中世的慣習を徹底破壊して合理化革命を起し新兵器鉄砲を駆使して並居る強豪を打倒した戦国争覇の主人公ながら、天下統一を目前に明智光秀謀反で落命し家臣の豊臣秀吉・徳川家康に手柄を奪われた悲劇の英雄
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織田 信長
1534年 〜 1582年
140点※
家系・子孫
- 織田氏は室町幕府三管領の斯波家(他は細川・畠山)の尾張守護代を世襲した名家だが、信長の家はその末流に過ぎない。尾張守護代の織田家には二流あって、一家は尾張の上四郡を治めて岩倉城に居城し、一家は下四郡を治め斯波氏の当主を守護して清洲に居城した。下織田家(織田大和守家)に織田姓を名乗る3奉行があり、信長の家はその一家に過ぎなかったが、武勇に優れた織田信秀が台頭し尾張の旗頭的地位に成り上がった。信秀は盛んに美濃を攻めたが、斎藤道三に撃退され和睦して娘の帰蝶を信長の妻に迎えた。信秀の死後嫡子織田信長が家督を継いだが、うつけと呼ばれた不良児で家臣は承服せず、守護代織田家も反逆して尾張は内戦状態となった。傅役平手政秀の諌死を乗越え、織田信長は剛腕と粘りを発揮し、主筋の下織田家信友を滅ぼし、再三謀反した弟の織田信行を殺し、上織田家信賢と守護斯波義銀を破って尾張国を平定、続く天下統一戦では兄弟の信広・信興・秀成を含む多くの織田一族を喪った。そして本能寺の変、嫡子信忠が共に討たれ、凡庸な次男信雄と三男信孝に豊臣秀吉の織田家簒奪を防ぐ力はなく、信孝は柴田勝家について滅ぼされ、清洲会議で秀吉に担がれ織田家を継いだ信忠の嫡子秀信(三法師)は関ヶ原合戦で西軍に属し改易された。織田信雄は、徳川家康と組んで秀吉に逆らうも早々に軍門に下り(小牧・長久手の戦い)尾張国を保ったが、小田原征伐後家康旧領への転封命令を愚かにも拒絶し改易された。剃髪入道したが家康の斡旋で赦免され、秀吉の御伽衆に加えられ、豊臣氏滅亡後徳川家への忠節が認められ大和・上野に5万石を与えられた。信雄の裔は出羽天童藩と丹波柏原藩の小大名二家として残った。他の信長の子では、七男信高と九男信貞が高家旗本に列している。信長の弟では、織田信包が秀吉の御伽衆を経て初代柏原藩主となるが、孫の代に後嗣が絶え信雄流に承継された。茶人で名高い織田長益(有楽斎)は、徳川幕府から大和・摂津に3万石を与えられ、裔は芝村藩と柳本藩の小大名二家となり幕末まで存続した。
織田信長と同じ時代の人物
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戦国
毛利 元就
1497年 〜 1571年
100点※
安芸の小領主の次男坊から権謀術数で勢力を拡大、息子の吉川元春・小早川隆景を両翼と頼み、厳島の戦いで陶晴賢を討って大内家の身代を奪取、月山富田城の尼子氏も下して安芸・備後・周防・長門・石見・出雲・隠岐・伯耆・因幡・備中を制覇した戦国随一の智将
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戦国
徳川 家康
1542年 〜 1616年
100点※
旧主今川義元を討った織田信長と同盟して覇業の一翼を担い、豊臣秀吉没後秀頼を滅ぼして天下を奪取、信長の実力主義・中央独裁を捨て世襲身分制で群雄割拠を凍結し265年も時間を止めた徳川幕府の創設者
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戦国
狩野 永徳
1543年 〜 1590年
90点※
祖父の狩野元信から「狩野派」を引継ぎ織田信長・豊臣秀吉に寵遇され安土城・大坂城・聚楽第の障壁画や『聚光院障壁画(国宝)』『唐獅子図屏風(国宝)』『洛中洛外図屏風(国宝)』『檜図屏風』を制作した安土桃山文化の旗手、孫の狩野探幽が徳川幕府の御用絵師となり子孫は幕末まで日本画壇に君臨
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