紀州藩重臣の子ながら坂本龍馬に随従、薩長藩閥政府に反抗し「立志社の獄」で投獄されるが、伊藤博文の引きで復活し第二次伊藤内閣の外相として不平等条約改正と日清戦争を牽引した波乱万丈の風雲児
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照陸奥 宗光
1844年 〜 1897年
100点※
陸奥宗光の寸評
陸奥宗光の史実
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1844年
紀州藩重臣伊達宗広の六男陸奥宗光が和歌山城下にて出生
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1852年
舜恭公の死去に伴い伊達宗広が家禄没収のうえ流罪、残された陸奥宗光一家は流浪生活に陥る
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1853年
ペリー来航
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1858年
14歳の陸奥宗光が儒学者を志し上京、諸藩の志士と交流し尊攘運動に身を投じる
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1861年
伊達宗広が赦免され紀州藩に再出仕するが、脱藩上洛し尊攘運動に身を投じる
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1862年
勝海舟が軍艦奉行並に任じられる(1000石)
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1862年
平野国臣の扇動により土佐藩の吉村寅太郎・坂本龍馬らが脱藩
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1862年
坂本龍馬が松平春嶽の紹介で勝海舟に面会を許され門人となる
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1863年
坂本龍馬が勝海舟の根回しで土佐藩より脱藩罪を赦され神戸海軍操練所の設立準備に奔走
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1863年
幕府が神戸海軍操練所の設立を許可、勝海舟は土佐浪士の受皿として坂本龍馬を塾頭に神戸海軍塾を設立、紀州浪士の陸奥宗光も加わる
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1863年
八月十八日の政変~薩摩藩・会津藩が長州藩を追放し久坂玄瑞・木戸孝允・武市半平太らの破約攘夷運動が瓦解
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1864年
幕府が神戸海軍操練所を開設し勝海舟は軍艦奉行・2千石に昇進
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1864年
池田屋事件
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1864年
禁門の変
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1864年
徳川慶喜が長州追討の勅命を得て第一次長州征討を決行
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1864年
西郷隆盛が勝海舟に会い長州藩への融和路線に転換
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1864年
神戸海軍塾生の不祥事により勝海舟が江戸に召還され軍艦奉行罷免、坂本龍馬ら神戸海軍塾生を薩摩藩の小松帯刀・西郷隆盛に託す
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1865年
幕府が神戸海軍操練所を廃止
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1865年
徳川慶喜の策動により将軍徳川家茂が上洛し第二次長州征討を号令
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1865年
西郷隆盛が鹿児島へ戻り藩主父子に情勢を報告、同伴した坂本龍馬に薩長同盟の密計を託し小松帯刀主導で亀山社中を設立、陸奥宗光も参加
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1865年
長州系土佐浪士の中岡慎太郎・土方久元が上京して薩摩屋敷に滞在し薩長和解工作
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1865年
薩摩系土佐浪士の坂本龍馬が長州藩で薩長和解工作
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1865年
山内容堂が不敬罪で武市半平太を切腹させ(享年37)土佐勤皇党が壊滅
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1865年
西郷隆盛が下関での木戸孝允との会談をドタキャン、薩長和解工作のため黒田清隆を長州へ派遣
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1865年
長州藩が亀山社中を介して大量の洋式兵器とユニオン号を購入
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1866年
勝海舟が軍艦奉行に復職(5千石)
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1866年
ユニオン号購入で活躍した亀山社中の近藤長次郎が自決
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1866年
薩長同盟
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1866年
坂本龍馬が伏見寺田屋で幕吏に襲われ負傷、鹿児島へ逃れる
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1866年
亀山社中のワイル・ウエフ号が遭難沈没
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1866年
徳川慶喜の策動により将軍徳川家茂が上洛し兵6万を率いて第二次長州征討開始(四境戦争)、薩摩藩は公式に出兵を拒絶
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1866年
坂本龍馬がユニオン号に乗り長州藩の小倉渡海作戦に参加
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1866年
高杉晋作の活躍で老中小笠原長行が守る小倉城が陥落し長州藩の勝利が決定的となる(高杉は肺結核が悪化し翌年病没)
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1866年
徳川慶喜が朝廷から征長停止の勅令を獲得し幕府敗北・長州藩勝利で四境戦争終結、勝海舟が安芸厳島に乗込み停戦交渉
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1867年
坂本龍馬が長崎で後藤象二郎と会談、後藤は上海へ視察旅行
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1867年
坂本龍馬の亀山社中が薩摩藩から土佐藩へ転籍し土佐海援隊に改編、陸奥宗光も参加
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1867年
土佐海援隊の「いろは丸」が紀州藩軍艦と衝突し沈没
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1867年
