島津重豪の尻拭いを果し薩摩を幕末屈指の富裕藩へ押上げた維新の功労者
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照維新
調所 広郷
1776年 〜 1849年
70点※
家系・子孫
- 調所氏は藤原北家流の藤原調所(ちょうそ)恒親を祖とする。恒親は神職として京都から大隅国へ赴任し、調所職(ちょうそしき)という徴税職も兼ねたことから調所を名字とした。川崎家から入嗣した調所広郷が相続したのは、調所大炊左衛門の養子調所内記の次男調所善右衛門を家祖とする調所家であり、薩摩藩士とはいえ家格は最下層で家禄は10石程だった。沖縄密貿易事件で調所広郷が非業の死を遂げた後、遺族は藩の主導権を握った斉彬派に憎悪され徹底的な迫害を受けた。筆頭家老の家禄と屋敷を召上げられたうえ当初より家格を下げられ、一時は一家離散の境遇に落とされた。しかし、広郷三男の調所(ちょうしょ)広丈は苦境を乗越え志士活動に奔走、薩摩藩士として戊辰戦争・函館戦争にも従軍し、維新後は北海道開拓使に七等官出仕、開拓史で順調にキャリアを積み1882年に札幌県令に栄進、札幌農学校初代校長にも就いた。1886年の開拓史廃止に伴い元老院議官に転じ、高知県知事・鳥取県知事を経て貴族院議員となり、1900年に男爵を受爵し雪辱を果した。
調所広郷と同じ時代の人物
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維新
大久保 利通
1830年 〜 1878年
130点※
島津久光を篭絡して薩摩藩を動かし岩倉具視と結んで明治維新を達成、盟友の西郷隆盛も切捨てる非情さで内治優先・殖産興業・富国強兵の路線を敷き近代国家の礎を築いた日本史上最高の政治家
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維新
高杉 晋作
1839年 〜 1867年
110点※
吉田松陰の枠を超えた「防長割拠論」を実践し庶民軍の奇兵隊を創設して洋式軍備を拡充、功山寺挙兵で佐幕政権を覆し薩長同盟で背後を固め第二次長州征討の勝利で幕威を失墜させた長州維新の英雄
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維新
西郷 隆盛
1828年 〜 1877年
100点※
島津斉彬の懐刀として政治力・人脈を培い大人格者の威望をもって討幕を成遂げた薩摩藩の首魁、没落する薩摩士族に肩入れし盟友の大久保利通に西南戦争で討たれたが「大西郷」人気は今も健在
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