紀州藩重臣の子ながら坂本龍馬に随従、薩長藩閥政府に反抗し「立志社の獄」で投獄されるが、伊藤博文の引きで復活し第二次伊藤内閣の外相として不平等条約改正と日清戦争を牽引した波乱万丈の風雲児
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陸奥 宗光
1844年 〜 1897年
100点※
陸奥宗光と関連人物のエピソード
- 下級武士ばかりの尊攘派志士群にあって、陸奥宗光の毛並みの良さは出色だった。陸奥家は仙台藩主伊達家の分家の流れで本性は伊達氏、徳川御三家の紀州藩で知行300石を食む上級武士であった。父の伊達宗広は、元紀州藩主で実力者の舜恭公の寵臣として出世を重ね、47歳で勘定奉行の要職に就くと大々的に金融業を行って藩財政を富ましめた。伊達宗広は知行800石へ加増され権臣となったが、舜恭公を囲む「お国派」と江戸の幼君を擁する「江戸派」の権力闘争に巻込まれ、舜恭公が没すると直ちに粛清され家禄没収のうえ紀伊田辺への流罪に処された。このとき9歳の陸奥宗光は刀を抜いて荒れ狂い、朝夕に復讐を口にするようになったという。食扶持を失い大黒柱と引離された陸奥一家は「母親に随って四方に流浪する」悲惨な境遇に転落したが、陸奥宗光は復讐を叫びながらも勉学に励み14歳で一念発起し単身江戸へ上った。儒学者で立身を期した陸奥宗光だが、激動の時流に身を投じ木戸孝允・伊藤博文・板垣退助ら諸藩の尊攘派志士と交流した。一方、父の伊達宗広は幽囚10年の後に赦免され35石の微禄をもって再び紀州藩に召抱えられたが、もともと勤皇精神が篤かったこともあり脱藩して京都へ上り尊攘派志士に連なった。一端の志士となった陸奥宗光は、父と親交のあった坂本龍馬と邂逅、坂本の師である勝海舟の神戸海軍塾に寄寓し幕府神戸海軍操練所に就学、亀山社中・土佐海援隊と坂本の最期まで付随い、伏見寺田屋で坂本が暗殺されると犯人と誤解した紀州藩の三浦休太郎を襲撃し斎藤一ら護衛の新撰組隊士と交戦した(天満屋事件)。坂本龍馬を失った土佐海援隊は自壊し、陸奥宗光は無藩閥の一志士として明治維新の世を歩み出した。
- 陸奥宗光は徳川御三家紀州藩重臣の出自のゆえか、才気煥発だが人を見下す傍若無人な性質で、尊攘派志士の仲間うちでも激しく嫌われた。神戸海軍塾時代の陸奥宗光は、勝海舟も後年まで記憶に留めたほどの爪弾き者で、唯一の理解者である坂本龍馬は陸奥の身の上を心配し福井藩家老の岡部造酒助に「他日必ず天成の利器となるであろうが、ただあまりに才弁を弄して浪士どもに憎まれ、あるいは殺されるかも知れない。願わくはしばらく国許に置かれたい」と願出たほどであった。岡部造酒助は承諾し陸奥宗光を横井小楠に託そうとしたが、折り悪く横井が失脚する事件が起り沙汰止みとなった。その後、土佐海援隊に至っても陸奥宗光は嫌われ続け「いろは丸事件」で海援隊が紀州藩と対立すると、紀州藩出身というだけで陸奥を殺そうとする者もいたが、中島信行の制止で救われたという。この縁で陸奥宗光は妹の初穂を中島信行に娶わせるほど昵懇の間柄となり、帝国議会創設にあたり自由党土佐派に近い陸奥は調整役を期待され第一次山縣有朋内閣の農商務相に抜擢された。第一回帝国議会において、中島信行は第一党自由党の幹部として衆議院議長を務め、閣内の陸奥宗光と協力して議会運営を円滑に導いた。
- 坂本龍馬は、土佐藩を脱藩して勝海舟に師事するが神戸海軍操練所の閉鎖に伴い薩摩藩の庇護下に入り亀山社中・薩長同盟に貢献、土佐藩に戻って大政奉還を差配し「世界の海援隊」を夢見たが暗殺された幕末一の人気者である。土佐藩郷士の次男で、18歳で江戸へ出て桶町千葉道場に入門し塾頭に進んだが、ペリー来航で尊攘運動に目覚め、武市半平太の土佐勤皇党に副首領格で加盟し久坂玄瑞への使者を務めた。吉田東洋暗殺で武市半平太は土佐藩政を握ったが、坂本龍馬は「酔えば勤皇・覚めれば佐幕」の山内容堂に絶望し島津久光の率兵上洛を機に脱藩、江戸の千葉道場に寄寓した。坂本龍馬は、脱藩浪士ながら政治総裁職の松平春嶽に拝謁し幕府軍艦奉行の勝海舟に入門、勝の口利で脱藩を赦され「神戸海軍塾」に同志を呼集めた。幕府は勝海舟に神戸海軍操練所の設立を許したが、塾生が池田屋事件・禁門の変に加わったため1年で廃止され勝は罷免された。土佐藩では山内容堂が武市半平太を誅殺し土佐勤皇党は壊滅、召還を拒否した坂本龍馬は再び脱藩の身となり、勝は坂本らを薩摩藩の小松帯刀に託し江戸へ去った。徳川慶喜が第二次長州征討を号令すると長州藩では薩長和解が生存課題となったが、薩摩藩は西郷隆盛の宥和路線により出兵を拒絶し、長州藩の武器輸入を援けるためダミー会社「亀山社中」を設立し坂本龍馬に実務を委託、さらに坂本と黒田清隆を長州へ送って和解工作を進め薩長同盟を締結した。伏見寺田屋で幕吏に襲われ重傷を負った坂本龍馬は鹿児島へ逗留した後、ユニオン号で馬関へ乗込み小倉渡海作戦に参加したが、長州藩勝利で亀山社中は役割を終えた。一方、長州藩の圧勝に慌てるも薩長に知己の無い土佐藩は、坂本龍馬・中岡慎太郎を懐柔し海援隊・陸援隊を提供、坂本は「船中八策」で後藤象二郎に大政奉還建白を促し薩土同盟で薩摩藩と協調、徳川慶喜は大政奉還に踏切ったが、武力討幕を期す薩摩藩は慶喜に辞官納地を強制し戊辰戦争に引きずり込んだ。開戦前夜、坂本龍馬と中岡慎太郎は京都近江屋で見廻組に襲われ横死、海援隊は分裂解消したが商社機能は岩崎弥太郎の三菱へ志は陸奥宗光へ受継がれた。
- 坂本龍馬は、勝海舟に学んだ航海術と周旋の才を武器に幕臣や諸藩の志士と交流し、薩摩藩のエージェントとして薩長同盟の成立に貢献した。ただ、龍馬ファンには耳障りだろうが、薩長同盟と「裏書」のほかに大きな政治的貢献はなく、それとて主役は西郷隆盛・大久保利通と木戸孝允・高杉晋作であり、周旋の労は長州藩で重きをなした中岡慎太郎の方が大きかった。亀山社中は薩摩藩が長州藩に武器輸入の便宜を図るために設けたダミー会社、土佐海援隊は土佐藩による懐柔策である。本来政治活動家である坂本龍馬らの操船技術と商才は怪しいもので、「ワイル・ウエフ号」「いろは丸」を海難事故で失い、両社とも経営は火の車で海援隊の世話を押付けられた岩崎弥太郎は大いに苦労した。坂本龍馬は、土佐藩執政の後藤象二郎に大政奉還建白を促し薩長志士に周旋して土佐藩の中央政局復帰に貢献したが、大政奉還論は坂本龍馬のオリジナルではなく幕臣の勝海舟や大久保一翁すら主張した時流であり、戊辰戦争勃発で薩長の機先をかわす効果も得られなかった。「船中八策」は中央情勢に疎い後藤象二郎ら土佐藩士には画期的だったろうが、民主主義の元祖である横井小楠ら福井藩士や進歩派知識人が共有していた政治思想の域を出ず、さらに作成者は海援隊士の長岡健吉とされる。坂本龍馬が有名になったのは、田中光顕と司馬遼太郎のお陰である。日露戦争開戦前夜、美子皇后の枕頭に白装束の武人が立ち自分が日本海軍を守護すると言った。不思議に思った皇后が宮内大臣の田中光顕に語り、それは坂本龍馬に違いないということになった。田中光顕は、土佐勤皇党から中岡慎太郎に随身して陸援隊の幹部となり、明治政府で土佐人の佐々木高行・土方久元と共に宮廷政治を主宰した人物。薩長の専横に対抗するため坂本龍馬を持ち出したと思われ、皇后の夢が「陸軍人」なら兄貴分の中岡慎太郎に代わっていただろう。司馬遼太郎は『竜馬がゆく』の作者で、過剰な感情移入により坂本龍馬を幕末の主人公に仕立て上げた。
