実兄を廃して越後の領袖となるも生涯反乱に忙殺され、武田信玄・北条氏康との合戦に明け暮れたが関東侵出に挫折、越中・能登を征し織田信長との決戦を前に急死した戦国最強の天才武将
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照戦国
上杉 謙信
1530年 〜 1578年
80点※
上杉謙信と関連人物のエピソード
- 武田信玄と上杉謙信は川中島の戦いで覇を競った最強の戦国大名である。両軍の精強は元来甲斐・越後の兵が「上方兵の10人分」(因みに東海道最強といわれた三河武士は3人分)といわれたほど強かったことが要因だろうが、野武士軍団をまとめ力を発揮させた力量は凄い。ライバルの二人は性格も用兵術も全く異なったようである。武田信玄は、軍事だけでなく智謀・政治にも優れた緻密且つ用意周到な万能タイプで、「武田二十四将」に気を配りつつ軍団編成や戦術を自ら細かく指揮し、謀略・外交も駆使して旺盛な領土欲を満たしていった。「信玄堤」に代表される治水事業は最も有名だが、金山開発などの産業奨励にも注力し、占領地は暴政を敷く危険性のある家臣には与えず直轄領として民政に老練な代官を送り善政をさせて大いに民心を得たという。惜しむらくは行動の遅さだろう。上洛目前の急死は悲運であったが、織田信長さえ全力を尽くして信玄の機嫌を取り結び死後は発狂したように躁状態に入ったというから、もう少し早く動いていたらと思わざるを得ない。諏訪氏討伐後、奥の院に引篭もって昼夜の別なく酒色と作詩に耽溺し、板垣信方に諫止されたというから自堕落で享楽に耽り易い性質であったとも考えられる。誰もが無敵と仰ぐ武田信玄を川中島に釘付けにし野望を阻んだのが9つ年下の上杉謙信であった。こちらは毘沙門天を尊崇する大の戦争好きで、後継問題で揺れる上杉家中を天才的軍才で掌握し、領土的野心が無いのに頼られるごとに関東へ信濃へと義軍を出した。兵法者の信仰篤い飯縄権現に帰依し妻帯禁制の戒を守って生涯童貞で通したといわれ(なお愛宕勝軍地蔵を信仰して飛行自在の妖術修行に励んだ管領細川政元も女色を禁断した)、謙信女性説の根拠となっている。戦略や用兵は全て直感で行い、事前の下知や相談はせず、出陣に際して並んだ将兵を乗馬のまま区切るという適当さながら、軍略は鬼神の冴えを現し戦えば勝ったので家臣さえ「軍神」と仰いだという。武田信玄の上洛に際し両雄は和睦するが、信玄は亡くなる前に「謙信と和親して頼れ、あれは頼みになる男じゃ」と遺言したという。「敵に塩を送る」美談も有名である。
- 長尾為景は、越後守護上杉房能・関東管領上杉顕定(房能の兄)の二君を討ち百戦連勝で越後を掌握した北国下克上の筆頭格にして上杉謙信の父である。1504年山内上杉顕定が扇谷上杉朝良・今川氏親・北条早雲の連合軍に敗れ北武蔵の鉢形城に追詰めらると(立河原の戦い)、越後守護代の長尾為景は武蔵に遠征して主家の顕定を救い逆に朝良を降伏させて18年に及んだ長享の乱を終息させた。1506年室町幕府管領細川政元の要請を受けた本願寺実如(蓮如の後嗣)が加賀・越中一向一揆を圧迫する越前朝倉氏と越中・能登畠山氏の討伐を号令、朝倉宗滴が九頭竜川合戦に圧勝し越前防衛を果すと一揆勢は内紛に揺れる越中に殺到、越中守護畠山尚順の要請に応じた長尾能景は親不知・子不知の難所を越えて出陣するが神保慶宗の裏切と主君上杉房能の傍観により討死した(般若野の戦い)。後を継いだ長尾為景は、自身の誅殺を企てた上杉房能を急襲して自害させ、1510年越後に来襲した関東諸豪の大軍を返討ちに破って上杉顕定を討取り(長森原の戦い)、上杉定実を傀儡守護に擁立し妹を娶わせた。