播磨小寺家重臣の嫡子に生れ、織田方の急先鋒として毛利攻めを牽引、本能寺事変後の中国大返しで豊臣秀吉を天下人に押上げるも智謀を警戒されて不遇に泣き、関ヶ原合戦中に漁夫の利を狙い九州北半を征するが東軍完勝で挫折、心優しき天才軍師にして福岡藩52万石の祖
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照戦国
黒田 官兵衛
1546年 〜 1604年
80点※
黒田官兵衛と関連人物のエピソード
- 豊臣秀吉は、尾張の下層民から滅私奉公と才覚で織田信長の重臣に躍進、弔い合戦で明智光秀を討ち、柴田勝家と信長の息子を滅ぼして天下統一を果たすも愛児秀頼が徳川家康に滅ぼされた戦国下克上の出世頭である。尾張の「あやしき民」から放浪生活を経て20歳前後で織田家の小者(下働き)となり、士分で裕福な浅野家から妻ねね(北政所)を迎え、真冬に信長の草履を懐中で温めた話や墨俣一夜城伝説が象徴する抜群の要領と自己アピールで台頭し30歳過ぎには高級将校に列した。但馬攻略を指揮し、浅井長政離反時の退却戦(金ヶ崎の退き口)で信長の窮地を救い、近江攻略の勲一等で浅井家遺領20数万石と長浜城を与えられ織田家屈指の将領となったが、古参の柴田勝家と丹羽長秀への気配りも忘れず一字ずつもらって羽柴秀吉を名乗った。上杉謙信との対決(手取川の戦い)で主将の柴田勝家と反目し戦線離脱の重罪を犯すが、馬鹿騒ぎ戦術で信長の逆鱗をかわし、1577年逆に中国・毛利攻めを任されると、毛利方に寝返った別所長治を兵糧攻めで討ち(三木の干殺し)、梟雄宇喜多直家を調略して4年で播磨・但馬・備前国を完全制圧、山陰に転戦して因幡鳥取城を兵糧攻めで落とし(鳥取の渇え殺し)、1582年備中高松城を水没させて毛利軍と対峙した。この間、軍師の竹中半兵衛を病気で喪ったが、播磨攻めで得た黒田官兵衛もまた逸材だった。信長の猜疑心を熟知する秀吉は、養子の秀勝(信長の四男)に近江経営を任せて赤心を示し、大量の土産物で機嫌をとり、備中攻めの果実を献上すべく信長に出馬を要請した。が、その途上滞在した京都で織田信長が落命(本能寺の変)、黒田官兵衛の激励で天下獲りに目覚めた豊臣秀吉は、毛利との講和を妥協して片付け、大急ぎで畿内へ進軍(中国大返し)、僅か11日後には明智光秀を討ち果し(天目山の戦い)、その14日後の清洲会議で柴田勝家の推す織田信孝(信長の三男)を退けて三法師(信長の嫡孫)を織田家当主に擁立、自身も旧明智領28万石を獲得し名実共に織田家の最高実力者に躍進し、織田家簒奪を睨み「人たらし」の才を駆使して人心掌握に励んだ。
- 1582年の本能寺の変の後、信長の仇を討ち三法師(信長の嫡孫)を織田家当主に据えて野心を顕にする豊臣秀吉と、織田家大事の織田信孝(信長の三男)・柴田勝家・滝川一益が鋭く対立したが、養子の羽柴秀勝(信長の四男)を喪主に信長の葬儀を主宰し有力者の丹羽長秀・池田恒興・堀秀政・蒲生氏郷に柴田与力の前田利家まで懐柔した秀吉が圧勝、柴田・信孝を攻め滅ぼして織田家を掌握した(賤ヶ岳の戦い)。豪壮な大坂城を築いて権威を誇示し、織田信雄・徳川家康の抵抗を退け(小牧・長久手の戦い)、1585年関白に就いて織田家簒奪を完成した。信長の果たせなかった天下統一戦に乗り出した豊臣秀吉は、長宗我部元親を降して四国を押さえ、母と妹を人質に送って強敵徳川家康を懐柔、惣無事令に逆らった島津義久を降して九州まで征すると、1590年矛先を東に転じて後北条氏を滅ぼし(小田原征伐)、伊達政宗ら東北諸大名も従えて全国統一を成遂げた。この間、兵糧・兵員確保と一揆抑制のため、刀狩令、海賊停止令、太閤検地、身分統制令、楽市楽座、関所撤廃といった領民統治政策を推進して中央集権的近代秩序を全国に及ぼし、宣教師を尖兵に植民地化を企むスペインとローマ教会の野望を阻むためキリシタン弾圧に舵を切った。豊臣家の天下成って太平の世が訪れると、仕事=戦争と出世の機会を失った武士階級の欲求不満は野心家の棟梁を外征へと駆り立てた。1591年豊臣秀吉は明侵攻(唐入り)を宣言、前線拠点の肥前に名護屋城を築き、明の属国李氏朝鮮に攻め込むと、世界最高の鉄砲装備を誇る日本軍は忽ち半島を席巻、首都漢城から平壌まで制圧し明の大軍も撃退するが、補給難のため釜山まで退き明と講和した(文禄の役)。間もなく側室淀殿が待望の男児秀頼を出産したが、豊臣秀吉は耄碌して別人となった。邪魔になった養子の関白秀次を眷属諸共斬殺し、確たる改善策もないままに再び朝鮮出兵を敢行(慶長の役)、石田三成ら文治派(淀殿派)と加藤清正・福島正則・黒田長政ら武断派(北政所派)の対立という豊臣家滅亡の火種を残したまま、秀頼の行く末のみを憂いつつ62年の生涯を閉じた。
- 淀殿(浅井茶々)は、浅井長政・市(織田信長の妹)の長女で母と義父柴田勝家を滅ぼした豊臣秀吉の側室となり嫡子秀頼を出産、太閤の遺命を振りかざして徳川家康に楯突き豊臣家を破滅へ導いた戦国時代の幕引き役、妹の初は京極高次の正室、江は徳川秀忠の正室で家光の生母である。浅井長政は信長に滅ぼされたが市と浅井三姉妹は秀吉に近江小谷城から救出され、本能寺事変後の清洲会議で勝家は市を妻にもらい母子は越前北の庄城へ移されたが翌年賤ヶ岳の戦いで勝家が滅亡、市は夫に殉じたが三姉妹は安土城・聚楽第で養われた。19歳の茶々は色魔秀吉の側室にされ、翌年嫡子鶴松を産んで山城淀城主となり(淀殿)北政所や松の丸殿(従姉)との女戦に勝利、鶴松は夭逝したが2年後に拾丸を出産した(豊臣秀頼)。不自然な懐妊で秀吉が別人の胤を植えた可能性が高いが、淀殿は乳母の大蔵卿局とその子大野治長を重用して家政を握り北政所派(武断派)と敵対する石田三成(文治派)に接近、関白豊臣秀次(秀吉の甥)は一族惨殺され弟の秀勝・秀保も相次ぐ不審死、養子の秀秋は小早川隆景の養子に出された。1598年秀吉が死去、徳川家康は武断派など豊臣恩顧大名を取込んで天下獲りに乗出し、1600年失脚した三成は毛利輝元を総大将に担いで家康に宣戦、秀頼が立てば勝機はあったが淀殿は傍観の態を装い統率を欠いた西軍は関ヶ原で完敗し豊臣家は65万石の一大名に没落した。秀吉の追善供養という家康の甘言に釣られた淀殿は寺社修築で財力を削がれ、秀頼の正室に秀忠の娘千姫を迎え二条城会見には応じたが現実を直視せず感情的に臣従を拒んだ。1614年方広寺鐘銘事件の罠に落ちた淀殿は関ヶ原浪人を掻集めて家康に宣戦、愚将大野治長が真田信繁(幸村)ら五人衆の献策を退けて籠城を選択し、砲撃に怯えた淀殿は余力十分ながら不利な講和を強行、大阪城は内堀まで埋められ裸城となった(大坂冬の陣)。翌年浪人退去か移封かを迫られた淀殿が断固拒絶し大坂夏の陣が勃発、大坂方は不利な野戦を強いられたが淀殿は秀頼の出馬を拒絶し幸村の起死回生策も瓦解、大阪城は落城し淀殿の助命嘆願も虚しく秀頼と共に自害に追込まれた。
