近江日野の名門豪族の嫡子に生れ、六角氏滅亡に伴い織田信長に仕えて娘婿となり本能寺事変後は豊臣秀吉に臣従、武功を重ねて会津92万石に抜擢され伊達政宗の妨害を排して奥州仕置を完遂、徳川家康の抑え役を期待され本人は天下も夢見たが惜しくも40歳で病没した文武両道の大器
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蒲生 氏郷
1556年 〜 1595年
60点※
家系・子孫
- 蒲生氏は、平将門の乱を鎮定して関東一の豪族となった鎮守府将軍・田原藤太秀郷の子孫である。藤原秀郷の裔は北関東に広がって結城・小山等の諸氏となり、近江蒲生郡に土着した一流が蒲生氏を名乗った(忠臣蔵の大石内蔵助の家は同族)。鎌倉時代に近江守護佐々木氏(宇多源氏)に仕え、佐々木氏が四家に分かれると近江南部を領する六角氏の被官となった。主君の六角氏は、室町幕府創業の功臣佐々木(京極)道誉の登場以来分家の京極氏に圧迫されたが、応仁の大乱後、六角高頼が京極家のお家騒動に乗じて南近江を獲得し幕府の武力干渉を退けて勢力を拡大、続く六角定頼の代に全盛期を迎え三好長慶と室町幕府の主導権を争った。次の六角義賢は、失策続きで中央政局から脱落、京極家を簒奪した浅井長政に大敗して南近江も脅かされ、家臣の動揺が広がるなか義賢の嫡子義治が筆頭重臣後藤賢豊を暗殺する失策を犯した(観音寺騒動)。ここで初めて近江日野城主蒲生氏が歴史に登場する。蒲生定秀・賢秀父子は、家臣団の反乱で観音寺城を追われた義賢・義治父子を庇い和睦・帰城に導き、その功績で家老に登用されたが、間もなく織田信長の侵攻で主君は逃亡、諸豪中唯一信長に抗戦し寄せ手の柴田勝家を苦しめて義理を立てた後、神戸具盛(定秀の娘婿)の説得に応じて開城降伏し嫡子氏郷を人質に差し出した。蒲生氏郷は、信長に近侍するなかで頭角を現し、娘の冬姫を妻にもらって織田一門に連なり、本能寺事変後は妹とら(三条殿)を側室に献じて豊臣秀吉に臣従、武功を重ねて先祖の秀郷と同じ奥羽司令官に出世した。氏郷・冬姫の嫡子蒲生秀行は、遺領収公の危機を逃れて会津92万石を相続するも、力量不足で徳川家康の抑え役は務まらず重臣の抗争(蒲生騒動)を理由に宇都宮8万石へ減転封、会津は上杉景勝に明渡した。徳川家康の娘振姫を妻に迎えた秀行は関ヶ原合戦で東軍に属し会津60万石に返り咲いたが、重臣の抗争は収まらず、後継の次男忠知の代で蒲生氏は無嗣断絶に追込まれた。
蒲生氏郷と同じ時代の人物
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戦国
織田 信長
1534年 〜 1582年
140点※
中世的慣習を徹底破壊して合理化革命を起し新兵器鉄砲を駆使して並居る強豪を打倒した戦国争覇の主人公ながら、天下統一を目前に明智光秀謀反で落命し家臣の豊臣秀吉・徳川家康に手柄を奪われた悲劇の英雄
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戦国
毛利 元就
1497年 〜 1571年
100点※
安芸の小領主の次男坊から権謀術数で勢力を拡大、息子の吉川元春・小早川隆景を両翼と頼み、厳島の戦いで陶晴賢を討って大内家の身代を奪取、月山富田城の尼子氏も下して安芸・備後・周防・長門・石見・出雲・隠岐・伯耆・因幡・備中を制覇した戦国随一の智将
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戦国
徳川 家康
1542年 〜 1616年
100点※
旧主今川義元を討った織田信長と同盟して覇業の一翼を担い、豊臣秀吉没後秀頼を滅ぼして天下を奪取、信長の実力主義・中央独裁を捨て世襲身分制で群雄割拠を凍結し265年も時間を止めた徳川幕府の創設者
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