1520年越後の国政を握った長尾為景は越中へ攻入って仇敵神保慶宗を討ち、一向衆禁止令を布告して越中征服に乗出したが一向一揆の蜂起に遭って断念(2年後に管領細川高国の調停により和睦成立)、以後は朝廷や室町幕府の権威を利用しつつ越後の反抗勢力討伐に専念した。1536年越後で上条定憲(定実の近親)と同族の上田長尾房長(政景の父)率いる揚北衆が反乱挙兵、劣勢の長尾為景は柿崎景家の寝返りを誘って撃退するも決定的勝利を得られず、国人衆の反抗に手を焼きながら54歳で死去した。後を継いだ嫡子の長尾晴景は宥和策を侮られ反抗を煽る結果を招き、次男景房・三男景康は抗争の渦中に落命した。四男の上杉謙信は父為景を凌駕する軍才に恵まれ13歳の初陣から連戦連勝で反乱軍を撃破、家臣・国人衆に推されて晴景から家督を奪い、長尾政景(房長の嫡子)と揚北衆を滅ぼして越後を平定し戦国大名への脱皮を果した。謙信の後を継いだ養子の上杉景勝は、謙信が謀殺した長尾政景と仙桃院(謙信の姉)の子である。
- 上杉景勝は、武田勝頼に臣従して御館の乱を制し叔父の上杉謙信を承継、極端な自派優遇策が新発田重家の反乱を招き織田信長に攻込まれるも本能寺の変で危機一髪、豊臣秀吉に仕え会津120万石・五大老に昇進するが中途半端に石田三成に加担し米沢30万石に没落した。超寡黙・無表情で家政は直江兼続に任せたが合戦には強かった。1564年宇佐美定満が上杉謙信の三条長尾家と対立する上田長尾家の当主政景と共に溺死し、8歳の嫡子景勝は謙信の養子にとられ越後坂戸城から春日山城へ移された。上杉景勝は上田衆を率いて武勇を示し、謙信から弾正少弼の官位を譲られ一門衆筆頭と目されるも世子の明示は無く、1578年謙信が急逝すると相養子の上杉景虎(北条氏政の実弟)との激烈な家督争いが勃発、北条と甲相同盟を結ぶ武田勝頼が信越国境に迫り窮地に陥ったが妹菊姫の入輿を乞い東上野と膨大な献上物を差出して勝頼篭絡に成功、上杉景虎・道満丸父子と上杉憲政(謙信の養父)を滅亡に追込んだ(御館の乱)。が、2年の内乱で上杉家は弱体化し極端な上田衆優遇に怒った新発田重家らが伊達輝宗・蘆名盛隆を後ろ盾に蜂起、1582年武田を滅ぼした織田軍団が越中・信濃・上野の三方面から越後へ殺到し柴田勝家に越中魚津城を落とされたが信長討死で蘇生、天正壬午の乱に乗じて北信濃4郡を奪い取った。越中の佐々成政を牽制しつつ新発田重家を攻めるも討死寸前の惨敗(放生橋の戦い)、しかし蘆名盛隆の急死と伊達政宗の越後放棄で後ろ盾を失った重家を押返し、1586年豊臣秀吉に臣従し越中・上野の放棄に替えて佐渡・出羽の切取り次第を認められると重家を討って越後を回復、本間氏を降して佐渡を併せ、大崎合戦に乗じて最上義光から出羽庄内三郡を奪い(十五里ヶ原の戦い)領地は90万石に膨らんだ。1598年蒲生騒動を機に秀吉から会津120万石と徳川家康の押え役を託されると、1600年家康を会津征伐に誘い出し盟友石田三成が関ヶ原合戦を起すが家康追撃を説く直江兼続を「義に非ず」と退け挟撃策が破綻、最上義光を攻めるも打破れず西軍完敗で撤退し(慶長出羽合戦)、上洛して家康に陳謝し改易は免れたが米沢藩30万石へ落とされた。