- 竹中半兵衛重治は、僅かな手勢で美濃稲葉山城を強奪して主君斎藤龍興からの侮辱を雪ぎ、織田信長に転じて豊臣秀吉の与力となり浅井・朝倉攻めや毛利攻めに活躍、婦人の如き相貌に静かな勇気を秘めた天才軍師である。美濃岩手を所領する竹中重元の嫡子に生れ、父に従って道三亡き斎藤家の被官となったが、柔和な容貌から龍興主従の苛めに遭い、報復を決意した20歳の半兵衛は手勢14人で稲葉山城を急襲し占領してしまった。織田信長から美濃半国を条件に城の明渡しを誘われたが断って龍興に返還し、北近江の浅井長政に身を寄せた後、美濃岩手に戻り隠棲した。2年後の1566年、清洲同盟で東方を固めた織田信長が美濃に侵攻、竹中半兵衛は舅の安藤守就に従って信長に帰順し斎藤氏滅亡を傍観、1570年遁世欲を封印して豊臣秀吉の与力・軍師になると、長亭軒城を調略して美濃・近江の陸上封鎖を打破し、姉川合戦を戦った。徳川勢の奮闘で辛勝したものの信長包囲網が結成され、最前線の近江横山城に残された秀吉は苦境に置かれたが、軍師半兵衛の指揮で3年間浅井氏の反撃を凌ぎ、1573年武田信玄急死・信長包囲網瓦解と同時に一気に浅井・朝倉氏を討滅、殊勲者の秀吉は浅井遺領20数万石を与えられ長浜城に拠って織田家中屈指の将領に躍進した。1577年黒田官兵衛の要請を受けた織田信長が秀吉に軍団を預けて中国侵攻に着手すると、半兵衛・官兵衛「両兵衛」の軍略で秀吉軍団は播磨地方を席巻、別所長治の裏切りで山中鹿介の守る上月城を落とされ(上月城の戦い)、荒木村重謀反で使者に立った官兵衛が捕捉されたが、毛利方の備前国主宇喜多直家を寝返らせ、別所氏を三木城に追い詰めた。官兵衛反意を疑う信長は人質の嫡子黒田長政の殺害を厳命したが、竹中半兵衛は成敗覚悟で密かに長政を匿い、病身を押して東奔西走した後、三木城攻囲の陣中で力尽きた。中国大返しを差配して豊臣秀吉を天下人に押し上げた黒田官兵衛、関ヶ原合戦で小早川秀秋の寝返りを誘った黒田長政と比べると、裏方に徹した竹中半兵衛の業績は目立たず軍記者で和製張良に仕立てられたが、実像も誠実・智謀の名軍師であった。
- 石田三成は、豊臣秀吉の下で兵站・太閤検地・土木事業を担い、上杉・佐竹・島津・津軽等を圧伏して文治派筆頭官僚に躍進するが、朝鮮出兵と秀次事件で武断派に憎悪され秀吉没後すぐに失脚、己の復権のため関ヶ原合戦を起すが徳川家康の罠に嵌って惨敗した「才あって智ない」豊臣家崩壊の元凶である。近江の土豪の次男に生れ、織田信長の畿内侵攻で長浜城に入った豊臣秀吉に出仕、文吏的才幹と適度な剛直さを買われ弱冠18歳で奏者(取次役の秘書官)に抜擢され、本能寺事変後に秀吉が織田家を簒奪すると、軍師黒田官兵衛や千利休を遠ざけて政権運営の中核へ台頭、天下統一戦の兵站から太閤検地等の統治政策、堺・博多の商業都市管理、聚楽第・方広寺等の土木事業、本願寺の寺内成敗と西本願寺建設とフル回転し、外交面でも直江兼続と連携して上杉景勝を帰順へ導き、九州征伐では島津義弘を懐柔、小田原征伐後の宇都宮仕置・奥州仕置でも辣腕を振るい、諸大名に畏怖されて絶頂期を謳歌した。1592年全国統一成った豊臣秀吉が朝鮮出兵を開始(文禄の役)、総奉行に任じられ出征した石田三成は小西行長と共に面従腹背で講和を図り(文治派)、目障りな軍監の黒田官兵衛・浅野長政を追払い、秀吉の命令を墨守し勇敢に戦った加藤清正・福島正則・黒田長政らと対立(武断派)、指揮が乱れ兵站の利を失った日本軍は釜山撤退を余儀なくされた。その直後に豊臣秀頼が誕生し、秀吉が甥の関白秀次を一族諸共惨殺する事件が発生、秀次の遺領配分で、武断派が首謀者と信じた石田三成は近江佐和山19万4千石に代官地7万石を獲得し、三成の讒言で謹慎に処された加藤清正らの憎悪に油を注いだ。三成・行長は耄碌した秀吉を誤魔化して講和を図るが術策破れて再出兵(慶長の役)、後方支援を担う三成は秀吉が総大将小早川秀秋から取上げた筑前・筑後30万7千石を代官地に加えたが、1598年大阪城で豊臣秀吉が死去、五大老・五奉行の合議で朝鮮出兵は即時打切られ、虎の威を喪った三成は一転窮地に陥った。
- 朝鮮出兵から帰国した武断派諸将の報復を恐れる石田三成は、大阪城に入った前田利家を頼り、太閤遺命に背いた徳川家康を糾弾して豊臣家の再結束を図るが、三成憎しの豊臣恩顧大名が挙って家康へ奔るという極めて皮肉な結果を招いた。間もなく前田利家が死去すると、その翌日に加藤清正・福島正則・黒田長政・細川忠興・浅野幸長・池田輝政・加藤嘉明の7将が石田三成の大坂屋敷を襲撃、三成は伏見城の家康のもとへ逃れて窮地を凌ぐが五奉行辞任・佐和山城退去を呑まされた。そして1600年、己の復権を目論む石田三成は、盟友上杉景勝・直江兼続の会津挙兵を皮切りに打倒家康を宣言、大阪城の豊臣秀頼を確保して毛利輝元を西軍総大将に迎え、鳥居元忠の守る伏見城を血祭りにあげ、美濃大垣城に拠って会津征伐から戻る東軍を待構えたが、野戦上手の家康にまんまと関ヶ原へ誘い出され、有利な兵数と布陣ながら本気で戦ったのは三成自身と盟友の大谷吉継・小西行長に外様の宇喜多秀家のみで、吉川広家に抑えられた毛利勢の不戦と小早川秀秋の寝返りで西軍は壊滅、捕えられた石田三成は小西行長・安国寺恵瓊と共に京都六条河原で斬刑に処された。関ヶ原合戦後、偽りの領国安堵に釣られた毛利輝元が大阪城を明渡して勝負あり、一気に豊臣から徳川への政権交代が成り、宇喜多秀家の改易、毛利輝元・上杉景勝・佐竹義宣の大減封など国土の3分の1もの大名再編が平穏裏に実施され、豊臣秀頼・淀殿は難攻不落の大阪城に西軍浪人を掻き集めて抵抗するも大名で味方する者は無く1615年大坂陣で滅ぼされた。創業者の耄碌とお家騒動、不徳の後継者と仲間割れ、世間知らずの後家さんと無能な取巻きがもたらした自滅劇であった。