- 勝海舟は、西郷隆盛に長州宥和を促し徳川慶喜に絶対恭順を説いて江戸城無血開城を果した開明派幕臣にして坂本龍馬の師匠、明治政府の高官に列すも距離を置き徳川家と旧幕臣の救済に余生を捧げた。勝海舟は、15歳で父から旗本勝家を継ぎ、「幕末の三剣士」に数えられた従兄の男谷精一郎と島田虎之助の道場で剣術修業に励み直心影流の免許皆伝に達したが、時勢を先取りして洋式兵学へ転じ永井青崖や佐久間象山に師事して赤坂田町に「氷解塾」を開いた。ペリー来航に発奮した勝海舟は海防意見書を提出、老中安倍正弘や大久保一翁の目に留まって長崎海軍伝習所の1期生に選抜され島津斉彬や尊攘派志士と交流、就学5年を経て遣米使節の「咸臨丸」艦長に任じられ太平洋横断を果した。勝海舟は咸臨丸の快挙を自賛したが、福澤諭吉は「日本人は皆船酔いして役に立たず、勝も自室に籠り切りで姿を見なかった」と回想している。凱旋した勝海舟は、蕃書調所頭取・講武所砲術師範・軍艦操練所頭取を経て、文久の改革に伴い海軍創設の牽引役として軍艦奉行に抜擢され士官育成のため神戸海軍操練所を創設、弟子にした坂本龍馬ら浪士群を神戸海軍塾で養い、征長軍全権の西郷隆盛に「日本人同士の争いは西欧列強を利するのみ」と説いた。が、塾生が長州藩に加担した事実が発覚、勝海舟は軍艦奉行を罷免され神戸海軍操練所は廃止、勝は薩摩藩に坂本龍馬らを託し江戸へ去った。徳川慶喜が長州再征を号令すると人材難の幕府は勝海舟を軍艦奉行に復帰させ5千石へ加増、薩長同盟が成り幕府軍が敗れると宥和論者の勝は停戦交渉を一任され安芸厳島に乗込んだ。時流は一気に大政奉還から戊辰戦争へと流れ、江戸へ逃げ戻った徳川慶喜は土壇場で絶対恭順へ転じ小栗忠順・松平容保ら抗戦派を追放、全権を委任された勝海舟は新撰組を追払うなど反乱抑止に奔走し東海道軍筆頭参謀の西郷隆盛との会談で江戸城無血開城を成遂げた。明治政府に出仕した勝海舟は参議・海軍卿・伯爵に栄進したが大した業績は無く、徳川慶喜と旧幕臣の復権を果し慶喜十男の精に勝家を譲り77歳で没した。
- 勝海舟は、幕末随一の人気を誇る坂本龍馬を世に出した師匠として小説に登場する。幕府の要職にありながら坂本龍馬ら物騒な尊攘派浪士を私塾「神戸海軍塾」に保護し実質的な家臣として働かせた勝海舟には、父親譲りの豪胆さと侠客気質が感じられる(父親の勝小吉は旗本ながら実生活は任侠の親分そのものだった)。勝海舟は幕府より念願の神戸海軍操練所の設立を許されたが、門人の望月亀弥太が池田屋事件で殺害され安岡金馬が禁門の変で長州軍に従軍したことを責められ(共に土佐浪士)、僅か1年で閉鎖されてしまった。愛弟子の坂本龍馬のせいで苦労が水泡に帰したわけだが、勝海舟は見捨てず、江戸へ去るにあたり薩摩藩の重役小松帯刀に坂本らの世話を依頼、ここに坂本が薩摩系浪士として活躍する道が開かれた。薩摩藩の庇護下に納まった坂本龍馬は、長州藩への周旋役として亀山社中の運営を任され、薩長同盟に奔走した。なお、坂本龍馬が勝海舟を斬るつもりで訪問したという話は、勝本人の晩年の著述によるが、勝の記憶違い或いは創作と考えられる。とはいえ単純な攘夷論やテロが横行した当時、坂本龍馬のような攘夷志士が開国派の勝海舟を襲うことは十分に考えられたことで、その場で論破されすぐに弟子入りした坂本の聡明と柔軟性を強調する逸話としては面白く、勝は坂本の偉材を誇張する効果を狙ったのかも知れない。因みに、これも勝海舟の著述によるが、坂本龍馬が、武市半平太と袂を別ち京都で遊蕩に浸る岡田以蔵を保護し勝の護衛に就けたという逸話がある。勝海舟が路上で三人組の暴徒に襲われた際、岡田以蔵が一刀で切り捨てたが、勝が「人斬りは宜しくない」と苦言を呈したところ、岡田は「そうしなければ勝先生は斬られていたでしょうに」と言返したという。「人斬り」岡田以蔵を護衛に従えた勝海舟は、さぞ鼻が高かったことだろう。
- 第二次長州征討で幕府権威は失墜し諸藩は動揺、土佐藩でも、再び勤皇派の人士を登用し薩摩藩に接触して真意を探るなどの動きをみせたが、武市半平太と土佐勤皇党を葬ったことで薩長志士人脈を失い自力で中央政局に復帰する力を欠いていた。慌てた執政の後藤象二郎は、長崎で福岡孝悌と会談し(共に吉田東洋門下の新おこぜ組)薩摩系の坂本龍馬と長州系の中岡慎太郎の起用を決定、両者の脱藩罪を赦免し志士活動後援で懐柔し、坂本・中岡は旧怨を忘れて周旋に協力した。坂本龍馬の亀山社中は、薩長同盟締結に伴い薩摩藩での役割を失い、海難事故もあって経営は破綻に瀕しており、土佐藩の援助は渡りに船だった。土佐藩の傘下に改めて発足した海援隊は、菅野覚兵衛・望月亀弥太・近藤長次郎・沢村惣之丞・坂本直・長岡謙吉・中島信行ら土佐浪士に陸奥宗光ら神戸海軍操練所出身者を加えた50人ほどの組織であった(坂本龍馬の暗殺後、土佐藩は求心力を失い分裂した海援隊を解散し、土佐藩の商社機能は土佐商会へ引継がれ主宰の岩崎弥太郎が独立し三菱財閥へ発展)。坂本龍馬の差配で薩土同盟を結び将軍徳川慶喜に大政奉還を建白した土佐藩と後藤象二郎は穏健な王政復古路線の主役に躍り出たが、薩長と共に武力討幕を期す中岡慎太郎は、同志の板垣退助(新おこぜ組)に西郷隆盛と薩土密約を結ばせ、土佐藩に京都藩邸と資金を拠出させ浪士群を集めて陸援隊を結成したが、開戦直前に坂本龍馬と共に見廻組に暗殺された。薩摩藩の西郷隆盛・大久保利通は岩倉具視と結んで朝廷を掌握し山内容堂の猛反対を抑えて辞官納地を断行、討幕の密勅で大政奉還を有名無実化して戊辰戦争の火蓋を切った。徳川家擁護に固執する山内容堂と後藤象二郎は動けなかったが、中岡慎太郎の遺志を継ぐ板垣退助は急ぎ洋式銃器を購入し土佐勤王党系人士を糾合して迅衝隊を結成、独断で戊辰戦争に参戦した。東山道軍の参謀に就いた板垣退助は軍事的才能を発揮、甲州勝沼の戦いで近藤勇ら新撰組残党を撃破し、会津若松城攻略で東北戦争の殊勲者となり、薩土密約を果した土佐藩は「薩長土肥」に滑り込んだ。
- 板垣退助は、土佐藩の上士には珍しく熱烈な尊攘派で「薩摩好き」だった。師の吉田東洋を暗殺した土佐勤皇党とは敵対したが、武市半平太の投獄に先んじて藩政を辞し江戸へ遊学した。長州藩が馬関戦争を起すと、板垣退助は自ら兵を率い救援すると言い立て山内容堂に厄介払いされたが、このとき中岡慎太郎と意気投合、小笠原唯八・佐々木高行・谷干城ら上士の同志と勤皇盡忠を誓い合い、江戸で大久保利通ら薩摩藩士と交流、幕臣の勝海舟と坂本龍馬の脱藩罪赦免を協議した。江戸で形勢を観望していた板垣退助は、時節到来とみたか、四候会議決裂で土佐へ戻った山内容堂と入替わるように上京し、中岡慎太郎の斡旋により京都の小松帯刀邸で西郷隆盛と薩土密約を締結した。席上、中岡は「もし板垣が違約したなら割腹してお詫びしよう」と言葉を添え、豪傑好みの西郷は「愉快愉快」と喜んだという。薩土密約を果たすべく藩政に復帰し大監察に就いた板垣退助は、大政奉還で徳川家擁護を図る山内容堂と後藤象二郎を横目に大急ぎで討幕挙兵を準備、洋式銃器を購入し突貫で軍政改革を行い、土佐勤皇党の島村寿之助・安岡覚之助らを出獄させ残党を集めて迅衝隊を結成した。鳥羽伏見の戦いで官軍が圧勝しても薩摩藩の専横を恨む山内容堂は出兵を逡巡、板垣退助は独断で迅衝隊を率いて参戦し、東山道先鋒総督府の参謀として東北戦争を指揮し会津城攻略の立役者となった。中岡慎太郎は生前「将来事をなそうとするには、門閥家による必要がある。板垣は門閥ながら仕事ができる人物である。諸君は昔の反感を捨てて板垣と共にことをはかれば、必ず成功するだろう。」と語ったが、予言どおり板垣退助は切所で勇猛心を発揮し土佐藩を「薩長土肥」に押込んだ。板垣退助は、清貧な豪傑タイプを好む西郷隆盛に重用され共に「留守政府」を取仕切ったが、本来は政治家ではなく軍人ながら薩長が牛耳る軍部には進めず、岩倉使節団が帰国し明治六年政変が起ると征韓派に与し下野、自由民権運動のカリスマとなった。
