戦前は日中提携・欧州戦争不関与を訴え続け外相として降伏文書に調印、アメリカ=吉田茂政権に反抗しA級戦犯にされたが鳩山一郎内閣で外相に復帰し自主外交路線を敷いた「ラストサムライ」
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重光 葵
1887年 〜 1957年
100点※
重光葵と関連人物のエピソード
- 幣原喜重郎は、満州事変まで「協調外交」を主導し戦後首相となった外務省本流の中心人物、岩崎弥太郎の娘婿で加藤高明・岩崎久弥の義弟である。東大法学部を出て外交官となった幣原喜重郎は、駐米大使としてワシントン海軍軍縮条約をリードし、加藤高明・若槻禮次郞・濱口雄幸の内閣で外相を務めワシントン体制維持と対英米協調・経済的利益重視と対中国不干渉を旨とする「幣原外交」を展開した。蒋介石の北伐に際し幣原喜重郎外相は英米の派兵要請を拒否し、国民政府軍が日英領事館を襲撃した「南京事件」でも制裁反対を貫いたが、在華権益や居留民保護の具体策に欠ける「霞ヶ関正統派外交」は「軟弱外交」と批判された。金融恐慌で第一次若槻内閣が倒れ、田中義一内閣は山東出兵など「強硬外交」へ転じたが張作霖爆殺事件で退陣、濱口雄幸内閣が発足し幣原喜重郎は外相に返咲いた。1930年のロンドン海軍軍縮条約で幣原外交は絶頂を迎えたが、海軍軍拡派と政友会が統帥権干犯問題を引起し、濱口雄幸首相銃撃事件が発生した。幣原喜重郎は116日間も首相代理を務め第二次若槻内閣で外相を続投したが1931年柳条湖事件が発生、若槻内閣は「不拡大方針」を宣しつつ関東軍・朝鮮軍の独断専行を追認し特別予算までつけて歩み寄ったが、満州事変と軍拡の勢いを止められなかった。外相退任に伴い隠退した幣原喜重郎は、第二次大戦が起ると「欧州戦争の前途」を著してドイツの苦戦を警告し、日本が参戦すると早期講和を唱えたが、末期には何故か「和平工作などは一切無駄であり、有害である」と徹底抗戦へ転じた。終戦後、GHQと吉田茂は「忘れられた存在」幣原喜重郎を首相に担出し、幣原内閣は僅か半年の間に日本軍解体・五大改革・財閥解体・衆議院選挙法改定と総選挙・公職追放・沖縄施政権剥奪・預金封鎖と新円切替・労働組合法公布・東京裁判開廷と、GHQの命令を粛々実行へ移した。更に憲法改定を迫られた幣原喜重郎首相は、近衛文麿の独走を退け「松本委員会」を発足させたが、抜本的改革案を出せないうちに民政局(GS)次長ケーディスに取って代られ、天皇の訴追免除と引換えに「押付け憲法」を受諾した。
- シーメンス事件で山本権兵衛内閣が倒れると、元老の井上馨は「反政府と護憲の大火事を消すには、早稲田のポンプを使うしかない」と山縣有朋や松方正義の反対を抑え大隈重信を首相に擁立、薩長藩閥の手先と化した大隈は衆議院解散により政友会議員を半減させて井上の期待に応え山縣の言うままに二個師団増設を断行、褒美に侯爵を与えられた。そして「対外硬」の大隈重信首相と加藤高明外相は、第一次世界大戦で列強の手がアジアに回らない間隙を突いて袁世凱の中華民国に「対華21カ条要求」を宣告、山東半島におけるドイツ権益の承継、遼東半島と満州における日本権益の99年延長、漢冶萍公司(中国最大の製鉄所)への経営参画、政治・経済・軍事に係る日本人顧問の受入れなど国際常識に反する無茶な要求を突きつけた。当然ながら欧米列強の干渉で画餅に帰し大隈重信内閣の国内向け対外硬パフォーマンスに終わったが、対華21カ条要求は中国民衆のナショナリズムに火をつけ欧米列強へ向かうべき怒りが日本に集中し「五・四運動」など大規模抗日運動に発展、根深い反日意識は日中戦争泥沼化の原因となり、受諾日の5月9日は現代中国で「国恥記念日」とされ「侵略」の象徴となっている。恫喝外交のパークス英公使らに対するハッタリと強談判で出世の糸口を掴んだ大隈重信は、おそらく福澤諭吉の『脱亜論』でアジア蔑視思想に染まり、日清戦争では伊藤博文政府を軟弱外交と非難し山東省・江蘇省・福建省・広東省も日本の領土として要求せよなどと下関条約にケチをつけた。83歳まで長寿を保った大隈重信は「失敗とか成功とかいうことは、人の客観、主観によって相違がある。また、時の経過、時潮の流れによっては、一時の失敗もあるいは大きな成功ともなる・・・すべてはタイムが解決する。功名誰か論ずるに足らんや、である」と実に無責任な言葉を残し、盛大な「国民葬」で送られた。大隈重信の大衆迎合的対外硬パフォーマンスは加藤高明や(直接の関係は無いが)「史上最悪の外交官」松岡洋右へと受継がれ、軍部・マスコミと結託して幣原喜重郎らの協調外交を葬った。
- 関東軍は満州を支配する奉天軍閥の張作霖を傀儡に満州支配の機を窺っていた。張作霖は元来馬賊の一頭目で、日露戦争時にロシアの対日スパイ工作に従事(遼河右岸新民屯営長)、日本軍に逮捕され死刑宣告を受けたが、井戸川辰三軍政署長と田中義一参謀が生かして利用した方が得策と児玉源太郎参謀総長を説得した。日本軍の援助を得た張作霖は一躍満州の支配者となり、大元帥を僭称して華北を襲い安徽派・直隷派の北洋軍閥から北京政府を奪取したが、増長し自立の色を立てたため日本軍に見放され、蒋介石の北伐軍が北京に迫ると忽ち奉天へ逃避した。陸軍中央では再び張作霖を援助し国民政府軍と対決すべしとの意見もあったが、傀儡の張を捨て満州の直接支配を期す方針に決定、我が意を得た関東軍の河本大作高級参謀らは奉天へ向かう列車を爆破し張を殺害した(張作霖爆殺事件)。永田鉄山・石原莞爾ら一夕会系幕僚および一部陸軍首脳の組織的犯行であったと考えられる。関東軍は中国人アヘン中毒者の仕業と偽る隠蔽工作を施したが内地ではすぐに真相発覚、西園寺公望元老も知るところとなり、昭和天皇は事件の究明を強く求めたが、西園寺は陸軍の脅迫で脱落し、張作霖の黒幕にして陸軍長州閥首領の田中義一首相は軍法会議を図るも配下にも裏切られ内閣総辞職でお茶を濁した。昭和天皇に叱責された田中義一は間もなくショック死し(自殺説あり)、政友会は74歳の犬養毅を後継総裁に担出した。以後、昭和天皇は政府への口出しを控え、統帥権の監視を担わされた西園寺公望ら天皇側近は「君側の奸」と敵視されることとなる。陸軍首脳の自制で張作霖爆殺事件は不拡大に終わり一夕会系幕僚の野望は挫折したが、続く濱口雄幸内閣も事件究明を怠り、結果として統帥権違反の重罪を追認したことが満州事変、五・一五事件、二・二六事件、日中戦争拡大へ続く軍部暴走の呼び水となった。なお軍法会議を免れた河本大作は、軍役から外されたものの陸軍の引きで満鉄理事・満州炭鉱理事長に納まっている。
- 「張作霖爆殺事件」当時、対中国政策を巡り3つの構想が対立していた。第一は田中義一政友会内閣の「蒋介石の国民政府による中国本土統治を容認するが、中華の枠外にある満蒙については張作霖の奉天軍閥を用いて権益を確保すべし」とする「満蒙特殊地域論」、第二は幣原喜重郎や濱口雄幸ら民政党の「協調外交」路線で「満蒙を含む中国全土の国民政府による統一を容認し、日中友好に基づく経済交流の拡大により利益を得べし」と唱えた。第三は関東軍首脳の「増長した張作霖を排除して満蒙に親日政権を樹立し、国民政府からの分離独立を強行すべし」という強硬路線で、実際に関東軍高級参謀の河本大作らが張作霖爆殺事件を引起したが、昭和天皇と西園寺公望ら重臣が不拡大方針を貫いたため打上花火で終わった。これに対し「木曜会」(永田鉄山らの一夕会に合流)の石原莞爾は「傀儡政権などの過渡的措置は不要で満蒙を領有(直接統治)すべし」と更に強硬な「満蒙領有方針」を主張した。陸軍一夕会幕僚らは張作霖爆殺事件の反省を踏まえ参謀本部など陸軍中央への根回しとマスコミの抱込みを図り、関東軍参謀の石原莞爾・板垣征四郎らが「柳条湖事件」を決行、若槻禮次郞内閣が事後承認したため「満州事変」へ拡大し張学良(張作霖の嫡子)軍を掃討して満州全域を軍事制圧した。「満蒙領有」には至らなかったものの、石原莞爾・板垣征四郎らは若槻禮次郞内閣から「満州独立方針」を引出し傀儡国家「満州国」を樹立した。
- 1929年、「暗黒の木曜日」に始まったニューヨーク株式市場の大暴落が世界恐慌に発展した。不況の波はすぐに日本にも押し寄せ、農産物価格の下落により農村は困窮化、全世界的な繊維不況と欧米列強によるブロック経済化の進展により輸出産業の柱であった生糸・綿糸・綿布産業も壊滅的打撃を蒙った。追込まれた日本は国を挙げて中国大陸に活路を求め、満州事変勃発、日中戦争拡大と続くなかで、高橋是清蔵相が主導した積極財政政策により軍事費が急拡大して第二次大戦終結まで国家予算の70%という異常な水準で高止まりした。一方、旺盛な軍需により重化学工業が勃興、中国市場の獲得で繊維輸出も持ち直し、日本経済は早くも1933年に回復基調に入り翌年には世界恐慌前の水準に回復、他の先進国より5年も早く経済回復を果した。高橋是清は、膨張した財政支出の正常化を図るため軍拡抑制に舵を切ろうとしたが、国家総動員体制の構築を企図する軍部と軍需景気に沸く世論を抑えられず、軍部や右翼に憎まれて「君側の奸」に加えられ、二・二六事件で斬殺されてしまった。以降も軍需主導の経済成長は進み、1940年には、鉱工業指数は世界恐慌前の2倍、国民所得は140億円から320億円と2.3倍に拡大、超高度というべき経済成長を遂げた。しかし、国力を度外視した戦争経済は、過剰な軍国主義的風潮と軍部の強権化、民生の圧迫など多くのひずみを生んだ。また、国策主導による統制経済への傾斜は、大資本による経済寡占化を進展させ、第二次大戦終結時には三井・三菱・住友・安田の四大財閥が全国企業の払込資本の半分を占めるという「開発独裁」状態をもたらした。財閥に富が集中する一方で農村では困窮化が進むという「格差社会」情勢は、社会主義的風潮と軍部主導による「国家改造」への期待を醸成し、安田善次郎暗殺、濱口雄幸首相襲撃、血盟団事件、五・一五事件、二・二六事件と続いたテロの温床となり、ますます軍国主義化を助長して格差はさらに拡大するという皮肉な結果をもたらした。
- 金融恐慌により一層の軍縮要請が高まった列強各国は、ロンドン海軍軍縮条約を締結した。ワシントン海軍軍縮条約で決定した主力艦(戦艦・空母)の保有制限に加え、補助艦(巡洋艦・駆逐艦など)や潜水艦の縮小均衡が決議された。日本の軍縮外交をリードしたのは濱口雄幸内閣で国際協調(幣原外交)を推進する幣原喜重郎外相で、首席全権の若槻禮次郞と主席海軍代表の財部彪海相が表に立った。日本は、補助艦は対米英7割・潜水艦は現状7万8千トンの確保を方針に交渉に臨んだが、やや妥協して重巡洋艦は対米英6割・但し補助艦全体の総トン数は対米英69.75%で合意に漕ぎ着け調印した。なお、海軍きっての知米派で後に条約派(良識派)の中心となる山本五十六は次席随員を務めたが、このときは対米妥協に猛反対し若槻禮次郞をてこずらせた。このため山本五十六は海軍内で艦隊派と目され、この後に起る粛清人事を免れた。さて国内では、ロンドン海軍軍縮条約の批准に際し、東郷平八郎元帥・伏見宮博恭王の両大御所を担ぎ出した軍令部の加藤寛治総長・末次信正次長ら海軍強硬派(艦隊派)と、民政党内閣打倒を目指す政友会の犬養毅・鳩山一郎らが結託し、海軍軍令部の意に反する条約は天皇の統帥権を侵すとして、濱口雄幸首相・幣原喜重郎外相と海軍省の良識派幕僚(条約派)を攻撃した(統帥権干犯問題)。うやむやのうちに条約は批准され、喧嘩両成敗で財部彪・加藤寛治はじめ両派の首脳が辞任に追込まれたが、東郷平八郎・伏見宮博恭王を擁する艦隊派が主導権を握り、国際情勢に明るい良識派の多くが要職を追われ海軍が対米強硬へ傾く転換点となった。この後「統帥権」は軍部大臣現役武官制と並ぶ軍部専横の切札となったが、もともと右翼の北一輝(二・二六事件の黒幕)が唱えた理屈を鳩山一郎らが政争の具に持出したもので、政党が軍部に「魔法の杖」を与える皮肉な結果を招いた。米内光政・井上成美・山本五十六ら良識派は頑強に抵抗したが艦隊派の優勢は揺るがず、6年後に広田弘毅内閣はワシントン・ロンドン海軍軍縮条約の廃棄を断行した。
- 満州問題武力解決を強行する陸軍の謀略を知った昭和天皇と元老西園寺公望は南次郎陸相を呼びつけ停止を厳命、腰砕けとなった南は金谷範三参謀総長に相談のうえ止め役として建川美次作戦部長を満州へ派遣した。これを知った関東軍の石原莞爾作戦参謀・板垣征四郎高級参謀らは決行か中止かで大いに迷ったが、三谷清憲兵分隊長・今田新太郎駐在分隊長ら若手の強硬派に押され遂に実行を決意した。奉天に到着した建川美次を料亭菊文に招いて酒豪の板垣征四郎らが酔潰している間に、今田新太郎ら実行部隊は奉天郊外の柳条湖付近で鉄道を爆破した(柳条湖事件)。満鉄の鉄道爆破は、関東軍条例第三条に基づく合法的軍事出動の理由を得るためであった。菊文を飛出した板垣征四郎は張学良軍の先制攻撃と断じて奉天守備隊長らに奉天城・北大営の攻撃を命令、旅順の関東軍司令部では石原莞爾が本庄繁司令官を説伏せ関東軍を奉天へ進発させた。奉天作戦に続くハルビン侵攻を期す石原莞爾は、張学良軍が奉天周辺だけで2万・満州全土で25万もいるのに対し関東軍は1万余という戦力不足を補うため、朝鮮駐留軍の越境増援を画策し朝鮮軍作戦参謀の神田正種の内諾を得ていた。が、奉天で待っていたのは金谷参謀総長からの不拡大方針決定を伝える電報であり、本庄繁司令官は翻意して即時停戦を命じ「ハルビン侵攻などもってのほか」とした。が、諦めない石原莞爾らは「ハルビンが駄目なら吉林省」と侵攻作戦を書き直し本庄司令官に談判した。「沢庵石」の異名をとる本庄繁は撥ね付けたが板垣征四郎の強談判に屈し、石原莞爾参謀は戦線を満州全域へ拡大、林銑十郎司令官の独断で朝鮮駐留軍も越境来援し日本軍は瞬く間に張学良軍を掃討し満州全域を制圧した(満州事変)。このとき本庄繁が頑として拒否を貫いていれば、張作霖爆殺事件と同様に満州事変は忽ち沈静化し石原莞爾・一夕会の大陸浸出の野望も挫折した可能性が高い。
- 石原莞爾関東軍作戦参謀と示し合わせていた神田正種朝鮮軍作戦参謀は、満州事変が起ると、朝鮮軍を率いて国境線の鴨緑江まで進んで待機した。金谷範三参謀総長は昭和天皇に朝鮮軍の越境出動を奏上したが、頑なに拒絶された。ところが、林銑十郎朝鮮軍司令官は独断で出動命令を下し、1万人以上の兵員を満州に進発させた。大元帥である天皇の命令なくして軍隊を動かすことは大犯罪であり、軍法会議で死刑になる決まりであった。慌てた陸軍首脳はこれを閣議に持ち込み、武力解決反対の若槻禮次郞首相や幣原喜重郎外相らは南次郎陸相を吊るし上げたが、林銑十郎司令官の越境朝鮮軍が既に満州に入ったとの報を聞くと若槻首相は「それならば仕方ないじゃないか」と一転、林司令官の行動の追認を閣議決定したばかりか、軍事費の特別予算拠出を決定、軍事予算急拡大の端緒を開いた。天皇の意思は無視されたわけだが、閣議決定には異を唱えない慣例のため、やむなく天皇も認可した。なお、新聞各紙は、林司令官を「越境将軍」などと持ち上げて犯罪行為を擁護した。
- 対外硬派の松岡洋右外相(元満鉄副総裁)の演説を契機に「満蒙は日本の生命線である」とする論調が活発化し、マスコミが煽ったため世論は「満蒙生命線論」に染まった。「二十億の国費、十万の同胞の血をあがなってロシアを駆逐した満州は日本の生命線である」という分り易いキャッチは瞬く間に国民を捕え、後に親米派に転じる吉田茂(奉天総領事)なども「満蒙の支配なくして経済的な繁栄も政治的な解決もない」と歓迎する有様だった。当時の弱肉強食の国際情勢からすると、戦線を満州に留める限り、合理的且つ現実的な方向性ではあったが、過剰な世論の後押しは永田鉄山・石原莞爾ら陸軍幕僚に決起を促す重要な支援材料となり、新聞記者は陸軍の接待攻勢に進んで抱込まれた。そして関東軍参謀の石原莞爾・板垣征四郎が柳条湖事件を起し満州事変が勃発すると、当時ダントツの部数を誇った朝日新聞・東京日日新聞(毎日新聞)など新聞各紙は陸軍礼賛一色となり、新聞に煽られた世論は好戦ムードに染まった。新聞各紙は号外連発で民衆を煽り、巨費を投じた戦争報道で大きく部数を伸ばし、味をしめて完全に陸軍の宣伝機関に堕した。また、満州事変への関心の高まりはラジオの普及も促進し、約65万人だった契約者数は半年後に105万人を突破した。この後、勇ましい戦争記事を載せないと他紙に部数を奪われるという自縄自縛に陥った新聞業界は終戦まで軍部礼賛を継続、「社会の木鐸」の使命を放棄したマスコミは日本国民を破滅へ誘う笛吹童子となった。