- 直江兼続は、豊臣秀吉に取入って上杉景勝を会津120万石へ押上げるも時勢を見誤って石田三成に肩入れし出羽米沢藩30万石へ転落させた「愛」冑の田舎軍師である。上田長尾政景に仕えた樋口兼豊の長男で、御館の乱を制し上杉謙信の家督を継いだ景勝(政景の嫡子)に出仕、1581年刃傷事件で横死した直江信綱の未亡人を娶って直江家と越後与板城を承継したが、極端な上田衆優遇策が謙信遺臣の離反を招き新発田重家の乱を招来した。翌年織田信長が武田勝頼を攻め滅ぼし、柴田勝家に越中魚津城を落とされ信濃・上野からも織田軍団が越後へ迫るが間一髪で本能寺の変が勃発、蘇生した上杉景勝は天正壬午の乱に乗じて北信濃4郡を奪取し、新発田を攻めるもあわや討死の大敗を喫した(放生橋の戦い)。直江兼続は天下人豊臣秀吉に活路を求め石田三成に接近、蘆名盛隆の急死と伊達政宗の越後放棄で後ろ盾を失った新発田重家から新潟城・新潟港と沼垂城を奪還し、1586年景勝共々上洛して秀吉に臣従を誓い越中・上野の放棄に替えて佐渡・出羽の切取り次第の墨付を獲得、翌年重家を討って越後回復を果し、本間氏を降して佐渡を併せ、大崎合戦に乗じて最上義光から出羽庄内三郡を奪い(十五里ヶ原の戦い)景勝は90万石の大封を獲得、兼続は占領統治と経済政策に辣腕を発揮した。1598年徳川家康を警戒する秀吉・三成は力量不足の蒲生秀行を移封し上杉景勝を会津120万石に抜擢、直江兼続は米沢30万石を分与され陪臣ながら大大名に列した。秀吉に続いて前田利家が没すると加藤清正・福島正則ら武断派は憎悪する三成を襲撃、家康の裁定で失脚に追込まれた三成は景勝・兼続と謀議を巡らし、会津へ戻った景勝は家康の上洛命令を拒絶し兼続は「直江状」で挑発した。1600年おそらく筋書き通りに家康は会津征伐を敢行し三成は隙を衝いて挙兵、直江兼続は関ヶ原合戦へ向かう家康の追撃を説くも景勝は「義に非ず」と退け最上義光攻めを決断し、兼続は圧倒的大軍で攻めるも敗退した(慶長出羽合戦)。結果として小早川秀秋の寝返りと毛利輝元の大阪城放棄で西軍は予期せぬ完敗、追撃策を捨てた景勝は米沢藩30万石へ削られるも改易は免れた。
- 武田信玄と上杉謙信は川中島の戦いで覇を競った最強の戦国大名である。両軍の精強は元来甲斐・越後の兵が「上方兵の10人分」(因みに東海道最強といわれた三河武士は3人分)といわれたほど強かったことが要因だろうが、野武士軍団をまとめ力を発揮させた力量は凄い。ライバルの二人は性格も用兵術も全く異なったようである。武田信玄は、軍事だけでなく智謀・政治にも優れた緻密且つ用意周到な万能タイプで、「武田二十四将」に気を配りつつ軍団編成や戦術を自ら細かく指揮し、謀略・外交も駆使して旺盛な領土欲を満たしていった。「信玄堤」に代表される治水事業は最も有名だが、金山開発などの産業奨励にも注力し、占領地は暴政を敷く危険性のある家臣には与えず直轄領として民政に老練な代官を送り善政をさせて大いに民心を得たという。惜しむらくは行動の遅さだろう。上洛目前の急死は悲運であったが、織田信長さえ全力を尽くして信玄の機嫌を取り結び死後は発狂したように躁状態に入ったというから、もう少し早く動いていたらと思わざるを得ない。諏訪氏討伐後、奥の院に引篭もって昼夜の別なく酒色と作詩に耽溺し、板垣信方に諫止されたというから自堕落で享楽に耽り易い性質であったとも考えられる。誰もが無敵と仰ぐ武田信玄を川中島に釘付けにし野望を阻んだのが9つ年下の上杉謙信であった。こちらは毘沙門天を尊崇する大の戦争好きで、後継問題で揺れる上杉家中を天才的軍才で掌握し、領土的野心が無いのに頼られるごとに関東へ信濃へと義軍を出した。兵法者の信仰篤い飯縄権現に帰依し妻帯禁制の戒を守って生涯童貞で通したといわれ(なお愛宕勝軍地蔵を信仰して飛行自在の妖術修行に励んだ管領細川政元も女色を禁断した)、謙信女性説の根拠となっている。戦略や用兵は全て直感で行い、事前の下知や相談はせず、出陣に際して並んだ将兵を乗馬のまま区切るという適当さながら、軍略は鬼神の冴えを現し戦えば勝ったので家臣さえ「軍神」と仰いだという。武田信玄の上洛に際し両雄は和睦するが、信玄は亡くなる前に「謙信と和親して頼れ、あれは頼みになる男じゃ」と遺言したという。「敵に塩を送る」美談も有名である。