- 大政奉還の直後、京都近江屋で会食中の坂本龍馬と中岡慎太郎が刺客に襲われ、頭蓋を斬られた坂本はほぼ即死、中岡は後頭部の傷が悪化し3日後に死去した。「坂本龍馬暗殺の謎」は面白おかしく語られ、フリーメーソン(イギリス)の謀略説や、薩長が遣わした中岡が坂本を斬ったという珍説まである(長州系の中岡は強硬な討幕論者で、土佐藩の大政奉還を差配した坂本は徳川家擁護に動いていた)。が、元新撰組の大石鍬次郎および元見廻組の今井信郎(函館戦争で投降)・渡辺篤の供述により、佐々木唯三郎ら見廻組7人の犯行であることが明らかになった。見廻組は新撰組と同じく京都守護職松平容保(会津藩主)の指揮下で京都の治安維持にあたった警察組織である。新撰組の実態は過激浪士の傭兵集団だが、歴とした幕臣からなる見廻組は統率のとれた幕府機構であり、坂本龍馬・中岡慎太郎の暗殺も上層部の命令によるものと考えられ、命令者は松平容保とも京都所司代松平定敬(容保の実弟で伊勢桑名藩主)ともいわれる。会桑両藩と松平容保・定敬兄弟は、藩兵と新撰組・見廻組を駆使して京都に厳戒体制を敷き池田屋事件などで尊攘派志士を多数殺害したことから目の敵にされ、後戻りできない立場故に最強硬な佐幕派であった。ここで将軍徳川慶喜が大政奉還を遵守し薩長に取込まれると会桑両藩は完全に宙に浮いてしまうが、大政奉還を差配した坂本龍馬は幕臣の永井尚志を通じて幕府に現実的妥協案を呑ませる根回しに動いており会桑両藩にとっては危険人物となっていた。雄藩の後ろ盾がなく身辺警護も脆弱な坂本が真先に狙われ、中岡慎太郎は巻添えを喰ったと考えられる。暗殺事件後、激昂する海援隊・陸援隊に対し土佐藩は復讐禁止令を敷いたが、陸奥宗光ら16人は「いろは丸事件」を恨む紀州藩士三浦休太郎を首謀者と断じ、明る正月一日に油小路花屋町天満屋の酒宴の場を襲撃した。斎藤一ら護衛の新撰組隊士数名が居たため接戦となり、陸奥一派は中井庄五郎を殺され三浦は討ち漏らしたが数名を殺害し逃走、官軍の天下で陸奥宗光らにお咎めは無かった。
- 天満屋事件後も京都に留まり形勢を観望していた陸奥宗光は、鳥羽伏見戦が勃発すると幕府軍を追う官軍を慕って大阪へ入り、パークス英国公使に面会を求めた。パークス会談で「新政府が最初に為すべきことは、大阪の各国公使に対して王政復古を通知し、新政府の開国方針を表明することだ」と確信した陸奥宗光は、京都に戻り意見書にまとめて岩倉具視に提出した。全面的に賛同した岩倉具視は直ちに各国外交団に新政府樹立を通知して局外中立を引出し、戦乱にあって外交の重要性に着目した陸奥宗光を外国事務局御用掛に抜擢した。岩倉具視は、中岡慎太郎とは暗殺後に号泣したほどの盟友関係で、坂本龍馬も中岡と共に岩倉の朝廷復帰に奔走した経緯があった。外国事務局御用掛には伊藤博文(27歳)・大隈重信(30歳)・中井弘ら薩長藩閥のホープが揃っていたが、その中でも24歳の陸奥宗光は最若年であり、藩閥外ながらこれ以上望めない形で明治政界に進出した。
- 坂本龍馬・中岡慎太郎と懇意だった岩倉具視に見出され若くして明治政府の中枢に入った陸奥宗光であったが、早くも薩長専制に不満を抱き、伊藤博文と共に廃藩置県の即時決行を主張したが容れられず、官職を投出し故郷の和歌山に帰った。岩倉具視のお墨付きを得て凱旋した陸奥宗光は、新政府に怯える紀州藩主から藩政改革を一任され、直ちに佐幕守旧派を一掃し紀州藩を勤皇一色に塗替えた。陸奥宗光は、洋式兵学に詳しい津田出を戊兵都督(藩軍のトップ)・ヤマサ醤油の浜口梧陵を勘定奉行に抜擢して藩政改革の両輪に据え、藩士俸禄の95%カットで財源を捻出したうえで、プロシア将校カッピンを雇入れ兵制を刷新、全国に先駆けて徴兵制を導入し四民から兵員を募った。陸奥宗光は紀州藩外からの人材招聘にも取組み、このとき登用された鳥尾小弥太(戊兵副都督)・林薫・星亨らは後に陸奥派官僚として中央政界で活躍する。陸奥宗光の改革で精兵2万人を抱えた紀州藩は「陸奥王国」の様相を呈し、政府首脳を震撼させた。勢い上がる陸奥宗光は、軍事教官招聘と武器購入のためドイツを訪問したが、帰国し自ら戊兵都督に就いた2ヵ月後に廃藩置県が決定され、親友の伊藤博文の説得に応じ「陸奥王国」を政府に差出す苦渋の決断を下した。とはいえ、政府に帰参した陸奥宗光は神奈川県令・大蔵省次官級の要職に補され、能力を評価された陸奥一派も中央政府に招聘された。津田出と浜口梧陵は大蔵省、鳥尾小弥太と岡本柳之助は軍中央に登用され、林薫や星亨も中央官界への足掛りを得た。
- 戊辰戦争を後方任務で終えた伊藤博文は、木戸孝允の推挙で明治政府に出仕し、英語力を買われて外国事務掛・外国事務局判事・兵庫県知事を歴任したが、賞典禄を与えず「いつまでも家人扱いする」木戸から離反、岩倉使節団で外遊中に大久保利通の腹心となり、帰国すると西郷隆盛ら征韓派の追放に奔走し明治六年政変で参議に採用された。なお山縣有朋は、山城屋事件の大恩人西郷隆盛と長州閥首領の木戸孝允の板挟みとなり鎮台巡視の名目で東京から脱出、保身は果したものの参議就任を見送られた。独裁政権で富国強兵・殖産興業を推進した大久保利通が暗殺されると、後継者の伊藤博文と大隈重信が政権を担ったが、開拓使官有物払下げ事件を機に薩摩閥と結んで大隈一派を追放し(明治十四年政変)伊藤が薩長藩閥政府の首班となった。薩長の「超然主義」の限界を悟った伊藤博文は、国会開設の詔で民権派との協調を図り、立憲制視察のため自ら渡欧、華族令で貴族院の土台を整え、1885年太政官制を廃して内閣を創設し初代総理大臣に就任、3年で薩摩閥の黒田清隆に首相を譲り憲法起草に専念し1889年大日本帝国憲法を制定、翌年公約どおり帝国議会開催に漕ぎ着けた。憲法で伊藤博文は三権分立を確保したものの、山縣有朋ら軍閥と妥協するため軍事権(統帥権)を天皇独裁としたため文民統治の機能が欠落、山縣と陸軍長州閥は軍部大臣現役武官制で倒閣力まで手に入れ軍国主義化に邁進した。二度目の組閣で伊藤博文は、アウトローの陸奥宗光を外相に抜擢し不平等条約改正に成功、国土防衛線の朝鮮を守るため日清戦争を敢行し勝利して下関条約を締結した。伊藤博文は第四次内閣を終えると政友会の西園寺公望に政権を託したが、朝鮮・満州への南下政策を露にするロシアに対し井上馨と共に融和策(日露協商・満韓交換)を提唱、山縣有朋直系の桂太郎首相が日露戦争に踏切ったが、金子堅太郎を通じてアメリカを講和斡旋に引張り出し国難を救った。朝鮮を保護国化すると伊藤博文は自ら初代韓国統監に就き穏健な民政を図るも抗日運動で挫折、伊藤はハルビン駅頭で朝鮮人に射殺され翌年陸軍長州閥は韓国併合を断行した。
- 井上馨は、幕末の志士時代から伊藤博文の大親友で、共に高杉晋作のクーデター「長州維新」を支え、伊藤と二人三脚で明治政界をリードした。名門出身の井上馨は長州藩庁に危険視された吉田松陰の松下村塾には加わらなかったが、木戸孝允・久坂玄瑞・高杉晋作ら尊攘派志士グループの一員となり、イギリス公使館焼き討ちにも加わった。井上馨と伊藤博文はイギリス留学へ派遣されたが、長州藩と西洋列強の関係悪化を知り急遽帰国、不戦工作に奔走するも馬関戦争を止められなかった。禁門の変後の第一次長州征討に際し井上馨は高杉晋作と共に徹底抗戦を唱え、佐幕恭順派の闇討ちに遭い全身を切り刻まれ瀕死の重傷を負ったが、奇跡的に蘇生すると功山寺で決起した高杉晋作・伊藤博文に合流し尊攘派の政権奪回に貢献した。維新後の井上馨は、九州鎮撫総督参謀・長崎製鉄所御用掛を経て、志士時代に金策が得意だった流れで参議兼大蔵大輔となり新政府の財政政策を主導したが、尾去沢銅山汚職事件で辞職に追込まれた。実業界へ転じた井上馨は、長州閥を背景に黎明期の財界で辣腕を振るい、三野村利左衛門・中上川彦次郎・益田孝ら三井財閥と癒着して西郷隆盛から「三井の番頭」と揶揄され、腹心の渋沢栄一、長州政商の久原房之助・鮎川義介・藤田伝三郎・大倉喜八郎、石坂泰三ら多くの財界人を支援し、貪官汚吏と批判されつつも死ぬまで財界に君臨した。口うるさい「維新の三傑」が相次いで没すると井上馨は伊藤博文の要請で政界に復帰し外務卿・外相として「鹿鳴館外交」を展開するも条約改正失敗で失脚、第三次伊藤内閣の蔵相を最後に政府から退いたが、長州閥元老として影響力を保持し伊藤の裏方として政治活動を支え続けた。日露開戦が迫ると、井上馨は伊藤博文と共に「満韓交換論」「日露協商」を推進し、戦時財政の総監督役として日銀副総裁の高橋是清を特使に抜擢し膨大な戦費調達を成功させた。伊藤博文暗殺後の井上馨は長州閥長老として政界調整に奔走、伊藤の後継者である西園寺公望・原敬らを盛立てつつ山縣有朋直系の桂太郎と縁戚を結び、第一次山本権兵衛内閣や第二次大隈重信内閣の成立を主導した。
