陪臣ながら室町幕府の実権を掌握し畿内・四国10カ国に君臨した「最初の戦国天下人」、寛大故に生涯反逆に悩まされ没後三好政権は内部分裂し織田信長の畿内侵攻で滅亡
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三好 長慶
1522年 〜 1564年
80点※
三好長慶と関連人物のエピソード
- 松永久秀は、三好長慶の下で勢力を伸ばすが長慶没後三好一門衆と対立して孤立、織田信長に帰順して大和支配を回復するも信長包囲網に加担、二度目の謀反に敗れて名器「平蜘蛛」諸共自爆死した下剋上の代名詞である。狡猾な辣腕家、主家簒奪・将軍弑逆・大仏焼討ちの「三悪事」で戦国三大梟雄に挙げられるが、斎藤道三・宇喜多直家のように恩人殺害や追放の証拠は無い。20歳過ぎで仕えた三好長慶は、微賤の出ながら有能な松永久秀を重用し、木沢長政・三好政長を討ち細川晴元・将軍足利義輝を追放して三好政権を樹立すると、40歳で京都所司代に就いた久秀は朝廷・幕府・寺社との折衝で頭角を現し、茶道・連歌に通じて一流の文化人となり、堺代官も兼ねて貿易で巨富を積み三好家中第一の勢力家となった。三好長慶が義輝・晴元を降し四国・畿内10カ国に君臨して全盛期を迎えるなか、大和侵攻を託された久秀は戦国城郭の範となる信貴山城(天守閣)・多聞山城(多聞造り)を築いて国人勢を討平した。が、主君長慶の運命は突如暗転、十河一存・三好実休・安宅冬康と柱石の実弟と嫡子三好義興まで相次いで喪い(久秀の陰謀説あり)、1564年自らも病没した。松永久秀は、近江六角・河内畠山の挟撃を退け、黒幕の将軍足利義輝暗殺により政権を保ったが(永禄の変)、権勢を妬む三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)ら一門衆との内部抗争が勃発、弟松永長頼の敗死で支配地の丹波を失い、三好義継を寝返らせ東大寺夜襲で三人衆を撃退するも挽回ならず(東大寺大仏殿の戦い)、1568年織田信長に帰服し加勢を得て大和を回復した。が、宿敵筒井順慶・興福寺の反撃で十市城を奪われ、信長に背いて近江戦線を離脱し順慶に決戦を挑むも大敗(辰市城の戦い)、孤立した久秀は信長包囲網に活路を託し謀反を起すが武田信玄急死で挫折、多聞山城と夥しい献上物を差し出して赦免され、佐久間信盛旗下で石山合戦に従軍した。そして1577年、信長包囲網再結成に呼応して再び謀反するが、頼みの上杉謙信が急死、大軍に信貴山城を攻囲されるなか信長所望の名物茶器「平蜘蛛」と共に自爆死、嫡子久通と妾腹の二児も処刑され松永氏は滅亡した。
- 松永久秀は、寝返りが茶飯事で謀略渦巻く畿内政局をリードして三好政権を支え、主君長慶没後は三好一門衆の総スカンを食って孤立しつつも逸早く織田信長に帰服して勢力を保ち、猜疑心の強い信長から使い捨てにされる未来を予見して謀反の先鋒役を果した智謀の士である。「寝返り癖」は細川政元暗殺後の乱脈極まる畿内政局にあっては別段目立つことではなく、恩人の長慶には終生忠節を貫き、信長への最初の謀反は大和救援を拒まれたため止むを得ない面があり、実際に信長も赦免している。猜疑心強烈で裏切りを許さない信長の性格を知れば、上杉謙信と石山本願寺の強勢をみて捨て身の勝負に出たのも頷ける。戦国大名としては、畿内勢共通の弱兵故に戦闘には強くなかったが、京都・堺・奈良をおさえて抜群の経済力を備え、防衛強固な信貴山城・多聞山城で戦国城郭建築の先駆者となり、茶道や連歌に通じて朝廷・幕府の権威を巧みに利用、いずれも信長が踏襲したことを考えると天下獲りの先導役だったともいえよう。