- 加藤清正は、又従兄弟の豊臣秀吉のもとで大名に出世し朝鮮出兵で武名を上げた猪武者、石田三成憎しで徳川家康に与し関が原合戦後に肥後熊本藩54万石の太守となるも豊臣家滅亡を招いて茫然慨嘆、後嗣忠広が改易され加藤家も断絶した。秀吉と同じ尾張中村の百姓の出で12歳のとき召抱えられ、早く譜代家臣を増やしたい秀吉に「賤ヶ岳の七本槍」と持上げられたが国内戦で目立つ軍功は無かった。織田信長討死で天下を奪った秀吉は加藤清正・福島正則・石田三成・小西行長ら子飼い武将を大名に引上げ、1587年肥後国人一揆平定後に肥後の北半分(熊本城25万石)を清正・南半分(宇土城24万石万石)を行長に分け与えた。1592年天下統一を果した豊臣秀吉が朝鮮出兵を開始(慶長の役)、二番隊を率いた加藤清正は一番隊の小西行長と先を競って進軍し、日本軍が首都漢城・平壌を制圧しても宣祖王を追撃し満州国境で臨海君・順和君の二王子を捕縛した。が、秀吉に面従腹背で講和を進める三成・行長ら文治派と清正・正則・黒田長政ら武断派の対立が深刻化、清正は讒言で内地へ召還され謹慎に処された。1596年三成・行長のゴマカシが破れて秀吉は朝鮮出兵を再開(慶長の役)、慶長伏見地震で秀吉救済に駆けつけた「地震加藤」は赦されて朝鮮へ出陣し蔚山城の戦いで生涯の晴れ舞台を飾った。1598年秀吉死去で朝鮮出兵は終了、報復に燃える加藤清正ら武断派諸将は老獪な徳川家康に取込まれ、前田利家逝去の翌日三成の大坂屋敷を襲撃、仲裁した家康は三成の奉行職を解き佐和山城へ押込めた。1600年失地回復を期す三成の策動で関ヶ原の戦いが勃発、熊本に居た加藤清正は行長不在の宇土城・八代城を攻落とし戦後に肥後一国54万石へ加増されたが、1603年家康は徳川幕府を開き豊臣秀頼を圧迫した。「はねだし」の石垣で熊本城を築いた加藤清正は築城名人と賞され、名護屋城・江戸城などの普請で徳川家への忠勤に励み、総金箔張りの江戸屋敷や歌舞伎興行で警戒解除に努めた。1611年淀殿を説伏せて秀頼と家康の二条城会見を実現させたが後の祭り、3ヶ月後に加藤清正は病没し、4年後に豊臣家は滅ぼされ、加藤家も後嗣忠広の代で滅亡した。
- 小早川秀秋は、ねねの甥で豊臣秀吉の養子となるが秀頼誕生で五大老小早川隆景に入嗣、関ヶ原合戦の寝返りで徳川家康に勝利を献上し備前岡山藩55万石に栄転するも僅か2年後に21歳で発狂死し無嗣改易となった精神薄弱児である。関白秀次・秀勝・秀保兄弟(秀吉の姉日秀の子)・秀秋に続き秀頼も大坂陣で滅ぼされ豊臣大名は消失した。ねねの兄木下家定の五男に生れた秀秋は、3歳で秀吉の養子となり7歳で丹波亀山城10万石を与えられ豊臣を名乗ったが、1593年秀頼誕生の翌年15歳で小早川家に出され、翌年秀吉が豊臣秀次一家を惨殺し秀保急逝で大和豊臣家も断絶、秀秋は秀次遺領の筑前名島30万7千石を与えられたが粛清を恐れる身となった。慶長の役では総大将に任じられたが、小早川隆景が亡くなると蔚山城合戦の失策を理由に越前北ノ庄15万石へ減転封、筑前・筑後領は太閤蔵入地とされ実質的に代官の石田三成に奪われた。1598年秀吉が没すると三成を憎む武断派の決起で豊臣家は割れ、小早川秀秋は筑前名島の旧領回復で恩を受けた徳川家康に接近、1600年三成が挙兵すると西軍に引込まれ伏見城攻撃に従うが、同じく高台院(ねね)を母と仰ぐ加藤清正(秀吉の又従兄弟)・福島正則(同従弟)の東軍加盟に逡巡し重臣の稲葉正成・平岡頼勝に押され黒田長政(家康の娘婿)に寝返りを承諾した。美濃大垣城から打って出た西軍が関ヶ原で東軍と激突、小早川秀秋は南西の松尾山に陣取り日和見していたが家康の威嚇射撃で尻に火がつき大谷吉継を急襲(先鋒を命じた松野重元は不義を憤り戦線離脱)、脇坂安治・朽木元綱・小川祐忠・赤座直保の寝返りを誘発して大谷隊を撃滅し吉継は秀秋に「人面獣心なり、三年の間に祟りをなさん」と叫んで自害、南宮山の毛利勢は吉川広家の寝返りで参戦せず、家康は本隊投入で総攻撃を掛け宇喜多秀家・石田三成を破り西軍は潰走した。立役者の小早川秀秋は宇喜多領を承継し備前岡山藩55万石へ増転封となったが祟りに怯えて狂人となり杉原重政を誅殺し稲葉正成(妻の春日局が徳川家光の乳母となり譜代大名稲葉家と堀田家の祖となる)・平岡頼勝は出奔、間もなく突然死し小早川家は断絶した。
- 織田信長は、中世的慣習を徹底破壊して合理化革命を起し新兵器鉄砲を駆使して並居る強豪を打倒した戦国争覇の主人公ながら、天下統一を目前に明智光秀謀反で落命し家臣の豊臣秀吉・徳川家康に手柄を奪われた悲劇の英雄である。一代で尾張を掌握した織田信秀の死後嫡子として家督を継ぐも規格外の不良児に家臣は承服せず、尾張は内戦に陥るが、弟信行を殺して家督争いを封じ、主筋の尾張守護代織田家と守護斯波氏を滅ぼし10年を費やした尾張平定戦を完了した。翌1560年今川家の大軍が尾張に侵攻するが織田信長は奇襲で駿河守護今川義元を討取る鮮烈デビュー(桶狭間の戦い)、今川家から離脱した三河の徳川家康と同盟して東方を固め、斎藤龍興の稲葉山城を攻略して美濃国を併呑、岐阜城へ本拠を移し天下布武の大志を掲げた。翌1568年六角義賢と三好三人衆を一蹴して大挙上洛し足利義昭を15代室町将軍に擁立、畿内の反抗勢力を掃討し、北畠具教を攻めて伊勢国を奪取した。1570年越前侵攻を開始、妹婿浅井長政の離反で挟撃の窮地に立つも(金ヶ崎の退き口)、すぐに立て直し徳川家康軍の活躍で浅井・朝倉連合軍を撃破(姉川の戦い)、しかし浅井・朝倉は比叡山延暦寺・本願寺顕如・武田信玄等と提携し信長包囲網を形成、顕如挙兵で石山合戦が勃発し領国各地で一向一揆が台頭、一転窮地に陥った織田信長は勅命の和睦で凌いだ。1572年全力で機嫌をとり破局を避けてきた武田信玄が信長討伐の上洛軍を挙兵、三方ヶ原の戦いで徳川家康軍が一蹴され最大の危機を迎えたが、大幸運にも武田信玄急死で武田軍が撤退、呼応して挙兵した足利義昭を追放し(室町幕府滅亡)、間髪入れず朝倉義景・浅井長政を攻め滅ぼして近江・越前を征服した。1575年長篠の戦いで武田勝頼を撃破、伊勢長島・越前の一向一揆も平定し、上杉謙信急死で第二次信長包囲網も瓦解、毛利水軍の補給を絶って本願寺顕如を降伏させ、1582年甲州征伐でトラウマの武田家を滅亡させた。織田軍団を再編し安土城を拠点に天下統一の仕上げに掛かった矢先、毛利攻め途上に滞在した京都本能寺で明智光秀に襲われ非業の死を遂げた。
- 織田信長には毀誉褒貶があるが、100有余年続いた戦国時代を制覇し中央集権国家の礎を打ち立てた事実は揺ぎ無い。武力では、先ず鉄砲と兵農分離だろう。鉄砲の国産体制を整備して大量に備蓄し、貿易都市堺を支配下において当時国内では産出しなかった煙硝の供給ルートを確保、装填に手間の掛かる元込銃の弱点を「三段撃ち」で克服し(紀州雑賀衆に倣った説あり)、長篠の戦いで戦国最強の武田軍団を撃破した。織田信長の台頭により鉄砲伝来から半世紀後には日本は世界最高の鉄砲装備を誇る最強の陸軍力を持つに至り、明侵攻(朝鮮出兵)は統帥の乱れと補給難で失敗したが戦闘では無敵だった。とはいえ、都会育ちの上方・尾張の兵は甲州兵の10分の1といわれるほど弱く、信長軍も然りで、姉川合戦では本陣手前まで崩されたのを徳川家康軍の奮闘で勝を拾い、三方ヶ原合戦では早々に敗退して完敗の元凶となった。弱卒のハンデを抱える織田信長は、武器と外交に活路を求め、鉄砲の前には集団戦に有利な長槍を導入する一方、上洛後も武田信玄と上杉謙信の機嫌をとって全力で対決回避に努めた。さて、当時も武士は「一所懸命」の土豪の集団で、戦争や集中訓練は農閑期に限られ、領地転換や長期遠征は困難であり、最強を誇る武田・上杉もこの制約に縛られたが、唯一織田信長は兵農分離の確立により束縛を脱した。職業軍人集団=傭兵感覚故に門閥無視・能力本位の人材活用も可能となり、譜代の柴田勝家・丹羽長秀らと新参の明智光秀・豊臣秀吉・滝川一益らを相競わせ、自在の配置転換と物量作戦で多方面作戦を成功させた。織田軍団の屋台骨は膨大な戦費を支えた経済力だが、信長は経済政策でも開明的であった。寺社や土豪の収入源というだけの関所や諸権益を撤廃(楽市楽座)して自由貿易と統一的気分を盛上げ、松永久秀のキリスト教宣教師追放令も撤廃し堺商人を通じて海外貿易で大きな利を占めた。一方で特権剥奪に抵抗する勢力には徹底弾圧で臨み、タブーを侵して比叡山・高野山・石山本願寺・一向一揆を討滅、有史以来武力・政治力を恣にしてきた宗教勢力を退治し人民を心の楔から解放した。
