抗争の末に三好長慶に屈服するも諸侯に通じて三好政権打倒を画策、三好三人衆・松永久秀の謀反に斃れたが塚原卜伝直伝「一つの太刀」で奮闘し最後の意地を示した剣豪将軍、弟の足利義昭が織田信長を裏切り室町幕府は滅亡
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足利 義輝
1536年 〜 1565年
50点※
足利義輝と関連人物のエピソード
- 三好長慶は、陪臣ながら室町幕府の実権を掌握し畿内・四国10カ国に君臨した「最初の戦国天下人」、寛大故に生涯反逆に悩まされ没後三好政権は瓦解し織田信長に滅ぼされた。1507年管領細川政元暗殺で養子三人の後継レースが始まると(永正の錯乱)、阿波の三好之長は11代将軍足利義澄を戴いて主君澄元を細川宗家当主に押し上げるが、大内義興軍の京都制圧で足利義尹(義稙)が将軍に復位すると大内についた細川高国に逆転され、決戦を挑むも大敗して阿波へ逃避(船岡山合戦)、嫡子長秀を合戦で喪い、大内軍撤兵に乗じて巻返しを図るも高国擁する六角定頼に敗れ自害した(等持院の戦い)。之長の嫡孫三好元長は、澄元の嫡子細川晴元を担いで京都を奪取(桂川原の戦い)、朝倉宗滴に奪い返されるも高国の増長により越前軍は撤兵し、1531年播磨の浦上村宗を味方につけて反撃に出た高国を討って両細川の乱に終止符を打った(大物崩れ)。が、間もなく晴元と元長の抗争が勃発、元長は劣勢の晴元が扇動した一向一揆の大軍に襲われ憤死した(飯盛城の戦い)。元長の嫡子三好長慶は、晴元に帰参して実力を養い、1546年12代将軍足利義晴・細川氏綱の反乱を鎮圧(舎利寺の戦い。義晴は逃亡先の近江坂本で嫡子足利義輝に将軍位を譲る)、1549年ライバルの木沢長政と三好政長を討倒し晴元・義輝を追放して室町幕府の実権を掌握(江口の戦い)、反抗を続けた晴元・義輝を1558年に屈服させ(北白川の戦い)、摂津・阿波の両拠点を軸に山城・丹波・和泉・播磨・讃岐・淡路・河内・大和まで勢力圏に収めた。が、詰めの甘い三好長慶の運命は晩年に暗転した。十河一存の病死を機に和泉の畠山高政・近江の六角義賢に挟撃され、三好実休が戦死、屋台骨の実弟二人に続いて嫡子三好義興も病死し、細川晴元・氏綱の死で大義名分の管領も失うなか、長慶は飯盛山城に引篭もり、実弟の安宅冬康まで謀反の疑いで誅殺した。長慶没後、養子義継が後を継いだが、三好三人衆と松永久秀の勢力争いで三好政権は瓦解、織田信長の畿内侵攻に蹂躙された。シビアな信長は敵対勢力を抹殺し、傀儡将軍足利義昭を追放して室町幕府を滅ぼし、下克上・天下統一を実現した。
- 三好氏は、鎌倉時代に阿波守護となった阿波小笠原氏(信濃源氏)の末裔で、鎌倉時代初期に阿波三好郡に土着した小笠原長経より三好を名乗り、室町時代に四国探題格で四国全部の守護に就いた細川家に随従し阿波守護代を世襲した。智勇兼備と謳われた三好之長は、管領細川政元暗殺後のお家騒動(変人政元は愛宕の勝軍地蔵を信仰して飛行自在の妖術修行に凝り一切女色を断ったため子が無かった)で主君細川澄元を擁して畿内に進出したが、大内義興・細川高国・六角定頼に敗れ嫡子長秀と共に自害に追込まれた。長秀の嫡子三好元長は、細川高国を討って復讐を果したが、澄元の嫡子細川晴元と対立、晴元が扇動した一向一揆の大軍に襲われ切腹、内臓を天井に投げつける壮絶死を遂げた。之長敗死の翌年に生れた元長の嫡子三好長慶は、仇敵細川晴元に帰参して実力を養い、木沢長政・三好政長を討って晴元と将軍足利義輝を追放し室町幕府の実権を掌握した(三好政権)。三好長慶の覇業を支えたのは、弟の三好実休・安宅冬康・十河一存らの一門衆であったが、一存の病死に続いて実休が戦死し、嫡子三好義興も22歳で早世、冬康は謀反を疑い誅殺してしまった。