一族虐殺を生延びて曽祖父から家督を継ぎ大友宗麟の力添えで東肥前支配を確立、耳川合戦の漁夫の利をさらって肥前統一を果し大友領の筑前・筑後・肥後北部・東豊前を侵食するが、疑心暗鬼の国人統治で離反が相次ぎ沖田畷の戦いで島津家久に討取られた九州下剋上の第一人者
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龍造寺 隆信
1529年 〜 1584年
70点※
龍造寺隆信と関連人物のエピソード
- 大友宗麟(義鎮)は、父を謀殺して家督を奪い、宿敵大内氏の滅亡に乗じ立花道雪の活躍で豊後・筑後・肥後・豊前・筑前・肥前の6ヶ国を支配したが、享楽と宗教に溺れ耳川の惨敗で運命が暗転、龍造寺隆信に領土を侵食され島津義久に追詰められて滅亡寸前、豊臣秀吉に救われ豊後一国を保つも愚息義統が自滅・改易された九州一の名門大名である。豊後・筑後・肥後守護の大友義鑑の嫡子に生れ、21歳のとき廃嫡を企てた父を弟諸共に謀殺して家督を奪取(二階崩れの変)、翌1551年に陶晴賢の謀反で大内義隆が滅ぼされると(大寧寺の変)、弟の義長(義隆の甥)を大内家の傀儡当主に差出して陶と同盟し筑前・豊前を獲得、龍造寺隆信・菊池義武(叔父)ら反抗勢力を討平して肥前・肥後も制圧し、小原鑑元・秋月文種らを討って毛利元就の侵入を防いだ。絶頂の大友宗麟は見境無い女漁り(人妻強奪も)と享楽生活に耽って家臣の離反を招き、1562年門司城奪還戦で小早川隆景に大敗、1567年筑前の秋月種実・高橋鑑種・宗像氏貞・筑紫惟門・原田隆種が反旗を掲げた。1569年山中鹿介・大内輝弘の後方撹乱策と立花道雪の奮闘で毛利軍を九州から追出し、離反した龍造寺隆信を大軍で攻めるも大敗して肥前を奪われ(今山の戦い)、1578年伊東義祐の哀願に応じて日向を攻めるも島津義久・家久の「釣り野伏せ」にかかって壊滅的敗北を喫し田北鎮周・角隈石宗・佐伯惟教・蒲池鑑盛ら多くの武将を失い(耳川の戦い)、龍造寺に漁夫の利をさらわれて筑前・筑後・肥後北部・東豊前まで侵食された。耳川合戦直前に改宗した大友宗麟はキリスト教国建設を掲げて行軍中に寺社を破壊、祟りに怯える大友軍の戦意は乏しかった。1584年沖田畷の戦いで龍造寺を斃した島津の大軍が大友領に殺到、大黒柱の立花道雪を病で喪い、岩屋城の高橋紹運は玉砕、立花宗茂の孤軍奮闘で辛うじて筑前を防衛したが、大友宗麟は天下人豊臣秀吉に泣きつくほかなかった。1586年長宗我部元親の先発隊は島津家久に撃退されたが(戸次川の戦い)、秀吉が兵20万余を率いて来援すると島津軍は撤退、秀吉から豊後一国37万石を安堵された大友宗麟は栄枯盛衰の生涯を閉じた。
- 立花道雪(戸次鑑連)は、百数十戦無敗の戦国最強戦績を誇る「雷神」、毛利元就を撃退して九州6カ国を制覇したが慢心の大友宗麟が耳川合戦に惨敗、主家衰亡のなか孤軍奮闘で島津勢の猛攻を凌ぎ養嗣子の立花宗茂に後を託して陣没した大友家の大黒柱である。大友一族の戸次氏の嫡流で、13歳の初陣以来連戦連勝、1550年二階崩れの変で大友宗麟の家督相続を差配し、翌年陶晴賢の謀反で大内氏が滅亡すると筑前・筑後・肥前・肥後の反抗勢力を一掃した。