島津重豪の尻拭いを果し薩摩を幕末屈指の富裕藩へ押上げた維新の功労者
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照調所 広郷
1776年 〜 1849年
70点※
調所広郷の寸評
調所広郷の史実
-
1776年
薩摩藩の下級藩士川崎主右衛門基明(兼高)の子として調所広郷が鹿児島にて出生
-
1787年
島津重豪が家督を嫡子の島津斉宣に譲って隠居、斉宣が9代薩摩藩主となる
-
1788年
下級藩士調所清悦の養子となり調所広郷を名乗る
-
1798年
調所広郷が江戸薩摩藩邸に出仕
-
1798年
調所清悦の死に伴い養嗣子の調所広郷が家督を相続
-
1809年
近思録崩れ事件、島津重豪が緊縮財政への転換を図る子の島津斉宣を隠居させ孫の島津斉興を10代薩摩藩主に据える
-
1824年
調所広郷が側用人格に就任
-
1825年
異国船打払令
-
1828年
調所広郷が藩政改革主任に抜擢される
-
1830年
島津重豪が調所広郷に財政再建を厳命
-
1832年
島津重豪が調所広郷を家老格に抜擢し破綻に瀕した薩摩藩の藩政改革を託す
-
1833年
島津重豪が江戸高輪邸にて死去(享年89)
-
1836年
調所広郷が250年賦・無利子償還(事実上の借金踏倒し)を通告、償還開始
-
1838年
調所広郷が家老に昇進
-
1840年
調所広郷が薩摩藩の財政再建に成功
-
1840年
アヘン戦争(~1842)
-
1842年
異国船打払令を緩和し薪水給付令施行
-
1845年
水野忠邦が罷免され、開明派の阿部正弘が老中首座となる
-
1846年
フランスが琉球の開国を要求
-
1848年
島津斉彬派が薩摩藩の琉球密貿易を老中阿部正弘に密告
-
1849年
調所広郷が薩摩藩上屋敷芝藩邸にて急死(享年73)
調所広郷の交遊録
-
島津重豪
無茶な主君
-
島津斉宣
気の毒な重豪嫡子
-
島津斉興
斉宣嫡子
-
島津斉彬
対立した斉興嫡子
-
島津久光
斉興庶子
-
島津忠義
薩摩藩主を継いだ久光長子
-
徳川家斉
重豪娘婿の11代将軍
-
阿部正弘
斉彬盟友
調所広郷と同じ時代の人物
-
維新
大久保 利通
1830年 〜 1878年
130点※
島津久光を篭絡して薩摩藩を動かし岩倉具視と結んで明治維新を達成、盟友の西郷隆盛も切捨てる非情さで内治優先・殖産興業・富国強兵の路線を敷き近代国家の礎を築いた日本史上最高の政治家
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照 -
維新
高杉 晋作
1839年 〜 1867年
110点※
吉田松陰の枠を超えた「防長割拠論」を実践し庶民軍の奇兵隊を創設して洋式軍備を拡充、功山寺挙兵で佐幕政権を覆し薩長同盟で背後を固め第二次長州征討の勝利で幕威を失墜させた長州維新の英雄
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照 -
維新
西郷 隆盛
1828年 〜 1877年
100点※
島津斉彬の懐刀として政治力・人脈を培い大人格者の威望をもって討幕を成遂げた薩摩藩の首魁、没落する薩摩士族に肩入れし盟友の大久保利通に西南戦争で討たれたが「大西郷」人気は今も健在
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照
年
基礎点 80点
調所広郷は、大浪費家の島津重豪の尻拭いを立派に果したうえ、重商主義改革により薩摩を幕末屈指の富裕藩に押上げた。業績は薩摩藩内の裏方の枠を出ないが、経済基盤なくして幕末薩摩藩の勇躍はなく、調所の貢献は実に大きい。また、島津重豪の無茶な命令を忠実にこなし、後継藩主の島津斉興を守るため潔く死を選んだ態度は武士の鑑といえよう。
減点 -10点
島津重豪に無茶な厳命を押付けられ、成遂げたと思ったら密貿易事件で切腹、遺族も斉彬派の目の敵にされ悲惨な目に遭わされた。無念この上ない人生だったろう。