長慶が男児無く死ぬと、一存の嫡子三好義継が後を継いだが、一門の三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)と松永久秀(長慶の家宰で娘婿)の勢力争いにより三好政権は内部崩壊、織田信長の畿内侵攻で三好三人衆は容易く掃討され、義継と松永久秀は信長に降伏するも後に謀反し滅ぼされた。三好の嫡流は途絶えたが、元長の末弟三好善行の子為三と一門の三好政勝の子孫が徳川幕臣として家名を残した。三好実休の子で十河一存の養子に入った十河存保は、長宗我部元親に敗れるも秀吉に仕え讃岐十河3万石の大名に復活したが、秀吉の九州征伐に従い島津家久に敗れ討死(戸次川の戦い)、遺児十河存英は三好政康ら三好残党と共に大坂夏の陣で戦死した。
- 松永久秀は、三好長慶の下で勢力を伸ばすが長慶没後三好一門衆と対立して孤立、織田信長に帰順して大和支配を回復するも信長包囲網に加担、二度目の謀反に敗れて名器「平蜘蛛」諸共自爆死した下剋上の代名詞である。狡猾な辣腕家、主家簒奪・将軍弑逆・大仏焼討ちの「三悪事」で戦国三大梟雄に挙げられるが、斎藤道三・宇喜多直家のように恩人殺害や追放の証拠は無い。20歳過ぎで仕えた三好長慶は、微賤の出ながら有能な松永久秀を重用し、木沢長政・三好政長を討ち細川晴元・将軍足利義輝を追放して三好政権を樹立すると、40歳で京都所司代に就いた久秀は朝廷・幕府・寺社との折衝で頭角を現し、茶道・連歌に通じて一流の文化人となり、堺代官も兼ねて貿易で巨富を積み三好家中第一の勢力家となった。三好長慶が義輝・晴元を降し四国・畿内10カ国に君臨して全盛期を迎えるなか、大和侵攻を託された久秀は戦国城郭の範となる信貴山城(天守閣)・多聞山城(多聞造り)を築いて国人勢を討平した。が、主君長慶の運命は突如暗転、十河一存・三好実休・安宅冬康と柱石の実弟と嫡子三好義興まで相次いで喪い(久秀の陰謀説あり)、1564年自らも病没した。松永久秀は、近江六角・河内畠山の挟撃を退け、黒幕の将軍足利義輝暗殺により政権を保ったが(永禄の変)、権勢を妬む三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)ら一門衆との内部抗争が勃発、弟松永長頼の敗死で支配地の丹波を失い、三好義継を寝返らせ東大寺夜襲で三人衆を撃退するも挽回ならず(東大寺大仏殿の戦い)、1568年織田信長に帰服し加勢を得て大和を回復した。が、宿敵筒井順慶・興福寺の反撃で十市城を奪われ、信長に背いて近江戦線を離脱し順慶に決戦を挑むも大敗(辰市城の戦い)、孤立した久秀は信長包囲網に活路を託し謀反を起すが武田信玄急死で挫折、多聞山城と夥しい献上物を差し出して赦免され、佐久間信盛旗下で石山合戦に従軍した。そして1577年、信長包囲網再結成に呼応して再び謀反するが、頼みの上杉謙信が急死、大軍に信貴山城を攻囲されるなか信長所望の名物茶器「平蜘蛛」と共に自爆死、嫡子久通と妾腹の二児も処刑され松永氏は滅亡した。
- 松永久秀は、寝返りが茶飯事で謀略渦巻く畿内政局をリードして三好政権を支え、主君長慶没後は三好一門衆の総スカンを食って孤立しつつも逸早く織田信長に帰服して勢力を保ち、猜疑心の強い信長から使い捨てにされる未来を予見して謀反の先鋒役を果した智謀の士である。「寝返り癖」は細川政元暗殺後の乱脈極まる畿内政局にあっては別段目立つことではなく、恩人の長慶には終生忠節を貫き、信長への最初の謀反は大和救援を拒まれたため止むを得ない面があり、実際に信長も赦免している。猜疑心強烈で裏切りを許さない信長の性格を知れば、上杉謙信と石山本願寺の強勢をみて捨て身の勝負に出たのも頷ける。