島津重豪の尻拭いを果し薩摩を幕末屈指の富裕藩へ押上げた維新の功労者
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調所 広郷
1776年 〜 1849年
70点※
調所広郷と関連人物のエピソード
- 島津重豪は、娘の茂姫を将軍徳川家斉に入輿させたのをはじめ、子や孫を有力大名の養子や夫人に送込んだ。将軍家の正室は皇室・五摂家が慣例で大名家から迎えた前例は無かったが、重豪は金銀をばら撒いて慣例を破り、水戸藩に頼んで『大日本史』に島津氏の先祖は源頼朝の庶子と記載させ、鎌倉に立派な頼朝の墓を建てて箔付けした。重豪の縁戚外交・豪奢・「蘭癖」は藩財政の破綻を招いたが、幕末最有力の閨閥は曾孫の島津斉彬・久光が中央政局へ乗出す基盤ともなった。重豪は、嫡子の島津斉宣に薩摩藩主を継がせたが財政緊縮を図ったため隠居させ、斉宣嫡子の斉興を藩主に据え死ぬまで実権を保持した。斉興嫡子の斉彬の利発さに期待し手元に置いて可愛がったという。さて、調所広郷の藩政改革で藩財政は回復したが、藩主として散々苦労した島津斉興は極端な守旧派となり、重豪の薫陶で西洋好き・政治好きとなった嫡子の斉彬(生母は正室の弥姫)を嫌い庶子の久光(生母は側室お由羅の方)の擁立を画策、薩摩藩は真二つに割れ両派の抗争は長年に及んだ。斉興は、斉彬が40歳を過ぎても家督相続を拒み「お由羅騒動」で斉彬派を壊滅させたが(西郷隆盛・大久保利通の父親も斉彬派の末端に連なる)、中央進出を志す斉彬は、大叔父(重豪の実子)の福岡藩主黒田長溥を通じて老中阿部正弘を抱込み、沖縄密貿易を密告する苦肉の策で斉興を追詰め(調所広郷が引責自害)将軍徳川家慶の名で隠退に追込んだ。ようやく薩摩藩主に就いた島津斉彬は、富国強兵・殖産興業を掲げて集成館事業などの近代化政策に取組み、西郷隆盛を抜擢して雄藩連合・公武合体運動に乗出したが、大老井伊直弼を打倒すべく率兵上洛を号令した直後に突然死した(毒殺説あり)。嗣子無く没した斉彬の遺言により島津忠義(久光の長子)が薩摩藩主を継ぎ、斉興の死に伴い「国父」島津久光が実権を掌握、斉彬の遺志を継いで幕末政局に乗出した。明治維新後は忠義の島津宗家と久光の玉里島津家が侯爵に叙され、一族は閨閥を壮大に拡げつつ今日に至る。昭和天皇の香淳皇后は忠義の孫、現当主の島津修久は近衛文麿の外孫で細川護煕とは従兄弟である。
- 島津重豪は、「蘭癖」と陰口されるほどの西洋好きで金に糸目を付けず西洋の文物を買集め、また贅沢な生活や政治活動(徳川将軍家等との閨閥づくり)により、薩摩藩は年収13万両に対して500万両・年利息50万両もの借金を抱え財政は破綻に瀕した。嫡子の島津斉宣は薩摩藩主を継ぐと財政再建のため緊縮を図ったが、島津重豪は斉宣を隠居させて孫の島津斉興を擁立し後見人として死ぬまで実権を握り続けた。が、借金経営が永久に続くはずもなく三都の商人は薩摩藩へ金を貸さなくなり、遂に藩財政は行き詰まって藩士は大幅減俸、領民への苛斂誅求は度を超え他藩領への逃散が相次いだ。あるとき、島津重豪は金二分ほどの入用があって江戸の七屋敷を隈なく探させたが金はなく「ああ、おれの貧乏もこれほどまでになったか」と嘆息したという。さすがの島津重豪もお手上げとなり、能吏の調所広郷を登用し財政再建を厳命した。重豪は間もなく没したが、調所は無茶苦茶な厳命を剛腕で遣遂げ、500万両の借金を踏倒し(250年賦・無利子償還)、砂糖の専売制や琉球貿易の促進により準備金150万両を備蓄するほどに盛返した。
- 島津重豪の「蘭癖」は多方面に及び、藩校造士館・医学館・天文館を開設したほか膨大な『成形図説』(博物全書)や『南山俗語考』(中国語辞典)を編纂するなど進歩的な学術・教育奨励政策を推進し、自身はローマ字を書きオランダ語を話すことができたと伝わる。また、奢侈好みの島津重豪は「薩摩藩の方言や風俗は野蛮だ。上方の風俗を見習うべし」「薩摩人の固陋を矯正する」と称し城下に相撲興行場・芝居小屋・遊女屋を設け遊興や贅沢を奨励した。娘の茂姫を入輿させた徳川家斉は歴代将軍の中で最も豪奢な生活をした人だが、隠居して大御所となるとき「わしは薩摩藩の岳父殿(島津重豪)のようにやりたい」と羨んだという。島津重豪の豪奢ぶりを物語るエピソードである。