- 若槻禮次郞内閣の満州事変不拡大方針を不服とする橋本欣五郎(陸士23期)陸軍中佐ら「桜会」が、北一輝・西田悦・大川周明ら民間右翼と結託し東京で武装クーデター未遂事件を起した(十月事件)。桜会は同年3月にも「国家改造」を企てたが、非合法手段を認めない「一夕会」の永田鉄山・岡村寧次(16期)らの反対で首相に担ぐべき宇垣一成陸相に逃げられ失敗していた(三月事件)。捲土重来を期す橋本欣五郎は、親友の石原莞爾(21期)が起した満州事変に呼応し、若槻禮次郞首相・幣原喜重郎外相以下の政府要人を暗殺し荒木貞夫陸軍中将の組閣大命を得て軍事政権を樹立する、という陸軍史上最大級のクーデターを企てた。が、「宴会派」といわれた桜会の計画は永田鉄山が「たとえこころざしは諒とされても、こんな案で大事を決行しようと考えた頭脳の幼稚さは、驚き入る」ほど杜撰なもので、忽ち陸軍中央に発覚し首謀者は憲兵隊に一斉検挙された。永田鉄山は橋本欣五郎の極刑を主張したが、荒木貞夫・石原莞爾らの擁護論が通り内々に重謹慎二十日の軽処分で済まされ、陸軍は又も悪しき前例を積重ねた。処分を免れた大川周明は血盟団事件で團琢磨と井上準之助を暗殺し、北一輝・西田悦は陸軍青年将校を扇動し二・二六事件を引起すことになる。橋本欣五郎は反乱将校を擁護し予備役へ回されたが、日中戦争で軍務に復帰し、近衛文麿首相の新体制運動に加盟し翼賛選挙で衆議院議員となった。
- 第二次若槻禮次郞内閣は8ヶ月の短命に終わったが、在任の1931年は極めて重大な年であり、切所に政権を担った若槻首相は重大な失策を犯した。組閣後すぐに柳条湖事件が起り満州事変へ拡大、若槻禮次郞内閣は「不拡大方針」を決定し南次郎陸相を突上げたが、林銑十郎司令官の朝鮮軍が越境満州に入ったと聞くと「それならば仕方ないじゃないか」とあっさり追従、満州事変と「越境将軍」の追認を閣議決定したばかりか、戦費の特別予算編成を示唆し軍事予算急拡大を規定路線化した。柳条湖事件ではオッカナビックリだった石原莞爾らは勇気百倍し「満蒙問題解決案」を策定、帰国した板垣征四郎が優柔不断な陸軍首脳を説伏せ若槻禮次郞内閣は「満州国建国方針」を承認、軍部暴走を運命付けた決定的瞬間であった。天皇の「統帥権」を侵した石原莞爾・板垣征四郎・林銑十郎らは軍法会議で極刑に相当する重罪犯だったが、若槻禮次郞内閣の事後承諾で逆に評価される立場となり処罰どころか陸軍中枢への道を歩んだ。金解禁が不況に拍車をかけるなか井上準之助蔵相は金輸出再禁止を拒み続け、満州事変処理で機能停止に陥った民政党内閣は閣内不一致となり若槻禮次郞は首相を投出した。加藤高明内閣より憲政会・民政党政権の外相として対英米協調・対中国不干渉を主導してきた幣原喜重郎(加藤と同じく岩崎弥太郎の娘婿)は政界を去り「幣原外交」は終焉、日本外交の主導権は軍部および松岡洋右・大島浩・白鳥敏夫ら強硬派へ移った。政友会が政権を奪回したが、五・一五事件で犬養毅首相が斃され政党内閣は命脈を絶たれた。右翼やマスコミの軍部礼賛が盛上るなか、石原莞爾らは清朝の溥儀を担出し傀儡満州国を建国、松岡洋右全権が国連脱退のパフォーマンスを演じ日本の孤立化が始まった。民政党総裁を町田忠治に譲った若槻禮次郞は重臣会議に列し、米内光政・岡田啓介らの平和穏健路線を支持した。第二次大戦後、東京裁判検事のジョセフ・キーナンは岡田啓介・米内光政・若槻禮次郞・宇垣一成の四人を「戦前日本を代表する平和主義者」と持上げたが、実際の若槻は身を挺して国難にあたったわけでなく東條英機内閣打倒に一票を投じたに過ぎない。
- ワシントン・ロンドンで英米と軍縮条約を締結した海軍主導で軍事費の縮小が進んでいたが、満州事変勃発により一転、若槻禮次郞内閣は陸軍の永田鉄山・石原莞爾らに引きずられ軍事費の急増が始まった。1930年には約5億円とアメリカの3分の1・イギリスの半分ほどだった軍事費は、1931年から急拡大し、日中戦争開戦の1937年には50億円と十倍増してアメリカとイギリスの軍事費を上回るほどに膨張、1940年には遂に100億円を超えた。「財政の第一人者」高橋是清は、世界恐慌脱出のため軍事費を中心とする財政出動に賛成し日本は軍需バブルで他国より早く不況を脱したが、勇気をもって引締めに転じたため「君側の奸」に加えられ二・二六事件で殺害された。国家予算に占める軍事費の割合は、1930年には30%ほどだったのが、1937年以降は70%を超える水準で高止まりすることとなった。日独の軍拡に対抗するため英米も軍事費を増やしたが、それでも軍事予算割合は日本の半分程度に抑えられた。
- 満州事変を成功させた関東軍参謀の石原莞爾・板垣征四郎らは、満州から欧米列強の関心を逸らすべく各国の租界が集中する上海で武力衝突事件を発生させた(第一次上海事変)。上海日本公使館付き陸軍武官の田中隆吉中佐が現地で謀略工作を担当、田中は石原莞爾から約2万円の工作費を受取り、「東洋のマタ・ハリ」といわれた愛人の川島芳子などを使い「反日分子」に偽装させた不逞中国人に上海市街を托鉢中の日本人僧侶一行5人を襲撃させ、うち2人が死亡する事件を引起した。上海駐在の日本軍は満州に続けとばかりに国民政府の十九路軍に迫り、両軍が発砲して大規模武力衝突に発展した。陸軍中央は犬養毅内閣を強迫して白川義則司令官の二個師団・約3万人の日本軍を上海に送込み、瞬く間に十九路軍を撃退した。「華北分離」を期す武藤章・東條英機ら統制派幕僚は蒋介石の拠る南京まで攻込むべしと主張したが、昭和天皇から不拡大の厳命を受けた白川義則司令官は決然と停戦命令を下し上海事変を終息させた。なお曲者の田中隆吉は、終戦後の東京裁判に際し虚実取り混ぜた陸軍の非道をGHQに暴露し「陸軍の裏切り者」と憎まれ、「私が万一にも絞首刑になったら、田中の体に取り憑いて狂い死にさせてやる」と憤激した武藤章は現実に無念の極刑へ追込まれた。さて、米英の干渉で上海事変の停戦講和がまとまり、吉日(昭和天皇誕生日・天長節)を選んで上海北部の公園で調印式が執り行われたが、祝宴の最中、朝鮮人尹奉吉が手榴弾を投込むテロを起し、白川義則司令官ほか1名が死亡、重光葵公使は右脚を失い、野村吉三郎中将(ハル・ノートで有名)・植田謙吉中将・村井倉松総領事らが重傷を負う大惨事となった(上海天長節爆弾事件)。白川義則も重光葵も国際協調派の要人であり、伊藤博文暗殺と同様に反日原理主義者のテロが逆効果を招く皮肉が繰返された。なお韓国併合後、日本による朝鮮国家建設と民生向上に伴い反日運動は終息、金九ら少数の反日原理主義者は上海に逃避するも相変わらず内ゲバに明け暮れ、後に韓国初代大統領となる李承晩は政争に敗れ欧米へ逃避中だった。
- 「方針-満蒙を独立国トシ我保護ノ下ニ置キ、在満蒙各民族ノ平等ナル発展ヲ期ス」関東軍参謀の石原莞爾・板垣征四郎は東京に一時帰国し、「一夕会」同志と「満蒙領有の前段階として宣統帝溥儀を擁立して日本の傀儡政府をつくり、南京に拠る蒋介石の国民政府から切離して独立国を樹立する方針」を策定、関東軍に「1年間の隠忍自重」を促した永田鉄山軍事課長も撤収に伴う事態悪化を危惧し「満州以外に絶対に兵力を使わない」条件で「独立政権の設定」を承認、板垣が陸軍首脳と若槻禮次郞内閣を説得し「満州国建国方針」を認めさせた。独断専行で満州事変を引起した板垣征四郎・石原莞爾・林銑十郎・神田正種らは、軍法会議で極刑に相当する重罪犯であったが、この事後承諾で逆に評価される立場となり、処罰どころか陸軍で出世の道を歩んだ。軍部暴走を正当化する致命的失策を犯した若槻禮次郞内閣は思考停止に陥り退陣、民政党政権の対中国不干渉・国際協調(幣原外交)を主導してきた幣原喜重郎外相も政界を退き、軍部・右翼および近衛文麿・松岡洋右・大島浩・白鳥敏夫らの強硬論が日本外交を席巻する時代へ移った。「中国通」の犬養毅内閣も手を付けられないなか、関東軍は満州全域を制圧し新京(長春)に満州国政府を樹立し中華民国(蒋介石の国民政府)からの独立を宣言した。国際批判をかわすため満洲国執政(のち皇帝)に愛新覚羅溥儀(清朝最後の皇帝)を据え中国人国家の体裁を整えたが、実態は純然たる傀儡であり、激怒した蒋介石は大抗議声明を発表、反日世論が沸騰し国共合作復活・統一民族戦線を求める機運が高まった。満州国では石原莞爾の「五族協和」の理想のもと統制経済に基づく壮大な国家建設が試みられ、「産業開発五ヵ年計画」を主導した岸信介ら「革新官僚」が台頭、陸軍の東條英機(関東軍参謀長)主導で星野直樹(国務院総務長官)・鮎川義介(満州重工業開発社長)・岸信介(総務庁次長)・松岡洋右(満鉄総裁)らによる支配体制が確立された(弐キ参スケ)。
- 国際連盟が満州情勢調査のために派遣したリットン調査団は、3ヶ月間の調査を経て報告書を提出した。リットン報告書は、満州の特殊事情に配慮した中立的な内容であり、満州国承認を求める日本の主張は否認したものの、蒋介石政府の原状回復要求も現実的でないと退け、通商条約締結による和解を日中両国に勧告する公正なものであった。が、国際連盟事務局は満州国の分離独立を否認し日本軍は従来の満鉄守備区域まで撤退せよという「中日紛争に関する国際連盟特別総会報告書」をジュネーブ特別総会に提出、採択の結果反対は日本のみ、賛成42票の圧倒的多数で日本軍の満州撤退勧告が決議された。リットン報告書から大幅に中国寄りへ傾いた背景には、中国権益保全のため国民政府を援助する英米の策動があったものと考えられる。国際連盟総会に出席した松岡洋右全権(元外交官・満鉄総裁の衆議院議員)は「さよなら」の捨て台詞を残し日本外交は議場を退場し、斎藤実内閣は国際連盟に脱会を通告した。松岡洋右の対外硬パフォーマンスは日本の孤立と不協調を印象付ける暴挙であったが、国際連盟は今日の国際連合以上に無力で発起人のアメリカは議会の否決で参加せず、ソ連も不参加、ブラジルは7年も前に脱退し、ドイツとイタリアも日本に続いた。また直後に日中間で「塘沽停戦協定」が成立しており(日本側代表は永田鉄山の盟友で関東軍参謀副長の岡村寧次)、満州事変・国際連盟脱退から一直線に日中戦争へ突き進んだわけではない(「十五年戦争」は正確ではない)。とはいえ、さすがの松岡洋右もスタンドプレーの失敗を認めアメリカに身をかわし帰国を逡巡していたが、ジャーナリズムも世論も歓迎一色と知り勇躍凱旋、「栄光ある孤立」「ジュネーブの英雄」と持て囃され一層ファシスト化した。
- 松岡洋右は米国オレゴン大学を出て外交官の傍流を歩んだが、山口出身ゆえに長州閥・後藤新平の引きで満鉄副総裁に就任、張作霖爆殺事件後の好戦ムードに乗じて「満蒙生命線論」を煽り、大衆人気を背景に衆議院議員へ転じた。「大東亜共栄圏」を唱える松岡洋右は、外務省主流の幣原喜重郎を弾劾し対英米協調・対中不干渉の「幣原外交」を打倒、1933年「満州国」が欧米の批判を浴びるなか首席全権として国際連盟総会に乗込み独断で派手な脱退劇を演じた。軍部と大衆の人気を得た松岡洋右は代議士を辞めて全国遊説し「政党解消運動」で首相を狙うも挫折、古巣の満鉄で総裁に就くと関東軍参謀長の東條英機を支持し親戚の岸信介・鮎川義介と共に陸軍主導の満州支配を実現させ「弐キ参スケ」に数えられた。1940年反欧米(現状打破)の近衛文麿が第二次内閣を組閣すると同志の松岡洋右は外相に就任、主要外交官40数名の一斉更迭など大粛清を強行し白鳥敏夫・大島浩・吉田茂ら積極外交派で外務省中枢を固め、田中新一・石川信吾ら陸海軍の強硬派と共に日独伊三国同盟および南進政策(北部仏印進駐)を主導した。が、徒に「漁夫の利」を狙う松岡洋右の場当り外交は激変する国際情勢で右往左往し脆くも破綻した。欧州を席巻するナチス・ドイツ軍の強勢をみた松岡洋右は「1940年秋頃」の大英帝国崩壊を予想し、第一次大戦における日英同盟と同様に日独同盟で参戦の口実を整え、米ソと不戦体制を維持しつつ手薄なアジアを攻め英仏蘭の植民地奪取を企図した(南進政策)。松岡洋右はスターリンと日ソ中立条約を締結し有頂天となったが独ソ戦勃発で計算が狂い、アメリカは意に反して大規模な英中援助に乗出し対日経済封鎖を強行、軍需物資の大半を対米輸出に頼る日本は窮地に陥った。慌てた松岡洋右外相は南進政策停止と対米妥協へ転じたが、野村吉三郎駐米大使の日米和解交渉を妨害し、蘭印との経済交渉も打切らせ、対ソ開戦(関東軍特種演習)を主張するに至り迷走は極みに達した。近衛文麿首相は内閣改造で松岡洋右を放逐したが既に退路は無く、日本は資源を求めて南部仏印進駐を強行し対米開戦へ引込まれた。
- 松岡洋右は米国留学時代からコカインを常用し中毒化していたとする説もあり、そのためか極めて浮き沈みの激しい性格で、国際連盟脱退や日独伊三国同盟・日ソ中立条約を締結して悦に入るかと思えば「こんなことになってしまって、三国同盟は僕一生の不覚であった」「死んでも死にきれない。陛下に対し奉り、大和民族八千万同胞に対し、何ともお詫びの仕様がない」などと号泣、そうかと思えば自己弁護に躍起になった。躁鬱でお調子者の松岡洋右は、訪米時には「キリストの十字架と復活を信じている」と公言して憚らず、ソ連のスターリン会談ではウォッカに泥酔し「私は共産主義者だ」と語ったかと思えば天皇を宸襟を慮って涙を流し、公式外交の場では「八紘一宇」だの「大東亜共栄圏」だのを大真面目に力説した。松岡洋右は一貫してコテコテの天皇崇拝者だったが、昭和天皇は軽佻浮薄で真実味のない松岡が大嫌いで『昭和天皇独白録』には「松岡は帰国してからは別人の様に非常なドイツびいきになった。恐らくはヒットラーに買収でもされたのではないかと思われる」「一体松岡のやる事は不可解の事が多いが彼の性格を呑み込めば了解がつく。彼は他人の立てた計畫には常に反対する、また条約などは破棄しても別段苦にしない、特別な性格を持っている」「松岡はソ連との中立条約を破ること(イルクーツクまで兵を進めよ)を私の処にいってきた。こんな大臣は困るから私は近衛に松岡を罷めさせるようにいった」などと珍しく痛烈な批判を書き連ねている。第二次大戦後、東京裁判でA級戦犯指定を受けた松岡洋右は「俺もいよいよ男になった」と勇んで出廷し自慢の英語で無罪を主張、死刑が確実視されるなか持病の肺結核が悪化し公判中に病死した。
- 大黒柱の永田鉄山が皇道派将校に殺害された後、陸軍の主導権は一夕会系の石原莞爾、武藤章、田中新一、東條英機へと変遷した。永田鉄山斬殺事件と二・二六事件への関与で真崎甚三郎・荒木貞夫・小畑敏四郎ら皇道派が自滅した後、二・二六事件を断固鎮圧した石原莞爾が陸軍中央で主導的立場となり、参謀本部に作戦部を創設して権限を集中し自ら作戦部長に就任した。石原莞爾は、自陣の林銑十郎・板垣征四郎を首相・陸相に担ぎ、持論の「世界最終戦争論」に沿った対中融和・日満蒙連携による国力・軍事力涵養政策を推進した。が、盧溝橋事件が勃発すると、日中戦争の泥沼化を予期し不拡大を唱える石原莞爾・河辺虎四郎・多田駿らは少数派となり、強硬な「華北分離工作」を主張する武藤章・田中新一・東條英機ら統制派と鋭く対立、近衛文麿首相・広田弘毅外相が日中戦争拡大に奔ったことで統制派が主導権を確立し陸軍中央から石原ら不拡大派を一掃した。この間の陸軍中央における政治空白は、東條英機・板垣征四郎ら出先指揮官の独断専行を招き関東軍が自律的に戦線を拡大させる事態をもたらした。武藤章らは永田鉄山以来の「中国一激論」に固執し「強力な一撃を加えれば国民政府は早々に日本に屈服する」との甘い期待のもと大量兵力を投入し中国全土に戦線を拡大したが、上海・南京が落ちても蒋介石は屈服せず日本軍は「点と線の支配」に終始、石原莞爾の危惧通り日中戦争は泥沼化した。武藤章は日中講和へ転じるも近衛文麿首相は「トラウトマン工作」を一蹴、「国民政府を対手とせず」と声明し蒋介石を後援する米英を「東亜新秩序声明」で挑発した挙句に日独伊三国同盟で敵対姿勢を鮮明にした。武藤章軍務局長は対米妥協に努めたが果たせず、主導権を奪った最強硬派の田中新一が東條英機内閣で対米開戦を断行、東條首相は憲兵隊を使って反抗勢力を締上げ宿敵の石原莞爾を軍隊から追放し倒閣工作に加担した武藤を前線のスマトラへ放逐した。「負けを認めない」田中進一は、ガダルカナル島撤退に反発して佐藤賢了軍務局長と乱闘事件を起し東條首相を面罵してビルマ方面軍へ左遷されたが、牟田口廉也司令官のインパール作戦の大暴挙に関与した。