戦国大名としては、畿内勢共通の弱兵故に戦闘には強くなかったが、京都・堺・奈良をおさえて抜群の経済力を備え、防衛強固な信貴山城・多聞山城で戦国城郭建築の先駆者となり、茶道や連歌に通じて朝廷・幕府の権威を巧みに利用、いずれも信長が踏襲したことを考えると天下獲りの先導役だったともいえよう。ただ、三好三人衆ら同僚の悉くに憎悪され三好政権衰亡の元凶となったのは不徳の致す所で、苛酷な施政に苦しめられた領民は久秀が滅ぶと農具を売って酒に換え大いに祝ったという。三好家簒奪・将軍足利義輝暗殺・東大寺大仏殿焼討ちは久秀の「三悪事」とされるが、義輝弑逆の主犯は三好義継と三人衆で久秀は不関与あるいは消極的だったとする説もあり、大仏焼討ちの非は東大寺に陣取った三人衆側にあるだろう。久秀自害の日が奇しくも大仏焼討ちから10年後の同日10月10日であったことは事実のようだが、後世の軍記物は久秀を異常な好色漢に仕立て、いつも美女数人を引き連れて行軍し興じると紙帳を張って用を足した云々と伝えるが、信憑性は乏しい。また、年貢滞納の百姓に蓑を着せて火を放ちもがき死ぬ様を「蓑虫おどり」と称して楽しんだとか(斎藤道三にも類話あり)、大ケチながら貯めこんだ名物珍品を気前良く信長に献上して命を繋いだ云々の悪評も、伝説の域を出ない。恩人を次々に葬り去って成り上がった斎藤道三・宇喜多直家と並べて戦国三大梟雄と呼ぶのは久秀には酷であろう。
- 六角氏は、宇多源氏佐々木氏の嫡流の名門である(八幡太郎義家から源頼朝・足利尊氏と続く棟梁家は清和源氏で別系統)。頼朝挙兵時に貧乏ながら旅人を殺して馬を奪い伊豆に馳せ参じた佐々木四郎高綱を祖とし(梶原景季との宇治川先陣争いで有名)、高綱と兄三人の活躍で佐々木氏は近江をはじめ17カ国の守護職を占めるほどに栄えたが、執権北条氏に圧迫されたうえ、家督争いで4家(六角・京極・大原・高島)に分裂し勢力が衰えた。六角の名字は京都の屋敷が六角堂近くにあったことに由来する。鎌倉幕府末期、分家の京極家からバサラ大名佐々木道誉が登場、足利尊氏の室町幕府樹立を支えて幕府要職と6ヶ国守護を兼ね、近江では京極氏と六角氏の覇権争いが続いた。応仁乱の最中に京極家で後継争いが勃発(京極騒乱)、争闘30年の末に六角高頼の加勢を得た京極高清が勝利し、近江は六角氏と京極氏が南北分割統治することとなった。六角高頼は、公家・寺社と争いつつ権益を奪って勢力を拡大、9代将軍足利義尚の親征を退け(近江で陣没)、10代将軍足利義材の反攻上洛を撃退した。後継の次男六角定頼は、観音寺城に拠って戦国大名化し、細川高国を担いで細川澄元・三好之長を討破り京都を制圧して足利義晴を12代将軍に擁立、京極家で台頭した浅井亮政と和睦、飯盛城合戦後に暴徒化した一向一揆を掃討し(山科本願寺焼討ち)、高国を討った細川晴元と結んで足利義輝を13代将軍に擁立した。定頼の嫡子六角義賢は、三好長慶に追放された義輝・晴元を近江に保護して抗戦、京都に攻込むも撃退され、浅井長政に大敗して近江支配まで侵されるなか、河内の畠山高政と通謀挙兵するも何故か途中退場、嫡子六角義治の後藤賢豊暗殺(観音寺騒動)で家臣が離反するなか、三好三人衆に与して織田信長の従軍要請を拒否し、大軍に攻められて観音寺城から逃亡し守護大名六角氏は滅亡、甲賀を拠点にゲリラ戦を続けるが、信長包囲網瓦解と共に家名再興の夢破れた。が、義賢は豊臣秀吉の庇護下で78歳まで生永らえ、嫡子義治は加賀藩士・次男義定は徳川旗本として命脈を保った。
