浅井長政の足軽を振出に8度も主君を替えた変節漢または転職の達人、豊臣秀長に仕え汚れ役と築城術で台頭するが真先に徳川家康へ寝返り忠勤に励んで譜代大名格・伊勢津藩32万3千石へ大出世
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照戦国
藤堂 高虎
1556年 〜 1630年
40点※
家系・子孫
- 藤堂氏は、近江犬上郡藤堂村を所領した土豪で出姓は不明である。藤堂虎高は、六角氏被官の近江鯰江城主三井乗綱(藤原姓)の次男で、豪商三井高利は近縁とされる。甲斐の武田信虎に仕えて偏諱を受け虎高を名乗ったが排他的な武田家に馴染まず近江に帰り、藤堂忠高の婿養子に迎えられ浅井亮政に仕えた。嫡子の高則は伊勢北畠氏救援軍に従って織田軍に討取られ、次男の高虎が家督を継いだ。次々と主を替え大名に出世した藤堂高虎は、長く男児に恵まれず丹羽長秀の三男高吉を養嗣子に迎えたが46歳になって嫡子高次が誕生、高虎の死に伴い高次が後を継ぎ高吉は分家して名張藤堂家を立てた。娘は蒲生忠郷(氏郷の嫡孫)・生駒正俊(親正の嫡孫)に嫁がせ、養女を家臣の藤堂高刑・作庭家の小堀遠州に与えている。伊勢津藩の藤堂家は営々と続いたが、幕末の藩主藤堂高猷は鳥羽・伏見の戦いで真先に官軍へ寝返り「さすがは高虎の子孫」と嘲笑を浴びた。
藤堂高虎と同じ時代の人物
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戦国
織田 信長
1534年 〜 1582年
140点※
中世的慣習を徹底破壊して合理化革命を起し新兵器鉄砲を駆使して並居る強豪を打倒した戦国争覇の主人公ながら、天下統一を目前に明智光秀謀反で落命し家臣の豊臣秀吉・徳川家康に手柄を奪われた悲劇の英雄
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戦国
毛利 元就
1497年 〜 1571年
100点※
安芸の小領主の次男坊から権謀術数で勢力を拡大、息子の吉川元春・小早川隆景を両翼と頼み、厳島の戦いで陶晴賢を討って大内家の身代を奪取、月山富田城の尼子氏も下して安芸・備後・周防・長門・石見・出雲・隠岐・伯耆・因幡・備中を制覇した戦国随一の智将
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戦国
徳川 家康
1542年 〜 1616年
100点※
旧主今川義元を討った織田信長と同盟して覇業の一翼を担い、豊臣秀吉没後秀頼を滅ぼして天下を奪取、信長の実力主義・中央独裁を捨て世襲身分制で群雄割拠を凍結し265年も時間を止めた徳川幕府の創設者
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