- 二・二六事件で退陣した岡田啓介に代わり外相の広田弘毅が組閣した。元老の西園寺公望は近衛文麿を推薦したが、陸軍皇道派・青年将校に同情的な近衛に断られ、独占してきた首相指名権を重臣会議に譲り一線を退いた。最難局の後継選びは難航したが、重臣の一木喜徳郎が広田弘毅を推し、賛同した近衛文麿が懇意の吉田茂(広田と同期の外務官僚)を送り承諾させた。右翼結社「玄洋社」に属し出自も悪い広田弘毅の組閣に昭和天皇は難色を示し「名門を崩すことのないように」と異例の訓示を与え、広田は「自分は50年早く生れ過ぎたような気がする」と漏らしたという。外務省傍流ながら野心家の吉田茂は外相を狙ったが、軍部の反対で挫折し駐英大使に回されている。前年に統制派首領の永田鉄山が斬殺され(相沢事件)二・二六事件を起した陸軍は激しく動揺したが、一夕会員ながら両派に属さない石原莞爾が主導権を握り中立派の寺内寿一(長州閥の寺内正毅の嫡子)を広田弘毅内閣の陸相に擁立、軍規粛清を掲げ二・二六事件に関与した真崎甚三郎・荒木貞夫ら七大将を予備役に追込み皇道派の将佐官を陸軍中央から一掃した。その結果、武藤章・田中新一ら「中国一撃論」の統制派が圧倒的優勢となり、予備役編入を噂された東條英機も復活し関東軍参謀長に就任した。さて、昭和天皇と重臣会議に軍部抑制を期待された広田弘毅首相だが、玄洋社右翼の本性を現し軍部の強硬外交を助長、軍部大臣現役武官制の復活・「満州開拓移民推進計画」決定と開拓移民団の派遣・日独防共協定調印・「北守南進政策」の決定・海軍軍縮条約廃棄と、1年に満たない広田弘毅内閣のもと軍国主義化と反米英路線が一気に加速した。第一次近衛文麿で外相に復帰した広田弘毅は再び強硬外交を展開、盧溝橋事件が起ると直ちに増派を決定して日中戦争へ拡大させ、トラウトマンの和解工作を蹴り「蒋介石の国民政府を対手とせず」との第一次近衛声明で日中戦争を泥沼化へ追込み、無謀な「東亜新秩序声明」で英米を敵に回す愚を犯した。
- 広田弘毅の人脈は地元福岡の右翼結社「玄洋社」に連なる。広田弘毅は修猷館で勉学に励みつつ明道館で柔道に打込み初段を取得、「嘉納治五郎の四天王」で師範の横山作次郎は「広田は柔道で食っていける」と期待した。広田弘毅は明道館を経営する玄洋社に加盟し、幹部らは文武両道の少年に目を掛けた。平岡浩太郎は東京進学を希望する広田弘毅のために篤志家から金を募り提供、学資を得た広田は第一高等学校・東大法学部へ進み、内田良平の世話で講道館道場に入門、頭山満から副島種臣・山座円次郎・杉山茂丸らを紹介された。外務官僚の山座円次郎に兄事した広田弘毅は、学生ながら外務省嘱託手当を給され、官費で朝鮮・満州・シベリアへの軍事偵察旅行を経験、通訳や韓国統監府属官の職を与えられた。山座円次郎は、東大法学部を主席で卒業した対外硬派外務官僚の急先鋒で、小村寿太郎外相の腹心(政務局長)として日露開戦に奔命し宣戦布告文書を起草、ポーツマス講和会議にも出席した。山座円次郎は陸海軍将校と料亭で会合を重ね、日露戦争回避に奔走する伊藤博文を「あのような軟弱論者は斬ってしまえ」と放言したが、それを耳にした伊藤は小村と山座を料亭に呼出し床の間の日本刀を指差して「あれでわたしを斬ってみよ」と一喝し沈黙させた。伊藤博文は暗殺を企てた玄洋社の杉山茂丸も追返している。さて、東大を卒業した広田弘毅は二度目の外交官試験に受かり大蔵省に入省、山座円次郎は中国公使在任中に客死したが(袁世凱に毒殺されたとも)桂太郎ラインに属して累進し、英米勤務から欧州局長、オランダ公使、駐ソ連特命全権大使を経て斎藤実・岡田啓介内閣で外相に栄達した。同じ「大陸派」の吉田茂(同期)や松岡洋右(2年下)は外務省の傍流だが、広田弘毅は出世コースを邁進した(重光葵と白鳥敏夫は10年下)。外交官には財閥富豪の婿となり優雅な生活を楽しむ者が多く、加藤高明・幣原喜重郎(岩崎弥太郎の女婿)や吉田茂(牧野伸顕の女婿)は典型だが、広田弘毅に貴族趣味は無く加藤高明からの三菱令嬢の縁談を断って玄洋社幹部月成功太郎の娘静子を妻に選び、上司に阿らない飄々とした人柄は部下に慕われた。
- 4ヶ月で自滅した林銑十郎内閣の退陣を受け第一次近衛文麿内閣が発足、広田弘毅が外相に復帰した。五摂家筆頭でスマートな近衛文麿は昭和天皇・西園寺公望らに軍部抑制の切り札と期待され、反米英・現状打破の論客で陸軍と大衆にも受けが良く、早くから首相候補に擬せられていた。組閣後間もなく盧溝橋事件が発生、陸軍統制派の「中国一激論」に感化され中国の抵抗力を侮る近衛文麿首相・広田弘毅外相・米内光政海相は直ちに強硬姿勢を鮮明にし、武藤章・田中新一ら陸軍の「華北分離工作」に応じて朝鮮および満州から二個師団・日本から三個師団を華北戦線へ投入、日中戦争が始まった。日本軍は北京・天津・上海を攻略し(第二次上海事変)国民政府の首都南京を落とし武漢三鎮まで占領したが、補給線は限界に達し中国軍の逃避戦術で決定的勝利を収められず戦線は膠着した。国民に厭戦ムードが広がると近衛文麿内閣は「八紘一宇」「王道楽土」などと戦意高揚に腐心し、陸軍すら停戦へ傾くなかトラウトマンの和解工作を蹴り「蒋介石の国民政府を対手とせず」という第一次近衛声明で自ら講和の道を塞ぎ日中戦争を泥沼へ引きずりこんだ。さらに、陸軍統制派念願の国家総動員法で軍国主義化を決定付け、無謀な「東亜新秩序声明」で欧米を激しく挑発し日米通商航海条約破棄および蒋介石支援強化(援蒋ルート)を招来した。
- 強固な対米英協調主義者で三国同盟反対の姿勢を崩さない米内光政首相は、畑俊六陸相が辞任し陸軍が後任陸相選出を拒否したため軍部大臣現役武官制により倒閣に追込まれ、陸軍に受けの良い「亡国の貴公子」近衛文麿が第二次内閣を組閣した。近衛文麿自身は中国蔑視・反英米主義者ではあるものの確たる政治信念はなかったが、大島浩(後の駐独大使)・白鳥敏夫(後の駐伊大使)・徳富蘇峰・中野正剛・末次信正(海軍艦隊派)・久原房之助(後の大政翼賛会総務)ら親独・反英米の大物連を取巻きとしたため近衛内閣の使命は自ずから三国軍事同盟と国家総動員の新体制運動(大政翼賛会に結実)となった。近衛文麿首相は、外相に反英米派急先鋒の松岡洋右を復活させ、陸相には統制派最年長の東條英機を採用した。海相には対英米協調派の吉田善吾が留任したが、松岡洋右外相・陸軍のみならず海軍の艦隊派からも突上げられノイローゼとなって辞任、後任海相には及川古志郎が就任した。なお、財界から阪急・東宝グループを築いた小林一三が商工相で入閣したが、統制経済を牽引する商工次官の岸信介と衝突、企画院事件で共倒れとなった。小林一三は政治から手を引いたが、「革新官僚」岸信介は続く東條英機内閣で商工相に昇進した。
- 第二次近衛文麿内閣で外相に任じられ20年ぶりに外務省へ凱旋復帰した松岡洋右は、かつて傍流に甘んじた恨みを晴らすかのように公の場で外交官を罵倒し、爆弾テロで右脚切断の重傷を負った重光葵駐英大使を除く主要在外外交官40数名を更迭するなどエリートの一斉粛清を強行した。一方で松岡洋右外相は、「新外交」の旗手白鳥敏夫を外務省顧問に任じ大島浩や吉田茂を優遇するなど気脈を通じる強硬派を引上げて外務省中枢を固め、短慮な「積極外交」と独りよがりの「大東亜共栄圏」構想に邁進する体制を整えた。
- 第二次内閣を組閣した近衛文麿は、反米英の松岡洋右を外相・東條英機を陸相に据え、使命に掲げるナチス・ドイツとの同盟を強力に推し進めた。米内光政・山本五十六・井上成美ら海軍良識派に近い吉田善吾海相は反対したが海軍内でも岡敬純・石川信吾に突上げられノイローゼとなり辞任、後任海相の及川古志郎には陸軍が米内光政内閣を倒したように海相拒否で対抗する手もあったが、石川信吾・豊田貞次郎らの強迫でナアナアとなり、陸軍が出した海軍予算確保の餌に釣られた。直後の海軍首脳会議で連合艦隊司令長官の山本五十六は最後の抵抗を試みたが伏見宮博恭王元帥の「ここまできたら仕方がないね」の一声で勝負あり、皮肉にもバトル・オブ・ブリテンでドイツ軍が敗れた当日それを知らない日本海軍は同盟承認を最終決定した。かくして、陸軍は明治以来の仮想敵国ソ連の牽制、海軍は米英との建艦競争予算の確保、松岡洋右外相は首相就任に向けた大衆・軍部へのアピールと、三者三様の思惑を近衛文麿首相がまとめあげ日独伊三国同盟が成立したが、最強国アメリカを正面敵に回す痛恨事であった。最後の元老で近衛文麿を後継者にした西園寺公望は「これで日本は滅びるだろう。これでお前たちは畳の上では死ねないことになったよ。その覚悟を今からしておけよ」と側近に語り2ヵ月後に世を去った。アメリカは即座に報復し軍事物資などの経済封鎖を強化(ABCD包囲網)、石油が無ければ一日も軍艦を動かせない海軍は強硬派の岡敬純・石川信吾および海軍国防政策委員会の独壇場となり、田中新一ら陸軍反米派と提携し産油地獲得と援蒋ルート遮断を目的に南部仏印進駐を強行した。陸海軍も近衛文麿内閣もアメリカは強攻策に出ないと信じたが甘い期待は裏切られ、対日開戦を決意したアメリカは石油輸出全面禁止を敢行、自分の首を絞めた日本は勝ち目の無い対米開戦へ追込まれた。万策尽きた近衛文麿が政権を投出すと、木戸公一内大臣は東條英機を後継首相に推挙し重臣会議(若槻禮次郞・岡田啓介・広田弘毅・林銑十郎・阿部信行・米内光政・原嘉道)は「天皇に忠実」という理由で最悪の人選を受入れた。
- 岡敬純軍務局長・石川信吾第二課長が及川古志郎海相の承認を得て、軍政(予算獲りと政権コントロール)に長けた陸軍に対抗すべく「海軍国防政策委員会」を設置、4委員を高田利種・石川信吾・富岡定俊・大野竹二の対米強硬派の大佐が占め次席の幹事役にも対米強硬派の三中佐が就任した。「不規弾」(暴走男)といわれた石川信吾の重用には反発が多く、山本五十六は南部仏印進駐を図る石川を「早く首にしろ」と迫るも及川古志郎海相に黙殺され乾坤一擲の真珠湾攻撃の構想に着手したとされる。海軍の国防政策や戦争指導は海軍国防政策委員会の独壇場となり、伏見宮博恭王元帥を後ろ盾に岡敬純・石川信吾が中心となって南部仏印進駐を強行、予期せぬ対日石油禁輸制裁に岡は弱気に傾いたが石川は動揺を隠すように先鋭化し対米開戦へ邁進した。帝国海軍痛恨の「大鑑巨砲主義」の主導者もまた石川信吾で、山本五十六らの航空兵力優先論を退け海軍の全精力を戦艦「大和」「武蔵」の建造に集中、膨大な燃料を食うだけの「大和ホテル」は役立たずのまま「特攻作戦」に投入され沖縄に辿り着くこともできず撃沈された。海軍の元凶というべき岡敬純と石川信吾は共に山口県出身で中学も同じ(東京目黒の攻玉社)、同郷の松岡洋右や末次信正(海軍艦隊派の首領)とは昵懇の間柄で、吉田善吾海相を突上げ三国同盟締結に貢献した。対米開戦後は東條英機ら陸軍が完全に主導権を握り、「東條の男めかけ」といわれた嶋田繁太郎海相や永野修身軍令部総長は引きずられるだけ、海軍国防政策委員会の陰も薄くなった。終戦後、開戦時の軍務局長岡敬純は東京裁判で終身禁固刑に処されたが、「この戦争は俺が始めたんだ」と自慢した石川信吾は戦犯指定を免れた。
- 日独伊三国同盟を果した松岡洋右外相はベルリンのヒトラーを表敬訪問したが、ヒトラーからイギリス領シンガポールの攻撃を吹込まれ、確約はしなかったものの偉大な総統の説得に相当心を動かされたらしい。松岡洋右は昭和天皇が「松岡は帰国してからは別人の様に非常なドイツびいきになった。恐らくはヒットラーに買収でもされたのではないかと思われる」と売国を疑うほどの親独派へ豹変した。
- 1941年、日独伊三国同盟にソ連を加え米英に対抗しようと夢想する松岡洋右外相は、ベルリンからの帰路モスクワへ立寄りソ連のスターリンを訪問した。独ソ関係が不穏で会談拒否も考えられたが、スターリンは快く松岡洋右を引見し席上電撃的に日ソ中立条約を受諾、当日中に調印まで済ませしてしまった。スターリンは諜報によりナチス・ドイツのソ連侵攻を掴んでいたとみられ、日独との両面戦争を何としても回避したい状況で松岡洋右の提案は渡りに船だった。モスクワ滞在中の松岡洋右に対しチャーチル英首相は英米の生産力の強大さを示しドイツのソ連侵攻を警告したうえで「イギリスの敗北が決していないのにドイツと組むのは時期尚早ではないか」と諭す書簡を送ったが、なんと松岡は「八紘一宇の大目的実現のためにやっているのだから構うな」と近代国家の外相とは思えない暴論で反駁した。「大手柄」を挙げた松岡洋右は万歳三唱をもって日本国民に迎えられ、マスコミが「北の脅威が薄れた。さあ南進だ!」と煽立てたため日本は南進論一色に染まった。が、チャーチルの警告どおり時を置かず独ソ戦が勃発、1945年日本の敗戦が決定的になるとソ連は有効期間5年の日ソ中立条約を一方的に破棄し関東軍が去った満州を蹂躙、松岡洋右はスターリンやヒトラーに愚弄されただけとなり「トリックスター」の面目躍如たる顛末を迎えた。
- 1940年11月末頃来日した二人のアメリカ人神父が近衛文麿首相と会談し、近衛首相・ルーズベルト米大統領会談を実現させ日米和解の一挙解決を図るという「日中国交打開策」を提案、対米開戦だけは避けたい政府も陸海軍も揃って賛同し当時欠員だった駐米大使に野村吉三郎(元海軍大将)を復職させ日米交渉を再開した。が、当時の外務省では近衛文麿内閣の強硬路線を受け松岡洋右外相(松岡の洋行中は近衛首相が外相兼任)を筆頭に大島浩・白鳥敏夫ら対米英強硬派が優勢で「バスに乗遅れるな」とばかりに「積極外交」を競演中、さらに不幸なことに野村吉三郎は門外漢のうえ阿部信行内閣で外相の任にあったとき大島・白鳥らを追払おうとしたため外務省エリートから総スカンを喰っていた。野村吉三郎大使は外務官僚のサポタージュに苦しめられつつも米国赴任2週間ほどでハル米国務長官との間で「日米諒解案」の最終案を作成、近衛文麿内閣は歓喜し陸海軍も賛成したが、日ソ中立条約の「大手柄」を携えモスクワから帰国した松岡洋右外相が猛反対し、近衛内閣が決定を渋る間に独ソ戦勃発で世界情勢は一変し雲散霧消となった。ただし「日米諒解案」なるものは野村吉三郎大使の一人よがりでハル国務長官の同意に基づくものではなく、松岡洋右ら「外交のプロ」が相手にすべきものではなかった、或いはアメリカは既に対日開戦を決意しており和解交渉は戦争準備のための時間稼ぎに過ぎなかったといった説もあり確かに肯ける状況ではあったが、とはいえアメリカにだけは勝ち目が無い日本としては交渉継続の努力をすべきであり自ら放棄する理由は全く無かった。