45歳の道雪は落雷に斬りつけて感電し後遺症で歩行困難となったが、戦場では輿に乗って最前線で指揮を執り「雷神」と称された。1555年陶晴賢を滅ぼし防長経略を果した毛利元就が北九州に侵入、道雪は秋月文種を討って反乱を抑えたが、1562年門司城の戦いに大敗した宗麟が道雪の猛反対を抑えて和睦恭順し反大友陣営を勢いづかせた。「道の雪がその場で消えるように武士も死ぬまで一主君に忠節を尽くすべし」との決意で道雪と号し、享楽と宗教に耽る宗麟を諌め続けた。1567年毛利に通じた秋月種実・高橋鑑種らが挙兵、道雪は一族・重臣を喪う激戦の末に立花山城を攻め落とし筑前・筑後を制圧、肥前の龍造寺隆信討伐に向かうが、来援した毛利軍に立花山城を奪回され、引返した道雪が防戦するうち山中鹿介・大内輝弘の後方撹乱で毛利軍を退けた。筑前・筑後の軍司令官に就いた立花道雪は、筑前守護職に補され立花氏の名跡と立花山城を承継し、高橋紹運・立花宗茂らを統率して大友領を死守した。1578年大友宗麟が道雪の制止を振り切って島津討伐に乗出すが(宗麟は道雪を従軍させず)耳川合戦で壊滅的大敗、龍造寺隆信の台頭を許し、1584年その龍造寺を斃した島津軍が大友領へ殺到、立花道雪は豊後へ長駆して宗麟・義統父子を救援し筑後に馳せ戻って島津方諸城を攻略、道雪を妬む大友親家の援軍が撤退するなか高良山に布陣して3倍の敵軍を撃破するが、柳川攻城中に力尽き「屍に甲冑を着せ柳川の方に向けて埋めよ」と遺言して陣没した。大黒柱を喪った大友氏は滅亡寸前に追込まれたが、豊臣秀吉の九州征伐で辛うじて豊後一国を保った。
- 立花宗茂(高橋統虎)は、養父立花道雪亡き後孤軍奮闘で島津氏の猛攻を凌ぎ豊臣秀吉から「西国無双」と激賞され、碧蹄館の戦いで朝鮮役屈指の武勲を挙げたが関ヶ原合戦で西軍に属し改易、放浪生活の末に筑後柳川藩主に返咲いた幸運な勇将である。大友宗麟の耳川惨敗で主家が衰亡へ向かうなか、1581年立花道雪の婿養子に迎えられて家督を継ぎ14歳で初陣、岩戸の戦いで早良城・許斐山城・龍德城を攻め落し島津勢を追って筑後奪還の一翼を担うが、1585年大黒柱道雪の死で寝返りが相次ぎ筑前へ撤退した。翌年島津氏と国人衆の連合軍10万余が来襲、実父の高橋紹運は岩屋城で城兵763人と共に玉砕して果て、実弟高橋統増の宝満山城も降伏開城したが、立花山城の立花宗茂は詐降の計で油断を誘い豊後攻めに転じた島津軍を痛撃、原田・秋月勢を追払い星野鎮胤の高鳥居城を落として岩屋城・宝満山城も奪回、秀吉の九州征伐まで凌ぎ切って筑後柳川城13万2千石を与えられた。秀吉直臣となった立花宗茂は、肥後国人一揆を討平し朝鮮出兵に従軍、1593年李如松率いる明の大軍の侵攻で日本軍が漢城に追詰められると弱腰の宇喜多秀家・石田三成を叱咤して自ら迎撃戦の先鋒を務め小早川隆景と協力して撃退に成功(碧蹄館の戦い)、蔚山城の戦いでは加藤清正を救援して勝利に貢献した。1600年関ヶ原の戦いで西軍の近江大津城攻めに参陣し、敗戦後は大阪城の毛利輝元に籠城抗戦を説くも容れられず憤慨して柳川へ帰還、黒田官兵衛・加藤清正・鍋島直茂の大軍に攻囲されて降伏し清正に庇護された。