将軍徳川慶喜と四候の二条城会談が決裂、薩摩藩が武力討幕の方針を固める
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1867年
坂本龍馬が後藤象二郎に「夕顔丸」船上で船中八策を提案
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1867年
薩土密約
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1867年
薩土同盟
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1867年
イカロス号事件、坂本龍馬の土佐海援隊が疑われる
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1867年
中岡慎太郎が京都の土佐藩邸に浪士を集め陸援隊を結成
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1867年
坂本龍馬が土佐に小銃1000挺を運び、上京
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1867年
土佐藩の後藤象二郎と福岡孝悌が老中板倉勝静に大政奉還の建白書を提出
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1867年
徳川慶喜が二条城で大政奉還を発表
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1867年
大久保利通・西郷隆盛・岩倉具視の謀略により朝廷が薩長などに討幕の密勅を下す
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1867年
朝廷が幕府の大政奉還を勅許
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1867年
京都近江屋で坂本龍馬と中岡慎太郎が見廻組に襲われ死去
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1867年
土佐海援隊の陸奥宗光らが天満屋事件を起す
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1867年
徳川慶喜が二条城で大政奉還を発表
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1867年
大久保利通・西郷隆盛・岩倉具視の謀略により朝廷が薩長などに討幕の密勅を下す
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1867年
朝廷が幕府の大政奉還を勅許
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1867年
王政復古の大号令
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1868年
佐々木高行が海援隊を率いて長崎奉行所を占拠
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1868年
鳥羽伏見の戦いに官軍が圧勝~戊辰戦争始まる
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1868年
徳川慶喜が松平容保・松平定敬を伴って大阪城を脱出し軍艦で江戸へ逃げ帰る
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1868年
陸奥宗光がパークス英国公使に会見、各国に王政復古と開国を通知するよう岩倉具視に献策
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1868年
陸奥宗光が岩倉具視の引きで外国事務局御用掛に任じられ明治政府に出仕
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1868年
陸奥宗光の献策により維新政府が外交団と協議、各国は局外中立を表明
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1868年
明治天皇が徳川慶喜追討の親征を宣言、薩摩(西郷隆盛)・長州・佐土原・大村の東海道軍と薩長・土佐(板垣退助)など諸藩混成の東山道軍が江戸へ進発、徳川慶喜は小栗忠順ら主戦派を退け恭順派の勝海舟に全権を託す
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1868年
陸奥宗光がアメリカから甲鉄艦ストーンウォール号引渡しに成功
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1868年
木戸孝允の版籍奉還の献策を長州藩主毛利敬親が承諾
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1868年
土佐藩が海援隊を解散
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1868年
明治天皇が江戸城に入城~実質的な東京遷都
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1868年
太政官設置
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1868年
明治天皇即位礼、明治に改元
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1869年
土方歳三が弁天台場の戦いで戦死(享年35)、榎本武揚の五稜郭が降伏し函館戦争・戊辰戦争終結
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1869年
版籍奉還
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1869年
陸奥宗光が兵庫県知事就任
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1869年
陸奥宗光が伊藤博文と共に廃藩置県の意見書を提出、容れられず紀州藩へ退く
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1870年
陸奥宗光が紀州藩欧州執事としてドイツ出張
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1871年
陸奥宗光の紀州藩政改革により「陸奥王国」が現出
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1871年
廃藩置県、陸奥宗光は紀州藩「陸奥王国」を差出し政府帰参
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1871年
陸奥宗光が神奈川県令就任
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1871年
岩倉使節団派遣
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1872年
陸奥宗光が大蔵省租税頭・地租改正局長就任(井上馨に次ぐ地位)
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1872年
山城屋事件、絶体絶命の山縣有朋は西郷隆盛に救われ初代陸軍卿に就任し徴兵令準備に奔走
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1873年
徴兵令布告
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1873年
地租改正法・地租改正条例布告
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1873年