ただ、三好三人衆ら同僚の悉くに憎悪され三好政権衰亡の元凶となったのは不徳の致す所で、苛酷な施政に苦しめられた領民は久秀が滅ぶと農具を売って酒に換え大いに祝ったという。三好家簒奪・将軍足利義輝暗殺・東大寺大仏殿焼討ちは久秀の「三悪事」とされるが、義輝弑逆の主犯は三好義継と三人衆で久秀は不関与あるいは消極的だったとする説もあり、大仏焼討ちの非は東大寺に陣取った三人衆側にあるだろう。久秀自害の日が奇しくも大仏焼討ちから10年後の同日10月10日であったことは事実のようだが、後世の軍記物は久秀を異常な好色漢に仕立て、いつも美女数人を引き連れて行軍し興じると紙帳を張って用を足した云々と伝えるが、信憑性は乏しい。また、年貢滞納の百姓に蓑を着せて火を放ちもがき死ぬ様を「蓑虫おどり」と称して楽しんだとか(斎藤道三にも類話あり)、大ケチながら貯めこんだ名物珍品を気前良く信長に献上して命を繋いだ云々の悪評も、伝説の域を出ない。恩人を次々に葬り去って成り上がった斎藤道三・宇喜多直家と並べて戦国三大梟雄と呼ぶのは久秀には酷であろう。
- 足利義輝は、抗争の末に三好長慶に屈服するも諸侯に通じて三好政権打倒を画策、三好三人衆・松永久秀の謀反に斃れたが塚原卜伝直伝「一つの太刀」で奮闘し最後の意地を示した剣豪将軍、弟の足利義昭が織田信長を裏切り室町幕府は滅亡する。12代室町将軍足利義晴の嫡子で、1546年10歳のとき亡命先の近江坂本で将軍位を譲られたが、敵対する管領細川晴元に追われては近江の六角定頼に匿われる無頼生活が続いた。1549年江口の戦いで主君晴元を破った三好長慶が幕政を握ると、足利義晴・義輝は細川晴元に担がれ長慶に抵抗したが、六角定頼の死で勢力を削がれ近江朽木へ退避、1558年京都奪回を試みるも阿波勢の来援で撃破され降伏して5年ぶりに京都へ戻った(北白川の戦い)。傀儡将軍も確保し幕政を牛耳った三好長慶は摂津・阿波を拠点に畿内・四国10ヵ国を制圧したが、剛毅な将軍足利義輝は抗争仲裁や偏諱・官位授与を通じて六角義賢・朝倉義景・伊達稙宗・最上義光・武田信玄・上杉謙信・織田信長・斉藤義龍・北条氏政・毛利元就・尼子晴久・大友宗麟・島津貴久らと関係を築き三好政権打倒を目論んだ。宿敵三好長慶の運命は弟の十河一存の病死で一気に暗転、1562年河内の畠山高政・安見宗房が近江の六角義賢を誘って蜂起すると、和睦工作で窮地を凌ぐも弟の三好実休が戦死し三好家中では戦功著しい松永久秀が台頭(久米田の戦い)、翌年嫡子三好義興に続き細川晴元・細川氏綱も死んで大義名分の管領を喪い、謀反の嫌疑で弟の安宅冬康を誅殺した直後に長慶自身も病没した。足利義輝には好機が到来したが、三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)に先手を打たれ二条御所を急襲されて討死(永禄の変)、三好氏を倒しても誰かに担がれるほか無かったが見事な死様で武門の棟梁の矜持を示した。足利義輝には嗣子が無く、三弟の周暠は殺されたが次弟の足利義昭は探索を逃れ越前朝倉氏へ亡命、幕臣の細川藤孝・明智光秀の斡旋工作が実り3年後に織田信長に担がれ最後の室町将軍となる。信長の上洛軍に三好三人衆も六角義賢も蹴散らされ、松永久秀は帰順するも後に謀反して滅ぼされた。