1602年立花宗茂は共回り19人と共に肥後を出奔、乞食同然の放浪の身ながら加賀藩主前田利長からの10万石での招聘を「腰抜けの分際で生意気申すな」と撥ね付け、将軍家への仕官を求めて京都から江戸高田宝祥寺に移動、1604年虚無僧姿の十時摂津が狼藉者3人を斬捨てた事件が将軍徳川家忠の耳に届き5千石の相伴衆に取立てられ、2年後に奥州棚倉藩1万石で大名に復活し大坂陣で活躍、1620年10万9千石で筑後柳川藩主に返咲いて悠々自適の大名生活を過ごし、養嗣子忠茂に家督を譲って74歳まで長寿を保った。
- 島津義弘は、薩摩・大隅を切り従え日向の伊東義祐・肥後の相良義陽・肥前の龍造寺隆信を滅ぼし大友宗麟を追詰めた島津四兄弟の次男坊、九州制覇の野望は豊臣秀吉に破られたが、朝鮮役泗川の戦い・関ヶ原「島津の退き口」で勇名を馳せた西国最強武将である。島津勝久から島津宗家と薩摩・大隅守護職を奪った島津貴久の次男で、兄義久が家督を継ぐと日向方面を受け持ち伊東義祐の猛攻を凌いだ。1572年貴久の死に乗じて伊東の精兵3千が飯野城を急襲、雑兵300で迎え撃った島津義弘は「釣り野伏せ」戦法で「九州の桶狭間」に快勝(木崎原の戦い)、南九州に武威を轟かせると、翌年長年争った肝付氏らが降伏して島津氏は薩摩・大隅を平定した。1577年伊東義祐を追出して三州統一を達成(伊東崩れ)、翌年大友宗麟の大軍が日向に来襲したが島津義久・家久が撃退(耳川の戦い)、多くの武将を討取られた名門大友氏は骨抜きとなった。矛先を九州西辺に転じた島津軍は、1581年肥後人吉城主の相良義陽を降伏させ、1584年大友氏から独立した龍造寺隆信を攻撃、島原城主有馬晴信の救援に兵3千で乗込んだ島津家久は2万5千の龍造寺軍を湿地帯に誘い入れて殲滅(沖田畷の戦い)、隆信以下重臣悉くを討取る大勝利で肥前・筑前・筑後・肥後北部・東豊前を奪取、義弘が阿蘇氏を降して肥後も掌中にした。1586年島津氏は総仕上げの大友征伐を開始、筑前・筑後の義久軍は立花宗茂に苦戦したが、肥後から義弘・日向から家久が本拠の豊後へ侵攻、豊臣秀吉の援軍2万を敵失と「釣り野伏せ」で撃退し府内城を落として宗麟を臼杵城に追詰めた(戸次川の戦い)。しかし翌年、徳川家康を従えた豊臣秀吉が九州征伐を号令、20万余の大軍を前に諸豪は悉く秀吉に靡き、島津軍は日向へ退いて決戦を挑むも敗北(根白坂の戦い)、義弘は徹底抗戦を主張したが当主義久は降伏を選び、島津氏は薩摩・大隅などの本領を安堵された。義久から当主を継いだ島津義弘は、梅北一揆・庄内の乱で家臣を引締め朝鮮出兵で大活躍、西軍に参陣した関ヶ原合戦では敵陣強行突破で武名を上げ、戦後の難局を武備恭順策で乗切り薩摩藩56万石を子の島津忠恒に譲り渡した。
