1910年 〜 1980年
20点※
池田勇人から保守本流・宏池会を引継ぎ盟友田中角栄の支持で首相に就任、従米路線へ回帰し「日米同盟」強化と中国への「贖罪外交」を進めたが福田赳夫との不毛な政争の渦中に絶命した「アーウー宰相」
1560年 〜 1600年
10点※
豊臣秀吉の下で兵站・太閤検地・土木事業を担い、上杉・佐竹・島津・津軽等を圧伏して文治派筆頭官僚に躍進するが、朝鮮出兵と秀次事件で武断派に憎悪され秀吉没後すぐに失脚、己の復権のため関ヶ原合戦を起すが徳川家康の罠に嵌って惨敗した「才あって智ない」豊臣家崩壊の元凶
1880年 〜 1950年
穏健派陸軍人として東條英機内閣の後継首相に担がれたが、陸軍との妥協を図るうちに被害が拡大、戦局破綻後に退陣した不作為の重罪人
1582年 〜 1602年
0点※
ねねの甥で豊臣秀吉の養子となるが秀頼誕生で五大老小早川隆景に入嗣、関ヶ原合戦の寝返りで徳川家康に勝利を献上し備前岡山藩55万石に栄転するも僅か2年後に21歳で発狂死し無嗣改易となった精神薄弱児
1827年 〜 1872年
「幕末四賢候」に列したが謀臣吉田東洋の死後は「酔えば勤皇、覚めれば佐幕」の迷走、勇み足で武市半平太を殺して中央政局から脱落し大政奉還建白で徳川家擁護を図るも薩長に無視された土佐のアル中藩公
1836年 〜 1893年
徳川慶喜から京都守護職を押付けられ討幕派の目の敵にされた挙句に見捨てられ孤立、自己保身のため大義なき戦いを強行し会津人と東国諸藩を巻き添えにした「賊軍の将」
1838年 〜 1922年
奇兵隊幹部から運良く陸軍長州閥の首領に納まり汚職にまみれながら徴兵令を敷き外征のための軍事国家建設と政党弾圧に邁進、統帥権・軍部大臣現役武官制で文民統治を抹殺した軍部暴走の元凶
1875年 〜 1946年
山本権兵衛の申送りで軍令部総長となり満州事変から終戦まで海軍に君臨、軍拡反米英の「艦隊派」首領として海軍を日独伊三国同盟・対米開戦へ導き特攻作戦も発動した皇族元帥
1880年 〜 1946年
長州出身ゆえに後藤新平の引きで満鉄幹部に納まり軍部と大衆に迎合し強硬外交を扇動、独断で国際連盟脱退劇を演じ第二次近衛文麿内閣の外相として日独伊三国同盟・南部仏印進駐を主導した史上最悪の外政家
1884年 〜 1948年
陸軍統制派の最年長者として対米開戦時の首相に担がれ、ヒトラー並みの独裁者に仕立てられ「生きて虜囚の辱め」を受けた生真面目で陰険な暴走陸軍人