- 足利氏は清和源氏の一流で、八幡太郎義家の四男義国の次男義康を家祖とし本貫の下野足利荘から名字を採った。源頼朝は義家の嫡子悪源太義親、新田氏は義国の長男義重の裔である。頼朝の鎌倉将軍家は3代で滅びたが、足利氏は執権北条氏と密接な血縁を結んで源氏筆頭の家勢を保ち、元寇以来不満を募らせる武士団に押された足利尊氏が建武の新政を成功に導き、武士社会の現実を無視した後醍醐天皇を追放して室町幕府を開いた。尊氏が気前良く大封を配ったため支配基盤は脆弱で、南北朝合一を果し相国寺から天皇位を狙った3代将軍足利義満をピークに将軍権力は弱体化、復権を図った6代足利義教は赤松満祐に弑殺され(嘉吉の乱)、無気力な8代足利義政は悪妻日野富子の尻に敷かれ後継争いから応仁の大乱が勃発、9代足利義尚は古河公方足利成氏や南近江守護六角高頼の反逆を掣肘できず、群雄割拠する戦国時代に突入した。「半将軍」と称された管領細川政元は10代足利義材(義稙)を追放し11代将軍に足利義澄を擁立するが(明応の政変)養子3人の家督争いで暗殺され(永正の錯乱)、周防の大内義興が挙兵上洛し将軍義澄と細川澄元・三好之長の阿波勢を追放して義稙を将軍に復位させた。義興は船岡山合戦に勝利したが領国を尼子経久に侵され帰国、細川高国は六角定頼と同盟して三好之長を討ち寝返った将軍義稙を追放して足利義晴を12代将軍に擁立し(等持院の戦い)播磨の浦上村宗を誘って阿波勢を迎撃するが逆に討取られた(大物崩れ)。細川晴元は反逆した将軍義晴を追放し(嫡子足利義輝が近江で13代将軍を承継)一向一揆を扇動して権臣の三好元長を滅ぼすが、嫡子の三好長慶が報復を果し三好政権を樹立した。隠忍帰順した将軍義輝は諸侯に通じて三好政権打倒を図るが三好三人衆・松永久秀に襲われ斬死(永禄の変)、14代将軍足利義栄は入京叶わず病没し、尾張・美濃を征した織田信長が流浪の足利義昭を15代将軍に奉じ「天下布武」に乗出した。将軍義昭は信長を裏切って包囲網に加担するが武田信玄の急逝で夢破れ室町幕府は235年の幕を閉じた。足利将軍家は断絶したが、鎌倉公方系の足利国朝が下野喜連川藩を立藩し幕末まで存続した。
- 六角氏は、宇多源氏佐々木氏の嫡流の名門である(八幡太郎義家から源頼朝・足利尊氏と続く棟梁家は清和源氏で別系統)。頼朝挙兵時に貧乏ながら旅人を殺して馬を奪い伊豆に馳せ参じた佐々木四郎高綱を祖とし(梶原景季との宇治川先陣争いで有名)、高綱と兄三人の活躍で佐々木氏は近江をはじめ17カ国の守護職を占めるほどに栄えたが、執権北条氏に圧迫されたうえ、家督争いで4家(六角・京極・大原・高島)に分裂し勢力が衰えた。六角の名字は京都の屋敷が六角堂近くにあったことに由来する。鎌倉幕府末期、分家の京極家からバサラ大名佐々木道誉が登場、足利尊氏の室町幕府樹立を支えて幕府要職と6ヶ国守護を兼ね、近江では京極氏と六角氏の覇権争いが続いた。応仁乱の最中に京極家で後継争いが勃発(京極騒乱)、争闘30年の末に六角高頼の加勢を得た京極高清が勝利し、近江は六角氏と京極氏が南北分割統治することとなった。六角高頼は、公家・寺社と争いつつ権益を奪って勢力を拡大、9代将軍足利義尚の親征を退け(近江で陣没)、10代将軍足利義材の反攻上洛を撃退した。後継の次男六角定頼は、観音寺城に拠って戦国大名化し、細川高国を担いで細川澄元・三好之長を討破り京都を制圧して足利義晴を12代将軍に擁立、京極家で台頭した浅井亮政と和睦、飯盛城合戦後に暴徒化した一向一揆を掃討し(山科本願寺焼討ち)、高国を討った細川晴元と結んで足利義輝を13代将軍に擁立した。定頼の嫡子六角義賢は、三好長慶に追放された義輝・晴元を近江に保護して抗戦、京都に攻込むも撃退され、浅井長政に大敗して近江支配まで侵されるなか、河内の畠山高政と通謀挙兵するも何故か途中退場、嫡子六角義治の後藤賢豊暗殺(観音寺騒動)で家臣が離反するなか、三好三人衆に与して織田信長の従軍要請を拒否し、大軍に攻められて観音寺城から逃亡し守護大名六角氏は滅亡、甲賀を拠点にゲリラ戦を続けるが、信長包囲網瓦解と共に家名再興の夢破れた。が、義賢は豊臣秀吉の庇護下で78歳まで生永らえ、嫡子義治は加賀藩士・次男義定は徳川旗本として命脈を保った。