- 島津家久は、「釣り野伏せ」を駆使して耳川・沖田畷・戸次川の戦いで芸術的快勝を収め龍造寺隆信はじめ名立たる武将を討取った戦国随一の野戦指揮官である。島津貴久の四男だが妾腹のため嫡出の兄義久・義弘・歳久とは別扱いで育ち、発奮して武芸軍略を磨き15歳の初陣で敵将工藤隠岐守を鑓合せで討取る活躍、祖父島津忠良から「軍法戦術に妙を得たり」と嘱目された。1570年肥後人吉城主相良義陽から大口城を奪回して薩摩平定へ導き、1578年北部九州の支配者大友宗麟が日向に押寄せると、田原親賢率いる3万余の大軍を迎え撃ち田北鎮周・角隈石宗・佐伯惟教・蒲池鑑盛を含む3千名を討取る完勝、島津氏は南九州の覇権を確立した(耳川の戦い)。敗走を装って囮部隊を退却させ追走する敵を伏兵の鉄砲攻撃で包囲殲滅する「釣り野伏せ」は家久のお家芸となった。深手を負った大友氏が衰退すると、被官の肥前国主龍造寺隆信が台頭し盛んに大友領を侵食したが、過酷な国人統治に離反が相次ぎ島原城主有馬晴信が島津氏へ寝返り、決戦を決意した隆信は大軍(2万5千とも6万とも)を率いて島原へ侵攻した。肥後・日向戦線で手一杯の島津義久は取り急ぎ島津家久の先発隊(3千とも)を派遣、圧倒的劣勢ながら撃滅を企図する家久は敵を湿地帯に誘い込んで鉄砲隊で急襲、大混乱に陥った龍造寺軍を撫で斬りにし龍造寺隆信・康房兄弟に成松信勝・江里口信常・百武賢兼・円城寺信胤・木下昌直を討取る奇跡的勝利を収め(沖田畷の戦い)、後継の龍造寺政家を降伏させて肥前・筑前・筑後・肥後北部・東豊前を奪取した。1586年島津氏が総力挙げて大友討伐に乗出すと、宗麟の哀訴に応じた豊臣秀吉は長宗我部元親率いる先発隊2万を派遣し、日向から豊後へ向かう島津家久軍1万3千は戸次川で対峙、軍監仙石秀久が無謀な冬季渡川で戦端を開くと家久は鮮やかに「釣り野伏せ」を決め、壊走する敵を殲滅して長宗我部信親・十河存保を討取った。が、20万余に膨れ上がった秀吉軍には成す術無く、日向佐土原城に退いて逸早く降伏、九州征伐の顛末を見ることなく病没した。
- 相良氏は、遠江相良荘に住した工藤周頼(藤原南家)に始まり、相良頼景は源頼朝に従わず肥後へ追放されるが帰順して肥後多良木荘(球磨)の地頭に任官、相良長続が肥後守護菊池氏に属して球磨・八代・葦北の領有を認められた。相良義滋・晴広の代に同族の上村・犬童・深水・丸目氏らを束ね肥後人吉城に拠って戦国大名化し、菊池義武(大友宗麟の叔父)を隈本城に迎え豊後大友氏からの独立を図るが立花道雪に阻まれた。晴広嫡子の相良義陽は、西原氏から薩摩大口城を奪取し島津貴久に対抗するが、重臣の上村頼孝・菱刈重任を誅殺したため相良家は弱体化、丸目長恵の勇み足で島津家久に大口城を奪回され、日向の伊東義祐(親戚)・大隅肝付氏が島津領へ侵攻すると援軍を出すが奇計に嵌って逃げ帰り友軍は島津義弘に惨敗(九州の桶狭間・木崎原の戦い)、1581年耳川の戦いで大友宗麟を撃破した島津義久に攻められ次男頼房を人質に差出し降伏、阿蘇氏攻伐を命じられた相良義陽は宇城響野原で親友の甲斐宗運と戦い討死した(響野原の戦い)。犬童頼安・深水長智は次男の相良頼房を当主に担ぎ島津氏の九州平定戦に従うが1587年豊臣秀吉の九州征伐に降参、肥後国人一揆で佐々成政に呼応し島津軍と抗戦するが処罰を免れた。相良頼房は、加藤清正旗下で朝鮮役に出征するが国許で抗争が起り犬童頼安・頼兄を帰国させ竹下監物と深水一党73名を誅殺、深水頼蔵は清正を通じて秀吉に惣無事令違反を訴えるが石田三成が犬童を庇いお咎め無し、頼房は蔚山城合戦の武功を賞され豊臣姓を賜った。