上野守護代長尾氏を滅ぼして西上野を掌握し、山内上杉氏を承継した上杉謙信に属して北条氏康・武田信玄の猛攻を凌ぎ切った「上州の猛虎」、自らの死で謙信の関東侵出は頓挫し後嗣の長野憲業は信玄の猛攻に晒され滅亡
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照長野 業正
1491年 〜 1561年
60点※
長野業正の年表
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1491年
関東管領山内上杉顕定の家臣で上野箕輪城主の長野憲業の嫡子に長野業正が出生(異説あり)
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1491年
[延徳の乱]将軍足利義材(義稙)が再び南近江の六角高頼討伐を号令し周防山口の大内政弘・義興父子らが参陣、旧主斯波義寛の差配に不服の朝倉宗滴は参軍を拒否するが朝倉氏の武力を恐れる室町幕府は処分に踏み込めず
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1493年
堀越公方足利政知が死去(虐待した嫡子茶々丸に妻子とともに殺害されたとの説あり)、扇谷・山内上杉家の上野合戦で守衛が手薄となった堀越御所を今川家被官北条早雲が急襲し政知の後継者足利茶々丸を追放、善政を敷き伊豆全域を平定(東国戦国時代・下克上の起り)
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1494年
[明応の政変]管領細川政元が足利義材(義稙)を追放し足利義澄を11代室町将軍に擁立、義稙は越前朝倉軍に捕えられ幽閉されるが、脱出して越中に逃れ将軍在任を宣言し上洛軍を挙兵(越中公方)、義稙についた朝倉氏が一向一揆などの反抗勢力を掃討
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1495年
扇谷上杉家の重臣で小田原城主の大森氏頼が死去、北条早雲は後継の大森藤頼に取り入って安心させ、武蔵の合戦で扇谷上杉定正が落馬死した機を衝き、巻き狩りと偽って小田原城を急襲し奪取、扇谷上杉家に取り入って報復を防ぎつつ関東制覇を睨む
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1495年
周防・長門・豊前・筑前の守護で安芸・石見も支配圏に収め日明貿易・朝鮮貿易で巨富を積んだ大内政弘が分国法『大内家壁書』を遺して死去、嫡子大内義興が家督相続
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1496年
大友政親と対立した嫡子義右が急逝(毒殺説が濃厚)、同盟者の妹婿を殺された大内義興は政親討伐を宣言、政親は迎撃のため海路立花山城へ向かうが赤間関に漂着し捕えられて自害、義興は大友親実の擁立を図るが大内派を粛清した大友親治(政親の弟で宗麟の祖父)が大友氏を相続
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1496年
蓮如が摂津大坂に石山御坊を築き転居(後の石山本願寺、顕如退去後の跡地に豊臣秀吉が大阪城を築く)、以後大坂は寺内町として発展
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1497年
周防の大内義興が宿敵少弐政資・高経父子を攻め滅ぼし九州北部は大内氏・大友氏の二強争覇に突入、次男の少弐資元は追手を逃れるが肥前の一勢力に没落
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1497年
関東管領上杉氏と敵対し30年に及ぶ享徳の乱を戦い抜いた古河公方足利成氏が鎌倉に戻れぬまま死去、嫡子足利政氏が2代古河公方を襲名
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1499年
家祖親鸞が起した浄土真宗を再興し平易な『御文』と辻説法で強大な一向教団を築いた蓮如が死去(享年85)、五男実如が承継した一向教団は孫の顕如の代に摂津・加賀を支配する「戦国大名」へ発展し各地に一向一揆を起して諸大名を苦しめるが織田信長に降伏して武力を放棄、子孫は今日まで東西本願寺の門首を世襲し皇族に準ずる権勢を保持する
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1499年
越前朝倉氏の参軍を得られぬまま足利義材(義稙)が挙兵上洛を強行、比叡山延暦寺・根来寺・高野山金剛峰寺と連携して近江へ進軍するが六角高頼に敗北、逃れた河内で管領細川政元に敗れ大内義興を頼り周防山口へ亡命、政元・将軍足利義澄は綸旨も得て西国28大名に義興討伐を号令し大友親治(宗麟の祖父)・大内高弘(義興の弟で大友氏に亡命中)・少弐資元らの反大内勢力が勢い付くが、義興は大友・少弐連合軍を撃退して筑前・豊前を防衛し毛利弘元(元就の父)ら安芸国人も掌握して勢力均衡を保つ
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1500年
追放された前出雲守護代尼子清定の嫡子尼子経久が山中勝重(鹿介の先祖)・鉢屋(賤視された遊芸民)を従え元旦の千秋万歳と偽り潜入する奇計を用いて月山冨田城を攻略、塩冶掃部介を討取って出雲守護代職を奪還し出雲国を制圧、石見・伯耆・安芸・備後へ侵出し西の大内義興・東の山名氏と対峙
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1504年
[立河原の戦い・長享の乱終結]関東管領山内上杉顕定が古河公方足利政氏(成氏の嫡子)を味方に付け扇谷上杉朝良(定正の後嗣)を圧迫、今川氏親・北条早雲と同盟した朝良は武蔵立河原(立川)の決戦で圧勝し顕定を北武蔵の鉢形城に追詰めるが、来援した越後守護代長尾能景(為景の父)が椚田城(八王子)・実田城(平塚)を攻落として扇谷上杉領と今川・北条領を遮断し河越城に孤立した朝良を降伏させて18年続いた長享の乱は山内方の勝利で終結、関東公方足利諸家に続いて疲弊した両上杉氏も没落し北条・今川・長尾・長野ら国人勢力に関東争覇の主導権が移る(西上野の領袖長野房兼は戦死するが後継の長野業尚・憲業・業正が台頭)
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1505年
実父の卜部覚賢・養父の塚原安幹から天真正伝香取神道流を学んだ16歳の塚原卜伝(高幹)が常陸から京都へ武者修行に出立、落合虎左衛門ら京八流の兵法者との立ち合いで名を挙げ11代将軍足利義澄に出仕、義澄の下で大内義興・細川高国、12代将軍足利義晴(義澄の嫡子)の下で細川晴元・三好元長と戦った卜伝は生涯37度の合戦・19度の真剣勝負で無敗を通し大将首12と端武者首16・合計212人の首級を挙げながら一度も刀傷を負わず
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1506年
北条早雲を総大将とする1万余の今川氏親軍が三河に侵攻、安祥城主松平長親(徳川家康の先祖)が500の寡兵で撃退
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1506年