- 膨大な借金で手の施しようがなくなった島津重豪は、臨時雇いの茶道方あがりの調所広郷を費用掛に登用し手腕を見定めて勝手方重役に抜擢し財政再建を厳命、調所は罵倒に耐えつつ商人を巡訪し浜村屋孫兵衛の支援を得て急場凌ぎの資金調達に成功、高名な済学者の佐藤信淵(元は出羽雄勝郡出身の医者)を招聘し荒療治の策を得た。調所広郷が窮余の一策として断行した250年賦・無利子償還は「薩摩藩の借金踏み倒し」と呼ばれ三都商人ら債権者の大反発を招いたが、一部の有力商人には密貿易品を扱わせるなど損失補填や便宜を図って取引関係を維持し米売買などの基幹業務を保全した。剛腕で債務整理を片付けると、調所広郷は重商主義改革を推進し藩の収入を大きく増やした。まず奄美大島・喜界島・徳之島の三島砂糖の惣買入制(専売制)を敷き、耕作から保管・運送・販売に至る経路を一元管理化して経費削減と増収を達成した。次に、島津重豪の小遣い稼ぎ(琉球支配委託料)を名目に琉球を通じた中国貿易の許可を獲得、認可上限の3万両を超えて取引を拡大し巨利を積んだが、後に超過部分が「密貿易」と断罪され調所の破滅を招いた。農政改革でも成果をあげたが、奄美群島の農民から砂糖を安く買い叩いたうえに重税を課し、薩摩藩内の領民にも苛斂誅求を行い村落ごと他藩領へ逃散する事件が頻発した。500万両の借金を踏倒したうえ準備金150万両を蓄えた調所広郷は筆頭家老へ上り詰め、斉興派と斉彬派の対立が起ると微妙な立場に立たされたが、島津重豪に似て蘭癖で政治好きの島津斉彬が藩主に就くと苦労が水泡に帰すと考え斉興に与した。親の斉興を弾劾できない島津斉彬は調所広郷を攻撃し老中阿部正弘と謀って琉球密貿易を密告するという苦肉の策を強行、江戸へ弁明に赴いた調所は斉興に罪が及ぶことを恐れ芝藩邸で服毒自殺した。図太い斉興は藩主に居座り、斉彬派は側室由羅による斉彬一家の呪詛調伏を弾劾したが、激怒した斉興は首謀者10名を切腹させ斉彬派を一掃した(お由羅騒動)。斉彬は孤立したが、老中阿部正弘と幕閣は強権発動で斉興を隠居させ斉彬を薩摩藩主に据えた。
- 島津斉彬・久光は共に島津斉興の実子だが斉彬は嫡子で久光は庶子、斉彬を嫌う斉興は久光の擁立を画策したが藩主ながら身分制の壁に阻まれた。斉興正室の弥姫(周子)は鳥取藩主池田治道の娘、和漢の教養ある賢婦人で自らの手で斉彬を育てたといい、姉妹は佐賀藩主の鍋島斉直に入輿し直正を産んだ。従兄弟の島津斉彬と鍋島直正は幼少期から共に優秀で競争心があったかも知れず、斉彬が一橋派に与したのに対し直正は大老井伊直弼の親友だった。鍋島直正は、桜田門外事変後は中央政局に距離を置き西洋軍備の導入と藩士教育に注力、戊辰戦争の帰趨が決してから官軍に鞍替えしたがアームストロング砲など最新兵器の威力で肥前佐賀藩は薩長土肥の一角に滑り込んだ。さて島津斉彬は、徳川斉敦(将軍徳川家斉の実弟で一橋家当主)の娘英姫を正室に迎え、六男二女を生したが悉く夭逝し男系は断絶した。一方、島津久光を産んだお由羅の方は、江戸庶民の出自で(父親は船問屋・大工・八百屋など諸説あり)江戸薩摩藩邸へ奉公に上り、藩主斉興のお手が付いて老女島野の養女として側室に入った。江戸藩邸の正室弥姫に対し由羅は薩摩の「お国御前」とされ参勤交代の度に同行するほど寵愛された。由羅の囁き故かは不明だが、斉興は久光擁立を企て薩摩藩を二分する抗争が勃発、斉彬は後援者の主席老中阿部正弘と謀り琉球密貿易を事件化して実力者の調所広郷を自害させ、兵道家(山伏)による斉彬一家の呪詛調伏を弾劾したが反撃され壊滅(お由羅騒動)した。結局、阿部正弘の強権発動で斉興は隠居し斉彬が家督を奪ったが、呪詛の霊験か六男二女は悉く夭逝し斉彬も率兵上洛の直前に突然死、健在の斉興は久光長子の島津忠義を薩摩藩主に据え実権を奪回した。斉彬は琉球解放を危惧した斉興に毒殺された疑いが強く、そう信じた西郷隆盛は久光を毛嫌いし楯突いて遠島に処された。島津久光は、正室千百子との間に四男を生し、長子の忠義が島津宗家を継ぎ他の3人は各々島津分家を相続した。久光は維新の大功により分家を許され公爵玉里家を創設、側室の山崎武良子に産ませた島津忠済に相続させた。
調所広郷と同じ時代の人物
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維新
大久保 利通
1830年 〜 1878年
130点※
島津久光を篭絡して薩摩藩を動かし岩倉具視と結んで明治維新を達成、盟友の西郷隆盛も切捨てる非情さで内治優先・殖産興業・富国強兵の路線を敷き近代国家の礎を築いた日本史上最高の政治家
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維新
高杉 晋作
1839年 〜 1867年
110点※
吉田松陰の枠を超えた「防長割拠論」を実践し庶民軍の奇兵隊を創設して洋式軍備を拡充、功山寺挙兵で佐幕政権を覆し薩長同盟で背後を固め第二次長州征討の勝利で幕威を失墜させた長州維新の英雄
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維新
西郷 隆盛
1828年 〜 1877年
100点※
島津斉彬の懐刀として政治力・人脈を培い大人格者の威望をもって討幕を成遂げた薩摩藩の首魁、没落する薩摩士族に肩入れし盟友の大久保利通に西南戦争で討たれたが「大西郷」人気は今も健在
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