- 第一回御前会議で「対英米戦を辞せず」と決定したのを受けて、近衛文麿首相は、強硬派で日本の外交を掻き乱してきた松岡洋右外相を外すため内閣を総辞職、すぐに松岡抜きの第三次近衛内閣を組閣した。「大東亜共栄圏」を掲げて対中強硬路線と南進政策を主張する松岡洋右は、第二次近衛内閣の外相に抜擢され、近衛首相と軍部の期待に応えて日独伊三国同盟締結と北部仏印進駐を主導した。しかし、松岡の外交思想は単に「漁夫の利」を求める場当たり的な機会主義的強権政治であり、国際政治情勢の変化によって右往左往し、政局を引っ掻き回した挙句に外相の地位を追われることとなった。ドイツ軍が欧州を席巻するなか、松岡外相の当初のシナリオは、「1940年秋頃」の大英帝国崩壊を睨み、ドイツと同盟を結んで欧州戦争参戦の口実を整え、「南進政策」を推し進めてアジアの英仏蘭植民地を奪取する、ただし米ソとは不戦体制を構築するというものであった。しかし、ソ連とは日ソ中立条約を締結したものの、安全保障戦略上イギリスを失えないと判断したアメリカは大掛かりな経済・軍事支援に乗出し、大英帝国崩壊の可能性は消滅した。これで日独伊三国同盟は完全に裏目に出て、軍需物資の大半をアメリカからの輸入に頼る日本は窮地に陥り、南進政策は可能性の問題ではなく死活問題へと転化した。慌てた松岡外相は、南進政策反対と対米妥協に転じ、軍部が仕掛けたタイ仏印国境紛争の沈静化に動いたが、野村吉三郎駐米大使の日米和解交渉を妨害し、蘭印との経済交渉も打ち切らせた。アジアに対する強攻策も穏健策も否定する一方で、対米妥協をも否定するという意味不明の迷走を続けるなか、独ソ戦が勃発すると、今度はなんと対ソ開戦を主張した。「漁夫の利」を求める松岡には合理的であっても、対米妥協を図る近衛首相、南進政策に集中したい軍部から完全に見放され、閣外へ放逐されることとなった。松岡外相の「積極外交」は幕を閉じたが、その爪痕は甚大な禍根となり、関東軍特種演習(対ソ開戦に備えた関東軍増強)、南部仏印進駐、対米開戦へと続く亡国路線を決定付ける役割を果した。
- 第二回御前会議の結果を受けて、近衛文麿首相は野村吉三郎(海軍出身)駐米大使を通じて日米交渉を再開しようとしたが、時既に遅く、アメリカから相手にされなかった。近衛首相は閣議で対米妥協策を諮ったが、東條英機陸相から中国からの陸軍撤兵は「心臓停止」に等しく絶対に承認できない「人間、清水の舞台から飛び降りる覚悟が必要だ」と突上げられ、「東條の男めかけ」といわれた嶋田繁太郎海相は東條陸相に与し永野修身軍令部総長は「よくわからないので首相に一任」と責任を回避する情けない有様で、近衛首相は陸海軍の不一致を理由に土壇場で政権を放り出してしまった。後任首相は昭和天皇と木戸公一内大臣の協議により決められたが、対米協調派の皇族軍人で軍部にも抑えが効く東久邇宮稔彦王が有力視されるなか、よりによって最大の主戦論者である東條英機を選んでしまった。愚かな決断をした木戸幸一の真意は不明だが、強硬派ながら天皇への忠節が厚い東條に任せれば天皇の意を汲んで開戦回避に尽力するだろうとの思惑があったとみられ、天皇は木戸の奏上に「虎穴にいらずんば虎児を得ず、だね」と答えたという。首相となった東條英機は、陸相と参謀総長を兼務し、対米開戦を諌めた網本浅吉陸軍少将を追放するなどして反対勢力を一掃した。組閣直後は天皇の意に適うべく対米開戦回避に努めたが、戦争の決意を固めたアメリカを相手に中国・仏印からの完全撤退の他に打開策は無く、強硬な陸軍統制派を基盤とする東條首相には開戦以外の選択肢は残されていなかった。
- 「日米諒解案」が挫折した後も野村吉三郎駐米大使はワシントンに留まりハル米国務長官と妥協点を探る交渉を続けたが時既に遅し、開戦準備を終えたアメリカは突如交渉を打切り「日本軍が仏印と中国から撤退しない限り経済封鎖を解除しない」とする最後通牒(ハル・ノート)を東條英機政府に突きつけた。要するに満州事変以前への原状回復を迫る、当時の外交常識に反する超強硬姿勢であり、アメリカも日本が呑むとは考えておらず日本を挑発して開戦に踏切らせようとの意図があった。完全に手詰まりとなった東條英機内閣は、若槻禮次郞や米内光政ら良識派重臣の最後の諫止を黙殺し、第四回御前会議において対米開戦を決定した。なお、当時アメリカは日本の外交暗号「パープル」の解読に成功しており、日本サイドの情報は筒抜けであった。近衛文麿・東條英機内閣が対米開戦に踏切った背景にはナチス・ドイツ軍への過剰な期待があったが、確かにソ連の敗北は必至と思える戦況があった。東部戦線を片付けたドイツは西部戦線に兵力を集中しイギリスを撃破するはずであり、欧州に足場を失えばアメリカも戦意喪失し早期講和に応じるだろう・・・こうした希望的観測を陸海軍を含む日本全体が共有していた。が、東條英機内閣が第四回御前会議で対米開戦を決定した数日後、ドイツ軍はスターリンが陣取るモスクワまで30kmに迫りながら悪天候とソ連軍の猛反撃により後退を開始、ドイツ優位で進んできた独ソ戦の趨勢は一変し、甘い他力本願戦略には対米開戦を前に狂いが生じた。
- 日本軍がマレー侵攻と真珠湾攻撃を敢行、英米蘭中が日本に宣戦布告、これを受けて独伊が米に宣戦布告し、太平洋戦争が始まった。1941年において、アメリカのGNPと鉄鋼生産量はいずれも日本の12倍、持久戦・総力戦になれば全く勝つ見込みのない戦争であった。山本五十六連合艦隊司令長官が自ら立案した日本海軍による真珠湾攻撃は、結果的には鮮やかな戦果を挙げたが、非常にリスクの高い冒険的作戦であった。持久戦では勝ち目がないと確信する山本五十六は、日本近海で敵艦隊を待ち伏せし大鑑巨砲で決戦に挑むという軍令部の作戦の非を悟り、「桶狭間とひよどり越と川中島とをあわせ行うの已むを得ざる羽目に、追込まれる次第に御座候」と覚悟を定め乾坤一擲の大博打に挑んだのである。真珠湾攻撃が成功すれば早期講和に持ち込み、もし惨敗しても戦争は続行不能、いずれにせよ戦争を早期に終わらせるための攻撃作戦であった。山本五十六の悲壮な決意を知らない海軍中枢の幕僚らは、自分らの作戦に固執して真珠湾攻撃の阻止を図ったが、山本らが良い加減な永野修身海相を押し切って実現させた。なお、宣戦布告文書の手交が真珠湾攻撃開始に1時間遅れたため、「リメンバー・パールハーバー」のスローガンで現在に至るまでアメリカの反日政策に利用されることとなったが、これは日本大使館員の怠慢が原因であり、日頃の野村吉三郎大使への反抗的態度が思いもよらぬ大問題に発展したというお粗末極まりない話であった。
- 1943年既に日本軍の敗色は濃厚であったが「チャーチルに似て」絶望知らずの重光葵が外相に就任、ルーズベルト米大統領・チャーチル英首相の「大西洋憲章」が解放平等を謳いながらインドなどの植民地支配を改めない欺瞞を質し、「欧米植民地支配からの東洋の解放・建設・発展」という「わが国の戦争目的の正当性を世界に示す」ため「大東亜共栄圏」諸国の連帯を提唱した。重光葵外相は「大東亜憲章」「大東亜同盟」の樹立と裁判所・警察軍・中央銀行など国際機構の創設まで構想したが、青木一男大東亜相・賀屋興宣蔵相・海軍らの反対で「宣言」に矮小化された。とはいえ東條英機首相は重光葵外相に賛同し、自らアジア諸国の元首を歴訪して参加を呼掛け、大本営政府連絡会議をまとめ「共存共栄の秩序を建設す、相互に自主独立を尊重す、相互にその伝統を尊重す、互恵のもと緊密に連携す、人種的差別を撤廃す」という「大東亜共同宣言」案を決定した。かくして東條英機政府は、日本軍の侵攻で欧米列強の植民地支配から解放され独立を果したアジア諸国の首脳を東京に招いて「大東亜会議」を開催し大東亜共同宣言を採択した。出席者は中華民国(南京政府)行政院院長の汪兆銘、満州国国務総理の張景恵、フィリピン国大統領のホセ・ラウレル、自由インド仮政府主席のチャンドラ・ボース、ビルマ国行政府長官のバー・モウ、タイ国首相代理のワンワイ・タヤコーン親王で、日本軍の占領下だが未独立のイギリス領マラヤおよび蘭領東インドは参加せず、仏ヴィシー政権支配下の仏領インドシナは招待されなかった。日本の敗戦で重光葵の大東亜共栄圏構想は画餅に帰しGHQにより「大東亜戦争」の呼称も抹殺されたが、バー・モウは「日本ほどアジアを白人支配から離脱させることに貢献した国はない」「東京で開かれた大東亜会議、この偉大な会議は、十二年後、アジア・アフリカ諸国のバンドン会議で再現された精神であった」と語り、インドのラダ・クリシュナン大統領は「インド・ベトナム・カンボジア・インドネシアなど旧植民地であったアジア諸国はみな日本人の払った大きな犠牲によって独立できた」と総括している。
- ビルマ方面軍第15軍司令官の牟田口廉也が、戦局悪化で守備に専念すべき情勢を無視して、全く必要のないインド侵攻作戦を企て現地幕僚全員の反対を押切り強行、イギリス軍の逆襲に逢い無益な戦いで6万4千人もの戦死者(拉孟騰越戦の2万9千人を含む)と4万2千人の戦傷病者を出した(インパール作戦)。上官のビルマ方面軍司令官は河辺正三であり、盧溝橋事件を起した牟田口・河辺コンビが再びやらかした日本戦史上最悪の暴挙であったが、インド独立運動家で「大東亜会議」の盟友チャンドラ・ボース(中村屋カレーの発案者とも)に泣き付かれた東條英機首相が「子分」の牟田口廉也に無謀な突撃を命じたのが真相とされる。自己顕示欲の塊で好きなものは「一に勲章、二に現地女、三に新聞記者」といわれた牟田口廉也は、反対する第15軍の参謀長と三師団長を更迭してインパール作戦を発動、自分は「ビルマの軽井沢」で優雅な生活を送りつつ前線に無理を強要し撤退も許さなかった。間もなく東條英機は内閣を倒され予備役編入、牟田口廉也も解任され予備役編入となったが、東京裁判での起訴を免れ、インパール作戦の戦略的妥当性を認めた英字紙の切抜きを振りかざしつつ1966年まで78歳の長寿を保った。後任の第15軍司令官に就いた木村兵太郎は、東京裁判で絞首刑に処されている。なお当時のビルマ方面軍には、対米開戦の首謀者ながら強硬過ぎて東條英機首相と対立し陸軍中央を追出された田中新一が第18師団長の任にあったが、さすがに牟田口廉也の無謀な作戦には反対したとされる。
- ナチス・ドイツから中東を奪還したルーズベルト米大統領・チャーチル英首相がカイロで会談(蒋介石中華民国主席も出席)、日本を無条件降伏に追込むまで共同で戦うこと・日本打倒後の支配地の剥奪などで合意し「カイロ宣言」を公表した。停戦条件を無条件降伏に限定された東條英機政府は一切の妥協手段を絶たれ、かといって軍部が受入れるはずなく、国土が壊滅するまで戦うほか選択肢が無くなった。が、間もなく米軍機動部隊のトラック島空襲で海軍拠点が壊滅、首相に陸相を兼ねる東條英機は杉山元から参謀総長職を奪って陸軍を完全掌握し、「大本営発表」で戦局悪化を偽りつつ本土決戦へ向け戦意発揚に努めた。海軍でも「東條の男めかけ」といわれた嶋田繁太郎海相が永野修身を更迭し軍令部総長を兼務、東條内閣への協力体制をとった。
- マッカーサー率いる米陸軍とニミッツ提督の米海軍は、ガダルカナル制圧後怒涛の北上進撃を開始し、マリアナ諸島・フィリピンに迫った。サイパン島陥落は日本本土がB29爆撃機の射程圏内に晒されることを意味し、絶対にここを落とせない日本軍はサイパン・テニアン・グアムに大規模陸軍部隊を投入し最大限の防御体制を構築、東條英機首相(兼陸相)は「サイパンの防衛は安泰、水際で敵を完璧に追い落とす」と豪語していた。が、アメリカ軍の圧倒的な物量作戦によりサイパンの防衛線はあっけなく壊滅、連合艦隊が総力を挙げて決戦を挑むが空母3隻が撃沈・航空機400機がほぼ全滅という完敗を喫し、補給路を絶たれ孤立したサイパン守備隊は玉砕し殲滅された。サイパンを制圧したアメリカ軍はテニアン・グアムを落としてマリアナ諸島全域を掌握、航空基地を建設し日本本土爆撃の準備を進めた。なお、一連の激戦により日本軍はサイパンで約3万人(民間人1万人)・グアムで約1万8千人もの戦死者を出した。この期に及んでもなお東條英機首相は勇ましい強硬論を振りかざしたが、岡田啓介・米内光政・若槻禮次郞・宇垣一成ら重臣が結束し東條内閣を退陣に追込んだ。
- 戦局が悪化しても強硬論を曲げない東條英機首相(陸相と参謀総長を兼務)に対し、岡田啓介・米内光政・若槻禮次郞・宇垣一成ら重臣は結束して倒閣工作に動いた。東條独裁下の陸軍は頑強に抵抗したが、東條英機首相が自ら「防衛は安泰」と豪語したサイパン島が呆気なく陥落し敗戦が決定的になると、重臣会議は意を決して粘る東條を引きずり降ろした。「戦争遂行内閣」の後継首相は陸軍から出すこととなったが「陸軍大将を任官年次の古い順に見ていって適当な人物を捜す」という投遣りな選考の結果、宇垣一成の穏健派に連なる小磯國昭に組閣の大命が降された。陸相には強硬派の杉山元が就任したが、小磯國昭の能力不足を補うため元首相で海軍良識派の米内光政が海相に復帰し「小磯・米内連立内閣」といわれた。小磯國昭は、陸士(12期)を出て日露戦争に従軍、陸大の席次は55人中33番と凡庸だったが、長州閥の系譜を引く宇垣一成に属し派閥争いが盛んな陸軍にあって人柄と人付合いの良さで台頭、要職の軍務局長・陸軍次官・関東軍参謀長・朝鮮軍司令官を歴任した。小磯國昭大将は予備役に退いたが、調整能力を買われて平沼騏一郎・米内光政内閣に拓務相で入閣し、朝鮮総督を経て首相へ上り詰めた。小磯國昭に特筆すべき業績は無いが、朝鮮総督として同化政策(皇民化政策)を推進したことや、陸軍航空本部員として欧州視察を経験し空軍力の充実を持論としたことなどが知られている。さて、実は戦争終結を期待された小磯國昭内閣は、徹底抗戦を叫ぶ陸軍を懐柔すべく「一撃を加えた上で有利に対米講和を進める」建前を示し徴兵年齢拡大(根こそぎ動員)を断行したが相手にされず、本土爆撃が本格化するなか愚にも付かない「本土決戦完遂基本要綱」を容認した。米内光政海相・重光葵外相や近衛文麿・木戸幸一ら重臣にも見放された小磯國昭首相が何も出来ないまま、レイテ沖海戦で海軍が壊滅し東京大空襲・硫黄島陥落・沖縄侵攻・日ソ中立条約廃棄通告と戦局は見る間に悪化し、戦艦大和撃沈の日に小磯内閣は退陣した。終戦後、小磯國昭は東京裁判で終身刑判決を受け1950年に巣鴨プリズンで獄死した。
- ルーズベルト米大統領、チャーチル英首相、スターリン・ソ連書記長が、ウクライナのヤルタで会談し、ドイツ降伏後のヨーロッパ秩序の回復について協議した。外部秘で小磯國昭政府への通知もなかったが日本への措置も協議され、無条件降伏まで追込むことが確認されたほか、ルーズベルトがソ連の対日参戦を打診、スターリンは日露戦争で奪われた諸権益(南樺太と千島列島を含む)の返還を条件に「ドイツ降伏から3ヵ月後のソ連の対日参戦」で合意が成立した。そして1945年5月7日にドイツが降伏しソ連は8月9日に参戦、ヤルタ合意の遵守ではあったが日ソ中立条約の有効期間中であり戦後の北方領土問題の原因となった。
- ベルリン郊外ポツダムにおいて、トルーマン米大統領(ルーズベルト死去により後継)、チャーチル英首相、スターリン・ソ連共産党書記長が会談し、日本への無条件降伏勧告と植民地・占領地の剥奪、戦争犯罪人の処罰、民主主義体制の確立など太平洋戦争終結の条件を決定し、「ポツダム宣言」が発表された。鈴木貫太郎政府が回答を逡巡しているうちに、毎日新聞や読売報知が「笑止!」と煽り世論も傾いたため、「本土決戦」に固執する軍部は「完全無視」の声明を出すよう政府を突上げた。このため鈴木貫太郎首相は、米内光政海相の助言を受けて、「ポツダム宣言はカイロ会談の焼き直しであって、政府としてはなんら重要な価値があるとは考えない。ただ黙殺するだけである。われわれは戦争完遂に邁進するのみである。」と発表、外国の新聞は「黙殺」を「拒絶」と報じ、米ソに日本攻撃の口実を与えてしまった。