岩倉使節団が帰国
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1873年
明治六年政変
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1873年
内務省設立、大久保利通が初代内務卿兼参議として独裁政権確立(大久保政府)
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1873年
最初の世界恐慌、帝国主義列強による世界分割競争が始まる
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1873年
江藤新平司法卿の追及により尾去沢銅山汚職が事件化、井上馨が大蔵大輔を引責辞任し実業界へ転じる
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1874年
陸奥宗光が薩長藩閥に反発して論文『日本人』を提出し官職を辞す
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1874年
板垣退助が愛国公党を結成し『民撰議院設立建白書』を提出
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1874年
板垣退助が高知で立志社を設立
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1874年
佐賀の乱
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1874年
西郷隆盛の征韓論を退けた大久保利通が台湾出兵を強行、木戸孝允は参議を辞任し下野
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1875年
江華島事件
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1875年
陸奥宗光が元老院議官就任
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1876年
大久保利通政府が黒田清隆全権特使の艦砲外交により李氏朝鮮と日朝修好条規を締結
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1876年
秩禄処分
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1876年
神風連の乱
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1876年
秋月の乱
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1876年
萩の乱
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1877年
西南戦争、西郷隆盛が鹿児島城山にて自害(享年51)
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1877年
木戸孝允が京都にて死去(享年45)、京都霊山護国神社に葬られる
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1878年
西南戦争に呼応する立志社の策動が発覚、陸奥宗光は5年の禁固刑を受け山形監獄に収容される
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1878年
大久保利通が紀尾井坂で不平士族に斬殺される(享年49)
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1878年
禁固服役中の陸奥宗光が伊藤博文の計いで設備の良い宮城監獄へ移される
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1879年
伊藤博文の要請により井上馨が外務卿就任
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1881年
開拓使官有物払下げ事件
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1881年
大隈重信一派が追放され薩長藩閥政府が現出(明治十四年の政変)、首班の伊藤博文は国会開設の詔で民権派と妥協
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1881年
自由党結成
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1881年
松方正義が参議兼大蔵卿に就任し松方財政が始まる
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1882年
福澤諭吉・慶應義塾派が立憲改進党を結成し大隈重信を党首に担ぐ
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1882年
朝鮮で壬午事変
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1882年
集会条例改定、自由民権運動が激化
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1882年
伊藤博文が立憲制視察のため渡欧
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1883年
陸奥宗光が特赦により出獄
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1883年
陸奥宗光が獄中で著したベンサム訳書『利学正宗』を刊行
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1883年
鹿鳴館完成~外務卿井上馨の条約改正交渉
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1884年
伊藤博文の計いで陸奥宗光がヨーロッパ遊学
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1884年
朝鮮で甲申事変、自由党の板垣退助・後藤象二郎や福澤諭吉が金玉均の独立党を後援
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1885年
福澤諭吉が「脱亜論」を発表
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1885年
第一次伊藤博文内閣発足(太政官制の廃止と内閣制度の開始)
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1886年
陸奥宗光が帰国、伊藤博文の引きで外務省出仕
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1887年
陸奥宗光の勧めで加藤高明が外務省出仕し大隈重信外相の秘書官となる
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1887年
鹿鳴館外交と条約改正に失敗した井上馨が外務大臣を辞任、伊藤博文首相が兼務ののち大隈重信へ交代
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1888年
陸奥宗光が駐英公使就任、兼駐メキシコ公使として日墨修好通商条約締結
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1888年
伊藤博文が枢密院を設立し初代議長に就任
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1888年
黒田清隆内閣発足
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1889年
大日本帝国憲法発布