- 武田信玄(晴信)は、一代で甲斐を平定した父武田信虎を追放して家督を継ぎ信濃・駿河を征服、川中島の戦いで上杉謙信と戦国最強を競い、天下を望んで上洛軍を挙げ三方ヶ原の戦いで徳川家康を一蹴するが織田信長との決戦目前に陣没した残念な英雄である。武田信虎の嫡子に生れ、16歳の初陣で信虎を退けた強豪平賀入道源心を奇襲で討取るも、次男信繁を偏愛する信虎に嫌われ廃嫡を怯える日々を送った。1541年重臣及び姉婿今川義元と共謀して信虎を駿河に追放し家督を承継すると、翌年信虎の懐柔路線を棄てて諏訪攻めを開始、妹婿の諏訪頼重、高遠頼継を攻め滅ぼした。土豪が割拠し統一勢力の無い信濃を狙うも、村上義清は強敵で、上田原の戦いで宿老板垣信方まで討取られる大敗を喫したが、塩尻峠の戦いで小笠原長時を破り、1551年戸石城・葛尾城を攻略し信濃一国を平定した。武田信玄は越後に野心はなかったが、村上義清に泣き付かれた上杉謙信が秩序回復の義軍を挙げ北信濃に侵入、1553年から11年に渡る川中島の戦いが勃発し痛恨の足止めを喰った。特に第4回戦は啄木鳥戦法を見破った謙信が本陣に斬り込み信玄に一太刀浴びせ弟武田信繁や軍師山本勘助も戦死という大激戦となったが、結局謙信は兵を引き不毛な争いは和睦へ向かった。上杉謙信の猛攻を凌いだ武田信玄はようやく関東に侵出、箕輪城攻略で上野国西部を領有し、今川義元亡き駿河へ侵攻を開始した。徳川家康と今川領の東西分割を約し、義元の娘を妻とする武田義信を廃嫡して自害させ、駿府城を落として今川氏真を追放、妨害に出た北条軍を三増峠の戦いで撃破して1569年駿河一国を征服した。上杉・北条と和睦して背後を固め、将軍足利義昭・浅井長政・朝倉義景・本願寺顕如・松永久秀らと提携したうえで、1572年織田信長討伐を掲げて京都へ進発、徳川家康を一蹴して三河野田城まで攻め込んだが、突如発病し陣没した。1575年後継の武田勝頼は織田・徳川に再挑戦したが馬防柵と鉄砲の三段撃ちの前にまさかの大敗(長篠の戦い)、1582年甲州征伐・天目山の戦いで甲斐武田氏は滅亡した。
- 「武田二十四将」は今なお有名だ。山本勘助は、諸国巡礼の末に52歳で武田信玄に仕官し足軽大将に抜擢された。容貌醜悪で片足が不自由だが、諸国情勢や兵法・築城術に通じ、信玄に恨みを含む諏訪御料人の側室採用、北信濃攻略などに大功があったが、第4次川中島の戦いで上杉謙信に啄木鳥戦法を見破られ戦死した。江戸時代に甲州流軍学を広めた小幡勘兵衛の『甲陽軍鑑』で一躍有名軍師となったが、その雛形は勘助の子が作ったもので、実際は軽格と見る向きが強い。ただ、二十四将中で門外漢は山本勘助のみであり、浪々の身から破格の昇進を遂げた事実は動かない。同じ謀略系では真田幸隆がいる。信玄に属して合戦で奪われた所領を回復、戸石城攻略で大功を挙げ、巧みなゲリラ戦術は子の真田昌幸・孫の真田信繁(真田幸村)へ受継がれた。猛者揃いの武田軍でも「武田四天王」馬場信春・内藤昌豊・高坂昌信・山県昌景は別格だが、最強は山県昌景だろう。140センチ足らずの小兵で口蓋裂の醜貌ながら、常に先陣を疾駆し「赤備え」と恐れられた。「赤備え」の元祖は昌景の兄飯富虎昌、信虎追放劇に加担した宿老だが、武田義信の傅役故に謀反疑惑に連座し処刑された。長篠の戦いで山県昌景が戦死した後、「赤備え」は井伊直政と真田幸村が踏襲した。高坂昌信も強いが、少年期は信玄の寵童であったという。