- 敗戦必至の戦局が徒に長引くなか、岡田啓介・米内光政・若槻禮次郞・宇垣一成ら重臣が東條英機内閣を打倒し、無能な小磯國昭内閣に代わり昭和天皇の信任篤い鈴木貫太郎の「終戦内閣」が成立、ナチス・ドイツの降伏、ソ連の日ソ中立条約廃棄、沖縄戦敗北、空襲で国中が焼け野原と化すに及び漸く陸軍は「本土決戦」を断念した。鈴木貫太郎内閣と陸軍は中立条約締結国のソ連を仲介とする日米和平交渉に最後の望みを繋いだが、ヤルタ会談で米英に8月9日の対日参戦を約束済みのスターリンが仲介などするはずはなかった。かくして鈴木貫太郎内閣はポツダム宣言受諾を決めたが降伏条件で紛糾、「天皇制護持」のみで妥結を図る東郷茂徳外相らに対し、阿南惟幾陸相・梅津美治郎参謀総長・豊田副武軍令部総長は「占領は小兵力且つ短期間」「武装解除および戦犯の処置は日本人の手で行う」との条件追加を声高に主張した。議事が膠着するなか、鈴木貫太郎首相は強引に御前会議を開いて昭和天皇の「聖断」を仰ぎ、天皇は慣例を破って自らの意見を述べ天皇制護持だけを条件とする東郷外相案に賛意を示した。その8月10日のうちに外務省は中立国を介し天皇制護持のみを条件にポツダム宣言を受諾する旨を通知、連合国から承認の回答を得た。陸軍幕僚らは連合国の回答をあげつらって悪あがきしクーデターを企てたが(宮城事件)、辛くもテロを逃れた鈴木首相は全閣僚・重臣を召集、席上昭和天皇が連合国回答に基づく降伏を明言し、正式の手続きを踏んで8月14日に日本の敗戦が決定した。いわゆる「無条件降伏」ではなかったが、日本が固執した天皇制護持さえアメリカ(GHQ)の恣意へ委ねられ、あれだけ血気盛んだった軍人らも忽ち意気阻喪した。最悪なのは「無敵関東軍」で、日本人居留民の安全を確保する前に早々に武装解除に応じ我先に内地へ帰還、「降伏文書調印(9月2日)までは交戦状態」というスターリンの屁理屈でソ連軍が満州に殺到し無防備の日本人に襲い掛かった。暴虐なソ連軍は日本の民間人18万人を虐殺し、国際法を無視して57万人以上の「戦争捕虜」を強制労働で酷使し10万人以上を死なせた(シベリア抑留)。
- 1945年9月2日、東京湾に浮かぶ米戦艦「ミズーリ」艦上で重光葵外相と梅津美治郎参謀総長が天皇および東久邇宮稔彦王内閣を代表して降伏文書に署名した。重光葵らは「日本の首都から見えるところで、日本人に敗北の印象を印象づけるために、米艦隊のなかで最も強力な軍艦の上」に呼びつけられ「連合軍最高司令官に要求されたすべての命令を出し、行動をとることを約束」、ここにアメリカによるアメリカのための占領統治が始まり1951年のサンフランシスコ講和条約まで「日本政府はあって無きが如き」状態が続くこととなった。早速当日、マッカーサーは「日本を米軍の軍事管理下におき、公用語を英語とする」「米軍に対する違反は軍事裁判で処分する」「通貨を米軍票とする」という無茶苦茶な布告案が突きつけている(重光葵外相の奮闘で後日撤回)。最後まで粘った日本の降伏により米英ソ(連合国)の圧勝で第二次世界大戦は終結、犠牲者数には諸説あるがソ連1750万人・ドイツ420万人・日本310万人(うち民間人87万人)・フランス60万人・イタリア40万人・イギリス38万人・アメリカ30万人など合計4500万人もの死者を出したといわれ、空襲と市街戦・ユダヤ人虐殺などにより軍人を大幅に上回る民間人が犠牲となった。なお、満州には関東軍78万人がほぼ無傷で駐留していたが、陸軍首脳は8月14日のポツダム宣言受諾を受け早々17日に武装解除を命令、高級軍人から我先に日本本土へ逃げ帰った。が、ソ連のスターリンは8月14日の終戦通告は一般的な「ステートメント」に過ぎず降伏文書調印(9月2日)まで攻撃を継続すると宣言、無抵抗の満州を蹂躙し尽し北朝鮮まで制圧した。関東軍も約8万人の戦死者を出したが、満蒙の奥地に置去りにされた居留民は更に悲惨で18万人もの民間人が暴虐なソ連兵に虐殺された。さらに軍民あわせて57万人以上が「シベリア抑留」に遭難し、法的根拠が無いまま何年も過酷な強制労働を強いられ、最終的に10万人以上が極寒の地で没する悲劇を生んだ。かくして満州事変に始まった中国侵出は、最強国アメリカとの開戦で行詰り、兵士だけで40万人以上の犠牲者を出し最悪の結果で終結した。
- 鈴木貫太郎政府のポツダム宣言受諾を受け、マッカーサー連合国軍最高司令官は日本国民に敗戦を印象付けるべく戦艦「ミズーリ」艦上で降伏文書調印式を行うこととし日本代表を呼びつけた。政府要人も軍首脳も逃げ回るなか、一貫して協調外交を主張し戦後外相に復帰したばかりの重光葵が屈服役を引受け、調印式前日の昭和天皇内奏で右のように敗戦理由を陳述した。「今日の悲境は国力の不定及作戦の拙劣及科学知識の低劣に帰するは抑も末梢のことにして、明治以来帝国の政治統治が一元的ならざりし点が有せるものと断ぜざるを得ず。一君万民の肇国以来の姿が何時の間にか一君と万民との間に一つの軍部階級を生じ、陛下の御意は枉げられたるの事態を現出し、茲に平和も戦争も帝国一部のものとなり、国家全体の関せざる所となりたり。政治の一元的ならざりしことは蓋し総力戦最大の敗因なりと云うべし・・・帝国は宜しく活眼以て世界戦後の新情勢を洞察して、国を挙げて更始一新、勇断、邁進、明治当初に倍する革新的努力を以て、デモクラシ社会に進出するに非ざれば、恐らく外に対して国際的に進路を開拓するに由なく、内国民をして萎縮退嬰せしめ、遂に国家として将来の希望を喪失するに至るべし。」
- アメリカ進駐軍の第一陣が日本上陸した当日、皇族の東久邇宮稔彦王首相は記者会見に応じ有名な「一億総懺悔」発言を行った。曰く「事ここに至ったのは、もちろん政府の政策がよくなかったからであるが、また国民の道義のすたれたのもこの原因の一つである。この際私は軍官民、国民全体が徹底的に反省し懺悔しなければならぬと思う。一億総懺悔をすることがわが国再建の第一歩であり、国内団結の第一歩と信ずる。今日においてなお現実の前に眼を覆い、当面を糊塗して自らを慰めんとする如き、また激情にかられし事端をおおくするが如きことは、とうてい国運の恢弘を期する所以ではありません。一言一句ことごとく、天皇に絶対帰一し奉り、いやしくも過またざることこそ臣氏の本分であります」。「臣民全員が天皇に敗戦を詫びる」という東久邇宮稔彦王の思考こそが大日本帝国を狂わせた元凶であろうが、吉田茂内閣の従米路線のもと懺悔対象が「天皇」から「国際社会(民主的なアメリカ→マルクス主義の国際正義→迷惑をかけたアジア諸国)」にすり替って日本は自虐史観の国となり、また一億総懺悔で「戦争責任」は吹飛び日本人自身による開戦敗戦の原因究明も戦犯追及もないままに「戦後」が始まってしまった。なお東久邇宮稔彦王は、皇族の陸軍大将ゆえに戦後最初の暫定首相に担がれ2ヶ月足らずで退陣、1947年に皇籍離脱したが公職追放に遭難した。一般人となった「東久邇稔彦」は、新宿西口の闇市「青空マーケット」で食料品店・喫茶店・骨董品店などを開いたが事業は悉く失敗し、怪しい人脈に担がれ「ひがしくに教」を興すも世間を騒がせただけに終わった。岸信介への首相退陣要求や「東久邇紫香」との婚姻騒動など時たま世間を賑わせた東久邇稔彦は、なんと102歳の長寿を保ち1990年に大往生を遂げた。
- 東條英機逮捕でGHQの戦犯狩りが始まると、軍部・政財界・新聞各社はもとより日本国中が動揺の渦に包まれ、東久邇宮稔彦王首相・近衛文麿国務大臣を先頭に卑屈なGHQ詣でと浅ましい阿諛追従が横行した。対するアメリカは公然と「アメリカをよく理解し、進んでアメリカの対日政策に従っていこうという熱意ある人」以外を排除する方針を示し、従米派筆頭の吉田茂がGHQ参謀第2部長ウィロビーの手先となって戦犯指定や政府の人選に躍動した。一方、GHQに公平な統治を求める硬骨漢は極めて希で、その筆頭の重光葵外相は「英語を公用語とする」「米軍票を通貨にする」といった無茶な要求の撤回には成功したものの、早くも9月17日に吉田茂への外相交代を強いられ、翌年A級戦犯容疑で巣鴨プリズンに投獄され東京裁判で禁固7年の有罪判決を受ける羽目となった。
- 戦犯狩りが始まり要人が挙って保身に奔るなか、重光葵外相は「折衝の もし成らざれば死するとも われ帰らじと誓いて出でぬ」と決死の覚悟でGHQに乗込み「英語を公用語とする」「米軍票を通貨にする」という無茶な布告を撤回させたが、数日後に外相を罷免された。重光葵の後任外相に納まりGHQの占領政策を担った吉田茂は「外務大臣に任命されたとき、総理大臣であった鈴木貫太郎氏に会った。そのとき鈴木氏は『負けっぷりも、よくないといけない。鯉はまな板の上に乗せられてからは、庖丁をあてられてもびくともしない。あの調子で、負けっぷりをよくやってもらいたい』といわれた。この言葉はその後、私が占領軍と交渉するにあたっての、私を導く考え方であったかもしれない」と述懐している。重光葵の腹心で共に布告撤回に尽力した岡崎勝男は、勝ち馬の吉田茂へ乗換えて従米外交の担い手となり日米行政協定に暗躍、「第五福竜丸被爆事件」直後の日米協会のスピーチでは「米国のビキニ環礁での水爆実験に協力したい」などと暴言を吐いた。一方、GHQに危険視された重光葵は外相更迭の翌年東京裁判の獄に繋がれ禁固7年の有罪判決を受けた。『続 重光葵日記』に曰く「結局、日本民族とは、自分の信念をもたず、強者に追随して自己保身をはかろうとする三等、四等民族に堕落してしまったのではないか・・・節操もなく、自主性もない日本民族は、過去において中国文明や欧米文化の洗礼を受け、漂流していた。そうして今日においては敵国からの指導に甘んじるだけでなく、これに追随して歓迎し、マッカーサーをまるで神様のようにあつかっている。その態度は皇室から庶民にいたるまで同じだ・・・はたして日本民族は、自分の信念をもたず、支配的な勢力や風潮に迎合して自己保身をはかろうとする性質をもち、自主独立の気概もなく、強い者にただ追随していくだけの浮草のような民族なのだろうか。いや、そんなことは信じられない。いかに気もちが変化しても、先が見通せなくても、結局は日本民族三千年の歴史と伝統が物をいうはずだ。かならず日本人本来の自尊心が出てくると思う」。
- GHQは民間検閲支隊を設置して徹底的な検閲を開始、1952年の占領終結まで継続された。検閲スタッフには「高度な教育のある日本人五千名」が高給で採用され、経費は日本政府から吸上げる「戦後処理費」でまかなわれた。吉田茂政権のもと日本人には秘匿されたため現在でもあまり知られていないが、GHQの言論統制は新聞・雑誌・書籍の事前検閲および発禁に止まらず、戦時中の憲兵隊さえ行わなかった個人の信書開封・翻訳を年間何千万通もの規模で行い、日本人全体の思考把握とコントロールを図るものであった。史上希にみる徹底的な言論統制の結果、発行停止を恐れる新聞各紙は「自主規制」に奔り、言論界・学会の隅々までアメリカ批判をタブー視する風潮が確立されていった。
- 米国務省は「降伏後における米国の初期対日方針」を決定した。「日本は米国に従属する」との基本方針のもと、政治における非軍事化・戦争犯罪人の処分・民主化にくわえて、「日本の軍事力を支えた経済的基盤(工業施設など)は破壊され、再建は許されない・・・日本の生産施設は、用途転換するか、他国へ移転するか、またはクズ鉄にする」という工業分野の徹底的な破壊が決められた。さらに、日本が負うべき戦時賠償調査のため訪日したE・W・ポーレーは、「日本人の生活水準は、自分たちが侵略した朝鮮人やインドネシア人、ベトナム人より上であっていい理由はなにもない」との極論を述べ、実際に日本の苛性ソーダや製鉄産業の設備をフィリピンなどに移設することを真剣に検討した。対する日本側では英語を解する外交官出身者が主導権を握ったが、アメリカの不条理に反発する重光葵・芦田均らは退けられ、代りに吉田茂ら「協力的人物」が引上げられた。
- 当初アメリカは直接軍政を予定していたが、準備のための十分な時間がなく、また最小限の兵力とコストで日本の占領統治を行うべく間接統治へ切替えた。GHQ指令を日本政府が法令化する流れを基本としたが、緊急の場合は法令化を省略しGHQ指令を「ポツダム勅令」の名で直接公布する方式が採られた。中央政府廃止で国土を4分割され英米仏ソの各国軍司令官に直接統治されたドイツよりマシかも知れないが、間接統治とはいえ事実上の主権者はアメリカであり、日本を「保護国」とする認識は講和独立後も続き今日の米国政府でも公然と語られている。ヘソ(朕より上)と呼ばれたダグラス・マッカーサーは「私は日本国民に対して、事実上無制限の権力をもっていた。歴史上いかなる植民地総督も征服者も、私が日本国民に対してもったほどの権力をもったことはなかった・・・軍事占領というものは、どうしても一方はドレイ(奴隷)になり、他方はその主人の役を演じ始めるものだ」などと吹聴し、トルーマン米大統領は「日本は軍人をボスとする封建組織のなかの奴隷国であり、一般人にすれば主人が占領軍に切替わっただけで新政権のもとに生計が保たれれば別にたいしたことではない」と痛いところを衝いている。GHQ内部では、反共主義者のチャールズ・ウィロビー部長率いる諜報・保安・検閲担当の参謀第2部(G2)と、社会主義にかぶれ極端な民主化政策を推進するホイットニー局長・ケーディス次長の民政局(GS)の対立が次第に深刻化した。G2は反共の吉田茂を支持し、GSは財閥解体・日本国憲法策定・労働組合育成など実験的政策を進めつつ社会党など革新陣営を支持し片山哲・芦田均内閣を成立させた。が、米ソ冷戦の激化に伴い日本統治でも反共路線が優勢となり、1948年以降GSは急速に力を失いGHQの主導権争いはG2の完勝で終結、吉田茂の長期政権が重光葵・鳩山一郎らの自主路線を封殺した。1952年サンフランシスコ講和条約発効に伴いGHQは廃止され、日本を去ったマッカーサーはトルーマン大統領との政争に敗れ失脚、長すぎた吉田茂政権も漸く終焉を迎えたが、高度経済成長により従米路線が戦後日本の「保守本流」に定着した。
- 敗戦の混乱を鎮めるため公家の東久邇宮稔彦王が暫定組閣したが、親米政権を望むGHQの意を受けた吉田茂外相は「忘れられた存在」幣原喜重郎を首相に擁立、GHQに楯突き外相交代を強いられた重光葵は「幣原喜重郎内閣は昭和二〇年一〇月九日成立した。その計画は吉田外務大臣が行った。吉田外務大臣は、いちいちマッカーサー総司令部の意向を確かめ、人選を行った。残念なことに、日本の政府はついに傀儡政権となってしまった」と嘆いた。幣原喜重郎内閣は僅か半年の短命に終わったが、日本軍解体・五大改革指令・財閥解体・衆議院選挙法改定と総選挙・公職追放・沖縄施政権剥奪・預金封鎖と新円切替・労働組合法公布・東京裁判開廷と、GHQが命じる重要施策を次々と実行へ移した。国民国家はさておき天皇制存続を使命と考える幣原喜重郎は、昭和天皇に「人間宣言」を促し、自ら英訳してマッカーサーに国体護持を訴えた。憲法改定を迫られた幣原喜重郎は、天皇制に関わるだけにGHQ任せにはせず、憲法改定に延命を賭ける近衛文麿のスタンドプレーを排し、松本蒸治国務相を中心に「憲法問題調査会」を立上げ起草作業に着手した。GHQは「自主憲法」を容認する方針だったが、瑣末な修辞をいじくるばかりの「松本委員会」は抜本的改革案を出せず、業を煮やしたマッカーサーはケーディス民政局(GS)次長に草案策定を命じた。少人数のケーディス・チームが短時日で作成した「押付け憲法」であったが、幣原喜重郎首相は天皇の訴追免除と引換えに受諾を決断、「斯る憲法草案を受諾することは極めて重大の責任であり、恐らく子々孫々に至る迄の責任である。この案を発表すれば一部の者は喝采するであらうが、又一部の者は沈黙を守るであらうけれども心中深く吾々の態度に対して憤激するに違ひない。然し今日の場合、大局の上からこの外に行くべき途はない。」と語り退陣した。後継の第一次吉田茂内閣が「日本国憲法」を成立させ、幣原喜重郎は衆議院議員となり芦田均の民主党で幹部に納まったが、田中角栄ら陣笠を引連れて吉田の自由党に合流し民主自由党が発足、吉田内閣のもと78歳で没するまで衆議院議長を占めた