関ヶ原の戦いで相良頼房は西軍に属し美濃大垣城に詰めるが井伊直政に調略され秋月種長・高橋元種兄弟と共に東軍へ寝返り守将の福原長堯らを謀殺、徳川家康に本領を安堵され肥後人吉藩2万石を立藩し幕末まで存続した(秋月は高鍋藩3万石・高橋は日向延岡藩5万石)。相良氏庶流の丸目蔵人長恵は、大口城敗戦の罪で致仕となったが17年後に赦され兵法指南役(117石)で帰参、長恵のタイ捨流は東郷重位の薩摩示現流と共に九州一円に広がった。長恵には権内・半十郎の二児があったが共に早世し(謀殺説あり)娘婿の八左衛門が丸目家を継いだ。
- 丸目蔵人長恵は、勇み足で島津家久に敗れ放逐されるも肥後相良家の兵法指南役に返咲いたタイ捨流創始者、上泉信綱門下筆頭「兵法天下一」を公称し柳生宗矩に決闘を挑むが徳川家康の「天下二分の誓約」で断念した。丸目氏は肥後人吉城主相良氏の庶流で、16歳で兵法家を志した丸目長恵は肥後本渡城主の天草伊豆守に師事したのち上洛して上泉信綱に入門、正親町天皇の天覧では信綱の相手役を勤める栄誉に浴し、柳生宗厳と共に上泉門下の双璧と称され、愛宕山・誓願寺・清水寺に「兵法天下一」の高札を掲げ真剣勝負を求めるが挑戦者は現れず新陰流の印可を授かった。相良義陽に帰参した丸目長恵は薩摩大口城の守備に就くが1570年島津家久の偽装運搬の計略に釣り出され相良勢は大敗し大口城は陥落、激怒した義陽は出撃を主張した長恵を逼塞に処した。1587年豊臣秀吉に帰順して本領を安堵された相良頼房(義陽の後嗣)は17年ぶりに丸目長恵の出仕を赦し兵法指南役に登用、長恵のタイ捨流は東郷重位の薩摩示現流と共に九州一円に普及した(筑後柳河藩主の立花宗茂も門人)。新陰流を名乗らなかったのは正統を継いだ柳生宗厳に遠慮したためとも、甲冑武士用に工夫した新流儀であったためともいわれる。1600年関ヶ原の戦い、相良頼房は豊臣賜姓大名ながら東軍へ寝返り秋月種長・高橋元種兄弟と共に美濃大垣城の守将福原長堯らを謀殺し本領安堵で肥後人吉藩2万石を立藩、諜報蒐集に活躍した柳生宗矩(宗厳の五男)は徳川秀忠の兵法指南役に抜擢され初代大目付・大和柳生藩の大名へ累進し「日本兵法の総元締」となった。相良藩士117石で燻る丸目長恵は江戸へ出て宗矩に決闘を申込むが利口な宗矩は「天下に二人のみの達人を一人とて喪うのは惜しい」と相手にせず徳川家康は「東日本の天下一は柳生、西日本の天下一は丸目」と裁定(長恵は柳生との対決に固執する次男の丸目半十郎を猪狩りに誘い射殺したとも)、長恵は潔く隠居して黙々と開墾に勤しむ余生を送り89歳で没した。丸目長恵は剣の他に槍・薙刀・居合・手裏剣など21流を極め言動は猪武者そのものだが、青蓮院宮流書道や和歌・笛も能くしたという。