[九頭竜川の戦い・般若野の戦い]室町幕府管領細川政元の要請を受けた本願寺実如(蓮如の後嗣)が加賀・越中一向一揆を圧迫する越前朝倉氏と越中・能登畠山氏の討伐を号令、越前では朝倉宗滴が圧倒的寡勢で九頭竜川の決戦に勝利し吉崎御坊を破却(1万対30万とも)、能登守護畠山慶致も防衛に成功すると一向一揆勢は内紛に揺れる越中に殺到、越中守護畠山尚順の要請に応じた越後の長尾能景が来援するが砺波郡般若野の合戦で神保慶宗の裏切に遭い罠に嵌って討死(越後守護上杉房能は傍観)、長尾勢は越後へ敗走し嫡子長尾為景は復讐を誓う
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1506年
中国作品の模写を脱して日本風水墨画を確立し『四季山水図』『秋冬山水図』『破墨山水図』『慧可断臂図』『天橋立図』など国宝6点と数多の重文作品を遺した雪舟が石見益田にて死去(享年86。雪舟が庇護者の益田兼堯を描いた『兼堯像』が現存)、雪舟は江戸時代に日本画壇を支配した狩野派に崇敬され芸術神となる
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1507年
[永正の錯乱~両細川の乱]室町幕府の実権を握る細川宗家(京兆家)で政元の養子3人(澄之・澄元・高国)の家督争奪戦が勃発、「半将軍」管領細川政元が重用する細川澄元が三好之長ら阿波勢を率いて入京し優位に立つと、細川澄之・香西元長が政元を暗殺して京兆家を簒奪(変人政元は愛宕の勝軍地蔵を信仰して飛行自在の妖術修行に凝り一切女色を断ったため子が無かった)、澄元・之長は近江へ逃れるが、高国・政賢ら細川一族と丹後守護一色義有が澄之・元長を征伐、帰京した澄元が京兆家当主に納まる
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1507年
越後守護上杉房能が権臣長尾為景(上杉謙信の父)誅殺を企てるが先手を打って襲撃され自害、為景は傀儡の越後守護に上杉定実を擁立
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1508年
周防・長門・石見・安芸・筑前・豊前を支配する大内義興の軍勢が京都を制圧、義興は将軍足利義澄を追放して足利義尹(義稙)を将軍に復位させ管領代・山城守護に就いて幕政を掌握、義興へ寝返った細川高国が細川宗家の家督を奪い細川澄元・三好之長は足利義澄を伴って近江へ逃亡するが京都奪還を窺い、義興不在に乗じた尼子経久が石見・伯耆・安芸・備後へ勢力を伸張
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1509年
[如意ヶ嶽の戦い・岡山城の戦い]近江甲賀で体制を立直した細川澄元・三好之長が京都奪還を目指して粟田口に侵入するが大内義興・細川高国の大軍に迎撃され本拠の阿波へ逃亡、義興・高国軍は近江岡山城に逃れた前将軍を追撃するが六角高頼に敗れ京都へ撤退
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1510年
[長森原の戦い]長尾為景に弟の上杉房能(越後守護)を殺された関東管領上杉顕定(房能の実兄)が大軍を率いて越後に来襲、為景は傀儡守護の上杉定実を伴い佐渡へ逃れるが佐渡国人や信濃の高梨政盛を加えて猛攻を掛け顕定を討取る快勝を収め定実に妹を娶わせ越後国人の反抗を抑圧、顕定に従った上野の高津長尾定明が戦死し嫡子の長尾顕景が家督相続
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1511年
[船岡山合戦]前将軍足利義澄を擁する細川澄元・政賢と三好之長ら阿波勢が京都を奪還するが、近江の六角高頼が寝返り義澄が病死、洛北船岡山に陣取って大内義興・細川高国に決戦を挑むが総大将政賢まで討取られ壊滅、澄元・之長は本拠地の阿波へ逃れ抵抗を続ける
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1512年
尼子経久が山名氏領に侵攻し備後を支配圏に収める
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1515年
尼子経久が大内氏領に侵攻し石見西半を支配権に収め安芸にも勢力拡大
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1516年
北条早雲が反旗を掲げた三浦義同征伐、扇谷上杉朝興の救援軍を撃退し、新井城の兵糧攻めで勝利、義同以下の相模三浦一族を滅ぼし相模全域を平定
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1516年
[西の桶狭間・有田中井手の戦い]安芸吉田の国人(小領主)で郡山城主の毛利興元が急死し幼少の幸松丸が家督相続、安芸守護の武田元繁が「室町将軍の上意」を口実に毛利氏・吉川氏の領地に侵攻、興元の弟毛利元就が寡兵で撃退し武田元繁は討死
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1516年
大内義興が室町幕府から日明貿易の恒久的管掌権限を獲得、横槍を入れた細川高国と不仲になり寧波の乱へ発展
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1518年
尼子経久に領国を荒らされた大内義興軍が10年に及んだ京都滞在を終えて山口へ帰国、後ろ楯を失った将軍足利義稙・細川高国の政権基盤が揺らぎ、阿波で抵抗を続ける細川澄元・三好之長の陣営が盛り返す
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1519年
戦国大名の先駆け北条早雲が嫡子北条氏綱に家督を譲り伊豆韮山城にて死去(享年88)、早雲の遺訓は『早雲寺殿廿一箇条』に受け継がれる
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1519年
美濃守護土岐政房の死に伴い家督争いが激化、嫡子土岐政頼を擁する越前守護朝倉孝景は弟の朝倉景高を総大将に軍勢を派遣、土岐頼芸(政頼の弟)・長井長弘の敵対勢力を掃討し政頼に家督を継がせる
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1520年
中央政局を掻き回した南近江守護の六角高頼が死去、次男定頼が家督相続
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1520年
播磨・備前・美作守護の赤松義村が実権を奪った守護代浦上村宗(宗景の父)の備前三石城を攻撃するが宇喜多能家(直家の祖父)らの奮戦で撃退、幽閉された義村は翌年暗殺され赤松氏は没落し(村宗と敵対する浦上村国が8歳の嫡子赤松晴政を赤松氏当主に擁立)浦上氏の勢威が高まる
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1520年
越後の長尾為景が越中へ攻入り父能景の仇と憎む神保慶宗を討滅、為景は一向衆禁止令を布告し越中征服に乗出すが一向一揆の蜂起に遭って越中を断念(2年後に管領細川高国の調停により和睦成立)以後は朝廷や室町幕府の権威を利用しつつ越後国内の反抗勢力討伐に専念