- 1929年に起った世界恐慌からの脱却を図るため、日本政府は軍事費関連を中心に超積極的な財政出動策を採り、満州事変勃発以降の軍事費急増が拍車を掛け、日本経済は1934年には世界恐慌前の水準に回復した。続く日中戦争、第二次世界大戦においても日本の鉱工業生産は軍需主導で拡大し続けたが、国策主導による統制経済への傾斜は大資本による経済寡占化を促し第二次大戦終結時には三井・三菱・住友・安田の四大財閥が全国企業の払込資本の半分を占める「開発独裁」状態となっていた。「軍事は解体」「経済も解体」「民主化は促進」を掲げるマッカーサーのGHQは、軍国主義根絶のためにも財閥解体が最重要と判断し、早くも1945年11月に勅令第657号を公布し幣原喜重郎内閣に財閥解体を命じた。1946年4月には実務を担う持株会社整理委員会を発足させ、同年9月以降次々と十五大財閥(三菱・三井・住友・安田・中島・鮎川・浅野・古河・大倉・野村・渋沢・神戸川崎・理研・日窒・日曹)を指定、1947年12月には財閥解体の根拠法となる過度経済力集中排除法を定め、重箱の隅をつつくような徹底的な産業構造破壊を断行、主要親会社67社と子会社・孫会社3658社が整理され、さらに財閥を主要株主とする395社も整理された。しかし、マッカーサーの思惑を乗越えて多くの財閥系企業は協力関係を維持しつつ生残り、冷戦の緊迫化と朝鮮戦争勃発を受けてアメリカ政府が日本の経済力・工業力を利用する方針に180度転換したのを機に風当たりは弱まって、三菱・三井・住友・安田(扶桑)・三和・第一勧銀の6大銀行グループによる再編が進み、旧財閥を冠した社名も許されるようになっていった。
- GHQの指令により、まず軍国主義に関与した人物として1946年1月に約6千人が公職から追放され、次いで1947年1月から1948年8月までの間に約21万人(うち軍人16万7千人)が公職追放指定された。幣原喜重郎内閣の外相でGHQ代理人の吉田茂は、日独伊三国同盟を推進した「外務省革新派」(リーダーの白鳥敏夫は東京裁判で終身禁固刑判決)など意に添わない人物を徹底的に公職追放へ追込み、吉田のイニシャルをとって「Y項パージ」と恐れられた。戦犯狩りに続く公職追放の大嵐に政官財は戦々恐々、虎の威を借る吉田茂の権力は増大し、内務官僚で公職追放令の策定作業にあたった後藤田正晴は「みんな自分だけは解除してくれと頼みにくる。いかにも戦争に協力しとらんようにいってくる。なんと情けない野郎だなと」追想している。しかし米ソ冷戦の顕在化に伴いアメリカの対日政策は「戦前体制を破壊し尽くし軍国主義復活を阻止する」方針から「経済復興を促し反共の防波堤として利用する」方向へ180度転換、その手始めに公職解放指定は全部解除され共産主義者狩りの「レッド・パージ」へ「逆コース」を辿った。1952年の衆議院総選挙は鳩山一郎・重光葵ら戦前派の復活選挙となり公職追放解除者が議席の42%を獲得、極端な従米路線を否定する鳩山・重光ら自主路線派は「ワンマン宰相」吉田茂を脅かす勢力となり両派の対立は次第に深まった。
- 東京裁判では、裁判中に病死した永野修身・松岡洋右と精神疾患で免訴された大川周明を除く25名が有罪判決を受け、うち東條英機・板垣征四郎・木村兵太郎・土肥原賢二・武藤章・松井石根・広田弘毅の7名が死刑となった。近衛文麿は召還命令を受けると抗議の服毒自殺を遂げた。東條英機は自作の『戦陣訓』に書いた「生きて虜囚の辱めを受けず」の信条を実践すべく拳銃自殺を図ったが、失敗して繋がれた。木戸幸一は、天皇と自身を守るため、GHQに『木戸日記』を提出して弁明に努めたが、保身のために同胞を売った行為として今なお悪評が高い。さらに、上海事変などの謀略工作に従事した陸軍人田中隆吉は、訴追を免れるため虚実取り混ぜた陸軍の行為をGHQに暴露した。大川周明は、裁判中に東條英機の頭をポカリとやって精神疾患と判断され免訴されたが、獄中でイスラム語のコーランを翻訳するなど、偽装の可能性が高い。なお、有罪判決を受けた戦犯は、広田弘毅・平沼騏一郎・東條英機・小磯國昭(以上総理大臣)・板垣征四郎・南次郎・梅津美治郎・土肥原賢二・荒木貞夫・松井石根・畑俊六・木村兵太郎・武藤章・佐藤賢了・橋本欣五郎(以上陸軍)・永野修身・嶋田繁太郎・岡敬純(以上海軍)・賀屋興宣・木戸幸一・松岡洋右・重光葵・東郷茂徳・大島浩・白鳥敏夫・鈴木貞一・星野直樹(以上文官)・大川周明(民間人)であった。東京裁判自体は「勝てば官軍」の暴挙だが、有罪者の顔ぶれは総じて妥当といえよう。対米開戦の張本人である陸軍の田中新一と海軍の伏見宮博恭王・末次信正をはじめ、無謀な計画で大勢を死なせた牟田口廉也・服部卓四郎・辻政信ら陸軍参謀および対米開戦を主導した海軍の高田利種・石川信吾・富岡定俊・大野竹二ら海軍国防政策委員会が対象外なのは解せないが、広田弘毅・松岡洋右・大島浩・白鳥敏夫など文官のガンもしっかり入っている。訴因が軍政に偏り統帥部が意図的に外されているが、天皇の訴追を避けたいアメリカの思惑が透けて見える。また、陸軍に比して海軍に甘いのが大きな違和感で、「陸軍=戦争=悪」という日本人の戦後史観に大きな影響を及ぼしたであろう。
- 終戦後、近衛文麿は新憲法準備に生残りを賭けた。幣原喜重郎内閣の副総理格の地位にあった近衛文麿は、GHQに赴いてマッカーサーと会談した際、「憲法改正を要する」との示唆を受けて自らこれにあたることを決意し、木戸幸一から昭和天皇に働きかけて宮内省御用掛に任じてもらい、京大の佐々木惣一元教授に頼んで憲法改正案の作成に着手した。こうした近衛文麿のスタンドプレーに幣原喜重郎首相と松本烝治国務大臣は反発し、近衛に中止を求めると共に、松本烝治を委員長として「憲法問題調査会(通称松本委員会)」を立上げた。近衛文麿は尚も独自の新憲法準備工作を継続しようとしたが、中国・オランダ・ソ連などから近衛を戦犯指定するよう迫られたGHQに梯子を外されてお払い箱となった。これで新憲法準備は松本委員会に一本化されたが、東大系法学権威を集めた老人組織は瑣末な文言修正に終始する有様で抜本的な改革案を出せず、結局GHQからの「押付け憲法」を受入れざるを得ない事態に追込まれた。さて、マッカーサーにすがるも見捨てられ東京裁判の審理に際しGHQから巣鴨刑務所への出頭命令を受けた近衛文麿は、出頭予定日の前日に荻窪の別荘「荻外荘」で青酸カリによる服毒自殺を遂げた。山下奉文らの死刑判決をみて極刑を免れないと覚悟した近衛文麿は、「勝者の裁判」で裁かれる屈辱に耐えられず自決に及んだとされる。自作の『戦陣訓』で「生きて虜囚の辱めを受けず」と国民に強要した東條英機は軍人のくせにピストル自殺に失敗、近衛文麿との対象もあり完全に面目を失った。なお、近衛文麿の死後しばらくの間、友人の吉田茂が「荻外荘」を借用し自邸として使った。
- 日本国憲法は、GHQ民政局(GS)次長ケーディスのチームが作成した原案を幣原喜重郎・吉田茂内閣が丸呑みして公布した代物であり、内容はともかく「押付け憲法」の評価は全く正しい。敗戦直後より改憲要求が予期されるなか、国務大臣の近衛文麿が自らの生存を賭けて憲法改定案作成に乗出したが、幣原喜重郎内閣は近衛を抑え「松本委員会」の専権事項として憲法起草に取組んだ。しかし、根本的改革を求めるGHQは日本政府案を完全否定し、民政局のケーディスのチームが短期間で作成した憲法草案を突きつけ、もし受入れなければ、天皇が戦犯として処刑されるかもしれず、吉田茂外相以下の現政府メンバーも芦田均厚生相は「これがもとで内閣が総辞職でもすれば、当然GHQ案を喜んでのむ連中が出てくるに違いない。従って内閣はどうしてもここで踏ん張って、きたるべき総選挙に備えなければいけない」と踏ん張ったが、GHQの圧力には抗すべくもなく、2月13日、遂に幣原喜重郎内閣は受諾の決断を下し、「極めて重大の責任」を痛感しつつ退陣した。そして3ヵ月後の5月22日に第一次吉田茂内閣が発足、国会審議を「国体はいささかも変更されない」との詭弁一点張りで押し切り、11月3日の日本国憲法公布、翌1947年4月25日の新憲法下での総選挙、5月3日の憲法施行を見届けた3週間後に吉田茂内閣は退陣した。自作の「日本国憲法」を押し通したいGHQは、戦後初の総選挙で圧勝し次期組閣が確実であった自由党総裁の鳩山一郎を強引な公職追放で追い払い、配下の吉田茂に組閣させて野望を果した。こうした一連の経緯は、占領中の検閲によって日本国内で完全に秘匿されたため、現在でも多くの日本人が知らないが、アメリカの公文書公開によっても明らかな事実である。ライシャワー駐日大使は著書のなかで「マッカーサーは自分で日本国憲法を書いてしまった」とはっきりと批判している。
- 吉田茂は、板垣退助の腹心竹内綱の妾腹の子で、横浜の貿易商吉田健三に入嗣し11歳で膨大な遺産を相続した。学業成績が冴えない吉田茂は学校を転々したが、学習院大学科の閉鎖に伴う無試験編入という裏口を使って東大法学部に潜り込み、28歳で外交官試験に合格した。吉田茂は中国領事など外務省の傍流を歩んだが、牧野伸顕伯爵(大久保利通の次男)の長女雪子と結婚し、岳父の威光でパリ講和会議の随員に加えられ1928年外務次官へ栄進、陸軍も顔負けの対中国強硬論で鳴らし(大陸派)幣原喜重郎・重光葵の「協調外交」と対立した。二・二六事件の直後、吉田茂は同志近衛文麿の命により広田弘毅(外交官同期の主席)の組閣に働き、本命の外相は逃したが同格の駐英大使に任じられた。駐英大使後任の重光葵は国際的に高い評価を得たが、吉田茂は貴族趣味に染まるだけで相手にされず1939年「待命」となり一線を退いた。牧野伸顕の影響もあり強硬外交から親英米派へ転じた吉田茂は、日独伊三国同盟に反対し、対米開戦後は早期講和を訴え東條英機内閣打倒に加担、1945年2月「近衛上奏文事件」に連座し憲兵隊に2ヶ月間拘置された。第二次大戦後、逮捕歴が「反軍部の勲章」となり吉田茂はウィロビー参謀第2部長から「窓口役」を仰せつかり、1954年までGHQ傀儡政権の外相・首相を占め「軍事は解体」「経済も解体」「民主化は促進」の占領政策を実行、日本国民にはGHQとの「対等」を演じ「ワンマン宰相」と畏怖された。重光葵・芦田均ら自主外交派が排除されるなか、吉田茂は日本一国を「俎板の上の鯉」の如く差出し、「押付け憲法」を受入れ、国家予算の2割を超す「戦後処理費」を献上し、講和条約と引換えに不平等な日米安保条約・行政協定を呑まされた。講和独立後も吉田茂は政権にしがみついたが、東西冷戦の本格化で日本の再軍備へ転じたアメリカに見捨てられ、再軍備・自主外交を掲げる鳩山一郎に政権を奪われた。しかし吉田茂の経済優先・外交従米路線は池田勇人・佐藤栄作・宮澤喜一らに引継がれ高度経済成長により「保守本流」に定着、アメリカが日本を「保護国」と呼ぶ状況は今も続く。
- 吉田茂がGHQの代理執行人に過ぎないことは歴史が示すとおりだが、「バカヤロー解散」など日本人に対しては非常に偉そうな態度をとり、アメリカとの「対等」を演じ「ワンマン宰相」と畏怖された。戦前に遡れば、少壮期の吉田茂は外交官傍流の中国領事を長く務めたが、戦後日本人に対したのと同様に中国人を愚民視し「イギリスがエジプトを支配したように満州支配に強圧的手段で臨むべき」と武力行使を主張した「大陸派」、英国紳士気取りで中国料理を毛嫌いし張作霖が自ら取分けた料理一品すら口にしなかった。さて1946年、公職追放された鳩山一郎の代役として組閣を引受けた吉田茂は、自由党幹部に対し「金作りは一切やらない、閣僚の選考に一切の口出しは無用、辞めたくなったらいつでも辞める」との条件を付け、鳩山には「君の追放が解けたらすぐにでも君に返すよ」と大物ぶりを示した。1951年アメリカの方針転換で公職追放が解除され、政界に復帰した鳩山一郎の派閥は吉田茂首相の極端な従米政策に反発し与党自由党を二分する勢力となった。吉田茂はサンフランシスコ講和条約を花道に引退すると思われたが、改めて鳩山一郎への「首相禅譲密約」をしてまで第四次内閣を組閣、密約を破って第五次内閣まで引延ばし講和条約発効後2年間も政権にしがみついた。しかしGHQは廃止され親分のマッカーサーも失脚するなか、吉田茂首相は冷戦激化に伴うアメリカの安全保障戦略の転換に付いて行けず再軍備反対に固執、合理的なアメリカ政府はあっさりと忠臣吉田を見捨てた。長期政権に飽きた世論でも轟々たる非難が巻起るなか、1954年吉田茂は解散総選挙で第六次組閣を図るが側近にも諫言され断念、漸く政権を鳩山一郎に返上した。とはいえ吉田茂は隠然たる勢力を維持しつつ1967年まで89歳の長寿を保ち、戦後唯一の国葬で送られ官庁や学校は半休となった。吉田茂が敷いた経済優先・外交従米路線は、高度経済成長に恵まれた愛弟子の池田勇人政権で磐石となり「保守本流」は「吉田学校」の佐藤栄作・大平正芳・宮澤喜一らへ受継がれ「55年体制」をリードし続けた。
- 選良意識と欧米流「貴族趣味」は外務官僚の宿痾だが、吉田茂は俗物外交官の最たる例であった。吉田茂は、民権土佐派の竹内綱の妾腹の子で横浜貿易商の吉田健三に入嗣、11歳のとき養父が没し50万円(現在価値で20億円)もの遺産を受継いだ。東大進学が遅れ28歳で漸く外交官となった吉田茂は(同期の主席は広田弘毅)長らく傍流の中国領事を転々したが、中国人と中国料理を毛嫌いし張作霖が自ら取分けた料理一品にも箸を付けなかった。牧野伸顕伯爵(大久保利通の実子で宮廷政治家)の長女雪子との結婚で傍流から抜出した吉田茂は、岳父を後ろ盾に猟官運動を行い田中義一首相の引きで外務次官に栄進、駐伊大使で欧州へ赴任した。近衛文麿の命を受け広田弘毅内閣成立に働いた吉田茂は、第一志望の外相は逃したが念願の駐英大使に任じられ、葉巻に紅茶など英国紳士の生活様式とロールス・ロイスなど貴族趣味にどっぷり浸り、3年後に帰国すると「大陸派」の強面は影を潜め親英米の反戦派へ様変りしていた。第二次大戦終結の直後、帝国議会も貴族院議員も有名無実となったが、吉田茂は廃止直前に貴族院議員の勅撰を獲得し「貴族」に列している。余談ながら、第92代内閣総理大臣の麻生太郎は吉田茂の孫だが(三女和子と福岡麻生財閥当主の長男)、庶民生活を圧迫する物価高について新聞記者の取材を受けたときカップラーメンの値段を聞かれ「千円くらい?」と口を滑らせ貴族の馬脚を現している。
- GHQ=吉田茂政府は、不在地主の土地をタダ同然で取上げ小作農に分与する徹底的な「農地改革」を日本全国で断行した。農地改革の結果、全農地の半分近くを占めた小作地は20%以下に激減し北海道・東北諸県を筆頭に農地「解放率」は劇的に向上したが、農業だけでは自活できない1町歩未満の小規模自作農が大量に発生した。農村を追われた大人口は大都市に流込み安価な工業労働力となって経済成長を牽引、吉田茂政権は幸運にも社会秩序崩壊を免れたが、農村社会の衰退と共に都市部を中心に核家族化が進行し、精神的拠所を求める都市住民を吸収し新興宗教団体が興隆した。
- 敗戦から朝鮮戦争の特需で蘇生するまで日本は上から下まで窮乏に喘ぎ多くの餓死者も出たが、アメリカは日本経済の再起不能化を進めつつ日本政府から膨大な米軍駐留経費を吸上げた。「戦後処理費」の名目で計上された米軍駐留経費は1946年379億円(一般歳出の32%)・1947年641億円(31%)・1948年1,061億円(23%)・1949年997億円(14%)・1950年948億円(16%)・1951年931億円(12%)、日本政府は講和条約成立までの6年間に合計約5千億円・国家予算の2割を超す巨費を無条件で献上し、ゴルフ・特別列車・花や金魚の代金まで押付けるGHQのやりたい放題を許した。第一次内閣で無茶な米軍駐留経費を規定路線化した吉田茂首相は唯々諾々と従うのみで、更なる増額要求に反抗した石橋湛山は蔵相を更迭され公職追放の憂き目をみた。石橋湛山は「あとにつづいて出てくる大蔵大臣が、おれと同じような態度をとることだな。そうするとまた追放になるかも知れないが、まあ、それを二、三年つづければ、GHQ当局もいつかは反省するだろう」と語ったが、1954年に吉田茂内閣が退陣し鳩山一郎内閣で重光葵が外相に復帰するまで抗米意見は封殺された。GHQと吉田茂ラインの宣伝により戦後日本はアメリカの「寛大な占領」で救われたというのが定説となり、その根拠として真先に挙るのが「ガリオア・エロア資金」である。外貨の乏しい日本政府がガリオア・エロア資金を使い生活必要物資をアメリカから緊急輸入した事実はあるが、1946年から1951年までのネットの対日援助額は13億ドルと膨大な「戦後処理費」のごく一部に過ぎない。また、ガリオア・エロア資金の学資援助で米国留学した大勢の学者や公務員が中心となり、従米路線あるいは米国批判タブーの社会風潮を根付かせたことも考えると、アメリカの「寛大な占領」などではなく「戦略的恩恵」であったことは疑いない。戦後70年の今日に至るまで、日本政府は手を変え品を変え不平等な日米安保条約に基づく米軍駐留と経費負担を継続し、アメリカが日本を「保護国」呼ばわりする異常な状態が続いている。