- 細川氏は、将軍足利氏の庶流で斯波氏・畠山氏と共に将軍に次ぐ管領職を世襲した「三管領」の名門である。応仁の乱の東軍総大将細川勝元の死後、管領を継ぎ「半将軍」と称された嫡子細川政元は10代足利義材(義稙)を追放し11代将軍に足利義澄を擁立したが(明応の政変)愛宕信仰が嵩じて飛行自在の妖術修行に凝り一切女色を断ったため子を生さず養子3人の家督争いが勃発、澄元擁立を図った政元は澄之に暗殺され(永正の錯乱)澄之を討った澄元・高国の抗争が戦国乱世に拍車を掛けた。三好元長ら阿波勢を擁する細川晴元(澄元の嫡子)が高国を討ち24年に及んだ「両細川の乱」は決着したが(大物崩れ)勝ち組の権力争いへ移行、晴元は一向一揆を扇動して元長を討ち三好長慶(元長の嫡子)を従えるが、実力を蓄えた長慶は12代将軍足利義晴と晴元を追放し(江口の戦い)反抗を続けた晴元と13代将軍足利義輝(義晴の嫡子)を降して三好政権を樹立した。長慶は傀儡管領に細川氏綱(高国の養子)を立てたが、三好政権瓦解と共に細川一族も没落した。その後の細川一門では和泉上守護家(細川刑部家)から出た細川藤孝の肥後細川家のみが繁栄した。細川澄元・晴元に属した細川元常は、一時阿波へ逃れるも大物崩れで所領を回復、三好長慶の台頭で再び没落し将軍義晴・義輝と逃亡生活を共にした。元常没後、甥の細川藤孝(義晴落胤説あり)は将軍義晴を後ろ盾に元常の嫡子晴貞から家督を奪い、三淵晴員・藤英(実父・兄)と共に名ばかりの将軍家を支え、義輝弑逆後は新参の明智光秀と共に織田信長に帰服し足利義昭の将軍擁立に働いた。関ヶ原の戦いで東軍に属し豊前中津39万9千石に大出世した嫡子の細川忠興は、光秀の娘珠(ガラシャ)を娶り四男をもうけた。忠興は徳川家康に忠誠を示すため長男忠隆に正室(前田利家の娘)との離縁を迫るが背いたため廃嫡、人質生活で徳川秀忠の信任を得た三男忠利を後嗣に就け、忠利は国替えで肥後熊本54万石の太守となった。不満の次男興秋は細川家を出奔し、豊臣秀頼に属し大坂陣で奮闘するが捕らえられ切腹した。忠利の嫡流は7代で断絶、忠興の四男立孝の系統が熊本藩主を継ぎ79代首相細川護熙はこの嫡流である。
- 塚原卜伝は、秘剣「一つの太刀」を編み出した東国七流・神道流の大成者で室町将軍足利義澄・義晴・義輝に仕え合戦37・真剣勝負19で212人を斃した生涯無敗の剣豪、上泉信綱・北畠具教・細川藤孝にも妙技を伝え創始した鹿島新当流は師岡一羽(一羽流)・根岸兎角之助(微塵流)・斎藤伝鬼坊(天道流)に受継がれた。父の卜部常賢は常陸鹿島城3万石の大掾景幹の家老で剣術道場主、次男の卜伝は塚原城主(3~4千石)塚原安幹に入嗣したが養父も飯篠長威斎直伝の神道流剣士という剣術一家に育った。1505年16歳の塚原卜伝は武者修行のため上洛し落合虎左衛門ら京八流の兵法者との立合いで名を挙げ将軍足利義澄に出仕したが、永正の錯乱に乗じた大内義興・細川高国が京都を制圧し足利義稙を将軍に擁立、追われた義澄は近江で病死し後ろ盾の細川澄元・三好之長は船岡山合戦に敗れ阿波へ撤退した。