近鉄で新人から4年連続最多勝を獲得したが日本球界を追われMLBへ転身、いきなりの新人王獲得で米国に「トルネード旋風」を巻起し2度のノーヒットノーラン・奪三振王を達成した日本人メジャーリーガーのパイオニア
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照戦後
野茂 英雄
1968年 〜 年
70点※
家系・子孫
- 野茂英雄は大阪市港区出身、父は五島列島奈留島の漁師だったが大坂へ出て郵便局に勤めた。大食の野茂英雄は肥満児となり、心配した母佳代子の勧めで父とキャッチボールを始め、江川卓の剛速球に憧れ小学2年生で地元の少年野球チーム「池島ファイヤース」に入団、エース投手となり小学校の卒業文集に「甲子園に出場して阪神タイガースに入団したい」と書いた。中学卒業に際し野茂英雄は野球名門校のセレクションを受けたがいずれも落選、仕方なく大阪府立成城工業高等学校へ進み、独学で「トルネード投法」を磨き2年生の大阪府予選で完全試合を達成し3年時にはベスト16に入ったが、無名野球部に甲子園は遠過ぎた。しかし野茂英雄は新日本製鐵堺の社会人野球チームの選考に受かり早くも2年目に都市対抗野球で大活躍、同年日本代表チームのエースとしてソウル五輪準優勝を果し、翌年のプロ野球ドラフト会議で史上最多8球団から1位指名を受け鳴物入りで近鉄に入団した。野茂英雄は、都市対抗野球で敵チーム東芝のチアガールをしていた紀久子夫人に一目惚れで結婚し二男をもうけた。日本を飛出した野茂英雄はMLBで一流プレーヤーとなり、米国で育った長男の野茂貴裕は北海道日本ハムファイターズの球団通訳をしている。
野茂英雄と同じ時代の人物
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戦後
孫 正義
1957年 〜 年
100点※
在日商魂と米国式経営を融合し日本一の大富豪へ上り詰めた「ソフトバンク」創業者、M&Aと再投資を繰返す「時価総額経営」の天才はヤフー・アリババで巨利を博し日本テレコム・ボーダフォン・米国スプリントを次々買収し携帯キャリア世界3位に躍進
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戦後
岸 信介
1896年 〜 1987年
100点※
戦前は満州国の統制経済を牽引し東條英機内閣の商工大臣も務めた「革新官僚」、米国要人に食込みCIAから資金援助を得つつ日米安保条約の不平等是正に挑んだ智謀抜群の「昭和の妖怪」
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戦後
重光 葵
1887年 〜 1957年
100点※
戦前は日中提携・欧州戦争不関与を訴え続け外相として降伏文書に調印、アメリカ=吉田茂政権に反抗しA級戦犯にされたが鳩山一郎内閣で外相に復帰し自主外交路線を敷いた「ラストサムライ」
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