- 日本の急進的民主化を図るマッカーサーはGHQ発足当初の「五大改革指令」に「労働組合の結成奨励」を加え社会主義的なGHQ民政局が積極的に労働運動を助成したが、1946年3月に労働組合法が公布されると空腹を抱えた日本国民が殺到し、1946年末には組合数1万7265・組合員数484万9329人へ膨張した。GHQの民主化政策に戦後の深刻なインフレが拍車を掛け労働運動はエスカレート、日本全国で賃上げ闘争や首切り反対闘争が続発するなか1946年10月に国鉄・全労・新聞放送を含む大規模労働争議「一〇闘争」が発生し、1947年初には全官公庁を中心とする「二・一ゼネスト」が計画された。反共の吉田茂政権を揺さぶる大騒擾に慌てたマッカーサーは「二・一ゼネスト」禁止を発令し労働運動抑制へ転換、戦後瞬く間に拡大した労働組合運動は沈静化へ向かった。
- 1947年、GHQ作「日本国憲法」制定の大任を果した第一次吉田茂内閣が退陣し、総選挙で第一党に躍進した社会党左派の片山哲が組閣した。社会党内閣に対しGHQ内部では、反共主義のウィロビー部長の参謀第2部(G2)は警戒したが、ホイットニー局長・ケーディス次長ら社会主義思想家が多い民政局(GS)は革新政権を歓迎した。米ソ冷戦が未だ緊迫化していない国際情勢も手伝い、マッカーサーはキリスト教徒の片山哲首相を支持し、鳩山一郎の公職追放のようなGHQの横槍は入らなかった。とはいえ、さしものGSも左傾し過ぎた平野力三農林大臣の解任を要求し、これに従った片山哲首相は急進左派の40議席を喪失、片山内閣は総辞職に追込まれ9ヶ月余の短命政権に終わった。重光葵が嘆いたとおり「占領下の日本政府などというものは、あってなきがごときもの」であった。
- アメリカの対日政策は蒋介石の親米政権による中国統治を前提としたプランであり、中華民国政府を強大国に育成してアジアにおける西側陣営の柱石とし、日本は非武装の三流国に転落させ、米英仏中・ソの五大国で世界統治を進めるシナリオであった。ところが、1947年7月に始まった共産党軍の大反攻により内部腐敗した蒋介石の国民政府軍の敗色が濃厚となり、さらに李承晩と金日成の対立で米ソ合同委員会による南北朝鮮統一工作が破綻するに及び、アメリカは日本を含むアジア戦略全体の見直しを迫られることとなった。トルーマン政府は迅速に動き、国務省のジョージ・ケナンを訪日させて「改革や追放の停止と戦犯裁判の早期終結。日本国民の不満解消に向け、改革よりも貿易など経済復興を第一義的な目的とすべきこと。日本の講和独立を視野に入れ警察(軍事力)を強化する、また沖縄・横須賀の米軍基地は確保しつつ、GHQの権限をできるだけ日本政府に移譲すること。」を旨とする日本統治戦略の大幅緩和を指示した。「軍事は解体」「経済も解体」「民主化は促進」で日本解体に励んできたマッカーサーが面白いはずはなく、特に再軍備には強硬に反対し憲法9条に基づく非武装国家の永続を強調して激しく楯突いた(講和独立・GHQ廃止後も吉田茂はマッカーサーに殉じて再軍備反対に固執し、米政府に見捨てられる)。トルーマン大統領は、ロイヤル米陸軍長官演説(占領経費削減と「反共の防波堤」構築のため、日本経済の破壊から自給自足促進への戦略転換を提言)や「ジョンストン=ドレイパー報告」を支援材料に足場を固め、1948年10月「国家安全保障会議文書」により破壊から復興への日本統治戦略の180度転換を正式決定した。
- 民政局の翻意で平野力三農省の罷免を強いられ社会党左派内の支持を失った片山哲内閣が退陣し、連立与党の民主党党首である芦田均が後継首相に就任した。反共・軍事優先の参謀第2部(G2)と日本の社会主義的民主化を進める民政局(GS)によるGHQの内部対立は、東西冷戦の緊迫化に伴い日毎に先鋭化しつつあったが、ソ連の「ベルリン封鎖」を機に米国内で反共闘争路線が優勢となり民政局の凋落が明らかになった。G2のウィロビー部長はマッカーサーを抱込んで追討ちを掛け、配下の東京地検特捜部を動員し「昭和電工疑獄」を摘発、民政局員の多くを贈賄容疑にかけ失脚させた。G2の意を受けた読売新聞や朝日新聞は過剰な弾劾報道で昭和電工疑獄を煽り立て、G2が民政局寄りと敵視する芦田均内閣も巻添えを喰い、西尾末広社会党書記長の逮捕で総辞職に追込まれた。外交官出身の芦田均は、外務省同期の重光葵と同様に自主外交を模索し吉田茂の極端な従米路線を否定、外務省の後輩に脱米国依存の研究を示唆し、片山哲内閣の外相として米軍の「有事駐留」を提唱したことでGHQに警戒されていた。後継首相には野党第一党・民主自由党党首の吉田茂が就くのが「憲政の常道」であったが、G2子飼いの吉田を嫌うケーディス民政局次長は最後の抵抗を試み、民主自由党副総裁の山崎猛を擁立し民政局の傀儡政権に仕立てようと企てた(山崎猛首班工作)。が、ウィロビー部長のG2は猛反撃でケーディスの陰謀を葬り第二次吉田茂内閣を樹立、ケーディスはワシントンで占領政策不変更を訴えたが相手にされず、万策尽きて翌1949年5月3日の憲法記念日に民政局次長を辞任した(ケーディスは日本国憲法の作成者)。さて昭和電工疑獄の顛末だが、芦田均元首相のほか大蔵省主計局長の福田赳夫ら多くの官僚と政治家が逮捕され14年半も費やした裁判の末に1962年最高裁判決が下されたが、なんと実刑判決ゼロ・執行猶予付き懲役刑21名・芦田も福田も無罪というお粗末な結果となり、G2=東京地検特捜部の「国策捜査」が明白となった。
- 東西冷戦が緊迫化する世界情勢のなか、トルーマン米政府は「トルーマン・ドクトリン」「マーシャル・プラン」で共産主義勢力への対決姿勢を鮮明にしたが、ロイヤル米陸軍長官の演説を機に政軍有力者の間で日本経済を復興させ「反共の防波堤」にすべしとの機運が高まった。訪日調査したドレーパー米陸軍次官(日独占領政策担当)は、戦前比で鉱工業生産45%・輸入30%・輸出10%にまで落込んだ日本経済を「死体置き場(モルグ)」と表現し過酷な懲罰政策の緩和を米政府に勧告した。ソ連の「ベルリン封鎖」で冷戦が風雲急を告げ、「ソ連への対抗上、日本の経済力・工業力を利用すること」がアメリカの国益に資すると判断したトルーマン政府は、1948年10月「国家安全保障会議」による「アメリカの対日政策に関する勧告」(NSC13/2)を承認し、破壊から復興への日本統治戦略の180度転換を正式決定した。政府の決定を受けたGHQは、破壊から経済復興促進へ政策を転換し、ソ連に対抗するには人材が必要との判断により1951年戦犯釈放・公職追放解除に踏切り「レッド・パージ」へ切替えた。朝鮮戦争勃発で「反共の防波堤」の要請は一層高まり、アメリカは日本の経済力・工業力だけでなく軍事力も利用すべく策動を始めた。こうした米政府の路線転換は「軍事は解体」「経済も解体」「民主化は促進」で進んできたマッカーサーの占領政策を完全否定するものであり、GHQとトルーマン大統領・国防省との確執が深刻化、「日本の軍事力も強化してアメリカの安全保障に貢献させる」という政府方針を巡って対立は沸点に達し、GHQ傀儡の吉田茂政権を操り「奴隷」を相手に「世界史上最高の権力」を自賛したマッカーサーは遂に解任された。トルーマン大統領から日本経済復興を託されたデトロイト銀行頭取のドッジは性急な超緊縮財政を吉田茂首相・池田勇人蔵相に押付け、深刻なデフレ不況を引起し復興途上の日本経済は壊滅の危機に瀕したが(ドッジ・ライン恐慌)、朝鮮戦争の米軍特需で一気に蘇生し奇跡の高度経済成長が始まった。平和憲法を奉じる戦後日本は、皮肉にも米ソ冷戦と朝鮮戦争によりアメリカの破壊政策から救われた。
- トルーマン米政府は1948年10月「ソ連への対抗上、日本の経済力・工業力を利用すること」に決め対日政策を破壊から復興へ180度転換したが、米軍は更に踏込んで「日本の軍事力も強化してアメリカの安全保障に貢献させる」方針を定めた。「軍事は解体」「経済も解体」「民主化は促進」で占領統治を行ってきたマッカーサーのGHQは抵抗したが、1949年ソ連の核実験成功と翌年の朝鮮戦争勃発でトルーマン米政府も日本の再軍備に傾き、朝鮮半島に出動した米軍とほぼ同数の7万5千人からなる「国家警察予備隊」を創設、国務省政策顧問のジョン・フォスター・ダレスを講和特使として日本へ派遣し吉田茂首相に再軍備を促した。再軍備絶対反対の吉田茂は「たとえ非武装でも世界世論の力で日本の安全は保障される」と夢物語を唱え、ダレスをして「不思議の国のアリスに会ったような気がする」と呆れさせたが、親分のマッカーサーに泣きつきこの場は事を収めた。が、トルーマン大統領との対立が決定的となりマッカーサーがGHQを解任されると(ウィロビー参謀第2部長も退官)、吉田茂首相は後ろ盾を失い日本の再軍備を阻む勢力は無くなった。1951年9月8日サンフランシスコ講和条約調印で日本は占領統治からの独立を許されたが、吉田茂首相は講和条約とセットの日米安保条約・行政協定により在日米軍の常時駐留と日本政府による基地費用負担の継続を呑まされた。アメリカ主導で日本の再軍備・増強も着々と進められ、公職追放を解かれた旧軍人が続々と軍務に復帰して幹部に納まり、1954年7月1日をもって国家警察予備隊は常設軍隊の「自衛隊」へ改組された。吉田茂は猶も再軍備に反対し続けたが、アメリカは「軍備をサボタージュする古狐」を切捨て再軍備を掲げる鳩山一郎内閣の発足を容認した。陸海空の自衛隊は権限と装備の両面で「専守防衛」の枠に縛られつつも米ロ中に次ぐ軍事力を誇る「軍隊」へ発展したが、核兵器の無い軍隊は画竜点睛を欠き、2015年現在も日米安保条約は不平等なまま米軍の常時駐留と膨大な費用負担・自衛隊兵器の対米依存から抜出せずアメリカが「保護国」と呼ぶ半独立状態が続いている。
- 1950年6月25日、北朝鮮軍が突如砲撃を開始し38度線を越えて韓国領内に侵入、朝鮮戦争が勃発した。首都ソウルはあっという間に陥落し、準備不足の韓国軍は忽ち追い詰められて半島南端の釜山周辺にまで追込まれた。これに先立つ1949年12月、アメリカ国家安全保障会議は南朝鮮からの撤退を決定し、アチソン国務長官は演説の中で「アメリカの防衛ラインは、アリューシャン列島から日本列島、沖縄をへてフィリピンに至るライン」であり朝鮮半島は防衛ライン外であることを明言していた。ソ連のスターリンは、この情報を掴んでアメリカの参戦はないと判断し北朝鮮軍を進発させた可能性が高い。しかし、アメリカは即座に政策を転換し「国連軍」を急遽編成して戦線に投入、圧倒的火力により10月20日には北朝鮮の首都平壌を占拠し、その5日後には中国国境の鴨緑江付近まで攻め上った。慌てたスターリンは建国宣言間もない中国に参戦を要請、血気の毛沢東は「人民義勇軍」を派遣して人海戦術で連合軍を38度線付近まで押し戻した。その後は戦線が膠着し、1953年7月27日に板門店で休戦協定が調印され、38度線が国境となった。朝鮮戦争の犠牲者は、国連軍側17万2千人・共産軍側142万人とされるが、軍人を遥かに凌ぐ一般市民が犠牲となり、その数は400万人とも500万人といわれ、米・中ソの代理戦争は日韓併合時代と比較にならない惨禍をもたらした。一方、日本にとっては、外貨収入の3割に及ぶ膨大な「朝鮮特需」が産業界を蘇生させたうえ、「反共の防波堤」構築・日本経済の破壊から復興への180度戦略転換というアメリカの対日政策を決定的なものにし、経済大国化へ向けた最大の転換点となった。さらに、アメリカは「日本の軍事力も強化してアメリカの安全保障に貢献させる」方針へ傾斜を強め、国家警察予備隊(自衛隊)創設に続いて再軍備反対に固執するマッカーサーを罷免し、日本の占領終結後も米軍の常時駐留と日本政府による基地費用負担を継続させるため、従米派吉田茂内閣との間で講和条約とセットで日米安保条約交渉を開始、吉田茂後も磐石の従米路線を維持するため策動を強化した。
- 1951年9月8日、日本と交戦国48カ国代表の調印によりサンフランシスコ講和条約が締結され、翌1952年4月28日の条約発効をもってGHQによる軍事占領は終結し日本は主権を回復した。ソ連は出席したが調印を拒み、中国と中華民国(台湾)は招待されず、インドは参加を拒否した。米軍部は日本の占領を続けたかったはずだが、日本政府から膨大な「戦後処理費」を吸上げつつも、占領経費負担は米国財政をも圧迫し世論は占領中止に傾いていた。そこでトルーマン米政府は、ダレス講和特使を日本に派遣して、講和独立を認める代わりに、在日米軍特権の恒久的継続を迫り、これを吉田茂内閣が受入れて日米安全保障条約が結ばれた。講和条約の調印式が華麗なオペラハウスで行われたのに対して、安保条約の方は占領軍基地内の下士官クラブ、しかも署名者は米国側4名に対して日本側は吉田茂首相のみという異様さであった。さらに、国会審議や批准手続きを要する安保「条約」からは当然問題視されるべき米軍駐留のあり方の取り決めが省かれ、政府間合意で足りる行政「協定」を別途締結して、基地の継続使用・米軍関係者の治外法権・有事における統一指揮権(日本軍が米軍の指揮下に入る)といった都合の悪い事項を入れ込んだ。日本全土における米軍基地の自由使用と治外法権まで認めたうえに、日本政府による米軍基地経費負担も継続される一方で、アメリカは日本の防衛義務は負わないとする極めて不平等な内容であり、対等な主権国家同士の条約と呼べる代物ではなかった。そして1960年、岸信介内閣が不平等を是正すべく条約改正に挑んだが、吉田茂の従米路線後継者と「安保闘争」によって妨害され、「集団的自衛権」を建前に双務的体裁を整えた「新安保条約」には漕ぎ着けたものの、本丸の行政協定には踏込めず「地位協定」と改称しただけに終わった。新安保成立後岸信介内閣は退陣したが、新安保の期限を10年とし以降は1年前予告で一方的に破棄できる条項をねじ込み、「真の独立」の課題を次代へ託した。が、その後の内閣において条約破棄権行使も条約改正交渉も行われることなく現在に至っている。
- 吉田茂首相が推し進める日米行政協定の案策作業の過程で、大蔵省幹部の宮澤喜一はアメリカが日本の同意なく自由に米軍基地の立地を選定できる点に異議を唱え「講和が発効して独立する意味がないにひとしい」と当該規定の削除を外務省に申入れた。宮澤喜一の指摘は至極当然であったが、吉田茂の腹心で日米安保・行政協定交渉担当大臣の岡崎勝男は姑息な隠蔽工作でウヤムヤにした。宮沢喜一曰く「この規定は行政協定そのものからは姿を消したが、『岡崎・ラスク交換文書』のなかには、そのままこの規定が確認されていて、しかも私がそれを知ったときは、すでに行政協定は両国のあいだで調印を終わっていた」。この直後、外相を兼任していた吉田茂首相は岡崎勝男に外相を譲り犬馬の労に報いている。
- GHQのやりたい放題を受入れ続けた吉田茂首相であったが、あまりに急激な米政府の「日本の軍事力も強化してアメリカの安全保障に貢献させる」方針への転換についていけず、親分のマッカーサーが解任された後も米政府からの再軍備要請に難色を示し続けた。一方、日本国内では、講和独立後初の総選挙で鳩山一郎ら公職追放解除者が衆議院議席の42%を占め、鳩山派と吉田派の勢力は逆転していた。鳩山一郎は、自主路線の代表的政治家であり、1946年には組閣を目前にしながらGHQに睨まれて公職追放に遭い首相の座を吉田茂に譲り渡したが、追放解除後に政界復帰し、米軍占領からの真の脱却を図るため重光葵と共に積極的な再軍備を主張していた。重光葵は、鳩山一郎と同じく自主路線故にA級戦犯として有罪判決を受け4年7ヶ月も獄に繋がれたが、戦犯釈放により政界復帰を果した吉田茂の宿敵であった。こうした状況のもと、日本の再軍備を優先するアメリカは長年忠勤に励んだ吉田茂を「軍備をサボタージュする古狐」とあっさり切捨て、鳩山一郎首相・重光葵外相の内閣発足を容認した。憲法改正・再軍備・自主外交(中ソ外交)を掲げて発足した鳩山一郎内閣は、吉田茂内閣が言われるがままに差し出してきた「防衛分担金」の削減交渉を成功させ、ダレス米国務長官に一蹴されはしたが在日米軍撤退・防衛分担金廃止提案を行い、アメリカが日ソ分断のために埋め込んだ北方領土問題を乗越えて悲願の「日ソ国交回復」を達成、これを花道に退陣した。その僅か1ヵ月後、自主外交の旗手としてアメリカに対抗し続けた重光葵は謎の突然死を遂げた。