- 生来遊び好きな渋沢栄一は、明治政府の大官になると花柳界で豪遊を重ねた。大蔵官僚の渋沢栄一は小野組で糸店支配人をしていた古河市兵衛と神奈川県令の陸奥宗光を官営富岡製糸場の視察へ連出した。古河市兵衛は洋式大工場に驚いたが、近隣芸者を総揚げで派手な乱痴気騒ぎに興じる渋沢栄一と陸奥宗光には更に驚き「お二方には、こりごりです。今後はお供をご勘弁ねがいます」と釘を刺すほどであった。この後も享楽を続けた渋沢栄一は嫡庶あわせ50人もの子を生したというが、嫡子の渋沢篤二は父の遊蕩癖だけを受継ぎ、働かず豪遊した挙句に妻子と別れ芸者と結婚すると騒ぎ廃嫡された。渋沢栄一は篤二嫡子の渋沢敬三に子爵と家督を継がせたが、篤二は生涯豪邸に住まわせ道楽生活を続けさせている。
- 渋沢栄一は「日本資本主義の父」とも称される財務官僚・実業家でる。藍玉の製造販売も手掛ける武蔵の豪農に生れた渋沢栄一は、少年期から商売に親しみつつ、従兄尾高惇忠の影響で尊攘運動に身を投じ同志と共に高崎城襲撃・横浜焼打ちを企てるが頓挫し逃亡(従兄の渋沢成一郎は上野彰義隊頭取となり箱館戦争まで転戦)、一橋家重臣の平岡円四郎に拾われた。一橋家に仕官した渋沢栄一は忽ち「建白魔」となり領内の農民兵徴募や財政改革を任されて成功を収め、主君の徳川慶喜にも評価された。徳川慶喜の将軍就任に伴い幕府御家人に大出世した渋沢栄一は、パリ万国博覧会に出席する徳川昭武(慶喜実弟)の随員に選ばれる大幸運に恵まれ、維新の動乱期を優雅な外遊生活で過ごした。帰国した渋沢栄一は徳川宗家と慶喜が移された静岡に移住するも仕官は断り、石高拝借金の合本組織運用を提案し静岡商法会所の頭取となって資本主義の実践に着手した。がその矢先、渋沢栄一は大蔵大輔の大隈重信に突然スカウトされ新政府に出仕、改正掛の革新運動を牽引し、岩倉使節団に出た大久保利通に代わり大蔵省のトップに就いた井上馨の腹心となり、銀座煉瓦街建設、富岡製糸場開設、第一国立銀行設立・国立銀行条例制定など洋化政策を主導した。が、岩倉使節団が帰国すると大蔵省は再び大久保利通の掌中に帰し、井上馨は尾去沢銅山汚職事件で引責辞任、渋沢栄一は井上に殉じ実業界へ転じた。第一国立銀行に天下った渋沢栄一は、三井組の吸収工作撃退で実権を掌握して頭取に就き本格的な財界活動に入った。西南戦争後、薩長藩閥と大隈重信=三菱の対立が激化し、井上馨に連なる渋沢栄一は矢面に立たされ窮地に陥ったが、明治十四年政変で薩長藩閥が勝利を収め政府から大隈一派を追放、「三菱海上王国」も共同運輸会社に吸収された。以降の渋沢栄一は第一国立銀行を拠点に順風満帆の活躍を続け財界人で唯一子爵を受爵、自ら60社近い事業を立上げ、東京証券取引所・東京瓦斯・東京海上火災保険・王子製紙・東京急行電鉄・秩父セメント・秩父鉄道・京阪電気鉄道・キリンビール・サッポロビール・東洋紡績・帝国ホテルなど500社以上の設立に関与した。
- 陸軍長州閥を築いた山縣有朋は政治に乗出し、松下村塾同窓で国際協調と自由民権運動との融和を図る伊藤博文と妥協しつつも、一貫して軍国主義化・文民統治排除と政党弾圧を推し進め、特に自身の内閣では教育勅語・地租増徴・文官任用令改定・治安警察法・軍部大臣現役武官制・北清事変介入等の重要政策を次々に断行、伊藤の暗殺死に伴い遂に最高実力者に上り詰めた。山縣有朋と陸軍長州閥の法整備を担った清浦奎吾は司法官僚から司法相に栄進し、貴族院に送込まれて親藩閥勢力を扶植し念願の首相職を与えられた。1912年、陸軍が軍部大臣現役武官制を楯に第二次西園寺公望内閣を倒すと余りの難局に後継首相の引受け手が無かったが、伊藤の死で傀儡不要となった山縣有朋は首相復帰への意欲を示し、桂太郎を上りポストの内大臣に押込んだうえで「自分か桂かどちらか決めてもらいたい」と元老会議に迫った。が、賢明な元老会議は慣例を破って桂太郎に第三次内閣の大命を下し、桂からは「これからは、あれこれご指示をくださらなくても結構です。大命を奉じたからには、自分一個の責任でやりますから、閣下はどうかご静養なさいますように」と冷や水を浴びせられる始末だった。山縣有朋は元老筆頭として影響力を保持し、死の前年の宮中某重大事件で権威が低下したものの、栄耀栄華に包まれたまま84歳で大往生、伊藤博文・山田顕義・板垣退助・大隈重信ら政敵の誰よりも長生きした。山縣有朋は伊藤博文と同じく国葬で送られたが、大隈重信の「国民葬」が空前の参列者で賑わったのと対照的に人出の少ない寂しい葬儀であった。明治維新後1年で暗殺死した大村益次郎は「日本陸軍の創始者」と崇敬され今も靖国神社の一等地に銅像がそびえ立ち、国会議事堂では伊藤博文・板垣退助・大隈重信の銅像が憲政の発展を見守るが、1922年まで生きて幾多の軍事政策を行い位人臣を極めた山縣有朋に対する後世の評価は非常に低い。
- 日本との国交を拒絶する李氏朝鮮に修好条約締結を迫るため西郷隆盛は自身の派遣を閣議決定したが(征韓論)、遣欧使節より帰国した岩倉具視・木戸孝允・大久保利通と大隈重信・大木喬任らの内治優先論に覆され西郷派遣は無期限延期となり、これを不服とする西郷隆盛・板垣退助・副島種臣・江藤新平・後藤象二郎ら参議と征韓論に同調する軍人・官僚600余名が大挙辞職し下野する大事件に発展した(明治六年政変)。征韓論の背景には廃藩置県で失業した50万人に及ぶ士族の雇用問題があった。政変後、革新の木戸孝允と保守の岩倉具視が相克し岩倉寄りの大久保利通が木戸を宥めつつ独裁的指導力を発揮する構図となった(大久保政府)。木戸孝允は、西郷・大久保を巻込んで廃藩置県を成遂げると「廃藩置県を断行して四民平等をなした以上は、教育を進めて人文を開き、もって立憲国にしなければならない」と憲法制定を政治目標に定め、学制と国民皆学の充実を図り、言論出版を奨励し、軍事においては大村益次郎のフランス流市民兵構想を後援した(大村は暗殺され山縣有朋らが「天皇の軍隊」に仕立てる)。木戸孝允の基本理念は大久保利通の殖産興業・富国強兵に通じるものであったが、乏しい政府財政と人的資源を巡って優先順位や進め方で両者は対立、粘り強い戦略家の大久保が長州の伊藤博文・井上馨や肥前の大隈重信を自陣へ引込んで勝利し木戸孝允はヘソを曲げて放り出した(土佐の板垣退助や後藤象二郎は征韓論に与し下野)。木戸孝允と大久保利通の関係について、徳富蘇峰は「両人の関係は、性の合わない夫婦のように離れれば淋しさを感じ、会えば窮屈を感じる。要するに一緒にいる事もできず、離れる事もできず、付かず離れずの間であるより、他に方便がなかった」と語り、松平春嶽は薩摩藩への恨み節もあろうが「木戸は至って懇意なり。練熟家にして、威望といい、徳望といい、勤皇の志厚きことも衆人の知るところなり。帝王を補助し奉り、内閣の参議を統御して、衆人の異論なからしむるは、大久保といえども及びがたし。木戸の功は、大久保の如く顕然せざれど、かえって、大久保に超過する功多し。いわゆる天下の棟梁というべし」と評した。
- 大久保利通は、大蔵省と工部省から殖産興業部門を分離し、司法省から警保寮(警察)も巻き取って、絶大な権限を有する内務省を設置、自ら初代内務卿となり辣腕を振るった。西郷隆盛ら征韓派が一掃され木戸孝允も病気で働けない状況のなか大久保は独裁体制を確立、参議の伊藤博文と大隈重信が側近として大久保を支えた。大久保政府の主眼は内地優先論に基づく殖産興業にあり、鉄道網の整備を進め、官営模範工場や農事試験場を設立して軽工業や農業の近代化を推進した。また岩崎弥太郎の三菱を手厚く保護し、国内海運業の育成と外国勢力の排除に努めた。外交面では、征韓論を抑えたものの、薩摩藩の不平士族のガス抜きのため台湾出兵を断行し、大久保自ら清国に乗込んで有利な講和条約をまとめた。征韓論争に敗れ帰郷した要人を核に各地で不平士族が蜂起し佐賀の乱・神風連の乱・秋月の乱・萩の乱に続き日本史上最悪の内戦となった西南戦争が勃発したが、大久保は怯まず断固たる姿勢で対応し新造の鎮台兵を動員して速やかに各個鎮圧し国内の治安を回復した。大久保利通は最も現実的な政治家だが、明確な長期ビジョンと意志を持っていた。大久保は「ようやく戦乱も収まって平和になった。よって維新の精神を貫徹することにするが、それには30年の時期が要る。明治元年から10年までの第一期は戦乱が多く創業の時期であった。明治11年から20年までの第二期は内治を整え、民産を興す即ち建設の時期で、私はこの時まで内務の職に尽くしたい。明治21年から30年までの第三期は後進の賢者に譲り発展を待つ時期だ。」と語り、岩倉具視への手紙には「国家創業の折には、難事は常に起るものである。そこに自分ひとりでも国家を維持するほどの器がなければ、つらさや苦しみを耐え忍んで、志を成すことなど、できはしない。」と記した。福地源一郎は大久保に「北洋の氷塊」の渾名を奉り「政治家に必要な冷血があふれるほどあった人物」と評している。