板垣信方は、信虎追放以来の腹心で、享楽に耽る武田信玄を諌め、北信濃方面軍司令官の大役を担ったが、上田原の戦いで緒戦の勝利に油断し前線で首実験中に村上義清に襲撃され落命した。長篠の戦い後、武田勝頼の求心力は衰え、最期は譜代重臣にも見捨てられた。小山田信茂は、信玄の従弟で家中屈指の大族だったが、織田信長の甲州征伐で逃亡する武田勝頼の保護を拒み滅亡に追いやった。戦後信長に降伏するが、余りの不忠を咎められ処刑。穴山信君は、武田一族の名門だが、従兄弟の勝頼と対立し長篠の戦いで戦線離脱、甲州征伐では織田方に内通し本領安堵のうえ武田宗家を継承した。が、徳川家康と堺見物中に本能寺の変が勃発、木津川河畔で土民の落ち武者狩りに遭い落命した。
- 佐竹義重は、上杉謙信の力添えで北条氏康の侵攻を防ぎ豊臣秀吉に帰服して常陸水戸藩54万石(属領を含めると80万石)を保った北関東の盟主、嫡子佐竹義宣が石田三成・上杉景勝に内応し秋田久保田藩20万石に減転封された。佐竹氏は「関東八屋形」の名門だが、北関東は国人が割拠し北条方・上杉方に分かれ鍔迫り合いを繰広げ、奥羽では陸奥守護伊達稙宗が嫡子晴宗との抗争に陥り蘆名・最上・相馬・大崎・葛西らが台頭した(天文の乱)。常陸太田城主佐竹義昭は、宇都宮広綱・多賀谷政経・真壁氏幹らを従え上杉と同盟して小田氏治・結城晴朝・白河義親・那須資胤と対峙、1564年謙信の「神速」の来援で小田城を攻落としたが(山王堂の戦い)常陸統一を目前に病没、北条方が盛返し再び乱麻の情勢となった。後継の佐竹義重は、謙信との連携強化で挽回を図り、1574年抵抗を続ける小田氏治を破って常陸統一をほぼ達成した。1582年本能寺事変後の天正壬午の乱を経て北条氏が上野を制圧、佐竹義重は下野に侵攻するが逆に長沼城を奪われ敗退(沼尻の合戦)、豊臣秀吉に帰服し援軍を懇請した。北方では会津黒川城主蘆名盛氏が没し伊達政宗が台頭、佐竹勢は二本松城を攻めた政宗を撃退するが決定機を逃した(人取橋の戦い)。佐竹義重は、伊達政道(政宗の弟)を退けて次男義広を蘆名氏の家督に据え、1588年大崎合戦の政宗敗北に乗じて伊達領へ攻入るが敗退(郡山合戦)、翌年最上義光と和睦し南転した政宗に黒川城を攻落とされ蘆名領を奪われた(摺上原の戦い)。佐竹義重は伊達・北条の挟撃に晒されたが、秀吉の小田原征伐で窮地を脱し宇都宮仕置で常陸太田城54万石を安堵され、江戸重通・大掾清幹を滅ぼし「南方三十三館」を謀殺して常陸支配を確立、新築の水戸城へ移った嫡子義宣に家政を譲り隠居した。佐竹義宣は、配下の宇都宮国綱・芳賀高武の改易騒動で取成しの恩を受けた石田三成に接近し、1600年関ヶ原の戦いが起ると東軍加盟を説く義重を抑え人質上洛命令を拒否して水戸城へ無断撤収、戦後徳川家康への釈明に奔走したが秋田への国替えを命じられた。佐竹義重は1612年まで生きたが狩猟中の落馬事故で死去した。
- 長野業正は、上野守護代長尾氏を滅ぼして西上野を掌握し、山内上杉氏を承継した上杉謙信に属して北条氏康・武田信玄の猛攻を防ぎ切った箕輪城の勇将、自らの死で謙信の関東侵出は頓挫し後嗣の長野憲業は信玄の猛攻に晒され滅亡した。関東公方足利氏と山内・扇谷の両上杉家が長期内紛で衰退するなか、長享の乱・永正の乱を制した越後長尾氏が台頭し長尾為景は越後守護上杉房能を弑殺し攻め寄せた関東管領山内上杉顕定(房能の実兄)も討殺、関東では今川・北条が扇谷上杉領を侵食し群雄割拠する戦国下克上に突入した。山内上杉家に仕える長野業正は、長享の乱で降した扇谷上杉朝良の娘を娶り12人もの女児を次々土豪に縁付ける婚姻政策で勢力を扶植、1527年長尾為景に靡いた惣社長尾顕景・白井長尾景誠を降し両守護代家に傀儡当主を据えて西上野を掌握した。