播磨小寺家重臣の嫡子に生れ、織田方の急先鋒として毛利攻めを牽引、本能寺事変後の中国大返しで豊臣秀吉を天下人に押上げるも智謀を警戒されて不遇に泣き、関ヶ原合戦中に漁夫の利を狙い九州北半を征するが東軍完勝で挫折、心優しき天才軍師にして福岡藩52万石の祖
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黒田 官兵衛
1546年 〜 1604年
80点※
家系・子孫
- 黒田氏は、近江佐々木氏(宇多源氏)の庶流で、代々所領した近江伊香郡黒田郷から名字を採った。応仁の乱後、黒田高政が10代将軍足利義稙の怒りに触れて備前邑久郡福岡郷(福岡県の由来)に移住し、数代を経て黒田重隆に至るが、奴隷百姓の空家に住むほど零落した。貧窮した重隆が広峰神社神主の助力で家伝の目薬「玲珠膏」を売出すと大繁盛、低利融資で近郷の百姓を手懐けて土豪となり、香山重道の首と戦利品を手土産に赤松氏の庶流で御着城主の小寺政職に帰参した。なお、四職筆頭の名門赤松氏は、6代室町将軍足利義教弑殺で一旦滅亡したが、赤松遺臣が南朝の吉野御所を襲って自天王を殺し三種の神器を奪い返した功で再興を許され、播磨・備前・美作の太守に返咲いた。この襲撃犯を率いたのが政職の先祖小寺藤兵衛であり、小寺氏は特別待遇で繁栄、赤松氏の没落に伴い播磨の盟主的地位に上っていた。有能な黒田職隆は政職の信任を獲得、養女(明石正風の娘)を妻にもらって官兵衛・利高・利則・直之をもうけ、小寺姓を賜って主席家老・姫路城代へ累進した。黒田官兵衛孝高は、小寺家譜代の櫛橋伊定の娘光(幸円)を娶り、長政・熊之助の二児をもうけた(官兵衛は側室を置かず)。弟の利高・利則・直之は官兵衛に仕え黒田八虎に挙げられた。次男熊之助は、朝鮮出兵時に無断渡航を図り母里太兵衛の嫡子吉太夫と共に16歳で遭難死している。黒田長政は、豊臣譜代の蜂須賀小六の娘糸姫を妻としたが子に恵まれず、関ヶ原合戦直前に糸姫を離縁して徳川家康の養女栄姫(実父は信濃高遠城主保科正直)を継室に迎えて徳川一門に連なり、小早川秀秋・吉川広家を寝返りに導いて豊前中津12万石から筑前福岡52万石への最大加贈を受けた。栄姫は三男二女を産み、忠之は二代福岡藩主、長興は支藩秋月藩祖、高政は支藩東蓮寺藩祖となった。黒田忠之は愚連隊的暴君で、栗山大膳(善助嫡子)が起した黒田騒動で改易の危機に見舞われた。官兵衛・長政の嫡流は6代藩主継高で途絶え一橋徳川家から治之を福岡藩主に迎えたが、女系血脈は徳川譜代・岡山池田氏・阿波蜂須賀氏など多くの大名家に受継がれている。
黒田官兵衛と同じ時代の人物
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戦国
織田 信長
1534年 〜 1582年
140点※
中世的慣習を徹底破壊して合理化革命を起し新兵器鉄砲を駆使して並居る強豪を打倒した戦国争覇の主人公ながら、天下統一を目前に明智光秀謀反で落命し家臣の豊臣秀吉・徳川家康に手柄を奪われた悲劇の英雄
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戦国
毛利 元就
1497年 〜 1571年
100点※
安芸の小領主の次男坊から権謀術数で勢力を拡大、息子の吉川元春・小早川隆景を両翼と頼み、厳島の戦いで陶晴賢を討って大内家の身代を奪取、月山富田城の尼子氏も下して安芸・備後・周防・長門・石見・出雲・隠岐・伯耆・因幡・備中を制覇した戦国随一の智将
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戦国
徳川 家康
1542年 〜 1616年
100点※
旧主今川義元を討った織田信長と同盟して覇業の一翼を担い、豊臣秀吉没後秀頼を滅ぼして天下を奪取、信長の実力主義・中央独裁を捨て世襲身分制で群雄割拠を凍結し265年も時間を止めた徳川幕府の創設者
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