- 細川氏は、将軍足利氏の庶流で斯波氏・畠山氏と共に将軍に次ぐ管領職を世襲した「三管領」の名門である。応仁の乱の東軍総大将細川勝元の死後、管領を継ぎ「半将軍」と称された嫡子細川政元は10代足利義材(義稙)を追放し11代将軍に足利義澄を擁立したが(明応の政変)愛宕信仰が嵩じて飛行自在の妖術修行に凝り一切女色を断ったため子を生さず養子3人の家督争いが勃発、澄元擁立を図った政元は澄之に暗殺され(永正の錯乱)澄之を討った澄元・高国の抗争が戦国乱世に拍車を掛けた。三好元長ら阿波勢を擁する細川晴元(澄元の嫡子)が高国を討ち24年に及んだ「両細川の乱」は決着したが(大物崩れ)勝ち組の権力争いへ移行、晴元は一向一揆を扇動して元長を討ち三好長慶(元長の嫡子)を従えるが、実力を蓄えた長慶は12代将軍足利義晴と晴元を追放し(江口の戦い)反抗を続けた晴元と13代将軍足利義輝(義晴の嫡子)を降して三好政権を樹立した。長慶は傀儡管領に細川氏綱(高国の養子)を立てたが、三好政権瓦解と共に細川一族も没落した。その後の細川一門では和泉上守護家(細川刑部家)から出た細川藤孝の肥後細川家のみが繁栄した。細川澄元・晴元に属した細川元常は、一時阿波へ逃れるも大物崩れで所領を回復、三好長慶の台頭で再び没落し将軍義晴・義輝と逃亡生活を共にした。元常没後、甥の細川藤孝(義晴落胤説あり)は将軍義晴を後ろ盾に元常の嫡子晴貞から家督を奪い、三淵晴員・藤英(実父・兄)と共に名ばかりの将軍家を支え、義輝弑逆後は新参の明智光秀と共に織田信長に帰服し足利義昭の将軍擁立に働いた。関ヶ原の戦いで東軍に属し豊前中津39万9千石に大出世した嫡子の細川忠興は、光秀の娘珠(ガラシャ)を娶り四男をもうけた。忠興は徳川家康に忠誠を示すため長男忠隆に正室(前田利家の娘)との離縁を迫るが背いたため廃嫡、人質生活で徳川秀忠の信任を得た三男忠利を後嗣に就け、忠利は国替えで肥後熊本54万石の太守となった。不満の次男興秋は細川家を出奔し、豊臣秀頼に属し大坂陣で奮闘するが捕らえられ切腹した。忠利の嫡流は7代で断絶、忠興の四男立孝の系統が熊本藩主を継ぎ79代首相細川護熙はこの嫡流である。
- 細川藤孝は、没落した和泉上守護家の当主で常に勝者に属し肥後熊本藩54万石の開祖となった政界浮遊の達人である。将軍足利義晴・細川晴元に従い三好長慶に所領を奪われた細川元常の死後、甥の細川藤孝(義晴落胤説あり)は嫡子晴貞から家督を奪い、三淵晴員・藤英(実父・兄)と共に将軍家を支え、足利義輝弑逆後は弟の足利義昭を救出して若狭武田氏・越前朝倉氏を頼り、1568年新参の明智光秀と共に織田信長に帰服し幕府再興に働いた。が、1571年将軍義昭が恩人を裏切り信長包囲網に加担、1573年武田信玄上洛の尻馬に乗って挙兵に及ぶと細川藤孝は明智光秀・荒木村重と共に義昭を見限って信長に臣従し、京都長岡と勝竜寺城を与えられ岩成友通討伐に参陣した。遅れて降伏した三淵藤英・秋豪父子は信長に誅殺された。細川藤孝は、上司明智光秀の娘ガラシャを嫡子忠興の妻に迎え、光秀の旗下で畿内平定戦から丹波攻略、松永久秀討伐と東奔西走、1579年波多野秀治・赤井直正を滅ぼし丹波平定が成ると光秀は近江坂本に丹波を加増され、若狭計略を担当した藤孝は若狭守護一色義道を討ち丹後南半11万石を与えられ宮津城に入った。1582年本能寺の変が勃発、光秀に出陣を促された細川藤孝は剃髪隠居して家督を忠興に譲り(幽斎玄旨と号す)ガラシャを幽閉して日和見を決込み、まさかの裏切りで気勢を削がれた光秀は豊臣秀吉に敗れ滅亡(山崎の戦い)、藤孝は早速秀吉に帰順し娘婿の一色義定を討って丹後を平定し清洲会議で加増を受けた。耄碌した秀吉が千利休・豊臣秀次を殺すと両人に近い細川忠興は切腹も取沙汰されたが徳川家康に救われ、秀吉没後直ちに家康に帰服し丹後12万石に豊後杵築6万石を加増された。1600年関ヶ原の戦いが起ると、大坂屋敷のガラシャは石田三成に襲われ自害、忠興は弔い合戦で武功を挙げ豊前中津39万9千石へ加転封となった。丹後田辺城の細川藤孝は西軍に囲まれ討死を覚悟したが、歌道「古今伝授」伝承者の死を惜しむ弟子達が奔走し後陽成天皇の勅命により降伏、戦後救出され京都で悠々自適の余生を送った。細川家は忠興の後嗣忠利の代に肥後熊本54万石へ加転封となり現代の細川護熙まで繁栄を続ける。