- 天才の裏返しか、織田信長は躁鬱のうえに猜疑心が強く、当時常識外の悪逆非道を行って魔王と恐れられ、最後は家臣の裏切りで殺された。幼少期から変わり者だったようで、乳母の乳首を噛み切ったとか女装趣味伝説まであり、長じるとドラマでお馴染みの異装で奇行を繰返し、傅役平手政秀の諌死にも改めず、うつけの他に「たわけ(戯け)」と陰口されたのは実妹の市を犯したためとする説もある。とはいえ家督を継いで10余年尾張平定までは辛抱強く家臣の人心掌握に努め、弟の信行に与して叛逆した柴田勝家・林秀貞らを赦し、岳父斎藤道三が義龍に攻められた際には律儀に救援に駆けつけた。再度謀反を企てた信行を殺し、尾張織田家を滅ぼしたことは戦国の世の習い、身分低く有能な者には夢のような名君であった。ところが、浅井長政離反で猜疑心が鎌首をもたげ、討取った長政の頭蓋骨に金箔を施して御肴に供した。最も織田信長の評価を落とした比叡山焼き討ちや一向一揆の殺戮は、宗教を笠に着て武力抵抗を続けた門徒側の自業自得なのだが、迷信が根強い当時においては神をも恐れぬ所業であった。室町幕府滅亡も、大恩を忘れて信長打倒の謀略に励んだ足利義昭の自業自得だが、大義名分や権威主義を重視する世論は主君追放の大逆と見做した。武田信玄急死という桶狭間合戦以来の大幸運で信長包囲網の窮地を脱した織田信長は、自らを神格視するほどに増長し、平気で講和の約束を破り家臣に無理難題を押し付ける暴君となった。徳川家康の正室築山殿の武田家への内通が露見すると無実の嫡子徳川信康まで自害させ、丹波攻略では城主助命の約を違えて人質の明智光秀叔母を捨て殺しにし、最古参の佐久間信盛・林秀貞らを大昔の罪状を突きつけて突然追放、信長の留守中に物見遊山に出掛けた女中数名を斬り殺したかと思えば、突然各地の軍団を京都に呼び上機嫌で大軍事パレードを挙行するなど、手に負えない有様となった。松永久秀と荒木村重の相次いぐ謀反は抑えたが、家臣達のストレスは頂点に達していただろう、無防備で京都本能寺に入ったところを突如明智光秀に襲われ落命した。
- 明智光秀は、足利義昭の将軍擁立や対朝廷工作、丹波攻略に働いて織田家軍団長に出世したが、本能寺の変で織田信長を弑逆、山崎の戦いで豊臣秀吉に敗れて「三日天下」を失った謀反人の代名詞である。美濃守護土岐氏の庶流で東美濃の大豪族明智氏の嫡子に生れたが、斎藤道三の外戚明智氏は斎藤義龍謀反で共に滅亡(長良川の戦い)、28歳の光秀は逃亡し、諸国流浪の末に越前朝倉義景に仕官、足利義昭に勧めて織田信長との間を取り持ち、義昭と信長に両属の形で活躍を始めた。信長の正室帰蝶は光秀の従妹であり、織田家接近の有力な手蔓になったと考えられる。一流の文化人細川藤孝を従えて儀礼や文芸に精通する明智光秀は、京都政界の外交折衝で頭角を現し、1570年朝廷を動かして信長包囲網(第一次)を和睦に導いた功で近江坂本10万石を与えられ44歳で一城の主となった。恩人信長の追落しに励む義昭を見限って織田家専属となり、1573年室町幕府滅亡、軍団を託されて丹波攻略を開始すると、石山合戦や松永久秀・荒木村重の謀反討伐に駆出されつつも、丹波亀山城を攻略して前線拠点を確保し、1579年波多野秀治・赤井直正を討破って丹波を平定(人質に差し出した叔母を光秀が捨殺しにしたという説があるが信憑性は低い)、近江坂本に加えて丹波を賜り(合計25万石または60万石)、織田家5軍団長の一人となった。そして1582年、「ときは今あめが下しる五月かな」と詠んだ光秀は、秀吉の出馬要請に応じて寡勢で京都に入った信長を急襲し殺害(本能寺の変)、畿内を軍政下に置いたが、縁戚の細川藤孝・忠興をはじめ筒井順慶(洞ヶ峠)・中川清秀・高山右近ら与力衆に悉く見放され、神速の中国大返しで駆けつけた豊臣秀吉に洛外天王山で決戦を挑むも惨敗(山崎の戦い)、逃亡した光秀は伏見小栗栖で土民の落ち武者狩りに討たれ、本拠地の近江坂本城も落ちて明智氏は滅亡した。光秀謀反の原因には、怨恨説・野望説・恐怖心説・発作説から、黒幕説には朝廷・長曽我部元親・イエズス会・徳川家康や秀吉まで様々あるが、歴史上の効果は天下統一目前の信長を討って秀吉・家康に道を開いた一点に尽きる。
- 柴田勝家は、織田信長の畿内制圧で台頭し北陸方面軍を託されたが、明智光秀討伐の先を越された豊臣秀吉に主導権を奪われ賤ヶ岳の戦いで滅ぼされた織田家筆頭重臣である。尾張の土豪に生れ、織田信秀に出仕して重鎮となり、嫡子信長の家督相続に次男信行を擁して反抗したが、稲生の戦いに敗れて剃髪謝罪し、信長に帰順して信行暗殺に加担した。上洛戦から重用され、南近江長光寺城の籠城戦では六角義賢を撃退して「瓶割り柴田」の渾名を授かり、各地を転戦して信長包囲網を凌ぎ切った。1573年武田信玄の急死で視界が開けた織田信長は、浅井・朝倉氏を屠り、長篠の戦いで武田氏を殲滅したが、1575年越前で朝倉遺臣の反乱に続き一向一揆が蜂起、総動員で一揆を鎮圧した信長は柴田勝家に越前8郡49万石と北ノ庄城を与えて主将に据えて北陸軍団を編成、加賀一向一揆・越後上杉謙信と対峙する構えをとった。この間、足利義昭の将軍擁立や本願寺顕如との和睦に働いた明智光秀、浅井・朝倉攻めの殊勲者豊臣秀吉、伊勢攻略と長島一向一揆平定の滝川一益ら、素性不詳の門外漢が台頭し、勝家・丹羽長秀ら譜代家臣との軋轢が深まった。甲斐征伐を終えた信長は上杉謙信との対決を決意、1577年柴田勝家の大軍を派遣するも加賀南部手取川で迎撃され惨敗、しかし翌年謙信が急死し後継争いで上杉家は弱体化(御館の乱)、秀吉の中国攻めと光秀の丹波攻略を横目に見つつ柴田勝家は攻勢を強め、1580年本願寺顕如の降服で加賀一向一揆が解体されると一気に加賀・能登を制圧、上杉景勝領の越中に殺到した。そして1582年、魚津城を騙し討ちで落とした直後に本能寺事変が勃発、激怒する上杉勢の抵抗に遭った勝家軍は身動きがとれず、神速の中国大返しで駆け戻った秀吉が信長の仇討を果した。直後の清洲会議で秀吉は織田家当主に三法師を擁立し丹波・山城・河内の光秀旧領を獲得、焦る勝家は滝川一益・織田信孝と結び長宗我部元親・紀伊雑賀衆も動かして反抗したが、頼みの丹羽長秀・前田利家に養子の柴田勝豊まで篭絡され、佐久間盛政の軍令違反で大敗、北ノ庄城まで攻め込まれ討ち滅ぼされた(賤ヶ岳の戦い)。
