陸軍以上の強硬論で日中戦争を泥沼化へ導き、日独伊三国同盟・国家総動員法・南部仏印進駐・対米開戦を決定した亡国の主人公
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照戦前
近衛 文麿
1891年 〜 1945年
-20点※
家系・子孫
- 近衛篤麿は公家社会の頂点「五摂家」筆頭の公爵で貴族院議長を務めたが、「アジア主義」を標榜する右翼活動家で東亜同文会の会長、平和主義の陸羯南らが脱会騒動を起すほどの対ロシア強硬派で鳴らした。近衛篤麿は、侯爵前田慶寧(最後の加賀藩主)の三女衍子を娶り、嫡子の近衛文麿を授かった。近衛家で正嫡の嗣子誕生は実に250年ぶりの慶事であったが、衍子は産褥熱で9日後に病没、近衛篤麿は衍子の妹貞子を後添えに迎え三男一女を産ませた。貞子は実子の近衛秀麿への家督相続を願い継子の近衛文麿を疎外、父の死に伴い文麿は無事に公爵家を継いだが、十代半ばに出生の秘密を知り愕然「この世のことはすべて嘘だと思うようになった」という。弟の近衛秀麿は家督を継げなかったが子爵に叙され、本邦オーケストラ指揮者の先駆として名を成した。妹の武子は公爵大山柏(大山巌の嗣子)に嫁いでいる。近衛文麿は一高生のとき電車内で一目惚れした子爵毛利高範の次女千代子に求婚し、近衛家当主には不釣合いな二万石の小大名家との婚姻を強行した。が、異例の恋愛結婚から間もなく近衛文麿は祇園の芸妓を落籍、多重人格性を垣間見せている。毛利高範は肥後宇土藩主細川行真の次男に生れ、廃藩置県後に最後の豊後佐伯藩主毛利高謙から子爵家を相続、ドイツ仕込みの「毛利式速記法」で知られた。近衛文麿・千代子夫妻は二男二女を生した。長男の近衛文隆は、米国プリンストン大学に学びアマチュアゴルファーとして活躍、帰国後は陸軍へ進み満州で終戦を迎えたがソ連に拘留され1956年シベリアで落命、嗣子の無い正子夫人は甥の細川忠煇を養子に迎え近衛家を継がせた。細川忠煇は侯爵(熊本藩主細川家当主)細川護貞と近衛文麿の次女温子の次男で、生家を継いだ兄の細川護熙は「近衛文麿の孫」旋風を起し小沢一郎に担がれ第79代首相となった。細川護熙はスマートで大衆人気を博したことも難局に政権を投出したことも、祖父の近衛文麿によく似ている。なお、近衛文麿次男の近衛通隆は伯父の近衛秀麿に入嗣している。
近衛文麿と同じ時代の人物
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戦前
伊藤 博文
1841年 〜 1909年
100点※
高杉晋作の功山寺挙兵を支えた長州維新の功労者、大久保利通没後の明治政界を主導し内閣制度発足・大日本帝国憲法制定・帝国議会開設・不平等条約改正・日清戦争勝利を成遂げ国際協調と民権運動との融和を進めた大政治家
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戦前
板垣 退助
1837年 〜 1919年
100点※
中岡慎太郎の遺志「薩土密約」を受継ぎ戊辰戦争への独断参戦で土佐藩を「薩長土肥」へ食込ませ、自由党を創始して薩長藩閥に対抗し自由民権運動のカリスマとなった清貧の国士
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戦前
豊田 喜一郎
1894年 〜 1952年
100点※
豊田佐吉の長男で共に画期的な動力織機を発明するが、繊維産業の凋落を見越し紡績から自動車への事業転換を敢行したトヨタグループ創業者
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