- 塚原卜伝は、秘剣「一つの太刀」を編み出した東国七流・神道流の大成者で室町将軍足利義澄・義晴・義輝に仕え合戦37・真剣勝負19で212人を斃した生涯無敗の剣豪、上泉信綱・北畠具教・細川藤孝にも妙技を伝え創始した鹿島新当流は師岡一羽(一羽流)・根岸兎角之助(微塵流)・斎藤伝鬼坊(天道流)に受継がれた。父の卜部常賢は常陸鹿島城3万石の大掾景幹の家老で剣術道場主、次男の卜伝は塚原城主(3~4千石)塚原安幹に入嗣したが養父も飯篠長威斎直伝の神道流剣士という剣術一家に育った。1505年16歳の塚原卜伝は武者修行のため上洛し落合虎左衛門ら京八流の兵法者との立合いで名を挙げ将軍足利義澄に出仕したが、永正の錯乱に乗じた大内義興・細川高国が京都を制圧し足利義稙を将軍に擁立、追われた義澄は近江で病死し後ろ盾の細川澄元・三好之長は船岡山合戦に敗れ阿波へ撤退した。塚原卜伝は義澄の遺児義晴を守って奮闘を続けたが1519年義興の山口帰国を機に常陸へ戻り、鹿島神宮に千日参籠して秘剣「一つの太刀」を会得し旧姓に因んで「卜伝」を名乗った(元は高幹)。1523年再び廻国修行へ出た塚原卜伝は、武蔵川越城下で小薙刀の梶原長門を一瞬の差で斃して妙技を試し、細川高国に擁立され将軍となった足利義晴に帰参したが細川晴元・三好元長の京都侵攻で再び近江へ逃亡、1531年大物崩れで高国が滅ぼされた2年後に卜伝は鹿島へ帰った。義晴は近江坂本で嫡子義輝に将軍位を譲り三好長慶に反攻を企てるが1550年病没、1556年67歳の塚原卜伝は三たび上洛し加勢するが北白川の戦いに敗れた将軍義輝・細川晴元は京都へ帰還し三好政権の傀儡となった。塚原卜伝は義輝に「一つの太刀」を授けて京都を去り諸国を巡歴、伊勢国司北畠具教に「一つの太刀」を授け甲斐の山本勘助や近江の蒲生定秀を訪ねた後、1565年将軍義輝が三好三人衆に弑殺された永禄の変の翌年京都相国寺の牌所を詣でて鹿島へ帰り82歳まで長寿を保った。主家の大掾氏は上杉謙信・佐竹義昭に滅ぼされたが塚原・卜部氏は所領を保ち、塚原卜伝は道場指南のかたわら歌を詠む悠々自適の余生を送った(和歌集『卜伝百首』が現存)。
足利義輝と同じ時代の人物
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戦国
織田 信長
1534年 〜 1582年
140点※
中世的慣習を徹底破壊して合理化革命を起し新兵器鉄砲を駆使して並居る強豪を打倒した戦国争覇の主人公ながら、天下統一を目前に明智光秀謀反で落命し家臣の豊臣秀吉・徳川家康に手柄を奪われた悲劇の英雄
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戦国
毛利 元就
1497年 〜 1571年
100点※
安芸の小領主の次男坊から権謀術数で勢力を拡大、息子の吉川元春・小早川隆景を両翼と頼み、厳島の戦いで陶晴賢を討って大内家の身代を奪取、月山富田城の尼子氏も下して安芸・備後・周防・長門・石見・出雲・隠岐・伯耆・因幡・備中を制覇した戦国随一の智将
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戦国
徳川 家康
1542年 〜 1616年
100点※
旧主今川義元を討った織田信長と同盟して覇業の一翼を担い、豊臣秀吉没後秀頼を滅ぼして天下を奪取、信長の実力主義・中央独裁を捨て世襲身分制で群雄割拠を凍結し265年も時間を止めた徳川幕府の創設者
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