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1521年
[等持院の戦い]大内義興軍が去った京都を細川澄元・三好之長が奪回、細川高国は近江へ逃れるが六角定頼の加勢を得て反撃、追い詰められた之長は京都百万遍で自害し(嫡子元長が後継)、阿波へ敗走した澄元も病没(嫡子晴元が後継)、高国は寝返った将軍足利義稙を追放し前将軍義澄の子足利義晴を12代将軍に擁立
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1521年
尼子経久が浦上氏領に侵攻し備中と備前西半まで支配圏に収める
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1523年
毛利家当主幸松丸が急死(謀殺説あり)、叔父の毛利元就が尼子経久の介入を退け弟の就勝(元綱説あり)一派を殺害して毛利家の家督と吉田郡山城を承継、嫡子毛利隆元誕生
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1523年
[寧波の乱]明の貿易港寧波で細川高国と大内義興の使者が争う
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1523年
備前三石城の浦上村宗が播磨へ出兵し赤松晴政(村宗が暗殺した義村の遺児)を播磨・備前・美作守護に擁立した浦上村国・御着城主小寺則職を攻撃、浦上軍指揮官の宇喜多能家は次男四郎の戦死に逆上し敵陣に突撃奮戦して決定的勝利を挙げ、晴政を確保し播磨・備前・美作を掌握した浦上氏は戦国大名へ発展
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1524年
北条氏綱が扇谷上杉朝興軍を高輪原で破り江戸城を奪取、後北条氏が武蔵国に勢力を伸ばす
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1524年
[大永の五月崩れ]尼子経久が南条宗勝ら反抗勢力と守護山名澄之を追放し尼子晴久を守護に就けて伯耆を支配権に収める
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1525年
美濃内乱に介入した浅井亮政を牽制するため朝倉宗滴が近江小谷城に出征、金吾嶽を築いて在陣し六角定頼との関係修復に奔走、感謝した浅井氏は朝倉氏に忠誠を誓う、同時に朝倉景職軍を美濃稲葉山城へ派遣し土岐政頼を支援
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1525年
独立を期す毛利元就が束縛の強い尼子経久を離反して統制の緩い大内義興に鞍替え(正式な手切れ通告は1534年の安芸守護武田氏滅亡後)
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1526年
駿河・遠江を征し三河・甲斐へも勢力を伸ばした今川氏親が死去(享年53)、幼い嫡子今川氏輝のために分国法『今川仮名目録』を遺す
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1526年
薩摩・大隅守護の島津勝久が薩州家島津実久の専横に圧迫され伊作家島津忠良(日新斎)の嫡子島津貴久に15代当主を譲って救助を求めるが、実久の反抗と勝久の寝返り遭って貴久は鹿児島清水城と守護職を奪われ、13年に及ぶ長期内戦に発展、日新斎・貴久は長期戦の構えをとり自領の防備を固めて土豪勢力の取込みを進める
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1527年
[桂川原の戦い]管領細川高国に弟の香西元盛を殺された波多野稙通・柳本賢治兄弟が丹波で反旗を掲げ征伐軍を撃退して京都へ進軍、阿波の細川晴元・三好元長は三好勝長・政長軍を派遣し京都桂川原で両軍激突、波多野・三好連合軍が勝利し細川高国と将軍足利義晴は近江へ敗走
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1527年
将軍足利義晴・管領細川高国の要請により朝倉宗滴率いる越前軍が上洛将軍足利義晴・管領細川高国の要請により朝倉宗滴率いる越前軍が上洛し波多野・三好連合軍を掃討して京都を制圧するが、宗滴は高国との対立により翌年撤兵し細川晴元・三好元長が再び京都を奪回
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1527年
西村勘九郎(斎藤道三)が革手城を急襲、美濃守護土岐政頼を再び越前朝倉家に敗走させ弟の土岐頼芸を擁立、勘九郎は家老職と本巣郡祐向山城を与えられ美濃国の実力者となる
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1527年
[細沢山の戦い]大内と山名が反尼子で提携、尼子経久は備後に出陣するも陶興房(晴賢)率いる大内軍に敗北、国人衆は尼子から離脱し大内義興が安芸・備後を支配圏に収める
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1527年
山内上杉氏の領国上野で惣社長尾顕景・白井長尾景誠が越後の長尾為景に内通するが箕輪城主長野業正に攻められ降伏、西上野を掌握した業正は顕景を隠居させて嫡子景孝に惣社長尾氏を継がせ翌年景誠を暗殺し顕景次男の憲景を白井長尾氏当主に擁立
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1529年
日明・朝鮮貿易を牛耳り周防・長門・石見・安芸・筑前・豊前に君臨した大内氏絶頂期の当主大内義興が死去(享年52)、嫡子の大内義隆が家督を継ぐが京都を凌ぐ文化都市となった周防山口で遊芸に溺れ家運は傾く
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1529年
上野上泉城主上泉義綱が21歳の嫡子上泉信綱に家督を譲る(祖父時秀の伊勢守を襲名)
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1530年
傀儡守護の上杉定実を擁して越後を牛耳る守護代長尾為景の四男長尾虎千代(上杉謙信)が春日山城にて出生
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1530年
西村勘九郎(斎藤道三)が仕官の恩人長井長弘夫婦を謀殺、美濃稲葉山城と家名を押領し長井新九郎利政(後に秀竜)へ改名、近江守護佐々木義秀の後援も得て土岐頼芸を担いで美濃一国の実権を掌握
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1530年
関東管領山内上杉氏の家臣で長享の乱・永正の乱に乗じて台頭した長野憲業が戦死、嫡子長野業正が家督相続
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1530年
将軍足利義政により室町幕府御用絵師に抜擢され漢画の手法で慈照寺銀閣の障壁画や『周茂叔愛蓮図』『山水図』を描いた狩野正信が死去、幕府御用絵師を次いだ嫡子の狩野元信は職業画家集団「狩野派」を興し宮廷絵所預の大和絵土佐派(創始者の土佐光信は元信の舅とも)と日本画壇を二分する勢力へ躍進する