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1889年
川上操六がドイツから帰国し参謀本部次長に復職、独軍参謀総長モルトケ直伝のドイツ式軍制改革や参謀本部強化を推進
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1890年
第一次山縣有朋内閣発足
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1890年
岩村通俊に代わって陸奥宗光が農商務大臣就任、陸奥は原敬を重用
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1890年
第一回衆議院総選挙で民党が過半数を獲得、陸奥宗光が和歌山県第1区から当選
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1890年
第一回帝国議会開催
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1891年
足尾銅山鉱毒事件
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1891年
山本権兵衛が西郷従道海相のもと海軍省大臣官房主事に就き海軍の分離独立改革を断行
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1891年
第一次松方正義内閣発足、陸奥宗光が農商務大臣就任
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1891年
大津事件
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1891年
帝政ロシアがシベリア鉄道起工
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1892年
第二回衆議院総選挙、松方正義政府が大選挙干渉するも民党勝利
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1892年
陸奥宗光が農商務相辞任、原敬も退官
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1892年
第二次伊藤博文内閣発足、陸奥宗光が外務大臣就任(西園寺公望と途中交代)
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1892年
陸奥宗光の外相就任に伴い加藤高明が外務省に復帰し駐英公使に就任(のち大使)
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1892年
陸奥宗光外相の引きで原敬が外務省通商局長就任
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1893年
海軍軍令部設置
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1894年
不平等条約改正(領事裁判権・片務的最恵国待遇の撤廃)
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1894年
東郷平八郎艦長の巡洋艦「浪速」が高陞号撃沈事件を起す
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1894年
朝鮮で甲午農民戦争、日清両軍が朝鮮へ派兵し一触即発
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1894年
日清戦争勃発
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1895年
下関条約で日清戦争終結、朝鮮(李朝)が初めて中国から独立しソウルに独立門建立
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1895年
三国干渉~露仏独が日本に遼東半島返還を要求
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1895年
台湾総督府設置
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1895年
朝鮮で親ロシア政権誕生、閔妃殺害事件
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1896年
露清密約、ロシアが清から東清鉄道敷設権を獲得
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1896年
病気の陸奥宗光に代わって西園寺公望文相が外相兼任
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1896年
小村寿太郎に代わって原敬が朝鮮駐在公使赴任
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1896年
陸奥宗光が結核療養のためハワイ滞在
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1896年
第二次松方正義内閣発足
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1897年
朝鮮が大韓帝国と改称
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1897年
陸奥宗光が伯爵を受爵
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1897年
陸奥宗光が死去(享年53)
陸奥宗光の交遊録
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坂本龍馬
「世界の海援隊」にお供したかった
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勝海舟
坂本の師匠
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菅野覚兵衛
志士仲間
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望月亀弥太
志士仲間
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近藤長次郎
志士仲間
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沢村惣之丞
志士仲間
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坂本直
志士仲間
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長岡謙吉
志士仲間
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中島信行
志士仲間にして妹婿
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中岡慎太郎
土佐の仲間
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後藤象二郎
土佐の仲間
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福岡孝悌
土佐の仲間
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佐々木高行
土佐の仲間
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岩崎弥太郎
土佐の仲間
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板垣退助
土佐の仲間
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林有造