- 前田利家は、織田信長の寵童から「槍の又左」へ成長し、下僕殺害で3年干されるが武功を重ねて能登国主に出世、賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を裏切り、親友豊臣秀吉の引立てで加賀・越中・能登三国の太守となり徳川家康の対抗馬に担がれた最も幸運な戦国武将である。武将としての実績は乏しいが、篤実な性格で敵からも信頼され、非情の決断と老獪な政界遊泳で大封の主に上り詰めた。尾張荒子2千貫の土豪の四男に生れ、14歳のとき家督相続間もない織田信長に小姓として出仕し、武芸を練磨して合戦毎に首級を重ねた。幸運の主豊臣秀吉は清洲・安土の侍長屋以来の親友である。1559年浮野の戦いで主君信長は尾張平定を完了し、利家は母衣衆(親衛隊)に抜擢され妻まつ(芳春院)も迎えたが、信長を真似た「かぶきもの」が嵩じて同朋衆拾阿弥を斬殺し放逐された。桶狭間合戦で一番首、森部の戦いで首二つを挙げて勘気赦免されると、信長の命令で兄利久(前田慶次郎の養父)を廃して前田家当主に納まり、石山合戦で単騎敵を防ぎ「日本無双の槍」と激賞され織田家大名衆に連なった。1575年長篠合戦で鉄砲隊を率いて奮戦し、佐々成政・不破光治との相持ちで越前に10万石を与えられて柴田勝家の与力に参陣、1580年本願寺顕如の降伏で90年間加賀を支配した一向一揆も解体すると、柴田軍団は加賀・能登を制圧、前田利家は能登23万石を与えられ小丸山城に拠って上杉謙信勢と対峙した。そして1582年本能寺の変で信長が討死、44歳の前田利家は自ら槍を奮って能登国人の反乱を鎮圧し、翌年賤ヶ岳合戦が勃発すると柴田方で出陣するも突如戦線離脱、秀吉方に転じて北ノ庄攻めの先鋒を務め能登に加賀二郡を加増されて尾山(金沢)城へ移り、1585年佐々成政の反乱を撃退して(末森城の後巻)越中を加封され三国の太守となった。天下統一を急ぐ豊臣秀吉が人質攻勢で徳川家康を懐柔すると、前田利家は家康牽制の対抗馬に担がれ、秀吉の遺言により五大老筆頭・秀頼後見として大阪城に入ったが、家康との一触即発の騒乱を鎮めた直後に死去、翌日石田三成が加藤清正・福島正則らに襲撃され早くも豊臣政権崩壊の兆しが現れた。
- 蒲生氏郷は、近江日野城主の嫡子で、六角氏滅亡に伴い織田信長に仕えて娘婿となり本能寺事変後は豊臣秀吉に臣従、武功を重ねて会津92万石に抜擢され伊達政宗の妨害を排して奥州仕置を完遂、徳川家康の抑え役を期待され本人は天下も夢見たが惜しくも40歳で病没した文武両道の大器である。「銀鯰尾兜」を着けて常に兵卒の先頭に立ち、松阪・会津に商業都市を築いた経済通、家臣には軍規厳正ながら気前良く、利休七哲筆頭の一流文化人、父祖譲りの義理堅さも備えた万能の武将であり、存命ならポスト秀吉政局を左右したに違いない。1568年織田信長の上洛軍を扼した六角義賢が滅ぼされ(観音寺城の戦い)、六角家中で唯一抗戦した蒲生賢秀は13歳の嫡子氏郷を人質に出して降伏した。翌年の伊勢侵攻で初陣した氏郷が介添役無しで首級を挙げる活躍を示すと、信長は烏帽子親となって氏郷を元服させ娘の冬姫を妻に与えて日野城への帰還を許した。蒲生氏郷は、姉川、長島、長篠、有岡城、伊賀攻めと順調に戦歴を積んで織田一門のホープとなったが、1582年本能寺の変が勃発、安土城から日野城へ信長の妻妾を護送して明智光秀と対峙し、山崎合戦で仇討を果した豊臣秀吉に帰服した。賤ヶ岳合戦では羽柴秀長旗下で伊勢攻めの先鋒を務め、木造具正ら織田信雄方伊勢国人を掃討、小牧合戦では秀吉退却の殿を務め、1584年伊勢松ヶ崎12万石へ加転封され松阪城に移った。その後も蒲生氏郷は秀吉に従って各地を転戦、九州征伐の岩石城攻略で武名を轟かせ、1590年小田原征伐後の奥州仕置で会津42万石に躍進、天下への夢絶たれたと嘆きつつも、間もなく大崎・葛西一揆が起ると伊達政宗の妨害を排して木村吉清・清久父子を救出し、九戸政実の乱も忽ち討平して92万石に大加増された。朝鮮出兵が始まると秀吉の供をして肥前名護屋に入ったが病に倒れ、「限りあれば 吹かねど花は 散るものを こころ短き 春の山風」の見事な辞世を遺して陣没した。嫡子の蒲生秀行は、一旦会津領の相続を許されるも力量不足で上杉景勝と交代、関ヶ原合戦後に会津藩主に復帰したが、重臣の抗争が絶えず、次男の代で蒲生家は無嗣断絶となった。
- 徳川家康は、旧主今川義元を討った織田信長と同盟して覇業の一翼を担い、豊臣秀吉没後秀頼を滅ぼして天下を奪取、信長の実力主義・中央独裁を捨て世襲身分制で群雄割拠を凍結し265年も時間を止めた徳川幕府の創設者である。西三河を征した祖父松平清康の急死で父広忠は今川氏に臣従、6歳で人質に送られるも家臣の裏切りで織田信秀に売られ、人質交換で命拾いして今川家に移された。属国松平家は虐待され合戦ごと最前線の危地に送られたが、この忍苦で培われた三河武士の忠誠心と団結力、戦争経験は躍進の原動力となった。今川一族の娘(築山殿)を妻に迎え、11年の人質生活を終えて岡崎に帰還、初陣で三河の織田方諸豪を掃討するが領地返還は叶わなかった。1560年、武田・今川と同盟し背後を固めた今川義元が4万の上洛軍を起して尾張に侵攻、家康は「大高城の兵糧入れ」で武名を上げたが、織田信長の奇襲により義元討死(桶狭間の戦い)、「捨て城を拾って」岡崎城に入り悲願の独立を達成、三河の織田勢を一掃するが、凡愚な今川氏真を見限って信長と同盟、今川攻めに転じた。1564年、家臣の多くが叛逆し生命を脅かさた三河一向一揆を辛くも鎮圧し、吉田城攻略で三河一国を完全制圧、賀茂姓松平から通りの良い源姓徳川に改め、武田信玄と今川領の東西分割を約して遠江へ侵攻、掛川城を落として今川氏を滅ぼし(氏真は保護)、浜松城に移って駿河を征した信玄と対峙した。1570年織田信長に駆出されて浅井・朝倉攻めに遠征、劣勢の織田軍を救って姉川合戦を勝利に導いた。1572年、上杉氏・後北条氏との和睦で後方の安全を確保した武田信玄が上洛挙兵、三河は通過して織田信長との決戦に臨む腹であったが、若い徳川家康は武士の面目を賭けて挑戦、大敗を喫して浜松城に逃げ帰るが幸運にも追撃は無く九死に一生を得た(三方ヶ原の戦い)。しかし武田信玄急死で信長包囲網は瓦解、信長に従って浅井・朝倉征伐に奮戦し、1575年武田勝頼が三河に侵攻すると信長を強迫出陣させて長篠の戦いで撃退、築山殿謀反・嫡子信康切腹の悲劇を乗越え、1582年甲州征伐の先陣を切って武田家を討滅した。