- 西郷隆盛の征韓論に与し明治六年政変で下野した板垣退助は、副島種臣と共に「愛国公党」を結成し大久保利通政府に『民撰議院設立建白書』を提出した後(後藤象二郎・江藤新平・小室信夫・由利公正・岡本健三郎・古沢滋らが加盟)、故郷の高知に戻り片岡健吉・山田平左衛門・植木枝盛・林有造ら同志を糾合して「立志社」を設立した。立志社即ち「土佐派」は続く「国会期成同盟」「自由党」の母体となり、板垣退助の引退と同時に星亨らが伊藤博文の政友会に合流する。さて、3年後に西南戦争が勃発し西郷軍に呼応した立志社の高知挙兵・政府転覆の策動が発覚、首謀者の林有造・大江卓・岩神昴の3人に禁固10年、立志社員ではないが共謀した陸奥宗光に禁固5年の判決が下され、高知在住の片岡健吉らも軽禁固に処された(立志社の獄)。立志社首領の板垣退助・後藤象二郎も事件に関与した疑いが強いが、林有造・大江卓・陸奥宗光らが庇ったため逮捕を免れ、3年後に伊藤博文政権が国会開設の詔を出すと板垣は自由党を結成する。
- 西南戦争は、西郷隆盛を盟主に担ぐ旧薩摩藩士が起した不平士族反乱で日本史上最大の内乱事件である。徴兵令、廃刀令、秩禄処分と続いた士族の特権剥奪政策に対する不満は全国に蔓延し、佐賀の乱を皮切りに既に各地で不平士族反乱が起っていたが、薩摩藩は維新の功労があるだけに不満は大きく、さらに他藩より武家率が数倍も高く武士の絶対数が多かったことも災いし(全国士族の1割とも)、空前の大規模反乱に発展した。征韓論争に敗れて鹿児島に退いた西郷隆盛は、暴発を抑えるため私学校を作って統制に努めたが、逆に求心力となって続々と不平士族が参集、鹿児島は中央政府から独立した「私学校王国」の様相を呈した。そして遂に暴発事件が起ると、西郷は、篠原国幹・村田新八・桐野利秋・辺見十郎太ら私学校党幹部に身を委ね、「陳情」を名分に中央への進軍を開始した。大久保利通率いる明治政府は、即座に断固鎮圧の断を下し、鹿児島県逆徒征討総督の有栖川宮熾仁親王以下、実質的な指揮官(参軍)には山縣有朋陸軍中将と川村純義海軍中将を任命、徴兵制で発足したばかりの鎮台兵を大挙派兵し、また旧士族を急募して編成した警察兵も続々と投入した。戦域は鹿児島県から熊本県、宮崎県、大分県にまで拡大、戦死者は官軍6,403人・西郷軍6,765人に及び、激戦の末に西郷隆盛はじめ反乱軍の幹部は悉くが戦死、反乱は鎮圧された。このとき戦った官軍には、司令官の大山巌中将・谷干城少将、参謀長の樺山資紀中佐のほか、児玉源太郎少佐・川上操六少佐・奥保鞏少佐・乃木希典少佐など後の大物軍人が数多く従軍した。西南戦争で政府が費やした戦費は4156万円の巨額に及び深刻な財政難に陥って富国強兵政策の重大な足枷となった。さらに、西南戦争の最中に木戸孝允は「西郷、いいかげんにせんか」の言葉を残して病没、その西郷隆盛も間もなく戦死、残った大久保利通も翌年不平士族の凶刃に斃れた。柱石たる「維新の三傑」を一気に喪った悪影響は計り知れず、明治日本にとって最も不幸な大災難であった。ただ、岩崎弥太郎の三菱・大倉喜八郎・三井など政商たちに戦時特需をもたらし飛躍の契機を与えたことは、せめてもの救いであった。
- 「立志社の獄」で禁固5年に処された陸奥宗光は特赦により4年で刑期を終え、伊藤博文の計いで2年間ヨーロッパ遊学へ出された。陸奥宗光はロンドンでイギリス立憲政体を学び、ウィーンに移ってシュタインからプロシア流政治を学んだが、シュタインが感状を送るほど猛勉強に励んだ。公使としてウィーンにいた西園寺公望は、陸奥宗光の勤勉と成長ぶりを二度も伊藤博文に報告し政府採用を推奨している。なお、三菱社員としてロンドン留学中の加藤高明は、同地で陸奥宗光に薫陶を受け政治家を志したという。
- 板垣退助と大隈重信を中心とする自由民権運動は、内実は薩長藩閥への反抗であり政府首脳にとって頭の痛い問題であった。山縣有朋・黒田清隆・西郷従道らは「超然主義」を唱え一貫して政党勢力を弾圧したが、伊藤博文は藩閥政治の限界を悟り「国会開設の詔」で10年以内の国会開設を公約し藩閥サイドの工作を主導した。伊藤博文は、自ら渡欧して立憲政体を研究し、太政官制を廃して内閣制度を発足させ初代総理大臣に就任、枢密院議長に退いて大日本帝国憲法を制定し、公約どおり衆議院選挙と帝国議会開催を実現させた。その後も超然主義に固執し自らの軍閥形成と政党排除に邁進する山縣有朋との政争のなか、伊藤博文は、伊東巳代治・金子堅太郎・西園寺公望・原敬ら配下の官僚政治家および帝国党など「吏党」をベースに、星亨・尾崎行雄・片岡健吉ら憲政党自由派を糾合して、立憲政友会を結党した。これに先立ち、隈板内閣が瓦解したあと与党憲政党では星亨ら自由派が「領袖会議」クーデターで進歩派を追放、大隈重信の失脚と板垣退助の政治意欲喪失で憲政党を掌握した星亨は、第二次山縣有朋内閣の地租増徴に協力したが裏切られ、山縣の政敵で政党政治に理解を示す伊藤博文に接近、伊藤が政友会を結成すると憲政党を解党し合流した。自由民権運動のカリスマとして一時代を築いた板垣退助は政友会創立に伴い潔く政界から引退したが、未練タラタラの大隈重信は14年後に井上馨に担ぎ出され第二次内閣を組閣、薩長藩閥の傀儡に堕し「対華21カ条要求」をしでかした。
- 国会議事堂の四隅には板垣退助・伊藤博文・大隈重信の銅像が立つが(残りの一隅は空の台座)「自由民権運動」の元祖は何といっても板垣退助である。土佐勤皇党の残党を率い戊辰戦争で活躍した板垣退助は、東山道指揮官として会津戦争を鎮圧したが、戦争負担に喘ぐ会津の民衆が藩を見捨てて官軍に味方するのを見て四民平等でなければ国は守れないと痛感し、征韓論争で下野すると「民撰議院設立建白書」を提出し土佐立志社を結成した。伊藤博文の「国会開設の詔」を受け板垣退助が結成した自由党は、薩長藩閥打倒と急進的な国体改革を目指す土佐人中心の社会主義的革新政党で、志士上りの過激活動家が多く西南戦争に呼応し(立志社)秩父事件や大阪事件を引起した。対する改進党は、福澤諭吉を理論的主柱とする慶應義塾出身者ら「文化的進歩人」の集団で、政府を追われた大隈重信を党首に担ぎ、国体改革云々より民意を背景に政治的発言力を高め薩長藩閥に物申そうという方向性で、外交は福澤の『脱亜論』を党是とし日露戦争を機に軍部以上の「対外硬派」となった。薩長藩閥打倒のため両党は大同団結し憲政党を結成、初の政党内閣「隈板内閣」(第一次大隈重信内閣)を成立させたが僅か4ヶ月で内部分裂し瓦解、カリスマ板垣退助は潔く引退し星亨ら自由党系は伊藤博文の政友会に合流し政権与党の基盤となった。シーメンス疑獄で山本権兵衛内閣が倒れると、元老院の井上馨は護憲運動を抑えるべく第二次大隈重信内閣を擁立、薩長藩閥の走狗に堕した大隈は衆議院解散で政友会議員を半減させて井上の期待に応え、二個師団増設を押通して山縣有朋を満足させ、第一次世界大戦が起ると加藤高明外相と共に「対華21カ条要求」をやらかし後世に重大な禍根を残した。原敬・高橋是清の政友会内閣を経て護憲三派が合同し加藤高明内閣が発足したが又も内部分裂、金権政治で金欠の政友会は陸軍機密費の持参金を目当に陸軍長州閥の田中義一を首相に担ぎ、憲政会は分派工作で若槻禮次郞・濱口雄幸が政権奪回、満州事変の激震のなか政友会の犬養毅が組閣したが五・一五事件で横死、以後は軍部主導の内閣が続き政党政治は終焉した。