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1531年
[大物崩れ]将軍足利義晴・管領細川高国の挙兵要請に応じた播磨・備前・美作の領袖浦上村宗が京都を奪回、摂津尼崎大物で細川晴元・三好元長軍と対峙し優位に戦局を進めるが村宗を恨む赤松晴政勢の寝返り奇襲により壊滅し村宗は討取られ(嫡子政宗が家督を継ぐが浦上氏は播磨・備前・美作の支配力を失い尼子経久の侵攻で西播磨に追詰められる)高国は尼崎の路傍の民家で自害、永正の錯乱から24年続いた細川政元の養子3人(澄之・澄元・高国)による家督争奪戦が決着するが(晴元は事実上の管領となったが何故か正式襲名せず)、細川晴元と三好元長の権力争いへ移行
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1532年
町衆を中心とする日蓮宗門徒が京都の自治権を掌握し山科本願寺焼打ちなどで他宗派を排斥
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1532年
本願寺蓮如の子の勢力争いに起因して加賀一向一揆で内紛が発生(享禄の錯乱)、機に乗じた朝倉宗滴は能登畠山氏と提携して出征、手取川付近まで侵攻するが畠山勢壊滅により本願寺と停戦和睦
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1532年
[飯盛城の戦い~天文の錯乱・山科本願寺焼討]細川晴元の側近で播磨守護代の木沢長政が播磨守護畠山義堯に叛逆、三好元長・一秀が畠山に加勢し木沢を飯盛城に追い詰めるが、晴元の誘いに乗った山科本願寺証如・蓮淳が10万もの一向一揆勢を派遣、三好・畠山軍は撃滅され元長・一秀・義堯も討取られるが(切腹した元長は腸を天井に投げつけて壮絶死)、暴徒化した一向一揆勢は奈良を劫掠して京都へ侵入、本願寺と決別した晴元は近江守護六角定頼と法華一揆を動員して一向一揆を撃退、山科本願寺を焼かれた証如は摂津石山御坊(石山本願寺)へ逃避
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1533年
伊勢より上野上泉城へ来訪した愛洲移香斎久忠が城主の上泉伊勢守信綱に陰流の秘奥を伝授し2年の猛稽古の末に「見事、もはや教えることは何も無い」と告げ退去、信綱は兵法の合理的分析と系統立てを行い「陰流ありてその他は計るに勝へず」と惚れ込んだ妙技に真正伝香取神道流や塚原卜伝の新当流を加味して新陰流を創始
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1534年
尾張那古野城主の織田信秀の嫡子に織田信長が出生
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1536年
[花倉の乱]駿河・遠江守護今川氏輝(氏親嫡子)が後嗣無く死去、氏親次男彦五郎も同時に死亡し(謀殺説あり)、同母弟の今川義元が母寿桂尼と謀臣太原雪斎の後押しで家督相続、異母兄の玄広恵探を推す福島越前守ら国人衆が遠江各地で挙兵するが、北条氏綱の援軍で優勢となった義元方が花倉城を落とし恵探を自害させる
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1536年
[天文法華の乱]延暦寺の僧兵約6万人が京都に押し寄せ日蓮宗寺院二十一本山を焼払い門徒を虐殺
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1536年
[三分一原の戦い]傀儡守護の上杉定実を擁して越後支配を強める守護代長尾為景に対し上条定憲(定実の近親)と上田長尾房長(政景の父)ら揚北衆が反乱挙兵、柿崎景家の寝返りを誘った為景が撃退するが決定的勝利を収められず、為景は嫡子晴景に家督を譲り隠居・弟の虎千代(上杉謙信)は林泉寺に預けられるが僧侶を嫌って家に戻る
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1537年
[甲駿同盟・駿相同盟破綻)駿河・遠江守護今川義元が抗争状態にあった甲斐守護武田信虎の娘定恵院を正室に迎え甲駿同盟成立、怒った北条氏綱は今川氏親・北条早雲以来の駿相同盟を解消して東駿河に攻め込み河東地域を奪取
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1537年
豊臣秀吉が尾張国中村の下層民(焙烙売り・賤民とも)の家に出生(父は織田家の足軽から帰農した木下弥右衛門とも伝わるが不詳、母なかは徳川家康の人質に出した大政所、弟秀長は優秀な副将、姉日秀の子は豊臣秀次、妹あさひは徳川家康に入輿)、20歳前後で織田信長に仕えるまでの事跡は不明(家出して悲惨な放浪生活を送り、武家奉公の最初は今川家臣松下之綱だったとされる)
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1538年
[第一次国府台合戦]鎌倉から武蔵江戸城まで制圧した北条氏綱に対し、小弓公方足利義明が里見義堯・真里谷信応を誘って下総国府台城で挙兵、家柄と武勇を過信し江戸川渡河中の攻撃策を捨てた義明が嫡子義純・弟基頼もろとも討死、戦線離脱し兵力を温存した安房里見氏が漁夫の利を得て久留里城・大多喜城を落とし房総半島の大半を掌握
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1541年
武田晴信(信玄)が重臣の板垣信方・甘利虎泰・飯富虎昌及び姉婿今川義元と共謀して父武田信虎を駿河へ追放し家督と甲斐守護職を承継、領民は暴虐な信虎の追放を歓迎
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1541年
美濃国を専断する斎藤秀竜(斎藤道三)に対し土岐頼満(頼芸の弟)・頼次(頼芸の嫡子)らが挙兵、秀竜支持の土岐頼芸は尾張の織田信秀・近江の六角定頼・越前の朝倉孝景に仲裁を依頼し内乱収束、秀竜は引責剃髪し斎藤道三と号す
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1541年
父北条早雲が征した伊豆・相模を固め武蔵・駿河に勢力を伸ばした北条氏綱が死去、嫡子北条氏康が打倒上杉氏・関東制覇の遺志を継ぐ
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1541年
流浪の身から最盛期には山陰・山陽11ヶ国に君臨した尼子経久が月山富田城にて病没(享年82)
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1542年
斎藤道三が反抗勢力の首領土岐頼満(頼芸の弟)を毒殺、これにより対立した傀儡の美濃守護土岐頼芸の大桑城を急襲、土岐頼芸・頼次父子は織田信秀を頼って尾張に亡命し斎藤道三が名実ともに美濃一国を平定、土岐頼芸の落胤と考えられていた嫡子斎藤義龍を後継指名して反抗を鎮める
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1542年
武田信虎の諏訪氏懐柔路線を放棄した武田晴信(信玄)が諏訪氏の家督を狙う高遠頼継と提携し妹婿の諏訪頼重を討滅、領土分割案に不満で反旗を挙げた高遠頼継も一蹴、頼重の嫡子寅王丸を擁して諏訪領を掌握したうえ頼重の娘「かくれなき美人」諏訪御料人(武田勝頼生母)を側室とする