- 徳川家康は少数の従者と堺見物中に本能寺の変に遭遇、切腹も覚悟したが、服部半蔵の手引きで伊賀越えし生還、途中別れた穴山信君は落ち武者狩りに殺された。混乱に乗じた北条氏政が滝川一益を追い払って上野を押え織田領に殺到、上杉景勝も牙を剥き三つ巴戦となったが(天正壬午の乱)、和睦成って甲斐・信濃を制圧した徳川家康は三河・遠江・駿河と合わせて五ヶ国の太守となり、豊臣秀吉に対峙した。清洲会議、賤ヶ岳合戦は静観したが、1584年織田信雄に加担し挙兵、池田恒興・森長可の奇襲軍を殲滅し優位に立つも、愚かな信雄が無断で単独講和、名目を失って停戦に応じた(小牧・長久手の戦い)。天下統一を急ぐ秀吉は宥和路線に切替え、母と妹を人質に送られた家康は遂に膝を折り、以後は織田信長同様に律儀に仕えた。1590年、九州征伐を終え西日本を平定した秀吉は小田原征伐を開始、北条氏に近い家康は早期降伏を促すが氏政・氏直(娘婿)父子は拒絶、結局降伏開城するも滅ぼされた。秀吉は強敵家康から駿遠三甲信の5カ国150万石を召上げ、北条氏旧領の関八州250万石へ移封、東海道筋に子飼い大名を連ね会津に蒲生氏郷を配して封込策に出たが、家康は黙って従い江戸の都市開発に励んだ。朝鮮出兵を無傷で過ごし、1598年豊臣秀吉が死去、抑え役前田利家も翌年亡くなると、健康オタク徳川家康の独壇場となった。豊臣家の内部分裂に乗じて加藤清正・福島正則・黒田長政ら反石田三成・淀殿派の首領に納まり、勝手な婚姻政策で結束を固めると、1600年会津征伐の罠に掛かった石田三成が挙兵、小早川秀秋・吉川広家の寝返りを誘って関ヶ原合戦に勝利すると、1603年徳川幕府開設、2年後秀忠に将軍を譲り徳川氏世襲を世に示した。西軍諸将には大鉈を振るったが、本人の実力と為政者の都合で領地を入替えた信長流を廃し世襲藩固定化で外様大名を安心させつつ、政権運営は将軍家と小身の譜代衆が握り、参勤交代や天下普請で抵抗力を削ぎ、下々にも現在身分の凍結を強制して太平秩序を醸成した。1615年大坂夏の陣で豊臣家を滅ぼして後顧の憂いを絶ち、翌年75歳で大往生を遂げた。
- 井伊直政は、武田の精鋭と「赤備え」を率いた「徳川四天王」の出世頭にして寝返り工作を担った関ヶ原勝利の殊勲者、近江佐和山藩18万石を継いだ次男井伊直孝が将軍徳川秀忠・家光の信任を得て譜代筆頭彦根藩30万石を確立した。遠江の古豪の嫡子だが生後間もなく父が主君今川氏真に誅殺され零落した。仇敵氏真を滅ぼした徳川家康に14歳で出仕すると、家柄が良く美男子の井伊直政は寵遇され(男色相手の寵童説あり)旧領井伊谷を回復、1582年家康の養女を娶り子飼いの旗本先手役に登用され甲州征伐に活躍、本能寺事変後の家康の伊賀越えに随行し、天正壬午の乱で北条氏政との講和を纏め政治的手腕を発揮、家康は家臣団を持たない直政に武田遺臣と山県昌景の「赤備え」を承継させ井伊谷4万石に加増した。「赤備え」を率い小牧・長久手の戦いで武功を挙げた井伊直政は若輩ながら「徳川四天王」の一角に躍進し6万石に加増、1590年家康の関東移封に伴い家中最大の上野箕輪城12万石(高崎城へ移動)に封じられた。1600年外交を託された井伊直政は、家康の養女栄姫との縁談で黒田官兵衛・長政父子を抱込んで小早川秀秋・吉川広家を篭絡し、京極高次・加藤貞泰・稲葉貞通・関一政・相良頼房ら豊臣賜姓大名の調略も成功させた。そして関ヶ原合戦、井伊直政は娘婿の松平忠吉(家康の四男)と共に先鋒の福島正則を出抜き先端を開くと、小早川秀秋の寝返り攻撃で戦局は一変し家康本隊を抑える毛利隊は吉川広家の妨害で動けず西軍は壊滅したが、不敵に中央突破を図る島津義弘を追撃し銃弾を浴びた(島津の退き口)。井伊直政は重傷をおして戦後処理に奔走、周章狼狽する毛利輝元を本領安堵の偽約で大阪城から釣出し、長宗我部盛親の改易処理・山内一豊の土佐入封支援や島津義弘との和平交渉を担当、家康の世子問題が起ると忠吉擁立に動いた。戦後の論功行賞で井伊直政は石田三成遺領を引継ぎ近江佐和山城18万石へ増転封となったが激務で鉄砲傷が悪化し翌年41歳の若さで病没、智勇兼備の中核を喪った幕閣では武功派と吏僚派の対立が深刻化した。後継の井伊直孝は譜代筆頭彦根藩30万石を確立し幕末の井伊直弼まで大封を保った。
- 吉川元春は、12歳の初陣から64戦無敗を誇り父毛利元就の山陰経略を担って出雲尼子氏を滅ぼし三度の尼子再興軍を粉砕した中国地方最強武将である。弟の小早川隆景と共に元就・輝元を支える「毛利両川」と称された。1541年吉田郡山城の戦いで12歳にして初陣を飾り、母の実家吉川氏の養嗣子となり吉川興経・千法師父子を殺害して家中を掌握、安芸新庄に日野山城を築いて本拠とし、1555年厳島の戦いで義兄弟の陶晴賢を討った。石見攻略を託された吉川元春は大内方諸豪を平らげて石見銀山で尼子晴久と対峙、1562年大友宗麟を撃退した毛利軍が山陰へ押寄せると守将の本城常光を族滅して石見を制圧し、1566年出雲月山富田城に籠る尼子義久を降伏させ一気に山陰道を蹂躙、毛利氏は安芸・備後・周防・長門・石見・出雲・隠岐・伯耆・因幡・備中の10ヵ国制覇を達成した。1569年龍造寺隆信と通謀した毛利元就は豊前・筑前へ侵攻し吉川元春・小早川隆景は拠点の立花山城を攻略するも立花道雪の奮戦で戦線膠着、大友宗麟の後方撹乱策で山中鹿介の尼子再興軍(出雲)と大内輝弘の乱(周防)が起り九州戦線を放棄した。反乱討伐に戻った吉川元春は、元就病没の大不運に見舞われるなか弔い合戦と称して山陰戦線に踏み留まり尼子再興軍を撃滅して出雲・石見・伯耆を回復、逃亡した山中鹿介が因幡鳥取城を奪うが城主の山名豊国を寝返らせ鹿介を敗走させた。1577年黒田官兵衛の要請に応じた織田信長が毛利攻めを開始し豊臣秀吉軍団が播磨へ来襲、吉川元春・小早川隆景は三木城主別所長治を寝返らせ上月城を落として山中鹿介と尼子再興軍を討果すが、元春の危惧通り備前の宇喜多直家が寝返り三木城陥落で播磨を断念、山陰に転じた秀吉軍団に鳥取城を攻め破られたが元春は決死の覚悟で伯耆国境を防衛した。1582年備中高松城が水攻めで落城寸前に陥るなか突如秀吉が和睦を提案、元春は涙を呑んで清水宗治切腹を了承したが間もなく信長討死が発覚、追撃を主張するも隆景に退けられた。天下人秀吉に臣従した毛利家で吉川元春は隠居して従軍を拒絶したが、最期に膝を屈して九州征伐に赴き豊前小倉城で陣没した。