- 鳩山一郎政権は、公約に掲げる憲法改正・再軍備に必要な絶対多数(3分の2)の議席を獲得するため、小選挙区中心への選挙制度改革を企図した。が、野党のみならず与党自民党内でも選挙区割が旧民主党優遇との批判が噴出し、ゲリマンダーを文字って「ハトマンダー」と批判された鳩山一郎首相は断念した。ここで鳩山一郎が踏張っていれば、「決められない政治」は終わり改憲問題も片付いていたかも知れない。
- 申請から5年を経て漸く日本の国際連合加盟を果した重光葵外相は、1956年12月国連総会に出席し見事な演説を行った。重光葵は喜びと感謝を述べたあと、日本国憲法と国連憲章の平和に関する理念は完全に一致しており日本は国連に積極的に貢献することを約束し、右のように演説を締めくくった。「日本は世界の通商貿易に特に深い関心を持つ国でありますが、同時にアジアの一国として固有の歴史と伝統とを持っている国であります。日本が昨年バンドンにおけるアジア・アフリカ会議に参加したゆえんも、ここにあるのであります。同会議において採択せられた平和十原則なるものは、日本の熱心に支持するところのものであって、国際連合憲章の精神に完全に符合するものであります。しかし、平和は分割を許されないのであって、日本は国際連合が、世界における平和政策の中心的推進力をなすべきものであると信ずるのであります。わが国の今日の政治、経済、文化の実質は、過去一世紀にわたる欧米及びアジア両文明の融合の産物であって、日本はある意味において東西のかけ橋となり得るのであります。このような地位にある日本は、その大きな責任を十分自覚しておるのであります。私は本総会において、日本が国際連合の崇高な目的に対し誠実に奉仕する決意を有することを再び表明して、私の演説を終わります」。覇権国家アメリカは「東西のかけ橋」を望まなかったのか、帰国した重光葵には謎の突然死が待構えていた。
- 「自主外交」の旗手にして吉田茂の宿敵・重光葵は、鳩山一郎内閣で10年ぶりに外相に返咲くと再びアメリカの理不尽に立向かった。1955年4月「防衛分担金を178億円(国家予算の約2%)削減し、その分を防衛予算増額に充当する」との日米合意を成功させた重光葵外相は、同年7月アリソン駐日大使に「米国地上軍の6年以内撤退、その後6年以内の米国海空軍撤退、在日米軍支援のための防衛分担金の廃止」を提案、翌月には岸信介民主党幹事長と河野一郎農商を伴って渡米しダレス国務長官との直談判に挑んだ。「対等国」として安保改定を求める重光葵をダレスは一蹴、岸信介の回想によると「ダレスは、重光君、偉そうなことを言うけれど、日本にそんな力があるのかと一言のもとにはねつけたというのが実情」であった。また河野一郎が著書に曰く「ダレスの言った趣旨はこうだ。日本側は安保条約を改定しろというけれど、日本の共同防衛というのは、今の憲法ではできないではないか。日本は海外派兵できないから、共同防衛の責任は日本が負えないではないか。・・・ダレスさんからやっつけられると、重光さんは立上がって、『どこの国の憲法にはじめから侵略的な海外派兵を肯定している憲法がありますか。アメリカの憲法と日本の憲法と比べてみて、この点についてどこがちがうか』(と主張した)。こうした緊張感のなかで重光さんの態度は堂々としている。やはり戦前の外交官は見識をもっている。」・・・結局、重光葵外相の気魄も老練なダレス国務長官には通じなかったが、条件付ながら「現行の安全保障条約をより相互性の強い条約に置きかえる」との日米合意を引出し、後の岸信介内閣による安保改定交渉への足掛りを築くことはできた。翌1956年12月鳩山一郎内閣は「日ソ国交回復」を花道に退陣、国際連合加盟を果し総会演説で有終の美を飾った重光葵は笑顔で「もう思い残すことはない」と語り外相を退いた。その僅か1ヵ月後、69歳にして健康体の重光葵は湯河原の別荘で好物のスキ焼きと餅を食し床に就いたが、間もなく腹痛を訴えて苦しみ始めそのまま息を引取ったという。重光葵の原因不明の突然死により、日本の自主外交は大きく後退した。
- 第二次大戦後、政友会の幹部だった鳩山一郎は残党を集めて日本自由党を結成した。1946年新選挙法に基づく初の衆議院総選挙で自由党は最多議席を獲得、鳩山一郎総裁の首相就任は確実であったが、GHQの露骨な横槍で公職追放に遭い吉田茂に首相の座を預けた。1951年アメリカの対日戦略転換で公職追放が解除され、政界に復帰した鳩山一郎の派閥は吉田茂と自由党を二分する勢力となったが、「君の追放が解けたらすぐにでも君に返すよ」と述べた吉田は政権を離さず鳩山に「首相禅譲密約」までして首相に居座った。吉田茂が密約も反故にすると、1954年鳩山一郎は反吉田勢力を結集して日本民主党を結成し(重光葵副総裁・岸信介幹事長)内閣不信任案を提出、再軍備反対に固執しアメリカの信任も失った吉田は轟々たる非難のなか首相続投を断念した。1955年「憲法改正・再軍備・自主外交(中ソ外交)」を掲げ発足した鳩山一郎内閣は、「鳩山ブーム」を背景に総選挙を実施するも絶対多数の獲得には至らず、改憲と再軍備は棚上げして外交に専念する方針を採った。鳩山一郎首相は、民主党と自由党の「保守合同」で政権基盤を固め(55年体制)ソ連フルシチョフ政権との交渉に乗出したが、アメリカが日ソ離間のために仕組んだ「北方領土問題」があるうえ、重光葵外相と外務省は反ソ反共、保守合同で取込んだ外交従米の吉田茂派も対ソ強硬論を主張し与党内の意見調整も難航した。ダレス米国務長官は「日本が千島列島に対するソ連の主権を承認した場合は、アメリカは沖縄に対する完全な主権を行使する」と恫喝したが、1956年鳩山一郎首相は病躯を押してモスクワに乗込み「日ソ共同宣言」を達成(日ソ戦争終結)、帰国の翌日「日ソ国交回復lを花道に勇退を表明した。政治的妥協の結果北方領土問題は先送りされたが、鳩山一郎首相は日本人抑留者(シベリア抑留)の釈放・帰国を引出し、ソ連の拒否権を封じたことで国際連合加盟も果した。鳩山一郎首相・重光葵外相はソ連以外の外交問題にも意欲的に取組み、アジア・アフリカ会議に参加し、中国政府との貿易協定を前進させ、東欧諸国との関係正常化も果している。
- 原子力行政の進展も再軍備を掲げた鳩山一郎政権の見逃せない業績である。日本の原子力行政は1953年「原子力の平和利用」を提唱したアイゼンハワー米大統領演説に端を発し、翌年日本漁船がビキニ環礁でアメリカの水爆実験に遭難する「第五福竜丸事件」が起ると、電源開発が死活問題の日本産業界と日本の反米反核世論を封じたいアメリカ(当初は原発輸出の意図はなかったが)の思惑が一致し露骨な世論操作と行政介入が始まった。第五福竜丸事件の直後、アメリカの意を受けた中曽根康弘らが初の原子力予算案を衆議院に提出し、米CIAに近い正力松太郎の読売新聞は「原子力の平和利用」を喧伝し「原子力平和利用博覧会」に37万人もの来場者を集めた。なお1923年の関東大地震で、朝鮮人が暴動を企てているとか井戸に毒を投げ込んだというデマが飛び交い多くの朝鮮人が殺害されたが、デマ騒ぎの首謀者は警視庁官房主事の正力松太郎であったとされる。直後に摂政宮狙撃事件(虎ノ門事件)が起り警備責任者の正力松太郎は懲戒免官となったが、帝都復興院総裁の後藤新平らの資金援助で読売新聞社を買収し、大政翼賛会総務・貴族院議員を経て第二次大戦後CIAに取込まれ中曽根康弘の盟友となった。さて吉田茂から鳩山一郎へ政権が移った1955年、中曽根康弘の主導で「原子力の平和利用」促進のための「原子力基本法」が成立し「原子力委員会」が発足、産業界の期待を担い正力松太郎が初代委員長に就任した。1956年「日本原子力研究所」(茨城県東海村)が創設され、翌年鳩山一郎内閣は原子力政策を担う「科学技術庁」を設置し正力松太郎を初代長官に任命、電力9社および電源開発の出資で「日本原子力発電株式会社」が発足した。なお、俗物の正力松太郎を嫌うノーベル物理学賞学者の湯川秀樹は原子力委員会委員を辞任している。1963年10月26日(原子力の日)日本原子力研究所が原子力発電に成功し日本各地で原発建設計画が始動、イギリスの対日原発輸出で米政府も容認へ転じGEやWestinghouseが参入(福島第一原発はGE製)、正力松太郎は「原子力の父」の称号を得たが主導権を失い目的の首相就任は果たせなかった。
- ドワイト・D・アイゼンハワーは連合国遠征軍最高司令官を務めた陸軍人で「第二次世界大戦の英雄」として米大統領に就任した人物だが、大統領退任演説において初めて「軍産複合体(MIC)」を世に表しその危険性を警告した・・・「第二次世界大戦まで、合衆国は兵器産業を持っていなかった。アメリカの鋤製造業者は、時間があれば、必要に応じて剣も作ることができた。しかし今や我々は、緊急事態になるたびに即席の国防体制を作り上げるような危険をこれ以上冒すことはできない。我々は巨大な恒常的兵器産業を作り出さざるをえなくなってきている。これに加え、350万人の男女が直接国防機構に携わっている。我々は、毎年すべての合衆国の企業の純利益より多額の資金を安全保障に支出している。・・・「軍産複合体」の経済的、政治的、そして精神的とまでいえる影響力は、全ての市、全ての州政府、全ての連邦政府機関に浸透している。我々は一応、この発展の必要性は認める。しかし、その裏に含まれた深刻な意味合いも理解しなければならない。・・・「軍産複合体」が、不当な影響力を獲得し、それを行使することに対して、政府も議会も特に用心をしなければならぬ。この不当な力が発生する危険性は、現在、存在するし、今後も存在し続けるだろう。この軍産複合体が我々の自由と民主的政治過程を破壊するようなことを許してはならない」。なおアイゼンハワー大統領は、個人的に岸信介首相を支持し日本の自主独立路線に寛容な態度を示したことでも知られる。1960年岸信介内閣との間で日米安保条約を更改したアイゼンハワーは、米大統領として初めて訪日する予定であったが「安保闘争」に阻まれ実現しなかった。ケネディ・ジョンソン・ニクソンを経て1974年田中角栄内閣でフォード米大統領が初来日を果し、以後オバマに至るまで歴代大統領は全て来日している。
- 日ソ国交回復を花道に退陣した鳩山一郎に代わり与党自民党の総裁を引継いだ石橋湛山が組閣した(早稲田大学出身の首相第1号)。自民党総裁選で石橋湛山は次点だったが1位の岸信介が過半数を得られなかったため両者の決選投票が行われ、3位石井光次郎の票を吸収した石橋が逆転勝利を収めた。戦前『東洋経済新報』の記者だった石橋湛山は、紛争の元である海外領土の放棄を主張し(小日本主義)統帥権濫用批判など軍部を相手に堂々と平和主義の論陣を張った硬骨の言論人であった。第二次大戦後、石橋湛山は政界へ転じ第一次吉田茂内閣の蔵相として「傾斜生産方式」導入や復興金融公庫設立などに辣腕を振るったが、アメリカに「戦後処理費」(米軍駐留費負担)の削減を要求し公職追放の憂き目をみた。1951年公職追放解除で政界復帰した石橋湛山は自民党に加盟し、鳩山一郎内閣の通産相として「自主外交」を推進した。戦時中に軍部の弾圧にも屈さなかった石橋湛山は、首相に就任すると「アメリカのいうことをハイハイ聞いていることは、日米両国のためによくない。米国と提携するが向米一辺倒ではない」と述べ自主外交政策を推進、因縁の米軍駐留問題に着手すると同時に「日本が中国について、アメリカの要請に自動的に追従していた時代は終わった」と日中国交回復にも踏込む構えをみせた。党派を超え新時代幕開けへの期待が高まったが、石橋湛山首相は不用意に米軍駐留問題・中国問題というアメリカの「虎の尾」を踏んでしまった。突如肺炎を発症した石橋湛山首相は施政方針演説と質疑応答もできない重体に陥り、僅か2ヶ月で退陣し岸信介に政権を譲った。主治医の診断は「体重の異常な減り方が、肺炎でやせたものとしては理解ができない」「極めて不自然な病気」というもので、間もなく快復した石橋湛山は首相辞任後15年も命を保った。
- 「謎の発病」で退陣した石橋湛山に代わり自民党総裁を引継いだ岸信介が組閣した。「昭和の妖怪」岸信介は謎が多く真意が見えにくいが、アメリカの一枚上手を行く稀有な政治家であった。戦前の岸信介は統制経済を牽引した「革新官僚」で満州国総務庁次長として「弐キ参スケ」に数えられ、東條英機内閣の商工大臣を務めたことでA級戦犯容疑で投獄された。しかし獄中で岸信介が予見した通り東西冷戦に伴うアメリカの対日政策変更で不起訴のまま釈放され、1951年公職追放解除で政界に復帰した。社会党に拒まれた岸信介は実弟の佐藤栄作を頼り自由党に入るも吉田茂の従米路線に反対し除名処分、反吉田勢力が結党した日本民主党に加わり鳩山一郎総裁・重光葵副総裁に次ぐ幹事長に就任した。一方、岸信介は米国要人にも人脈を広げ国務長官・CIA長官のダレス兄弟と親密になりアイゼンハワー大統領にも食込んだ。1955年「保守合同」に際しダレス国務長官は保守政党への財政支援を示唆しCIAから巨額の資金が供与されたが(200万ドルとも1000万ドルとも)、受取り手の中心は岸信介であった。従米派とみられた岸信介首相はアメリカの期待に応え再軍備を推進したが、「戦前の大日本帝国の栄光を取り戻す」べく日米安保条約の不平等是正に挑みアジア重視の外交政策(外交三原則)に取組んだ。アイゼンハワー大統領は「安保改定」に理解を示したが米軍とCIAは岸信介政権を危険視し、池田勇人・三木武夫ら自民党従米派と「安保闘争」の妨害で本丸の日米行政協定には踏込めずに終わった。「新安保条約」成立直後に岸信介内閣は退陣したが安保闘争も忽ち終息、「学生運動指導者らに確たる目的はなく、従米派の政治家・財界人・新聞各社が岸信介内閣打倒のために仕掛けた扇動工作」との説が説得力を持った。岸信介は新安保の有効期限を10年に区切り以降は1年前予告で破棄できる条項をねじ込み「真の独立」を次代へ託したが、佐藤栄作以後の内閣は不変更新を続ける。2015年安倍晋三内閣は「集団的自衛権」を合法化したが、祖父の岸信介が目指した双務的体裁の実質化・米軍撤退・軍事的独立への再挑戦と信じたい。
重光葵と同じ時代の人物
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戦後
岸 信介
1896年 〜 1987年
100点※
戦前は満州国の統制経済を牽引し東條英機内閣の商工大臣も務めた「革新官僚」、米国要人に食込みCIAから資金援助を得つつ日米安保条約の不平等是正に挑んだ智謀抜群の「昭和の妖怪」
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照 -
戦後
孫 正義
1957年 〜 年
100点※
在日商魂と米国式経営を融合し日本一の大富豪へ上り詰めた「ソフトバンク」創業者、M&Aと再投資を繰返す「時価総額経営」の天才はヤフー・アリババで巨利を博し日本テレコム・ボーダフォン・米国スプリントを次々買収し携帯キャリア世界3位に躍進
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戦後
鈴木 一朗(イチロー)
1973年 〜 年
90点※
オリックスで7年連続首位打者に輝き米国MLBへ渡り10年連続200本安打とゴールドグラブ賞を達成、日米通算4千本安打を突破しMLB殿堂入りも確実視される日本スポーツ界の至宝
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