1533年 〜 1604年
30点※
毛利元就の厳島合戦に貢献し小早川隆景に属して瀬戸内海を牛耳るが豊臣秀吉に逆らい海賊停止令で命脈を絶たれた村上水軍の頭領、子孫は長州藩士に没落したが秀吉に帰服した同族の来島通総は豊後森藩1万4千石を立藩
1556年 〜 1623年
武田勝頼に臣従して御館の乱を制し叔父の上杉謙信を承継、極端な自派優遇策が新発田重家の反乱を招き織田信長に攻込まれるも本能寺の変で危機一髪、豊臣秀吉に仕え会津120万石・五大老に昇進するが中途半端に石田三成に加担し米沢30万石に没落
1572年 〜 1655年
謀略と暗殺で備前岡山城57万4千石を分捕った宇喜多直家の嫡子で豊臣秀吉の引立てで朝鮮役総大将・五大老に栄進、父に似ぬ義侠心から関ヶ原合戦で最も奮闘するが改易され八丈島へ流罪、流人のまま83歳で没した関ヶ原最後の武将
1838年 〜 1897年
山内容堂と共に土佐勤皇党を粛清し時流に取残されたが坂本龍馬・中岡慎太郎を抱込み大政奉還建白で桧舞台に立った土佐藩執政、維新後は政府高官となり板垣退助の自由民権運動に従うも迷走続きで事業も破綻
1850年 〜 1942年
山縣有朋の子分となり内務官僚・司法大臣として忠勤に励んだ後、楔として貴族院に送込まれ親山縣・反政党の牙城を築いた出世人
1852年 〜 1919年
陸軍長州閥に属し山縣有朋の子分というだけで首相に上り詰め、シベリア出兵と米騒動を巻き起し、藩閥専横と超然主義の限界を身を持って示したビリケン宰相
1856年 〜 1921年
結婚で長州閥に食込み、首相に上り詰めて「初の本格的政党内閣」を実現したが、政党政治の限界を示す役割を演じた虚構の平民宰相
1864年 〜 1929年
陸軍長州閥の領袖ながら政友会総裁に納まって首相に上り詰めたが、張作霖爆殺事件で昭和天皇と陸軍中堅幕僚の板挟みとなった「おらが首相」
1866年 〜 1944年
桂太郎側近の大蔵官僚として蔵相となり、桂新党を承継して憲政会総裁、首相に上り詰めたが、満州事変にお墨付き与える大失策を犯した元祖官僚政治家
1867年 〜 1952年
検察のドンの立場で軍部に加担し左翼と政党を排撃、念願の首相に上り詰めたが独ソ不可侵条約に遭遇し「欧州情勢は複雑怪奇」の言葉を残して退陣した観念右翼の総帥