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1542年
徳川家康(竹千代)が西三河の土豪松平広忠の嫡子として出生(家祖の松平親氏は三河松平郷の庄屋家に婿入りした遊芸僧の徳阿弥、家康の祖父松平清康の代に西三河を制圧したが、清康急死で零落し織田信秀に圧迫された広忠は今川義元に臣従)
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1543年
越後守護上杉房能・関東管領上杉顕定(房能の実兄)の二君を討ち越後を掌握した長尾為景が死去(享年54)、嫡子の長尾晴景が越後守護代を継ぐが弱腰を侮られ国人衆が傀儡守護上杉定実を担いで蜂起、13歳で元服した為景四男の長尾景虎(上杉謙信)は栃尾城の戦いで初陣を飾り連戦連勝で反乱軍を撃破
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1543年
[鉄砲伝来]倭寇の頭目王直(五峯)の明船がポルトガル人を乗せて種子島に来航、領主の種子島恵時・時尭父子は火縄銃2挺を購入し刀鍛冶の八板金兵衛に命じて複製に成功、貿易商人を通じて忽ち畿内へ伝播し早くも同年中に和泉堺・紀州根来寺・近江国友などで鉄砲製造がスタート、鉄砲と硝石の調達・鉄砲鍛冶の獲得・鉄砲隊の調練は戦国大名の軍事戦略の要諦となる
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1545年
武田晴信(信玄)が信濃伊奈に侵攻、弟武田信繁が高遠城を攻略し高遠頼継を滅ぼす
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1545年
[黒滝城の戦い]守護派の老臣黒田秀忠が長尾晴景の春日山城を攻め長尾景康(謙信の兄)らを殺害し黒滝城に籠城、長尾景虎(上杉謙信)は猛攻で黒田氏を討滅、長尾家臣・越後国人衆の間に景虎を当主に推す動きが興る
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1545年
[河東一乱]駿河・遠江守護今川義元が関東管領山内上杉憲政や扇谷上杉朝定(朝興後嗣)と連携し富士川を越えて東駿河へ侵攻、北条綱成の武蔵河越城も攻囲され北条氏康は挟撃の危地に陥るが、武田晴信(信玄)の斡旋で河東地域割譲を条件に今川と和睦し河越城救援に向かう
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1546年
[河越夜戦(日本三大奇襲)]北条氏康と関東管領上杉憲政・上杉朝定・古河公方足利晴氏(氏康の妹婿)の連合軍が武蔵河越で決戦、圧倒的寡勢の北条軍は「地黄八幡」北条綱成の奇襲で完勝し、朝定敗死で扇谷上杉氏は滅亡・上野平井城に落延びた憲政の山内上杉家も没落・晴氏は幽閉され氏康が立てた傀儡の次男義氏(氏康娘婿)に古河公方職を奪われ、祖父早雲以来の悲願である打倒上杉氏を果した北条氏康は関東制覇を睨み越後長尾(上杉謙信)・常陸佐竹・安房里見と対峙
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1546年
河越夜戦で関東管領山内上杉憲政に従った上野箕輪城主長野業正が北条氏康に敗れ嫡子吉業を喪うが「箕輪衆」を結束させ西上野の支配圏を堅持(上杉家臣の大胡氏・上泉伊勢守信綱らも長野氏に臣従)、業正は憲政を保護した越後の長尾景虎(上杉謙信)に臣従し北条氏康・武田晴信(信玄)と対峙
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1546年
[舎利寺の戦い]細川晴元に反逆した将軍足利義晴・細川氏綱・細川政国・遊佐長教の反乱を三好長慶の阿波勢と六角定頼の近江勢が制圧、義晴は逃亡先の近江坂本で隠居し10歳の嫡子足利義輝に13代室町将軍を継がせる(2年後に義晴は晴元と和解して京都に戻り晴元は義輝の将軍就任を承諾する)
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1546年
武田晴信(信玄)の側室諏訪御料人が武田勝頼を出産、信玄が滅ぼした諏訪氏の世継ぎとして高遠城で養育される
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1547年
武田晴信(信玄)が信濃佐久の村上義清領に侵攻、志賀城を落とし北進して村上勢を圧迫
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1547年
三河岡崎城主松平広忠が6歳の嫡子竹千代(徳川家康)を今川義元へ人質に送るが、駿府へ護送中に家臣戸田康光が裏切り織田信秀に売却、信秀は臣従を強要するが広忠は拒絶、竹千代は危うくも生かされ2年間を尾張で過ごす(織田信長と会った可能性が高い)
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1547年
[加納口の戦い]斎藤道三が尾張織田信秀の侵攻軍を撃破し美濃一国を完全平定、土岐政頼自害・土岐頼芸の越前朝倉家亡命で美濃守護土岐氏は滅亡
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1548年
[上田原の戦い・塩尻峠の戦い]信濃の覇権を賭けて武田晴信(信玄)が葛尾城の村上義清に決戦を挑むが宿老板垣信方・甘利虎泰の戦死を含む大損害を出し侵攻停止、村上義清に呼応した小笠原長時が諏訪に攻め寄せるが再起不能の大敗を喫し深志(松本)林城に逃げ戻る
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1548年
連戦連勝の長尾景虎(上杉謙信・長尾為景の子)が家臣・国人衆に推戴され家督と越後守護代を承継(兄長尾晴景は隠居)、2年後に傀儡守護の上杉定実が後嗣無く死去し室町将軍足利義輝から越後国主の承認を受け、翌年坂戸城の戦いで上田長尾政景を降して22歳で越後国統一を達成
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1548年
[第2次小豆坂の戦い]駿遠の今川義元と尾張の織田信秀が三河を巡り決戦、太原雪斎の軍略により勝利した今川氏が三河を支配圏に治め駿河・遠江・三河の太守となる
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1548年
[天文の乱]奥州探題大崎義直・羽州探題最上義守をはじめ葛西・相馬・蘆名ら南奥羽諸豪を従属させた陸奥守護伊達稙宗(政宗の曽祖父)が娘婿相馬顕胤への領地割譲・三男伊達実元の越後守護上杉定実への入嗣を画策、猛反発した嫡子伊達晴宗が稙宗を幽閉するが脱出し諸豪を巻込んで6年に及ぶ大乱に発展、室町将軍足利義輝の仲裁により稙宗隠居・晴宗への家督禅譲で決着するが伊達氏は求心力を喪失、稙宗を寝返り晴宗勝利に導いた蘆名盛氏は伊達氏と肩を並べるまでに成長し伊達家中では中野宗時が台頭
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1549年
斎藤道三が織田信秀と和睦し娘の帰蝶を嫡子織田信長に嫁がせる