1546年関東管領上杉憲政が上杉朝定・古河公方足利晴氏と同盟し圧倒的大軍で北条氏康を攻めるが「地黄八幡」北条綱成の「日本三大奇襲」に遭い致命的敗北、古河公方は北条の傀儡に堕し朝定敗死で扇谷上杉氏は滅亡、憲政は命からがら上野平井城へ落延びるも山内上杉家は没落した(河越夜戦)。長野業正は、嫡子吉業を河越夜戦で喪いながら国人の結束を固めて西上野を堅持し、憲政を保護し山内上杉氏の家督を譲られた上杉謙信(為景の後嗣)に臣従、1552年「箕輪衆」を率いて北条軍の西上野侵攻を食止めた。1557年川中島の戦いで対峙する謙信の後方撹乱を期す武田信玄が西上野侵攻を開始、長野業正は上野国人を糾合して迎え撃ち、足並みの乱れで緒戦を落とすが殿軍を務めて鮮やかな退却戦を演じ、箕輪城に籠ると夜討ち朝駆けの奇襲戦法で武田軍を痛撃し謙信の来援を得て防衛に成功、信玄をして「業正ひとりが上野にいる限り、上野を攻め取ることはできぬ」と慨嘆させた。長野業正は老骨に鞭打って西上野を守り抜いたが寿命には勝てず1561年70歳で病没、信玄は「これで上野を手に入れたも同然」と直ちに猛攻を仕掛け柱石を喪った上杉勢は瓦解、後嗣の長野業盛は謙信の助勢を得て奮闘したが1566年箕輪城陥落と共に上野長野氏は滅亡した。
- 上泉伊勢守信綱は、愛洲移香斎久忠の陰流に東国兵法を加味して新陰流を興し袋竹刀(しない)も導入して「剣術諸流の原始」と謳われた「剣聖」、愛弟子の柳生石舟斎宗厳が徳川家康に見出され将軍家お家流に抜擢された新陰流は隆盛を極めた。上野大胡氏一門で上泉城主の上泉義綱の嫡子で祖父から続く上泉道場の4代目、東国七流・神道流を修め塚原卜伝にも学んだが伊勢より来訪した愛洲移香斎の陰流に惚れ込み「陰流ありてその他は計るに勝へず」と断言、2年の猛稽古の末に「見事、もはや教えることは何も無い」と告げられた上泉信綱は兵法の合理的分析と系統立てを行い1533年新陰流を創始した。1546年主君の関東管領山内上杉憲政が河越夜戦で北条氏康に惨敗し越後の上杉謙信へ亡命、北条軍に大胡城を攻撃され武田信玄も上野侵攻を始めるなか、箕輪城主長野業正に属し武功を重ねた上泉信綱は「上野国一本槍」と賞賛され近隣諸国に新陰流兵法の名を馳せた。が、猛将業正の病死に乗じた信玄の猛攻により1566年箕輪城を落とされ長野氏は滅亡、上泉信綱は玉砕を覚悟するが武威を惜しむ信玄に救済され、一旦仕官するも新陰流普及を発願し他家に仕官しないことを条件に許され疋田景兼・神後伊豆守宗治を伴い武田家を出奔した。諸国の剣豪を巡訪した上泉信綱は、伊勢国司北畠具教(塚原卜伝の秘剣「一つの太刀」継承者)を「これぞ達人」と唸らせ、奈良柳生の庄に滞在し領主で中条流剣士の柳生宗厳に奥義を伝授、奈良興福寺の宝蔵院胤栄・肥後相良家臣の丸目蔵人長恵にも印可を授け上洛して将軍足利義輝(「一つの太刀」継承者)・正親町天皇に妙技を披露した。晩年忽然と足跡を消すが上方で数年を過ごしたのち上野へ戻り69歳で没したといわれ、嫡孫の上泉泰綱は上杉景勝・直江兼続に拾われ子孫は米沢藩士として存続した。柳生但馬守宗矩(宗厳の五男)が江戸柳生・柳生兵庫守利厳(同嫡孫)が尾張柳生を興すと新陰流祖の上泉信綱は「稀世の剣聖」と崇められた。正統を継いだ柳生新陰流のほか門下から疋田流・神後流・タイ捨流(丸目蔵人)・神影流(奥山休賀斎公重。徳川家康の剣術の師)・穴沢流(穴沢浄賢)・宝蔵院流槍術が興っている。