塚原卜伝は義澄の遺児義晴を守って奮闘を続けたが1519年義興の山口帰国を機に常陸へ戻り、鹿島神宮に千日参籠して秘剣「一つの太刀」を会得し旧姓に因んで「卜伝」を名乗った(元は高幹)。1523年再び廻国修行へ出た塚原卜伝は、武蔵川越城下で小薙刀の梶原長門を一瞬の差で斃して妙技を試し、細川高国に擁立され将軍となった足利義晴に帰参したが細川晴元・三好元長の京都侵攻で再び近江へ逃亡、1531年大物崩れで高国が滅ぼされた2年後に卜伝は鹿島へ帰った。義晴は近江坂本で嫡子義輝に将軍位を譲り三好長慶に反攻を企てるが1550年病没、1556年67歳の塚原卜伝は三たび上洛し加勢するが北白川の戦いに敗れた将軍義輝・細川晴元は京都へ帰還し三好政権の傀儡となった。塚原卜伝は義輝に「一つの太刀」を授けて京都を去り諸国を巡歴、伊勢国司北畠具教に「一つの太刀」を授け甲斐の山本勘助や近江の蒲生定秀を訪ねた後、1565年将軍義輝が三好三人衆に弑殺された永禄の変の翌年京都相国寺の牌所を詣でて鹿島へ帰り82歳まで長寿を保った。主家の大掾氏は上杉謙信・佐竹義昭に滅ぼされたが塚原・卜部氏は所領を保ち、塚原卜伝は道場指南のかたわら歌を詠む悠々自適の余生を送った(和歌集『卜伝百首』が現存)。
- 柳生石舟斎宗厳は、大和柳生2千石の領主にして上泉伊勢守信綱から新陰流を受継ぎ、太閤検地の隠田摘発で所領を失うが徳川家康に「無刀取り」を披露し江戸柳生・尾張柳生を興した将軍家お家流「柳生新陰流」の開祖である。大和は国侍割拠で統一勢力が育たず興福寺衆徒を束ねた筒井氏が台頭するも中央勢力に脅かされた。柳生家厳は、木沢長政(細川晴元の権臣)に属し筒井順昭に反逆したが長政が三好長慶に滅ぼされ降伏、順昭は大和平定を果たすが幼い順慶を遺し病没した。1559年柳生家厳・宗厳父子は信貴山城へ入った松永久秀(三好権臣)に従い大和攻略の先棒を担ぐが、1564年長慶没後三好政権は瓦解し久秀は総スカンを喰って孤立した。柳生宗厳は、戸田一刀斎から中条流・神取新十郎から新当流を学び上方随一の兵法者と囃されたが、40歳の頃「剣聖」上泉伊勢守信綱と邂逅し弟子の疋田景兼に軽く捻られ入門、疋田が柳生に留まり指南役を務めた。疋田が「もはや教える何物もなし」と評すほど上達した柳生宗厳は、1571年信綱から一国一人の印可(新陰流正嫡)と「無刀にして敗れざる技法と精神の会得」の公案を授かった。この間、三好三人衆・筒井順慶に追詰められた松永久秀は織田信長に転じて三好勢を掃討、1571年順慶・興福寺の巻返しで多聞山城に追詰められるが(辰市城の戦い)順慶は信長の猛威に屈した。家督を継いだ柳生宗厳は、久秀謀叛の連座を免れ勢力を保ったが、1585年大和に入封した豊臣秀長の太閤検地で隠田が発覚、改易された宗厳は石舟斎(浮かばぬ船)と号し子の柳生厳勝・宗章・宗矩は仕官を求め出奔した。1594年67歳の石舟斎は兵法好きの徳川家康に招かれ洛北鷹ヶ峯の居宅で「無刀取り」の奥義を披露、感服した家康は宗厳の代わりに随員の宗矩(末子)を召抱えた。柳生但馬守宗矩は関ヶ原合戦の功績で大和柳生の庄を含む3千石を与えられ徳川秀忠の兵法指南役に栄進、石舟斎は本貫回復を見届けて世を去った。宗矩は徳川家光の謀臣となり初代惣目付(大目付)から大和柳生藩1万2500石の大名へ栄達し、柳生兵庫守利厳(厳勝の後嗣)は尾張徳川家の兵法指南役に就任、両柳生家は幕末まで兵法界に君臨した。