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1549年
[キリスト教伝来]イエズス会のフランシスコ=ザビエルが鹿児島に上陸、薩摩国主島津貴久は布教を許すが仏教界の反対に遭って獲得信者は150人のみ、期待した南蛮船も入航せず貴久は布教を禁止、ザビエル一行は全国布教許可を得るため上洛するが京都の荒廃と足利将軍の権威失墜に失望して在京15日で退去し再び西下、仰々しい装いに改めた効果で肥前平戸の松浦隆信・周防山口の大内義隆・豊後府内の大友義鎮(宗麟)から歓待され、各領内に布教体制を築いてインドへ去る(日本滞在は2年余)
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1549年
今川義元と織田信秀の合戦で松平家・岡崎衆は今川方先鋒として三河安祥城を攻略し城主の織田信広(信長の庶兄)を確保(本多忠勝の父本多忠高が戦死)、太原雪斎の献策により竹千代(徳川家康)と織田信広の人質交換が成立・竹千代は駿府に移され当主を人質にとられた松平家は今川の属国となり家臣は虐待され合戦ごとに最前線の危地に送られる
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1549年
[江口の戦い~細川政権崩壊と三好政権発足]三好長慶が細川氏綱・遊佐長教と提携し一門のライバルで細川晴元側近の三好政長を襲撃し政長以下800人を討取る大勝、晴元と将軍足利義輝は六角定頼を頼って近江坂本へ逃亡、三好長慶は細川氏綱を管領に擁立して室町幕府の実権を掌握するが、以後9年も晴元・義輝との抗争は継続、三好家家宰の松永久秀は京都所司代の重職を与えられ40歳で歴史舞台に登場(摂津滝山城主・堺代官も兼務して富を築き三好家中第一の勢力家へ台頭)
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1550年
[二階崩れの変]豊後・肥後・筑後守護の大友義鑑が長子義鎮の廃嫡を企て反対派の重臣を誅殺するが反撃に遭って擁立を企てた三男到明と共に討取られ(義鎮の陰謀疑惑が濃厚)、大友義鎮(宗麟)が戸次鑑連(立花道雪)の後見を得て家督相続、義鑑に加担した入田親誠は岳父の阿蘇惟豊を頼って肥後に逃れるが鑑連に攻められて自害に追込まれる
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1550年
武田晴信(信玄)の反攻を受けた小笠原長時が深志(松本)林城を捨て村上義清方に逃亡
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1550年
越後守護の上杉定実が後嗣無く死去、長尾景虎(上杉謙信)は室町将軍足利義輝より越後国主の地位を承認される
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1550年
ポルトガル商船が肥前平戸へ来航し南蛮貿易がスタート、平戸領主松浦隆信と肥前の領袖有馬晴純(大村純忠の実父で有馬晴信の祖父)は貿易の利で勢力を伸ばすがキリスト教は禁断
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1550年
毛利元就が大内義隆の協力を得て盲人の小早川又鶴丸(戦死した正平の嫡子)を出家に追込み田坂全慶ら反対派を大粛清して婿養子の三男小早川隆景が家督を承継(高山城主に納まった隆景は沼田川対岸に新高山城を築き転居)、竹原・沼田の両小早川家を乗取り安芸・備後沿岸部の支配を確立した元就は大内家からの独立を果たす
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1550年
筒井順昭(興福寺衆徒の領袖)が太平寺の戦いで三好長慶に討たれた木沢長政の残党を次々攻略し柳生家厳・宗厳父子ら国侍衆を降して大和を平定するが病を苦に比叡山へ出奔し死去、2歳の嫡子筒井順慶が後を継ぐが大和は再び国侍衆が割拠する情勢となり三好政権・松永久秀に支配圏を脅かされる(「元の木阿弥」の故事成句あり)
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1551年
一代で尾張国の旗頭に成り上がった織田信秀が死去、うつけの悪評が高い嫡子織田信長が家督相続、主筋の清洲城主織田信友が反逆し柴田勝家・林秀貞ら宿老も織田信行(信長の同母弟)擁立を企て尾張は内戦状態となる
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1551年
信濃中部まで制圧した武田晴信(信玄)が北信濃に再侵攻、大苦戦に陥るも真田幸隆が謀略で戸石城を攻略、村上義清は葛尾城を放棄して越後の長尾景虎(上杉謙信)に亡命、武田氏は甲斐・信濃二国を制圧
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1551年
[坂戸城の戦い]22歳の長尾景虎(上杉謙信)が反逆した長尾政景(景虎の姉婿)を降しで越後統一を達成、政景は赦され景虎の重臣となるが長尾三家(三条=景虎・上田=政景・古志)対立の禍根は残り御館の乱へ続く(謙信の後を継ぐ上杉景勝は政景の嫡子で生母は謙信の姉)
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1551年
[大寧寺の変]周防・長門・石見・安芸・豊前・筑前守護の大内義隆が権臣(元寵童)陶隆房(晴賢)の謀反により自害(嫡子義尊も討たれ戦国大名大内氏は事実上滅亡)、陶は大友義長(宗麟の弟で大内義隆の甥)を義隆の養子に迎えて名目上の当主に担ぎ大内家を簒奪、毛利元就は陶に属して安芸・備後を転戦、陶と同盟した大友義鎮(宗麟)は貿易都市博多を確保し戸次鑑連(立花道雪)が土豪を切従えて大内領の筑前・豊前の実権を掌握し龍造寺隆信ら肥前の大内勢力も一掃
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1551年
大友義鎮(宗麟)がフランシスコ=ザビエルを豊後府内に招聘、ザビエルは数千の信者を獲得し2か月滞在後にインドへ去るが(義鎮自身のキリスト教入信は30年後)、キリスト教は大友領内で繁栄し南蛮船・中国船の来航が数倍となって府内は殷賑を極め大友氏は貿易の利を占める
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1552年
南近江守護六角定頼が死去(子の義賢が後継)し庇護者を失った細川晴元派は弱体化、近江朽木に籠る将軍足利義輝は三好長慶に帰順し京都へ帰還するが翌年晴元と共に反乱を起し再び近江朽木へ逃亡
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1552年
北条氏康に追い詰められた関東管領上杉憲政が上野平井城を棄て長尾景虎(上杉謙信)を頼り越後に亡命、箕輪城主長野業正は「箕輪衆」を率いて北条軍の西上野侵攻を食止め、業正の援軍要請に応じた景虎は関東に派兵して平井城を奪還するが北条氏を敵に回したうえ北信濃・上野の両戦線で武田晴信(信玄)と対峙する苦境に陥る
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1553年
[第1次川中島の戦い]長尾景虎(上杉謙信)が村上義清・小笠原長時・高梨政頼らの領地返還を求め北信濃に進軍、武田晴信(信玄)軍と対峙し戦闘5回・11年に渡る川中島の戦いが勃発
