戦前は政友会幹部として迷走したが、「憲法改正・再軍備・自主外交」を掲げて吉田茂の従米政権を倒し重光葵外相と共に保守合同(55年体制)・日ソ国交回復・国際連合加盟を達成した党人派の親方
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照戦後
鳩山 一郎
1883年 〜 1959年
70点※
家系・子孫
- 美作勝山藩士の四男で東京育ちの鳩山和夫は、開成学校を卒業し明治政府の第1回留学生に選ばれ米国イェール大学で法学博士号を取得、外務省出仕を振出に東京帝国大学教授・東京専門学校(早稲田大学)校長・外務次官・東京弁護士会会長などを歴任し、政友会所属の衆議院議員となり衆議院議長まで務めた。鳩山和夫は教育活動にも尽くしたが、妻の春子も東京女子師範学校の英語教師で共立女子職業学校(共立女子大学)の創立者に名を連ねた教育者であった。鳩山春子は「教育ママ」「モンスターペアレント」のハシリで、第一高等学校に進学した長男の鳩山一郎を不衛生で蛮カラな寮に入れることを拒み、校長を相手に「鳩山家には鳩山家の家庭教育が御座いますから」と啖呵を切ったという。長女のカヅは、弟の鳩山一郎の盟友で政友会最後の総裁となった鈴木喜三郎の妻である。鳩山一郎は、右翼結社「玄洋社」の幹部で後に貴族院議員となる寺田栄の長女薫を妻に迎え、一男五女をもうけた。鳩山薫も共立女子大学学長のツワモノで、教育者一家に育った長男の鳩山威一郎は東大法学部を主席で卒業し大蔵省入省、ブリジストン創業者で鳩山一郎のパトロンである石橋正二郎の長女安子を妻に迎え、第二次戦後は参議院議員となり福田赳夫内閣に外相で入閣した。鳩山威一郎・安子夫妻の二児もやはり東大へ進み、ブリジストンの資金力を後ろ盾に衆議院議員に進出、鳩山一郎から東京の地盤を継いだ次男の鳩山邦夫は自民党政権で文相・労働省・法相・総務相を歴任し、弟に遅れ北海道から当選した鳩山由紀夫は民主党党首となり2009年の政権交代で首相に上り詰めた。
- 石橋徳次郎は、久留米藩の下級藩士龍頭民治の次男に生れたが秩禄処分で家産が傾き、叔父の緒方安平が営む「嶋屋」の奉公人となった。久留米藩御用の嶋屋は、小間物・仕立物の販売から醤油醸造・水産業・質屋・印刷業・中国貿易まで手を広げた豪商で明治維新後も羽振りが良かった。緒方安平の長女マツの婿となった石橋徳次郎は義母方の石橋家を継ぎ、暖簾分けで仕立物屋「志まや」を開業、重太郎・正二郎・新一の三児に恵まれた。次男の石橋正二郎は「祖父は町人だったが、養子の父は士族出。士族の町人というか、堅い一方で、いっこうにパッとせず、着物や襦袢を縫うちっぽけな仕立屋だった。父の仕立物屋は堅い一点ばりで、あまり繁昌せず、わたしが卒業するころ引退を決意してしまったのだ」と述懐している。さて石橋正二郎は、中学校を飛級で進み久留米商業学校を最年少で卒業、神戸高商(神戸大学)を目指したが父の引退で「志まや」を継ぎ、家督の石橋重太郎(2代目徳次郎)が陸軍に徴兵されたため17歳で家業を切盛りする身となった。久留米商業から神戸高商へ進んだ石井光次郎を石橋正二郎は「うらやましく思った」が親友関係は続き、四女の多摩子を石井の長男公一郎(母は久原房之助の長女)に嫁がせ、石井公一郎は岳父に拾われブリヂストンサイクルの社長となった。石橋正二郎には一男四女があり、長男の石橋幹一郎は東大法学部から海軍経理学校へ進み終戦後ブリジストンタイヤに入社(妻の朗子は團琢磨の孫娘)、43歳で社長を継ぎ米国ファイアストン買収などで世界的企業へ躍進させたが「資本と経営の分離」で同族経営を放棄し、引退後は長男の石橋寛が監査役に名を留めるのみとなった。石橋家は鳩山家の金主として有名である。政友会幹部の鳩山一郎は(戦後首相)長男鳩山威一郎の妻に石橋正二郎の長女安子を迎え、由紀夫・邦夫が誕生した。「ゴッドマザー」鳩山安子はポケットマネーで二人の選挙資金の面倒をみたといわれ、2008年リーマンショックに際し法相の鳩山邦夫は「ブリジストン株の値下りで鳩山由紀夫(翌年首相)と合わせ80億円も失った」と明かし、弟の失言癖に兄は「またか」と顔をしかめた。
- 濱口雄幸が生れた水口家は、土佐藩士ながら御山方という微禄の足軽身分で、明治維新後は高知県の山林官を務めた。裕福ではなかったが、雄幸の高知中学進学を考えると中流以上であったと思われる。なお「雄幸」という風変りな名前は、上二人が男児で女児誕生を希望した両親が準備していたためとも、酩酊状態で出生届を出した父の水口胤平が「幸雄」を逆に書いたためともいわれる。三男の雄幸は土佐安芸郡野田町の富豪濱口義立の一人娘夏子の婿養子となり、養家の学資援助により大阪・京都の第三高等学校を経て東大法学部へ進んだ。濱口雄幸・夏子夫妻は二男二女を生した。嫡子の濱口雄彦は実業界へ進み東京銀行頭取・国際電電 (KDD) 会長を歴任、二女の淑は美智子皇后の兄正田巌の夫人となった。雄幸二男の濱口巌根は長期信用銀行会長となり、二女の英子を鳩山一郎の女婿古沢義文に嫁がせた。民政党党首の濱口雄幸は宿敵政友会の鳩山一郎と凌ぎを削り、銃撃事件後に鳩山らの登壇要求に応じたことで寿命を縮めたが、因縁絡む両家は孫の代で縁組し和解したことになる。
鳩山一郎と同じ時代の人物
-
戦後
重光 葵
1887年 〜 1957年
100点※
戦前は日中提携・欧州戦争不関与を訴え続け外相として降伏文書に調印、アメリカ=吉田茂政権に反抗しA級戦犯にされたが鳩山一郎内閣で外相に復帰し自主外交路線を敷いた「ラストサムライ」
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戦後
岸 信介
1896年 〜 1987年
100点※
戦前は満州国の統制経済を牽引し東條英機内閣の商工大臣も務めた「革新官僚」、米国要人に食込みCIAから資金援助を得つつ日米安保条約の不平等是正に挑んだ智謀抜群の「昭和の妖怪」
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戦後
孫 正義
1957年 〜 年
100点※
在日商魂と米国式経営を融合し日本一の大富豪へ上り詰めた「ソフトバンク」創業者、M&Aと再投資を繰返す「時価総額経営」の天才はヤフー・アリババで巨利を博し日本テレコム・ボーダフォン・米国スプリントを次々買収し携帯キャリア世界3位に躍進
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