- 開拓使官有物払下げ事件で自由民権運動が沸騰し薩長閥が国会開設の詔を発布した翌年、民権派との融和を期す伊藤博文は数人の随員を従え自らドイツ・オーストラリアを歴訪、ウィーン大学のシュタイン教授、グナイスト、モッセらの法学者からドイツ(プロイセン)流の憲法理論や政治制度を学んだ。なお伊藤博文は、岩倉具視よりフランス流自由主義にかぶれた西園寺公望の懐柔を依頼され随員に加えた。反動勢力を率いた岩倉具視が没し、帰国した伊藤博文は、華族令を定めて貴族院の土台を作り、民権派との妥協を嫌う山縣有朋・黒田清隆・西郷従道らを説伏せ、来るべき国会開設に対し強力な行政府を備えるべく内閣制度を発足させた。権力の所在が曖昧で意思決定に難のある太政官制を廃し、各省庁の長が国務大臣として内閣を構成し国務大臣を束ねる内閣総理大臣を政府の最高責任者とする近代的な行政府制度が現出した。伊藤博文が自ら初代内閣総理大臣に就き、国務大臣は薩長のバランスに配慮して長州閥4人(伊藤博文・井上馨、山縣有朋・山田顕義)に対し薩摩閥5人(松方正義・大山巌・西郷従道・森有礼・榎本武揚は旧幕臣だが黒田清隆の配下)および土佐1人(谷干城)とし、太政官の最高位(太政大臣)にあった三条実美には名誉職の内大臣をあてがった。戊辰戦争以来薩長に伍して来幅を利かせてきた公家層を政治の実質から締出した意義も大きかった。伊藤博文は3年で薩摩閥の黒田清隆に首相を譲り、憲法問題に専念するため枢密院を設立し初代議長に就任した。
- 伊藤博文は、憲法問題に専念するため首相を辞して新設の枢密院議長となり、井上毅・伊東巳代治・金子堅太郎ら官僚を駆使しドイツ人顧問ロエスレルとモッセの助言を得ながら憲法草案を起草、枢密院で若干の修正を加えたのちに閣議を通した。大日本帝国憲法は、「神聖不可侵にして統治権を総攬する」天皇に絶対的君主権を与え、憲法自体も天皇から下された欽定憲法の形式をとった。天皇の下に帝国議会(立法)・内閣(行政)・裁判所(司法)を併置する三権分立制を採用し、「天皇大権」を輔弼する直属機関として統帥部(陸軍参謀本部・海軍軍令部)・枢密院(最高諮問機関)・内大臣(側近)・宮内大臣(皇室事務)を置いた。また、法令の規定外に薩長重鎮らが構成する元老院が設けられ(後に重臣会議に転化)、総理大臣をはじめ国務大臣の実質上の指名権を掌握し絶大な権力を握った。貴族院(選挙制)と衆議院(勅撰および互選制)からなる帝国議会の権限は、天皇の立法行為に対する「協賛権」に制限されたが、予算案・法案の成立には両院の同意が必要とされたため立法府の行政府に対する牽制機能は十分に在り、藩閥政治から政党政治への移行を促す要因となった。が、伊藤博文が軍部を握る山縣有朋らと妥協した結果、軍事権(統帥権)を三権から分離し絶対君主たる天皇の専権事項としたため文民統治の機能を欠き、天皇および側近のチェック・アンド・バランスが崩れると軍部の暴走を許すという構造的欠陥を内包しており、実際に軍部は統帥権を振りかざして軍国主義化に邁進し軍部大臣現役武官制により内閣(行政権)をも脅かす存在となった。
- 2年間の欧州遊学でホトボリを冷ました陸奥宗光は、国家転覆罪の前科持ちながら伊藤博文の引きで外務省に登用され、要職の駐米公使を経て、第一次山縣有朋内閣の農商務相に抜擢された。陸奥宗光は、伊藤博文の腹心ながら、坂本龍馬・海援隊以来の繋がりで土佐派が主流を占める自由党に強固な人脈を持ち、第一回帝国議会開催に際し薩長藩閥と政党勢力のパイプ役を期待されての初入閣だった。陸奥宗光は薩長閥打倒の宿志を胸に秘め、元海援隊士で妹婿の中島信行衆議院議長や紀州藩改革時の部下である星亨らと提携して円滑な議会運営に導き、山縣有朋首相と伊藤博文の期待に応えた。農商務相として陸奥宗光は原敬ら藩閥外官僚を盛立てている。次の第一次松方正義内閣で陸奥宗光は農商務相に留任したが薩摩閥の専横と大選挙干渉に抗議し辞任、政党勢力の総スカンで松方内閣が瓦解し、第二次内閣を組閣した伊藤博文は「カミソリ陸奥」を外相に採用し幕末以来の悲願である不平等条約改正を託した。
- 10年間のフランス留学で自由主義に染まった西園寺公望は、親分の岩倉具視に遠ざけられ、放蕩生活を送りつつ自由党機関紙『東洋自由新聞』の社長に就任、岩倉の妨害ですぐに辞任したが、板垣退助歓迎パーティに出席するなど自由党土佐派との交流は続いた。死を目前に後継者不在の岩倉具視は西園寺公望の懐柔策に転じ伊藤博文に政界復帰工作を懇請、伊藤は立憲制視察の外遊に西園寺を加え、民権派から体制派へ転向した西園寺は岩倉の後継資格を獲得、伊藤の腹心となり政友会総裁を継いで首相に上り詰めた。伊藤博文暗殺で山縣有朋・陸軍長州閥の権勢が高まり影響力を失った西園寺公望は政友会総裁を原敬に譲り政界を退いたが、山縣有朋・松方正義が没すると唯一存命の元老西園寺の存在感は高まり、牧野伸顕・木戸幸一(内相)・鈴木貫太郎(侍従長)ら天皇側近の重臣グループを束ね広田弘毅内閣まで10余年も首相指名の重責を担った。伊藤博文の国際協調・平和主義を継ぐ西園寺公望は軍部の抑止に努めたが、初暴走の張作霖爆殺事件から躓いた。昭和天皇の意を受けた西園寺公望は田中義一首相に事件究明を迫り辞任要求を突きつけるも突如撤回、犯罪の追認行為は一夕会幕僚や青年将校の増長を促し満州事変、五・一五事件、二・二六事件、盧溝橋事件と続く軍部暴走の着火点となった。茫然自失の牧野伸顕内相に「自分は臆病なり」と語ったことから陸軍の脅迫に屈したことが窺える。重臣グループが「君側の奸」と標的にされた五・一五事件の後、怯えた西園寺公望元老は静岡興津の「坐漁荘」に籠るも隠然たる影響力を保持し、内閣交代の度に新聞記者は「興津詣で」を繰返した。西園寺公望の興津院政を支えた住友財閥は貴族院議員原田熊雄を坐漁荘に派遣し近衛文麿・木戸幸一らとの連絡係を務めさせた。原田熊雄の『西園寺公と政局-原田熊雄日記』は昭和史の第一級資料である。西園寺公望は、二・二六事件後の首相指名を近衛文麿に断られ政界引退、第二次近衛内閣の日独伊三国同盟締結を座視し直後に「これで日本は滅びるだろう。これでお前たちは畳の上では死ねないことになったよ。その覚悟を今からしておけよ」と側近に語り死去した。
- 列強の対日政策のリーダーシップをとるイギリスは、アジアで南進政策を進めるロシアへの対抗勢力として日本を重視するようになり、明治政府の悲願である不平等条約改正のチャンスが訪れた。松方正義内閣の外相青木周蔵が大津事件で引責辞任した後を継いで、伊藤博文内閣の外相となった陸奥宗光(元海援隊士)が交渉にあたり、遂に領事裁判権・片務的最恵国待遇の撤廃を勝ち取り、日英通商航海条約に調印した。アメリカ・フランス・ロシアなど他の条約国とも同様の改正が行われ、1899年に同時施行された。不平等条約の改正(領事裁判権・片務的最恵国待遇の撤廃)は、伊藤博文内閣の快挙であったが、外相に陸奥宗光を起用したことも大きかった。陸奥は、坂本龍馬の海援隊で鳴らした猛者だが、維新後は薩長藩閥に恨みを抱き、西南戦争時の土佐派による政府転覆計画に連座して5年の実刑を食らった過去があった。政治家にとっては致命的な瑕疵であり、さらに政府要人暗殺リストに陸奥自身が伊藤の名を書き加えたことも発覚した。しかし、伊藤は、「カミソリ陸奥」といわれた奇才に期待をかけ、経歴に不信感を表す明治天皇を説得し、遂に陸奥宗光外相を実現させて条約改正を託した。条約改正は明治政府発足以来の悲願で、鹿鳴館外交に失敗して政治的権威を落とした井上馨、玄洋社社員の爆裂弾襲撃で右脚を失った大隈重信、大津事件で更迭された青木周蔵と、外交責任者にも不幸をもたらし続けた大難題であった。陸奥は、日清戦争とその講和交渉においても切れ味を発揮し、次代を担う大政治家となるべきところであったが、惜しくも1897年に病没した。
- 日清戦争開戦に備え伊藤博文首相・山縣有朋司法相・陸奥宗光外相・川上操六参謀本部次長・山本権兵衛海軍大臣官房主事による作戦会議が開かれた。「作戦の神様」と称された川上操六は陸軍は勝てると断言した。これに対して山本権兵衛は、兵員と軍事物資の輸送を担う海軍の重要性について理解を求め制海権の確保が大前提であると説明、山縣有朋から「海軍は勝てるか」と問われると、世界最大の軍艦「定遠」「鎮遠」を擁する清国軍には主力艦の規模と主砲の火力においては劣るが、艦艇の速力と兵員の練度において断然優位であり、従って勝てると断言した。かくして日清戦争の火蓋が切られたが、山本権兵衛の予言どおり、主力艦隊が激突した黄海開戦で日本海軍は圧勝し制海権を握った日本軍は作戦を計画どおり進め日清戦争に完勝した。
