志賀潔・秦佐八郎ら錚々たる研究員を擁して狂犬病・インフルエンザ・赤痢・発疹チフスなどの血清開発と伝染病研究を継続し、全国府県の医師会を統合して日本医師会を創設し初代会長に就任した。また、亡き福澤諭吉の恩義に報いるため、慶應義塾大学医学科(医学部)の創立を主導して初代学部長兼付属病院長となり、北里研究所から続々と教授陣を派遣し、終生無給で発展に尽くした。
緒方洪庵と同じ時代の人物
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維新
大久保 利通
1830年 〜 1878年
130点※
島津久光を篭絡して薩摩藩を動かし岩倉具視と結んで明治維新を達成、盟友の西郷隆盛も切捨てる非情さで内治優先・殖産興業・富国強兵の路線を敷き近代国家の礎を築いた日本史上最高の政治家
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照 -
維新
高杉 晋作
1839年 〜 1867年
110点※
吉田松陰の枠を超えた「防長割拠論」を実践し庶民軍の奇兵隊を創設して洋式軍備を拡充、功山寺挙兵で佐幕政権を覆し薩長同盟で背後を固め第二次長州征討の勝利で幕威を失墜させた長州維新の英雄
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維新
木戸 孝允
1833年 〜 1877年
100点※
吉田松陰・久坂玄瑞・高杉晋作の遺志を継ぎ薩長同盟して討幕を仕上げた長州藩首領にして「維新の三傑」、明治維新後3年で最難関の廃藩置県を成遂げ憲法制定を志したが大久保利通と対立し西南戦争の渦中に病没
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