種痘を広めた蘭方医にして「適塾」から大村益次郎・福澤諭吉・橋本左内・大鳥圭介らを輩出した大教育者
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照維新
緒方 洪庵
1810年 〜 1863年
80点※
家系・子孫
- 緒方氏は豊後佐伯・栂牟礼城主の佐伯惟教の末裔とされる。佐伯惟教は大友宗麟の武将として勇名を馳せたが耳川合戦で討死、嫡子の佐伯惟定は島津軍から栂牟礼城を死守し豊臣秀吉から感状を下された。が、朝鮮役の敵前逃亡により大友義統が改易されると佐伯惟定も領地を失い藤堂高虎の客将となった。このとき末弟の佐伯惟寛は幼少のため惟定に随従せず生母と共に備中に移住し足守藩に仕官、「足守佐伯家」の嫡流は緒方へ改姓し下級藩士ながら幕末まで家名を伝えた。なお、足守藩主の木下氏は豊臣秀吉の正室ねねの実家である。緒方惟因は33俵4人扶持の下級藩士で、惟章(緒方洪庵)は三男一女の末子である。緒方洪庵は、大坂蔵屋敷留守居役に補された父に従い15歳で大坂へ転居、虚弱体質のため武士を諦めて中天游・坪井信道ら蘭方医に学び西洋医学者・適塾の教育者として大成した。緒方洪庵は、中天游門下の兄弟子億川百記の娘八重を娶り七男六女を生した。良妻賢母の八重は適塾生に慕われ、葬儀には政財界の名士をはじめ2千人もの参列者があった。嫡子の緒方惟準は、ポンペやボードインに学んで医師となり、明治天皇の侍医として宮廷医療に西洋医学を導入し、浪華仮病院(適塾の系譜を継ぐ大阪大学医学部の前身)や軍医学校の創設、大阪の医療体制整備などに活躍し明治の医学界で重きをなした。その後も緒方洪庵の子孫の多くは医学で名を成し現在まで続いている。孫の緒方知三郎(洪庵次男の緒方準の四男)は東京帝国大学医科大学(東京大学医学部)を出て東京医科大学初代学長に就任、弟の緒方章は高名な薬学者で東京帝国大学医学部教授・日本薬学会会頭・日本薬剤師協会会長などを歴任した。洪庵曾孫の緒方富雄は血清学の権威で東京大学医学部教授を務め財団法人緒方医学化学研究所を設立、弟の緒方安雄は東京帝国大学医学部を出て東宮侍医を務め山王病院名誉院長となった。さすがは大教育者緒方洪庵の子孫、これほどの秀才一族は日本でも屈指だろう。
緒方洪庵と同じ時代の人物
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維新
大久保 利通
1830年 〜 1878年
130点※
島津久光を篭絡して薩摩藩を動かし岩倉具視と結んで明治維新を達成、盟友の西郷隆盛も切捨てる非情さで内治優先・殖産興業・富国強兵の路線を敷き近代国家の礎を築いた日本史上最高の政治家
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維新
高杉 晋作
1839年 〜 1867年
110点※
吉田松陰の枠を超えた「防長割拠論」を実践し庶民軍の奇兵隊を創設して洋式軍備を拡充、功山寺挙兵で佐幕政権を覆し薩長同盟で背後を固め第二次長州征討の勝利で幕威を失墜させた長州維新の英雄
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維新
木戸 孝允
1833年 〜 1877年
100点※
吉田松陰・久坂玄瑞・高杉晋作の遺志を継ぎ薩長同盟して討幕を仕上げた長州藩首領にして「維新の三傑」、明治維新後3年で最難関の廃藩置県を成遂げ憲法制定を志したが大久保利通と対立し西南戦争の渦中に病没
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