投獄仲間
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大江卓
投獄仲間
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津田出
紀州藩改革の部下
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浜口梧陵
紀州藩改革の部下
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鳥尾小弥太
紀州藩改革の部下
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林薫
紀州藩改革の部下
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星亨
紀州藩改革の部下
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岡本柳之助
紀州藩改革の部下
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岩倉具視
出世の恩人
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木戸孝允
数少ない理解者
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伊藤博文
ボス
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井上馨
伊藤の親友
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山縣有朋
伊藤の政敵
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西園寺公望
伊藤派の仲間
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原敬
引上げた部下
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加藤高明
引上げた部下
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松方正義
外務省の部下
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大隈重信
外国事務掛の同僚転じて伊藤の政敵
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パークス
出世の糸口
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シュタイン
政治の先生
陸奥宗光と同じ時代の人物
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戦前
伊藤 博文
1841年 〜 1909年
100点※
高杉晋作の功山寺挙兵を支えた長州維新の功労者、大久保利通没後の明治政界を主導し内閣制度発足・大日本帝国憲法制定・帝国議会開設・不平等条約改正・日清戦争勝利を成遂げ国際協調と民権運動との融和を進めた大政治家
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照 -
戦前
渋沢 栄一
1840年 〜 1931年
100点※
徳川慶喜の家臣から欧州遊学を経て大蔵省で井上馨の腹心となり、第一国立銀行を拠点に500以上の会社設立に関わり「日本資本主義の父」と称された官僚出身財界人の最高峰
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照 -
戦前
豊田 喜一郎
1894年 〜 1952年
100点※
豊田佐吉の長男で共に画期的な動力織機を発明するが、繊維産業の凋落を見越し紡績から自動車への事業転換を敢行したトヨタグループ創業者
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照
年
基礎点 80点
陸奥宗広は紀州藩の権臣だったが派閥争いに敗れ一家は零落、子の陸奥宗光は14歳で江戸の尊攘運動に身を投じ坂本龍馬と邂逅、勝海舟の神戸海軍塾に寄寓して幕府神戸海軍操練所に学び、亀山社中・土佐海援隊と坂本の最期まで付随った。才気煥発だが傍若無人な陸奥宗光は同僚に憎まれたが、坂本龍馬は「天成の利器」を見抜き擁護し続けた。坂本龍馬が暗殺され「天満屋事件」を起した直後に鳥羽伏見戦が勃発、陸奥宗光は大阪に急行してパークス英公使と会見し、それを踏まえて「新政府は先ず列国に王政復古の事実と開国方針を通知すべし」との意見書を岩倉具視に提出した。岩倉具視は意見書を採用し陸奥宗光を外国事務局御用掛に抜擢、陸奥は同僚の伊藤博文と意気投合し生涯に渡る盟友となった。若くして明治政府に足場を築いた陸奥宗光だが、強烈な自尊心のために薩長専制に不満を抱き、伊藤博文と共に廃藩置県の即時決行を主張するも容れられず、官職を辞して和歌山に帰った。が、明治政府のお墨付により紀州藩政を掌握した陸奥宗光は藩政改革と軍備増強を断行、瞬く間に精兵2万を擁する「陸奥王国」を現出させ政府を震撼させたが、廃藩置県で王国は召上げられた。陸奥宗光の紀州割拠の野望は費えたが、このとき部下にした津田出・浜口梧陵・鳥尾小弥太・林薫・星亨らは後に政府顕官となり陸奥を支えた。陸奥宗光は明治政府に帰参したが薩長への不満は止まず明治六年政変を機に再び下野、西南戦争に呼応した土佐立志社の策動に連座し禁固5年の実刑に処された。獄中で西洋政体の研究に励み出獄した陸奥宗光は、原敬・加藤高明・星亨ら非薩長閥の人士を庇護しつつ、伊藤博文に属して薩長藩閥政府で台頭、英独遊学・駐米公使を経て、自由党土佐派とのパイプ役を期待され第一次山縣有朋内閣に農商務相で初入閣、第二次伊藤博文内閣で外相に抜擢されると華々しい「陸奥外交」を展開し、井上馨・大隈重信・青木周蔵が果たせなかった不平等条約改正を成遂げ、日英同盟を結び陸軍の川上操六と共に日清戦争開戦を主導し完勝、露仏独の三国干渉に遭うと冷静に受諾の決断を下し朝鮮・台湾・賠償金などの権益確保に成功した。
加点 20点
陸奥宗光は、激動の維新期にも稀有な波乱万丈の風雲児で「事実は小説より奇なり」を地でいく見事な生き様をみせた。徳川御三家紀州藩の重臣の家に生れたが、派閥争いで失脚した父が流罪となり、家禄没収で一家は離散し流浪の身に転落した。復讐を誓う陸奥宗光は14歳で単身上京し一介の浪士として志士群に身を投じ、坂本龍馬の子分となり神戸海軍操練所・亀山社中・土佐海援隊と行動を共にしたが、維新前夜に坂本が暗殺され海援隊は瓦解した。京都に居た陸奥宗光らは、坂本龍馬暗殺犯と誤解した紀州藩の三浦休太郎を襲撃し斎藤一ら護衛の新撰組隊士と刃を交わしている(天満屋事件)。後ろ盾を失った陸奥宗光だが、己の才覚と坂本人脈を頼りに岩倉具視ら明治政府中枢に食込み伊藤博文らと並ぶ新進気鋭の若手官僚となったが、強烈な自尊心が災いして薩長専制に不満を募らせ、あっさり退官して和歌山へ帰った。が、バイタリティ溢れる陸奥宗光は只では転ばず、政府のお墨付きを得て紀州藩の藩政改革・軍備増強を断行、全国に先駆けた徴兵制も導入して精兵2万人を擁する「陸奥王国」を現出させ政府にプレッシャーをかけた。「維新の三傑」が結束し廃藩置県を決定したため陸奥宗光の割拠の野望は費えたが、政府復帰後も薩長藩閥への反抗心は止まず、立志社の政府転覆工作に加担して禁固5年の判決を受け投獄された。4年で獄中生活を終えた陸奥宗光は、薩長閥打倒の思いを胸に秘め伊藤博文の庇護下に入り、2年間の欧州遊学で立憲政体を研究し帰国後に外務省出仕、自由党土佐派とのパイプ役を期待され第一次山縣有朋内閣に農商務相で初入閣し帝国議会運営に貢献、原敬・加藤高明ら藩閥外の若手の育成にも努めた。そして第二次内閣を組閣した伊藤博文は切札の「カミソリ陸奥」を外相に登用した。陸奥宗光外相は幕末以来の悲願であった不平等条約改正を成遂げ、無防備の朝鮮をロシアの侵略から守るべく日英同盟を結んで日清戦争開戦を主導し、戦勝に浮かれる世論を抑え三国干渉受諾の決断を下したが(陸奥外交)、日本の舵取りを期待されつつ53歳で永眠した。