- 小早川隆景は、父元就没後の毛利家を宰領し豊臣秀吉の信任を得て120万石を保ち五大老に任じられた智将、「器量の無い毛利輝元は天下の軍事に関わらず領国を堅守すべし、違えれば所領を失い身も危うし」との遺命に背いた愚甥は関ヶ原合戦の西軍総大将に担がれるが南宮山の毛利軍は参戦せず小早川秀秋の寝返りで勝利を献上、輝元は不戦のまま大阪城を明渡すも防長36万石に押込められた。11歳で小早川氏の養子に出され1550年17歳のとき後嗣の又鶴丸を出家させ反対派を粛清して家督を簒奪、安芸・備後沿岸部の支配を確立した毛利元就は大内家から独立し、1555年旧主大内義隆を滅ぼした陶晴賢を討滅、小早川隆景は村上水軍を味方に付けて海上封鎖を成功させた(厳島の戦い)。防長計略を終えた元就は1566年旧主尼子氏を攻め滅ぼし、山陽道を託された小早川隆景は豊前門司城の戦いで大友宗麟を撃破し伊予の反乱も制圧するが、立花道雪の奮戦と山中鹿介の後方撹乱に屈して九州戦線を放棄、1571年大黒柱の元就を喪った。1575年小早川隆景は主君浦上宗景を追放して備前を掌握した宇喜多直家と同盟し、織田信長へ寝返った三村元親(直家は父の仇)を滅ぼして備中を押え播磨へ侵出、信長包囲網に加盟して石山本願寺への兵糧補給を敢行し、豊臣秀吉・黒田官兵衛と対峙した。三木城主別所長治を寝返らせ上月城に籠る山中鹿介を討って優勢に立ったが、宇喜多の寝返りで要の三木城が落城、荒木村重・本願寺顕如も信長の軍門に降り、鳥取城を落とされ備中高松城は秀吉の水攻めに晒された。1582年毛利攻めに向かう信長が明智光秀謀反で落命、小早川隆景は備中・備後・伯耆の割譲を条件に和睦を受入れて追撃せず、秀吉は中国大返しで仇討ちを果し賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を討伐、隆景は天下人秀吉に帰順し安芸・備後・周防・長門・石見・出雲の6国と備中・伯耆の西半を安堵され、天下統一戦に従軍して筑前・筑後・肥前1郡の37万石を与えられた。朝鮮役では6番隊を率いて出征し立花宗茂と共に碧蹄館の戦いに勝利、秀吉が輝元の養嗣子に押付けてきた小早川秀秋(秀吉正室北政所の甥)を自分の養嗣子に迎えて毛利家を守り3年後に病没した。
- 毛利輝元は、石田三成の甘言に釣られ関ヶ原の戦いで西軍総大将に担がれるも家中すら統率できず小早川秀秋・吉川広家の寝返りで徳川家康に勝利を献上、本領安堵の偽約にすがり鉄壁の大阪城を明け渡すが祖父毛利元就が築いた120万石を長州藩36万石に削られ重臣を誅殺して保身を図った戦国一の馬鹿殿である。父の毛利隆元が早世したため元就から家督を継いだが家政は叔父の吉川元春・小早川隆景に委ねられ(毛利両川)、隆景が豊臣秀吉に臣従して大封を保った。毛利輝元は、安芸の吉田郡山城から広島城へ本拠を移し、隆景と共に五大老に任じられ、1597年隆景の死により名実共に当主となった。翌年秀吉が死に前田利家も病没、天下を狙う徳川家康が三成を憎む加藤清正・福島正則・黒田長政ら武断派大名を取込み三成を失脚に追込むと、復権を期す三成は五大老の宇喜多秀家・上杉景勝と西国大名を誘引し、1600年景勝・直江兼続の挑発に乗った家康が会津征伐を挙行すると毛利輝元を総大将に担ぎ挙兵、西軍は伏見城を落として畿内を制圧し東軍迎撃の拠点美濃大垣城へ進軍、輝元は豊臣秀頼を守って大阪城に陣取り毛利勢は毛利秀元(輝元の養子)・吉川広家(元春の後嗣)・小早川秀秋(秀吉の甥で隆景の養嗣子)・安国寺恵瓊が出陣した。両軍は関ヶ原で激突、真田昌幸が信濃上田城に徳川秀忠隊を釘づけにして東軍兵力を半減させ、布陣有利な西軍は善戦したが、小早川軍が突如西軍に襲い掛かり寝返り続発で西軍は壊滅、吉川広家の妨害で毛利軍は参戦せず、周章狼狽した輝元は立花宗茂や秀元の主戦論を退け鉄壁の大阪城を自ら明渡した。吉川広家は黒田長政・福島正則を通じて本多忠勝・井伊直政から本領安堵の起請文を得ており開城に際しても念押ししたが反故にされた。毛利家は防長36万石へ押込められ、広家は岩国藩3万石を立藩、秀秋は筑前名島30万7千石から岡山藩55万石へ増転封されるが2年後に発狂死し無嗣改易となった。毛利輝元は、楯突く熊谷元直・吉見広長を族滅して保身を図り、大阪陣で内藤元盛を密かに大阪城へ送込み秀頼を支援した事実が露見すると元盛と二児を自害させ隠蔽(佐野道可事件)、自身は73歳の長寿を保った。
- 小早川秀秋は、ねねの甥で豊臣秀吉の養子となるが秀頼誕生で五大老小早川隆景に入嗣、関ヶ原合戦の寝返りで徳川家康に勝利を献上し備前岡山藩55万石に栄転するも僅か2年後に21歳で発狂死し無嗣改易となった精神薄弱児である。関白秀次・秀勝・秀保兄弟(秀吉の姉日秀の子)・秀秋に続き秀頼も大坂陣で滅ぼされ豊臣大名は消失した。ねねの兄木下家定の五男に生れた秀秋は、3歳で秀吉の養子となり7歳で丹波亀山城10万石を与えられ豊臣を名乗ったが、1593年秀頼誕生の翌年15歳で小早川家に出され、翌年秀吉が豊臣秀次一家を惨殺し秀保急逝で大和豊臣家も断絶、秀秋は秀次遺領の筑前名島30万7千石を与えられたが粛清を恐れる身となった。慶長の役では総大将に任じられたが、小早川隆景が亡くなると蔚山城合戦の失策を理由に越前北ノ庄15万石へ減転封、筑前・筑後領は太閤蔵入地とされ実質的に代官の石田三成に奪われた。1598年秀吉が没すると三成を憎む武断派の決起で豊臣家は割れ、小早川秀秋は筑前名島の旧領回復で恩を受けた徳川家康に接近、1600年三成が挙兵すると西軍に引込まれ伏見城攻撃に従うが、同じく高台院(ねね)を母と仰ぐ加藤清正(秀吉の又従兄弟)・福島正則(同従弟)の東軍加盟に逡巡し重臣の稲葉正成・平岡頼勝に押され黒田長政(家康の娘婿)に寝返りを承諾した。美濃大垣城から打って出た西軍が関ヶ原で東軍と激突、小早川秀秋は南西の松尾山に陣取り日和見していたが家康の威嚇射撃で尻に火がつき大谷吉継を急襲(先鋒を命じた松野重元は不義を憤り戦線離脱)、脇坂安治・朽木元綱・小川祐忠・赤座直保の寝返りを誘発して大谷隊を撃滅し吉継は秀秋に「人面獣心なり、三年の間に祟りをなさん」と叫んで自害、南宮山の毛利勢は吉川広家の寝返りで参戦せず、家康は本隊投入で総攻撃を掛け宇喜多秀家・石田三成を破り西軍は潰走した。立役者の小早川秀秋は宇喜多領を承継し備前岡山藩55万石へ増転封となったが祟りに怯えて狂人となり杉原重政を誅殺し稲葉正成(妻の春日局が徳川家光の乳母となり譜代大名稲葉家と堀田家の祖となる)・平岡頼勝は出奔、間もなく突然死し小早川家は断絶した。
