豊田佐吉の長男で共に画期的な動力織機を発明するが、繊維産業の凋落を見越し紡績から自動車への事業転換を敢行したトヨタグループ創業者
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照戦前
豊田 喜一郎
1894年 〜 1952年
100点※
家系・子孫
- 豊田伊吉は農民だが大工を副業とし、長男の豊田佐吉は大工仕事を手伝ううちに職人を志し「発明王」へと駆上がった。愛知県湖西市山口の生家跡には「豊田佐吉記念館」が建てられている。豊田佐吉・平吉・佐助は酒豪の仲良し三兄弟で、後年、彼らの男児は悉くトヨタ自動車グループの要職に就き平吉二男の豊田英二は5代目社長となる。さて豊田佐吉は、父の大工仲間だった佐原五郎作の妹たみを娶り長男の豊田喜一郎を産ませたが、新妻は研究に没頭し家に寄付かない佐吉に愛想を尽かして実家へ逃戻り、乳児の喜一郎は祖父母に養育された。豊田佐吉の後妻に入った浅子は愛子を産み、発明に没頭する夫を支え、工場が建つと乗込んで内助の功を発揮、佐吉没後は「ゴッドマザー」として豊田家に君臨した。豊田喜一郎は異母妹の愛子とは「周囲が訝るほど」仲睦まじい間柄だったが継母の浅子には疎まれて育ち、豊田佐吉は愛子の婿養子に豊田利三郎を迎えると浅子の差金で喜一郎を廃嫡し利三郎を家長に据えた。豊田利三郎(旧姓児玉)は、豊田紡織の創業を支援した三井物産名古屋支店長の児玉一造(後に東洋綿花初代社長)の弟で、神戸高等商業学校(神戸大学)・東京高等商業学校(一橋大学)から伊藤忠合名(伊藤忠商事)に入りマニラ駐在員等を務めた商社マン、婿入り後すぐに豊田紡織の経営を任され豊田自動織機・豊田自動車工業の初代社長に就任した。
- 豊田喜一郎と豊田利三郎のギクシャク関係は豊田佐吉没後の自動車事業参入を巡り破綻、リスクを厭う利三郎は喜一郎を禁治産者にしてまで封殺しようと画策したが、愛子と豊田英二の支持で喜一郎に軍配が挙った。豊田喜一郎が興した豊田自動車工業は軍需に乗って大発展を遂げたが、繊維不況のなか豊田利三郎が固執した紡績・織機事業は第二次大戦勃発に伴う輸出停止で壊滅し自動車事業へ再編された。が、ドッジ・ライン恐慌で豊田自動車工業が経営危機に陥り、社長の豊田喜一郎が詰腹を切らされると、豊田利三郎は血縁で子分の石田退三を3代目社長に据えた。朝鮮戦争のトラック特需で業績がV字回復を遂げ、トヨタ幹部は豊田喜一郎の社長復帰を望んだが1952年無念の急死、間もなく豊田利三郎も病没した。「トヨタ中興の祖」石田退三は、喜一郎長男の豊田章一郎を取締役に迎え、1967年喜一郎従弟の豊田英二に5代目社長を禅譲、1977年利三郎長男の豊田幸吉郎を「二代目はボンクラが多くていかん」と豊田自動織機専務から平取締役に降格させた。石田退三は没したが、1982年「工販合併」でトヨタ自動車株式会社が発足すると豊田章一郎が6代目社長に就任し「大政奉還」が実現、章一郎は弟の豊田達郎に7代目を譲り、バブル崩壊後の難局に際し奥田碩・張富士夫・渡辺捷昭へ社長を預けたが、2009年長男の豊田章男が11代目社長に就任した。豊田喜一郎は京都高島屋4代目の飯田新七の娘二十子を妻とし二男二女をもうけたが、二児と嫡孫がトヨタ自動車社長となった。一方、豊田利三郎・愛子の血筋は本家から外されたものの、豊田幸吉郎ら4人の男児は全て系列企業に役員ポストを与えられた。世襲制が根強いトヨタグループで他の豊田男子も悉く要職に就いているが、利三郎家を除き一族の暮らしぶりは至って質素で派手な閨閥を作らず子弟教育に厳しいことで知られる。
豊田喜一郎と同じ時代の人物
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戦前
伊藤 博文
1841年 〜 1909年
100点※
高杉晋作の功山寺挙兵を支えた長州維新の功労者、大久保利通没後の明治政界を主導し内閣制度発足・大日本帝国憲法制定・帝国議会開設・不平等条約改正・日清戦争勝利を成遂げ国際協調と民権運動との融和を進めた大政治家
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照 -
戦前
渋沢 栄一
1840年 〜 1931年
100点※
徳川慶喜の家臣から欧州遊学を経て大蔵省で井上馨の腹心となり、第一国立銀行を拠点に500以上の会社設立に関わり「日本資本主義の父」と称された官僚出身財界人の最高峰
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戦前
児玉 源太郎
1852年 〜 1906年
100点※
華も実もある日露戦争の英雄にして植民地経営を初めて成功させた台湾総督、若死にが惜しまれる陸軍長州閥最高の逸材
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