- 北条氏康は、北条早雲・氏綱の遺志を継いで関東管領上杉氏を滅ぼし、関東制覇は上杉謙信と武田信玄に阻まれたが伊豆・相模から関東全域に勢力を伸ばし善政を敷いた文武両道の智将である。減税・中間搾取排除に窮民対策の徳政令も施して民心を掴み、都市開発と文芸振興で小田原を東日本一の繁華街にし、「総構え」で要塞化した小田原城で上杉・武田の猛攻を凌ぎ切ったが、堅城を過信し降伏を逡巡した後嗣氏政・氏直が豊臣秀吉に滅ぼされ、そのまま遺領を継いだ徳川家康が江戸幕府を開いた。浪人から伊豆・相模国主に成り上がった早雲の嫡子北条氏綱は、扇谷上杉氏から江戸城を攻め取り、小弓公方足利義明を返り討ちにして武蔵国を掌握した。1541年氏綱を継いだ嫡子北条氏康は、上杉氏と今川義元の挟撃に遭うも今川と和睦して危機を脱し、1546年武蔵に転じると北条綱成の奇襲で圧倒的優勢の上杉軍を撃滅(河越夜戦)、扇谷上杉朝定を討ち滅ぼし、山内上杉憲政を敗走させ、足利晴氏を幽閉して次男義氏(氏康の娘婿)を古河公方に擁立した。関東諸豪を切崩し、武田・今川と甲相駿三国同盟を結んで関東統一に夢を馳せたが、生涯の宿敵に行手を阻まれた。上杉憲政を保護し名跡を継いだ上杉謙信が上野に侵攻、1561年今川義元討死の虚を突いて北条氏康討伐を号令すると、圧倒的武力で瞬く間に関東を席巻し小田原城に迫った。北条氏康は、謙信出陣中は籠城で凌ぎ、信玄の後方撹乱で謙信が越後に戻ると盛り返す戦術を展開、房総半島を征した上杉方の里見義堯を破って安房に追い詰め(国府台合戦)、1566年上野箕輪城を落として謙信を追い払った。邪魔者を退けた北条氏康であったが、里見討伐に送った子の氏政・氏照がまさかの大敗、信玄が今川領駿河に侵攻すると色気を出して参戦したが、逆に小田原城まで攻め込まれ敗退(三増峠の戦い)、謙信と同盟したことが関東諸豪の動揺を招き、常陸の同盟軍が佐竹義重に大敗して北進も阻まれ、挽回成らぬまま死去した。氏康の遺言に従い北条氏政は上杉との同盟を解消して再び武田と同盟、武田勝頼滅亡後遺領に色気を出したが今度は徳川家康に跳ね返され、豊臣秀吉の小田原征伐で滅亡した。
- 北条氏康の政治力は祖父早雲譲りで戦国時代随一といわれる。領国拡大よりも統治に重きを置き、無理な外征を控えて戦費を抑え他国より低い税負担を実現した。北条領を引き継いだ徳川家康は税率引上げに苦労し、忍者の風魔小太郎(江戸幕府創設直後に処刑)や鳶沢甚内(幕府に帰順し目明し兼古着商支配役を世襲)など北条家遺臣が成した盗賊団の跳梁にも手を焼いた。義戦の名の下に実益乏しい外征に明け暮れ重い戦費負担を強いた上杉謙信とは好対照で、局地戦では敵わなかったものの、家臣と領民の支持が長期持久戦を可能にし広い領土を保つことができた。豊臣政権の太閤検地に先駆けで領内の検地を徹底し度量衡も統一、検地即ち隠田摘発は農民の反発を買うものだが、徴税体制強化の代わりに減税の恩恵を施した。中間搾取排除で領民の負担を減らしつつ一極支配体制を固め、目安箱を設置し、凶作や飢饉の際には柔軟に税の減免を施して酷いときには徳政令を施行、それでも領主層=家臣団や豪商を手懐け得たのは政治力の成せる業であった。北条氏康は、城下町小田原の都市開発にも鮮やかな手腕を見せた。街区や上水道(小田原早川上水)を整備し、全国から商人・職人を呼び寄せて商工業を振興、文化人・芸人を招聘して活気も演出し、清掃にも気を配り、西の山口と並び称される東国最大の都市を築き上げた。戦国期の城郭は、松永久秀の信貴山城や斎藤道三の稲葉山城に代表される山城から経済活動に有利な平城へ移り、末期には堀と防塁で城下を囲い込む巨大要塞(総構え)へ発展したが、小田原城はその画期を為す傑作であり、攻低守高の時代にあって難攻不落を誇った。海外貿易と重商主義を成功させ兵農分離まで到達した織田信長ほど派手ではないが、北条氏康の政治手腕は封建領主としては抜群で領民にとっては最も有難い名君であった。