- 千利休(千宗易)は、堺の豪商出身の侘茶の完成者で見方によっては大山師、茶頭として織田信長に出仕し本能寺事変後は豊臣秀吉に仕え「利休道具」の錬金術と「一期一会」の接待術で大名統治に貢献するが突如逆鱗に触れて死罪、子孫の「三千家」は上流社会に憧れる庶民を惹きつけ全国に鼠講を張巡らせて本願寺と並ぶ巨大教団に発展し今日まで繁栄を続ける。魚問屋に倉庫業を兼ね一代で財を成した田中与兵衛(千氏へ改姓)の嫡子で、北向道陳・武野紹鴎に師事して茶の湯を研鑽し、堺南宗寺(大徳寺の末寺)に入門して臨済禅の修行を積んだ。共に茶の湯の「天下三宗匠」と称された今井宗久・津田宗及は紹鴎門下の相弟子である。三好長慶の妹とされる宝心妙樹を妻に迎えたのは自治都市堺を守るための政略であったと考えられるが、1569年織田信長が堺から自治権を取上げると茶頭として出仕し、1582年信長の横死に伴い豊臣秀吉の茶頭に転身、二束三文の粗末な茶器を名器に仕立てる錬金術と侘茶接待で頭角を現し、秀吉は利休を持て囃し「利休道具」に更に箔を付けて諸大名に与える好循環を演出、天下人の寵を得た千利休は「利休七哲」(蒲生氏郷・細川忠興・芝山宗綱・古田織部・高山右近・瀬田正忠・牧村利貞)を筆頭に諸大名から崇敬を集め豊臣政権の内政にも深く関わった。「黄金の茶室」や聚楽第など成金趣味に奔る秀吉に美意識上の葛藤を抱きつつも、妙喜庵待庵に代表される草庵風茶室(下地窓・連子窓や躙口をあけた二畳の茶室)を完成させ楽茶碗や竹の花入・茶柄杓・茶杓などの道具、作庭にも工夫を凝らして侘茶の境地を開いた。が、1591年突如秀吉から堺に蟄居を命じられ、弟子の大名連や前田利家の助命嘆願も虚しく上杉景勝の兵に京都聚楽屋敷を囲まれるなか従容と切腹に応じ、首は一条戻橋に晒された。「大徳寺三門の利休像」など動機には諸説あるが、側近を牛耳りたい石田三成が耄碌した秀吉を煽り事を運んだ可能性が高い。数年後に秀吉は利休の遺族を赦免、嫡子の千道安は細川忠興に仕えたが後嗣無く病没し、利休婿養子の千少庵が家督を継いで京都に住し嫡子千宗旦の三児が武者小路千家・表千家・裏千家の祖となった。
三好長慶と同じ時代の人物
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戦国
織田 信長
1534年 〜 1582年
140点※
中世的慣習を徹底破壊して合理化革命を起し新兵器鉄砲を駆使して並居る強豪を打倒した戦国争覇の主人公ながら、天下統一を目前に明智光秀謀反で落命し家臣の豊臣秀吉・徳川家康に手柄を奪われた悲劇の英雄
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戦国
毛利 元就
1497年 〜 1571年
100点※
安芸の小領主の次男坊から権謀術数で勢力を拡大、息子の吉川元春・小早川隆景を両翼と頼み、厳島の戦いで陶晴賢を討って大内家の身代を奪取、月山富田城の尼子氏も下して安芸・備後・周防・長門・石見・出雲・隠岐・伯耆・因幡・備中を制覇した戦国随一の智将
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戦国
徳川 家康
1542年 〜 1616年
100点※
旧主今川義元を討った織田信長と同盟して覇業の一翼を担い、豊臣秀吉没後秀頼を滅ぼして天下を奪取、信長の実力主義・中央独裁を捨て世襲身分制で群雄割拠を凍結し265年も時間を止めた徳川幕府の創設者
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