- 甲午農民戦争で朝鮮派兵を敢行した伊藤博文政府は、立憲制への移行が完了し軍備増強も進んだことから対清開戦を決意、大本営を広島に設置し、帝国議会は巨額の軍事予算を承認するなど挙国一致体制の構築に成功した。伊藤首相の腹心陸奥宗光外相と、参謀本部を仕切る川上操六が開戦路線を牽引した。朝鮮政府に対して清との宗属関係を断つよう求めたが、これが拒否されると日本軍は朝鮮王宮を占領、親日政権を樹立したうえで、朝鮮半島から清の勢力を一掃するため清政府に宣戦布告した。近代的軍備と兵士の練度に優る日本軍は緒戦から清軍を圧倒、山縣有朋の陸軍第1軍が平壌を陥落させ、伊東祐亨率いる連合艦隊が黄海海戦に勝利して制海権を握ると、陸相大山巌の陸軍第2軍が旅順攻略に成功、陸軍第2軍と連合艦隊が陸海から山東半島の威海衛を攻撃して清の北洋艦隊を壊滅させた。前線の将兵の活躍により日清戦争は日本軍の完勝で終結したが、作戦を担い必勝の布陣を準備した陸軍の川上操六と海軍の山本権兵衛の手腕は一層鮮やかであった。日清戦争における両国の戦力は、日本の陸軍総兵力約24万人・艦隊総排水量約5.9万トンに対して、清は陸軍総兵力約63万人・艦隊総排水量約8.5万トンであった。
- 山本権兵衛は最高の軍人だが、国際感覚に長けた優秀な政治家でもあった。日清戦争の最中、連戦連勝の勢いで広島の大本営を旅順へ進める案が有力となった。欧米列強の干渉を危惧する伊藤博文首相は反対だったが正面切って軍令に口出しできず、海軍を仕切る山本権兵衛に助勢を求めると、真意を汲んだ山本は天皇の名代として小松宮参謀総長を旅順へ送る妥協案を示し丸く収めた。伊藤博文は山本権兵衛の政治センスを評価し第三次伊藤内閣の海相に推薦、山本が辞退したため西郷従道が留任したが、同年の第二次山縣有朋内閣で山本海相が実現した。山本権兵衛海相は日露戦争前後8年の重要任務を完遂し、子飼の斎藤実・加藤友三郎に海軍を託した。政界へ転じた山本権兵衛は、伊藤博文から西園寺公望・原敬へ受継がれた政友会の支持を得て2度組閣したが、長期政権を期待されながらシーメンス事件・虎の門事件の不運に遭い通算1年半足らずの短命政権に終わり、軍部大臣現役武官制の緩和と関東大震災後の帝都復興(後藤新平の抜擢)くらいしか業績を残せなかった。シーメンス事件のせいで元老になれなかった山本権兵衛は、首相辞任後は政治・軍事に口出しせず潔い引際を示した。隠退後の山本権兵衛は愛妻家・子煩悩の好々爺で、囲碁・将棋・ゴルフなどの道楽はせず散歩を唯一の趣味とした。統帥権干犯問題で「艦隊派」に担がれた東郷平八郎元帥と対照的だが、海軍が対英米強硬へ傾くのを座視したことは不作為の失策だろう。また、山本権兵衛の「失礼のないように」との申送りで海軍軍令部総長(後に元帥)に担がれた伏見宮博恭王は第二次大戦終結まで海軍に君臨、国際協調派(良識派)の粛清から軍拡・日独伊三国同盟・対米開戦へ至る海軍暴走の旗頭となり、特攻作戦の封印を解く役割も演じた。
- 日清戦争で日本軍の勝利が確定すると、北洋軍閥の総帥にして清政府の最高実力者である李鴻章が全権として来日、下関春帆楼にて伊藤博文首相・陸奥宗光外相と講和交渉を行い下関条約を締結した。①清は朝鮮の独立を認める、②遼東半島・台湾・澎湖諸島の割譲、③賠償金2億両の支払い(当時の日本の国家予算の3倍以上)、④沙市・重慶・蘇州・杭州の開港、⑤日清通商航海条約の締結(日本側に有利な不平等条約)・・・下関条約は大いに満足すべき内容であったが、立憲改進党の大隈重信・加藤高明ら「対外硬派」は伊藤博文政府を軟弱外交と非難し山東省・江蘇省・福建省・広東省の割譲要求など国際常識からかけ離れた主張を展開した。巨額の賠償金の8割以上は軍事関係にあてられ日本軍の増強に大きく寄与、残りは金本位制(貨幣法)の財源となった。
- 中国東北部を狙うロシアは、同盟国フランスおよびロシアの関心をアジアに向けさせたいドイツと結び、日本が下関条約で得た遼東半島を清に返還するよう強要した(三国干渉)。伊藤博文政府では列国会議で反論すべしとの案が優勢だったが、列強の更なる干渉を恐れる陸奥宗光外相の主張により受諾に決した。この間も陸奥宗光は、ロシアの南進政策を警戒し局外中立の立場をとる英米に働きかけ局面打開を狙ったが、イギリスが傍観で望みを絶たれ「要するに兵力の後援なき外交はいかなる正理に根拠するも、その終極に至りて失敗を免れない」と現実的妥協を受入れた。日本では、大隈重信の立憲改進党など「対外硬派」の扇動で反露世論が沸騰、「臥薪嘗胆」で軍備拡張に邁進した。日清戦争を主導した陸奥宗光の『蹇々録』は第一級史料だが、国民が勝利に酔うなか冷静に警鐘を鳴らしている。いわく「日本人は、かつて欧米人が過小評価したよりは、文明を採用する能力あることを示したが、はたして、今戦勝の結果、過大評価されているほど進歩できるのだろうか。これは将来の問題に属する。・・・日本人は戦勝に酔って、進め進めという以外、耳に入らない。妥当中庸の説を唱うる人は、卑怯未練といわれるので黙っているほかはない。愛国心は別に悪いものではないが、愛国心の使い方をよく考えないと、国家の大計と相反することもある。・・・今や、わが国は、列国からの尊敬の的となると共に、嫉妬の対象ともなった。わが国の名誉が高くなると同時に、わが国の責任は重くなった。この両者の間をとって、歩み寄りさせるのは容易ではない。なぜならば、当時、わが国民の情熱は、しばしばすべての主観的判断に出て、少しも客観的判断を容れず、ただ国内事情を主として、外部の情勢を考えず、進むことを知って、止まることを知らない状況だった。・・・政府は、国民の敵愾心の旺盛なのに乗じて、一日も早く、一歩も遠く、戦局を進行させて、少しでもよけいに国民の気持ちを満足させた上で、国際情勢を考えて、日本に危険が迫れば、外交の上で、進路を一転する策を講ずるほかはないと考えた」。伊藤博文の国際協調路線を継ぐべき陸奥宗光は、惜しくも2年後に病没した。
- 伊藤博文政府は下関条約で獲得した台湾の植民地経営にあたり、軍隊を派遣して独立運動を制圧し台北に台湾総督府を設置した。台湾総督には樺山資紀(海軍大将)・桂太郎(陸軍中将)・乃木希典(陸軍中将)と軍人が相次いで就任し強硬な軍政が敷かれたが、ゲリラ的な抵抗運動は鎮まらず、日清戦争を上回る1万余の戦病死者を出し台湾統治は難航、特にマラリア感染による人的損耗が深刻で台湾人への権限委譲が急務となった。難局打開を図る日本政府は1896年台湾総督府条例で軍政から民政への方針転換を決定し、台湾総督府の開設業務を担当した児玉源太郎(陸軍中将)が自ら第4代総督に就任し内務省医系技官の後藤新平を民政局長に抜擢、民生向上と警察力強化のアメムチ政策を駆使し植民地経営を軌道に乗せることに成功した。ただ、1902年頃から都市部の抗日運動は沈静化したものの、山岳部を拠点とする高砂族は根強くゲリラ活動を続けた。後藤新平が政界へ転じ台湾を去った後も、児玉源太郎は死の直前まで8年以上も台湾総督を兼任し民政重視路線を承継し、土地調査事業による土地制度の近代化、電気・水道・交通インフラの整備、アヘンや樟脳の専売制実施、台湾銀行の設立、台湾製糖会社の設立、台北から高雄までの台湾縦貫鉄道の敷設などに膨大の資本を投入、清朝から「化外の民」と野蛮視された台湾は瞬く間に日本経済圏の一翼を担う近代国家へ大変貌を遂げた。なお、台湾統治の実績を買われた後藤新平は、日露戦争後に児玉源太郎・桂太郎の推挙で南満州鉄道会社(満鉄)の初代総裁に就任し、再び壮大な国家建設を推進し満州経営の礎を築いた。
- 第二次伊藤博文内閣の陸奥宗光外相が1894年の条約改正で領事裁判権および片務的最恵国待遇の撤廃を勝取り、また基本的な関税自主権は回復したものの、イギリスの綿織物や絹織物・ドイツの薬品・フランスの化粧品など英独仏の重要輸出品については片務的な協定関税が残されていた。日露戦争勝利で日本の国際的地位が向上すると、各国との通商航海条約が12年の満期を迎えるにあたり、桂太郎内閣の外相にして対外硬派急先鋒の小村寿太郎は完全に対等な新条約の締結を目指した。英仏の反対に遭った小村寿太郎は、条約改正に柔軟なアメリカの切崩しに切替え、1911年日米通商航海条約により関税自主権の完全回復を果した。同年中に桂太郎内閣は英独仏など他の条約国とも同様の新条約を締結、1854年以来の宿願であった不平等条約の完全撤廃が達成された。