- 本願寺顕如は、親鸞・蓮如の血を引く浄土真宗法主にして大坂の戦国大名、一向一揆と石山合戦で織田信長に抵抗を試み幾万の門徒を虐殺の奈落へ導いた戦う庶民のカリスマである。降伏・武装解除後も宗教的権威は保持し、子孫の大谷家は今なお東西本願寺の門首として皇族並みの権勢を誇る。寺社勢力は、領主への年貢は滞っても寺への貢納は怠らない門徒を支えに強大な経済力を誇り、武装して領主権を脅かす事実上の戦国大名であったが、比叡山焼き討ちと本願寺顕如の降伏で永久に武力を失った。顕如は、石山本願寺を築いた父証如の死により12歳で本願寺11世を承継、各地の一向一揆を組織化し、1570年、姉川合戦に敗れた朝倉義景(嫡子教如の舅)の要請に応じて浅井長政・比叡山延暦寺・武田信玄・将軍足利義昭らと信長包囲網を結成、11年に及ぶ石山合戦の戦端を開き、各地に一向一揆を起した。厭離穢土・欣求浄土を旗印に戦死即極楽と狂信する一向一揆は恐ろしく強く、軍事指揮官の鈴木重秀(雑賀孫一)と下間頼廉の采配も冴え、敵方武将にも門徒が多くいて隆盛を極めた。三河では若き徳川家康を追い詰め、伊勢では織田信興・長島では信広・秀成(いずれも信長の兄弟)を戦死させ、越中では6年に渡って上杉謙信の猛攻を凌ぎ、加賀に至っては守護富樫政親を討って以来90年も自治を貫き一時は朝倉氏滅亡後の越前も掌握した。が、1573年頼りの武田信玄が決戦を目前に急死、勢いを得た織田信長はすぐさま浅井・朝倉を討ち、室町幕府を滅亡させ、長島一向一揆を猛攻して門徒2万人を虐殺、長篠の戦いで武田勝頼を撃退し、越前一向一揆を討平、紀州征伐で鈴木重秀の雑賀衆と根来衆を軍門に降した。劣勢の顕如は、上杉・毛利・波多野と提携して信長包囲網復活を目指したが、1578年上杉謙信が大動員令を発した直後に急死、翌年波多野秀治が滅ぼされ、鉄甲船6隻を擁する九鬼嘉隆の織田水軍に毛利・村上水軍が惨敗(第2次木津川口の戦い)、補給路を絶たれた顕如は1580年降伏した。猛撃を凌ぎ切った難攻不落の石山本願寺は、その年に焼失し、天下人豊臣秀吉の拠点大阪城の礎となった。
上杉謙信と同じ時代の人物
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戦国
織田 信長
1534年 〜 1582年
140点※
中世的慣習を徹底破壊して合理化革命を起し新兵器鉄砲を駆使して並居る強豪を打倒した戦国争覇の主人公ながら、天下統一を目前に明智光秀謀反で落命し家臣の豊臣秀吉・徳川家康に手柄を奪われた悲劇の英雄
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照 -
戦国
毛利 元就
1497年 〜 1571年
100点※
安芸の小領主の次男坊から権謀術数で勢力を拡大、息子の吉川元春・小早川隆景を両翼と頼み、厳島の戦いで陶晴賢を討って大内家の身代を奪取、月山富田城の尼子氏も下して安芸・備後・周防・長門・石見・出雲・隠岐・伯耆・因幡・備中を制覇した戦国随一の智将
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照 -
戦国
徳川 家康
1542年 〜 1616年
100点※
旧主今川義元を討った織田信長と同盟して覇業の一翼を担い、豊臣秀吉没後秀頼を滅ぼして天下を奪取、信長の実力主義・中央独裁を捨て世襲身分制で群雄割拠を凍結し265年も時間を止めた徳川幕府の創設者
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照