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1554年
[甲相駿三国同盟(善徳寺の会盟)]武田晴信(信玄)・北条氏康・今川義元が相互に婚姻を結び同盟、三強連携体制で武田は信濃・北条は関東・今川は尾張の攻略に専念
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1555年
織田信長に内通した尾張守護斯波義統を清洲城主織田信友が殺害、嫡子斯波義銀を保護した信長は叔父の守山城主織田信光と協力して主筋の信友を討ち(織田大和守家滅亡)清洲城と守護所を奪取
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1555年
第2次川中島の戦い(上杉謙信vs.武田信玄)
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1555年
朝倉宗滴が越後の長尾景虎(上杉謙信)に呼応して加賀一向一揆討伐に出陣、1日で南郷・津葉・千足の3城を落とし大聖寺を攻囲するが、陣中で病に倒れ一乗谷で死去(享年79)、柱石を喪った朝倉氏は凡庸な義景の下で一族や家臣の内紛が頻発し弱体化、一向一揆の反攻に晒され、18年後宗滴が大器を見抜いた織田信長に滅ぼされる
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1555年
[北条城の戦い]長尾景虎(上杉謙信)が武田晴信(信玄)に通じて謀反した家臣の北条高広を鎮圧、高広は赦され帰参
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1555年
[厳島の戦い(日本三大奇襲)]乾坤一擲の劣勢挽回を図る毛利元就が反間の計で大内軍を狭い厳島に誘い込み、小早川隆景の調略で村上武吉・村上通康の村上水軍を味方に付け海上封鎖したうえで闇夜に渡海上陸し山上から急襲、大内軍潰走のなか逃げ遅れた陶晴賢は厳島青海苔浦で自害、一気に視界が開けた元就は直ちに大内家乗取りに奔走
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1555年
能島村上水軍の村上武吉・来島村上水軍の村上通康が小早川隆景からの「1日だけの味方」要請に勝利を予見し毛利元就の厳島合戦に参戦、村上水軍の手引きで闇夜に紛れて厳島へ渡り退路を封じた毛利軍は陶晴賢の大軍を奇襲で殲滅、村上水軍は毛利による大内家乗取り(防長経略)に協力して勢力を伸ばし塩飽諸島や備後小早川氏の水軍衆と提携して瀬戸内海を掌握
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1555年
天文の乱を制し家督を継いだ伊達晴宗(政宗の祖父)が弟の大崎義宣・葛西晴清を含む稙宗派を粛清し男児を岩城・留守・石川・国分・杉目氏の養子に女児を二階堂・小梁川・蘆名氏・佐竹義重に縁付けて勢力回復に努め、後援する将軍足利義輝をしてより奥州探題に補される
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1555年
北条氏康が上野大胡城を攻略するが箕輪城主長野業正が奪回、主君の大胡氏と共に長野家臣団に編入された上泉伊勢守信綱(上泉城主)は武田信玄・北条氏康の大軍を相手に奮戦して武名を轟かせ同時に新陰流兵法も発展を遂げる
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1556年
[長良川の戦い]廃嫡の陰謀に気付いた斎藤義龍(実は土岐頼芸の落胤とされる)が弟の竜重・竜定を斬殺したうえ父斎藤道三を討って(享年63)美濃国主を承継(道三方の明智城主明智光安・光久兄弟は討死し逃亡した甥の明智光秀は諸国流浪の末に越前朝倉義景に仕官)、道三から美濃の国譲り状を得た娘婿織田信長は救援軍を出すが間に合わず
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1556年
[出家騒動~駒帰の戦い]家臣の不服従を嫌気した長尾景虎(上杉謙信)が出家隠居を宣言し高野山へ向かうが、武田晴信(信玄)に通じた大熊朝秀の謀反が起り家臣団は起請文を差出して忠誠を誓い復帰した景虎は忽ち反乱を鎮圧
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1556年
67歳の塚原卜伝が養子の幹重に家督を譲って剃髪出家し13代将軍足利義輝を援けるため三たび上洛、近江で亡命生活を送る義輝に小太刀を指南し2年後の京都帰還に際して新当流の印可と秘剣「一つの太刀」を授与、卜伝は退いて大徳寺に参禅したあと京都を去って諸国を旅し伊勢国司北畠具教に「一つの太刀」を授け甲斐の山本勘助や近江の蒲生定秀を歴訪、義輝が三好三人衆に襲われ斬死すると京都相国寺の牌所を詣で10年の旅を終えて常陸鹿島へ帰国
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1557年
[防長経略]毛利元就が陶晴賢の勢力を駆逐して大内家を乗取り周防・長州を奪取、陶の傀儡大内義長(義隆の甥)は実兄の大友義鎮(宗麟)に見捨てられ自害(毛利氏は義長の助命を申送ったが身内への猜疑心が強い義鎮はむしろ処刑を要求したとも)、元就は北九州へ食指を伸ばすが義鎮は筑前古処山城主の秋月文種を自害させるなど毛利方勢力を掃討して豊前・筑前を制圧(実行役は立花道雪)
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1557年
第3次川中島の戦い(上杉謙信vs.武田信玄)
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1557年
織田信長に帰順した柴田勝家が織田信行の再謀反を密告、信長は病と称して弟の信行を清洲城に誘い込み殺害、信行の遺児(津田信澄)は助命され勝家に託される
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1557年
武田晴信(信玄)が川中島の戦いで対峙する長尾景虎(上杉謙信)の後方撹乱を図り西上野侵攻を開始、長野業正は配下の「箕輪衆」と上野国人を糾合し抗戦・上野勢は足並みの乱れで緒戦を落とすが殿軍の業正は鮮やかな退却戦を演じて箕輪城に籠城し夜討ち朝駆けの奇襲戦法で武田軍を痛撃し景虎の来援を得て防衛に成功、信玄は「業正ひとりが上野にいる限り、上野を攻め取ることはできぬ」と嘆く
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1558年
[北白川の戦い]将軍足利義輝・細川晴元が挙兵し京都奪回を図るが、三好康長・三好実休・安宅冬康・十河一存ら阿波勢の来援を得た三好長慶が勝利、晴元派の庇護者六角義賢も和睦に動き義輝・晴元は降伏し5年ぶりに京都へ帰還、室町幕府を牛耳った三好政権は摂津・阿波の両拠点を軸に山城・丹波・和泉・播磨・讃岐・淡路を掌握し最後は河内・大和まで10カ国を勢力圏に収めて全盛期を迎える
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1559年