- 加藤高明は、東大法学部を主席で卒業したが薩長藩閥政府を嫌気して官僚に進まず三菱に入社、すぐにイギリス遊学に出され5年後に帰国すると岩崎春治の婿に迎えられた。舅の「海運王」岩崎弥太郎が共同運輸会社との死闘の最中に憤死し、弟の岩崎弥之助が海運業から撤退し三菱社を立上げたばかりであった。薩長藩閥に敗れた岩崎弥之助は政官界への勢力扶植を図り、加藤高明は外遊中に知遇を得た陸奥宗光の勧めで外務省に出仕し大隈重信外相(三菱系)の秘書官となった。第二次伊藤博文内閣が陸奥宗光を外相に抜擢すると、加藤高明も駐英公使に抜擢され不平等条約改正と日清戦争に奔命、陸奥は病没したが第四次伊藤内閣に外相で初入閣した。日清戦争講和で加藤高明は「対外硬」の本領を現し、親分の伊藤博文・陸奥宗光を相手に山東省・江蘇省・福建省・広東省の割譲要求など国際常識からかけ離れた主張を展開している。日露開戦が迫ると加藤高明は桂太郎内閣を弱腰と非難し最強硬に開戦を主張、不戦論の伊藤博文とは対極の立場となったが巧みに立回って関係を維持し、講和交渉が始まると無茶な要求で妨害、新聞に煽られた民衆は暴徒化し日比谷焼打事件を起した。既に強大な三菱に加藤高明の助勢など不要だったが、日清・日露戦争は三菱ら財閥を大いに潤した。なお、桂太郎内閣発足に伴い外相を退いた加藤高明は、第7回総選挙は高知県・第8回は横浜市から出馬し1年余だが衆議院議員を務めている。三菱ファミリーの加藤高明は政治資金に飢えた政党連にモテモテだったが、公認を断った政友会には恨まれ大御所の板垣退助から公開絶縁状を叩きつけられた。横浜市で「金権選挙」と攻撃された加藤高明はまさかの落選、次点繰上げで議員ポストは得たものの世論と新聞の威力を痛感し、岩崎弥之助に頼んで東京日日新聞(毎日新聞)を買収し社長に就任した。英紙『タイムズ』を模倣するだけの新聞経営は大赤字で行詰ったが、加藤高明は外交問題の論説を受持ち対外硬政策を喧伝、ポーツマス会議が始まると「償金とサハリン割譲をロシアに認めさせろ、戦闘を再開しても要求を貫徹せよ」と煽り「軟弱外交は失敗だった」と決め付けた。
- 原敬は、初の本格的政党内閣を組閣した藩閥外出身で初の首相、終生受爵を固辞した「平民宰相」は国民的人気を博したが実態は長州閥政権であった。「賊軍」盛岡藩出身の原敬は、「白河以北一山百文」という薩長人の侮蔑に憤り「一山(逸山)」と号して士族籍を捨て、薩長に対抗すべく新聞記者になったというが、出世後の後付である。むしろ祖父が盛岡藩家老という毛並は戦前の首相で抜群であり、平民降下は次男の原敬が戸主となるための徴兵逃れ策だった。とはいえ生家が没落した原敬は苦学してフランス語を習得し、学資不要の司法省法学校に進むが「学生運動」で放校、中井弘(薩摩人だが長州系)の知遇を得て郵便報知新聞社に職を得た。明治十四年政変で下野した大隈重信が郵便報知を買収すると原敬は追出され、薩長閥の御用新聞『大東日報』の主筆に納まるも経営破綻、外務卿の井上馨に拾われ外務官僚となった。中井貞子(中井弘の実子で井上馨の養女)を妻に迎えた原敬は、翌年天津領事に大抜擢され、華のパリで3年間の外交官勤務、井上馨の外相辞任に殉じたが陸奥宗光農商務相に重用され、外相に転じた陸奥のもと条約改正と日清戦争に活躍した。陸奥宗光の急死・大隈重信の外相復帰で原敬は退官し大阪毎日新聞社に移ったが、伊藤博文の政友会に迎えられた。伊藤博文暗殺後、党運営を担った原敬は政友会を絶対多数党に発展させ、桂太郎との協力関係を築いて「桂園時代」を演出、西園寺公望から政友会総裁を継ぎ、陸海外相以外を政友会で占める政党内閣を組閣した。薩長藩閥と戦う平民宰相のイメージに民衆は酔ったが、そもそも長州閥の原敬首相は軍閥・大資本優先政策を採り「我田引水」と批判されるほど露骨な利権追求と対官僚妥協で党勢拡大に明け暮れ、山縣有朋とも手を結んだ。軍部懐柔のため国防充実を掲げた原敬内閣は安易な増税と公債発行で軍事予算を急拡大、当然ながらインフレが発生し小作争議や労働ストライキが頻発すると治安警察法で弾圧し、3閣僚が政商と株の不正売買を行った「大正のリクルート事件」は議会の絶対多数で握り潰した。民衆に失望された原敬は、何でもない鉄道員に東京駅で刺殺された(初の首相暗殺事件)。
- [戦前史の概観]西南戦争で西郷隆盛が戦死し渦中に木戸孝允が病死、富国強兵・殖産興業を推進した大久保利通の暗殺で「維新の三傑」が全滅すると、明治十四年政変で大隈重信一派が追放され薩長藩閥政府が出現した。首班の伊藤博文は板垣退助ら非薩長・民権派との融和を図り内閣制度・大日本帝国憲法・帝国議会を創設、外交では日清戦争に勝利しつつ国際協調を貫いたが、国防上不可避の日清・日露戦争を通じて軍部が強勢となり山縣有朋の陸軍長州閥が台頭、桂太郎・寺内正毅・田中義一政権は軍拡を推進し台湾・朝鮮に軍政を敷いた。とはいえ、伊藤博文・山縣有朋・井上馨・桂太郎(長州閥)・西郷従道・大山巌・黒田清隆・松方正義(薩摩閥)・西園寺公望(公家)の元老会議が調整機能を果し、伊藤の政友会や大隈重信系政党も有力だった。が、山縣有朋の死を境に陸軍中堅幕僚が蠢動、長州閥打倒で結束した永田鉄山・小畑敏四郎・東條英機ら「一夕会」が田中義一・宇垣一成から陸軍を乗取り「中国一激論」と「国家総動員体制」を推進、石原莞爾の満州事変で傀儡国家を樹立し、石原の不拡大論を退けた武藤章が日中戦争を主導、最後は対米強硬の田中新一が米中二正面作戦の愚を犯した。一方の海軍は、海軍創始者の山本権兵衛がシーメンス事件で退いた後、「統帥権干犯」を機に東郷平八郎元帥・伏見宮博恭王の二大長老を担いだ加藤寛治・末次信正ら反米軍拡派(艦隊派)が主流となり、国際協調を説く知米派の加藤友三郎・米内光政・山本五十六・井上成美らを退けた。「最後の元老」西園寺公望ら天皇側近は右傾化の抑止に努めたが、五・一五事件、二・二六事件と続く軍部のテロで(鈴木貫太郎を除き)腰砕けとなり、木戸孝一に至っては主戦派の東條英機を首相に指名した。党派対立に明け暮れ軍部とも結託した政党政治は、原敬暗殺、濱口雄幸襲撃を経て五・一五事件で命脈を絶たれ、大政翼賛会に吸収された。そして「亡国の宰相」近衛文麿が登場、軍部さえ逡巡するなかマスコミと世論に迎合して日中戦争を引起し、泥沼に嵌って国家総動員法・大政翼賛会で軍国主義化を完成、日独伊三国同盟・南部仏印進駐を断行し亡国の対米開戦へ引きずり込まれた。
陸奥宗光と同じ時代の人物
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戦前
伊藤 博文
1841年 〜 1909年
100点※
高杉晋作の功山寺挙兵を支えた長州維新の功労者、大久保利通没後の明治政界を主導し内閣制度発足・大日本帝国憲法制定・帝国議会開設・不平等条約改正・日清戦争勝利を成遂げ国際協調と民権運動との融和を進めた大政治家
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照 -
戦前
渋沢 栄一
1840年 〜 1931年
100点※
徳川慶喜の家臣から欧州遊学を経て大蔵省で井上馨の腹心となり、第一国立銀行を拠点に500以上の会社設立に関わり「日本資本主義の父」と称された官僚出身財界人の最高峰
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照 -
戦前
豊田 喜一郎
1894年 〜 1952年
100点※
豊田佐吉の長男で共に画期的な動力織機を発明するが、繊維産業の凋落を見越し紡績から自動車への事業転換を敢行したトヨタグループ創業者
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照