- 村上武吉は、毛利元就の厳島合戦に貢献し小早川隆景に属して瀬戸内海を牛耳るが豊臣秀吉に逆らい海賊停止令で命脈を絶たれた村上水軍の頭領、子孫は長州藩士に没落したが秀吉に帰服した同族の来島通総は豊後森藩1万4千石を立藩した。瀬戸内海では藤原純友のころ既に海賊が横行し、南北朝時代に襲撃免除の「帆別銭」(通行料)を確立した村上義弘は「海賊大将」と称された。多島海の芸予諸島では海難事故が頻発し水先案内人の実需も存在した。三家に分かれた村上氏は能島・来島・因島を要塞化して監視・略奪体制を整え「三島村上水軍」と恐れられたが同族間抗争で嫡流能島の村上隆勝が暗殺死、孫の武吉は大内義隆の後援を得て従兄との家督争いを制した。1555年「1日だけの味方」要請に応じた村上武吉は厳島合戦で毛利元就に加勢、村上水軍の手引きで闇夜厳島へ渡った毛利軍は陶晴賢の大軍を奇襲で殲滅し、村上水軍は防長経略で勢力を伸ばし瀬戸内海を掌握した。1568年村上武吉は毛利氏の伊予出兵に従うが、毛利が九州侵攻に失敗すると大友宗麟に接近、1571年毛利と交戦中の宇喜多直家・浦上宗景に加勢したが小早川隆景に拠点の備前児島本太城を攻落とされ来島・因島水軍も毛利に帰順、能島に孤立した武吉は降参した。顕如の籠る石山本願寺への海上輸送に任じた毛利・村上水軍は九鬼嘉隆の織田水軍を撃退するが、織田信長が大筒・大鉄砲を装備し焙烙火矢が効かない鉄甲船6隻を投入、1578年村上武吉は自ら水軍を率いて決戦を挑むが惨敗した(木津川口の戦い)。1582年信長の毛利攻めに際し来島通総が豊臣秀吉へ寝返り、武吉は来島水軍の拠点を攻落とすが毛利を降した秀吉に返還を迫られ拒絶、四国伊予攻めに率先働いた通総は伊予風早郡1万4千石の大名に栄達したが従軍を拒否した武吉は能島を奪われ小早川家へお預け、1588年海賊停止令で抵抗虚しく村上水軍は解体され、帰順を拒んだ海賊衆は芸予諸島の隅へ逃れ蔑視の対象とされた(家船のルーツとも)。村上武吉は小早川隆景の隠居に伴い子の村上元吉・景親と共に毛利へ帰参、元吉は関ヶ原合戦で戦死し嫡子元武と景親は長州藩の船手組組頭の微職に留まった。
- 宇喜多直家は、流浪の身から有力者を次々謀殺して身代を奪い主君浦上宗景を追放して備前を乗取った悪逆無道の卑劣漢、毛利から織田に転じて備前岡山城57万4千石を保つが嫡子秀家が関ヶ原合戦に敗れ子孫は流刑地の八丈島で逼塞した。祖父宇喜多能家は浦上氏を播磨・備前・美作の領袖へ導いた勇将だったが、大物崩れで浦上村宗が討取られ尼子経久の侵攻で主家が没落するなか後継の浦上政宗に嫌われ政敵の島村盛実に殺害された。5歳の宇喜多直家は流浪の身に転落したが元服後に浦上宗景(政宗の弟)に出仕すると、毛利元就と同盟し政宗に取って代った宗景の下で勢力を伸ばし、沼城主中山信正(舅)、鷹取城主島村盛実(祖父能家の仇)、沼城主松田元輝・元賢(娘婿)、岡山城主金光崇高、龍口城主撮所元常を次々と謀殺して所領を奪い邪魔者の浦上政宗・清宗父子も始末した。主君宗景を凌ぎ備前の実権を握った宇喜多直家は、美作を争う三村家親(毛利被官で備中領袖)を鉄砲で暗殺し、1567年父の仇を討つべく備前へ来襲した三村元親を撃退し毛利氏と対峙した(明禅寺合戦。直家唯一のまともな戦功)。1569年浦上宗景・赤松義祐が播磨の赤松政秀を攻撃、織田軍が来援すると宇喜多直家は宗景に反旗を翻すが、姫路城を攻めた政秀が黒田官兵衛に逆襲され龍野城を落とされ滅亡(毒殺)、辛くも助命された直家は臥薪嘗胆で主家簒奪の機を窺った(青山・土器山の戦い)。織田信長の脅威が山陽道に及び浦上宗景と播磨の小寺政職・黒田官兵衛・別所長治・赤松広秀(政秀嫡子)らが織田に帰順すると、1575年宇喜多直家は毛利と同盟して対抗、直家憎しで織田へ奔った三村元親を討ち滅ぼし、宗景を敗走させて備前を制圧(天神山城の戦い)、宗景の嫡子浦上宗辰に娘を娶わせ偽りの和議に誘って毒殺した。が、1577年毛利討伐を決意した信長が豊臣秀吉軍団を派遣すると忽ち織田へ寝返り、娘婿の三星城主後藤勝基を毒殺して美作を制圧、三木合戦を織田軍勝利へ導いた。翌年宇喜多直家は備前岡山城で病没、嫡子宇喜多秀家は秀吉に厚遇され五大老・朝鮮役総大将に抜擢され関ヶ原合戦で西軍主力として奮戦したが敗亡、流刑地の八丈島で生涯を終えた。
- 宇喜多秀家は、謀略と暗殺で備前岡山城57万4千石を分捕った宇喜多直家の嫡子で豊臣秀吉の引立てで朝鮮役総大将・五大老に栄進、父に似ぬ義侠心から関ヶ原合戦で最も奮闘するが改易され八丈島へ流罪、流人のまま83歳で没した関ヶ原最後の武将である。1581年梟雄宇喜多直家が死去、後事を哀願された秀吉は義理堅く9歳の宇喜多秀家を盛立て、14歳で元服させると養女(前田利家の実子)豪姫を娶わせて豊臣一門に加え、九州征伐で初陣、文禄の役では弱冠20歳の秀家を総大将に抜擢し、帰国すると五大老に就けた。関白豊臣秀次(秀吉の甥)は一族惨殺され弟の秀勝・秀保は不審死、小早川秀秋(ねねの甥)は突如減転封の憂き目をみたが、後継資格の無い秀家は猜疑を免れた。宇喜多秀家は、朝鮮役と秀吉没後の豊臣家分裂抗争を通じて石田三成・大谷吉継・小西行長と親交を深め三成を憎む加藤清正・福島正則・黒田長政および黒幕の徳川家康と対立、1599年前田利家の死の翌日武断派七将が三成の大坂屋敷を襲撃すると秀家は佐竹義宣・上杉景勝と共に救助したが家康の裁定で三成は失脚に追込まれた。宇喜多家中では執政長船綱直の死(毒殺説が濃厚)を機に宇喜多詮家(直家の甥。後に坂崎直盛に改名し千姫強奪事件を起す)・戸川達安・岡利勝らが秀家に反逆し大坂屋敷を占拠、又も家康の裁定で首謀者追放で決着したが重臣の大半を失った宇喜多家は衰えた(宇喜多騒動)。1600年復権を期す三成が動くと宇喜多秀家は強硬策を主張、軍勢を率いて鳥居元忠の伏見城を攻落とし、大阪城に陣取る毛利輝元に代わり西軍を率いて美濃大垣城へ出陣、関ヶ原で両軍激突すると福島正則と一進一退の激闘を演じたが小早川秀秋の寝返りで戦局が一変し姉婿吉川広家の妨害で毛利勢は不参戦、秀家は秀秋と刺違えようとするが明石全登(後に大坂陣で戦没)に制止され已む無く逃走、薩摩へ逃れ島津義弘に匿われたが宇喜多家は潰され岡山藩55万石へは秀秋が入封した。徳川幕府へ引渡された宇喜多秀家は、義兄前田利長の嘆願で助命され駿河久能山幽閉を経て三児と共に八丈島へ流罪、前田家の援助で50年も寿命を保ち子孫は八丈島に根付いた。
黒田官兵衛と同じ時代の人物
-
戦国
織田 信長
1534年 〜 1582年
140点※
中世的慣習を徹底破壊して合理化革命を起し新兵器鉄砲を駆使して並居る強豪を打倒した戦国争覇の主人公ながら、天下統一を目前に明智光秀謀反で落命し家臣の豊臣秀吉・徳川家康に手柄を奪われた悲劇の英雄
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照 -
戦国
毛利 元就
1497年 〜 1571年
100点※
安芸の小領主の次男坊から権謀術数で勢力を拡大、息子の吉川元春・小早川隆景を両翼と頼み、厳島の戦いで陶晴賢を討って大内家の身代を奪取、月山富田城の尼子氏も下して安芸・備後・周防・長門・石見・出雲・隠岐・伯耆・因幡・備中を制覇した戦国随一の智将
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照 -
戦国
徳川 家康
1542年 〜 1616年
100点※
旧主今川義元を討った織田信長と同盟して覇業の一翼を担い、豊臣秀吉没後秀頼を滅ぼして天下を奪取、信長の実力主義・中央独裁を捨て世襲身分制で群雄割拠を凍結し265年も時間を止めた徳川幕府の創設者
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照