- 立花道雪(戸次鑑連)は、百数十戦無敗の戦国最強戦績を誇る「雷神」、毛利元就を撃退して九州6カ国を制覇したが慢心の大友宗麟が耳川合戦に惨敗、主家衰亡のなか孤軍奮闘で島津勢の猛攻を凌ぎ養嗣子の立花宗茂に後を託して陣没した大友家の大黒柱である。大友一族の戸次氏の嫡流で、13歳の初陣以来連戦連勝、1550年二階崩れの変で大友宗麟の家督相続を差配し、翌年陶晴賢の謀反で大内氏が滅亡すると筑前・筑後・肥前・肥後の反抗勢力を一掃した。45歳の道雪は落雷に斬りつけて感電し後遺症で歩行困難となったが、戦場では輿に乗って最前線で指揮を執り「雷神」と称された。1555年陶晴賢を滅ぼし防長経略を果した毛利元就が北九州に侵入、道雪は秋月文種を討って反乱を抑えたが、1562年門司城の戦いに大敗した宗麟が道雪の猛反対を抑えて和睦恭順し反大友陣営を勢いづかせた。「道の雪がその場で消えるように武士も死ぬまで一主君に忠節を尽くすべし」との決意で道雪と号し、享楽と宗教に耽る宗麟を諌め続けた。1567年毛利に通じた秋月種実・高橋鑑種らが挙兵、道雪は一族・重臣を喪う激戦の末に立花山城を攻め落とし筑前・筑後を制圧、肥前の龍造寺隆信討伐に向かうが、来援した毛利軍に立花山城を奪回され、引返した道雪が防戦するうち山中鹿介・大内輝弘の後方撹乱で毛利軍を退けた。筑前・筑後の軍司令官に就いた立花道雪は、筑前守護職に補され立花氏の名跡と立花山城を承継し、高橋紹運・立花宗茂らを統率して大友領を死守した。1578年大友宗麟が道雪の制止を振り切って島津討伐に乗出すが(宗麟は道雪を従軍させず)耳川合戦で壊滅的大敗、龍造寺隆信の台頭を許し、1584年その龍造寺を斃した島津軍が大友領へ殺到、立花道雪は豊後へ長駆して宗麟・義統父子を救援し筑後に馳せ戻って島津方諸城を攻略、道雪を妬む大友親家の援軍が撤退するなか高良山に布陣して3倍の敵軍を撃破するが、柳川攻城中に力尽き「屍に甲冑を着せ柳川の方に向けて埋めよ」と遺言して陣没した。大黒柱を喪った大友氏は滅亡寸前に追込まれたが、豊臣秀吉の九州征伐で辛うじて豊後一国を保った。
龍造寺隆信と同じ時代の人物
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戦国
織田 信長
1534年 〜 1582年
140点※
中世的慣習を徹底破壊して合理化革命を起し新兵器鉄砲を駆使して並居る強豪を打倒した戦国争覇の主人公ながら、天下統一を目前に明智光秀謀反で落命し家臣の豊臣秀吉・徳川家康に手柄を奪われた悲劇の英雄
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戦国
毛利 元就
1497年 〜 1571年
100点※
安芸の小領主の次男坊から権謀術数で勢力を拡大、息子の吉川元春・小早川隆景を両翼と頼み、厳島の戦いで陶晴賢を討って大内家の身代を奪取、月山富田城の尼子氏も下して安芸・備後・周防・長門・石見・出雲・隠岐・伯耆・因幡・備中を制覇した戦国随一の智将
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戦国
徳川 家康
1542年 〜 1616年
100点※
旧主今川義元を討った織田信長と同盟して覇業の一翼を担い、豊臣秀吉没後秀頼を滅ぼして天下を奪取、信長の実力主義・中央独裁を捨て世襲身分制で群雄割拠を凍結し265年も時間を止めた徳川幕府の創設者
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