[浮野の戦い]織田信長が犬山城主織田信清と同盟し織田一門の宗家で岩倉城主の織田信賢を撃破、守護斯波義銀も追放し尾張一国を平定~武功を挙げた前田利家は「槍の又左」(利家の字は又左衞門)の異名をとり母衣衆(信長親衛隊)に抜擢されて妻まつ(芳春院)を迎えるが、笄を盗んだ同朋衆(給仕役)拾阿弥(信長の異母弟説あり)を斬殺し信長の勘気を蒙って織田家を追放される
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1559年
三好長慶・松永久秀の傀儡将軍からの脱却を期す足利義輝が抗争仲裁や偏諱・官位授与を通じて六角義賢・朝倉義景・伊達晴宗・織田信長・斉藤義龍・武田晴信(信玄)・長尾景虎(上杉謙信)・北条氏政・最上義光・毛利元就・尼子晴久・大友義鎮(宗麟)・島津貴久らと誼を通じ三好政権打倒を画策、信長と景虎は上洛して義輝に拝謁し義鎮は鉄砲を献上
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1559年
北条氏康が永禄飢饉救済のため徳政令を施行、領主層を納得させるため建前上引責隠居し次男北条氏政(長男は夭逝)に家督を譲る
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1560年
椎名慶胤の救援要請を受けた長尾景虎(上杉謙信)が越中に出征、富山城・増山城を攻め落とし神保長職を逃亡させる
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1559年
和漢融合様式を確立して職業画家集団「狩野派」を興し分業制作体制により大徳寺大仙院方丈・妙心寺霊雲院・石山本願寺など多くの障壁画を描いた狩野元信が死去、孫の狩野永徳(三男松栄の嫡子)が武家好みの豪快な画風で織田信長・豊臣秀吉に寵遇され狩野派400年の繁栄をもたらす
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1560年
[桶狭間の戦い(日本三大奇襲)]松平元康(徳川家康)の三河を属国とし武田・今川との同盟で背後を固めた駿河・遠江守護今川義元(足利将軍の一族で百万石の太守)が4万の軍勢で尾張に侵攻、20万石・兵力3千人の織田信長は籠城策を捨てて奇襲を敢行し田楽狭間で休息中の今川義元を殺害(享年42)、織田信長は天下に志を抱き、無能な嫡子今川氏真が承継した駿河国は武田・徳川・北条の好餌となる
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1560年
桶狭間敗戦を受け松平元康(徳川家康)が尾張の前線から岡崎に帰還、岡崎城と三河領を常駐管理していた今川家臣が逃げ帰り祖父松平清康以来悲願の完全独立を達成、織田方諸城を攻め潰して三河国を制圧し尾張へ侵攻、今川家に打倒織田信長を促すも煮え切らない新当主今川氏真(義元の嫡子)に愛想を尽かし、義元の元を捨てて家康に改名
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1560年
[野良田の戦い]六角義賢に従属した弱腰の浅井久政に対し嫡子浅井長政と家臣団がクーデター、久政から家督を奪った長政(このとき賢政から改名)は六角氏と手切れして諸豪を調略、愛知郡肥田城主高野備前守の寝返りに激怒し攻め寄せた六角義賢軍を撃退し浅井氏は北近江の支配権を確立、敗れた六角氏は南近江支配も脅かされ衰亡へ向かう
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1560年
眼病で視力が低下し隠居した富田勢源(中条流当主は弟の富田景政・越前朝倉氏家臣)が神道流兵法者(梅津某)の挑戦を断り切れず斎藤義龍の招きに応じて美濃稲葉山城下で立合い、勢源は小太刀の名手だが40cm足らずの薪を手に「眠り猫」の態で対すると瞬時に相手の二の腕と頭を叩き割る神業で圧勝、「無刀」を追求する勢源は佐々木小次郎少年に長大剣を持たせ更に研鑽を積む
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1561年
[小田原城の戦い]今川義元討死で甲相駿三国同盟が弱った隙を衝き長尾政虎(上杉謙信)が北条氏康討伐を号令、関東の諸城を攻め潰し10万の大軍で小田原城を攻囲するが固い籠城と武田晴信(信玄)の後方撹乱により上野国に守将を残して撤退、鎌倉鶴岡八幡宮にて上杉憲政から山内上杉家の家督と関東管領職を継ぎ上杉政虎を名乗る
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1561年
斎藤道三を殺害して美濃国を奪った斎藤義龍が病死(ハンセン病ともいわれる)、嫡子斎藤龍興が家督相続
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1561年
[第4次川中島の戦い]啄木鳥戦法を見破った上杉謙信が敵本陣に斬り込み武田信玄に一太刀浴びせるが武田軍が防戦に成功、武田軍の被害も甚大で信玄の弟武田信繁や軍師山本勘助も戦死
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1561年
武田信玄・北条氏康の猛攻を凌ぎ上杉輝虎(謙信)の関東計略を支えた上野箕輪城主長野業正が死去(享年70)し嫡子長野業盛が家督相続、武田信玄・北条氏康の猛攻を凌ぎ上杉輝虎(謙信)の関東計略を支えた上野箕輪城主長野業正が死去(享年70)し嫡子長野業盛が家督相続、「これで上野を手に入れたも同然」と勇んだ信玄は直ちに2万の大軍を率いて上野を攻めるが輝虎の来援で撤退、輝虎は佐野昌綱・成田長泰・結城晴朝らを攻め破り武蔵・下総・常陸・下野を席巻するが輝虎が帰国する度に反抗勢力が盛り返す堂々巡りに陥る、輝虎は佐野昌綱・成田長泰・結城晴朝らを攻め破り武蔵・下総・常陸・下野を席巻するが輝虎が帰国する度に反抗勢力が盛り返す堂々巡りに陥る
年
長野業正と同じ時代の人物
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戦国
織田 信長
1534年 〜 1582年
140点※
中世的慣習を徹底破壊して合理化革命を起し新兵器鉄砲を駆使して並居る強豪を打倒した戦国争覇の主人公ながら、天下統一を目前に明智光秀謀反で落命し家臣の豊臣秀吉・徳川家康に手柄を奪われた悲劇の英雄
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照 -
戦国
毛利 元就
1497年 〜 1571年
100点※
安芸の小領主の次男坊から権謀術数で勢力を拡大、息子の吉川元春・小早川隆景を両翼と頼み、厳島の戦いで陶晴賢を討って大内家の身代を奪取、月山富田城の尼子氏も下して安芸・備後・周防・長門・石見・出雲・隠岐・伯耆・因幡・備中を制覇した戦国随一の智将
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照 -
戦国
徳川 家康
1542年 〜 1616年
100点※
旧主今川義元を討った織田信長と同盟して覇業の一翼を担い、豊臣秀吉没後秀頼を滅ぼして天下を奪取、信長の実力主義・中央独裁を捨て世襲身分制で群雄割拠を凍結し265年も時間を止めた徳川幕府の創設者
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照