愛洲移香斎久忠の陰流に東国兵法を加味して新陰流を興し袋竹刀(しない)も導入して「剣術諸流の原始」と謳われた「剣聖」、愛弟子の柳生石舟斎宗厳が徳川家康に見出され将軍家お家流に抜擢された新陰流は隆盛を極める
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上泉 信綱(伊勢守)
1508年 〜 1577年
90点※
家系・子孫
- 上泉氏は、赤城山麓大胡城の大胡氏(信濃下諏訪神社の社家金刺氏の分家、俵藤太秀郷とも)の一門で上野桂萱郷上泉を領し関東管領山内上杉氏に仕えた。室町幕府四職家(丹後・伊勢・志摩の守護)の一色義直が孫の義秀を遣わして親族の大胡家を再興したうえ、大胡城の西の備えに上泉城を築き義秀を留めて上泉姓を名乗らせたとも伝える。上泉義秀は中条流・念流・京八流を修めた剣豪で(応仁の乱で戦死)、嫡子の上泉時秀は常陸の飯篠長威斎家直に天真正伝香取神道流を習得、嫡子の上泉義綱は長威斎の高弟松本備前守のもとで剣技を磨いた。3代続いた上泉城の道場は飯篠道場と並ぶ東国兵法のメッカとなり、祖父時秀から伊勢守を襲名した4代目の上泉信綱は東国七流・神道流を修め塚原卜伝にも学んだが、伊勢より来訪した愛洲移香斎久忠に惚れ込み「陰流ありてその他は計るに勝へず」と断言して工夫研鑽を重ね新陰流へ発展させた。主君の長野業正が没すると上泉信綱は嫡子の秀胤に家督を譲り、長野業盛(業正の後嗣)を滅ぼした武田信玄に一旦出仕するが新陰流普及を志し出奔した。上泉秀胤は北条氏康に属して保身を図ったが国府台合戦で戦死、嫡子の上泉泰綱は豊臣秀吉の小田原征伐・北条氏滅亡で浪人し関ヶ原の戦い直前に上杉景勝に拾われ直江兼続に属したが慶長出羽合戦の長谷堂城の戦いで戦死、娘婿の上泉秀富(実父は上杉家重臣の志駄義秀)が家督を継ぎ剣豪上泉家は米沢藩士として命脈を保った。
上泉信綱(伊勢守)と同じ時代の人物
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戦国
織田 信長
1534年 〜 1582年
140点※
中世的慣習を徹底破壊して合理化革命を起し新兵器鉄砲を駆使して並居る強豪を打倒した戦国争覇の主人公ながら、天下統一を目前に明智光秀謀反で落命し家臣の豊臣秀吉・徳川家康に手柄を奪われた悲劇の英雄
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戦国
毛利 元就
1497年 〜 1571年
100点※
安芸の小領主の次男坊から権謀術数で勢力を拡大、息子の吉川元春・小早川隆景を両翼と頼み、厳島の戦いで陶晴賢を討って大内家の身代を奪取、月山富田城の尼子氏も下して安芸・備後・周防・長門・石見・出雲・隠岐・伯耆・因幡・備中を制覇した戦国随一の智将
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戦国
徳川 家康
1542年 〜 1616年
100点※
旧主今川義元を討った織田信長と同盟して覇業の一翼を担い、豊臣秀吉没後秀頼を滅ぼして天下を奪取、信長の実力主義・中央独裁を捨て世襲身分制で群雄割拠を凍結し265年も時間を止めた徳川幕府の創設者
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